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神秘の大樹だいじゅシリーズ第一巻
神秘の大樹
  偶然が消える時

神秘の大樹シリーズ第一巻「偶然が消える時」装丁

 

 

 

出会いに咲いた縁の花

 

 私達の一生、生から死までを一本の糸にしてたとえることができる。糸の色をその人の心の色にたとえて、人生模様を織り成す刺繍絵と考えてみてもよい。その文様や絵柄模様をそれぞれがどのように完成させることができるかである。

 自然の中でよく見かけるクモの巣などは、一本の糸で織り成す姿の典型的なものである。クモの巣は、腹部から一本の糸を出し続けて幾何学模様のエサ場をつくる。その場所を選び、風を利用し、枝葉を利用し、最良のエサ場を見極めていのちの糸一本でつくり上げる。

 また、カイコ(蚕)などは、幼虫から成虫(カイコ蛾)に変身するために一本の糸を口から吐き出して、外界と隔絶する聖なる家(マユ=繭)をつくり、その中でサナギ(蛹)となり外界に新しく生まれ変わる。動的幼虫からさらなる動的成虫(カイコ蛾)に変身するために一度は静の世界に身を包み、一本の絹糸で織り成すカイコの世界もある。

 我々だって、一本の糸で刺繍模様をつくり上げる人生だ。人生は一本の糸で織り成す刺繍の文様のようであり、表面で見られる具象(現実)の絵柄や文様の世界ではあるが、その裏面は、表面の現実世界とは打って変わって、抽象(非現実)の世界であり、容易に明かすことのないカイコのマユの中の世界と同じであり、一本の心の色糸で織り成す人生模様は、刺繍の表と裏を見るごとく具象と抽象の世界であり、現実と非現実的な神秘世界の表裏であり、一本の心の色糸で紡ぐ人生の刺繍世界にも見えてくる。

 現実を裏返しするとそこには必ず現実の基を成す神秘の世界があるのであり、また、必ずあらねばならぬ世界であることに気づかされる。現実と非現実、具象と抽象、外界と内界それらはみな表裏一体で、離れられない不離一体の同体の世界であると考えた。

 生体は、外見は当然にして見える訳だが、それらをつくり出すその内界の臓器などの構造は見ることができない。命を形成する根幹世界はなぜか目に見せてはくれないのだ。人の運勢・運命も同じことであって、その人をその人成らしめる根幹世界は、生死一本の心の色糸で織り成されているのだが、どんな図柄ができ上がるかその運命的流れを知るには、その人の縁の流れを知ることであり、さらに、縁の流れを知るには、文字的・数的・色的ひびきの同調性に心を向けると、その縁の明かりが徐々に見えてくる現実がある。耳にしたことがあるかどうか、人生に三度のチャンスありといわれるが、その三大チャンスのことを本縁と読み替えてみると、その人にとっては大きな運勢転換ともなる内容に満ちた出会いともいえるのだ。

 その本縁までの道筋に灯る、点から点へと運ぶ縁の明かりを、役縁という具合に考えてみたらどうか。役縁から役縁へ、点から点へとそれぞれを結べば、人生の一本道ができ上がる。鉄道なら各駅停車のような感じであり、俗にいう偶然の一致などは、いわば本縁までに辿る道筋の役縁の現象にすぎないと私は考えている。

「袖振り合うも多生の縁」というように、生死一本の心の糸は、どんな色の心の糸なのかで、引き合い、反発し合いをして波を打つものだ。それらの縁が役縁なのか本縁なのかは、自分の心の反応で判断するより他はない。

 さて、風の吹くまま気の向くままの旅、それは、心のオート・ハンドル(自動操縦)の旅でもある。またそれは霊的で、より潜在意識を活性化させる一つの方法でもあろう。

 万人の心は微妙にその色合いが異なるものであり、心の色合いは一種の磁気を帯びているから、プラスとマイナスで引き合い押し合いとなる。すなわち、共振共鳴の現象をそこに見ることができる訳であり、その一例を旅の中から見てみることにする。

 家を出たのが四月二一日であるから、あれから二七日目となる五月一七日(水)のこと、いったんは奈良県の高野山まで南下したのであるが急きょ、列島の北上を続けて北海道に渡ろうと思いたった。

 ここは下北半島の大間崎であり、本州最北端の地であり、目の前には小さな弁天島があって、そこに本州最北端の灯台が見える。二メートルも引くという干潮ともなれば、歩いても渡れそうな小島である。

 大間港から室蘭までフェリーで五時間の船旅になるが、出港までの時間でいささかの食糧調達のため数軒ある商店の中の浜乃屋という店に立ち寄った。

 店の内も外も所狭しと乾物や生鮮魚介類をはじめ雑貨類から飲み物類、オモチャもあれば、観光提灯まで揃うミニデパートのようだ。やはり、大間の港から北海道に渡る人々で賑わうのであるが、昭和六三年(一九八八年)の青函トンネル開業による影響はおびただしいものがあるだろう。

 このお店の娘さんは、話を聞けば生まれも育ちもこの地であるが、高校からは静岡県に出られたという。静岡の浜松が大好きというのだが、高校は清水の商業高校ということだ。高校にしてはあまりに遠方なので私ははたと考えてしまうほどであった。浜乃屋の娘が静岡県の浜松が大好きで、高校は清水市へ学びを進めている。

 ところが、フェリーに乗り込んでから一人の青年と出会って話し込むうち頭の中はぐるぐると縁の糸で渦巻くことになった。彼は大学を卒業したばかりだが、ここ一年間就職を中止して全国を自転車によるツーリングの旅に出たのだという。

 静岡県の富士宮市出身で現在は三重県の桑名市に住んでいるという。さらにいわく、旅に出たのは四月六日でテント一式アウトドア用品を携帯して、宿泊のメインはテントだがときおりユースホステルなどを利用するというのだ。そこで最初に一泊したのが千葉県の館山だという。その夜同宿の女性と親しく話をするうちその女性は三重県の四日市市の生まれで、静岡県の富士宮市に嫁いで来たのだというのだ。彼はそれだけでも凄く親近感を感じて嬉しくなったという。ところで彼の泊まった館山には、つい先日の五月一〇日にかけて私も車中泊をしているではないか。

 そればかりか私と妻は、数カ月前にテレビで知った一人の写真家、伊志井桃雲氏を訪ねている。そこは富士宮市なのだ。富士山オンリーの写真家・伊志井桃雲氏の情報は富士宮市在住というそれだけであったが、富士登山入り口で名高い浅間大社を参拝した折りに運よく出会ったS氏が伊志井氏をよく知っていたのである。この出会いのことを彼に話すと彼は、S氏は自分が小学生の時の先生に相違ないというのだ。とても珍しい苗字であったから印象深いとも言う。ここまで分かってくると、縁の糸がぐるぐると刺繍の文様を織り成し始めたのである。この日の数時間の中で次々と浮かび上がる縁の明かりが目に入ってくる。表面だけでは絶対に分からない縁の糸(縁エネルギー)が見え出してくるし、互いに語り合う中で縁の明かりが次第にはっきりと灯り始めていた。袖振り合うも多生の縁…とは、的を射て真実を言い伝えた言葉であり、また、命の意志性に突っ込んだ、深く畏敬にふれる世界を言い得た言葉に思えてくるのだ。

 決して目には見えないはずのいのちの裏時計ではあるが、目に見える時計の針を裏で動かす時計の仕組みは、我々の運勢運命の見える現実と、現実の基を成す見えざる世界(非現実の神秘)に通じている。

 目に見えざる神秘ではあるが、それが実際には目に見えている世界だと言えば信じてくれるだろうか。見えない世界が見えてくる現実こそ、共振共鳴共時の世界なのである。

 いのちの中を滔々と流れる縁のエネルギー(心のエネルギー)、運勢を織り成す縁の糸、泣くも笑うも陰で導く心の明かり。その心の明かりは、文字的に、数的に、色的にこの世の表舞台で見せ続けている現実がある。

 この大間崎の港を出るまでのほんの数時間の中でも、出会った方たちには、糸が互いに綾なすように、それぞれにして有縁の流れを共有していたのだ。心の裏舞台の上では、文字性のひびきに溶け込んで激しく共振・共鳴する世界を見ることができる。それは生命の根源的ひびきと言っていいだろう。そのひびきは、吸引吸着し合い、反動反発しながら、縁を結びまた離れてゆく。

 いのちの絶対調和力(中心力)と、心の色から発する波動(磁波)が織り成す心の糸の刺繍絵である人生。それは日々の暮らしの中に織り込まれている唯一の心のひびきであり、物申すいのちのひびきであり、運勢・運命を運ぶ魂の機関車なのだと表現したくもなる。

 心に刻んだ記憶や、日々思い続ける心というものは、圧積された氷山にも似て、魂となって永々に生き続けると考えられるし、その思いの世界は、文字の明かりに溶け込み、数の明かりに溶け込み、色の明かりに溶け込んでいのちの中で働いている現実を目に見せていると思っている。心(想い)は縁の原動力となるものだ。そして縁は、その人の運勢・運命の原動力となるし、この動きをこの目に見せてくれる文字や数や色のひびきが今もまた、命と共に働き続けている。

 出会った青年が青春を力強く羽ばたき日本一周の自転車の旅をする。その彼の一年間はいのちに深く刻まれて、揺るぎない輝きに満ちた尊い人生の基礎を築くものだ。出会いの縁の糸をたぐれば、思いもかけない魂の流れを垣間見ることができるのだ。

 さてこれらの話には後日談が待っていた。フェリーで出会った富士宮市出身の青年、そして、同市在住のS氏のご縁の結び合いであったが、S氏とはそれ以後も年頭のあいさつ位の交友ではあるが、その交信を長い間続けてきている。

 平成六年(一九九四年)元旦には、S氏ご夫妻、そして長男夫妻と四歳と六歳の孫一同の幸せな写真が添えられていた。ある外国での記念撮影であった。ところが、平成七年(一九九五年)一月一〇日付には寒中見舞い状となっていた。長男の妻が逝去なされた為である。平成六年一〇月八日・没。三六歳。(昭和三四年九月三日・生)とある。そこには戒名も記されていた。その後の平成一二年(二〇〇〇年)一月八日付にも再び寒中見舞い状となっていて、今度は長男が逝去なされたというのである。平成一一年四月二九日・没。四一歳。とあり、やはりそこには戒名も記されていた。

 わずか五年位の間に、四一歳と三六歳の若き長男夫妻が亡くなられたことになり、残された子供たち二人は当時五~六歳くらいであったが、今は、祖父母S氏夫妻と四人で心痛止み難きを乗り越えて暮らしているというご挨拶状であった。

 そのような家族事情を知りつつも、歳月人を待たずのごとくはや二〇年が過ぎ去った。この度、二〇年前からの資料を基にして共時性現象(シンクロニシティー)の真実に迫りたくこの原稿に残したのであるが、その原稿を書き終えた日が平成二〇年四月一〇日である。ところが私の内面深くに異変が起きていた。というのは、全く気にしなくてよいものに執拗に執着し始めたのである。家のパソコンでCDのインデックス・プリントをつくりたいという思いが全身を包み込んで他の一切は何も手につかない始末となっていた。ところが目の前のパソコンをいくら操作しても、むしろ迷路に入るばかりで何の解決もつかないのだ。

 パソコンメーカーやプリンターメーカーにいくら相談しても、初心者であるから要領が得られずらちがあかないのだ。この世界の、なじみのない用語のジャングルにはほとほと参ってしまう。最終的にインデックスを内蔵したソフトを探すことにした。「デジカメde‼︎同時プリント9」というソフトなのだが、それをインストールしてみるとサンプル画像が出てきて、そこには三〇代の若い夫婦と四、五歳くらいの子供二人が飛び出してきたのだ。

 親子四人でバーベキューを囲んで、娘たちはでっかいスイカにかぶりついて大いに喜んでいる。この画像を見たとき、なぜか私の心は閉じようとしていた。この画像を削除できないものか、と一種異様な霊的ざわめきが起きてきた。だがその操作もままならない。それが四月一二日である。

 この日は私達の結婚記念日であり、それも四九回目である。来年の金婚式まで手が届くところまで来たという実感がよぎった。

 ところがこの日の早朝、床の中で半覚醒状態の妻の目の前に、突然屋久杉の霊が現れてきた。千年以上もの年輪を刻み重ねたその中に、はっきりと精霊の姿を観たのである。その時四時一分であったという。

 そのまま起床した妻は今度は自室に入り身の回りの整理を始めたのであるが、ところが、どこへ行くにも持参している古い手帳の中から写真入りの年賀状のコピーが出てきた。それが富士宮市のS氏からの葉書であったので妻は、「お父さん、Sさんからの家族写真がでてきたよ」と言って見せてくれたのである。見れば、若い両親の中に四、五歳くらいの子供たちが並んでいた。後ろには、この原稿の中心縁者であるS氏ご夫妻が立っている。

 これを見た私に電撃が走った。パソコンソフトのサンプル写真の若い両親と二人の子供たちがオーバーラップしたからである。

 早速このサンプル画像を妻に見せてやりたいと思い、プリント印刷してからその日付を見て、今度はいのちの中から押し上げてくるものを感じた。写真に現れたデーターには、二〇〇四年五月一七日撮影とあるのだ。

 五月一七日と分かって、これは何ということかと思った。それこそこの話の二〇年前の出会いの日であったではないか。大間の港から出港したフェリーの中で出会った富士宮市の青年と同市在住のS氏のこの話こそ、平成元年五月一七日のことであったのだ。ここには言い知れない魂の流れを感じさせられてならない。魂の世界は時間・空間の無い一面一体の世界であり、一〇年、二〇年という概念は無く、つねに今なのである。

 私にパソコンのソフトを探させて、親子四人の写真をそろえ、数の魂に溶け込んで、死んでも生きているいのちの証しを残さんと、時空を超えて、人の霊体を借りて、出会いの縁の流れに生きてそのエネルギーの波動をひびかせる。五月一七日の出会いと、二〇年後のパソコンソフトの中で待っていた五月一七日撮影の若き親子四人、それは、S氏の長男夫妻と残された四、五歳の子供たちの親子四人とそっくりではないか。

 そして、長男の妻は一〇月八日に亡くなったのであり、何とその日は私の妻の誕生日、一〇月八日に共振共鳴してそのひびきは止まることがない。

 さらに、早朝妻が観た屋久杉の精霊姿は四時一分のこと。S氏の長男は四一歳で没したとある。

 そればかりか今度は私が、四月一二日の四九回結婚記念日の朝から歯痛に見舞われ、三日間辛抱の末、歯科医の治療を受けたら真横一文字に折れていたというのだ。何らの自覚もなく歯が折れるとはこれまた異様なことではないか。この日は四月一四日である。S氏の長男の没年齢は四一歳という。これまた四一=一四で共振共鳴のひびきが同調することも見落とせない一つであり、以上のこれらは、霊魂の意志性であることに疑いを挟む余地がないと私は思っている。

 それは「死んでも生きているいのちの証し(魂不滅)」の大事な一事例になると思うからであり、人が亡くなるとどうなるかという問いについては、古来、斯界しかいの有識者たちや覚者といわれる方たちでも問答無用といったところではないのか。死んだら煙になるだけだ、という方もおられる位であるから、それは誰しも答えようもない現実離れした世界であろうし、死の世界に行かれたら帰れない世界であればこそ、それは全くもって問答無用であって然るべき話ともなる。

 だが、たんに煙になるだけ…とか、そういう話はご法度である…とか、あまりにも人々の間からは敬遠されたり、真剣に耳を傾けてはくれない。ところがこの世界に直接結び付く共時性現象の体験記録を二〇年からも積み重ねてくると、どうも身につまされる思いが多くあり過ぎて、たんにオカルト(神秘的・超自然的)などとばかりで済まされない出来事なのである。言うなれば、我々の生体は正真正銘の霊体(意識体=魂・心)であり、我が身の中から魂(心)を抜いてしまったら本当にもぬけの殻であり、存在価値さえなくなる事実がある。

 今後どのようにして明快な検証ができるかは、体験資料の一つ一つをこの本の中で迫ってゆくことが一番の近道と思うし、そのためにも、記録掲載だけで終わらせてはならないと思っている。

 

 

 

 

 

 

丹頂鶴と高橋園長

 

 潜在心の開放を限りなく一〇〇パーセントに近づける、ストレスを限りなくゼロに近づける、自分を限りなくいのちに近づけるという命題は、張り詰めたこの科学文明の世にあってはなかなかそのチャンスに巡り会えないものである。

 個人差には大きいものがあって、多種多様な機能負担とも環境負担ともいえる負担を心身に感じることは、あらゆる環境の中で誰しも背負っているもので、全くストレスがゼロなんていう方はむしろ変人なのかもしれない。ストレスの許容範囲はその個人差があまりにも大きいようだ。

 潜在心の開放、ストレスの開放ということはまた、いのちの中心にかなり近づけることにもなると思っているから、それはすなわち生命力を高めることにもつながる出来事であろう。すなわち、潜在心の開放、ストレスの開放は、生命力の向上となり、奥深い潜在心(魂=心)の活性化を促して、思いも寄らない知恵が湧き上がってくることも決してまやかしではないと思う。

 このいのちは、全世界の存在や、全宇宙の果てのすみずみまでも連なる光ファイバーならぬ生命ファイバーで結ばれている「いのち」であればこそ、限りなく命に近づくことはすなわち、知恵の宝庫を探索するようなものである。

 今から二〇年前に体験した車中泊無目的の旅は、潜在心の解放、ストレスの解放、ひいてはいのちの光を強める一助の面からみて、人生の布石ともなる大事な経験であったと思っている。

 その後、今日までため続けてきた共時性現象(シンクロニシティー)の記録とその出会いの縁のメカニズムを考える上で、深い世界からの直感力が増してきたように感じてならない。

 旅は、四一日と三一日の二度にわたる七二日間の旅であり、天に任せ地に任せる自然心で過ごすことになったが、その旅のことを私は、四一日の「鶴の旅」と、三一日の「亀の旅」というネーミングで呼んでいる。

 ネーミングは、その旅の象徴性からそのヒントを得たのであり、四一日の「鶴の旅」は、釧路市で出会った丹頂鶴の自然公園を訪ねたことから得たものであり、また、三一日の「亀の旅」は、行く先々で待っていた亀との出会いから名付けている。

 風の吹くまま気の向くままの車中泊と粗食で過ごした日々は尊いものであった。

 ではここで、「鶴の旅」四一日のシンボルとなった釧路市丹頂鶴自然公園で出会った園長高橋良治氏との寸暇の会話を振り返ってみたいと思う。

 ここを訪ねたのは平成元年(一九八九年)五月一九日金曜日のことである。釧路市鶴丘一一二番地にこの自然公園が開園されたのは昭和三三年(一九五八年)のことであるが、昭和四五年(一九七〇年)には世界で初めての丹頂鶴の人工孵化に成功しているという。

 乱獲と開発によって絶滅の危機にあった丹頂鶴の保護と増殖の目的で開園されたこの公園には、今(平成二〇年四月二一日現在)一八羽が放し飼いされているという。

「鶴になった男」というタイトルでテレビでもひろく紹介されて多くの人々を魅了した園長さんに逢いたくなったのは、国道三八号線を、当てもなく釧路方面に向けてひたすら走っていたときのこと、すでに、夜も深まりライトに浮き上がってきたのが鶴公園の標識案内板である。そこに目が合った時、鶴になった男と会いたい衝動に一気に駆られたのである。

 標識をたよりに国道二四〇号線を左折してから約一〇キロメートル位走って、その夜は鶴丘地内の原野の中で翌朝を楽しみに夜を過ごした。

 親鶴が巣を放棄して取り残されている鶴の卵を持ち帰り、孵卵器の卵と寝食をともにして、不眠不休にも似た日々の続く中で、人工孵化の鶴の子を見事誕生させた園長。

 その後、自然に返すまで鶴の親代わりを務め上げた園長が、飛び立たせるときのその姿は、まるで親鶴以上の愛情であった。

 両手をいっぱいにひろげてバタバタ羽ばたかせながら飛び立つ特訓の繰り返しは、体力的にも限界を超しているように感じた。鶴の親代わりはどう見てもまさしく鶴になった男その姿にほかならなかったのである。

 至難といわれる人工孵化を見事成功させ、自然界に放鳥させるまでの、一貫してにじみ出る愛情はどこから生まれてくるのであろうか。天性といえばそれまでだが、園長と会ったらその熱情的一心について尋ねたいと思いつつ、車中の一夜は夢の如くに朝を迎えたのである。

 開園の九時を待って唐突な面談を申し入れたところ、朝一番で園内の池の補修がある日だからその作業員がやってくるまでならということで、園長室に通されたのである。

 何からどう話してよいものか、園長にしてみれば、要領の得ない闖入ちんにゅう者が訪ねてきた感じではなかったか。

 ひとまず自己紹介を終えてから、テレビで拝見した「鶴になった男」のこと、人工孵化に成功されて自然に返すまでの一念集中の愛情に感動したこと、そして、思いのままの旅を進行中、昨夜国道の看板が目に止まり、とにかくお会いしたい一念でお尋ねしたことを伝えた。

 ところがかえってきた園長の話は、微妙に意外なことであった。

「あれ? あれは少々違いますよ。ちょっとなあ」

「それはまた、どういうことでしょうか」

と尋ねると

「私は、本当は嫌なんですよ。兄弟にも言われるんだが、もっと鶴を大事にせんといけないではないか…とね」と言うのである。

 私はテレビを拝見していて、あの熱情的な鶴にかける愛情はどうして出てくるのかと、うらやましくもなる思いで観ていたのであった。園長が好きではないのだということには少々腑に落ちかねていた。この時、再び園長が話を続けてくれたのである。

「本当は牧場のほうなんですねー、馬がいいんですねー。鳥は好きでないので三年に一度くらいの割りで退職願いを出しているのが事実なんですよ」と言われたから、これは園長の本音なんだろうなあと思いはしたが、私は口を挟むようにして

「そうでしょうかなぁ。奥の奥では本当は好きなんでしょう」

と勝手な推測を挟むと園長は

「ただ釧路市のこともあるし、国のこともあるし、見に来てくれる方々のことを考えるとそうもいかんでやってるのです」

とまで聞かせてくれたのである。

 だが園長から発される実直で強い責任感からは、鶴公園を守り通すんだという一念が伝わり胸を打つ。また、馬が好きで馬の牧場に帰りたいという思いも、初期の頃は馬への思いが一番の本音であったろうし、それは決して不思議ではないのだ。馬が好きで鳥は嫌いというのは古い昔の話であって、風のごとく訪ねた異人には格好の昔話を語る相手であったと私は思っている。

 その後に続く園長の話は鶴への思いやりで一杯であり、やはり鶴からみれば親代わりであることを実感できたのである。

「人工孵化した鶴は自然の中では大変だ…生きてはゆけない。強くならないんでしょうね」と言う。人工孵化から自然に返してやることは至難のことであるといわれる。

「人工孵化で卵を孵すことはめったにしないですよ。親が水かさが増してきたので放棄した時とか、水につかったようなものは人工孵化しなきゃ、死んでしまうからね。卵は四時間水につかっていると死んじゃうからね、つまり人工孵化は面白おかしくてやるではなく、窮余の一策で、みすみす死んじゃう卵を見捨てないで、人の手で孵化してみることです」

と言う。「だからなかなか成功しないのは当然かもしれないな」と付け加えた。

 園長の話からは、鶴への思いが湧き水のごとく次々あふれてくる深い思いが伝わってきた。

 牧場の夢、馬への思いは昔の話であって、今は正しく鶴になった男の情熱に燃えていた。

 結婚には見合いと恋愛があるように、園長と鶴は見合い結婚にも似た愛情の熟成を身につけたのだと私は受け止めたのである。だからこそ手放しで〝鳥は嫌いなんです〟などと冗談交じりで言えたのである。そろそろ時間と思った頃、園長は「鶴は音に対してバツグンなんですね」と言った。

 人工孵化した鶴にとっては、この世の親は鶴ではなく最初に声をかけてくれた園長であり、二〇年過ぎても親代わりであることに変わりが無いという。音をもって親であるという人工孵化の鶴たちは、園長には絶大なる信頼関係を持っている。気の荒い彼らでも鶴の一声ならぬ園長の一声こそ鶴を超して絶対なのである。鶴の一声も園長にお株を奪われたようなものであり、この丹頂鶴の自然公園は、高橋園長の一声で万事上々に治まるというものだ。

 約束の作業員が来たので話も中断することになったが、今度は柵の中で作業の指示をされている園長に私は柵の外から見入っていた。現場の中にいる一羽の雄鶴が隣の柵に一時預けられることになった。するとそれがもとで一大嫉妬劇が始まったのである。隣の柵には一組のつがいが入っていたが、そのつがいの旦那が凄い見幕で怒りだして大変な騒ぎとなった。一時預かりの鶴は、突然にして猛攻撃の的になったからびっくり仰天だ。縄張り争いというより、やはり雄の嫉妬に違いないのだ。それに気づいた作業現場の若い飼育係が「コラッコラッ、コラッコラッ…」と柵の外から制止はするもののまったく馬耳東風だ。いや、馬耳じゃない鶴耳だったけど、まったく効果もなく無視されていた。

 攻撃されている一時の宿借り鶴は、すっかり意気消沈して鼻血を流して逃げ惑うばかり。それを知っている園長は仲裁には入らない。

 園長いわく

「ケンカの仲裁になんぞ入るもんなら肋骨折られるぞ」

 気高くスマートな鶴からは想像もできないが、目の前で見たその威嚇と攻撃力は凄いものだった。

 ところが園長は何もかもお見通しである。鶴以上に鶴の心が分かっている感じに思えたし、鶴との一体心とはこのことであるかと思った。鶴に対する自信がぐんぐん伝わってくる。鶴のケンカ仲裁には肋骨一本位折られる覚悟でなきゃだめだということが分かりだした。

 自然体でツルの中に入っていき一時預かりの鶴を元の柵に戻した園長は

「だらしのねぇ奴だなあ。あとで治してやるからな」

と、傷ついた鶴に向かって言ってやると、鶴は不服そうに、親代わりの園長をたじろぎもせずに見つめたまま立っていた。

「ウン…、ハヤクシテクダサイ」

と、鶴の無言のひびきが伝わってくるではないか。また、攻撃していた隣の雄鶴の旦那は「オヤジガ、アイテデハ、ブガワルイヤ」と言わんばかりに、首を威勢よく縦に振っていても一歩尻込みの姿勢になっている。

 命懸けのスキンシップで動物と接する姿から、馬も、鶴も、人もその縫いぐるみを脱いで生命一体の世界に身を置き心を置かないと真の融和は成し得ないと思えてくる。いのち同志の付き合い、そこには何ら恐怖感も生まれようのない澄み切った世界感があると思うし、だから高橋園長の一声は鶴の一声以上の天声になって聞こえてくるのではないか。

 訪ねてよかった。尊いことを高橋園長に学び、鶴にも多くを学ばせてもらった。いつまでも見入っていたかったが、ご迷惑になってはよくないから一言「園長さんありがとうございました」とあいさつをして鶴公園をあとにした。

 鶴千年、亀万年、古来日本人の魂に溶け込んで、健康長寿の手本として、めでたい祝いの象徴となって、人々の心に幸せを結んでいる「鶴と亀」。

 やはり、端正で気品にあふれ、スリムで筋金入りの健康長寿の丹頂鶴。古来、アイヌの人々からはサルルンカムイ(湿原の守り神)と崇められていた。まさしく瑞鳥ずいちょうなのである。

 

 

 

 

 

 

キタキツネのポンタ君

 

 世に神秘世界といえばとかくタブー視されることが多いもので、敬遠をされ、時には蔑視されることも少なくはない世界のこと、その反面、秘められた関心度といえば驚くほど高いものであって、口には出さずとも大変気になる世界でもある。その、気になる世界のことを、ここで一つの体験を踏まえて開いてみることにする。

 生霊と死霊の呼び名を耳にされたことがあるかどうかは伺い知れないところだが、その呼び名があっても、私たちはいちいちその区別をつけることなく生きているのが毎日の生活だと思う。

 この世はあの世であり、あの世はこの世であり、今は刻々過去になり、過去はすなわち今となる。そして、今は明日を築き、明日は今を土台に新しい一日となる。それゆえに、どこにこれとはっきりとしたその境を引くことができない大河の流動感がこの身を打つ。

 過去世もこの世も渾然一体の世界であって、生霊(今の心)も死霊(亡き霊魂とこの世の過去心)も区別のしようがない。しかし、一つはっきりしているのは、それは自分の中にある心の集積であり、過去世一切からの心の色合い集団(霊魂=潜在意識帯)が自己主張をしている世界ともいえる。そこでは、霊体(霊魂)である自分の姿を知ることができる。

 さらに、この霊体の光は、万物万人に通じるいのちに準じた記憶霊光体(原子元素)であり、スイッチ操作でON・OFF自在でもある世界と考えてみた。霊体から発する記憶霊光体(私の造語)は、思えば通わすいのち綱とも言い換えられる。いわば、思いというものは、一瞬のうちに思いの世界に飛んでゆくという、心が互いに通じ合える世界ではないか。

 この思いの世界の操縦、すなわち魂の操縦者は、あくまでも今の自分にほかならない。亡き魂たちは、心の発信力、心の発現力はあるものの、自戒反省心となれば、この世の我々、すなわち肉体者である自分自身をおいてほかに誰もいやしない。生死渾然一体のこの今の自分こそ唯一の霊魂のエージェント(代理人)なのである。車なら操縦ハンドルを、また船ならば舵取りをする者こそ心の安全運転義務者といえるものだ。

 生は死、死は生、これは誠の話。死は肉体元素が無いだけの話。いわば幽霊に着物を着せているのが自分であるといったらどう受け止めてくれるであろうか。

 心は、上澄みの水のごとくに澄んで現れるものならいいのだが、霊体は自在なもので、心のハンドルさばき一つで、人生街道はそれぞれに人間模様を映し出す世界となる。霊魂は、人々の心の先々を照らす道明かりなのだ。

 さらに、魂は表現者であるから、今の自分と渾然一体となって、その表現手段となる文字の世界や、数字の世界や、色彩の世界の波動と一体になって、意志の表現世界をつくりあげている。その三つの表現世界は、この世の人類に絶対不可欠媒体であるかぎり、魂の意志表現も何らの変わりなく、あの世もこの世も一体となって、今この世でその魂の意志性を伝えているのである。この世の表現はあの世の表現でもあるわけだ。

 霊魂の表現こそこの世一切の表現の源泉であり、人類の今成す全ての分野にわたり、文字的表現、数字的表現、色彩的表現一切合切が、死霊といわれる霊魂の意志によって、我々が生き続けている真実の姿ではないのか。

 我が身はすなわち霊魂であり、生き霊と死霊が渾然一体であって、そして、生死の総力こそ眼前の世界であり、今ここであり、今ここに生きている世界といえる。

 この地球上に見られること、ひいては、宇宙空間までも見ることのできる文字の世界・数字の世界・色彩の世界のひびきこそ、死霊と生き霊の溶け込む合作にほかならない。現代人類の成す表現手段から文字・数・色の波動を消したとしたなら、我々は超原始人にタイムスリップすることになる。

 この生身の自分は霊体であり、死霊(霊魂)・生き霊(今の心)の渾然一体の肉体生命であり、魂はピカピカ生き生きとして不滅であり、この世の文字・数・色の表現媒体に溶け込んで活躍されていることを知る。

 さて、今回の無目的の旅は、霊魂(死霊=潜在心)の浮き出しやすい情況下に置かれていたといえるし、それは生死の境の無い渾然一体の世界ではあるが、私にはその生死判別を感じた唯一の旅であった。

 どういうことかといえば、私の受け取り方ではあるが、これが死霊(霊魂)だと感じたのは急な眠気の時がそうだと思ったのである。またわけもなく急な疲労感を感ずるときなどは、発信元は別にして、それは生き霊だと思ったことである。急なる不自然な眠気と疲労感それも、その原因が見当たらぬ中での「急」なる発現が感じられたのであり、それは私なりの判別でもあった。はたしてそれが普遍性があるかどうか、妥当性があるかどうか、きわめて独善的な私の思いである。

 そこで、霊魂からの発信と思われる旅の一例をここに紹介してみたいと思う。時は四一日間の鶴の旅の後半にかけてである。平成元年(一九八九年)五月二一日(日曜日)、オホーツク海沿岸を一直線に走る国道二三八号線でのことであった。ちょうど三時過ぎであったが、すさまじいほどの眠気が目の前をかすめて全身ふわふわ宙に浮き出した。車ごと浮く感じの走行となり、ハッと気を取り戻した時にはいいあんばいに駐車帯の標識が見えたから吸い込まれるままに前後不覚の熟睡となって、目を覚ましたのは四時半近かった。ゆうに一時間は寝込んでいたことになる。

 まだ陽も高かった。あの渦に呑み込まれるような睡魔は、旅の中でもそうめったにあるものではない。気も晴れて出発したのは四時一八分のこと、前方にはトンネルが見えていて、ここは、神威カムイ岬の近くであった。

 まもなくトンネルを通り抜けると、右視界にはとめどなく続くオホーツク海沿岸の大海原が開けている。距離にして四、五キロも走ったときのこと、左前方の路肩を行く一匹の動物を発見した。どんどん近づくと、それは紛れもなくキタキツネであることがわかったが、追い抜く数十メートル先で彼は急に道を横切って海側の草むらの中に入り姿が見えなくなった。気にせず走ろうとしたが、野性のキツネとなれば好奇心が湧いてくる。スピードを落としながらバックミラーを気にしていた時のこと、彼は再び路肩に姿を現して歩いていたのだ。これはと思い、右折して農道の入り口に横付けをして見守っていると、彼は臆することもなくどんどん近づいてきて、ついに四、五メートルまでになったが逃げ出す気配は全く感じられないのだ。

 至近で見た彼は決して若くはないが、さすがは野性のキタキツネである。尻尾が太く長く立派な風格だ。顔には無駄もなく、両耳をぴんと立てて、目は鋭く深く、いかにも野性を生き抜く知性を感じさせる。さらに一種の余裕さえ感じられたのである。顔は逆三角形で、口と鼻先がそいだように合理的な形をして、まるでカマキリに毛皮を着けたような姿なのだ。

 前夜、鶴公園の近くの店で七〇円で買ったカステラを堅くて食えずに残していたのを思い出して、それを窓から静かに放ってみた。人間がエサをくれることを彼らは学習しているのかと思って、悪いことをしたかなと反省をする。ここで写真に撮ろうと思いカメラを向けた一瞬、キタキツネがそのカステラをくわえて原野に身をひるがえしたから、車から四、五メートル移動して彼の近くに再び接近したのである。今度は逃げようとはしない。車から降りて手が届きそうな二メートルくらいまで近づいたが彼の警戒感は消えていた。おかしいと思うほど一気に仲良し気分になり、土手に私が一層肘ついて寝そべると何と彼も同じような姿になって、両手を前にして腹ばいとなってじいっとこちらを見据えているのだ。

 堅いカステラも、少しは食ったようだが一気に食わずにそこに腹ばいのままのキタキツネ。この時ふと思いついて、ポンタ君という名前を付けた。

「おい、ポンタ食べな。もっとあるぞ。昆布センベイもあるぞ」

と私は、前々日に大間港の店で買った昆布センベイを思い出した。「そら、うまいぞ」と言ってセンベイを放ったら、「コリャーナンダ」とばかり、ポンタは左右に小首を傾けて考え込んでいたが、ほどなくしてくわえてみて、これはいけそうだと食い始めた。それほど腹を減らしてはいないようだし、警戒感もほとぼり冷めて旧知の友のようになったポンタ君。だが、それは野性の機敏さで、直前での写真撮りには敏感に反応する。カメラは好きではないようだ。どれほど過ぎたであろうか、時の経つのも忘れて対面していたが、ポンタの方から帰り姿となって、無言の空間で私のすぐ右側をなぞるようにして通りかかったその時である。

「アンタモ、カエルガヨイ。ハヨウイキナハレ…」

と、どこからともなく思念が渦を巻く。このとき時計は四時四四分を指していた。そのまま国道に出たポンタ君は、無言でこちらを振り向いてから再び国道を横切って向かいの路肩からこちらをじいっと見ているのだ。

 私は遅れて国道を右折してポンタ君のいる車線に出てから手を振りつつそのまま北上を始めた。バックミラーにはポンタ君の姿が残っている。直線道の中で、いつまでも動かず見続けるポンタ君の姿を見届けていたが、やがてその姿はミラーの中から消えていた。

 その後すぐに現れた二一〇キロの標識。国道二三八号線は、起点の網走からここまで二一〇キロメートル地点ということである。さらに浜頓別町二二キロの標識が現れ、次に宗谷岬二二キロの標識が現れた。いよいよ最北端に到達したのであり、海の向こうには、ロシア領土のサハリンが霞の中にある。

 家を出て車中泊も三一日を迎えたが、その夜は、日本最北端の民宿柏屋で、くの字の車中から開放されて初の布団で休むことにした。

 ところが、部屋のストーブをみてハッとした。ストーブにはナンバー二〇一と記されてあるのだ。この部屋は二〇一号室ということである。あれっと、思念は次々と立て板に流れ出した。母と妻と私が、数珠となって勢揃いを始めていたことに気づいた。

 

旅の出発日が四月二一日

今日は五月二一日

ポンタ君との別れが四時四四分(和数=一二=二一)

ポンタ君の姿が消えた時二一〇キロの標識

部屋とストーブのナンバーが二〇一号

 

 これらの数霊のひびきは、母の命数=命日の二一日に共振・共鳴する。そしてこの国道は二三八号線で、妻は富美子で八日生まれの命数を持つ。それを数霊に置き換えてみれば、フミコ=二三コ・八日生まれであるから、二三八号線を走ることにはそれなりのひびきの向き合わせがあったといっても、決してそれほどの横車ではないと思う。また、立て続けに現れた浜頓別へ二二キロメートル、宗谷岬へ二二キロメートルという標識との出会い、さらに、宗谷岬到着が六時二二分なのである。私の命数の二二日生まれと共振するではないか。さらにあの止み難き眠気は神威岬という神の力、神の威力の場所と同期する。これはただならぬことである。それは、キタキツネのポンタ君との出会いに向けた、あるご意志の時間調整と思えてならない。数分・数秒の誤差で、その出会いはなかったことを考えるならば、出会いの運びはただごとならぬ「あるご意志」であればこそなのだと、私には心底ひびいてくる。

 時間も空間もない霊魂の世界では、昨日のことでも、古い億万年前のことでも、一面一体の今ここの世界なのであって、時空を越えて今ここにあるのが心の世界であり、霊魂の世界であると思っている。言わんや、この身この命は、霊体、霊光の身にほかならないではないか。

 さて、車のくの身から開放されて、布団の中で真一文字で休ませてもらう喜びが湧いてきて、人の真心が沁みてくる。夕食は久々の手料理。ところが、何と私はついに皿の数まで数えているではないか。ごちそうの皿が一〇皿、ご飯と汁が二皿、合わせて一二皿となるから、一二の表裏一二=二一に置き換えるならこれまた、ここにまでも魂の働きがあるのかと真に迫ってくる。

 旅をしていても、妻や、母や、祖先や、多くの縁者たちの思いによって守られている実在感にひたることができる。それは、元の元を辿ればいのちの光(天の気と地の気=食)にたどり着く共振共鳴共時の現象世界ということになるであろう。

 厳然として実在する魂の意志性がここにある。その表現手段は、文字的・数的・色彩的に溶け込んで、その光の波動がオーラとなって守り続けているのである。見えざる時計の中にこそ、その真実の姿が、その真のいのちの働きがあるごとくに…。

 

 

 

 

 

 

魂の生きかえる道

 

 この体の中は今でいうオンラインシステムのようになっているらしい。あらゆる心的情報も肉体的情報も頭脳中枢に集まってきて、何がどうなるのか分からないが、いろいろとアクセスし合って、自分の無意識世界で絶え間なく作動している。そして、その情報がはっきりと頭のてっぺんまで昇り上がってくるし、また思ったりすることは、外に向けて能動的にアクセスされてどこかに飛んで行くらしいし、そこで出会ったこちらの思いがあちらに何かを感じさせるらしい。それも、時間も無く、距離感も無く心的雰囲気が同調意識レベルの時にあちら側の心の窓を開けさせる。すなわち、その人の意識をつき動かすのである。

 この五臓六腑の五体はコンピューターになっていて、それも、ちゃんと統括する本部があって、こちらで受ける受動情報をより効率よくコンピューター本部で仕分けをしてアクセスしてくれる。すなわち、いのちというライフコンピューターはオンラインシステムになっているのだ。

 こちらから発する能動的心も、逆に、あちらから発せられた受動的意識波動も、それらのアクセス機能がオンラインシステムによって素早く判別され、スイッチのON・OFFに接続されていると思われる。

 このいのちの中は、元々外界の全てに光で接続されていて、精神的には記憶再生機能が働き、物質的には生体再生機能が働いていて、五臓六腑を生成する。

 共時性現象が起きる原因は何もかも外界にその因子があると思いがちであるが、「外は内なり、内は外なり」で、全てその因子は、この自分のいのちの中で起きていることを認識できるものだと、私は考えをそこにおいている。

 いのちの聖火ランナーである私たちは、宇宙創成以来の連綿たる一切の情報を引き継いできた。それは内なるこのいのちが、それらの歴史的全てを掌握している事実が土台となっているから、無いものは無い世界なのだ。いわばこのいのちの中は魂の博物館といったらいいのかもしれない。

 生命コンピューターは、外界情報の一切に対してアクセスをやり遂げているが、その統御機能はすぐれもので、情報の扉を一気に開いたら魂の洪水となり生きてはいられまい。それで、情報の一切を受動的にもまた、能動的にもアクセスして、オンラインシステムによって判別仕訳をし、必要最小限の情報を、閃きや、夢や、表層的思念に転化して接続してくれていると思うのだ。その結果としての出会いがあり、縁結びがあると考えることで、私の意識の中では一つの整合性ができてくる。

「内は外なり、外は内なり」を信条とする私の中では、受動する情報についてはつねにそのアクセスするタイミングを見ているし、それは共振共鳴のタイミングのスイッチがONになったりOFFになったりしているとでもいえようか。

 いのちは宇宙に結ばれている。だからいのちの中は宇宙のオンラインシステムによって自動調整されていると考えられるし、そしていのちの中は万物万霊にアクセスできるようになっていて、それが共振共鳴次元まで達する魂のひびきであればこそ、縁結びという、時を同じくする共時性現象化となって浮上するのかもしれない。

 あらゆる生命体のどのような心霊体にせよ、思ったり考えたりする心が、いのちの光に点火するには、その原点が自分の原始組成単位である原子の意志的反応次元と考えてみれば、この世での離合集散の出会いの縁のメカニズムがうっすらであっても心象できるのではないだろうか。

 今では、物理学の世界は原子のさらなる物質(素粒子・光子)と無の解明に向けて進められている。難しい学問の世界は分からないが、何しろ私は、共時性現象を体験してきたことから、究極の無の世界では、精神的、物質的な両極を超えた一元一体二象体といういのち本来の〝意志性〟こそ、この世の縁結びの謎解きのように思えてならない。

 自分といういのちの原子組成は、毎日摂取する食物の原子によって成り立っている。それを思えば、いのちと食は同義であって当然だし、そもそも自分は原始的にも意志性の生体であったと思うに何らの不思議はない。それを思う時、極端ではあるが、毎日の食こそが出会いや縁結びなどの中枢であることになる。

 草木や虫などあらゆる生物や、あらゆる存在群とこの自分とは、原子の心性波動によって結ばれているものだ。決して離れたものではない。それを成し遂げてくれているのが原子であり、その土台の基礎となっているのが毎日の食なのである。だからこそ、心と心のアクセス切符の発行所は毎日の食に依拠しているといえるし、原子には宇宙に通じる共通語的文字・数・色のサイクルが組み込まれているのではないか。とくに数霊こそは、宇宙意志性のシンボル的存在ではないかと思っている。

 生から死までの中で、数限りなく心を生み続けた人生。心は目に見えない霊魂の世界をつくり、共振共鳴の反応によって、ほかとその心を共有する。死する者の魂の蓄積によって、人の世を、良きにつけ悪しきにつけ築き上げてきた。いのちの光に巻き付くようにして、それぞれの生物の肉体生命に寄宿する霊体となって、心は生き続けている。それは、遺伝子性の実体となり、また物言う霊体となって肉体生命に寄宿してのみ生き続けられる運命として、我々の心となって蓄積される。

 肉体を脱した死者の心の霊体は、あらゆる霊脈のネットワークを通しての心波を共有できる肉体生命の中で、自在に生き続けることができるし、それが魂の実態ではないのか。その霊魂の生きられる世界こそ、時空なき自在無限の世界と考えられる。

 肉体生命は、巨大な記憶素子を積まれている記憶体であり、脳という基本ソフトを備え、宇宙というハードウエアの中で、各自の生命コンピューターは万物にわたるネットワークを持ち、共振共鳴してソフトを開き、霊魂のコミュニケーションがひびき合う。そして、いのちのネットワークの中でソフトを開いた者には、その姿や言語のひびきを結ぶことができるというものだ。

 科学技術は、インターネットで結ぶネットワークの世界で、その情報共有は、ほんの秒単位で可能になっている。だがその人間の科学力でさえ、この宇宙生命界における一片の応用にすぎない。

 生命界のハードの中で、各生命体に組み込まれている生命コンピューターは、莫大な数のソフトで駆使できるようになっている。そして、その情報は秒単位、否、それ以上に早く共有できるはずではないのか。ついそんな思いに立って心や霊魂の世界を考えてしまうのである。

 生命コンピューター回路が開かれているなら、何といってもこのいのちのコンピューターは、地球経由の宇宙に直結しているすぐれものだし、どんなに多種多様化されていても、その記憶メディア(脳など)がある限り、種の肉体存続ある限り、死んでも生きて通わす身のさだめということができる。パソコンでいう基本ソフト(OS)や、アプリケーションといわれるソフトにしても、ネット接続のプロバイダ(接続業者)なども不要であり、自分の霊的ソフトが開いてさえおればいいわけで、強いていうなら出会いの縁が一種の接続代理ということができよう。共振共鳴共時の現象に関心をもつ心になればこそ、それに近づけると思っている。

 ではここから魂不滅のファイルを開いてみることにする。

 それは、平成元年(一九八九年)五月四日木曜日。旅の途中で横浜からH市に移動したときのことであった。

 昭和天皇の御陵である武蔵野陵に参拝するために出向いたのであるが、崩御なされたのが一月七日であるから、山陵完成まで一般参拝ができなくなっていた。それを知って、やむなくその夜は二重橋のたもとにある河川敷に駐車して一夜を過ごすことになった。

 前の晩、やりきれないほどの眠気で早々に休んでいたせいもあったのか、夜明けにはまだ早い三時二三分、星がきらめく夜空の中で目覚めてしまったのである。まずノートを取りだし、ハンドルをテーブルにして時間をかけて記録を済ましてから外へ出た。土の上にカーペットを敷き、ヨガ行と瞑想の行程を一通り終了したのは七時五八分のこと。そのまま車に戻り、洗面と山陵の遙拝も終え、さて出発するかと思ったその時のことである。ドアの外からノックをする人がいた。のぞくように見入る一人の男性が、ガラス越しに声をかけてきた。窓を開けると開口一番、

「夕べ暑くなかったか」

と聞いてきたのだ。それは言われるとおりであったから「すごく暑い夜でしたよ」と言うと「そうだろう」と意味深長なことを言い、さらに続けて、「暮れに、この橋の下で若い女性が焼身……という事件があったのだよ」と言うのだ。えっ、と一瞬張り詰めるものがあったが、陽も昇る白昼のこと、夕べのうちに言われたのであればどうであったろうか、あるいはどこかに移動していたかもしれないが、「はあ…そうなんですか」と、それ以上は続けずに、これから次に進むこともあってそれはそのまま受け入れるしかない。心は全く動くことはなかった。

 彼は、そのことを知らせるために声をかけたのではなかった。こちらの挙動というか、この場所でカーペットを敷いてヨガ行をやりだしたのが気掛かりであるばかりか、その場所は、彼自身の心身修練の行を一〇年以上にわたって続けてきた魂の入っている場所であるというのだ。そして、ぜひにと言われお宅に招かれることになり、この旅では決して人家に逗留とうりゅうせずと心に留めていたが、誠意にほだされてこの日は昼食までご一緒の夢中の五時間を過ごし、羽目を外してのお世話を受けたのである。奥様には、柏餅とお茶で迎えられ、今も温かく記憶に残っている。お互い素性を明かしてみて、N夫妻であることを知り、さらに同年代と分かり、敬服至極の境地で尊い時間を過ごさせていただいた。あれからはや二〇年が過ぎている。

 N宅を出たのは二時五分のことであり、行く当てもない旅の中で、車は一路国道二〇号線を西へと進めていた。交通量も次第にまばらとなり、名も知らぬ峠道へと上って行く。山道はすごく気分のよいもので、新緑に映える自然の気を体一杯に吸いながら行くと、相模湖の看板が時々目にちらつく。湖もいいものだなあ、今夜の車泊は相模湖畔あたりとするか、と思いつつ峠を登りつめた頃、そこに古風な一枚の温泉看板が立っていた。その看板を発見すると私は、迷わずそこを右折した。山峡深く細く曲がりくねった登りの山道であった。家を出てから半月にもなった五月五日のことで、銭湯入浴もいいかなと思った。国道からおおよそ一〇キロ位入ってようやく宿にたどり着いたのは午後の三時半頃であり、日差しも強く静かな日であった。

 玄関に入り声をかけると奥の方から主人が現れてきた。軽く会釈をしてから伺ってみた。

「泊まりではなく入浴なのですがお願いできますか」

と尋ねると

「うちは鉱泉なので夕刻にならないと入浴できないのです」

と主人は言う。「ああ、そうですかわかりました」と言って主人と目を合わせた、その時である。

「アリガトウ ワタシハココニトマリマス」

とはっきりとした声で、女性が後ろから声をかけたのである。あれ、誰もいないはずなのにいつ入ってきたんであろうかと振り向いた一瞬、全身霊気で包まれた。前には宿の主人が立っているが、それも真昼の中で外は青天白日の明るさだ。誰一人も後ろにはいない。ましてや女性の声だ。その時再び全身に霊気が昇り上がった。すぐにあの橋の下の女性だと思った。「夕べ暑くなかったか」と聞かれたあの話である。そしてそう思った時、私の全身から何かが抜けた感じになっていた。

 あの女性の霊魂が、ここまで車で同行していたのだと思った。そしてそれは事実であり、内なる女性のはっきりとした声は、安堵に満ちて、感謝の思いさえ伝わる深い思念の中から湧き出た声であった。たとえ肉体から脱した魂でも、限りない執着から真の命の光に飛び立ちたい思いでいたことか。その思いが、共振共鳴できる方との出会いの縁で、女性の魂は天上界に成仏出来るのであろうと心が引き締まる思いになった。

 宿の主人と二人の話はごく現実の受け答えの会話なのに、私のしぐさと挙動を目にしてどのように映ったことであろうか。ご主人は、奇異変人に私を見たであろうか。

 それでは、と失礼して外へ出た。言い知れぬほどに晴れ晴れとして、身も心も爽快感に包まれながら、私はゆるい下りの山道を国道に向けて降りて行く。

 

 

 

 

 

 

タイガ計算機に秘めた魂

 

 どうか安らかに永眠して下さいと、追悼の意を申し述べるが、それで亡き本人が本当に永眠することができるのか。死んだらどうなるのか、本当に何もかもゼロになるのか、消えて無くなるというのか。

 ましてや疲れ果てた人生なら、誰しも永眠させてやりたいのが人情というものであろうが、どうもそうはいかないのが現実というものである。

 死んでも生きている心であり、魂であり、そして肉体は確かに煙となる。残るはわずかの白骨それだけだ。ところが、亡き人の心はれっきとしてこの世に残る。どこにどうして残るかといえば、この世のわれわれのいのちの中で立派に生きている現実がある。

 それまでの、物質性の生体機能(肉体)は煙となって消えこそするが、それはたんに目に見えない生命元素(原子)となって天地に還元した結果であり、それまでの人生で蓄積された心と、引き継いできた遺伝子性の霊魂(心)は、この世に厳然として残る。

 それは、いのちのネットワークに乗って、すなわち人々の共振共鳴の霊脈の世界で、その居心地に合わせて寄り添いつつ、自らの魂を再生エネルギーに姿を変えるのである。

 いわば、死んだらその心は、類似波動の心の磁場に再生エネルギー化するといってもいいかもしれない。

 生命本体の生命エネルギーは死とともに天地に還元するが、いのちとともに育った心の磁場(魂)は、この世に心の生命体となって、心の再生化を果たすものと考えてもいいのだ。それは遺伝子性の霊脈を通じて、また共振共鳴の縁者に結ぶ霊脈の復活再生によって、亡き魂は再生エネルギー化を果たすものと考えている。

 ここで少々自分のことを開陳して、この話の参考にしていただければと思う。昭和六一(一九八六)年から、私の人生はガラリと一転した。これまでの人生から意識改革をするため、それなりに独自の修行体験をしたのであるが、その発端は酒乱人生からの脱出であり、祖霊からの魂の浄化修行であった。その内容たるや、まさしく狂乱状態になっての、自己の魂との格闘といってもいい。

 心の中というのは、古い古い歴代の、それはそれは霊光霊脈のすさまじい絡み合いの世界でもあった。自分の中の霊体をつぎつぎ浮き上がらせての格闘である。激しい呼吸法もあって、時には血管怒張によって血管が破れて出血するというほど、これまでの自分の不幸性霊魂との決別のためであった。それでも中に居座った心というものは消えようとはしないのであった。神社の前で「すまない、汚れた心を許して下さい」と念ずれば、「バカナコトイウナ」と、いのちの底から叫び出すという体験は、数年にわたって起きている。生命体の中には善悪二相の魂がたむろしていることを知ったのである。

 歳月を重ねるごとに、そんな悪性には負けじと、善性の心を積むしかないと自覚して、心の輝きを積む日々が続いてきた。あれから二三年が過ぎた。七四歳となり、平常心にかえってみれば、このいのちというものは、生きている今ここしかなく、中は全て自分の過去と、死者たちの魂の再生の世界であり、死者は、死んでも永眠などするわけもなく、この今の私の心に生きようとして、働きかけていることがわかった。

 死者からの、善性の働きかけならこれほどいいことはないのであって、その逆の悪性の働きかけこそいい災難というものである。この身の中は、まるまる死者の魂以外の何者でもない。

 歴代累々からみれば、この世に生きた自分の人生でつくりあげた心なんて知れたものである。いいにつけ悪いにつけ、自分が思い続ける心にふさわしいあの世の魂がダイレクトで再生するということは嘘ではない。いうなれば、この世は亡き霊魂のるつぼともいえるのだ。今のこの心に何もかも付いて回る仕組みになっているのだ。今の自分の心に共振共鳴して、亡き霊魂は生きようとしているのである。

 この亡き魂の再生のメカニズムは、今の自分の心の中で再生するほかはない。また、その共振共鳴の魂のチャンネルさえ合えば、出会いの縁一切においても、次々かけよってくる霊魂の世界であることは知っておいたほうがよい。だからこの自分というのは、万霊万魂にアクセスできる媒体の役目も果たすのである。

〝縁は異なもの味なもの〟

〝袖振り合うも多生の縁〟

などという諺は言い得て妙ではないか。

 科学界では、こうした亡霊の話はタブーであろうが、現今はだいぶ科学者の間でも関心が高まっているのではないかと思われる。世界に名を馳せた、スイスの心理学者で精神医学者であるC・G・ユング博士(一八七五年七月二六日~一九六一年六月六日没享年八五歳)は、共時性現象(シンクロニシティー)といわれる概念の仮説をたてて探求なされた臨床医であるが、世に言う偶然の一致について、学問的探求のメスを斯界 しかいで初めて共時性現象としてとらえている。

 博士は、深層意識世界と自然界の生命根源に根差す物心両性からの大調和力を探求なされたのではないかと、私なりに考えている。意味のある偶然の一致と意味のない偶然の一致とを区別され、魂の共振・共鳴・共時を探求なされたのではないか。思うに、学問的に探求なされたことは、人の心と運命をひもとく、一元性を証すことではなかったか。〝心は運命を支配する〟という、その根源を明かさんとしたのではないかと思ってみた。

 さてこれから述べる、偶然を寄せ付けない一見無関係と思われる出来事、つまり共振共鳴の共時性現象を、二〇年の時空を越えて体験したことについて、皆さんはどのように思われるであろうか。

 今から二〇年前のこと、旅の途中で函館山に立ち寄ってみた。東に立待岬をのぞみ、少し登り上がったところに今は観光名所となっている石川啄木の墓がある。それは、平成元年(一九八九年)五月二五日の晴れて温かい昼下がりであった。

 ここで出会うも奇遇なり、あの世とこの世の彼岸橋の上で商売をするご仁に出会ったのであった。赤銅色に焼き上がった顔の肌をした四、五〇代の風人墨客ともいえるご仁だ。

 石川啄木の墓に隣接する広々とした三軒ほどの墓前に、所狭しと額物が雑然と置かれていた。〝東海の小島の磯の……〟で始まる啄木の句もあって、額面三〇〇〇円と値がついていた。ハガキ風の書画もあれば、商標登録したというカニ印のTシャツまで並んでいた。

 観光客は、啄木の墓に一礼して、隣を見れば足を止めて客人となってくれる。私は客のいない時をみはからい声をかけてみた。夏の観光シーズン中に、こうして店を出し、暮らしの一年分は稼ぐのだという。相坂春山という雅号をもっていて、画家、書家、そして作詞にまでも手を広げている多才なご仁であった。

 津軽生まれの津軽育ちであるといい、農業共済組合にも籍を置いていたことがあり、種付師の免許を持っているという実にユニークなご仁である。それにもまして、タイガー計算機の修理専門員であったというのだ。汽車とバスを乗り継いでの旅回りで、旅館泊まりの日々を長い間続けていたともいう。

 タイガー計算機と聞いて、私も若い頃農協職員であったから、当時タイガー計算機を毎日回し続けていたことを思い出していた。

 ところでこのご仁は、

「他人に使われるんなら乞食でもしたほうがましだ。俺は勤めが嫌いでどうにもならなかった」と言う。

「雨の日は休むし、食って飲んでちょんであれば上出来であるよ」

と言い置いて、目の前のTシャツを両手で開いて、

「Tシャツのこのカニ印は商標登録されて独占であるよ」

という。また

「函館にきて一一年ほどだが、ここ(啄木の墓)に通って四年になる。ここには函館の人間は誰ひとりもこないし、客は観光客だからやりやすいんだよ」

と言い置いて、

「青森も、秋田も、岩手の人間も買ってはくれない…こまいんだなあ」

と、なぜかこちらの山形はその中に入ってはいなかった。そして、いい時も悪い時も人間誰しもあることだ、そこの海の潮でも引いたり満ちたりという風に、さっとさりげなく視線を海に向けた。

 ご仁は泰然自若の自由人である。だが芸術家タイプ独特の鋭い眼光で、客人を一瞥する。「お客さん」と一声、啄木の墓前で記念写真をとる若夫婦に声を飛ばした。

「お客さん、写真だけ撮って拝まなけりゃ駄目だよ」

と、心中の憤り丸出しで本気で忠告する。その姿に、別人の魂を見た。メリハリある迫力に、客人は平身低頭して墓に手を合わせてそそくさとそこを立ち去って行くかと思うと、次に立ち寄った高校生風の四、五人連れには、一変して実に優しく忠言するのであった。

「墓で写真を撮る時は足を切ったら駄目です。駄目、駄目だ。全部写さにゃいかん。そら…それでは写らんぞ」

と、こまごまと観察して言い続けていた。

 一見茫洋としているが、芸術家タイプの人というのはみなそういう心の窓を持っているようだ。描く、書くというのは心の底を見ていて描くのであろう。相手の心にピントを合わせて鋭く射貫くのである。

 私はくだけた話で声をかけた。

「さきほど飲んで食ってちょんであればいいんだと言ったが酒をやるんですか」と聞くと、ご仁いわく

「酒は飲まんです。お茶とお菓子があればいいんだよ、好きですなあ」と、歯をむきだしてニコリとほころぶ。

 前を通るタクシーの運転手たちは、なぜかここの前で徐行してご仁に会釈をするのだ。ご仁も愛嬌たっぷりに笑顔で返す。ともに、函館山観光でうるおう同業意識なのかもしれない。

 ご仁の言うには、以前、テレビ取材を受けたのだという。昼のワイドショーのロケ撮りに応じて、一時間半ほどで三万円のギャラをいただいたというなかなかの人気らしい。「この角印を押せば一〇万円以上になるんだよ、丸印の色紙なら二〇〇〇円でもいいんだが」と言って、書画に印をする角形の落款 らっかんを見せてから、美術年鑑にも出ているというご仁なのであった。

「旅に来てその土地の人々と話をせんだったら、観光に来てもなんも残らんもんだよ。印象がないというもんだよ」

と、心に熱いものをもっているご仁は、ヘビースモーカーでもあった。次々とタバコをすって大丈夫なんだろうかと、人ごとではなかった。肺の中が真っ黒なんじゃないかと、いらぬ気を回した。

 店じまいには、大事なものだけを自転車で持ち帰り、

「なくなってもいいもんだけを墓のうしろに置いて置くんだよ。アッハッハー」

と、屈託なく笑っていた。つづけてご仁は

「金がいくらあったとて、そんなのいくらも続かんもんじゃよ。無くてもどうっちゅうこともない」

と、他人に使われる位なら乞食のほうがましだ、と言い切る悟境の人生を飄々と生きるご仁。

 向こう三軒両隣の墓を店がわりにして、死人の魂を助手につけて生き抜くしたたかさは、超人の道をゆく姿であった。

 

〝はたらけど

はたらけど猶わが生活くらし

楽にならざりぢっと手をみる〟

-石川啄木-

 

なのだが、わがくらし楽にならずともどうっちゅうこともなし、といったところのご仁であった。啄木も一目置いてほほ笑んでいることであろう。

 冬は書道を教えて過ごすというご仁が私を足止めして、「この言葉だけは覚えていったほうがいい」と次のようなことを言ったのである。

「夫婦のクジ(籤)には外れは無い 当たりクジ(籤)を知らないだけである」

と。それはあるいは、自分自身の体験的メッセージだったのかも知れない。含蓄のある名言である。

 かくなる強い印象を受けて別れてからはや二〇年が過ぎた。これほどの印象に残るご仁ではあったが、共時性現象の記録としては、そのひびきの共有が今一つ無かったのである。そこでこの記録はパスして次に進めようと考えた。だが、どうしても思い切りよくパスすることができなかった。パスしては思い止どまるという繰り返しが続いて、何でこれほどまでに心を引っ張るのかと、私はじれったく思っていた。私もいいかげんに頭を切り替えるつもりで、図書館に行ったついでに本を三冊借りてきた。それは、平成二〇年(二〇〇八年)五月九日であり、翌日にはその一冊に読みふけったのである。『継続の天才-竹内均』(扶桑社)である。地球物理学者の竹内均先生の自叙伝である。(竹内先生は、平成一六年(二〇〇四年)四月二〇日没 享年八三歳)。その五九ページまで読み進めたときのこと、あっと思うや、背筋にエネルギーが昇り上がった。そこの見出しは、一日中タイガー計算機を回し続けた日々とあり、竹内先生が、大学院生時代に研究なされた地球潮汐の研究の為に、手動のタイガー計算機を回し続けること四年という歳月について記されていた。月の引力と地球の引き潮と満潮について、学位論文達成までのすさまじい情熱であったが、その研究を支え続けた手動のタイガー計算機に目が走ったとき、一気に二〇年前のあの函館山の、石川啄木の墓前が迫ってきた。そして、死人の魂を助手にして、啄木ゆかりの書画類を売っていた相坂春山というご仁が浮き上がったのである。若い頃、タイガー計算機の修理専門で、北海道一円を駆け巡っていたというあの話が強烈にひびき上がった。ご仁はさらに、いい時も悪いときも人間誰しもあることだ、と言って

「そこの海の潮でも引いたり満ちたり」

とさりげなく言い放った言葉が、今ここで竹内先生の引き潮と満潮の研究の話に同期して浮き上がったのである。

 これは一体どういうことか、全くの偶然の話だとするならこれで終幕というものだが、私にはどうしても無関係ではないという霊脈が一瞬の光を放ったのである。亡き方々の魂の出会いが絶対にあり得るのだと思った。

 亡き竹内先生の一大論文となった地球潮汐の研究の引き潮と満潮について、それを支えたタイガー計算機は、どうしても、石川啄木墓前のご仁が話すタイガー計算機と、また人生談義の「海の潮でも引いたり満ちたり」という言葉のひびきは激しく共振共鳴しているではないか。

 私の心を媒体 メディアにして、時空なき二〇年の歳月をかけて、亡き霊魂世界の〝生きて通わしている実在〟を必死に伝え続けているとしか考えられない。そればかりか、竹内先生の回し続けたタイガー計算機は、大正一二年(一九二三年)に大阪の大本鉄鋼所で開発したのであり、発明者の名前から虎印計算機と呼んでいたのを、のちに舶来風にタイガーに変えたという。その虎印に、竹内先生の思いのひびきが私には伝わってくるのだ。

 竹内先生が、人生最大の運命的出会いと言われた、旧制大野中学二年生の時の出会い。それは、東京帝国大学の寺田寅彦先生随筆「茶碗の湯」であると言う。寺田寅彦先生と、竹内先生の虎印計算機(タイガー)が、どうしても当然にして、共振共鳴の魂のひびきが鳴り渡っていると思えてならないのだ。

 死んで消えたはずの亡き霊魂は、強く思いを寄せる人の命に同化して、見守りの光明を照らしていたと言っては言い過ぎであろうか。そして、函館の石川啄木の墓前の出会いは、ここで終わってはいなかったのである。

 亡き魂が生きて輝いているこの話を、いくら考えても思索は延々繰り返すばかりで、脳の世界が混乱していた時のこと、落語か講談でも聴きたいものだと思いつつラジオの番組表を開いて見た。五月二二日夜八時・NHKラジオ、新・話の泉、立川談志・山藤章二他とあり、ゲストには、競輪王・中野浩一が出ていた。頭のリラックス体操には、こういう番組は実に有効なものである。

 そういえば竹内先生は、少年時代から講談の大ファンであって、軽く一席できるほどの熱の入れようであったという。ところが、この番組の終わりにかけて、また来週までの宿題として出されたのは、何とそれは石川啄木の〝はたらけどはたらけど…〟の一句であったのだ。

 よりによって、石川啄木の墓がご縁で触発された二〇年前の話から、ひびきを共有できる一連の流れが見えてきた。

 

啄木墓前のご仁と竹内先生のタイガー計算機の話

人生の引き潮と満ち潮と地球潮汐の引き潮と満ち潮の話

恩師・寺田寅彦先生と竹内先生の虎印計算機(タイガー)の「寅と虎」の話

竹内先生の愛した講談・落語寄席とラジオ番組の寄席と石川啄木の話

竹内先生の本を借りたのは五月九日で、タイガー計算機の話は五九ページであったという話

 

という文字的に、数字的に暗示する魂の響き、この共振共鳴の話は、まさに〝潮の満ち引き〟にも似て、霊魂のエネルギーは、この現実社会に文字・数・色という魂のひびきとなって、私たちの心を媒体にしてひびかせ、人の心に沁みわたり、この世を運ぶ一大根源力となっている。亡き霊魂エネルギーの一大潮流を感じてならないのである。

 

 

 

 

       

 

 

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