夫人と米の生命愛による守護の中で、酒乱の因縁から自分の生命に目覚め、いのちへの誠実な思いを深めていった著者。「自己調和」をむねとする日常生活において試行錯誤する様子をありのままに綴っています。第一章は自らの日記から抽出した文章(エッセイ)。六十歳代、七十歳代、八十歳代と自己調和の日々とともに年齢を重ねた著者。その等身大の生きざまとその心意気が伝わってきます。
「早朝のアメ玉二個」の一節
今日は月二回となった資源ゴミの日。コンパクトにして二袋持ち出した。
家の門を曲がると、野良着姿に完全装備したご婦人が前を行く。よく見かけるあの神社境内を清掃する奇特なお方だ。
ふいッと後ろを見たとき視線が合った。どちらからともなくニッコリ笑って「おはようございます」…とあいさつを交し、私はいそいそと先に出た。この時、ご婦人が声をかけてきた。
『今日ビンなんか出す日だのッ』
瓶などの出す日なのかと聞いている。
『そう…月に二回の日なんです』
と私は言った。
それきりで先を急ぎ私は袋をおいてその帰り際のことだった。婦人は腰から何か降ろしてモゾモゾ捜し物をしていたが、何かを取り出して声と一緒に右手を差し出し声高で言った。
『アメ玉やるーッ』
と言うのだ。唐突な出来事となった。婦人の手のひらには、セロハンに包まれた透明なアメ玉が二つ載っていた。
『いやぁー…
おれアメ玉くわねんだ』
と言って私は辞退した。すると反射的に
『子供さんにやれエー』
と言う。子供に持って行けというのだ。
『子供いねーものっ…』
と再びお断りした。すると婦人は電光石火反応して
『ご夫婦二人がァー』
と今度は語気が強くなった。夫婦二人なのかと言っている。丸く大きく輝かす目玉は、言い得ぬ炎が立っている感じの鋭い光に充ちていた。
それきり私は急ぎ足で家に戻ったが、このことが気になってしきりに自問自答した。
せっかくのご親切にアメ玉を貰ったらよかったのに…と、又、食べなくともいただいていたらあの婦人は喜んだのになあー…と、思ったりもした。
ちょっとした心遣い一つにしても、相手に不快な思いにさせたのではないか…と考えてもみた。差し出された物はご厚意をありがたく戴くことが円満なのかとさえ思った。
何時頃からだったか私は、対人関係は対等に生きることだと考えるようになっていた。
恩を着せず
恩を受けず
他人に負担をかけず
負担をかけられず
侵さず・侵されず
干渉せず・干渉されず
常に対人関係で、+・-=ゼロに立って生きたいと思いながら過ぎてきた。
一線を越さず、何事も一線をオーバーすると逆現象が出てくるものだ。例えば
親切心も過度になると
大変迷惑となるし
愛することだって
執念深くなると煩わしく
うるさく、憎しみにさえ
変化してしまうものだ
一線を越さない節度を持ち、自己調和に心かけたい思いで過ぎている。
今朝のご婦人のアメ玉のことは、さらりと
『ありがとう』
と戴くことがいいのか。
『その気持ちだけ
戴いておきます』
と辞退するか、相手の胸の内を思いやりながら、人間関係の機微を考えさせられた朝となった。
平成十四五月二十三日 68才
「待つは心の華(はな)」の一節
待つことは待ちどおしいもの…
待つことは多くの心を起こす…
待つことは爆発力を包む…
こないなあー
どうしたんだろうなあー
何か忙しいことが
重なったのかなあー
おかしいなあー
もう来てもいいんだがなあー
材料がなかったのかなあー
或いは
後回しにされたのかなあー
それ程意にかけてないのかなあー
もう届いてもいいのに……
もう応答があってもいいのになあー
こっちを
変に思っているのかなあー
何か癩に障ったことでも
あるのかなあー
もう届いてもいいのに……
便りがあってもいいのになあー
無視されたのかなあー
何か悪いことでもしたのかなあー
何も心当たりが
ないんだが……
何か期待をかけたり
約束事をしたり
相手から
便りやら
あるものの注文やら
返事やら
待ち合わせやら
相手と
合うこと・届くこと
待つことは
心を浮き立たせるものだ
待つことは
わき出る心の泉となる
よくも悪くも
内からわき出る心の泉
それらは皆
自分自身の心の姿
自分のみすぼらしさ
自分の心の明るさと暗さ
心の光と闇を感ずるときである
待ってたものが届いたとき
それらは一気に昇華する
ただ喜びの渦の中で
それら一切が消える不思議
手に取り・喜び…
お礼をしなくちゃ……と
心浮き浮きと
はやるのだ
心は自在
心は変化に富み
責任のない世界で
遊ぶに似たりし心
そこに
いささかなるかな
懺悔をともない
いささかなるかな
恥もある
そして、完結の時
心は昇華して
感謝が残る
平成十三年五月三十一日 67才
「内は外、外は内」の一節
もう二十年近くになるかもしれない。こんなことを考えていた。〝内は外なり、外は内なり〟と。それはどういうことかというと、この自分の中というのは外の全世界と切れないで繫がっている、即ち、外の全世界はこの自分の中にあるもので決して無縁のものではなく、常にその影響下にあると考えていた。なんだそんなバカなことを言って、中は肉体臓器の何物でもないよ、と反発するかもしれない。
当然ながら私の考えているのは、心的なこと、意識的なこと、その精神性の結びのことを考えているのであって生命エネルギーそのものからの発想なのである。
世の中で起こる社会的なことから、個人的なことまで全てが無縁とは考えないし、対岸のこと、とも思わないのだ。だから、天に向かって詫びたい思いになることさえある。
平成十七年七月十四日 71才
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米(食物・自然界)の生命愛に身も心も重ねることで、波乱万丈な人生もどんなに苦しい思いも澄み切ったものへと昇華した著者夫妻。その二人が遭遇した共振共鳴共時の記録は、「こころとは」「いのちとは」という命題に対する答えの証しです。