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神秘の大樹だいじゅシリーズ第一巻
神秘の大樹
   偶然が消える時

 

 

無名酔人の〝祝い酒〟

 

 無断放浪の旅に出て二五日目のことであった。格好よくいえば、オートセンサーの旅であり、共振共鳴のひびきに身を任せての旅といったらよいかもしれない。
 車中泊と粗食に慣れての一人旅。生まれるも一人、死ぬも一人であれば、いわば一人旅は命にかなった旅の原風景なのかもしれない。
 魂の光を発しながら、あちらの光、こちらの光を求めてひびき合いながら、また蛍火にも似て波打ちながら、「縁の光」を求めて旅は続くのである。
 この日は、新緑映えわたる五月一五日、進路は国道四五号線、一路北上を続けていた。車が気仙沼湾に差しかかった頃、潮吹き岩のある岩井崎の看板を目にして立ち寄ることにした。
 変化に富んだ海岸線はこの辺りから始まっているのであろうか、複雑に入り組んだ湾が独特の景観をつくるリアス式海岸となって、陸中海岸国立公園が続くのである。
 この日は人影もなく天は晴れて穏やかな陽気であった。紺碧の洋上を前にして一人静かな時を刻み、絶妙な心の流れとなって潤される。
 岩井崎に出てみると、ここの石灰岩化石は天然記念物に指定されており、石灰岩にうがたれた穴の空気が、打ち寄せる波の圧縮で鯨の潮吹き音にそっくりで、ときおりフゥーツと噴き上がる。名付けて潮吹き岩と命名されている。
 さらにここには、大海原を前にして太鼓腹に立派なしめ縄姿の銅像が立っていた。この地で生まれて相撲界にその名を残した第九代横綱・秀ノ山雷五郎の像である。
 横綱の像を前にしていいようのない感慨に浸っていたその時のこと、どこから現れたか、人影が近づき、いきなり後ろから声をかけられた。
「あなたどこ…あなたどこ…」
何とも唐突な話であり、あいさつも何一つもあるわけでなく、くどくど聞くから「隣の山形県」とだけ素直に答えた。するとまた「どこよ…どこよ」と詰め寄ってくるのだ。これまでの自分であれば、「どこでもいいだろう、失礼じゃないか」とやり合うところだが、そうとはならずに「庄内です…」と言うと、「庄内のどこです…どこです…鶴岡か…」と、今度は勝手なことを言い出した。さらに続けて「どこです…どこ…」と言うではないか。どうして私はこうなったのか自分でも不思議なくらい素直そのもので「酒田です」と言うと「酒田のどこ…どこ」と食い下がるのだ。
 身勝手千万で腹に据えかねるのに、なぜかこちらも凄く悠長となっている不思議さ。側におられる第九代横綱・秀ノ山関のお陰なのかもしれない。
 「縁」になるからには、天は何かしらの役目を持たせたのかもしれない、とそんな思いもあって、そして「南新町です」と言うとまたまた突っ込むのだ。今度は「だれ…だれ…」と迫って来るのだ。この私の名前を聞きたいのだ。驚いたり、腹に据えかねたり、礼儀知らずの彼に嫌悪感で一杯になった。
 今度は彼から離れて無視するのだが、彼はなおも、頼みもしないのに「写真を撮ってやるよ…写してやるよ…」と言い出してついてくる。そこで問い直した。「あんたはどこですか…酒田ですか」と彼のことを聞き始めたら「東京方面」と言い出したかと思うと今度は一人言のようにして
「ヤメヨウ…ヤメヨウ…ソレハイケナイ…」
と言うのだ。何かまずいことでもあるのか自分のことは一切明かさないのだ。「まあいいよ…いいよ」と言って蓋をするのだ。
 話しかけられたときから彼が酒気を帯びていたことは分かっていたから、そろそろかまわずに帰ることにした。が、それでも寄ってきて「酒田のことは何でも知っている」と豪語するのである。さらに
「デンベェーを知っているか」
と、話がかなり具体化してきた。それは名の知れた二カ所の商店であろうと思い「知っているよ、◯◯デンベェーか」と言うと「そうだ」と言う。「親戚ですか」と聞くと「そんなもんだ」と、ポツリというが、何しろ自分のことは決して語ろうとしないのだ。その辺りにこの人の何か手掛かりがあるのかもしれないが、そんな興味は一切出てこない。
 彼は、少々よたついている足取りで、人のよさそうな笑顔で聞きもしないのに
「今夜はここに泊りです」
と言ったかと思うと、さらに続けて
「いつも…一人旅なんだ」
と、呟くように言った。
 肩にはカメラを背負い、足取りを次第に8の字にくねらせながら、やがて小路の方に音もなく消えてしまった。
 天から降ったか、地から湧いたか、六〇代の格好の白髪の老齢姿であった。定年退職者で酒好きの一人旅姿なのかもしれない。そして本当に、酒田の「◯◯デンベェー」に縁深き人かもしれない。
 この世に幸せの基準はあるだろうか。一人一人の価値観が基準であるからには、幸せと思えることでも相手にとってはそうでないかもしれない。しかし彼はきっと今最高に幸せであるように感じられた。人生を務め上げての一人旅であろうか。昼酒をたしなみ、海風に吹かれて天下晴れての幸せなのかもしれない。
 また、酒田は案外彼のふる里だったのかもしれないし、懐かしさのあまり、いろいろと聞いて心を暖め浸っていたのかもしれない。彼は幸せの真っ只中にいる感じであるし、〝酒の精ありがたき酒なるかな〟と思えば、彼は理屈抜きで幸せなのだ。それでいい、それでいいのだと私は思った。自分を明かしたくないならそれでいい。相手のことを掘り出したいならそれもいい。酒を飲み一人旅を楽しんでいるならそれでもいいのだ。不幸がかって愚痴愚痴しているよりは、こうして多少他人に迷惑気分をさせたとしても、彼は幸せの範囲にあるだろう。何といっても、彼を方向づけることなど不可能なことではないか。若者ならいざ知らず、人生の第一ラウンドを終了しているではないか。干渉無用の世界だ。
 かくいう自分は、酒豪人生から酒乱に至りて、さらにそれを脱して心を目覚めさせての一人旅の姿ならば、この日出会った彼は何も言うこと無しのご苦労さんである。〝我が身つねって人の痛さを知れ〟の諺通り、自分に引き返してみれば思い当たること多しで、そこにはひとりでに人の思いやりが湧くというものである。
 万人が万人、行く先は同じだ。魂の帰結は一大生命界の懐の中である。ただ行く道筋が違うだけ、彼は彼なりの行く道筋を歩いている、それだけのことである。
 ここは、岩井崎(いわいざき)。ひびきを変えれば祝い酒(いわいざけ)と、ひびかせてみれば彼は一層幸せなのだ。ましてや此処は第九代横綱・秀ノ山関の出生地だ。大地は地響き立てて祝いのシコ(四股)を踏む。
 〝ドッコイショ…ドッコイショ…〟
 いわいざき(岩井崎)で祝い酒の唄声がひびきわたる。共振共鳴の酒のいのちがひびきわたる。

 

 

出会いに咲いた縁の花

 

 私達の一生、生から死までを一本の糸にしてたとえることができる。糸の色をその人の心の色にたとえて、人生模様を織り成す刺繍絵と考えてみてもよい。その文様や絵柄模様をそれぞれがどのように完成させることができるかである。
 自然の中でよく見かけるクモの巣などは、一本の糸で織り成す姿の典型的なものである。クモの巣は、腹部から一本の糸を出し続けて幾何学模様のエサ場をつくる。その場所を選び、風を利用し、枝葉を利用し、最良のエサ場を見極めていのちの糸一本でつくり上げる。
 また、カイコ(蚕)などは、幼虫から成虫(カイコ蛾)に変身するために一本の糸を口から吐き出して、外界と隔絶する聖なる家(マユ=繭)をつくり、その中でサナギ(蛹)となり外界に新しく生まれ変わる。動的幼虫からさらなる動的成虫(カイコ蛾)に変身するために一度は静の世界に身を包み、一本の絹糸で織り成すカイコの世界もある。
 我々だって、一本の糸で刺繍模様をつくり上げる人生だ。人生は一本の糸で織り成す刺繍の文様のようであり、表面で見られる具象(現実)の絵柄や文様の世界ではあるが、その裏面は、表面の現実世界とは打って変わって、抽象(非現実)の世界であり、容易に明かすことのないカイコのマユの中の世界と同じであり、一本の心の色糸で織り成す人生模様は、刺繍の表と裏を見るごとく具象と抽象の世界であり、現実と非現実的な神秘世界の表裏であり、一本の心の色糸で紡ぐ人生の刺繍世界にも見えてくる。
 現実を裏返しするとそこには必ず現実の基を成す神秘の世界があるのであり、また、必ずあらねばならぬ世界であることに気づかされる。現実と非現実、具象と抽象、外界と内界それらはみな表裏一体で、離れられない不離一体の同体の世界であると考えた。
 生体は、外見は当然にして見える訳だが、それらをつくり出すその内界の臓器などの構造は見ることができない。命を形成する根幹世界はなぜか目に見せてはくれないのだ。人の運勢・運命も同じことであって、その人をその人成らしめる根幹世界は、生死一本の心の色糸で織り成されているのだが、どんな図柄ができ上がるかその運命的流れを知るには、その人の縁の流れを知ることであり、さらに、縁の流れを知るには、文字的・数的・色的ひびきの同調性に心を向けると、その縁の明かりが徐々に見えてくる現実がある。耳にしたことがあるかどうか、人生に三度のチャンスありといわれるが、その三大チャンスのことを本縁と読み替えてみると、その人にとっては大きな運勢転換ともなる内容に満ちた出会いともいえるのだ。
 その本縁までの道筋に灯る、点から点へと運ぶ縁の明かりを、役縁という具合に考えてみたらどうか。役縁から役縁へ、点から点へとそれぞれを結べば、人生の一本道ができ上がる。鉄道なら各駅停車のような感じであり、俗にいう偶然の一致などは、いわば本縁までに辿る道筋の役縁の現象にすぎないと私は考えている。
 「袖振り合うも多生の縁」というように、生死一本の心の糸は、どんな色の心の糸なのかで、引き合い、反発し合いをして波を打つものだ。それらの縁が役縁なのか本縁なのかは、自分の心の反応で判断するより他はない。
 さて、風の吹くまま気の向くままの旅、それは、心のオート・ハンドル(自動操縦)の旅でもある。またそれは霊的で、より潜在意識を活性化させる一つの方法でもあろう。
 万人の心は微妙にその色合いが異なるものであり、心の色合いは一種の磁気を帯びているから、プラスとマイナスで引き合い押し合いとなる。すなわち、共振共鳴の現象をそこに見ることができる訳であり、その一例を旅の中から見てみることにする。
 家を出たのが四月二一日であるから、あれから二七日目となる五月一七日(水)のこと、いったんは奈良県の高野山まで南下したのであるが急きょ、列島の北上を続けて北海道に渡ろうと思いたった。
 ここは下北半島の大間崎であり、本州最北端の地であり、目の前には小さな弁天島があって、そこに本州最北端の灯台が見える。二メートルも引くという干潮ともなれば、歩いても渡れそうな小島である。
 大間港から室蘭までフェリーで五時間の船旅になるが、出港までの時間でいささかの食糧調達のため数軒ある商店の中の浜乃屋という店に立ち寄った。
 店の内も外も所狭しと乾物や生鮮魚介類をはじめ雑貨類から飲み物類、オモチャもあれば、観光提灯まで揃うミニデパートのようだ。やはり、大間の港から北海道に渡る人々で賑わうのであるが、昭和六三年(一九八八年)の青函トンネル開業による影響はおびただしいものがあるだろう。
 このお店の娘さんは、話を聞けば生まれも育ちもこの地であるが、高校からは静岡県に出られたという。静岡の浜松が大好きというのだが、高校は清水の商業高校ということだ。高校にしてはあまりに遠方なので私ははたと考えてしまうほどであった。浜乃屋の娘が静岡県の浜松が大好きで、高校は清水市へ学びを進めている。
 ところが、フェリーに乗り込んでから一人の青年と出会って話し込むうち頭の中はぐるぐると縁の糸で渦巻くことになった。彼は大学を卒業したばかりだが、ここ一年間就職を中止して全国を自転車によるツーリングの旅に出たのだという。
 静岡県の富士宮市出身で現在は三重県の桑名市に住んでいるという。さらにいわく、旅に出たのは四月六日でテント一式アウトドア用品を携帯して、宿泊のメインはテントだがときおりユースホステルなどを利用するというのだ。そこで最初に一泊したのが千葉県の館山だという。その夜同宿の女性と親しく話をするうちその女性は三重県の四日市市の生まれで、静岡県の富士宮市に嫁いで来たのだというのだ。彼はそれだけでも凄く親近感を感じて嬉しくなったという。ところで彼の泊まった館山には、つい先日の五月一〇日にかけて私も車中泊をしているではないか。
 そればかりか私と妻は、数カ月前にテレビで知った一人の写真家、伊志井桃雲氏を訪ねている。そこは富士宮市なのだ。富士山オンリーの写真家・伊志井桃雲氏の情報は富士宮市在住というそれだけであったが、富士登山入り口で名高い浅間大社を参拝した折りに運よく出会ったS氏が伊志井氏をよく知っていたのである。この出会いのことを彼に話すと彼は、S氏は自分が小学生の時の先生に相違ないというのだ。とても珍しい苗字であったから印象深いとも言う。ここまで分かってくると、縁の糸がぐるぐると刺繍の文様を織り成し始めたのである。この日の数時間の中で次々と浮かび上がる縁の明かりが目に入ってくる。表面だけでは絶対に分からない縁の糸(縁エネルギー)が見え出してくるし、互いに語り合う中で縁の明かりが次第にはっきりと灯り始めていた。袖振り合うも多生の縁…とは、的を射て真実を言い伝えた言葉であり、また、命の意志性に突っ込んだ、深く畏敬にふれる世界を言い得た言葉に思えてくるのだ。
 決して目には見えないはずのいのちの裏時計ではあるが、目に見える時計の針を裏で動かす時計の仕組みは、我々の運勢運命の見える現実と、現実の基を成す見えざる世界(非現実の神秘)に通じている。
 目に見えざる神秘ではあるが、それが実際には目に見えている世界だと言えば信じてくれるだろうか。見えない世界が見えてくる現実こそ、共振共鳴共時の世界なのである。
 いのちの中を滔々と流れる縁のエネルギー(心のエネルギー)、運勢を織り成す縁の糸、泣くも笑うも陰で導く心の明かり。その心の明かりは、文字的に、数的に、色的にこの世の表舞台で見せ続けている現実がある。
 この大間崎の港を出るまでのほんの数時間の中でも、出会った方たちには、糸が互いに綾なすように、それぞれにして有縁の流れを共有していたのだ。心の裏舞台の上では、文字性のひびきに溶け込んで激しく共振・共鳴する世界を見ることができる。それは生命の根源的ひびきと言っていいだろう。そのひびきは、吸引吸着し合い、反動反発しながら、縁を結びまた離れてゆく。
 いのちの絶対調和力(中心力)と、心の色から発する波動(磁波)が織り成す心の糸の刺繍絵である人生。それは日々の暮らしの中に織り込まれている唯一の心のひびきであり、物申すいのちのひびきであり、運勢・運命を運ぶ魂の機関車なのだと表現したくもなる。
 心に刻んだ記憶や、日々思い続ける心というものは、圧積された氷山にも似て、魂となって永々に生き続けると考えられるし、その思いの世界は、文字の明かりに溶け込み、数の明かりに溶け込み、色の明かりに溶け込んでいのちの中で働いている現実を目に見せていると思っている。心(想い)は縁の原動力となるものだ。そして縁は、その人の運勢・運命の原動力となるし、この動きをこの目に見せてくれる文字や数や色のひびきが今もまた、命と共に働き続けている。
 出会った青年が青春を力強く羽ばたき日本一周の自転車の旅をする。その彼の一年間はいのちに深く刻まれて、揺るぎない輝きに満ちた尊い人生の基礎を築くものだ。出会いの縁の糸をたぐれば、思いもかけない魂の流れを垣間見ることができるのだ。
 さてこれらの話には後日談が待っていた。フェリーで出会った富士宮市出身の青年、そして、同市在住のS氏のご縁の結び合いであったが、S氏とはそれ以後も年頭のあいさつ位の交友ではあるが、その交信を長い間続けてきている。
 平成六年(一九九四年)元旦には、S氏ご夫妻、そして長男夫妻と四歳と六歳の孫一同の幸せな写真が添えられていた。ある外国での記念撮影であった。ところが、平成七年(一九九五年)一月一〇日付には寒中見舞い状となっていた。長男の妻が逝去なされた為である。平成六年一〇月八日・没。三六歳。(昭和三四年九月三日・生)とある。そこには戒名も記されていた。その後の平成一二年(二〇〇〇年)一月八日付にも再び寒中見舞い状となっていて、今度は長男が逝去なされたというのである。平成一一年四月二九日・没。四一歳。とあり、やはりそこには戒名も記されていた。
 わずか五年位の間に、四一歳と三六歳の若き長男夫妻が亡くなられたことになり、残された子供たち二人は当時五~六歳くらいであったが、今は、祖父母S氏夫妻と四人で心痛止み難きを乗り越えて暮らしているというご挨拶状であった。
 そのような家族事情を知りつつも、歳月人を待たずのごとくはや二〇年が過ぎ去った。この度、二〇年前からの資料を基にして共時性現象(シンクロニシティー)の真実に迫りたくこの原稿に残したのであるが、その原稿を書き終えた日が平成二〇年四月一〇日である。ところが私の内面深くに異変が起きていた。というのは、全く気にしなくてよいものに執拗に執着し始めたのである。家のパソコンでCDのインデックス・プリントをつくりたいという思いが全身を包み込んで他の一切は何も手につかない始末となっていた。ところが目の前のパソコンをいくら操作しても、むしろ迷路に入るばかりで何の解決もつかないのだ。
 パソコンメーカーやプリンターメーカーにいくら相談しても、初心者であるから要領が得られずらちがあかないのだ。この世界の、なじみのない用語のジャングルにはほとほと参ってしまう。最終的にインデックスを内蔵したソフトを探すことにした。「デジカメde‼︎同時プリント9」というソフトなのだが、それをインストールしてみるとサンプル画像が出てきて、そこには三〇代の若い夫婦と四、五歳くらいの子供二人が飛び出してきたのだ。
 親子四人でバーベキューを囲んで、娘たちはでっかいスイカにかぶりついて大いに喜んでいる。この画像を見たとき、なぜか私の心は閉じようとしていた。この画像を削除できないものか、と一種異様な霊的ざわめきが起きてきた。だがその操作もままならない。それが四月二一日である。
 この日は私達の結婚記念日であり、それも四九回目である。来年の金婚式まで手が届くところまで来たという実感がよぎった。
 ところがこの日の早朝、床の中で半覚醒状態の妻の目の前に、突然屋久杉の霊が現れてきた。千年以上もの年輪を刻み重ねたその中に、はっきりと精霊の姿を観たのである。その時四時一分であったという。
 そのまま起床した妻は今度は自室に入り身の回りの整理を始めたのであるが、ところが、どこへ行くにも持参している古い手帳の中から写真入りの年賀状のコピーが出てきた。それが富士宮市のS氏からの葉書であったので妻は、「お父さん、Sさんからの家族写真がでてきたよ」と言って見せてくれたのである。見れば、若い両親の中に四、五歳くらいの子供たちが並んでいた。後ろには、この原稿の中心縁者であるS氏ご夫妻が立っている。
 これを見た私に電撃が走った。パソコンソフトのサンプル写真の若い両親と二人の子供たちがオーバーラップしたからである。
 早速このサンプル画像を妻に見せてやりたいと思い、プリント印刷してからその日付を見て、今度はいのちの中から押し上げてくるものを感じた。写真に現れたデーターには、二〇〇四年五月一七日撮影とあるのだ。
 五月一七日と分かって、これは何ということかと思った。それこそこの話の二〇年前の出会いの日であったではないか。大間の港から出港したフェリーの中で出会った富士宮市の青年と同市在住のS氏のこの話こそ、平成元年五月一七日のことであったのだ。ここには言い知れない魂の流れを感じさせられてならない。魂の世界は時間・空間の無い一面一体の世界であり、一〇年、二〇年という概念は無く、つねに今なのである。
 私にパソコンのソフトを探させて、親子四人の写真をそろえ、数の魂に溶け込んで、死んでも生きているいのちの証しを残さんと、時空を超えて、人の霊体を借りて、出会いの縁の流れに生きてそのエネルギーの波動をひびかせる。五月一七日の出会いと、二〇年後のパソコンソフトの中で待っていた五月一七日撮影の若き親子四人、それは、S氏の長男夫妻と残された四、五歳の子供たちの親子四人とそっくりではないか。
 そして、長男の妻は一〇月八日に亡くなったのであり、何とその日は私の妻の誕生日、一〇月八日に共振共鳴してそのひびきは止まることがない。
 さらに、早朝妻が観た屋久杉の精霊姿は四時一分のこと。S氏の長男は四一歳で没したとある。
 そればかりか今度は私が、四月一二日の四九回結婚記念日の朝から歯痛に見舞われ、二日間辛抱の末、歯科医の治療を受けたら真横一文字に折れていたというのだ。何らの自覚もなく歯が折れるとはこれまた異様なことではないか。この日は四月一四日である。S氏の長男の没年齢は四一歳という。これまた四一=一四で共振共鳴のひびきが同調することも見落とせない一つであり、以上のこれらは、霊魂の意志性であることに疑いを挟む余地がないと私は思っている。
 それは「死んでも生きているいのちの証し(魂不滅)」の大事な一事例になると思うからであり、人が亡くなるとどうなるかという問いについては、古来、斯界しかいの有識者たちや覚者といわれる方たちでも問答無用といったところではないのか。死んだら煙になるだけだ、という方もおられる位であるから、それは誰しも答えようもない現実離れした世界であろうし、死の世界に行かれたら帰れない世界であればこそ、それは全くもって問答無用であって然るべき話ともなる。
 だが、たんに煙になるだけ…とか、そういう話はご法度である…とか、あまりにも人々の間からは敬遠されたり、真剣に耳を傾けてはくれない。ところがこの世界に直接結び付く共時性現象の体験記録を二〇年からも積み重ねてくると、どうも身につまされる思いが多くあり過ぎて、たんにオカルト(神秘的・超自然的)などとばかりで済まされない出来事なのである。言うなれば、我々の生体は正真正銘の霊体(意識体=魂・心)であり、我が身の中から魂(心)を抜いてしまったら本当にもぬけの殻であり、存在価値さえなくなる事実がある。
 今後どのようにして明快な検証ができるかは、体験資料の一つ一つをこの本の中で迫ってゆくことが一番の近道と思うし、そのためにも、記録掲載だけで終わらせてはならないと思っている。

 

 

丹頂鶴と高橋園長

 

 潜在心の開放を限りなく一〇〇パーセントに近づける、ストレスを限りなくゼロに近づける、自分を限りなくいのちに近づけるという命題は、張り詰めたこの科学文明の世にあってはなかなかそのチャンスに巡り会えないものである。
 個人差には大きいものがあって、多種多様な機能負担とも環境負担ともいえる負担を心身に感じることは、あらゆる環境の中で誰しも背負っているもので、全くストレスがゼロなんていう方はむしろ変人なのかもしれない。ストレスの許容範囲はその個人差があまりにも大きいようだ。
 潜在心の開放、ストレスの開放ということはまた、いのちの中心にかなり近づけることにもなると思っているから、それはすなわち生命力を高めることにもつながる出来事であろう。すなわち、潜在心の開放、ストレスの開放は、生命力の向上となり、奥深い潜在心(魂=心)の活性化を促して、思いも寄らない知恵が湧き上がってくることも決してまやかしではないと思う。
 このいのちは、全世界の存在や、全宇宙の果てのすみずみまでも連なる光ファイバーならぬ生命ファイバーで結ばれている「いのち」であればこそ、限りなく命に近づくことはすなわち、知恵の宝庫を探索するようなものである。
 今から二〇年前に体験した車中泊無目的の旅は、潜在心の解放、ストレスの解放、ひいてはいのちの光を強める一助の面からみて、人生の布石ともなる大事な経験であったと思っている。
 その後、今日までため続けてきた共時性現象(シンクロニシティー)の記録とその出会いの縁のメカニズムを考える上で、深い世界からの直感力が増してきたように感じてならない。
 旅は、四一日と三一日の二度にわたる七二日間の旅であり、天に任せ地に任せる自然心で過ごすことになったが、その旅のことを私は、四一日の「鶴の旅」と、三一日の「亀の旅」というネーミングで呼んでいる。
 ネーミングは、その旅の象徴性からそのヒントを得たのであり、四一日の「鶴の旅」は、釧路市で出会った丹頂鶴の自然公園を訪ねたことから得たものであり、また、三一日の「亀の旅」は、行く先々で待っていた亀との出会いから名付けている。
 風の吹くまま気の向くままの車中泊と粗食で過ごした日々は尊いものであった。
 ではここで、「鶴の旅」四一日のシンボルとなった釧路市丹頂鶴自然公園で出会った園長高橋良治氏との寸暇の会話を振り返ってみたいと思う。
 ここを訪ねたのは平成元年(一九八九年)五月一九日金曜日のことである。釧路市鶴丘一一二番地にこの自然公園が開園されたのは昭和三三年(一九五八年)のことであるが、昭和四五年(一九七〇年)には世界で初めての丹頂鶴の人工孵化に成功しているという。
 乱獲と開発によって絶滅の危機にあった丹頂鶴の保護と増殖の目的で開園されたこの公園には、今(平成二〇年四月二一日現在)一八羽が放し飼いされているという。
 「鶴になった男」というタイトルでテレビでもひろく紹介されて多くの人々を魅了した園長さんに逢いたくなったのは、国道三八号線を、当てもなく釧路方面に向けてひたすら走っていたときのこと、すでに、夜も深まりライトに浮き上がってきたのが鶴公園の標識案内板である。そこに目が合った時、鶴になった男と会いたい衝動に一気に駆られたのである。
 標識をたよりに国道二四〇号線を左折してから約一〇キロメートル位走って、その夜は鶴丘地内の原野の中で翌朝を楽しみに夜を過ごした。
 親鶴が巣を放棄して取り残されている鶴の卵を持ち帰り、孵卵器の卵と寝食をともにして、不眠不休にも似た日々の続く中で、人工孵化の鶴の子を見事誕生させた園長。
 その後、自然に返すまで鶴の親代わりを務め上げた園長が、飛び立たせるときのその姿は、まるで親鶴以上の愛情であった。
 両手をいっぱいにひろげてバタバタ羽ばたかせながら飛び立つ特訓の繰り返しは、体力的にも限界を超しているように感じた。鶴の親代わりはどう見てもまさしく鶴になった男その姿にほかならなかったのである。
 至難といわれる人工孵化を見事成功させ、自然界に放鳥させるまでの、一貫してにじみ出る愛情はどこから生まれてくるのであろうか。天性といえばそれまでだが、園長と会ったらその熱情的一心について尋ねたいと思いつつ、車中の一夜は夢の如くに朝を迎えたのである。
 開園の九時を待って唐突な面談を申し入れたところ、朝一番で園内の池の補修がある日だからその作業員がやってくるまでならということで、園長室に通されたのである。
 何からどう話してよいものか、園長にしてみれば、要領の得ない闖入者ちんにゅうが訪ねてきた感じではなかったか。
 ひとまず自己紹介を終えてから、テレビで拝見した「鶴になった男」のこと、人工孵化に成功されて自然に返すまでの一念集中の愛情に感動したこと、そして、思いのままの旅を進行中、昨夜国道の看板が目に止まり、とにかくお会いしたい一念でお尋ねしたことを伝えた。
 ところがかえってきた園長の話は、微妙に意外なことであった。
「あれ? あれは少々違いますよ。ちょっとなあ」
「それはまた、どういうことでしょうか」
と尋ねると
「私は、本当は嫌なんですよ。兄弟にも言われるんだが、もっと鶴を大事にせんといけないではないか…とね」と言うのである。
 私はテレビを拝見していて、あの熱情的な鶴にかける愛情はどうして出てくるのかと、うらやましくもなる思いで観ていたのであった。園長が好きではないのだということには少々腑に落ちかねていた。この時、再び園長が話を続けてくれたのである。
「本当は牧場のほうなんですねー、馬がいいんですねー。鳥は好きでないので三年に一度くらいの割りで退職願いを出しているのが事実なんですよ」と言われたから、これは園長の本音なんだろうなあと思いはしたが、私は口を挟むようにして
「そうでしょうかなぁ。奥の奥では本当は好きなんでしょう」
と勝手な推測を挟むと園長は
「ただ釧路市のこともあるし、国のこともあるし、見に来てくれる方々のことを考えるとそうもいかんでやってるのです」とまで聞かせてくれたのである。
 だが園長から発される実直で強い責任感からは、鶴公園を守り通すんだという一念が伝わり胸を打つ。また、馬が好きで馬の牧場に帰りたいという思いも、初期の頃は馬への思いが一番の本音であったろうし、それは決して不思議ではないのだ。馬が好きで鳥は嫌いというのは古い昔の話であって、風のごとく訪ねた異人には格好の昔話を語る相手であったと私は思っている。
 その後に続く園長の話は鶴への思いやりで一杯であり、やはり鶴からみれば親代わりであることを実感できたのである。
 「人工孵化した鶴は自然の中では大変だ…生きてはゆけない。強くならないんでしょうね」と言う。人工孵化から自然に返してやることは至難のことであるといわれる。
 「人工孵化で卵を孵すことはめったにしないですよ。親が水かさが増してきたので放棄した時とか、水につかったようなものは人工孵化しなきゃ、死んでしまうからね。卵は四時間水につかっていると死んじゃうからね、つまり人工孵化は面白おかしくてやるではなく、窮余の一策で、みすみす死んじゃう卵を見捨てないで、人の手で孵化してみることです」と言う。「だからなかなか成功しないのは当然かもしれないな」と付け加えた。
 園長の話からは、鶴への思いが湧き水のごとく次々あふれてくる深い思いが伝わってきた。
 牧場の夢、馬への思いは昔の話であって、今は正しく鶴になった男の情熱に燃えていた。
 結婚には見合いと恋愛があるように、園長と鶴は見合い結婚にも似た愛情の熟成を身につけたのだと私は受け止めたのである。だからこそ手放しで〝鳥は嫌いなんです〟などと冗談交じりで言えたのである。そろそろ時間と思った頃、園長は「鶴は音に対してバツグンなんですね」と言った。
 人工孵化した鶴にとっては、この世の親は鶴ではなく最初に声をかけてくれた園長であり、二〇年過ぎても親代わりであることに変わりが無いという。音をもって親であるという人工孵化の鶴たちは、園長には絶大なる信頼関係を持っている。気の荒い彼らでも鶴の一声ならぬ園長の一声こそ鶴を超して絶対なのである。鶴の一声も園長にお株を奪われたようなものであり、この丹頂鶴の自然公園は、高橋園長の一声で万事上々に治まるというものだ。
 約束の作業員が来たので話も中断することになったが、今度は柵の中で作業の指示をされている園長に私は柵の外から見入っていた。現場の中にいる一羽の雄鶴が隣の柵に一時預けられることになった。するとそれがもとで一大嫉妬劇が始まったのである。隣の柵には一組のつがいが入っていたが、そのつがいの旦那が凄い見幕で怒りだして大変な騒ぎとなった。一時預かりの鶴は、突然にして猛攻撃の的になったからびっくり仰天だ。縄張り争いというより、やはり雄の嫉妬に違いないのだ。それに気づいた作業現場の若い飼育係が「コラッコラッ、コラッコラッ…」と柵の外から制止はするもののまったく馬耳東風だ。いや、馬耳じゃない鶴耳だったけど、まったく効果もなく無視されていた。
 攻撃されている一時の宿借り鶴は、すっかり意気消沈して鼻血を流して逃げ惑うばかり。それを知っている園長は仲裁には入らない。
 園長いわく
「ケンカの仲裁になんぞ入るもんなら肋骨折られるぞ」
 気高くスマートな鶴からは想像もできないが、目の前で見たその威嚇と攻撃力は凄いものだった。
 ところが園長は何もかもお見通しである。鶴以上に鶴の心が分かっている感じに思えたし、鶴との一体心とはこのことであるかと思った。鶴に対する自信がぐんぐん伝わってくる。鶴のケンカ仲裁には肋骨一本位折られる覚悟でなきゃだめだということが分かりだした。
 自然体でツルの中に入っていき一時預かりの鶴を元の柵に戻した園長は
「だらしのねぇ奴だなあ。あとで治してやるからな」
と、傷ついた鶴に向かって言ってやると、鶴は不服そうに、親代わりの園長をたじろぎもせずに見つめたまま立っていた。
「ウン…、ハヤクシテクダサイ」
と、鶴の無言のひびきが伝わってくるではないか。また、攻撃していた隣の雄鶴の旦那は「オヤジガ、アイテデハ、ブガワルイヤ」と言わんばかりに、首を威勢よく縦に振っていても一歩尻込みの姿勢になっている。
 命懸けのスキンシップで動物と接する姿から、馬も、鶴も、人もその縫いぐるみを脱いで生命一体の世界に身を置き心を置かないと真の融和は成し得ないと思えてくる。いのち同志の付き合い、そこには何ら恐怖感も生まれようのない澄み切った世界感があると思うし、だから高橋園長の一声は鶴の一声以上の天声になって聞こえてくるのではないか。
 訪ねてよかった。尊いことを高橋園長に学び、鶴にも多くを学ばせてもらった。いつまでも見入っていたかったが、ご迷惑になってはよくないから一言「園長さんありがとうございました」とあいさつをして鶴公園をあとにした。
 鶴千年、亀万年、古来日本人の魂に溶け込んで、健康長寿の手本として、めでたい祝いの象徴となって、人々の心に幸せを結んでいる「鶴と亀」。
 やはり、端正で気品にあふれ、スリムで筋金入りの健康長寿の丹頂鶴。古来、アイヌの人々からはサルルンカムイ(湿原の守り神)と崇められていた。まさしく瑞鳥ずいちょうなのである。

 

 

キタキツネのポンタ君

 

 世に神秘世界といえばとかくタブー視されることが多いもので、敬遠をされ、時には蔑視されることも少なくはない世界のこと、その反面、秘められた関心度といえば驚くほど高いものであって、口には出さずとも大変気になる世界でもある。その、気になる世界のことを、ここで一つの体験を踏まえて開いてみることにする。
 生霊と死霊の呼び名を耳にされたことがあるかどうかは伺い知れないところだが、その呼び名があっても、私たちはいちいちその区別をつけることなく生きているのが毎日の生活だと思う。
 この世はあの世であり、あの世はこの世であり、今は刻々過去になり、過去はすなわち今となる。そして、今は明日を築き、明日は今を土台に新しい一日となる。それゆえに、どこにこれとはっきりとしたその境を引くことができない大河の流動感がこの身を打つ。
 過去世もこの世も渾然一体の世界であって、生霊(今の心)も死霊(亡き霊魂とこの世の過去心)も区別のしようがない。しかし、一つはっきりしているのは、それは自分の中にある心の集積であり、過去世一切からの心の色合い集団(霊魂=潜在意識帯)が自己主張をしている世界ともいえる。そこでは、霊体(霊魂)である自分の姿を知ることができる。
 さらに、この霊体の光は、万物万人に通じるいのちに準じた記憶霊光体(原子元素)であり、スイッチ操作でON・OFF自在でもある世界と考えてみた。霊体から発する記憶霊光体(私の造語)は、思えば通わすいのち綱とも言い換えられる。いわば、思いというものは、一瞬のうちに思いの世界に飛んでゆくという、心が互いに通じ合える世界ではないか。
 この思いの世界の操縦、すなわち魂の操縦者は、あくまでも今の自分にほかならない。亡き魂たちは、心の発信力、心の発現力はあるものの、自戒反省心となれば、この世の我々、すなわち肉体者である自分自身をおいてほかに誰もいやしない。生死渾然一体のこの今の自分こそ唯一の霊魂のエージェント(代理人)なのである。車なら操縦ハンドルを、また船ならば舵取りをする者こそ心の安全運転義務者といえるものだ。
 生は死、死は生、これは誠の話。死は肉体元素が無いだけの話。いわば幽霊に着物を着せているのが自分であるといったらどう受け止めてくれるであろうか。
 心は、上澄みの水のごとくに澄んで現れるものならいいのだが、霊体は自在なもので、心のハンドルさばき一つで、人生街道はそれぞれに人間模様を映し出す世界となる。霊魂は、人々の心の先々を照らす道明かりなのだ。
 さらに、魂は表現者であるから、今の自分と渾然一体となって、その表現手段となる文字の世界や、数字の世界や、色彩の世界の波動と一体になって、意志の表現世界をつくりあげている。その三つの表現世界は、この世の人類に絶対不可欠媒体であるかぎり、魂の意志表現も何らの変わりなく、あの世もこの世も一体となって、今この世でその魂の意志性を伝えているのである。この世の表現はあの世の表現でもあるわけだ。
 霊魂の表現こそこの世一切の表現の源泉であり、人類の今成す全ての分野にわたり、文字的表現、数字的表現、色彩的表現一切合切が、死霊といわれる霊魂の意志によって、我々が生き続けている真実の姿ではないのか。
 我が身はすなわち霊魂であり、生き霊と死霊が渾然一体であって、そして、生死の総力こそ眼前の世界であり、今ここであり、今ここに生きている世界といえる。
 この地球上に見られること、ひいては、宇宙空間までも見ることのできる文字の世界・数字の世界・色彩の世界のひびきこそ、死霊と生き霊の溶け込む合作にほかならない。現代人類の成す表現手段から文字・数・色の波動を消したとしたなら、我々は超原始人にタイムスリップすることになる。
 この生身の自分は霊体であり、死霊(霊魂)・生き霊(今の心)の渾然一体の肉体生命であり、魂はピカピカ生き生きとして不滅であり、この世の文字・数・色の表現媒体に溶け込んで活躍されていることを知る。
 さて、今回の無目的の旅は、霊魂(死霊=潜在心)の浮き出しやすい情況下に置かれていたといえるし、それは生死の境の無い渾然一体の世界ではあるが、私にはその生死判別を感じた唯一の旅であった。
 どういうことかといえば、私の受け取り方ではあるが、これが死霊(霊魂)だと感じたのは急な眠気の時がそうだと思ったのである。またわけもなく急な疲労感を感ずるときなどは、発信元は別にして、それは生き霊だと思ったことである。急なる不自然な眠気と疲労感それも、その原因が見当たらぬ中での「急」なる発現が感じられたのであり、それは私なりの判別でもあった。はたしてそれが普遍性があるかどうか、妥当性があるかどうか、きわめて独善的な私の思いである。
 そこで、霊魂からの発信と思われる旅の一例をここに紹介してみたいと思う。時は四一日間の鶴の旅の後半にかけてである。平成元年(一九八九年)五月二一日(日曜日)、オホーツク海沿岸を一直線に走る国道二三八号線でのことであった。ちょうど三時過ぎであったが、すさまじいほどの眠気が目の前をかすめて全身ふわふわ宙に浮き出した。車ごと浮く感じの走行となり、ハッと気を取り戻した時にはいいあんばいに駐車帯の標識が見えたから吸い込まれるままに前後不覚の熟睡となって、目を覚まのは四時半近かった。ゆうに一時間は寝込んでいたことになる。
 まだ陽も高かった。あの渦に呑み込まれるような睡魔は、旅の中でもそうめったにあるものではない。気も晴れて出発したのは四時一八分のこと、前方にはトンネルが見えていて、ここは、神威カムイ岬の近くであった。
 まもなくトンネルを通り抜けると、右視界にはとめどなく続くオホーツク海沿岸の大海原が開けている。距離にして四、五キロも走ったときのこと、左前方の路肩を行く一匹の動物を発見した。どんどん近づくと、それは紛れもなくキタキツネであることがわかったが、追い抜く数十メートル先で彼は急に道を横切って海側の草むらの中に入り姿が見えなくなった。気にせず走ろうとしたが、野性のキツネとなれば好奇心が湧いてくる。スピードを落としながらバックミラーを気にしていた時のこと、彼は再び路肩に姿を現して歩いていたのだ。これはと思い、右折して農道の入り口に横付けをして見守っていると、彼は臆することもなくどんどん近づいてきて、ついに四、五メートルまでになったが逃げ出す気配は全く感じられないのだ。
 至近で見た彼は決して若くはないが、さすがは野性のキタキツネである。尻尾が太く長く立派な風格だ。顔には無駄もなく、両耳をぴんと立てて、目は鋭く深く、いかにも野性を生き抜く知性を感じさせる。さらに一種の余裕さえ感じられたのである。顔は逆三角形で、口と鼻先がそいだように合理的な形をして、まるでカマキリに毛皮を着けたような姿なのだ。
 前夜、鶴公園の近くの店で七〇円で買ったカステラを堅くて食えずに残していたのを思い出して、それを窓から静かに放ってみた。人間がエサをくれることを彼らは学習しているのかと思って、悪いことをしたかなと反省をする。ここで写真に撮ろうと思いカメラを向けた一瞬、キタキツネがそのカステラをくわえて原野に身をひるがえしたから、車から四、五メートル移動して彼の近くに再び接近したのである。今度は逃げようとはしない。車から降りて手が届きそうな二メートルくらいまで近づいたが彼の警戒感は消えていた。おかしいと思うほど一気に仲良し気分になり、土手に私が一層肘ついて寝そべると何と彼も同じような姿になって、両手を前にして腹ばいとなってじいっとこちらを見据えているのだ。
 堅いカステラも、少しは食ったようだが一気に食わずにそこに腹ばいのままのキタキツネ。この時ふと思いついて、ポンタ君という名前を付けた。
「おい、ポンタ食べな。もっとあるぞ。昆布センベイもあるぞ」
と私は、前々日に大間港の店で買った昆布センベイを思い出した。「そら、うまいぞ」と言ってセンベイを放ったら、「コリャーナンダ」とばかり、ポンタは左右に小首を傾けて考え込んでいたが、ほどなくしてくわえてみて、これはいけそうだと食い始めた。それほど腹を減らしてはいないようだし、警戒感もほとぼり冷めて旧知の友のようになったポンタ君。だが、それは野性の機敏さで、直前での写真撮りには敏感に反応する。カメラは好きではないようだ。どれほど過ぎたであろうか、時の経つのも忘れて対面していたが、ポンタの方から帰り姿となって、無言の空間で私のすぐ右側をなぞるようにして通りかかったその時である。
「アンタモ、カエルガヨイ。ハヨウイキナハレ…」
と、どこからともなく思念が渦を巻く。このとき時計は四時四四分を指していた。そのまま国道に出たポンタ君は、無言でこちらを振り向いてから再び国道を横切って向かいの路肩からこちらをじいっと見ているのだ。
 私は遅れて国道を右折してポンタ君のいる車線に出てから手を振りつつそのまま北上を始めた。バックミラーにはポンタ君の姿が残っている。直線道の中で、いつまでも動かず見続けるポンタ君の姿を見届けていたが、やがてその姿はミラーの中から消えていた。
 その後すぐに現れた二一〇キロの標識。国道二三八号線は、起点の網走からここまで二一〇キロメートル地点ということである。さらに浜頓別町二二キロの標識が現れ、次に宗谷岬二二キロの標識が現れた。いよいよ最北端に到達したのであり、海の向こうには、ロシア領土のサハリンが霞の中にある。
 家を出て車中泊も三一日を迎えたが、その夜は、日本最北端の民宿柏屋で、くの字の車中から開放されて初の布団で休むことにした。
 ところが、部屋のストーブをみてハッとした。ストーブにはナンバー二〇一と記されてあるのだ。この部屋は二〇一号室ということである。あれっと、思念は次々と立て板に流れ出した。母と妻と私が、数珠となって勢揃いを始めていたことに気づいた。
旅の出発日が四月二一日
今日は五月二一日
ポンタ君との別れが四時四四分(和数=一二=二一)
ポンタ君の姿が消えた時二一〇キロの標識
部屋とストーブのナンバーが二〇一号

 これらの数霊のひびきは、母の命数=命日の二一日に共振・共鳴する。そしてこの国道は二三八号線で、妻は富美子で八日生まれの命数を持つ。それを数霊に置き換えてみれば、フミコ=二三コ・八日生まれであるから、二三八号線を走ることにはそれなりのひびきの向き合わせがあったといっても、決してそれほどの横車ではないと思う。また、立て続けに現れた浜頓別へ二二キロメートル、宗谷岬へ二二キロメートルという標識との出会い、さらに、宗谷岬到着が六時二二分なのである。私の命数の二二日生まれと共振するではないか。さらにあの止み難き眠気は神威岬という神の力、神の威力の場所と同期する。これはただならぬことである。それは、キタキツネのポンタ君との出会いに向けた、あるご意志の時間調整と思えてならない。数分・数秒の誤差で、その出会いはなかったことを考えるならば、出会いの運びはただごとならぬ「あるご意志」であればこそなのだと、私には心底ひびいてくる。
 時間も空間もない霊魂の世界では、昨日のことでも、古い億万年前のことでも、一面一体の今ここの世界なのであって、時空を越えて今ここにあるのが心の世界であり、霊魂の世界であると思っている。言わんや、この身この命は、霊体、霊光の身にほかならないではないか。
 さて、車のくの身から開放されて、布団の中で真一文字で休ませてもらう喜びが湧いてきて、人の真心が沁みてくる。夕食は久々の手料理。ところが、何と私はついに皿の数まで数えているではないか。ごちそうの皿が一〇皿、ご飯と汁が二皿、合わせて一二皿となるから、一二の表裏一二=二一に置き換えるならこれまた、ここにまでも魂の働きがあるのかと真に迫ってくる。
 旅をしていても、妻や、母や、祖先や、多くの縁者たちの思いによって守られている実在感にひたることができる。それは、元の元を辿ればいのちの光(天の気と地の気=食)にたどり着く共振共鳴共時の現象世界ということになるであろう。
 厳然として実在する魂の意志性がここにある。その表現手段は、文字的・数的・色彩的に溶け込んで、その光の波動がオーラとなって守り続けているのである。見えざる時計の中にこそ、その真実の姿が、その真のいのちの働きがあるごとくに…。