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神秘の大樹だいじゅシリーズ第一巻
神秘の大樹
  偶然が消える時

神秘の大樹シリーズ第一巻「偶然が消える時」装丁

 

 

 

絵皿のサギが飛んで来た

 

 今や、遺伝子科学は、人間の全遺伝子を解読したというからその功罪は別にしても人間の頭脳の凄さをみせつけられる。

 この人間の遺伝子は、その数約二万ともいう。ところが、数だけでいえば、マウスでも約三万近いともいうし、昆虫の中には、一万数千もあるものもいるという。また、植物では、三万台に迫るものさえあるというからいよいよ人間との違いに大差がないことに驚かされる。

 ましてや、身近な犬・猫・豚・牛などはヒトとたいして変わらないというし、チンパンジーになると、ヒトと見分けがつかない程だというから、生命体として生きていくからには、その生きていくうえでの必要な情報とか、その生物の生体をつくる為の情報においては、他の生物と大差の無いことが分かってきた。

 だとしたら、他の生物との違いは、それぞれの特性にあるのではないのか。それらの持つ生物独自の特性の違い位の差に他ならないではないか。

 我々は腹から糸を引き出してクモの巣はつくれないし、蜂のように、あの口先でつくる正六角形の住宅はまねもできない。猛禽類の鋭い目には及ぶべくも無いし、チーターと競争せずとも勝負は決まっている。ゴリラの腕力にどうして太刀打ちできるものか!

 また、狼や犬等の嗅覚に及ぶ人間は皆無というものだ。聴力にしてもそうだし、何一つ取り出しても人間は見劣りするものばかりで突出した人間の特性といえば、口八丁手八丁で、物をつくり出す創造性を発揮させることが、他の生物の及ばぬ唯一の特性といえる。

 この世に生存するバクテリアから全てにかけての生物たちが、ヒトと大差の無い遺伝子の持ち主と思う時、そこに何か新たな共存の道がありそうだと考えてしまう。

 突き詰めて考えれば、遺伝子、遺伝子といっていても、細菌やウイルスという単細胞の遺伝子こそ我らの遺伝子の祖先といえるだろうし、また、ウイルスといえども物質であるからにはそれは分子であり、原子であり、その先の素粒子という物質性まで飛び込んでみたい思いに立たされる。そこまで限りなきミクロの宇宙が開けてしまうのだ。

 今度、それをそっくり逆流させれば、現実のこの地上に飛び出して宇宙へ宇宙へとマクロの宇宙に引き込まれて行く。マクロもミクロもともにたぐれば、それは無限の世界の話となる。

 ここでミクロをさかのぼれば、細胞の中の遺伝子も、つまりは分子であり、分子は原子(元素)という物質(私はこれを心性物質または物心両性の原子・元素と思っている)の組み合わせであるし、つまり我々が生きるためには、この物質(心性物質)を他の生物と等しく食物から摂取していることが大前提となる。

 遺伝子のルーツを原子次元(食物)におくことを考えてみると、我々のこの命の細胞には、ウイルスやバクテリア・草木にもまた、いかなる生物にも連なる遺伝子の世界があると思っていいだろう。だから人間は多くの感性を知性の犠牲にして進化させた一面もある訳で、心を澄ませば他の生き物の特性とされることさえも、そのスイッチをオンにすることだって可能になるというものではないか。

 人間がとくに優れているというのではなく、知性と創造力を専売特許にもつ生物であって、その為に見失ったことも数多くあるはずだ。それらの退化能力を復活させようとしたならそれはできる訳で、それにはさまざまな手法(心的、肉体的環境の変化など)があるのだが、それはさておいて、とにかく我々の遺伝子のルーツをさかのぼることも可能だと考えてもいいではないか。

 遺伝子の蘇生とでもいうか、あるいは原子次元(食心次元)とでもいえる次元で、希有な感性を燃やすこともできるのではないか。

 そのことは、食の次元での心の共振共鳴とでもいったらいいのかもしれない。

 食の世界、すなわち食のもつ原子次元の世界には、人類以前のひびきと心の接点が内在すると考えられるものだ。この次元世界こそ共時性現象「共振・共鳴・共時の世界」の発信点と考えている。俗にいう偶然の一致という現象の発生点は、原子(元素)の世界、すなわち、食の世界にあると考えている。

 人間の体は、原子(心性物質)の集合体である細胞の芸術作品であり、その数なんと六〇兆とも、一〇〇兆ともいう膨大な細胞が役割分担してできているから、全身で心のひびきを発信し、また、受信を繰り返し、さらにそれを脳で管理統御して素早く判断して命を漲らせることになる。食こそ命の原動力なのである。

 ここまでいうと、唐突で奇想天外と思うかもしれないが、決して思うほどに無意味で野暮なことではないはずだ。これらを踏まえて、次の事例を当てはめてみるとき偶然ではないことを感ずるのではないか。それは平成元年(一九八九年)三月三日のこと、山形市内のホテルで開催された作陶展の話である。

 無形文化財認定の、第一三代横石臥牛氏の作陶展があるということで、この日妻が、急きょ先生に会いたいと言い出し、車で二時間半の会場へと急いだ。

 いつものことだが、出かけるときはそれとなく着替えに慌ただしい雰囲気を感ずることが多い。この日妻が身につけた上着は純白の物で、かなり以前のことだがバーゲンセールで買ったものだという。ズボンは一段グレーがかった白色系で、靴は身軽なスニーカーという、まだ三月に入ったばかりで寒気の名残りが沁みる頃での軽装で出かけている。

 会場に入ってからいの一番で目に飛び込んで来たのはサギの絵柄の皿と鉢であり、妻はそこに釘付けになった。感動無心で近づき見入る妻の後ろに居た私に、ふとよぎるものがあった。陶器のサギの絵姿と、妻の見入る姿が烈しくオーバーラップしたのである。

 言い方を変えれば、妻はサギ姿になって会いに来ていたのであった。逆の言い方なら、絵皿のサギが飛んで来たことになる。現実はそればかりではなかった。どこから引き出して来たのかこれまでに見たこともなかったハンカチ、それも紺碧の布地にススキの図柄が入っていて、それがまたススキ絵柄の皿とマッチしていたのだ。

 陳列陶器の中にあって「サギの絵」と「ススキの絵」の作品が目を見張るばかりにその数が多く出ていたのである。

 妻は自分の衣服と手にしたハンカチが共振共鳴していることで、今ここに呼び寄せた光の筋を実感し、その意志性に頭の下がる思いになっていた。

 こうした共時性現象では、その現れ方のカテゴリーとして、文字的・数的・色的の三態から、ここでは「文字性と色彩性」の共振共鳴であるということができる。

 ここ山形市は、私の家からだと距離にして約一一〇キロもある。なのに、俗に透視的現象は一見魂の世界であり、魂の世界は心的物質の原子(元素)の世界であり、いわば、生きるための食物摂取の世界であり、そこは言葉を持つ魂の世界だということが理解可能だ。

 食物元素(原子)の世界、魂の世界の流れには、偶然は無く、ひたすらに起こるべくして起こり、あるべきしてある当然の世界だと思っている。

 皿絵のサギと鉢のススキが時空を超えて飛んで来たのであった。

 

 

 

 

 

 

ハッピが仏の水を飲む時 —— 数字は宇宙の共通語か?

 

 旧知の奥さんが訪ねてきたのは三月二一日のこと、ちょうど彼岸の時期であった。この日の話で大変興味深かったのは飼い猫のことであった。実に奇妙な行動をとるこの猫は、仏壇に登り上がって仏様の水を飲むというのだ。

 餌もふんだんに与えられているし、水もちゃんと置かれてあるというのに、どうしてなのか。それをよそ目にしてこの子猫は、自分の何倍も高い仏壇の供物棚に飛び上がって仏の水を飲んでいるというのだ。どう考えても不思議な話であるし、猫はネコでも猫ばなれしているネコとしか考えられないのだった。

 私はその子猫を一目見たくなり、写真に残したいとも思い、奥さんの家にお邪魔することにした。その子猫の名は「ハッピー」という。

 ハッピーと会ってみるなり身の引き締まる思いになった。そこかしこにいるネコ一派とは一線を画している感じであった。実に毅然として立派で、猫の品格さえ伝わって来るではないか。

 目鼻顔立ち容姿全般にわたり、雨上がりの風景のように、チリ一つ無くすっきり澄みわたり凛として鮮やかなのだ。立派な白・黒・茶の三毛猫であった。奥様の話では「小さいときは本当に絵の中から飛び出して来たような感じでした」という。

 虎の縞模様をしたこの猫が、この家に飼われることになった経緯を聞かされてさらなる深いものを感じざるを得なかった。

 ハッピーがこの家の一員になる一年前まで、一匹の飼い猫がいたのである。その猫の名は「チャコ」といい、やはりハッピーと同じ虎の縞模様をした三毛猫だったという。そのチャコは、ある日、行商準備のため外に出た奥さんの後ろについて外に出たのであった。奥さんは準備に忙しかったので、外に出たチャコのことはとんと忘れていたが、準備が終わってふとチャコのことが心に浮かんだ時、近くにいたはずのチャコが道路の中央で異様な仕草をしていたからおどろいた。体を立ててねじれるようにしながら声も出さずにもがいていたのだ。

 あれっ? どうも様子がおかしいと気づいたとき、「あっ! 自動車にひかれたんだ」と直感した。鼻と目から出血をしてもがき苦しんでいたのであった。奥さんは、それを前にして何の介抱もままならずチャコは間もなくこと切れてしまった。昭和六二年(一九八七年)一〇月二三日のことであった。

 こんなことがあってからはや一年も過ぎようとしていたその日、毎朝の日課である商売の準備をするために駐車場まで行った時のことであった。外は降り止まぬ雨の中、車の下に目をやると、そこには両手に隠れてしまいそうな幼い猫の子がうずくまっていたのであった。脱水状態になり、息もたえだえの姿で横たわっていたのを見たとき奥さんは、とるものもとりあえずにすぐ獣医に連れて行くことを思いついたのである。

 人によっては捨て猫の煩わしさが頭をよぎるものだが、奥さんはやさしく心をかけてやったのである。獣医でさえも、

「奥さん、高い金を出してまで助けようとするのかい?」

と言ったくらいの状況であったというのだ。ところが奥さんはそれでもお願いをし、元気になることを祈り、処置を施してもらったのであった。

 その甲斐あって九死に一生を得て命拾いをした子猫は、今ではこの家の一員となって可愛がられているのだ。この命拾いの日は、「昭和六三年(一九八八年)一〇月二三日」のこと、この日は、前の飼い猫チャコが事故で亡くなった一〇月二三日と同じ日なのであった。ちょうど一周忌である。

 亡くなったチャコも三毛猫の虎模様。新しく一員となったハッピーもまた、三毛猫の虎模様。虎模様のチャコは千里いって還って来たのかもしれないし、さらに、ハッピーが仏の水を飲むようになったのはそれから間もない年の暮れであったという。

 この奇妙さは何と見ればよいのか。そこには、あって然るべき何かがあると思っても不自然ではない深いものを感ずるのだ。

 さて、チャコからハッピーへと結ばれた猫と人間の世界。チャコが昭和六二年一〇月二三日に亡くなり、ハッピーが昭和六三年一〇月二三日に命拾いの助けを受けてこの家の一員となる。そしてこのハッピーが仏の水を飲むようになったという。

 それから一三年後の平成一三年(二〇〇一年)七月二四日、この家の次女に長男が誕生したのである。ところが何がどうしたのかこの日を境にして、仏の水を飲むハッピーが姿を消してしまったという。

 行方知れずとなって心痛めていた一週間後のこと、家のダンボール箱の側に、静かに横たわっているハッピーの姿があった。よれよれに衰弱しきった姿で家にたどり着いたのであろう。そしてハッピーは、そのまま静かにこの世の生を閉じたのである。

 この一件の流れにどんな因果があるかは分からぬものの、一つ考え方を変えるなら、この家に初孫が誕生したその日、ハッピーからしてみれば、おそらく人間ならば、その寵愛の流れを感じても不思議ではないし、猫にしても、その気配りの神意がなかったとは言い切れない。

 天地万物この世の存在の中心を流れるいのちの光は、人も猫も何ら不変同一というものであろう。遺伝子科学の進んだ現在では、人も猫も遺伝子の数に大差なき近似であることが解読されていることを思えばなおさらのことである。

 

チャコの死が

昭和六二年一〇月二三日

ハッピーの出現が

昭和六三年一〇月二三日

仏の水を飲むハッピー

初孫誕生の日ハッピーが家を出た

一週間後家に戻りて

この世の生を閉じたハッピー

 

 これらを単純に偶然の一致というのは簡単なことだが、その流れには凄い厳粛世界を感じてならないのである。

 共振共鳴共時の世界(シンクロニシティー)は、その現れ方とし「文字的・数的・色彩的」の三大エネルギーが働いているものだが、そのエネルギーそのものはまさしく「意志性のエネルギー」にほかならないと考えている。そのことは、「意志を帯びたひびき」ととらえてもいいだろうし、共時性現象に出てくる文字・数・色を端的に言えば、心そのもの、魂そのものだといってもよいのではないだろうか。

 まあこの世界は夢の如しであって、実に多様性に富んでいて、「三大エネルギー(文字・数・色)」に対する意味付けは、それぞれの状況判断から求められることが妥当だと思うのである。そしてとくに数字の持つ意志性は、天地一切に通じる「共通語のひびき」を持つと言えるのではないか。今回のチャコとハッピーの共振性からしてもそう思えてくる。そして、仏の水を飲むハッピーの奇行。さらに、初孫誕生とハッピーの家出とその死。

 これらの事柄からは、「数字の持つ意志性」と、数字の持つ万物共通性」に今後のキーワード(謎解き)が秘められているということが発信されているようだ。この世は数を軸にして回っている世界なのかもしれない。

 さらにこの話に一つ付け加えれば、この原稿を起こし始めたのは平成二〇年(二〇〇八年)三月一八日のことであり、ちなみに、ハッピーのひびきを数に転換すると「八…一…(=一八)」となるではないか。ましてや、二〇年後の「三月一八日」(一八=ハッピー)に起稿したのも、意志性のひびきの妙を得た共振・共鳴の現象ということになる。

 この家の、このハッピーの意志性とはまさしく〝ハッピー〟そのものであり、尊い幸せのひびきであることに相違ない。

 

 

 

 

 

 

海鳴りは天のひびき

 

 人は皆それぞれにして一心に生きている。そして、一心の心は万人同じものではないが、心には似たような色合いというものがあって、気が合うとか合わないとか、相性がいいとか悪いとか、と社会の中でも、さては親子家族の中でも、すっきりいく人やそうでない人達と千差万別で賑やかなものだ。

 人間関係みな思うようにはならないものだし、さらに、歳月人を待たずとか、光陰矢の如しとも言って、あっという間に六、七〇年が過ぎてしまう。全くままならないこの人生というものである。

 

のこぎりの

歯にも似たりし人生は

山あり谷あり感動あり

押しては引いて

引いては押して

切り拓く

 

 ある日、ノコギリの歯を見た時そんなことを思ったのだが、人生なかなか理想通りには動いてはくれない。そこがまた変化に富んで、さらに人それぞれの運勢があって、広がりと深みがあって、めったなことでは退屈をする暇がないようだ。

 平成元年(一九八九年)五月八日から九日にかけてであるが、我々のいのちの中には、自分と一線を画する考えられないような思いのエネルギーが燃えたぎっていることを実感することになった。それは、旅に出て一八日目のことであった。

 私は、何かに押し出されるようにして目的もなく旅に出たのであるが、その途中、物の本で知った、東京都郊外の井の頭地域にある玉光神社を訪ねてみた。

 この日はちょうど例大祭があった日で、その帰りの際、皆さんにお祝いの紅白マンジュウを配られていたのであるが、そんなこととも知らずに、訳もなく訪ねた私までも紅白マンジュウを頂戴したのである。それも、神社の母堂から、三回も声をかけられて六個もいただくことになった。

 大感激しながらここを出た私は井の頭公園の林の中で、その思いの記録をとっていたときのことであった。得も知れぬ心の高まりが起きてきた。止めどもなく盛り上がる不思議な恍惚感が全身を包みはじめた、とその時、奥底から訳も無く湧き上がる烈しい思い…。海岸へ行きたい…海岸へ行きたい…と狭い車の中で体がゴムまりのように弾む感じになりながらそう思った。そして尋常ならざる引き寄せる力は急に具体化した。「そうだ…房総へ行こう」と即座に思った。

 心決まれば行動は早い。都内は渋滞続きで、抜け出すまで三時間もかけてやっと通過することができた。そんな混雑の中でも海へと誘う魂の押し寄せる波は尽きなかった。

 房総は館山市の海岸にたどり着いたのは、夜のとばりも降りて潮騒の音と静寂感に包まれた別天地の海岸であった。道中では、あの紅白マンジュウのお陰で外食もせずうれしい腹ごしらえとなったのである。その夜は近くの路上で車中泊となる。

 旅の車中泊一八日ともなれば、そのリズムにもおおかた慣れているし、洗面のこともあるから、主に公共施設の近くがなにかと具合がよろしい。その夜は、城山公園近くの路上で朝を迎えた。早速公園に移動して洗面とトレーニングを済ますと、目の前には里見城が端然とそのたたずまいを現していた。

 だが、ここからは通行止めである。徒歩で一五分くらいであったが、近くまで来てからどうしても拝観の気乗りがしなかったのである。心の足踏みのまま、城の見学は中止して先へ進むことを考えた。あの都心で誘われた海への誘因のエネルギーとはどこかが違っていると思ったから、その思いのまま下山をはじめて路上に出た。

 ものの四〇〇~五〇〇メートルも走ったであろうか、何げなく計器盤に目をやると消えているはずの赤ランプが点灯していたから気になった。半ドアの警告灯である。バックミラーに目をやって驚いた。すぐに車を寄せて停車してみると、右後部ドアが、半ドアならいざ知らず、ラッセル車が羽根をひろげたあの全開ぶりを見て唖然とした。さいわいにも中の物は飛びだしていなかったが対向車のことを思うと命拾いをしたも同然であった。

 こんなことは、運転歴数十年の中でただの一度もないことで、これはただならぬ何らかの示唆ではないかと直感した。

 このことで一気に後ろ髪を引かれる思いになったのはどうしたというのか。ここまで来ていて、里見城見学を安易に中止したことに何か不始末でもあったのかとも思い、あれほど強烈な海への誘因エネルギーを思う時、ここは房総海岸の一角でもあるから思いを直して城に戻ることにした。

 坂を登り始めて今度は山中から猫か何かの鳴き声がはじまった。ギャアーオ…ギャアーオ…と聞いたこともない凄い鳴き声は、声のする方に近づくほどに迫力に充ちた鳴き声となった。何とそこは孔雀園なのであった。

 市営の飼育所には一〇〇羽近く飼われていたが全て金網の中にいた。どうしたことか一羽だけが庭先に開放されていてこちらにトコトコ近づいて来たのだ。そればかりか尾羽根をブルブル震わせながらみるみる全開スタイルになったばかりか、体を回転して円舞が始まったのだ。首の色は鮮やかな瑠璃色に輝いていた。

 ここでハッと気づいたことは、私達は以前旅館をやっていたが、宿の名前はルリ荘といい、現在は住宅にしているが、看板は外さずにそのまま残っている。瑠璃色のクジャクとルリ荘という旅館名を並べてみれば、瑠璃色には共振共鳴するものの、東京都心から千葉県の南端まで引き寄せたあの強烈なエネルギーにしては今一つその結びに手が届かないのだ。が、見方を変えれば、この一羽のクジャクこそが何らかの意志性をもつメッセンジャー(使者)なのかもしれない。

 金網の集団ではない開放された庭先の一羽だからこそ、特別な思いに結び付く。ましてや尾羽根を全開して円舞してみせるあたりは歓迎の姿に見えて来るではないか。

 それにしても、前代未聞のドアを全開させて走らされたうえ、後ろ髪を引かれ、その上すさまじい鳴き声で引き寄せられたことは、どうしてもそこにある意志性を感じざるを得ないのだ。「尾羽根の全開」と「ドアの全開」には、強烈な共振共鳴のエネルギーが見えてくるのだ。さらに言えば、ドアの全開と、何気なく計器盤に視線を注がせたのは、自分の中で、全てを見通している魂の導きであったように私には思えてならない。

 肉体を、また物質を、また存在全てをたんに物質とは見ずに心性物質とも物心両性とも信じている私から見れば、尾羽根の全開もドアの全開も何らかのメッセージと解するほかはない。

 さて、しばしの時を過ごした後、クジャクとも別れを告げて山を下り、房総西南端の白浜海岸へと車を進めて行く。走っているこの国道は四一〇号線、初めての道路はなぜか凄く新鮮に感じてうきうきするものだ。旅が好きであるからそう感ずるのであろうか。やがて白浜海岸に到着したのは一時を回ったころであった。

 砂浜の近くに車を停めて、休む間も惜しんで海辺に歩いて行ったら一人の海女さんが岩場にどっかと腰を下ろし、背中一杯のカゴの上にはさらに、網ぶくろに詰め込んだ天草が積み上げられていた。

 ウエットスーツに身を包んだ海女さんをこの目でじかに見るのは初めてのことで、私は訳も無くうれしさで一杯になった。

 海水にたっぷりと浸っていた天草の重みはこちらにも伝わってくる。まだうら若さを残す海女さんは、両足を砂地に八文字に伸ばして一時の骨休めの時であった。控えめに私は「こんにちは…」と会釈をすると、疲れも見せずに屈託のない笑顔でかえしてくれた。「私、山形から来たんです」と自己紹介すると海女さんは「あら、私のお婆ちゃんの実家の嫁が山形の東根からきているの。天童の飛行場のある隣の町なんだよ」

と、山形の者に説明するにしてはずいぶん詳しく親切である。さらに続けて

「山形に行って来たばかりだよ。サクランボはこれからだし、リンゴなんかも送ってくれるんですよ」と、太く男のような声で話してくれた。

 東京都心から引き寄せられた縁のエネルギーは、どうもこの辺りから発していたのではなかったのか。

 里見城のクジャクとの出会いも霊的で神秘に充ちていたが、房総南端の浜辺で、山形人に急接近する出会いは、わざわざ探し求めて歩いてもそうやすやすうまくはいかないものだ。

 万人はこれを偶然の話として表面的出会いと思うだろうが、これは大変なことであって、そこには意志性のセンサーが働いていたのだ。さらに、海女さんとの話はつづいた。海女さんは海辺の方を見ながら、歩いて来た一人の男に顔を向けて言った。

「あの人なんか財閥なのに採っているんだよ」

と、採ったばかりの天草を背負った男のことを私に話すのであった。少々皮肉っぽく楽しそうにして話をする姿は天真爛漫そのものであって気分がよい。言われた男もけたけた喜んで一段と親密の眼差しで会釈していた。海は凪ぎ天も晴れて、心を裸にした人々を見て爽やかな感動を受けた。他人を排することもなく、生きることに何ら一片の疑問もなく、懸命に働く人々を見た。

 ここは太平洋だ。二〇~三〇センチの干満しか知らない日本海育ちの者にしてみれば、二メートル近くも引き潮になる現場は別天地である。次第に黒々とした岩場が顔を出して行くその引き潮のいざないで、飄々と踊るようにして海に出て行く海女さん達の姿に人の生きる原点をみた。天草採りのカゴと桶を背にして今日の糧を得る。一息ついた海女さんは、うっ、と低く声を上げて立ち上がり、せっせと歩きだした。歩きながら話は続いた。そして視線を前方に向けて言い出した。

「あの人たち四輪駆動だばいいのにぬかっちゃって。あっはっはぁー」

と笑う。こっちもつられて笑ってしまう。先方では、どこぞの若者たちが砂丘にぬかって砂地獄の脱出に悪戦苦闘中であったのだ。

 全く罪も無くありのままで生きるたくましい海女さんは、背中の重みを忘れた人のようにして軽々しく歩くのであった。そればかりかまた一言付け加えた。

「バンゲ(夜)までああやっていればいいんだ」

と、男のようなダミ声で冗談一杯で笑顔をつくる海女さんには、心の汚れもなく、海風にも似て爽やかで、そんなことを言いながらも心底ではその場の判断で、荷を降ろしてでも力を貸す心の意気が伝わって来る。

 やがて私は白浜海岸の出会いにもさよならを告げたのである。天地と一体、自然と一体の世界に縁となり、心に海鳴りをひびかせながら、時空を超えた生命界の神秘の扉を今一つ開いた思いになる。

 この世に偶然は無し。

 この白浜海岸は歌人・若山牧水の愛したところであり、有志たちにより、その歌碑が建てられていた。

 

〝白鳥はかなしからずや空の青 海の青にも染まずただよふ〟

 

 天地自然の流れを汲む私たちの心も、白鳥のように、また海女さんのように悠々自適に生きたいものだ。

 

 

 

 

 

 

光町の鳥と銚子の鳥

 

 かなり以前から時々妻に聞かされていた神の絵図面という言葉があるが、なかなか理解しがたいことであった。

 ところが考え方によっては、物をつくるにはまず設計図があるように、この世の流れにもまた、それぞれの人生にも、その人に添った心の図面といえるほどの設計図がそれとなく見えてくる思いになる。それも、人の心というカンバス(画布)に絵を描くようにして、その人の心に添った歩みの道を照らしてくれている設計図のようなものが現実的には存在すると思えてくるから実に不思議だ。

 ふだん当たり前に使う言葉で、「たまたま」とか、「ふと」という現象を「偶然」と表現するものだが、予期せずに出会ったときなどに便法的に使うのが「偶然」という言葉であろう。

 一方、我々の人生は、神の絵図面を歩いているのだという視点で考えてみれば、たまたまとか、ふととか予期せぬことだったとかということにはならないのではないか。

 それは、各人の心のカンバス(画布)には、その心に添った神の絵図面があって、その人は、その絵図面という設計図の上を歩んでいる中での出来事だと理解されることになる。とするならば、偶然と言っていたことは当然の図面通りということにもなる。そのことは、心変われば設計図も変わってくることにも通じてくる。

 どうも我々が考えているよりも先々へ進んでいる世界が、この自分といういのちの中に存在するようだ。いわば、その人の心に基づいた人生設計図を作成するお方がこの自分の中におられるということが、いろいろ体験することでその現実感が色濃く高まってくるのだ。

 設計者は、時空を越えたところで、実に客観的に心を見抜いて図面を引いているようだが、設計するための一大ヒントといえば、それは何を隠そう自分の中の心の蓄積にほかならない。心こそ人生のアイディアマンであろう。

 蓄積された心の情報を細大漏らさず網羅しているのが、潜在意識とも、霊魂とも、深層意識などともいうようだが、それらの心の情報は、さらに、この生命体を存在させている生命情報とともに記憶装置にインプットされているのであり、ここでの設計作業こそ私達の運勢、運命、宿命、幸不幸、その他人生で起こるあらゆることへの影響力は甚大なものだ。だから、我々の心の倉にどんな情報がどれだけあるかで、この世での進路に大きく左右することになるから、ふだんの心を内省して見ることの大切さを知らされる。

 さてここから旅の続きを走ってみることにする。平成元年(一九八九年)五月一〇日、千葉県の九十九里浜海岸での車中泊から一夜あけて一路銚子へと向けて走行していると、一瞬目を引く標識があった。光町という文字なのだが、これにはちょっと気分をよくしながら走った。まもなく信号停止となり待っていると、対向車線にも一台の小型トラックが進入してきて停止線の五~六メートル手前で静かに停まったかと思うと、運転手の男性はドアを開いて降りたのであるが、車の後ろ近くに落ちていた小さな物を拾い上げると、おもむろに草地に置いたのである。石などであれば投げ捨てるであろうが、その仕草から鳥などの生き物であると感じた。

 それが気になり、私も青信号を待ってそこに直行してみたらやはり小鳥であった。車に戻って出発しようとしていた運転手に私は声をかけた。

「少し愛情をかけてみようかと思って…」

と、心にもない偉そうなことを言ってしまった。彼は無言でそこを去った。私が瀕死の鳥を両手で包むようにして、元気になれよ、と見つめていたところに

「猫にでも食われるかと思って…」

と言いながら彼が戻って来たのである。

 どうした訳か二人の男は、小鳥を前にして不器用ながらも一心なのであった。私は手をかざして小鳥の全身に命の光を送っている感覚になっていた。とその時、小鳥はわずかに動いたかと思ったら、素早く飛び立ち空を切って低空のまま人家の軒先に消えたのである。この時彼は「光が当たったんだなぁ」と安堵の思いを浮かべながらつぶやいた。互いにニッコリしながら何かふっきれたように、よかったよかったと言い合ってその場を別れたのであるが、私にはいいしれない心残りがあった。彼を写真に残したい、だがフィルムがないのだ。

〝光町に光の真心を見せてくれた男がいる〟

と思うとたまらなかったのである。朝八時過ぎ、交通量が少ないから急いでフィルム探しに走り回ってようやく求めることができたが、今度は彼を探さねばならない。

 地元風の方であったからどこかにいるのではないかと探していると、遠くからスピーカーの声が聞こえてくる。

「古新聞…古雑誌はございませんか…。ありましたらチリ紙交換です…チリ紙交換です」

と呼びかけていたのだ。やはり彼であった。すぐ駆け寄って

「すみません…戻って来ました。写真を撮らせて下さい、お願いします」

と頼むと彼はスピーカーを止めて

「こんな人もいたっとなぁ…」

というのであった。

「そうです、そうです」

と、私はいささか興奮気味で、めったなことでこういう方とはご縁になれないものと思い、仕事の迷惑も考えずに写真を写してから

「旦那さん…旦那さん、お名前を…」

とせかせかと聞くと「安藤」と一言言ってニコリと笑った。気をよくした私は「私、山形なんです」と、聞かれもしないのに勝手に言った。

 国道は次第に交通量も増えてきた。これ以上は邪魔になるからと再び別れたのであるが心はまだ別れていなかった。住所を聞くことを忘れたと思いきや再び彼を探しに走ったが彼の仕事柄すぐに会うことができた。追いすがるように私は

「安藤さん…写真を送るから住所を教えてくれませんか」

と尋ねて再びスピーカーを止めさせたのである。

「そんなのいらんよ。こんな人もおったけな…とそれでいいんだろ」

と、今度ばかりは語気が強くなり一瞬憮然となった。迷惑千万で営業妨害になっていた。ここでどうやら私も心にブレーキをかけて「すみませんでした。どうもありがとう」と言うと彼は

「気を付けて行って下さい」と、逆に後ろから声をかけてきてくれたのである。本当に心の澄んだ方だと思うと自分のおぞましさを悔やんだ。

 光町に光の真心と出会い、傷ついた鳥(ツバメ)の一命に光が通ったという印象深い思いを胸にして、私は一路銚子へと車を進めたのである。

 そして、この光町の前後には、得も知れぬ神の絵図面(縁の糸)が流れていることに気づくのである。

 一昨日、東京の玉光神社を出た直後、矢も楯もたまらずに、海へ海へという誘う波動に激震のごとくせきたてられて房総海岸に直行した。昨日は館山で、後方ドアを全開して走るというアクシデントが発生し、それが縁で、大鳥のクジャクと出会い、また、白浜海岸では、天草採りの海女さんと出会い、それも山形とは深いご縁のお方と知り、さらに、今日はこうして九十九里浜の光町で瀕死の鳥と安藤さんに出会い、そしてこの日、銚子の地球展望館に到着してみれば、こともあろうか、館内の廊下には名画『鳥の死をいたむ少女』という絵画と出会うことになったのであった。

『鳥の死をいたむ少女』を描いた作者は、フランスの画家、ジャン=バティスト・グルーズであり、一七二五年八月二一日生まれで一八〇五年三月四日死亡、八一歳というのである。東京からやみくもに、はるか遠い房総の海岸に導かれてくる中で、

 

大鳥(クジャク)と出会い

天草とりの海女さんと出会い

小鳥(ツバメ)と安藤さんと出会い

鳥と少女の絵画と出会う

 

という一連の流れは、妻の言っていた神の絵図面を歩いているということなのかもしれない。そして、魂不滅の謎はこのあたりにあるのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

無名酔人の祝い酒

 

 無断放浪の旅に出て二五日目のことであった。格好よくいえば、オートセンサーの旅であり、共振共鳴のひびきに身を任せての旅といったらよいかもしれない。

 車中泊と粗食に慣れての一人旅。生まれるも一人、死ぬも一人であれば、いわば一人旅は命にかなった旅の原風景なのかもしれない。

 魂の光を発しながら、あちらの光、こちらの光を求めてひびき合いながら、また蛍火にも似て波打ちながら、「縁の光」を求めて旅は続くのである。

 この日は、新緑映えわたる五月一五日、進路は国道四五号線、一路北上を続けていた。車が気仙沼湾に差しかかった頃、潮吹き岩のある岩井崎の看板を目にして立ち寄ることにした。

 変化に富んだ海岸線はこの辺りから始まっているのであろうか、複雑に入り組んだ湾が独特の景観をつくるリアス式海岸となって、陸中海岸国立公園が続くのである。

 この日は人影もなく天は晴れて穏やかな陽気であった。紺碧の洋上を前にして一人静かな時を刻み、絶妙な心の流れとなって潤される。

 岩井崎に出てみると、ここの石灰岩化石は天然記念物に指定されており、石灰岩にうがたれた穴の空気が、打ち寄せる波の圧縮で鯨の潮吹き音にそっくりで、ときおりフゥーツと噴き上がる。名付けて潮吹き岩と命名されている。

 さらにここには、大海原を前にして太鼓腹に立派なしめ縄姿の銅像が立っていた。この地で生まれて相撲界にその名を残した第九代横綱・秀ノ山雷五郎の像である。

 横綱の像を前にしていいようのない感慨に浸っていたその時のこと、どこから現れたか、人影が近づき、いきなり後ろから声をかけられた。

「あなたどこ…あなたどこ…」

何とも唐突な話であり、あいさつも何一つもあるわけでなく、くどくど聞くから「隣の山形県」とだけ素直に答えた。するとまた「どこよ…どこよ」と詰め寄ってくるのだ。これまでの自分であれば、「どこでもいいだろう、失礼じゃないか」とやり合うところだが、そうとはならずに「庄内です…」と言うと、「庄内のどこです…どこです…鶴岡か…」と、今度は勝手なことを言い出した。さらに続けて「どこです…どこ…」と言うではないか。どうして私はこうなったのか自分でも不思議なくらい素直そのもので「酒田です」と言うと「酒田のどこ…どこ」と食い下がるのだ。

 身勝手千万で腹に据えかねるのに、なぜかこちらも凄く悠長となっている不思議さ。側におられる第九代横綱・秀ノ山関のお陰なのかもしれない。

「縁」になるからには、天は何かしらの役目を持たせたのかもしれない、とそんな思いもあって、そして「南新町です」と言うとまたまた突っ込むのだ。今度は「だれ…だれ…」と迫って来るのだ。この私の名前を聞きたいのだ。驚いたり、腹に据えかねたり、礼儀知らずの彼に嫌悪感で一杯になった。

 今度は彼から離れて無視するのだが、彼はなおも、頼みもしないのに「写真を撮ってやるよ…写してやるよ…」と言い出してついてくる。そこで問い直した。「あんたはどこですか…酒田ですか」と彼のことを聞き始めたら「東京方面」と言い出したかと思うと今度は一人言のようにして

「ヤメヨウ…ヤメヨウ…ソレハイケナイ…」

と言うのだ。何かまずいことでもあるのか自分のことは一切明かさないのだ。「まあいいよ…いいよ」と言って蓋をするのだ。

 話しかけられたときから彼が酒気を帯びていたことは分かっていたから、そろそろかまわずに帰ることにした。が、それでも寄ってきて「酒田のことは何でも知っている」と豪語するのである。さらに

「デンベェーを知っているか」

と、話がかなり具体化してきた。それは名の知れた二カ所の商店であろうと思い「知っているよ、◯◯デンベェーか」と言うと「そうだ」と言う。「親戚ですか」と聞くと「そんなもんだ」と、ポツリというが、何しろ自分のことは決して語ろうとしないのだ。その辺りにこの人の何か手掛かりがあるのかもしれないが、そんな興味は一切出てこない。

 彼は、少々よたついている足取りで、人のよさそうな笑顔で聞きもしないのに

「今夜はここに泊りです」

と言ったかと思うと、さらに続けて

「いつも…一人旅なんだ」

と、呟くように言った。

 肩にはカメラを背負い、足取りを次第に8の字にくねらせながら、やがて小路の方に音もなく消えてしまった。

 天から降ったか、地から湧いたか、六〇代の格好の白髪の老齢姿であった。定年退職者で酒好きの一人旅姿なのかもしれない。そして本当に、酒田の「◯◯デンベェー」に縁深き人かもしれない。

 この世に幸せの基準はあるだろうか。一人一人の価値観が基準であるからには、幸せと思えることでも相手にとってはそうでないかもしれない。しかし彼はきっと今最高に幸せであるように感じられた。人生を務め上げての一人旅であろうか。昼酒をたしなみ、海風に吹かれて天下晴れての幸せなのかもしれない。

 また、酒田は案外彼のふる里だったのかもしれないし、懐かしさのあまり、いろいろと聞いて心を暖め浸っていたのかもしれない。彼は幸せの真っ只中にいる感じであるし、

〝酒の精ありがたき酒なるかな〟

と思えば、彼は理屈抜きで幸せなのだ。それでいい、それでいいのだと私は思った。自分を明かしたくないならそれでいい。相手のことを掘り出したいならそれもいい。酒を飲み一人旅を楽しんでいるならそれでもいいのだ。不幸がかって愚痴愚痴しているよりは、こうして多少他人に迷惑気分をさせたとしても、彼は幸せの範囲にあるだろう。何といっても、彼を方向づけることなど不可能なことではないか。若者ならいざ知らず、人生の第一ラウンドを終了しているではないか。干渉無用の世界だ。

 かくいう自分は、酒豪人生から酒乱に至りて、さらにそれを脱して心を目覚めさせての一人旅の姿ならば、この日出会った彼は何も言うこと無しのご苦労さんである。〝我が身つねって人の痛さを知れ〟の諺通り、自分に引き返してみれば思い当たること多しで、そこにはひとりでに人の思いやりが湧くというものである。

 万人が万人、行く先は同じだ。魂の帰結は一大生命界の懐の中である。ただ行く道筋が違うだけ、彼は彼なりの行く道筋を歩いている、それだけのことである。

 ここは、岩井崎(いわいざき)。ひびきを変えれば祝い酒(いわいざけ)と、ひびかせてみれば彼は一層幸せなのだ。ましてや此処は第九代横綱・秀ノ山関の出生地だ。大地は地響き立てて祝いのシコ(四股)を踏む。

〝ドッコイショ…ドッコイショ…〟

 いわいざき(岩井崎)で祝い酒の唄声がひびきわたる。共振共鳴の酒のいのちがひびきわたる。

 

 

 

 

       

 

 

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