共時性現象を通して観る生命

このサイトの概要

広島市の原爆ドーム。そばでドーム全体を見上げるように撮影された写真。付近から。右上から太陽の光が当たって建物凹部に凸部の影が落ちているとともに、虹が写っている。(このサイト編集者撮影)

当サイト「共時性の真価」より

サイトの趣旨

本の推薦が目的

 

共時性は人間の根幹、生命の本質が関わることがらです。私にとって共時性とは、自分のいのちと向き合うたいせつな指標や指針のひとつ。それ以上でもそれ以下でもありません。当然のことですが、自分以外のだれかに思想や信条などを強要することは、厳に慎むべきだとおもっています。

 

しかしながら、人の「こころ」や「いのち」という、つかみどころのないものが、今も昔も、そして、今後も重要な命題であることにきっと変わりはありません。ですから、自分の体験、先人が残してきた研究や実体験の記録のなかで、普遍的だと感じることは、参考になる情報・知識として、だれでも入手できるような場を提供する必要がある、そういう思いでこのサイトを開設しました。

 

「おりづる書房」は、販売のための店舗や事務所、組織などがあるわけではありません。『神秘の大樹』の内容に共鳴した一個人が、著者夫妻の許可を得て、著者夫妻による「おりづる書房」という名称を借り、一個人でこのサイトを運営しています。 

 

当サイトでは、以下に挙げる本の紹介と推薦がいちばんの目的です。これら(本)の中身を見られるとともに、閲覧や貸出が可能な全国の公立図書館名をお知らせしています。また、一部の著書は電子版の入手も可能です。興味・関心をもった方のお役に立てれば幸いです。

 

 

 

 

著者夫妻は本を記すことによって、いったい何を伝えようとしたのでしょうか。私は「肉体は消えても魂は消えない」という一点に集約されるのではないかとおもっています。「縮小凝縮」が生、「拡大膨張」が死であり、「死の世界は生きている間の心の世界」の延長線上にあって、死は、すべて御破算という意味でのリセットではないということ、裏返せば、生きている間の心のありようと体との向き合い方がいかに切実な問題かということです。この答えに至る過程には、著者自身の壮絶な酒乱地獄との闘いがありました。そして、並々ならぬ苦悩の末ついには何としてもこの夫を救うのだという「自然界の生命愛」が全開した妻の存在があったのです。やがて著者は自分のいのちに目覚めてゆきます。

 

 

 

 

 この永々と続いた悪習慣は、自分の過去だけのものなのか、あるいは、両親の代からのものなのか、さらに、それよりも、もっともっと先の時代にまで遡るのかは、人それぞれに異なっている。

 ただ、ここではっきりしていることは、子孫の誰かが、この先祖ぐるみの悪習慣を断ち切らなくてはならない。命がけで、生命に恥じない人間性を取り戻さなくてはいけないのである。

 そのためにも、単に人間的自我というくらいでは到底太刀打ちができない。自然界の愛が窓口にならなくては、汚れ切って、軟弱化した人間の心を、浄めることはできないだろう。

 人間発生前の、生命の愛に戻って、我々を、「生かして、生かして、生かし続ける愛の力」を借りなければ、人間は改心できない。

 

(中略)

 

 妻がよく言う言葉に、

「人間以前の食物たちの生命(心)に戻らないと、人は成仏できない。人霊の活躍は、まだ自我がある。人間以前の生命の愛がないと成仏できない

と、いうことがある。

 

 

出典『酒乱‐米の生命が生きるまで』≫「地獄期」≫「守護の窓口となった妻と自然律」一一〇〜一一一頁より抜粋。傍線はサイト編者による。

 

 

 

 

米(食物・自然界)の生命愛に身も心も重ね、波乱万丈な人生もどんなに苦しい思いも澄み切ったものへと昇華した著者夫妻。その二人が遭遇した共振共鳴共時の記録は、「こころとは」「いのちとは」という命題に対する答えの証しです。

酒乱

米の生命いのちが生きるまで

書籍『酒乱こめのいのちが生きるまで』の詳細・閲覧ページにリンクしています
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かつて、父子二代にわたり家族を巻き込み酒乱因子を開花させてしまった男性。並々ならぬ苦悩の末ついには男女の愛、夫婦愛、人間愛を超越した妻の深い生命愛に守られながら、やがて自分自身のいのちに目覚め、夫婦二人三脚で新たな生き方を再出発させるまでの道のりを語っています。本作をひとことで言い表すと、赤裸々ないのちの叫びでしょうか。題名のとおり、酒乱からの脱却が大きなテーマとはいえ、大なり小なり不調和性を抱える現代のわたしたちにとって、メッセージは非常に普遍的。インパクトある表紙にたがわぬ強烈で印象的な内容です。

 

 

【本文の一部抜粋】

 

 

 心の目覚め

 酒乱地獄二十八年から目覚めた自分。目覚めることのいかに、素晴らしいことか。

 今までの自分の、不調和な生き方から、本当に目覚めた時、生命いのちの中から、喜びが湧いてくる。

 その喜びは、生かし続けた、米の生命いのち(愛)の喜びであり、透明な光となった、清酒さけ生命いのちの喜びであり、食物一切の、生命いのちたちの喜びである。

 さらに、自然界の、生命いのちたちの喜びでもある。

 人となった、その生命いのちたちは、真理(調和)の中で、生かさねばならぬと、祈り願った、愛の喜びである。

 酒の生命に、目覚めることは、素晴らしいことだ。

 酒乱人生を通して、五十八歳にして目覚めた自分。

 死よりも強き力(生命)の中で守った妻。

 自然界の心を生かされた妻の愛。

 限りなき、生命の愛に感謝したい。

いのちの守り(いのちの原点)

日々に苦しむ 夫の酒乱
妻の苦しみ 見いかねて
亡き人々も 立ち上がり
米一同も 立ち上がり
酒一同も 立ち上がり
自然のいのちも 立ち上がり
天地の愛が 立ち上がり
妻よしっかり しなはれと
いのち一同の 守り声
守りの声は 文字となり
いのちの愛が 文字となり
夫の中で 生き通う
生きて通わす 断酒の日まで
働き続ける 米の精
働き続ける 酒の精
働き続ける 自然界
守りの力 重なりて
妻はここまで 生きてきた
感謝の喜び 胸一杯
米のいのちよ ありがとう
酒のいのちよ ありがとう
食べるいのちよ ありがとう
天地の愛よ ありがとう
やっと目覚める 我がいのち
天下晴れての 人の道
いのちの原点 ここにあり

 

酒乱‐米の生命が生きるまで菅原茂著、一九九三年(平成五年)MBC21

 

死んでも生きている

いのちの証し

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平成5年8月6日の広島。岡本天明絵画展を訪れた著者夫妻は、平和公園そばの「もとやすばし」の上で〝一羽の折鶴〟と衝撃的な出合いを果たしました。これを機に同夫妻は山形からあらためて天明氏墓参の旅に出かけることに。その道すがら出会う数々の縁をとおして、だれもが経験しているであろう「偶然の一致」の必然性を強調しています。また、わたしたちはすっかり鈍感になってしまっていますが、いのちの中心はまぎれもなく食。この本はその本質に触れており、表紙の稲穂は、それを象徴しています。

 

 

【本文の一部抜粋】

 

 

まえがき

 この世に生まれて六三歳となった今、好きでこの本を出版しようと思ったのではなく、たとえようのない義務感というか、使命感には達しないそれこそ神秘的心理状況下でペンを執ることになった。

 まさかこの神秘的な本を書くことになるとは、私の人生からは考えられない世界である。

 五二歳の時でこの世の現実的職業は、天に吸い上げられたように消えてしまった。十六年間の不動産業が最後であり、その吸い上げた天の代役は、私の中の虫であった。酒という虫が、時には暴れだし手のつけられない怪獣ともなった。

 酒が天に代わって現実社会の武器(職業)をすべて奪ったのである。

 そして、天から降された〝玉手箱〟には、自己改革の命題が印されていて、ついに、外界に向けていた五感は、一氣に内界の虫(酒)の真実を探ることになった。

 そして、生きる原点・心の原点に達し、人間のいのちの最前線に立つ〝米のいのち〟から出直す人生となったのである。 

 それまでの三〇年間、死を超す難行苦行に立たされ続けた妻は、既に米の心(稲霊)に同化し、天地自然に通じる意識世界を緊持していたのである。

 命題の自己改革もほぼ成り、次は、〝玉手箱の中を開く〟ことになった。すると、そこには、〝共時現象の記録係〟という白煙の文字が、猛々と立ち昇ったのである。

(後略)

 

死んでも生きている‐いのちの証し菅原茂著、一九九七年(平成九年)たま出版

 

いのちのふる里

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食と農といのちの実状を直視せず、その重大さに実感がもてない現代のわたしたち。時代が移りかわり社会が発展しても、人のこころとからだが培われる原点は変わらないはずなのですが…。私たちの身と心は原点を取りもどせるのでしょうか。単純に「経済的な豊かさ=有意義な生活」ではないことはもはや明らか。人間の本質は社会、文化、文明が生み出した物事との関わりのなかで生きている以前に、自然の一部あるいは自然や宇宙そのものとしての生命であり、あらゆる立場を超えた「いのち」の視点では、だれもが等しく自然界のいのちに生かされている存在であることを指摘しています。

 

 

【本文の一部抜粋】

 

 

まえがき

 一〇代から今日までの六〇年あまり、私の身辺から離れることのなかったカメラとその機材は、単なる趣味の域でありそれを越すものではなかった。

 ところが、平成七年頃から意識的に撮り残したい衝動に駆られるようになったことがある。それは、農村地帯(主に山村地帯)を撮影することであった。これからの農業環境が急カーブを描いて変化することを思い、今こそ残しておきたいモチーフであると思った。

 その原因といえば、酒好きの私は酒が禍となって、ついには、意識転換を余儀なくされ、その価値観が一変したことである。

 価値観が逆転してみると、現実社会を見る目も逆転していることに気づくことになった。私の見る目は、現実の裏面からの視点へと変化をし、その為に、どうも批判的になる傾向が強くなった。社会に恨みつらみがある訳ではないのに、むしろ、自分の内面にこそその的があったといえる。

 酒のために考えを変えてみると、そこには、酒の親ともいえる「米」という人のいのちを支える主食という問題にぶち当たり、人のいのちと心(実際は自分のいのちと心)を探求する毎日となった。その為、私の目の前には常に米(農業)があり、そして、人が生きること、更に、調和円満に生きたい社会像があった。

 社会の裏面からの視点は大分薄れてきて現実感が濃くなったが、この随想を記したころはその絶頂期でもあった。

 一歩外に出て農村地帯を廻ると荒れ放題の減反休耕田が目に飛び込んでくる。片や、主食の米を含めて日本の食料品の七〇%程が外国に依存する時代だという。これは大変深刻なことだと悲痛に考えるようになった。

 所詮、犬の遠吠え感ではあるが、写真撮影と共に率直な自分の想いを書いてみたかった。この随想の原文は平成八年にノートしたものである。

 人の生きる原点、又、心の原点ともいえる山・川・田(畑)人(農)といういのちのふる里が、社会の中心軸になって、回ってほしいという思いに今も変わりはない。

 

いのちのふる里菅原茂著、二〇〇八年(平成二〇年)おりづる書房

 

いのちの顔

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生命をどこまでもさかのぼっていくと、その起源が宇宙にあることは明白です。「いのち」は動植物ましてや人間だけのものではなく、万物に共通であるという生命観は、究極的に宇宙観へと通じていると言えるでしょう。著者は〝いのちの原子〟という言い方もしています。じっさい、森羅万象に共通している「原子」。そういう観点で、わたしたちが存在しているこの世界を眺めてみたことがあるでしょうか。ヒトが、空に浮かぶ雲(水)と共通していないはずがないのです。

 

 

【本文の一部抜粋】

 

 

あとがき

 現代社会は、何かと動に充ちていて騒然としている。一触即発の綱渡りにも似て危なっかしいこと甚だしい。半世紀前なら、あるいは、戦争になるようなことは少なくはないだろう。宗教界の精神統括というか、自己救済であるはずの信仰が、暴走性を秘めた人類間の闘争対峙ともなって続く現実。

 そこに、政治、経済、その他人間の知性が絡み付いて、東西南北、四方八方に膨れ上がり、かたや縮み込み、闘争の呼吸が絶えることのない人間世界。ただ傍観できるならまだいいが、それがなんと善男善女をもぐるぐる否応なく巻き込むから無情だ。

 知性豊かな人類は、そうした暗い暴走性ばかりではないはずだ。必ずや、めぐる調和宇宙と共に、善い方向に向いている…これだけは事実だろう。

 この写真集〝いのちの顔〟は、天地の意思の存在を明らかにしているに違いない、と私は感じている。地球のウイルス的存在の人類に、何かを語りかけている神秘映像、とさえ思える。意図して、また、故意に「顔変化」したわけではないから、そこには、大いなる天地の意思を感じる他に何も無い。

 地球は、紛れも無く、われわれ全生命の生みの親であることを誰ひとり否定できないはずだ。心も、意思も、人間だけのものだとしたらとんでもない、傲慢の一言に尽きる。われわれは、単に、地球や月や太陽や宇宙生命の心や、意思のひびきを感じていないだけのことと思えないだろうか。

(後略)

 

いのちの顔菅原茂著、二〇〇九年(平成二一年)おりづる書房

 

神秘の大樹だいじゅ

偶然が消える時

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「霊魂」というと死者のイメージが強く、ネガティブで暗い印象に結びつきやすいのではないでしょうか。「死」は、多くの人にとって遠ざけたいことがらです。しかし「霊」や「死」に対して、いたずらに恐怖心や不安をいだいているだけでは、生命の本質を見逃してしまうことを、この本は伝えています。今を生きている自分自身(あなた)の存在の本質こそが、肉体をまとい、その上に服を身につけている霊魂そのもの。霊魂とは、私たちのからだやこころに内在していることがらであり、現象だとわかります。

 

 

【本文の一部抜粋】

 

 

まえがき

(中略)

 魂の世界は「霊界」、「無意識世界」「潜在意識」「深層意識」などなど表現はさまざまですが、私は一言で魂と呼んでいます。魂の世界は、人類発生から今日まで「今の心」をベースにして延々と形成されてきました。肉体を消した死の世界は、生きていた当時の心が積み重なって出来たものであればこそ「今の心」の尊いことが分かってきます。心は縁の力を持っていて、運命を支配する力をも持っています。心は常にいのちの絶対調和力の統制下にあって統御されている立場にあります。だから、縁はいのちの調和として存在し、人は、縁によって様々な人生劇場を繰り広げることになります。

(後略)

 

 

タイガー計算機に秘めた魂

(中略)

 歴代累々からみれば、この世に生きた自分の人生でつくりあげた心なんて知れたものである。いいにつけ悪いにつけ、自分が思い続ける心にふさわしいあの世の魂がダイレクトで再生するということは嘘ではない。いうなれば、この世は亡き霊魂のるつぼともいえるのだ。今のこの心に何もかも付いて回る仕組みになっているのだ。今の自分の心に共振共鳴して、亡き霊魂は生きようとしているのである。

 この亡き魂の再生のメカニズムは、今の自分の心の中で再生するほかはない。また、その共振共鳴の魂のチャンネルさえ合えば、出会いの縁一切においても、次々かけよってくる霊魂の世界であることは知っておいたほうがよい。だからこの自分というのは、万霊万魂にアクセスできる媒体の役目も果たすのである。

(後略)

 

神秘の大樹Ⅰ偶然が消える時菅原茂著、二〇一一年(平成二三年)おりづる書房

 

神秘の大樹だいじゅ

ヒロシマとつる姫

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「現実を生きる自分が、実は億万年から連なる亡き心たちの複合霊体(魂)であること、そして、死んで消えたのではなく、心は実に生き生きと輝いていて、自分を自分たらしめている原動力であるということ、そして、死んでも生きている心の世界」にも言及。縁結びのしくみを〝心のつる草〟など比喩を用いた物語で表現しています。本書は最も量的なボリュームが少ない短編。しかし、本質的メッセージをもっています。本文中には『ひふみ神示(日月神示)』「アレの巻」の一節を引用、説明が加えられたり、故・岡本天明氏の夫人である故・岡本三典氏からの最期の手紙が掲載されている点も大きな特徴と言えます。

 

 

【本文の一部抜粋】

 

 

(中略)一人ひとりのいのちの中で命が新たないのちを育て上げるまでの運びには、いかなる人知も、いかなる自我も立ち入ることができません。立入厳禁の〝聖域〟なのです。この聖域の旗印が、帆に書かれている〝食心の目は共時の目〟という世界なのです。ユングと天明には、新たな驚きとひらめきが交差していました。そして口を開いたのはユングです。

ユング「つる姫様、ありがとう

単純明快にいのちの中心には食がありました

毎日の食べ物が、いのちとなる次元こそ共時性発生の次元でした

ここにこそ心と物質が融合一体となり生命発生の謎がありました

食って生きる、こんな単純なところに

山ほどの理論を積み上げたことから解放されたような気分です

ありがとう」

と、ユングの目は輝いています。そこに天明も続いて、

天明「つる姫様、ありがとう

神示の一点が解けてまいりました」

(後略、第二章「魂を乗せた一羽の折鶴」より)

 

神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫菅原茂著、二〇一一年(平成二三年)おりづる書房

 

神秘の大樹だいじゅ

文字・数・色で証す新次元

書籍『神秘の大樹 第三巻 文字・数・色であかす新次元』の詳細・閲覧ページにリンクしています
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個人的な共時性現象やエピソードから、社会的なそれらまでを紹介。文字・数・色は人間の意思だけではなく、生死の境やほかの生物などと境なく、いわゆる「霊」や「魂」の意志性を代弁していて、共時性はそれを認識させてくれる現象だと伝えています。シンクロニシティ(共時性現象)は、文字・数・色の符号を発見して好奇心や願望を充足させるための道具ではなく、共振共鳴共時の現象がよろこばしい響きあいか、それとも調和を促すものとして自らを省みるべき現象かを冷静に見極める大切さを知ることができるはずです。

 

 

【本文の一部抜粋】

 

 

まえがき

(中略)

 仮に今から、文字・数・色を一切使用できないとなれば、私たちは一気に原始の時代にタイムスリップすることになります。私たちはこの時点で、限られた言語表現で生きねばなりません。

 文字・数・色は私たちの魂そのものの姿だと言っても過言ではありません。現代では何をするにしても、文字や、数や、色に、心を投影させて、その意志を伝える意志伝達の媒体として、フルに活用しています。

 人類は、文字・数・色の発現発展によって、現代人類となりました。

 文字・数・色は私たちの魂そのものであり、「魂の宿り木」と言ってもよいでしょう。

 文字・数・色が魂の宿り木ということで、偶然の一致といわれている共時性現象には、頻繁にその姿を現しております。亡き方々の魂も、今の私たちの心の姿も、文字・数・色に投影させて、共時性現象にその姿となって、魂のメッセージを発しておられます。

 文字が開いて、数が開いて、色が開いて、声なき声の光を発しておるのです。

 たかが偶然の一致じゃないか、と言われもするでしょうが、そこには尊い声なき声が秘められていることに人々は気づきにくいものです。

 文字・数・色は魂の代弁者なのです。一人一人の運勢運命の道明かりとなりますから、偶然の一致はただの一過性の意志エネルギーではありません。連続性のいのちの光に溶けて伝えようとする尊い魂の扉開きなのであります。

 文字に生きて、数に生きて、色に生きて、声なき声の光となって、人々の心に響かせる意志エネルギーなのであります。偶然の一致といわれる共時性現象には、貴重なメッセージが秘められております。

(後略)

 

神秘の大樹Ⅲ文字・数・色で証す新次元菅原茂著、二〇一二年(平成二四年)おりづる書房

 

神秘の大樹だいじゅ

田之助たのすけとミロクの亀

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酒乱から脱却し、みずからのいのちに目覚めて間もない著者が、心おもむくままに訪れた旅先で次々と出会う〝亀〟。体験の記録を、同じく『神秘の大樹』第二巻『ヒロシマとつる姫』と共通する登場人物とシナリオ形式のコミカルな物語として展開し、縁は単なる偶然ではなく、宇宙根源に根ざす生命の本質(真性魂)によるあたたかい道案内であることを伝えています。本作に登場する出逢い、共時性現象はすべて実体験。『神秘の大樹』シリーズの中で、とりわけ親しみやすさ、読みやすさが際立っています。

 

 

【本文の一部抜粋】

 

 

まえがき

⑴ そうよ そうよ

田之助くんは
助けた亀に
つれられて
心の旅に出てみれば
世にも不思議な
ことばかり

 

⑵ 文字や 数や

色で逢う
出会いを求めて
どこまでも
野越え山越え
海越えて
大亀 小亀と
出会う旅

 

⑶ 引いて 引いて

手を引いて
肉体ないけど
心で引いて
いのちの船は
出会い船
万霊万魂
守り旅

 

 その時、私は、五六歳になっていた。亀の姿に身を変えた魂の誘いであったのか、やりきれない衝動にせきたてられて、目的のない放浪の旅に出たのは、酒乱五年目の、平成二年六月のことであった。

 旅に出た当日には、手招き姿の海亀と出会い、その翌々日には、国道を横切ろうとしていた小さな亀と出会い、農薬を心配した私は、近くのお寺の池に放したのである。

 それからというものは、旅の先々で、いかにも意図的に亀との出会いが続くようになった。

 まるで現代版の浦島太郎の世界に入っていたのかも知れない。

 そこには、計り知れない異次元世界が広がっており、それが私の心の世界と共振共鳴しながら、出会いの縁を重ねる旅となった。

(後略)

 

神秘の大樹Ⅳ田之助とミロクの亀菅原茂著、二〇一二年(平成二四年)おりづる書房

 

富士山と雲と神様

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この世のすべてが心性エネルギーに満ちているという生命観=宇宙観にもとづく物語。ヒトは万物霊長の存在と言われますが、ともすれば、わたしたち人間は、あらゆる生物の頂点に立つ最も優れた存在であると勘違いしがちではないでしょうか。著者は〝万物霊長〟ではなく〝万物霊〟の視点で生命世界を観ています。本作は子どもから大人まで、読んで楽しめる内容のはなしが多いのが特徴。〝いわば寓話ぐうわの世界〟と「まえがき」にも記しているように、イソップ物語風の作品と言えます。その世界観とともに、さまざまな表情を見せる美しい「富士山と雲」の写真も見どころです。

 

 

【本文の一部抜粋】

 

 

ニワトリセン太の独り言

 昔むかし、太古の時代でありました。地球がようやく穏やかになり、大陸にも緑がかがやくようになっておりました。

 ある日のこと。海辺ではいのちの一大イベントが始まろうとしていました。いのちの〝ぬいぐるみ大運動会〟です。何億万という、いのちの原子が集結していました。

 コースは漆黒の闇の中で走ります。ゴールには、数え切れないほどの〝ぬいぐるみ〟がおかれています。いよいよカウントが始まり、号砲の合図とともに、いのちの原子が一斉に飛び出しました。どんな〝ぬいぐるみ〟に出会えるか。ゴールは手さぐりです。ゴールには〝ぬいぐるみ〟、つまり、ニワトリであったり、人間であったり、犬や猫や虫たちであったり、その他もろもろの千差万別の、いのちの形が待っています。

 いのちの原子たちは各々、ゴールで手にした〝ぬいぐるみ〟を着、これよりいのちの聖火ランナーとなって延々と時空を超え、現実のこの世へと聖火を繫いでいきました。

(後略)

 

富士山と雲と神様菅原茂著、二〇一六年(平成二八年)おりづる書房

 

いのちの

エッセーと詩歌集

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父子二代にわたる酒乱との決別…。信頼を寄せる米のいのちと夫人の生命愛による守護のなかで、ついに自分自身のいのちに目覚め、いのちへの誠実な想いを深めていった著者(別著『酒乱‐米の生命が生きるまで』参照)。以来〝自己調和〟を信条とする日々の生活において、心身ともに試行錯誤する様子をありのままに綴っています。第一章は、みずからの日記から抽出した随想(エッセイ)集。第二章は、詩歌集。六十歳代、七十歳代、八十歳代と自己調和の日々とともに年齢を重ねた著者、その等身大の生きざまと心意気が伝わってきます。

 

 

【本文の一部抜粋】

 

 

あとがき

 振り返って見ると早いもので、あれから三十三年が夢のごとく過ぎ去りました。

 あれから三十三年というのは、人生大転換の五十二歳からのことなんですが、外向きの人生から内向きの人生に変わった訳です。

 恥も外聞もなく、体裁も見栄もなく、丸裸の自分になって、自分の奥深くで活躍する魂の洗い出しに挑戦した訳です。

 自分の描く人間像に成りたかった訳ですが、三十三年くらいではなかなか変身はできません。魂の取捨選択は可能でしょうが、そんなに甘いものではございません。善悪混合の世界が、この世一人一人の人間像の真の姿なのです。マンガの世界ならば変身はできましょうが、一日一日を心に誓い、長い歳月のスパーンの中で、気長く、意識を改めていくしかございません。

 その長い歳月の中、苦労の限り守り、支えてくれた最愛の妻にも先立たれました。幸せにできなかった悔いが残る中で、今、八十五歳が過ぎようとする時、その道半ばにある訳でございます。

 これからは、身の回りを軽くし、これまで蓄積したありとあらゆる物品や資料等は徐々に整理処分をしなくてはなりません。生活必需品を残してすっきりしなくてはなりません。

 その手順の中で、数百冊もの大学ノートから処分にとりかかりました。幸い視力ゼロの目の病も、名医とのご縁で、手術成功開眼することができました。幸せの絶頂感を味わいました。感謝至極でございます。そして取り掛かった大学ノート群。

 それらの中から、少しは役立ちそうなエッセーや詩歌文をセレクトして、一冊の本にまとめ上げたのが今回の本という訳でございます。

(後略)

 

いのちのエッセーと詩歌集菅原茂著、二〇一九年(令和元年)おりづる書房

 

サイトマップ

いのちと共時性の考察

  • 共時性と因果性
  1. 共時性とは何か:定義と評価
    1. 心理学者による定義
    2. 価値・評価(問題提起)
    3. 価値・評価(注意と意義)
    4. 共時性の背景要因
    5. 時空を超越する心の世界
    6. 本質性・根元性こそ重要
    7. 全6項目
  2. 偶然にひそむ因果:尺度の差
    1. 時間と空間が支配的な物質世界
    2. 心と物質世界との関係
    3. 因果性が「ない」のか「説明できない」のか
    4. 自然と宗教と科学
    5. 思想に左右される世界観・生命観
    6. 全5項目
  3. 因果性とは何か:氷山の一角
    1. 「因果性」への問題提起
    2. 「見えるもの」だけでは判断できない
    3. 人間の知覚領域は断片的
    4. 全3項目

 ご存知の方もおられるとおもいますが、一般的に理解されている共時性の定義には、「非因果的」ということばが入っています。いっぽう、『神秘の大樹』では「因果」ということばを用いており、前者とはその点においてちがいがあります。いちばん基礎となる定義ですから、たとえわずかなことでも、それが全体の解釈におよぼす影響は小さくはありません。

 そこで、科学者と著者との間にある差について、理論的な整理をして浮かび上がってきたのは、物理学の存在でした。興味深いのは、両者の差を埋めるのもまた、主に物理学者の見解だったことです。その理論的な考察を上記のページ「いのちと共時性の考察」に掲載し、補助的・二次的なページとして位置づけています。

 個人的な体験はもとより、上の作業をとおして、『神秘の大樹』が、共時性現象をより明快で身近なものにすると確信するがゆえに、両者をつなぐのも、このサイトの目的のひとつです。

 共時性現象は経験したことがある身近なものだとお気づきになるとともに、それが、ご自身の生命観・死生観に新たな風を吹き込むきっかけになることを願ってやみません。