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酒乱
米の生命いのちが生きるまで

 

 

 

 

序 心の目覚め

 

 酒乱地獄二十八年から目覚めた自分。目覚めることのいかに、素晴らしいことか。
 今までの自分の、不調和な生き方から、本当に目覚めた時、生命いのちの中から、喜びが湧いてくる。
 その喜びは、生かし続けた、米の生命いのち(愛)の喜びであり、透明な光となった、清酒さけ生命いのちの喜びであり、食物一切の、生命いのちたちの喜びである。
 さらに、自然界の、生命いのちたちの喜びでもある。
 人となった、その生命いのちたちは、真理(調和)の中で、生かさねばならぬと、祈り願った、愛の喜びである。
 酒の生命いのちに、目覚めることは、素晴らしいことだ。
 酒乱人生を通して、五十八歳にして目覚めた自分。
 死よりも強き力(生命)の中で守った妻。
 自然界の心を生かされた妻の愛。
 限りなき、生命いのちの愛に感謝したい。
 
いのちの守り(いのちの原点)
 
日々に苦しむ 夫の酒乱
妻の苦しみ 見いかねて
亡き人々も 立ち上がり
米一同も 立ち上がり
酒一同も 立ち上がり
自然のいのちも 立ち上がり
天地の愛が 立ち上がり
妻よしっかり しなはれと
いのち一同の 守り声
守りの声は 文字となり
いのちの愛が 文字となり
夫の中で 生き通う
生きて通わす 断酒の日まで
働き続ける 米の精
働き続ける 酒の精
働き続ける 自然界
守りの力 重なりて
妻はここまで 生きてきた
感謝の喜び 胸一杯
米のいのちよ ありがとう
酒のいのちよ ありがとう
食べるいのちよ ありがとう
天地の愛よ ありがとう
やっと目覚める 我がいのち
天下晴れての 人の道
いのちの原点 ここにあり

 

     

目次

 

 序 心の目覚め
 ■地獄期■
酒乱の断末魔
自然界が諭す〝生命の声〟
母の生い立ちと因果の流れ
酒精に呑まれた父
墓の塔婆木に化けた魚代金
天に詫びる母
不思議な因縁の組み合わせ
頭上を飛ぶ御鉢
酒乱因子の吹きだまり
慈愛一路で生きた母の最期
母の心残り
目覚めなき、父の最期
酒飲みの血統に向けた神の矢
酒害因子の開花
酒乱人生の開幕
母子心中を超越した〝妻の一念〟
天の啓示に生きる妻
妻子を残して土方三昧
真っ赤に走る一台のトラック
お上り乞食の一夜の浅草
難行苦行の人あれど
久しく燃える酒乱の炎
守護の窓口となった妻と自然律(悪は、この世の仮りの姿)
息詰まる死の恐怖
泊められない宿
酒乱と嫉妬の協奏曲
神の絵図面を歩く夫
噴火口に真っ逆さまの霊夢
神のお膳立て、四十五歳計画
天馬のごとし女神の妻
神と魔の対決
澄みわたる妻と錯乱の夫
妻の〝心釈き〟(Tさんと日光のサル軍団)
酒乱の先祖おろし
一心同体、生命の運命
千日悲願(米の生命が生きるまで)
神技一瞬、〝刃に変わる水柄杓〟
神が手向けた女の魔神
 ■黎明期■
地獄に降ろされた御神火
酒乱童子の成仏
心霊への誘い(死後に残る津波の恐怖)
人間改造への突入
七羽のカラスに襲われたガタガタの体
酒乱の因縁と闘う自己解体
妻との葛藤
浄土へ向けての過渡期
酒乱成仏、息子に残してなるものか
米は、いのちの光
生命の樹
輝け、人生の扉開き
 むすび

 

 

 

 

酒乱の断末魔

 

 平成の世も近い、ある年の初夏を迎え、日射しも次第に輝きを増してきた日々のこと、私は、車庫の下屋で一心不乱、開発作業に手を染めていた。
「これでもいかんな」「こうでもいかん」と、まるで狂ったように試行錯誤を続けながら、世間を遮断しての作業である。この一念の思いは異常なまでになってくる。だが、そこにはひとつの隠れみのがあったわけで、一種の自己逃避であった。
 この開発作業も、片手に酒のワンカップを持ち、もう一方の手にはヘラやハンマーやいろいろの道具を持ちながらのことであった。
 一時も手放すことのできないこの友は、私にとって生涯唯一の正直者でもあったようだ。
 酒を飲めば、全身から次第に意志の力は消えてゆくし、自分を取り巻く経営のこと、仕事のこと、妻や家族、その他一切合財のストレス性心労を消してくれるものであった。
 人を信ずることができなくなって、さらに、自信の消えてゆく時間の中で、この開発作業と酒こそ唯一の相棒であり、真の信頼関係にあった。
 ところが、時間の経過の中でこの酒との信頼関係も、こっちの一方的な都合で、そのリズムは崩れていった。作業の手も、ほとんど酒の缶にしか向かなくなっていき、全身麻酔は極度に深まり、思考がほとんど自分のものではなくなり、全身は自動操縦の状況へと変わっていった。
 心のブレーキも全くだめになって、心の操作は、日頃ひた隠しに隠れていた深いうっ積の心が支配するような状態になってきていた。
「あいつめッ! 今に見ておれッ」
と、見えざる奥座敷の心が、悲痛の思いで叫びだす。このような心を一体誰が制止することができるのか。もちろん、自分以外の誰もできない。それなのに肝心の自分は、すっかりメロメロ気分になっていて、全くの用立たずである。
 殺したいほどに思いつめていた日頃の不満が、ついに爆発することになった。やにわに腰のベルトに差し込んだ道具は、人を刺すにしてはあまりに奇妙なものばかりだ。だが、酔っぱらいの狂気は、その瞬間においては大真面目で、差し込んだ道具というのは、千枚通し、ハンマー、ドライバー、バリといった作業用の道具ばかりだった。
 本当に、人をるのなら、ノミ一丁くらいでいいものに、何の迷いなのか、色とりどりだ。
「……なにッ、ようしッ、これからお前を殺しにゆくッ、おぼえておれッ」
と相手に電話をかけた受話器をガチャッと置いて、今度は、タクシーに電話をかけ、すっぱと車に乗って飛び出した。
 どうしたことか、入り口の引き戸にはカギがかかっていない。扉はがっちりと締められていて当たり前なのに、そうじゃない。こっちも、用意周到というような観念のかけらもないから、そのままドドッーと中に入っていって、
「オイッ、おるかッー」
と言うが早いか、忍者のような者たち四、五人に取り囲まれて、がんじがらめの金縛りにされてしまった。待ち構えていた刑事たちだった。その場で現行犯として逮捕され、本署に連行されてしまった。腰に差し込んでいた諸道具は凶器として没収された。
 酒乱の断末魔は、その、限り知らぬひとり歩きを続けていた。ここで、人一人をることなく、無念の心もどこへやら、連行の道すがらの仔細も記憶にはなく、翌朝、目醒めざめるまでの取り調べの中で、何やらわめき続けていたことだけだった。
「おーいッ、菅原ッ、醒めたかッ、ゆうべは凄かったなーッ」
 私は無言のまま恐縮を通している。署内がいやにまぶしくて、何か、まともに室内を直視できないようだ。
 頭の中は早鐘を打っているごとくにガンガン痛みが残るし、全身ふらふら、足は言うことが利かなくなっている。だが、ありったけの緊張感で身をもたせていると、
「ここで待ってなさい」
と、指示があって、小さい取調室で待つことになった。椅子に腰を下ろして外を見た時、
「ああーたいへんなことをやっちまったなー、だが、らずに済んでよかった。でも今回は殺人未遂か傷害未遂で有罪になるかもしれん。これから仕事はどうすりゃいいのか、妻はどうしておるのか、テレビ、新聞も賑やかになっておることだろう……」
と、独り想いにふけって、二日酔いの苦痛もすっかりと忘れてしまっていた。また、こういう時には不思議と過去の事象が一気に脳裏をかすめて通り過ぎていくものである。
「俺の酒人生もこれで終わりだなー」
と、考えにふけっていた。
 取り調べのときになったら、二、三人の警察官が声をかけてきた。
「おーッ、菅原さんどうしたッ、やりましたなッ」
と、声をかけてくれたのは、知り合いのかたたちだった。署内には仕事上での知り合いの警察官が何人かいる。ゆうべ逮捕されたときにもおられたそうだ。
「何とか大目に見てくれるといいが……」
と思う半面、今まで酩酊上での経歴を数々持つ自分を振り返って、
「やはり今度という今度は往生しなきゃいかんかッ、そうだなーッ、仕事も家族も社会的にも、もう、これで終わりかーッ」
と、頭の中は、自問自答の連続だった。
 今度こそはッ! 今度こそはッ! と思いながらはや二十八年、妻の心を踏みにじってきた。これは、とりもなおさず自縄自縛の醜態ということである。こともあろうに、今回は女性問題で、えげつない争いとなり、見るも無残な、ぶざまな姿である。
 これで妻とは最後じゃないか、と考え込んでいたのである。その時、
「じゃッ、これからゆうべのことを聞かせてもらいますよッ。危ないところだったなーッ」
 それから二時間くらいの間、すべてを掘り起こされ、調書に拇印を押すことになった。
「酒をやめられねえじゃッ、病院に入ったらどうだッ。アルコール依存症!アル中ってやつだよ、酒乱ではねえー」
 取調官は、昨日は非番で、引き継いでの取調べだった。
 ここでも、二度とこうした迷惑をかけてはならぬ、と、固い覚悟をするのではなく、決して酒をやめるとは思わないから恐ろしい。アル中には常に甘い対処が待っていて、少々は大目に見てくれるのではないかと、そんな危険な考え方を持っている。取調べが進む中でも、そうした甘い心、自己中心的な心が、次第に頭を持ち上げてくるものだ。
 罪悪感ということは常に後回しであって、〝どうも悪かった〟という程度の形式的謝罪で終わってしまうことが往々であり、そこには血のにじむような決意は全くないと言い切れる。なぜなのか、それは自分をも欺いている無意識的悪心のせいであろう。
 取調べが終って、
「奥さんに、引取りに来るよう伝えてあります。それまで、ここにいてください」
と、指示された。
 時間が経つ中で、次第に湧き出てくるのは奴のことで、どうしても腹の虫がおさまりつかない。そのことを察してかどうか、妻は現れて引取りの手続きを終え、課長に挨拶をした時、
「お礼参りをやったら終わりだよッ、分かったなッ」
と、機先を制されて厳重注意をされたのだった。
「わかりました。どうも申し訳ありません。本当にありがとうございます」
と恐縮する私に、
「お前は今回限りとして表面に出さずに済ましたが、奥さんにはよくよく詫びるんだなッ」
と、申し添えられた。〝いやー助かったッ〟と、生きていく上での安全弁を利かしてもらったことで、一息ついたのだった。起訴猶予になったことで、後々、再起への大きな足がかりができた。
 事件の夜、刑事に逮捕され、連行された後、妻は奴から電話を受けたという。
「お宅の旦那は、今、逮捕されて警察に連れて行かれたよッー。明日のテレビ、新聞はいっせいにトップに出るぞッ……」と……。
 今は既に感謝する心になった。刑事たちの守りで、未然に重罪を犯すことなくすんだからである。妻はその電話で、開発作業に没頭していたはずの夫が、とんでもない事件を犯したことを知ったのである。
 心臓のタガがはずれたかのように踊り上がったことであろうし、女のことで馬鹿馬鹿しいとも思ったであろう。悔しさも入りまじり、酒乱の限りを尽くされても添った二十八年が、一瞬に通り抜けた思いであったはずだ。
 一心に「普通の酒飲みの夫であってほしいッ」、「酒をやめてほしいッ」と、一日も安まる心とてない生活であったことと思う。
 酒は、裏切りをしないと飲めるものではない。癖の悪い酒飲みは、どんなにしてもうそを先行させ、妻をたぶらかして飲む。ことあるごとに、
 断酒を誓い、禁酒を誓い、紙に書き、壁に貼り、実印を押し……。
 そして、二、三日のよい子を見せながらも、頭の中は酒瓶で一杯であった。そして、二十八年の泥沼の中で、悪あがきで、もがきながら、妻を裏切り、家庭を地獄に落とし、近隣や歩く人々に物損、暴力の限りを尽し、今度は、評判悪くしちゃ終わりとばかり、馬鹿のようになって仕事に熱中する。これが酒乱偽装の実態だった。酒乱の帳消しのためにはたらく人生ともいえる。
 最後の十年間くらいは、いよいよ拍車に拍車がかかり、狂気と化して過ぎた。このエスカレートし、やむことを知らぬ暴挙に、いくら仕事熱心に火消をしようが、ついに、刀折れ、矢尽きる結果となってしまった。
 かたや、信頼される〝昼の顔〟、かたや、非人間と化する〝夜の顔〟にさいなまれた五十二歳までの乱行であった。
 この狂気の酒と心中した一人の男に、悲願をかけて更生させた二人の女が付き添っていてくれた。それは、母と妻である。
 母は七十六歳までの生涯を、父の酒乱と共に生き、愛情一筋に尽くしながら、医者の手を煩わすこともなく、胃がんで青紫になりながらこの世を去った。肉体を脱ぐまでの母は、不平不満や、愚痴の一言もこぼさず、父に尽くしたのだった。
 また、妻は因果の生命いのちの流れも知らずに、品行方正な夫になるべき私を信頼してきてくれた。そして、結ばれてから、ついに仮面が破れ、酒乱の夫となったのだが、命をかけた愛一筋で、因縁解消を見事果してくれた妻のご苦労の二十八年であった。
 ところが、この事件があっても、すぐに断酒に入ることはなく、その後、泥酔運転によって惹き起こした事故を境に、ついに断酒を決意することになった。
 この一件は、路上にあった車に突っ込み、警察沙汰から避けるため、必死の手回しをした妻のおかげで表面に出ることなく処理された。奇しくも、被害者は、先輩の隣家の方であったから、先輩の温情によって、被害を弁償する示談で解決することができた。そして、当夜は、人格も二重三重とメタメタに傷つき、前後不覚の泥酔であった。

 

     

自然界がさとす〝生命いのちの声〟

 

 あれから過ぎゆく五年の歳月は、一瞬のように短く感じられてならない。
 今は、不惑の心も着実に実り、心も肉体も、正しい自己の言うとおりに動いてくれる日々となっている。酒乱人生、その神経症からも立ち直り、人生再起の五十八歳にして、残りの生命いのちを一心に、正しく生き、この生命いのちを燃やしてゆきたい。生命いのちある限り、人間らしく、現実の中で、価値ある人生にすべてを捧げたい。
 そう覚悟を決めて生きようとする今、迷える同士や、現世の心失われてゆく不幸性なかたたちに、翻意をもたらす一灯なりともともすことができれば喜びである。その思いにかられて、ここに酒乱物語として世に問うものである。
 酒の生命いのち、それは米の生命いのち。この米の生命いのちは、やさしくさとしている。
〝酒乱を教えた覚えなし〟
と、一点の濁りもなく、汚れもない酒。それは米の生命いのちの精である。その汚れなき米の生命いのちをいただいて、何故、人は心を汚すのか。
「なぜ、人はアルコール依存症、酒乱になってゆくのか」
米の生命は尊く叫ぶ。

いのちの調和に生きてくれ
愛と調和と喜びの
いのちの道に目覚めあれ
米のいのちが生きるまで
飲ませつづける米の精
母一念と妻一念
やっと目覚める人ごころ
三日の習慣百までも
人の心を思い知る

 妻は、夫を警察から引取りに来たその日のこと、天井に響く階段の踊り場で、一瞬、心ひかれて外を見た。窓を額縁がくぶちにして、天下晴れての秀峰〝鳥海山〟の全容を一望した。
 妻は、すでに心浄めも高く、沈黙世界の永遠の生命いのちに、心は結び通じていた。峰の心いただきは、次のような文字となった。

窓越しの 峰の心にあらわるる
声むすばれて 生き証人の姿なり

 どんな動きが目の前に来ようとも、夫を憎んでどうなるものか。それよりも、今、肉体があるではないか。生きておればこそ、必ずや目覚めてくれるはずだ。
 夫は知らずとも、夫の生命いのちがすべてを知っている。それが自然界の調和と愛ではないのか。
 生かしつづける生命いのちを通して、自然界の愛と結ばれている夫の生命いのちではないのか。
 その愛と調和と喜びの生命いのちの光が、夫の中で輝く日は必ず来る、と、妻は決して憎むことはせず、守り一念で警察に出向いたのだった。
 自然界には、声も言葉もないが、心が通えば、声なき声で愛が結ばれる。
 この時にいただいた峰の心こそ、その真実を言いあらわした声ではないか。
「苦渋に満ちたあなたの夫は、きっと、酒の生命いのちを証してくれることのできる人になります。永遠の生命いのちの証し人になる今の姿なのです。
 米の生命いのち、自然界の生命いのち、その生命いのちを証してくれることのできるまで、その道程を行く姿こそ、夫の今のありようなのです」
と、その声が結ばれた。
 振り向いた妻は、鳥海山の澄みわたる沈黙の中から、限りなき永遠の響きを、身をふるわせながら、伝え受けたのであった。
 そして、心洗われ、さとされたのである。酒乱の勢いをかりて、女性問題を起こし、醜い嫉妬で人殺しまでやろうとした夫、その私を引取りに来た妻は、こうして、峰の心に守られながら、憎しみの一切も消えていた。
 外は、晴れて澄みわたる昼下がりのこと、警察に深々と感謝をして、帰宅することができた。

 

      

母の生い立ちと因果の流れ

 

 本気で、この酒乱物語を書こうと思ったのは、つい先日のことで、年の瀬も迫る十二月中旬のことである。
 断酒後、五年を過ぎたが、あっという間の歳月であった。かつては本当に酒びたりだったのかと疑いたくなるくらいなのである。一体、今、誰の話を書く手はずなのかと、白々しい気分さえ起きているといっていい。見事に、未練のかけらもなく過ぎてきた。酒を忘れられず、飲みたくて、居ても立ってもおれない心で毎日を生きていたなら、それは、五年の歳月は狂気の沙汰だったであろう。
 忘却の彼方に追いやった、かの酒乱行も、その一片一片が客観的リズムに乗って、追憶の影絵姿を見せてくれる。あの、ブラック・アウトの記憶喪失の出来事でさえも、この生命いのちは、細大漏らさず知っている。
 人生の新しい扉開きの信念、そして、反省と新たなる喜びを噛みしめながら、懺悔心を深めていきたい。この頑固な自分を、柔らげながら、いまわしき〝先祖呪い〟までした自分の赤裸々な姿を、今ここに開陳してまいりたい。
 人の〝縁〟は、その者の運命を変える重要な鍵になるといえる。縁ほど、霊妙にして、生命いのちの流れを示してくれるものはないと思う。運命は日々訪れる〝縁〟によってすべて方向づけられ、有無を言わせず我々の未来絵巻として、展開してくれることになるといえる。〝出生〟ほど神秘なことはない。選択できない両親をかりて、この世に〝縁〟となって誕生する。
 旅を続けていたある日のこと、足尾焼の里で、ある窯元のお母さんから次のような話を聞くことができた。
「子供は、親を選ぶことができません。だから、子供は大切に育てなくてはいけませんねェ」
と、この「大切に」と、「甘やかす」とは、全く違うことがわかる。
 親は、出生を調節することはできるであろう。しかし、子供はその選択ができない。運命なる出生の縁は、厳しくも、容赦なく洗礼を授けてくれる。
「過酷なるかな、この、生命いのちの縁よ」
 この生命いのちの縁によって、酒乱の夫のもとに飲まれていく一人の女性がいた。母は、この過酷な運命の波にさらされていたのである。
 明治二十三年九月二十六日。ある城下町で出生する。父・本多弥門、母・本多金江の中に、一人娘としてこの世に生を受けた。だが、生後二カ月と五日にして、両親は離婚という最悪の事態を迎える。
 そして、八歳を迎えるまで、父の手の中で育った。両親の婚姻期間は、一年と十八日という、なんと、母を生むためのさがではなかったのかとさえ思われてならない。
 現代のご時勢なら、それほど珍しくない出来事だが、当時の気風からしたなら、よくよくの事情があったのに違いない。その決定的事情を示すかのごとくに、父、弥門の墓石が語っている。現在も、きちんと守られているが、二年前までは、無縁仏として、放り出されていたものであった。全く、耳にしたこともないこの墓を、私の神秘体験の中で、奇しくも発見することができた。
 その墓石の頭上を見ると、その対角線上に刀傷が生々しく残っている。この傷跡は、その当時のいかなる状況を物語っているものか、容易に察しがつくというものである。
 母は、生後六十五日の新生児として、一体、誰の乳で育ち、誰の手によって育てられたのか知るよしもない。その後、生母は四年過ぎてから再婚しており、昭和の初期にブラジル国サンパウロ市に移住した。そして、父、弥門も明治二十九年、母五歳の時、再婚した。以後、里子に出されるまでは、継母と共に暮らすことになる。
 本多弥門の系譜を調べると、累代酒井藩に仕える藩士とわかった。この藩は、明治維新とともに、賊軍に転じたから、明治の世にあって、不遇から雨露を凌ぐにも窮していたのではないかと察する。そして、明治三十一年十二月十九日、よわい二十九歳の若き血潮は、悲運の運命のもと、この世を去った。母八歳の時のことだった。
 継母が建てたのか、誰の手で施されたのか、弥門の墓は現在も残ってはいるものの、弥門の父の墓に比べて風化がひどく、何百年の時代を越したと思える痛みようであった。その波乱の運命と共に、墓石にさえ窮していた。
 母は父の逝去後、継母とも離別して、まさに孤児となって歩き出す。八歳の春のことだった。その後、山村に住む義理の従兄弟の所に一時身を寄せていた。この山村は山岳信仰で名高い出羽三山の霊場入口にあり、手向とうげという門前町である。
 そこには、多くの宿坊や民家が軒を並べ、風情あるたたずまいとなっていた。当時、ここの軒並の屋根は、茅葺かやぶきがほとんどであったから、屋根葺師ふくしという職人が、大勢出入りして、とても賑やかだった。様々な情報も、口から口へと行き交う中で、一人の職人から、里子になる娘を探している話が持ち上がった。身寄りもなく、孤児となっていた八歳の母の話は、たちまち、職人たちの耳へと伝わってゆき、これは願ってもない話と、里子を探していた職人を喜ばせた。早速、母はその職人に引き取られ、ここからは五里(二〇キロメートル)ほどの、北に向けての幼い生命いのちの橋渡しとなった。
 その当時、持参していたのは生母の形見と思われる懐刀一本と、オランダ製の金時計であった。生母のものと思われる懐刀は、当然、武士の娘、武士の妻としての護身用のものであったにちがいない。
 離婚はしたものの、遠からず近からずに、我が子の姿を追い求めながら、守ってくれたのではないか……。生母もまた、父は武士であり、さらに、祖父(母の曾祖父)は、京都・吉田家に縁を引く飛鳥神社の世襲神主、第四十一代であり、現在もその直系がその代々を継いでいる。
 このように、母は険しい環境の波に飲まれながらも、生命いのちの縁のあるがままに、木の葉のような我が身を委せていたようだ。どうやら、屋根職人の家族として、小さな生命いのちを預けることとなって、そこで、酒乱の女神とならねばならぬ運命が待っていたとは、神ならでは知る由もなかったが、そこから、母の怒濤の人生が始まった。
 おしんのドラマではないが、生後六十五日で生母と別れ、五歳で継母の試練に屈せず生き抜く。そして、八歳にして、父は二十九歳の若さでこの世を去った。二十一歳まで、里親宅で乳飲み兄妹として育った。この間の十三年間は、厳しい奉公の日々となり、血涙の嵐の時期だったと伝えられている。
 そして、二十一歳で父と結ばれることになった母だが、よもや、二十一歳までの血涙の悲運に、さらに、油を注ぐことになろうとはどうして知り得ただろう。夢にも見たであろう、娘盛りの自分の安らぎを、祈り願ったはずだったのに……。
 父の酒乱の日々については、兄弟・近親たちからうかがうすべもなく、私の人生を通じて、ここで描き出さねばなるまいと思う。
 生涯、母は法華経信者となり、
〝コバツケ商人〟(焚き木、マッチ売りと思えばいい)、〝屑物商人〟、〝魚売り行商〟
という生き様の中で、次々と蓄えを積み重ねながら、楽しみの一切れもなく、運命の向くまま、慈愛一筋で生きてきた。
 神仏にその心の一切を預けて、八人の子供を次々と産み出し、蓄えた金で田畑あわせて二町歩ほどの財を所有するようになっていた。常識で考えるならば、マイナスの一途を辿るはずなのが、逆に、上昇運を駆け登った、このエネルギーは、一体どこから出てきたものなのか……。
 武士の直系を持つ両親のもとに、一人娘として生まれた母が、家は断絶となり、明治の法律によって、廃家となった。ここで、母は二十一歳で、隣村の父と結婚することになり、第二の熾烈な運命を歩むこととなった。
 流れる酒の因縁の、幕が切って落とされたのである。時は、明治四十四年十二月十二日のことである。

 

      

酒精に呑まれた父

 

 父の酒乱は近郷近在には有名であり、私が農協職員として働き出したある日のこと、一人の理事から酒席で言われた言葉が、今さらながら思い出されてくる。
「あの……おやじの子かッ。掃溜はきだめに鶴だなッー。アッハッハー……」
と、親父をけなした。よくも酒席の中で罵倒ばとうしおったなッーと、むかつく胸の中、ハッ…と抑えたのである。当時は、まだ自制心のほうが優位であった。糞ーッ……と思うものの、新入職員の身分で、かたや、相手は古参の理事様である、当時、農協というところは、とても保守色が強烈だった。文句のひとつも言おうものならば、すぐに左遷ということになった。だから、その侮辱ぶじょくにも耐えなければならなかった。
 農協職員といえば、地方にあって、終身安泰な職場でもあった。一心にやれば、それだけの昇進昇給もあるというものの、各人の家庭環境が、その個人評価の大事な要点でもあった。酒乱で名高い父のことが、やれ、いざとなると、マイナスの要素となるのは当然だった。
 私が小学校に入ったのは、第二次世界大戦が勃発ぼっぱつした昭和十六年のことだが、戦時の非常時下においては、清酒などというものは自由に手に入るはずがなかった。統制・配給下の中で、母はせっせとドブロク造りをしなくてはならなかった。当時は、税務署の強権発動も時々あって、ドブロクの密造には、ことのほか、目を光らせていたし、そして、農家の人々は、互いに摘発情報を伝え合いながら、あの手この手で、役人の目をかいくぐっていた。母は、天井や縁の下や土の中にと隠しながら、酒造りに余念がなかった。
 父は、酔うことができれば酒の種類はなんでもよいようだったが、それでも、鼻と舌先は、敏感であった。っぱいッ……とか、なんとかブツブツ言うものの、それも初めだけのことで、後はグイグイと、なんでもござれッ……と、くる。
 味は二の次、三の次で、酔うことがすべてを忘れさす天国ということで、父の天国は、母の地獄になるのだから恐ろしい。二杯三杯なら、軽く茶碗酒であり、そろそろ始まるなッーと思う頃、母の手は、酒隠しにすばやく動いていった。危険信号を一目でわかる機敏な仕種しぐさの中で生きている。
「おーいッ、ガガァー(妻)もうー一ペいェよごせッ(もう一杯持ってこい)」
と始まる。もうエンジンが始動開始。そして、声のボリュームが高くなってくる。
「おーいッ、早ぐ、よごせッ」
後は、一升でも二升でも、気のすむまで飲まなくてはならない。
 私が物心ついてくる頃になると、迫真の酒乱行が目にとまり、恐怖と自負心(幼心にも、父を制止できるという思い)のような心理が、入りまじる時期になった。
 この村は、五〇軒くらいの小さな村落である。こうした一単位の部落は、いわば、運命共同体といった人間関係が渦巻いていたものである。だから、部落総出という作業の時も結構あったし、作業がピークの時には、子供たちも、みんな労役に駆り出されることも多かった。
 そこには、一糸乱れぬ心の通った共存共栄の気持があったことは、現代の人には想像し難い事実でもある。
 そのため、部落では寄り合いという会合が、とても多く、今日も何々の集まり、そして、明日もまた、と、各人は重箱に思い思いのご馳走を詰め込んで、公会場(公民館)に足を運んだ。我が家では、当然ながら父が出席する。こうした寄り合いには、必ず酒宴が欠かせないものなのである。
 なんの娯楽とてない素朴な農村において、二人寄れば酒飲みが始まる。酒の酔いこそ、この世の極楽世界であった。
 ほどよく飲めば、百薬の長となる酒ではあるが、そんな行儀のよい心掛けの人たちはあまり見当たらず、だから、農村には、酒豪が多い。酒で我れを忘れ、生き様の本性をさらけ出し、無礼講となり、霊妙なる酒は、時により人の心と化学反応を起こして、毒薬ともなってくる。
 酒によって人のさがが変化することは、誰しも同じことながら、時間の経つほどに、人間の尊厳も消え失せていく。そして、トラになり、カメになり、泣き出し、眠り、怒り、罵り合い、色気違いなどに変貌していくことは、今も昔も変わりがない。むしろ、現代こそ、心の領域では、もっと悪化の一途を辿っているように思われてならない。
 父は、寄り合いの帰りには、最も遅いグループに入っているのが常だった。飲んだら止まらないし、顔が土をなめるくらいまで頑張る。
「オーッ、オーッ、オーッ」
と、遠くから唸りくる声を耳にして、母は父の声であることを間違えることがあろうはずはない。
「あッ……来たッ、来たッ。さあーさあー……」
と、独り言のように口走って、笑顔の中にも、受入れ態勢の身構えをする気迫が感じられた。それは、猛獣使いのような心境ではなかったかと思う。いよいよ近くなった。そして、門口を曲がると、一段と声量を張り上げている。
「おうーいッ、ガガァーッ(妻)」
と言いながら、いかにも天下様のお帰り、というようにして、威勢を張り上げる。
 ふだんは、無口で、黙々と、職人風に働いている父である。そして、話下手だから、なにかと短気を起こして物理的な肉体表現でくることが多い。
〝パシーン〟と、音を立てて、不意打ちにされることにはなれていた。
 八人兄弟の中の末子である私は、父母のことについては、最も情報量が少ないから、父の若い頃の消息を知るべくもない。だから、ここでは父五十歳くらい以降の姿を描くことになるのだが、それまでの父の生き様といえば、生活苦のドン底の中で、母は八人の子を育てながら、さらに、父についての負担が、五人前分も余計なものとなっていたのであろう。

 

     

墓の塔婆とうばに化けた魚代金

 

 母は私が物心ついた頃、魚行商で頑張っていた。それ以前は、屑物商売やコバツケを売って、生計の足しにしていた。
 父は本家に若勢わかせ(若者の下働き)として働いており、手先がとても器用であった。土方をしていた時は、棒頭(組頭)として働いていたというし、私が生まれた頃は、もっぱら、農作業が仕事だった。
 母が魚行商をやったのは、二十代の後半からのことであり、その頃は、父もいっしょに、リヤカーや自転車、あるいは、背負ってというやりかたであった。
 ある日のこと、魚売りの金が酒に化けてしまっての帰り道、墓場の前を通りかかったのが夜の十時過ぎ。父は若い娘さんに声をかけられた。
「どうか、この鮭を一本買ってください……」
と、父は、
「おうー、おうー、買うー買うー」
と、気っのよさを見せ、上機嫌だが、一体、いくらだったのか、どう代金を払ったのか、わけがわからなくなって帰ってきた。酔っぱらいは、ご存知のように、サーカスも顔負けの曲芸師のようなところがある。
 ヨロヨロ、ヨロヨロ
と、右へ左へと道路狭しとくねり歩く。我が家を忘れずによくぞ辿りつくものだ。
 一本の鮭を肩にかけて、天下取り気分で母の前に立った。目玉はトロリとわったままで、足は、右足左足と交互に前後させて、腰を〝く〟の字にかがめ、揺れる体のバランスの良さ、飛び出す言葉はトロメクばかり、
「おうーいッ……文句あっがッ、重いのに……これーいッ……でっけいェ鮭を買ってきたんだぞーッ、文句あっがッー」という。反発などもう一切する気もない母は、一心に機嫌をとって受け入れてくれている。
「あらーッ」
と、母はびっくり仰天して驚いた。開いた口がふさがらないうちに、その口元は、でっかい笑い声にと変わっていく。
「アッハッハッー、なんだーッ、ダダまだッ(父さんよ)。こりゃッ、塔婆とうばでねーがッ、イオではねいーよッ(鮭ではない)。墓の中のイハイだでばやーッ(位牌いはいだよ)」と、大笑いだ。
「うるせいーッ、この、糞ババー。馬鹿すんなッ。うるせいーッ、タクランケッ(馬鹿野郎)」
と、父の口から出てくるのは、ありったけの悪態だった。それこそ、くそ真面目に、墓の塔婆とうばをどう幻覚したものか、鮭と思い、そして、娘とは何者なのか、酒も極度に深まると、全身麻酔となって、幽幻の世界にいざなうことになる。
 母の働いた金は全部酒代にかえられ、夜遅くまで疲労困憊こんぱいの体を休めることなく、父より一足早く家に帰ってきている。口を開けて待っている子供たちに、夕飯の支度をする。風呂を沸かし、料理を作り、台所を片して、寝床をみてあげ、その日の商売の台帳をつけていく。
 その頃は、コックリ、コックリと、筆を右手に、大福帳を左に持ちながら、決して落とすこともなく、顔が畳にすりつくほど、曲がって揺れ出す。コックリ、コックリと。
 こうして、睡魔に波打たれながらも、胸中では、父の帰りを待っていたようだった。そして、ハッと、我れに返り、「あららーッ」と、心を締めて、今度は仏前に座って、法華経を唱え、一日の感謝を捧げる毎日であった。
 そして、夜の十一時を過ぎた頃、父は一刀ひとたち浴びて、もがくかのようにヨロヨロして家に辿りついてくる。その姿は、先ほどの、墓の塔婆木を担いでの帰りという状態なのであった。
 母は、父の酒乱に対しては、翌日も決してとがめたりはしなかった。そのことによって母自身が傷つくことを、避けたのではなかったかと思う。

 

     

天に詫びる母

 

 父の酒の上のトラブルと、はた迷惑のことは、数え切れないくらいあった。
 この片田舎での、唯一の楽しみといえば、浪曲を聞くこととか、旅芸人一座を観に行くとか、民謡を聞き、踊りを観に行くくらいのものだ。それも、そうざらにあるわけではない。年に二度、三度くらいのことだった。
 小学校に入る前のことだが、公会場の作業場で、演芸会が開かれた。ふだんは、ここは稲の収穫を一手に収納する場所なのであるが、その時期にはやや早い、夏の夜のことであった。わらむしろを敷いてのお楽しみだ。母に連れられて、前から、二、三列目の舞台中央近くで、首を上に向けて見ることになった。
 その時は、村の青年団が主催で、若い者たちの隠し芸もあったし、民話や踊りもあった。村人たちの半数以上が集まって、満員の盛況だった。今、開幕か、と思われた時のこと、幕の蔭でなにやら賑やかな人々の話し声がした。
「おうーいッ、おうーいッ、ちょっと、待てーッ」
という声が聞こえてきた。
 幕引の人は、開くこともできず、もじもじしている。なにやらあったようだ。が、どうやら開くことになった。
 さあー、これよりお楽しみの始まり、始まりー……と。
 その時、一人の男が、ヨロヨロ、ヨロヨロと中腰で、舞台に上がってきた。
「演芸の役者かッ……、いや、違うッ……」
「ウーッ、ウーッ」
と、言葉にならない酔っぱらいのうめき声だ。そして、ドジョウすくいではないが、安来やすぎぶしスタイルに似た、モンペ姿のおっさんがヨロヨロしながら、こっちを見た。その一瞬、
「あーッ、ダダだァ(父だ)。ガガや(母や)、ダダだァ」
と、私は叫んでいた。母もすぐ気づいていたが、泡を食うことなく、間をとっていた様子だった。
 その一瞬、目に止まったものは、ブラリと顔を出した男のシンボル!!。昔の越中褌えっちゅうふんどし(猿股)は、出やすくなってはいるものの、こともあろうに、舞台の中央だ。父にとっては、そんなことは無礼講であった。
「ウーッ、ウーッ」
どこで飲んできたものか、泥酔状態で、前後不覚の霊界ロボットになってしまっていた。私は、子供ながらに、恥ずかしさと、一種の可笑おかしさが複雑に絡み合って、
「ありゃーッ、ありゃーッ」
と、手をこまねいているうち、団員のかたたちが父を奥に連れていってくれた。このことはそれだけのことでおさまったものの、この行為に、村人たちはドーッと笑い出す。

目玉はうつろに 天井向いて
どこのタヌキに いい寄られ
夜空の星で 気も晴れて
何とこの世は 幸せか
妻子家族も 何のその
酒の天国 ここにあり
酒の極楽 ここにあり
望んでここに 来たでなし
ドジョウすくいの 芸一つ
見せてやろうか この姿
なってくれたら 天下一
爆笑一幕 村人よ
笑ってはじまる 演芸会
まかりまちがい シンボルが
ちらり顔出す 父を見る
母の心は いかほどに
母の心は いかほどか
 
 酒の行為が深くなると、自意識を越えた次元で動き出すから厄介である。その主導権を握る意識は、潜在された、まだ解放されていない自意識であったり、過去世的霊界心とでもいえる、心の吹き溜まりが動き出すのであろう。
 それは、潜在的意識のなすがままの、理性欠乏症とでも言える。精神的病気となる。
 その時、私は母の顔を見てはいなかった。会場は、照明装置とてない、殺風景な作業場を仕切ったようなところである。場内は、やっと人の顔を識別できるくらいの明るさだった。母は、泣くことも怒ることも、もうすでに、私を生む以前に卒業していたのである。
 ただひたすら、介抱役に徹し、酒をやめさすという思いは、かけらもなかったようだった。我が子の狼藉ろうぜきを、天に詫びるがごとくに、好きな酒を与え続けてきたのである。

 

     

不思議な因縁の組み合わせ

 

 母は、「こんな苦労するのも、親の因縁であろうか……」と、後年、妻に漏らしたことがあるという。
 因縁深き身の上だから、死よりも辛かった苦しみでさえも、優しく見守らなければならぬ身の運命さだめか……。そして、先祖のごう・因縁を、一身に背負って、夫に尽し、他人に尽して生きる運命なのか。この不幸性は、因果のめぐりであろうかと、ひたすら、我が身に潜む、暗い因縁を思いながら、自分に、言い聞かせていたようだった。
 酒乱の夫に、愛情一念で尽すことも、罪障消滅の生命いのちのめぐりと、自覚していたといえよう。
 生後二カ月で生命いのちの乳をむしり取られた母。母に何のつみとががあったろうか。しかし、人間の心のありように、神は決して目をつむるわけにはいかないだろう。
 因果のめぐりは、永遠の生命の中で、不滅の力となって流れてゆく。生命には、元に戻す絶対の安定エネルギーが働いているのではないか。大調和力が働き続けていると思う。母は、償いの矢表に立たされたといえよう。子孫の幸せのために、である。
 運命というものは、独り自分の領域だけではなく、永遠の生命の流れの中で、繰りひろげられる、威厳に満ちた、前世ぐるみのドラマではないのか。
 この生命の中は、過去前世の一切を知り尽している、全人智の〝博物館〟とまでも言いうるものではないのか。
 父は、酒乱があるからだけではなく、生きることに、とても不器用な男であったと思う。嘘で目の前のことを丸めるという、不正直なことができないし、理屈で、突き返すこともできない。外面的にも、とてもおとなしい人になっており、自己表現のからきし苦手な男であったように思う。
 ただ、淡々と、酒を唯一の相棒として、そして、母を子守役にして、金銭だけは、農収を把握して、几帳面きちょうめんに納税、その他をとり仕切っていたようだ。
 黙々と働いている姿からは、まさかと思えるほどの酒による変身だった。
 父の両親あたりに、酒害因子があったのか、父から始まったのかは知る由もない。同じ酒を飲んでも、決して乱れることのない人を考えれば、酒と自己とのかかわりの中で、いかに、意志の働きが大切かを知ることができよう。
 おのれに湧き起こる欲望の一切を、どう処理したかが問題ではなかろうか。所詮、心の問題こそ、あらゆる人生パターンの中で、最重要な課題ではないかと思う。
 父は、また、持って生まれた酒好きと、その酒に振り回される自分というものを、なんの疑いもなく、見過ごしていた。深い潜在心の支配下にあった父は、反省も、自戒も、その機を逸してきた。いわば、業の吹き上げに翻弄ほんろうされながら、母の寛容さに一切委せ、甘え、依存してきた。
 だから、他人には形式的な協調が多かったのではないのか。苦手な自己表現は、日常会話にもその影響が尾を引き、命令的、一方通行的意思表現に終始し、生涯変わることがなかったのではないか。酒勢に乗った心の奥は、いつもビックリ箱のようであって、酔うことで表に飛び出してくるのだった。

 

     

頭上を飛ぶ御鉢

 

 さて、長男が復員するや否や、やはり、この心の不協和音は、ますます動き出してくる。一口酒を飲めば、父子喧嘩のゴングが鳴ったようなものである。
 ふだん、下向き加減でいる父が、酒に乗り、一気に堪忍袋の緒は緩みっ放しとなる。もう一方の、兄も同じようである。
 協調的会話のない家庭は、どうしても情緒が歪んでくる。温かさが育たない。そして、独りよがりで、心の丸味にも欠けていたように思える。そうして、自己表現がうまくできないため、どうしても、偽装心ばかりが発達してくるようだった。また、酒によってコントロール不能となるから、酔って後の行動は、無責任となるから恐ろしい。私の内面性も、やはりそのようだったように思われる。
 私が中学生であったある日の夕飯時、父は、どこで飲んできたのか、泥酔寸前のまま、ひとまず部屋で休んでいた。かたや兄は、食膳で酒を飲んでいる。父と兄の距離は二メートル少々だった。どんな会話が発端となったのかは知らないが、二つ三つと険悪な会話が飛んでいた。
 その時、一瞬、静まったと思ったところが、なんと、ご飯の入ったおひつが頭上をかすめて投げつけられた。父には当たりこそしないものの、枕元は飯の海となる。
 母は、「ハーッ」と息を飲み、ワナワナふるえ、波打つ肌。一心に魂を鎮めながら、父の枕元に駆け寄って、すばやくご飯を拾いあげながら、心の中では、「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経!!」の念仏を唱え続けていた。
 この家は、一触即発の時限爆弾を抱えていたと同じであった。
「うるせーいッ」
と、飯の入ったおひつもろとも投げつけた兄も、また、酒乱の因縁にさいなまれていたのである。

 

      

酒乱因子の吹きだまり

 

 母は二十一歳で父と結ばれ、七十六歳で肉体を去るまでの五十五年間は、本当に、並みの女であれば、飛び出すか、気狂いになったろう。ところが、心はますます静寂感に充ち、深い目覚めの境涯にあったようだった。諸行無常の鐘が鳴り響く心境になっていたのだろう。
 決して、父の批難三昧をするのでもなく、自分の生命いのちの中で、生き続ける父の魂であるからこそ、その目覚めえぬ心を、自ら戒め、調和への反省としたいためである。決して、不名誉なことでもなく、浮わついた心でもなく、末長き、調和安泰を子孫に継がせたいための、命賭けの悲願であったからなのだ。
 良薬であるべき良き友〝酒〟が、我欲の限りにおいて委せ飲む時、良薬転じて毒薬となってしまう。
「わかり切ったことを言うなッ」
と、一喝されるかもしれない。だが、このわかり切ったことで、この世が大混乱をするのだから笑うに笑えない。いつも、悩み苦しみの原因となるのが、この〝当たり前〟のことではないのか。ちょっと、頭を冷やせばすぐにわかることなのだが、一線を守ることの、いかに難しい人心であることか。
 今、精神病院に直行する者が実に多いようである。聞くところでは、全国で二二〇万人以上の人たちが、アルコール依存症であるといわれ、うち、女性がその一〇パーセントを越しているという現実は、とても深刻な問題だ。
 また、その予備軍といわれる飲酒習慣性の人々も、広く各家庭に及んでいるともいわれる。
 酒による事件、事故、酒と女のトラブル、家庭破壊、アルコール性の肉体疾病、精神性の疾病、その他、拡大波及する酒害と薬害等は、個人差があるとしても、社会性をともなう大きな問題である。経済的にも、精神的にも、一大損失なのである。
 あえて、この内情深い一文を世に問うことには、それなりのわけがある。それは、この世に一人でも多く、豊かな心で生きてもらいたいからなのである。目の前の、ごく当たり前のことに迷うことなく、一人でも多く目覚めてほしかったからである。
「人間は、目覚めていく動物である」
と思う。いつか、必ず、行き着く〝目覚めの心〟こそ、生まれながらに受けた、生命いのちの愛ではないのか。
 ところで、酒によって、心が阻害されるようになってくると、一生涯、人に迷惑をかけることになる。
 知人の一人は、たった一度の入院で、茫洋とした人格に変わってしまった。数十年前のこと、酒と宗教のことで、一時的な霊的現象が発端であった。初めてのお経に真剣に心を集中すると、現実的意識が薄れていく。そこに、酒が入っていたものだから、余計に自意識が薄れていく。その時、霊動と言われる、潜在的意識の浮上現象が起きた。
 今の心が留守になり、無意識的な行動をとる。その時、梯子はしごを抱えながら、流水に入って、念仏を唱えていたというのである。周囲から、異常行動だったから不審だと見られ、精神病院へ強制手続きで入院させられてしまった。
 だがそれは、あくまで一時的現象だったと思われる。酒が醒め、お経が中断して、自己意識を高めていくならば、この混沌から、容易に抜け出すことができたはずだ。その一瞬の判断によって、一生涯、無能力者的な自分を引きずっていくことになり、これほど残酷なことはない。
 だが、私は彼に一灯の望みをかけたい。生命いのちある限り、生命の中で働く、バランスのとれた正常感覚がある限り、希望を失うことはあるまい。
 精神分裂病でさえ、その六〇パーセントくらいは、霊的現象であると述べた外国の精神科医の著述もある。彼は、治療薬として投与され続けた薬の収斂性しゅうれんのためか、言語はレロレロとなりながらも、薬物安定という異常心理にある。薬を飲んでいるからこそ、安定を保っているという現実はおそろしい。だが、元はといえば、その原因と責任は、すべて本人にあるのはもちろんだ。
 究極は、日々どう生きたかであり、酒害一般、酒乱、その他の不幸性というのは、神や仏の使者であり、不自然、不調和な生き様に対する〝生命いのちの愛〟であると思う。
「早く気つけッ、早く目覚めろッ」
と、母は自らの苦渋に満ちた因縁を解くために、父を許し続けてきた。そのため、母が背負った悪業因縁は、とても浄化されたはずであろう。だが、父の酒害は、父自身の目覚めがないため、浄化されることなく、そのまま残ってしまった。そして、我々は、台風の吹き返しのごとくに、軌道を逸脱していくことになる。
 この姿を見ていた母は、無念を越えた、一切の許しの魂が働いていたのではなかったろうか。
 運命は、人の心の具象として、この世という現象界に雪崩なだれていく。
〝心〟で作りあげたこの世の、一切を思う時、運命もまた、人の心の産物でありうる。心で作りあげたものであれば、必ずや、〝心〟で崩すことができるということである。その持続する熱意があるならば、酒害にしても例外ではない。
 私に、雪崩れ込んだ酒乱の怒濤どとうも、妻の愛一念によって、夫に不撓ふとう不屈ふくつの精神力を育てあげてくれた。ついに、二代にわたる、父と子の酒害人生に、終止符を打つことができた。

 

     

慈愛一路で生きた母の最期

 

 母は、五十五年の長きにわたり、いわれなき因縁といえども、必然の因果の流れに狂いあるはずはない。だが、不運にもめげず、岩のごとき精神力で、酒乱の夫に尽した。不平不満、憎しみなどの、煩悩一切を、笑顔で打ち払いながら、一途に尽し切った。
 思えば、魚行商は朝の勝負だが、明日を考え、夜遅くまでの仕入れに出かけなくてはならない。冬の平野は、足元から雪が吹き上がり、風速二十数メートルという猛吹雪の中を、そりさめを一杯積んで、満身の力を振り絞って、家路を急ぐ。五里(二〇キロメートル)の道程は、並みの精神力でできることではない。
 また、何度となく目撃したが、大根漬を丸かじりしながらの行商だった。穏やかに食事することは、本当に少なかったと思い出される。
 晩年は、犬を助手につけての商売だった。「商いは、飽きないでやるから、商いという」とよく言っていた母は、一歩一歩、牛歩のごとく、ムラなく、いつも心のタガを締めて働いていた。
 一日一日を、とても尊く、ありがたく、刻んで生きた。ある夕暮れの時は、電柱を人と間違えて、立ち止まって挨拶をしていた母を思い出す。そして、どんな時でも、陽気な明かるさを絶やすことのない人柄だった。
 私は、急遽きゅうきょ、帰郷はしたものの、母の臨終にはすでに遅く、その亡骸なきがらに触れただけであった。生涯、心配をかけどおしの私を、いさめることのひとつもなく、胃がんに犯されるまま、腹部は青紫色と化して、壮絶ともいえる臨終を迎え、この世を去っていった。
 昭和三十九年二月二十一日、白銀に輝く雪の日。享年七十六歳である。
 親不孝三昧に明け暮れた自分を顧みて、今、ここに酒乱人生を世に問い、人の心の、いかに尊く、正しく生きねばならないかを、赤裸々に、背開きをして、世の人々に訴えたいと思う。