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神秘の大樹だいじゅシリーズ第一巻
神秘の大樹
  偶然が消える時

神秘の大樹シリーズ第一巻「偶然が消える時」装丁

 

 

 

合川町に生まれた名湯

 

 この町に温泉が出てもらいたい、と妻が言い出したのは、どのような思いの中だったのか詳しく聞くこともなく、その夜は妻の一人言の感じで過ぎた。

 時は、鷹巣駅から角館駅までの内陸縦断鉄道が走る合川駅の直ぐ前にある山喜旅館に泊まった時のことであった。ここは北国の秋田県北部に位置する合川町である。

 私達は、金婚式を迎えて結婚五〇年にもなるが、「ここに温泉が出てほしい」、などという話は前代未聞のことであって、誰だって温泉が出てほしい思いはあるかもしれないが、口に出してここにと場所を指定して、そんなことを言う人は聞いたこともない。

 世に伝説めいた話はあることで、たとえば弘法大師が、ここからお湯が出ると言って、手にする錫杖 しゃくじょうで大地をついてひびかせたら、のちのちになって、現在の秘湯といわれる山峡の温泉が湧き上がったというエピソードは、全国に少なからずあるようだ。

 弘法大師ならずともそれと似たような逸話が世の中に潜んでいるかと思うのだが、その真偽のほどは別として、ここ合川町の駅前に、本当に湯が湧き出たことを、平成元年二、三月ころに妻から聞いて知った。新聞で知ったというがいつの新聞かは定かでない。「やっぱりお湯が出たんだ」と言って大変喜んでいた。

 合川町と妻の結び付きとなったのは、今から二五年前に起きた日本海中部地震があったその年からであった。

 その震災が起きたのは、昭和五八年(一九八三年)五月二六日木曜日の正午のことであった。秋田県の日本海沿岸を中心にして、多くの尊い人命が犠牲になり大きな被害を受けたのであったが、その中でもひときわ目を引いたのは、社会科見学に胸ふくらませて出発した小学生の一行である。

 秋田県庁、NHKなどを廻り、男鹿水族館へと進んだコースで、楽しいお昼の弁当の時間を前にして起きた、一瞬の悪夢であった。天を覆う大津波に呑み込まれ、海のいのちに消えてしまった幼い児童たちである。

 秋田県北秋田郡合川町立合川南小学校の四、五年生一行、四五名の内一三名のいのちは、無言の帰宅となったのであった。

 この遭難事故についてはその後、数年にわたり法廷論争となり、四年余にして和解決着されたと耳にしている。当時妻は、連日報じられている一三名の子供たちと、深い次元での魂の交流があったように私は受けとめている。それこそ潮騒のごとくに、子らの心のひびきを受けとめてきたのであった。そのことが機縁となり、何人かのご遺族の方たちと交流があったことから、確か菩提寺においての合同法要に参加したときであったが、家からは遠い地方のために、前日の夕刻出発して、その夜は、合川駅前の旅館に宿泊した。その時に、「この町に温泉が出てもらいたい」と、口をついて出てきたのであった。それから五年の歳月が過ぎた昭和六三年(一九八八年)四月のこと、その旅館から二〇〇メートルも離れていない個人の宅地から温泉が湧き出たというのであった。

 その温泉湧出までの経緯は何一つ分からないが、そのニュースを新聞で知ったというので、妻からそのことを聞かされていた。

 その後私が、妻には何一つ知らせることもせず旅に出たのは、平成元年(一九八九年)四月二一日のことである。私は酒乱人生からの脱却のために自己改革の最中であったが、その日何かに押し出されるようにしてやみくもに旅の衝動にかられたのであった。

 かくして無目的の旅は、帰宅するまでの四一日間を走り続けた。当てもない車中泊の旅は、妻に何の連絡もせずにひたすら足の向くまま走っていたのである。それは多くの出会いと、神秘体験などいろいろと見聞を広めながら、三六日目には、函館から青森にわたり、一路国道一〇三号線を南下していたのである。

 国道一〇三号線は、青森市から八甲田山を越えて十和田湖畔を半周し、発荷峠を越すと鹿角市を経由して終点の大館市へと続いている。途中鹿角市からは国道二八二号線と交差する。車中泊から目覚めたときはその日の方向を定めなくてはならない。風の吹くまま気の向くままの旅とはいっても、走る方向だけははっきりしなくてはならない。最初に思い浮かんだのは盛岡に出ることであった。一〇三号線から途中で二八二号線に左折することに決めて、盛岡経由で帰路に就こうと思ったのである。

 ものの二〇分も走ったあたりで二八二号線の看板が出始めていたが、その頃から心にブレーキがかかり始めていた。

 一〇三号、一〇三号が頭から離れないのだ。そればかりか合川、合川町へ一三名の子供たちと温泉、温泉の心がひびきだしていた。この時はすでに二八二号線は通過していて盛岡への道程はどんどん遠くなるばかりであるが、一時間も走ったところでそこが森吉町であることを知った。合川町はすぐ近くである。そこの山中でわずかの平地に車を停めて、日課のヨガ行を終わらせて、さて朝食をと思ったが、そういう決まった食事は旅の中では一切無いのであって、この朝の食事は前夜十和田湖で一袋の餡玉を買った残りがあるからその小さな四、五個で十分である。

 ところがその袋を見て思った。縁になった一袋の品といえどもそこに記されている文字や、数字というものには、何かしらの因縁深いものがある。中森の松露という銘柄だが、実はこの地域は森吉町なのである。

 前夜半、十和田湖を通過する時買った餡玉の商標が「中森」であり、今、朝を迎えたこの地が「森吉町」の山中ということに、ここで、どうも文字的ひびきが気になった。何気なく買った餡玉ではあるが、その時すでにこの地に向けた方向性の意志が組み込まれていたのではないか。

 心が向き続けた合川町には数分のところまで来ているし、盛岡行きをはねのけてまで、そして、私の理性を打ち消してまでも、ここまで引き寄せたエネルギーとはやはり、あの一三名の子供たちの魂であったのかと思わずにはおられなかった。

 一〇三号、一〇三号と突き進めた一三名の魂は、数の魂となって迎えていたのではないか。やがて合川駅までたどり着き、そして、温泉が出たというあの話を確かめたくて、昭和五八年に宿泊した山喜旅館を訪ねた。妻がこの町に温泉が出てもらいたい、と言い出したのはこの旅館でのことだった。

「温泉が出たという話を聞きたいのですが」

と、女将さんに尋ねると

「すぐ近くに出たんですよ」

という。

 ここからものの二〇〇メートルも離れていない至近距離であって、個人の土地であるという。これは嬉しいことだと早速駆けつけてみたら、大きな二枚の看板が立っていた。看板の分析表を見たとき、素人なりにもこれはいい温泉だと感じた。全国の奥深い秘湯は随分と歩いたが、これらの温泉にも劣らぬ名湯の雰囲気を感じたのである。泉温が四八・三~五三・〇度。湧出量は二〇〇~九〇〇リットル。泉質が塩化物「強塩泉」・ナトリウム。名称がさざなみ温泉(漣温泉)と記されていた。

 それを見て私なりに、万病に効用のある願っても無い名湯の条件のようなものを感じたのであった。名称もまた実にいいのだ。「さざなみ温泉」である。もう一方の看板には、温泉効果抜群どうぞお持ち帰り下さいとあり、さらに温泉のある町づくり町民運動を始めているので、この運動に皆さんの参加を呼びかけているものであった。

 私は、これらの温泉看板を見て足元が軽くなった。ゴムまりのようにぽんぽん浮き歩く思いであった。あたかも子供たちの喜びさえも感ずる気の高まりを感じたのであった。どうぞお持ち帰りをとあるから、自噴流出のこの温泉を一三名の子供たちに供えようと思い、ガラス瓶に入れて菩提寺にかけこんだのである。

 先ほど、山喜旅館の女将さんから、

「昨日がちょうど、子供たちの七回忌を終えたところです」

と聞かされているから、命日が五月二六日の昨日のことであり、さぞかし菩提寺は大忙しであったであろう。翌二七日に私が引き寄せられたのも、一つはお守りの中であったように思ったのである。

 私に、青森から国道一〇三号線を走らせ、十和田湖では、中森の餡玉を手にさせ、今日は森吉町内でヨガ行をとらせ、盛岡行(国道二八二号線)を無視してそのまま一〇三号線を走らせたのであった。

 一〇三号と一三名、一三へ一三へと数霊に乗せてひびかす亡き魂のご意志。さらに、一三名の子供たちは、昨日が命日で七回忌が終えたばかりの静かな翌日に、おばちゃんも祈った

「この町に温泉を…」

と、そして、土地所有者のお力を借りて、湧き出た温泉を持参できてあいさつをすることができたのであった。

 この温泉は「強塩泉」という。さらに温泉名は「さざなみ温泉」というのだ。それだけでも海で遭難された一三名の子供たちの新たないのちの泉なのかも知れないと私は思った。合川町民一同に幸せ恵みの真心一点の温泉であると私には思えてならない。また掘り当てたオーナー御自身の、篤実な人徳に基づくものだと思っている。末長く町民に親しまれ、健康一番で、豊かな町民を見守っていただきたい。

 温泉水を手にしながら菩提寺の一三名の子供たちの写真の前に立った私は、一人一人の魂に、名前を呼び、あいさつをして温泉水を供えた。そして、最後の写真の一〇歳の女の子に、私は心の中で「信子ちゃんの両親はうちにもたずねてこられたんだよ…ありがとう」とあいさつをさせてもらい、ほっと気も晴れて魂の一役を終えた気分でそこを後にした。

 帰りには、正法院の母堂並びに清水住職夫妻より温かいおもてなしをいただき感謝を申し上げて、私は旅の続きへとおいとまをしたのである。

 

 

 

 

 

   ❷後 ❷前 (エピソード)

 

魂は死なず —— 一三名児童のいのち

 

「合川町に生まれた名湯」に続いてここでも取り上げてみたい。幼い一三名のいのちが大海の津波にそのいのちをかえしたのは、昭和五八年(一九八三年)五月二六日日本海中部地震の出来事であった。その子供達に結ぶ三つの話をしてみたい。

 

その一(昭和五八年初秋)

 

〝ひかねばとどかぬ道の尊きものと、証しをたてます合川一三名の子供達〟と妻の心にひびき上がった心の光。酒田市日枝の里において次のような歌「子らのこころ(一)(二)」に託されたのは、昭和五八年初秋のことであった。ご遺族の方が家を訪ねられる前日のことであった。

 

子らのこころ(一)

 

(1)

寝息をたてる横顔に

やさしく育ててくださった

だきしめてだきしめてお母さん

朝になるまで話してね
おとぎ話をきかせてね

 

(2)

陽なたのようなこの胸に

一生すみます不思議です

一〇年あまりの生涯(いのち)でも

声をつないでくださるの

世にのこされる子供達

 

(3)

生まれかわったよお母さん

つらいとおもうなお母さん

お役にたちますお母さん

うけてたちます子供達

願いかけたるつなぐ文字

 

子らのこころ(二)

 

(1)

幸せをつなぐ

酒田にみちがある

日枝にまいるねがいだけ

このかたに

めぐりあえたら声となる

一緒に生きます今日からは

 

(2)

すいれんの花に

たくしてほしい心のねがい

おばちゃんに

あえるその日をまちわびて

一緒にまいる日枝の里

 

(3)

子らの出会いを

だいじにされて

心のともづなつよくなる

合川の

まことしらせる子供達

一緒に生きますこころから

 

その二(平成五年二月二一日)

 

 ここでは、拙著・自分史『酒乱(米の生命が生きるまで)』の一節(一七九ページ以降)に記したものを転載している。

 

「酒乱童子の成仏」

 生命を貫く因縁の凄さは、絶妙な生命力となって、子孫の生身の中で開花する。人の心の累積は、五代、一〇代、二〇代と引き継がれ、二人の親は四人となり、倍々と増えていく先祖たちは、四百年くらいで一〇二四人、七〇〇年では、一〇四万八〇〇〇人の先祖群団になる。

 錯綜混沌として、ドロドロと溶解している人類の想念(心)は、我々の生命の中で祖先霊(霊界心=疑似魂)として、ピッカピッカの生命本体(真性魂)にからみつき、生きて生きて生き続ける生命力となる。

 この因縁という生命力は、ちゃんとした意識体としてこの世に生きようとするから運命劇が始まるのだ。そして、この因縁の意識体(心)の舵を取るのは、あくまでも自分の意志の力なのである。

 強い意志を育てることこそ、悪性因縁から目覚める唯一の手段であると実感した。

 こんなことは、先刻承知のことだろうが、本当に心の中で、悪性因縁を打ち負かす意志力を育てるということは、頭の中で考えるように単純なものではない。私の酒乱性因縁も父の時代を飲み尽くして、さらに、酒乱童子の真っ赤な舌先が、子孫である我々にも及んだのであった。その因縁の結晶の吹きだまりが激突する。

 以後決して飲むまいぞと、歯ぎしりしての抵抗も空しく、二三歳で因縁酒の洗礼を受けてしまった。牙をむきだし、燃え続けた鬼火は、因縁の心深く食い込んで、魂の傷口をどんどんと広げていった。

 そして、妻もろとも呑み込むかにみえた悪鬼も、妻の、生命に生きた沈黙世界の師となる愛の光にはばまれ、ついには、手も足も出ないようになった。それとともに私の中には生命の真実が芽生え始め、そして、新しい意志力ができてきたのである。

 酒乱二代、母が父に五五年、私の断酒まで二八年と心磨き期間五年間を合わせて三三年、親子合わせて八八年の長きにわたったが、神がたむけた二人の女のお陰で、人の道に目覚めることができた。妻もボソボソになった心身を引きずりながらも、不撓不屈の精神力の勝利となった。

 

流してならぬ悪因縁

手前一人の快楽を

〝ツケ〟で喜ぶ親は鬼

泣くに泣けない子の不幸

知らずに生きてなるものか

我が身裂けても二度とまた

現世の〝ツケ〟はきっぱりと

消して花咲け末代までも

これぞ調和の人の道

いのちの原点ここにあり

 

 

「心霊へのいざない」(死後に残る津波の恐怖)

 酒乱地獄に落ちてからは、毎日山歩きが日課となり、数多くの心霊体験をする中で、一つだけ、死に学ぶことができた。人が臨終を迎えたとき、思い残すこともなく、並いる人達に感謝の心で旅立ちできるなら、人間として、至上の幸せだと思う。

 人間の真の価値は、死の直前に凝縮される想念の明暗にかかっている。死の直前の思いだけは追体験できないし、臨終の人にそのことを伺うこともできない。死の一瞬、人は何を思い何を言わんとするのか、何を体験するのか…知る由もない。だが、この不可能とされていることを私は、一三名の津波で亡くなった子供達から教えてもらうことができた。

 そのことにより、一種の臨終意識の体験化ができたような思いだ。人の死後に残していく思いは、死の直前の、今、消えなんとする意識の中に、すべてが凝縮されるものだと思う。…中略…このことをはっきりと実感させてくれたある旅の一日を紹介したい。

 それは、昭和六一年(一九八六年)八月一六日お盆のこと、一本のコブ杉の大木と会うために出かけたのだが、捜し求める銘木は見当たらず、一枚の写真を頼りのこの旅は、見えざる手に導かれた魂の旅となった。

 山間部を巡り歩く中、いつしか見覚えのある村にたどり着いていた。そこには、日本海中部地震の津波で亡くなった一三名の児童の菩提寺がある。ここへ来たのも子供達の引き合わせだと思い、静かな位牌堂に特設された一三名の写真に向かい、一人一人の名前を呼んで語りかけながら冥福を祈った。

 そして車に戻りドアを開け足を入れようとしたとき、何かうしろでサァーッとざわめく感じを受けた。これは子供達だと直感した私は、「あっ…そうだ、子供達を車に乗せて行こう」という気になった。それで、左側のドアを開けて、「おうーい…みんなもいっしょに行こうか…」と呼びかけたら、急に子供達の喜びざわめく声がして、つぎつぎと座席に乗ってくるのを体感した。「おう来たな来たな」と思いながら、「みんな乗ったか…さあ行くぞ」といってドアを締めて走りだした。

 それから村を出るまで、何やら子供達の賑やかな話し声を感じながら国道にさしかかった。ちょうど昼頃であったから、妻が持たしてくれた食事もあるし、セロハンに包んだ煎餅もあった。そこで「おじちゃんといっしょに煎餅を食べようか…ねぇ」と心で語りかけ、そして、運転を続けながら左手で煎餅を二、三枚握りしめて割った。「さあ…おじちゃんが小さく割ったからなあ…」と言いながら、今度は車を停めてみんなに公平にわたるかどうかと、セロハン袋を切り開いて数えてみた。一三個に割れていたので、「おうい…みんなにちょうどよく割れたぞ」と言ってから一瞬気が引かれる思いだった。無造作に割った煎餅が、亡くなった一三名の子供達に、一三個のかけらになっていたのだ。その時子供達がざわめきの中で、口を揃えたようにして声になった。「粉はおじちゃんのぶんだよ」といのちの中からはっきりと聞こえてきた。割ったときの粉のことである。

 亡き心は、この世を、どうしてこんなにはっきりと見えるのだろうか。この私のいのちの中に結ばれて、私とともに見ているのではなかろうか。

 このことを常識で考えれば、たんに偶然か幻聴にしか受け止められないであろう。だが私は、その必然性を信じて疑わない。子供たちの魂は永遠だということを。

 再び出発した車の中で、しばらくの間会話が続く。車は先ほど来た道を逆へと走っている。やはりコブ杉のことが忘れられず、その目当ての村近くで尋ねることにした。

 ある商店の主人は必ずあるという。大林村というところから右へ入る道があるからそこでもう一度聞きなさいと言う。村外れまで来て酒屋でもう一度聞いてみると「全くわからない」という。

 だがそこのおかみさんが、

「コブ杉はわからないが、毎年一〇月一〇日の体育の日になると、杉林へ子供達が遠足に行くようですよ」と教えてくれた。世の中、意外と灯台下暗しで関心がなければ気づかぬことが多いものである。

 不案内のままその分かれ道を奥へ奥へと入って行くと見事な杉林が見えてきたが、目的のそれらしい古木は見当たらない。そしてその林道はいつしか行き止まりとなっていた。

 その頃からであった。子供達がしきりに喜びながら話しかけてきた。さも遠足にでも来ている感じではしゃいでいる。今度は車の中へ大きな虻の出入りが始まった。それも子供達一三名の人数と同じくらいが勢いよく出入りする。しばし見とれていたが、早くここを出なくてはと思い、国道近くまで下ってきたその時、はっきりと子供達が話しだした。

「おばちゃんに花のおみやげもって行ってぇ」

と言う。妻に花のプレゼントである。

「うんうん、そうかそうか」

と、車を停めて外へ出た。左山裾には、色とりどりに秋の花が咲いていた。これもあれもと手にした花は、白いウドの花、薄紫色の萩の花、黄色いカラ芋の花、白銀のススキの穂花、紅紫色のミソ萩の花、この五種類の花が子供達からのお土産となった。

 妻にとって一三名の子供達とのいのちの結びは、生涯忘れることのできないことであろう。妻の世界に沈黙世界の心が生きて通い結ばれたのは、この子供達が初めてであったからである。

 水難にあってから、「おばちゃんおばちゃん」と、心を寄せてくる。亡き心からも光と見えた妻のいのちだったのだろう。一心の愛で語りかける妻の心は、子供達とも強烈に結ばれたのだと思う。

 さて花のお土産をいただいて車は再び走りだした。山間を縫うようにして進んで行き、途中で、昼飯には遅かったが鯉茶屋というドライブインで休んだ。

 そこには大きな沼がいくつもあって、クマ、タヌキ、鳥などがいる小動物園があったので「みんな、ここで遊ぼうよ」と声をかけたのだが、今度は急に会話が止まってしまった。「あれ…どうしたのかな」と気になりながらも、一人で見て回り、食事も終えてそこを出た。

 そして、三〇分ほど走り続けると、人里離れた高原地帯が広がっていた。辺りには、カラ芋の黄色い花が天然とは思えない一面の畑となっていて目を見張った。そして、その先を左折すると近くにダムと滝があるという標識が見えた。そうだ、ダムで遊んで行こうかと思い、

「みんな…ダムに寄っていくよ」

と心をかけた。今度は急に返事が返ってきた。

「ぼくたち車の中にいるからおじちゃんだけ行ってくれ」

と言う声がはっきりと耳元に聞こえてきたのである。それじゃ駄目だなあと思い、ダムで遊ばず帰路についた。その時すぐには気づかなかったが、しばらく走っているうちに直感が体を突き抜けた。あ、そうか! あの子たちは津波で亡くなったのだ! 水が恐ろしいのだ! 海のような沼やダム、滝は、命を失う恐ろしい場所だったのだろう。

 津波による強烈なショックはどんなに恐ろしく、苦しみの一瞬であったことか。この世から消えるときの一瞬、その一瞬に凝縮されて幼い児童の脳裏を駆け巡ったのは、お父さんお母さんのことを思う間もなく、一口に自分を呑み込んだ青黒い怒涛の怪物であったといえる。

 そこによぎる意識は、恐怖の二字だったと思えてならない。水難の恐怖に叫んだ一三名の児童たちにとって、死後において、初めて愛の心結びができたのは、おばちゃん(妻)ではなかったのか。

 沼のある鯉茶屋では急に会話が止み、「ここで遊ぼう」と言っても応答なし。私の心の呼びかけで子らは震え上がったのではないか。死の恐怖が重なったからであろう。

 またダムでは、「自分たちは車の中で待っているから、おじちゃんだけ行ってくれ」と言う。子供達の恐怖も知らずに声かけした私に、どんな思いで応答してくれたのかと思うとき、私は心なき冷たさにさいなまれたのだった。

 この子供達に学ばせていただいた永遠の命を尊く思い、亡き魂の厳然として生きている心の証しに頭の下がる思いだ。野山の草花に命が重なって、おばちゃん(妻)のいのちに結ばれる喜びの一日となった。

 以後、声なき声は、五月二六日という命日の数に生きて結ばれることが多くなった。つい三日前の彼岸の中日のこと、朝からこの原稿を書いていて、子供達から教えられたことを是非紹介したいものだと妻と話し合っていた。真心からそう思うとき、その心は〝思えば通わすいのち綱〟となって、亡き子供達の魂にむずばれてくる。それも数の魂に生き生きと通ってみせてくれた。三月二〇日の三時二〇分、墓参りの車中で、突然五二六ナンバーの車が目前に現れた。こちらが追いついたからなのか、あるいは追い越しをされたのかは定かではない。一瞬、無意識で心を向けた車こそ、子供達の命数五二六(五月二六日命日)である。また、帰宅時間もちょうど六時〇二分(六二=二六)だった。子供達の命日の二六日と裏返しの合掌数字六二となって、表裏一体を示す数霊に生きて心を通わしてくれる。

 こうして、その日一日の私達は、子供達と喜びを重ね合い、一日の宿り木(肉体生命)になったと思えばよいだろう。

 皆様にはなじみのない話となったが、この世で亡き心が生きて通わす証しのナンバーと思えばよい。そして、魂の生きる証しのより所ともなり、さらに、生きているひびきの証しとなるのがこの世の文字、数、色によってであり、それらがまた、いのちの証しと関連していることは、山積する資料によって、はっきりと表明できる段階に近づきつつある。

 このように沈黙世界の心が、妻のいのちに生きたのは、酒乱人生の死線の中で、命を削って得た神からの賜り物だったにちがいない。

 

その三

 

 老若男女にかかわらず、ある日ある時、ふと口をついて出てくる言葉や、予期せぬ行動など、自分でも分からないことが時にはあるものだ。そして、それが予期せぬ現実となったり、それが幸不幸の両極であったり、決して科学では解明することのできない世界がいつの世にもありつづけてきた。ある不可解な言動が現実化するということはよく聞く話であり、それらのことがたんに偶然として打ち消され、理解されることもなく消えてゆく。

 だがそこには言い知れない深さと、根源的で命の中で滔々と流れているある意志性が感じられてならない。一体それは何であろうか。実に気になるところである。科学的には、予期、予測というのがあるし、霊的には、予知、予兆というのがあるし、いずれにしても、先々起こることを前もって知ることの世界になるが、そこには、天地自然の生命の源流のようなものを感じてならない。

 言い換えれば、そこには絶対的な意志性の存在があるのかも知れないし、いわばこれこそが宇宙絶対調和力の意志的現れなのかと私は考えてしまうのだ。

 それらの、とてつもない力がこのちっぽけなわれわれになぜ関係あるのかとなるのだが、それこそ、命あるからこその自分たちゆえに何もかも綿々と連なっている一大生命界の一員だからこそ、何らかの啓示性を含めて、代弁させられているのかもしれない。

 こうした考え方は、かえって漠然として曖昧模糊になるかもしれないが、こうした問題はもっと単純なことからその回答を引き出し得るかもしれない。ただここで一つだけ言えることは、事実として、私たちの命には精神的にも肉体的にも一大生命界に連綿として結ばれている接点があるのだ。すなわち、生命は同根であるというその事実を思う時、自分に心があると同じに天地自然にもその意志性を信じることはごく自然な話ではないか。

 それらの謎解きは大難問となるが、やがてはその門戸の光が見えてくるであろう。

 平成四年(一九九二年)に読んだ本で『岳彦の日記』(けやき書房・岡三沙子編)の終章「別れの朝のエピソード」を拝読して、津波遭難で亡くなられた一三名の一人、山上岳彦くんが、五月二六日社会見学に出発する直前に、お母さんに普段にはない言動を発したのを知った。その言動にこそ予期せぬ予兆が秘められていると思った。

 普段は絶対に言うようなことではないことを、無意識に咄嗟のこととして口から出してしまう。そして今、目の前に迫っている出発を前にしてごく自然に口から出てくる。

 また今一つは、いつものことで遠出のときは間違いなく、必ずお母さんに温かい心いっぱいで言う言葉が、なぜかその時は全く出てこないのだ。まるで、いつもの親子の会話が逆転していることに気づく。

 それでは、五月二六日朝のことを拾い上げてみると、出発直前まで遠足のことも忘れつつ野球道具に別れを言いたかったのか離れがたき姿であったこと。またいつもなら遠出のときは「お母さん、おみやげ何がいい?」と、決まってたずねるその言葉が、今朝は出てこないで、「お母さん、ぼくいなくなったら、淋しくない?」と、思いもしないことを言いだしたこと。

 これらのことからそこには、どうしても岳彦君の心を覆い包んでいる意志性の発光を感じてならないのだ。その意とする発光源を、私は求め続けなければならないと思った。

 

 

 

 

 

 

いのちは磁気・磁波・磁性体

 

 いのちという名は誰が名付けたかは知らないが、いのち自身の自分でありながらも、いのちのことはあまりにも深く、遠くて手が届かない。そんないのちではあるが、求め続けることはいのちの果てまでも探求の道は続くであろう。

 今朝はそのいのちのことでふと浮き上がるイメージがあった。いのちはこころの源流であることを。そして、いのちの本体は磁気・磁波・磁性体であり、共振・共鳴・共時体の有視現象を起こすものであることを。またそれは生命元素(原子)の世界でさらにその奥の素粒子の世界に通じる遺伝子以前の世界であることを。

 われわれは、食をいただくお陰で生命元素が分子となり、細胞ができて、そして五体をつくる役割分担の細胞に分かれ、こうして今日食べた食物は立派な五体をつくってくれるし、五感で心をつくるまでに仕上げてくれる。

 その五感とされる視覚(眼)、嗅覚(鼻)、聴覚(耳)、味覚(舌)、触覚(皮膚)の五つの感覚と、五感の現実感とも異なる六感という霊的感覚があるわけだが、これら五感六感を感ずることのできるのは、いのちあればこそである。それらのことをつないでみると、宇宙をつくる生命元素があって、無限数の星々があって、銀河の中に太陽や地球があって、大地があって、大気があって、呼吸と食物をいただき、一体の「いのち」ができあがる。そのいのちは磁気・磁波・磁性の気をもっていて、そこに五感、六感が発生して、その反応の結果、心が生まれることに成る。そして、その心が人それぞれの人間模様をつくりだすことになる。それが人々の喜怒哀楽や悲喜劇の現実の姿となり、人間社会はとめどなくその変化を繰り返している。

 これら人間社会のあらゆる事象は人が生きている証拠でもあるわけだが、この生きているいのちは、一体何ものなのかと考えを巡らしてみた時、いのちは磁気・磁波・磁性体(=共振・共鳴・共時体)なのだということに気が付いたのであった。

 たとえば、ちょっとした物音一つでも耳がピクリと動き、そして、その音の情報を聴覚でとらえて、それが何であるかを察知して対応する。外に向けても自分の心に向けても、すぐにそれらの動きに反応をする。その反応こそ磁気・磁波・磁性体(=共振・共鳴・共時体)の反応であり、すなわち、それらの磁性こそ、私はいのちの本体であると考えてみたのであった。磁気・磁波・磁性体は共振・共鳴、共時の現象をもたらす唯一の心性媒体だと考えるようになった。

 いのちある限り、外的にも内的にも、この五感六感からの情報を元にして反応を繰り返す。その繰り返す反応こそ心の発生であり、反応即心であると考えた。

 心という磁気体が、情報を統括する脳に集積記憶として積み重ねてゆく。この心の磁気体はさらに、内的反応体(霊魂=潜在心)となって、日々の五感とともに心の宝庫として多種多彩な心のいろどりを生みつづけることになる。

 いのちの中で循環する情報反応によって、それぞれの個人差のある心を形成し、生み重ねているのが現実の姿であると考えた。いのちは、磁気・磁波・磁性体であり、共振・共鳴・共時現象の発生源なのだ。極言するなら、いのちは磁石だ。私は磁石であなたも磁石だ。いのちの本質はきっとそうに決まっているものだと私は本気でそう考えた。磁気・磁波・磁性体のエネルギーこそ、いのちの絶対調和力の核となるものだと確信に近い考えとなっている。

 共時性現象(シンクロニシティー)をもたらす共振・共鳴・共時の世界は、いのちが磁気・磁波・磁性体だからこそもたらす現象であると思っている。

 心も体も同一、同元、同質のもので、一元一体二象体となって現れることがいのちと呼ぶものではないのか。心と体は一人二役のようなものだ。だから生も死もない世界で、心も体も同一同根の生も死も呑み込む混合一体の世界であり、磁気・磁波・磁性をもった調和安定力こそいのちと呼ばれる本体であり、本質であると私は考えている。

 いのちは磁気体であればこそ、男と女はプラスとマイナスで引き合う性質をもつとしても不思議とは映らない。磁気・磁波・磁性体であればこそ、宇宙世界の生命元素(原子)とも融合できうるこのいのちといえる。素早く反応する気の流れ、気の動きこそ、心の源流であると考えても決して的外れにはならないであろう。

 

呼吸と食はいのちの食

食はいのちの元素

生命元素はいのちの光

心は光で体も光

いのちは

磁気・磁波・磁性体

いのちは

共振・共鳴・共時体

共時性現象の基を成す

いのちは心の源流

いのちはものいう光

ものいう光なのだ

みんな光の王子

みんな光の女王

 

 ここで、自分が磁気・磁波・磁性体の共振共鳴のいのちであることを実感する旅の触れ合いを見てみることにする。

 家を出てから気の向くまま風の吹くままの旅をして三七日目となった、平成元年(一九八九年)五月二七日のこと、私は盛岡市へ向けて国道二八二号線を走り続けていた。

 いくらなんでも家出同然の無断の旅は、妻にとって心労やる方ない異常なことであったはず。この日までに一度の電話と一度の手紙を出しているから、夫はいずれは戻ってくると思ってはいるだろうが、私にしてもその気運が出始めていたから盛岡を目指していたのであった。

 国道二八二号は、青森県の碇ヶ関から秋田県を通過して岩手県は盛岡市まで伸びている国道であり、奥羽山脈を縫うようにして、さらに東北自動車道とは右に左に入れ替わってのランデブ・ロードとなっている。

 やがて車は県境も間近い鹿角市地内であったが、それまで何度となく目にしているはずの国道標識のことが、心が沸騰したかのように一気に吹き出したのである。 標識を見て何が吹き出したかといえば、二八二号線の数字である。標識は横並びに書いてあるから、右から読んでも左から読んでも二八二と口ずさみ、今度はこの数字を縦読みにした。二八二と繰り返したとき、あるコマーシャルがびっくり箱の中から飛び出してきた。上から読んでも下から読んでも山本山で有名なキャッチ・フレーズである。

 この国道標識の設置間隔はわからないが、およそ四、五キロに一本立てているようだから、目前に現れては、上から読んでも下から読んでも山本山にならって、…右から読んでも左から読んでも二八二と、何度か心で復唱しては、ついに吹き出して笑ってしまった。一人で運転しながらであるから、モニターでもあれば精神に異常をきたしてしまった人と感じられてしまうかもしれない。こうして悦に入りつつ湯瀬温泉というところを通過したときのことである。左前方に松茸そっくりの松の木らしい木を発見した。あれ、見事な松茸松だ、と一人言を口にしたときそれは自動的に、上から読んでも下から読んでも松茸松! と言ってはまた吹き出して笑いだした。再び現れた二八二号の看板を目にして私は運転も忘れて大合唱となった。

上から読んでも下から読んでも…松茸松
右から読んでも左から読んでも…二八二

と繰り返し読んで一人で笑いが止まらない。

 実に邪気のないことであったが、気を取り戻して写真に残すため車を路肩に駐車して松茸松に近づいて行ってみたら、そこにはその松の木の紹介標柱が建ててあった。昭和五三年(一九七八年)五月二二日指定と記されていた。

 この松の木は、鹿角市の天然記念物に指定されている名木であることを知ったが、その指定月日を見て驚いた。五月二二日になっている。五月二二日は、私の生まれた二二日(九月二二日)にぴったり共振共鳴するではないか。この松の木も私も、数のいのちの中では一緒なのである。 この松の木が、私を引き付ける磁気・磁波を発振していたにちがいない。そればかりか国道の二八二号線には、私の二二日生まれと妻の八日生まれが組み込まれていて、私の二二の中に妻の八が入っているのである。二八二を縦横どちらから読んでみても、妻と私の命数の響きではないか。

 私にこの国道を走らせたのは誰なのか。何もかも知っているお方でなければこんなにうまくお膳立てはできやしないものだ。この旅は、帰宅してから分かったのだが、一日の平均走行キロ数が二二八キロメートル(九三八三キロメートル ÷ 四一日)となっていた。この二二八キロメートルの平均値はこの時分かる訳もないが、ここの国道が二八二号線であることは、それなりの磁気的共振性をもっているし、そのメッセージ性の高いひびきに満ちている道路であったといえるし、そして、私達夫婦に何かを呼びかけていることが無理なく感じさせられてならない。それはいのちの証しへの道に導くメッセージなのかもしれないのだ。

 いのちは磁気・磁波・磁性体で、その出会いの縁を結び、共振・共鳴・共時で、ともに振れ合い、ともにひびき合い、ともに時を同じくする。そのいのちの本質をここに見た思いとなる。

 頭の切れる方ならこのことを、確率論で説明するかもしれないが、私には、いのちからの温かいものを感じてならない。いのちは光で、物言う光なのである。

 食物から生命元素をいただき自分となったこのいのちは、よりよき人生の調和に満ちて、いのちに添ったレールを走るべくそれを知らされた思いになる。

 ちなみにこの松の木の名前は唐傘松 からかさまつではあったが、私達夫婦にとっては上から読んでも下から読んでも二八二号線と松茸松という、私の心に旅の潤いをもたらしてくれたのであった。また松茸松は、 待つだけ待つのだ、とも響くではないか。このいのちのひびきに、神秘の幸せを感じさせられてならなかったのである。

 

 

 

 

 

 

千里ヶ浜で誕生祝い

 

 紀伊半島の南端には田辺湾がある。この辺り一帯は田辺南部白浜海岸県立自然公園に指定されているが、その公園ができるのには、一人の人間が身命をかけた自然保護活動があった。湾に浮く小さな「神島 かしま」の貴重な植物を守るために立ち上がったのは、博物学の奇才とも呼ばれた南方熊楠であった。特に、粘菌の採集とその学問を究めた熊楠は、昭和四年六月一日、昭和天皇の御前で粘菌学の御進講を行い、このとき熊楠は粘菌の標本をキャラメル箱に入れて献上されたという有名な話が残っており、また天皇もいたく感銘を受けられたそうだ。

 熊楠は田辺の街で後半生を過ごしているが、生まれ育ったのは和歌山市であった。幼少からの異才と桁外れの記憶力を本人も不思議に感じていたからであろうが、死んだのちの自分の脳味噌を残すよう遺言を遺した。それは現在、大阪大学医学部で保存されている。すべてにおいて、他に類例のない御仁であった。

 かねてより南方熊楠の足跡と身命をかけて守り抜いた神島に巡り会いたいと考えていた私たちは、他にこれといった全体的な計画もなく、その都度行く先々を決めるという実に気ままな旅を続け、田辺駅前のホテルに宿をとることにしたのであった。

 この日は平成六年四月九日土曜日。フルムーン五日間の旅は三日目の夕刻に入っていた。四国松山から伊予と巡り歩き、新大阪駅から一五時四四分発くろしお二三号に乗り換え、紀伊半島の紀伊田辺駅に向けて出発、到着は一七時五一分であったから、二時間少々の車中タイムだったことになる。

 車中では、どちらからともなく息子のことが話題となった。

「今日は四月九日で淳の誕生日だったなあ」

互いに顔を見合わせながら感慨深げに話をしていた。息子が外国勤務に出向したのは平成二年三月四日のことであった。それから早くも四年が過ぎ、その日はちょうど、三四歳の誕生日であったのだ。

 電車は一七時五一分に田辺駅に到着した。外は夕暮れ時にさしかかっていた。宿に落ち着く間もなく係の方に「かしま(神島)」と南方熊楠邸について尋ねてみると、「かしま(鹿島)はここから南部駅まで戻って海岸に出ると見ることができる」と言われた。外はすでに暗くなっていたので、明朝一番で行くことに決め、その夜は南方邸にだけ行くことにした。

 日付が四月一〇日に変わった早朝、五時四九分の一番電車に乗り込んで二つめの南部駅に降り立った。海はすぐ近くというから歩いてみると五分くらいで海岸線に出た。

 浜風は肌寒く、明けきらない日の出の浜辺一帯はまだうす暗さを残していた。南部湾一帯を望める砂浜に降り立ったとき、妻は何を目にしたのか身体をかがめながら叫んだ。

「お父さん 淳の誕生日だ! 石で書いた誕生日だ、四月九日だ!」

 まさかここに息子の四月九日が書かれているなど、どう考えてみても信じがたいことなのである。だが目の前にはっきり「4月9日(土)」と、満遍なく小石を拾い集めて描いてあるのだ。そして名前も書いてあった。

〝4月9日(土)ハシバテツオ〟

という文字が、生々しく砂浜に浮き出して輝いていた。小石の数はかなりの数量になる。

 昨日描かれたものであろう。単身の男性の名前なのか、あるいは恋人同士なのかどちらかに違いない。〝ハシバ〟が女子の姓で〝テツオ〟が男子の名前なのかもしれない。そしてこの辺り一帯は、千里ヶ浜に続く海亀の産卵地でもあった。

 

千里ヶ浜の石の文字

 

(1)

4月9日誕生日

見知らぬ浜に来てみれば

石を並べて書いてある

4月9日と書いてある

ここは南紀の南部湾

千里ヶ浜の石の文字

 

(2)

4月9日誕生日

見知らぬ浜に来てみれば

石を並べて書いてある

4月9日と書いてある

いのちの愛が待っていた

千里ヶ浜の石の文字

 

(3)

4月9日誕生日

海をへだてた隣国の

せがれの安否思うとき

見知らぬ浜が呼んでいた

4月9日と書いてある

千里ヶ浜の石の文字

 

(4)

4月9日誕生日

海をへだてた隣国の

せがれの安否思うとき

いのちみちびく石の愛

千里ヶ浜の石の文字

 

 偶然といえばそれまでの話になって実に風通しがよく、心は宙に消えていく。それでは偶然の姿をした現実の、真の姿が見えてこない。偶然は外見の世界である。時計の針やデジタル表示の世界である。われわれが見ている表面世界と同じである。それらの原動力となる世界は内面にある。それは時計のメカニズムのエネルギーであり、人の心を支配する魂の世界が見えざる世界に明かりを灯しているのだと私は考えている。表の世界の原動力となる、いわば不可能を可能に組み立てることのできる世界だといえよう。

 この世の誰も彼も、また何もかもが役者のようなものであり、その脚本家が魂であり、メカニズムであり、そして、いのちという絶対者が目を光らせている。それも昼夜無休で目を光らせているといえるのではないか。

 見えぬ手で導くその姿が、具体的には見えぬとしても、見える手立てとする意志の代行媒体として、文字や数字や色彩を目の前に現し、共振共鳴共時性現象となって、現実に、この目に見せてくれる。それを偶然といってしまえば、いのちの真実は遠ざかるばかりである。電車のなかで息子の誕生日に親としての思いを一つにしたとき、〝想えば通わす命綱〟となって、天に届き、地にひびいたのだと思うのである。

 4月9日(土)に千里ケ浜を訪ねたハシバさんは、私たちとは何の因果も持つものではないかもしれないが、その姿を見ているハシバさんのいのちは、私たちの思いをキャッチしているように思えてならない。それは決して単なるたわごととは思えないのである。

 宇宙を創造して、地球に生命を吹き込んだ宇宙生命を絶対調和のご意志と見るならば、その根源エネルギーでこの世に存在させられたわれわれのいのちにとって、人びとの因果に係わらず、個人個人の心を統御コントロールするくらいは容易千万なことであろう。

 だからその、文字的、数的、色彩的現象体にいのちの意志を感ずるならば、ここ田辺の街に引き寄せられたことの節々に、そのご意志の機微を感じることができよう。

 たとえば、4月9日に南方熊楠を訪ねること。車中で息子の誕生日を思い浮かべて安否を気遣うこと。宿の従業員が、「神島 かしま」を「鹿島 かしま」と誤って南部湾にわれわれを向かわせたこと。もしも本命の田辺湾の神島のほうを教えてもらっていたら、「4月9日の石の文字」とは出会うことはなかったのだ。こうした微妙な食い違いでさえも、いのちの意志力は見逃すことはしない。これこそ「死んでも生きている魂」の証しといえよう。

 因果性(因縁果)も非因果性をも越えた世界は、不可能を可能に組み立てることのできる世界だといえる。そのことは、宇宙生命の一大ご意志に委ねるほかはない。

 表面世界は役者が役を演ずる世界で、内面世界が書く脚本を演ずるものであり、それらは脚本と役者の因果関係となるが、それ以上の深い生命次元のことは、因果も非因果も越えた果てしない命の統御次元に委ねるしかない。食べて呼吸をして生きている私たちは、この生命次元の総監督のご意志の下に生きるほかはないのである。

 朝一番電車の五時四九分に乗ったことにも、〝四九〟の暗示性のひびきが強く秘められていたといえる。

 南方熊楠は、動植物のどちらとも思える粘菌に打ち込んだ人物だ。熊楠から感じ受ける真意は、「生命の謎」の探求ではなかったのかと考えさせられる。熊楠は次のようなことを吐露している。

 

「今日の科学の因果は分かるが、縁はわからぬ。この縁を研究するのがわれわれの任なり。そして、縁は、因果と因果が錯雑 さくざつして生ずるものなれば、諸因果相対の一層上の因果を求むるがわれわれの任なり」-南方熊楠-

 

 ここでいわれる「諸因果相対の一層上の因果」云々というのは、非因果性の相関関係に起こる共時性現象とも私には受けとられる。共振共鳴共時性現象のことを、南方熊楠は考えていたのではなかったのか。いわゆる偶然の一致といわれる現象の奥に秘められたいのちの真相に的を当てていたのかもしれない。

 因果の世界は果てしない。非因果の世界も果てしない。心の因果の世界は魂のひびきとなって、不滅の生命を証しつづけているのだと私は思うのである。

 今回の旅では、大阪市東成区にある、わが国最古といわれている「鶴の橋」(第一六代仁徳天皇の世、平野川に架けられた橋)にも立ち寄った。そして、南部湾の千里ヶ浜は海亀の産卵地であることを、後になって知った。鶴と亀は私にとって魂の一部である。出会いの縁の深い意志性がここにもひびいていたのであった。

 

 

 

 

 

 

待っていた兎太郎と松ノ木峠

 

 それは昭和六一年(一九八六年)八月四日のことであった。山深き朝日林道を進んでいると、道の中央で、避けようともしない一羽の野性の兎が私に何かを語りかけていた。

 

(1)

お前さん来るのは先刻承知

決して見せない昼日中 ひるひなか

いのちの親さまおしえてくれた

今来る人は安心じゃ

僕は朝日の兎太郎

 

(2)

ようこそいらっしゃいお前さん

少しドキドキあったけど

いのちの親さま守ってくれる

恐れもせずに道で待つ

僕は朝日の兎太郎

 

(3)

心悩みのお前さん

自然の中には悩みなし

泣かず明るく生きている

役に立つかと道で待つ

僕は朝日の兎太郎

 

(4)

お前も僕も兄弟分

いのちは一つで結ばれる

僕は兎でお前は人間

ぬいぐるみの違いだけ

僕は朝日の兎太郎

 

(5)

僕は緑の草を食べ

お前はお米のご飯食べ

元気で生きる自然流

ともに地球の緑の中で

僕は朝日の兎太郎

 

 私が兎太郎と出会ったのは今から二二年前のことであった。人生やり直しに入って間もないころであった。来る日も来る日も山深く分け入って、大自然の中にこの身を発散させ、解放させてありったけ拡大膨張させて、それは自己からの脱出をするためであった。それを成し遂げられたのも妻の支えがあったからだ。それなくしては何一つできなかった。

 妻は毎日毎日私に手弁当を持たせて、明るく見送ってくれたのであった。朝に出て夜までに帰宅するという日課であるから大きく県外に出ることば少なかったが、それでも往復二〇キロ位は普通の行程になっていた。そしてその間のことはできる限り記録として残してきた。

 待っていた兎太郎もその当初の体験であったが、容易に信じられないようなこうした出会いも意外に多いのであった。この兎太郎はたくましいまでの野性であるし、ましてや、夜行性なのに白昼堂々とほかを避けもせず、こちらから停車してあいさつをするという至近の出会い劇となったのであった。

 悩みの最中にあった当時の私であったが、自然界の、とくに山深い緑の空間によって赤裸々になった自分を反省することができる歳月を体験させてもらっていた。

 その当時から今日にかけて、この自分という内面の世界と、現実の外界とは不離一体であるという生命感が育ってきたのであった。 さらに多くの出会いと、そこから発する共振共鳴の中で特に思うことは、何と言っても目に見えない力で引き寄せられているエネルギーを感じていたのも事実のことである。

 この兎太郎のような共振共鳴感という現象は、日常茶飯に起きているという実感が何の抵抗もなく心に受け入れられるようになったのであった。

 自分というものが、いつもオーラのような意志性の磁気に包まれていて、自分と思っている思いの判断さえも、第二の自己性に支配されていることを感じた。やはりそれは現実として頻繁に起きていると感じられてならない。言い換えれば、表層的自己意識よりも、深層的自己意識といえる意志性が強くなるという感じである。

 たとえばこの兎太郎にだって、何らかの意志性が働いていたと言えるだろうし、また、私自身を包む何らかの意志性のオーラが、行く先々にわたって、六感的情報の収集をしていたという先導感は、決して否定できるものではないと思っている。

 自分の心に添った意志性のオーラが、磁気磁波磁性体となって、予見性の守りを与えてくれるという意志の働きが感じられてならない。表層的な今の自分の思いをナンバーワンとしたら、ナンバーツーともいえる。

 深く、極めて広範囲の先見力を持った心があって、それが、行く先々の守りとなっているという実在感が強くなってきている。

 だから私の世界からは、偶然という一過性の話ではなくて、きわめて当然のこととして受け入れられることであり、かつまたそれが満ちあふれている現実感が強くなったともいえる。待っていた兎太郎との出会いも当然の出来事であったといってもいい。

 今思う表層の心を第一ステージでの心(ナンバーワンの心)としたら、より決定力の強い深層の第二ステージの心(ナンバーツーの心)が守護性の高い魂と言えるだろうし、それは、どなたにも存在する世界だと私は思っている。

 第一ステージの心(ナンバーワンの心)、すなわち、今何を思うか、日頃どんな心で生きているのかという今の心の蓄積が、守護性の高い、奥深い第二ステージの深層の心を引き出す最大の因子だと私は考えている。

 端的にはそれは、命に直結でき得るいのちに添った心ではないだろうか。私流に言えば、自己調和心を高めるバランス力ではないだろうか。人の心をいのちに近づけることは、すなわち、予見性の高い心を養うことになると思っている。

 物事を平静に保ち、無心にしていのちの底力に通じる感覚で心を統一する時、何か自分では及びもつかない大きなオーラ、言い換えれば、いのちの磁気磁波磁性とでも言えるようなバリアーの中にいる感じのする時がある。そして、このような精神下にいる時は、共時性現象(俗称・偶然の一致)が多く現れるようである。待っていた兎太郎の話もどちらかといえば、いのちのオーラ(私見では、魂の磁気磁波磁性体)が出やすい精神下にあったといえる。

 また、共時性現象は、やはり精神状況が深くなっているときに多く出現する現象と考えられる。だから出会いの縁は、無意識の霊魂の世界からやってくるのだと私は考えている。

 さて今一つ、私を待っていた共振共鳴の現象の話を続けてみる。話は、兎太郎より三年後のことである。無宿の旅も最終盤にさしかかっていた平成元年(一九八九年)五月二九日のことであった。家を出てからすでに三九日目であったが、秋田県の南部を走行中、自宅に手の届く地域に来ていることを思いつつも、心は迂回することに向けていた。

 今走っている県道は三二号線を過ぎて三四号線の山峡を進んでいる。ここから五七号線を七~八キロ行けば国道一〇八号線が東西に伸びている。その丁字 ていじ路を右折すれば本荘市へ行き、左折すれば雄勝町経由で鳴子温泉に達する。

 風の吹くままの無宿の旅であるが、走る方向だけははっきりさせなければならない。その方向でさえも私は、半意識的に決定してこれまでの旅をしてきた。今回は帰る家が近いことでわずかの迷い心が出ていた。特に国道一〇八号線が気になった。

 妻は一〇月八日生まれであり、一〇八は妻の命数であって、共振性の強い数霊になっている。国道一〇八号線は妻への道といってもよい。右折したなら鳥海山をぐるり半周して二時間もあれば帰宅できる行程にある。だが心は反発していた。左折して鳴子温泉経由で二、三日延長することにしようと決めたのである。ところが県道を五七号線に切り替えないと国道一〇八号線には出られない。その道筋がはっきりしないから、山間で出会った郵便配達員に尋ねてみた。すると、国道一〇八号線は、松ノ木峠で土砂崩れのため全面通行止めになっているというのだ。そうであれば左折することはできない。

 心の奥では左折して松ノ木峠を越すことに執着している。通行止めに反発する奥の心は渦を巻く。 だが、いくらなんでも心の奥で現実を打破することはできない。迷いをためつつ国道丁字 ていじ路に出て見ると、やはり全面通行止めの看板が目の前に立ちはだかった。

 この日も朝食抜きであってすでに昼も過ぎていた。通れないことがはっきりしたが、まず何か食べなくてはならないから食堂を探すために左折した。松ノ木峠方向に進めたのである。

 ところが、数秒走ってからすごい標識を見てしまった。標識には雄勝二二キロ、国道一〇八号、松ノ木峠とあるのだ。

 それを見た途端、いのちの電流が全身火花を散らした。妻と二人の人生、越すに越されぬ峠を越すために、もがき続けた錯綜混沌の生きざまが続いている現実の前に、この松ノ木峠は、今通行止めなのだ。越すことができないのだと、足止めされている現実が目の前に立ちはだかった。だがその標識は、妻と私の越さねばならない峠であることを数のいのちが示していた。私は二二日生まれで、妻は一〇月八日生まれの一〇八である。標識は、雄勝二二キロ、国道一〇八号の松ノ木峠ではないか。松ノ木は「待つの気」のひびきではちきれそうになっていた。

 待っていたぞ、この峠を越すのだぞ、これこそがお前達の越さねばならない人生峠というものだ、と誰かの声が心の奥からオーラとなって守りの光を発していた。一瞬の間にそう思った私は、この通行止めの現実を心の中で白紙に返したのである。行くも行けぬも命の守りの中であると思い、それはそれでいいと決めてまずは食堂を探すことにした。

 少し走ったとき、畑の中に赤ん坊を背負った一人の母さんが立っていたから、この辺りに食堂はないかと聞いてみた。すると母さんは、近くにいた娘に聞いていた。

「それ…、あねや(姉さんや)、しょくどうねがど(食堂がないか)」

すると聞かれた姉さんが

「ほれ、そごんどごさ店ある」

それを受けた母さんが「すぐそごさ店あっど」と、伝えてくれた。

 ここは大自然の真っ只中である。言葉のやりとりも自然流のとうとうとした豊かな流れの会話となっていた。

 少し走って私は軽食喫茶の店に入った。ここにいても諦めきれない松ノ木峠が押し上げてくるから、何かの情報を得られればと思い店員に聞いてみた。すると意外な答えが返ってきたのだ。先に一人の客が寄って言うには、小さな車だったから、どうにかこうにか通ってきたが、大変な悪路であって全面通行不能になっているという。どんな車なのか、おそらく単車なのかもしれない。この峠は、雪や雨でも通行止めがよくある林道みたいな道路なのかもしれない。

 私は心を決めた。行ってみないで引き返すよりは、行ってみることだと腹を据えて出かけることにした。通行止めを行くから、やはり心の中に何かしらのやましさが残った。屈折も多く、岩肌が剥き出しの悪路の中で、ひとりでに唱え続けた般若心経は無心の世界であった。どうにか九合目までに引き上げてくれたのである。頂上は目前であるのだが、道路は視界から消えていた。そこは崩落現場の岩石の山であった。しかし幸いなことに、右路肩に、ほんの少しだけ無理をすれば通れるくらいの幅が開けてあった。下は断崖であった。

 作業は今、土砂を少し取り除いたばかりで、その日は復旧の段取りであり、それを終えて帰り支度の三人が現場から下山する寸前であった。私は通行禁止を知りつつ上がって来たことを詫びた。何とか通して下さいとお願いをして、呼吸するのも忘れてそこを通過したのだ。瞬時のタイミングで峠を越すことができたのである。

 

越して下さい人生峠

松ノ木峠で待っていた

雄勝へ二二キロの国道一〇八号

私は二二で妻が一〇月八日

松ノ木峠は待っていた

越さねばならぬ夫婦峠

 

であった。いのちの底から心を見守るご意志の世界。文字的にひびき、数的にひびき、色的にひびきて、さとしつづける縁結び。

 文字・数・色は人類に無くてはならぬ心の表現であり、無ければ一気にタイムスリップで古代に逆戻りする人類。文字・数・色は現代人類の三種の神器となったのである。

 待っていた兎太郎、待っていた松ノ木峠。人生の先々で案内役となる文字・数・色のひびきに乗って、この旅も終わろうとしていた。それは、平成元年「五月二九日」であった。

 話はずっと後のことになるが、私達は、鳥海山麓に原野開拓をして田畑を作り、稲作を始め、その給水の為に井戸を掘ることにした。この辺りは掘っても井戸水は絶対に出ないと言われていたが、ついに、念願かなって、数百年ともいわれる伏流水が、八三・五メートルの深さから天高く噴き上がったのである。その日が平成一一年(一九九九年)「五月二九日」であった。

 人生峠の松ノ木峠を越したのも、やはり「五月二九日」のことであった。それは時空を超えて数霊に乗せた意志性を象徴したのだと思っている。底深く、いのちの伏流水の流れは、一本の命の流れとなって魂不滅の流れを示唆したのであったろう。

 さらに、その湧水と同時に、天には祝いの瑞雲(彩雲)が七色に輝いたのである。

 

 

 

 

       

 

 

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