いのちと共時性の考察

抜粋・引用文集

概 要

 

「こころ」や「いのち」という、つかみどころのないものが、今も昔も、そして、今後も重要な命題であることにきっと変わりはありません。その点、共時性は人間の根幹、生命の本質が関わることがらであり、自分のいのちと向き合う指標や指針のひとつとなり得ます。

 

一般的に理解されている共時性の定義に「非因果的」ということばが入っていることをご存知でしょうか。いっぽう、当サイトで紹介している『神秘の大樹』では「因果」ということばを用いており、前者とはその点においてちがいがあります。たとえわずかなことでも、それが全体の解釈におよぼす影響は小さくはないはずです。

 

そこで、科学者と上記図書の著者との間にある差について、理論的な整理をして浮かび上がってきたのは、物理学の存在でした。興味深いのは、両者の差を埋めるのもまた、主に物理学者の見解だったこと。その理論的な考察を下に示す「いのちと共時性の考察」に掲載し、当サイトの根幹である「BOOKS」の補助的・二次的なページとして位置づけています。

 

このページは、「いのちと共時性の考察」各ページに抜粋・引用した文を(「引用した本(引用・参考図書)」の詳細ページとして、)すべて集めて掲載しています。

 

なお、各テーマの「要約・資料」ページにも、それぞれの引用文を集約しています。【→  共時性とは何か 因果性とは何か 偶然と因果 客観と主観 共時性の真価 こころとからだ】当ページの特徴は、それらすべてを横断的に列挙している点。(ちなみに、参照資料は「索引」ページに集約しています。)

 

 

各テーマの主旨

 

  • この画像は「共時性とは何か」のページにリンクしています
    共時性とは何か
    時空や生死を超え、人種や生物種も超えて、いのちには境界がない証し
  • この画像は「因果性とは何か」のページにリンクしています
    因果性とは何か
    「因果性」の実際は単純ではなく複雑。科学的「法則」は限定的な条件のもとでのみ有効だ。
  • この画像は「偶然と因果」のページにリンクしています
    偶然と因果
    因果性がないというより、今の科学の尺度では説明できない、と言うべきではないのか。
  • この画像は「客観と主観」のページにリンクしています
    客観と主観
    自然界と人間とを〝切り離す〟「客観」的態度が潜在的に抱えている問題点。
  • この画像は次の「共時性の真価」のページにリンクしています
    共時性の真価
    平成5年8月6日に発見された折鶴。共時性現象の真の価値は、生命の真実を示していること。
  • この画像は「こころとからだ」のページにリンクしています
    こころとからだ
    私たち現代人が見失った食の本質。自分のいのち、食のいのちに対する感じ方が問われている。

 

 

 

詳 細

 

 

 

 

『酒乱 米の生命が生きるまで』(菅原茂)

書籍『酒乱こめのいのちが生きるまで』の詳細・閲覧ページにリンクしています本の中身を見る↑
  • 今、本当に、自分が迷っている時、そこから目覚めるためには、高尚な精神論や、宗教論で救われるだろうか。(地獄期「守護の窓口となった妻と自然律(悪は、この世の仮りの姿)」p.110)▼ こころとからだ ⑺心身の調和統一の要
  •  ここではっきりしていることは、子孫の誰かが、この先祖ぐるみの悪習慣を断ち切らなくてはならない。命がけで、生命に恥じない人間性を取り戻さなくてはいけないのである。
  •  そのためにも、単に人間的自我というくらいでは到底太刀打ちができない。自然界の愛が窓口にならなくては、汚れ切って、軟弱化した人間の心を、浄めることはできないだろう。
  •  人間発生前の、生命の愛に戻って、我々を、「生かして、生かして、生かし続ける愛の力」を借りなければ、人間は改心できない。
  • (中略)
  •  妻がよく言う言葉に、「人間以前の食物たちの生命(心)に戻らないと、人は成仏できない。人霊の活躍は、まだ自我がある。人間以前の生命の愛がないと成仏できない」と、いうことがある。
  • (中略)
  •  心の突破口は、食物たちや、自然界の生かし続ける生命の愛を、自分の心で、ガッチリと感じられるようになれば、不調和な人生から、目覚めることが早まると思う。概念としての知識だけでは、むしろ、混乱が生ずるから注意しなければならない。
  •  こういう、生命の原点に、真心から感謝できる心(愛)が目覚めたなら、自らを救うことが必ずできる。(同右、p.110〜113)
  • ▼ こころとからだ ⑴心の問題の根本
  • ▼ こころとからだ ⑺心身の調和統一の要

 

『死んでも生きている‐いのちの証し』(菅原茂)

書籍『死んでも生きているいのちのあかし』の詳細・閲覧ページにリンクしています本の中身を見る↑
  • 生命界の情報量において、動物界は、植物には到底及ぶものではないと思うし、ましてや知性を最大の武器とする人間は、自然界の生命エネルギー情報キャッチにおいて極めて退化傾向にあるのではないか。そのことは、自然力、自然智という感覚から次第に遠のくことを意味する。(第一章 副題〝死んでも生きている〟その秘密と現象八例「コスモスの色と妻のヘソの中」p.47)▼ こころとからだ ⑸天地自然の調和性と人間
  • その小さな折鶴を、地下食堂のテーブルの上で、妻は静かに開いてみた。全開した時、一同あっ……と息を呑み、ざわめく昼の店内は、しばし、時が止まった。その時いち早く時計をみた妻は、「一二時一三分です」と言った。(第二章 共時現象体験の旅「岡本天明の魂〝折鶴〟に乗って、妻との出合い」p.60)▼ 共時性の真価 ⑴故・岡本天明氏を感じた共時性現象
  • 動物は大地から分離して生きているから植物のような訳には到らず、ましてや、知性の高い人間は、生命情報感ではキリ(低)に属することになる。おのずから五感で感ずる外的心の情報にたよりがちとなり、(p.254)▼ こころとからだ ⑸天地自然の調和性と人間
  • 食物の中でその生命情報力の高いものとしてはやはり五穀であろう。その中心をなす〝米〟が人間食の究極となろう。稲は、水性植物といえるほど水を好み、根も深く、半年間もじっくりと天地の生命力を吸収し、蓄えを実らせてくれる。 (中略)一粒の米には、天地自然の普遍力が宿っている。(p.254〜255)▼ こころとからだ ⑸天地自然の調和性と人間
  • この〝いのちの調和作用〟によって起る現象を、〝調和現象〟と考えている。調和現象の特徴は、その、いのちの中心に引き戻される時発生する一種の〝苦〟がある。それは、ゼロ志向のため起るものと考えている。これに対し、共振共鳴の共時現象は、相似融合作用であるから、それは、エネルギーの増幅志向にあるため、一種の〝快〟を発生させることになる。(p.225)▼ こころとからだ ⑸天地自然の調和性と人間

 

 

 

 

 

 

『いのちのふる里』(菅原茂)

フォトエッセイ『いのちのふる里』の詳細・閲覧ページにリンクしています本の中身を見る↑
  • 思考の世界では主観と客観に分離出来るが、いのちの世界から見るならば、主観も客観もなく世界は一つだ。外の世界と自分は完全に分離していると考えがちだが、いのちの世界から見た時そうではなくなる。内なるスクリーンには常に外の世界が映し出されているのが真実だ。〝内は外なり、外は内なり 主観は客観、客観は主観なり〟ということになる。(「いのちのスクリーン」p.19)▼ 客観と主観 ⑶客観・主観の区別をめぐる指摘と本質的不可分性

 

『神秘の大樹 Ⅰ 偶然が消える時』(菅原茂)

書籍『神秘の大樹 第一巻 偶然が消える時』の詳細・閲覧ページにリンクしています本の中身を見る↑
  • 食が生命に転換する次元
  • 口から入った食物が胃で燃やされて
  • 小腸で吸収され血となり肉となる生命転換次元
  • に、縁エネルギーの結びの神がおられるようだと考えてみた。そこは思えば思うほど、自分ではどうにもこうにも手のかけようもない不可侵の聖域なのだ。(「天地普遍の縁エネルギー」p.42)▼ こころとからだ ⑶体の自律性への依存
  • 心も体も同一、同元、同質のもので、一元一体二象体となって現れることがいのちと呼ぶものではないのか。心と体は一人二役のようなものだ。(「いのちは磁気・磁波・磁性体」p.210)▼ こころとからだ ⑹いのちのひびきあい

 

『神秘の大樹 Ⅱ ヒロシマとつる姫』(菅原茂)

書籍『神秘の大樹 第二巻 ヒロシマとつる姫』の詳細・閲覧ページにリンクしています本の中身を見る↑
  • 一生命体が完成するまでの原形は、十月十日(とつきとおか)の、子宮という小宇宙世界で、その基盤ができあがるわけです。母親の口から入った〝食〟が胃に入って、十二指腸に入り、小腸に入り、分子・原子次元まで分解された物が吸収細胞によって取り込まれ、全身に届けられます。そこでいのちの新陳代謝が起こり、生き生きと輝く命となります。そして、子宮の胎児が育ちます。(「第一章 心のつる草」p.17〜18)▼ 客観と主観 ⑵「自然」と「科学」という概念の発端にある客観視
  • 青く澄んだ
  • いのちの星
  • われらの〝地球〟
  • 地球初の洗礼
  • 原爆の傷跡まだ癒えず
  • 人類初の洗礼〝広島〟
  • 原爆の傷跡まだ癒えず
  • そして〝長崎〟
  • 地球も広島も長崎も
  • 魂の傷跡いまだ癒えず
  • 広島の
  • 元安川の
  • 元安橋に降り立った
  • 〝一羽の折鶴〟
  • 平和のシンボル〝折鶴〟
  • 万霊が集いに集う元安橋
  • 元・安らぎの川原に集う万霊万魂
  • 万霊集う平和の集い
  • 元・安らぎの元安橋に
  • 一羽の折鶴が降りた
  • 平和の折鶴が降りた(「第二章 魂を乗せた一羽の折鶴」p.25〜26)▼ 共時性の真価 ⑴故・岡本天明氏を感じた共時性現象
  • 一人ひとりのいのちの中で命が新たないのちを育て上げるまでの運びには、いかなる人知も、いかなる自我も立ち入ることができません。立入厳禁の〝聖域〟なのです。 (「第二章 魂を乗せた一羽の折鶴」p.69)▼ こころとからだ ⑶体の自律性への依存

 

 

 

 

 

 

『ひふみ神示(上巻)』(岡本天明)

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『ナガサキ‐核戦争後の人生』(『NAGASAKI:Life After Nuclear War』スーザン・サザード著、宇治川康江訳)

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『全体性と内蔵秩序』(『Wholeness And The Implicate Order』デヴィッド・ボーム著、井上忠・伊藤笏康・佐野正博訳)

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  • 異なるものと異ならないものとを混同することはすべてのものを混同することである(あるいは、すべてのものについて混乱することである)。このようにわれわれの断片的な思考形式が、一つの全体としての個人そして一つの全体としての社会の中に社会的、政治的、経済的、生態学的などなどの広汎な危機をもたらすことは偶然ではない。また断片的な思考様式は、混沌として無意味な争いを果てしなく引き起こす。(「Ⅰ断片化と全体性」>「6 科学と社会に根をひろげる原子論」p.49、傍点は原文どおり)▼ 客観と主観 ⑶客観・主観の区別をめぐる指摘と本質的不可分性

 

『量子力学と意識の役割』(『Quantum Mechanics and the Role of Consciousness』「宇宙の暗在系‐明在系と意識」デヴィッド・ボーム著、竹本忠雄監訳)

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  • たがいに寄り集まって次の瞬間を構成するであろう全ファクターの集合体は、総合的状況のなかに巻き込まれて〔暗在化されて〕いる。そしてこのような事物の全体的状況内にはらむ必然性の力をとおしてこれらのファクターは「巻き込まれ」ながら(暗在的に)結合されて、新しい事物の状況を産みだすにいたるのである。[※原文の「か」は「が」の誤りか](p.275)▼ 共時性とは何か ⑷共時性の背景要因
  • 次の段階に何が湧出するかを主として決定するものは、茫漠とした意識の背景に大きく横たわる暗然たる内容のほうなのである。(中略)あとの瞬間の内容が前の瞬間に含まれた内的本質を顕わにするのであり、そこに生ずるものこそは、まさに、この内的本質の巻きもどしなのである。(p.265)▼ 共時性とは何か ⑷共時性の背景要因
  • 記録された記憶のすべては脳細胞に巻きこまれた状態で保持されているからであり、脳細胞そのものは物質の一部にほかならないからである。(「宇宙の明在系‐暗在系と意識」p.270)▼ 偶然と因果 ⑵心と物質世界との関係

 

 

 

 

 

 

『現代物理学における因果性と偶然性』(『Causality and Chance in Modern Physics』デヴィッド・ボーム著、村田良夫訳)

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  • 上述の例では,マラリアの原因はただ一つしかないと仮定して,我々は問題をかなり単純化してきた.しかし、病原菌をもった蚊に刺された人が,すべて病気になるとは限らないから,この問題は,実際には,はるかに複雑である.(第一章 自然法則における因果性と偶然性「⒋ 意味のある原因」p.18)▼ 因果性とは何か ⑵「見えるもの」だけでは判断できない
  • われわれは,理論の中に意味のある原因をすべて組み入れたことを明確にできないのであるから,あらゆる因果律は、それらが適用可能であることがはっきりした条件または背景を規定することにより,常に不備のないものにされねばならない.(同右 p.22)▼ 因果性とは何か ⑵「見えるもの」だけでは判断できない
  • 一対一関係は,完全には実現されない一つの理想化である.しかし,ある限定された条件のもとでは,問題にしている関連体のなかで本質的なものが関与する限り,この理想化に極めて近いので,その因果関係は,近似的に一対一であると考えることができる.(第一章「⒎ 一対多数因果関係と多数対一因果関係」p.34)▼ 因果性とは何か ⑵「見えるもの」だけでは判断できない
  • このように,問題にしている系外,またはほかの段階に存在する質的に新しい原因的要素を考慮に入れる必要もなく,原理上,無制限に精密な予言が可能な,完全な一対一因果関係として知られている実例は,存在しないのである.(同右 p.35)▼ 因果性とは何か ⑵「見えるもの」だけでは判断できない
  • しかしながら,はっきりさせておかねばならないのは,このような批判をしても,量子論が,その独自の領域で正当ではない,あるいは有用ではないというつもりはないことである.むしろ,量子論は,輝かしい成果をあげた極めて重要な理論であり,その価値について異議を唱えることは不条理であろう.(同右 p.142)▼ 因果性とは何か ⑵「見えるもの」だけでは判断できない
  • 第5節と第7節で述べたように,ボーアは,量子論の通常解釈においては,このような性質は,被観測系に客観的に存在すると考えるべきではないことを示したのである.けれども,彼の観点にしたがえば,あらゆる問題,意向,および目的に対して客観的であると認められるものは,確かに存在する.すなわち,観測可能な大規模な現象がそれである.(第三章 量子論「⒐ 量子論の通常解釈」p.144)▼ 客観と主観 ⑶客観・主観の区別をめぐる指摘と本質的不可分性

(以上、原文が横書きのため、原文と同じ句読点を使用)

 

 

『ニールス・ボーア論文集1因果性と相補性』(ニールス・ボーア著、山本義隆編訳)

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  • 作用量子の発見により,私たちは,原子的過程のたちいった因果的追跡は不可能であり,その過程の知識を得ようとするどのような試みも,その過程に基本的に制御不可能な影響を及ぼすということを学んだ.(同右 p.74)▼ 因果性とは何か ⑴「因果性」への問題提起

(以上、原文が横書きのため、原文と同じ句読点を使用)

 

 

 

 

 

 

 

『自然現象と心の構造 非因果的連関の原理』(『The Interpretation of Nature and the Psyche』カール・グスタフ・ユング著・河合隼雄訳、ヴォルフガング・パウリ著・村上陽一郎訳)

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  • 自然法則は統計学上の真理である。それはわれわれが巨視物理学的量を扱っているときにのみ完全に妥当なことを意味している。(中略)原因と結果の間のつながりがただの統計学的にのみ妥当であり相対的にしか真理でないことが明らかになるなら、因果性の原理は、自然の諸過程を説明するのにただの相対的にしか役立たず、(第一章 はじめに p.5)▼ 偶然と因果 ⑴時間と空間が支配的な物質世界
  • 私が治療していたある若い婦人は、決定的な時期に、自分が黄金の神聖甲虫を与えられる夢を見た。彼女が私にこの夢を話している間、私は閉じた窓に背を向けて坐っていた。突然、私の後ろで、やさしくトントンとたたく音が聞こえた。振り返ると、飛んでいる一匹の虫が、外から窓ガラスをノックしているのである。私は窓を開けて、その虫が入ってくるのを宙でつかまえた。それは、私たちの緯度帯で見つかるもののうちで、神聖甲虫に最も相似している虫で、神聖甲虫状の甲虫であり、どこにでもいるハナムグリの類の黄金虫であったが、通常の習性とは打って変わって、明らかにこの特別の時点では、暗い部屋に入りたがっていたのである。(同右 p.28)▼ 共時性とは何か ⑴心理学者による定義
  • パウリは、古典的な図式での時間と空間という対立関係を、エネルギー(の保存)と時-空連続体という対立関係におきかえるよう提案した。この提案のおかげで、私は一組の対立関係  ―共時性と因果性―  を、これら異質な概念同士にある種の関連を築くという考えでもって、より緊密に定義づけるようになった。われわれ二人は最終的に右の四元数に同意した。(同右 p.136)▼ 偶然と因果 ⑴時間と空間が支配的な物質世界

 

 

 

 

 

『宗教と科学の接点』(河合隼雄)

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  • 超感覚的知覚(Extra-Sensory Perception 略してESPという)の現象に関しては、それをエーテルとか特別な電磁波などによって伝播の可能性を因果的に説明しようとする試みがなされてきた。これに対して、ユングはそのような因果的説明を拒否するところに特徴がある。そして、その上で意味のある事象の重なりが非因果的な布置(acausal constellation)をつくることがあり得ることを認めようというのである。つまり、因果律と共時性は、事象を研究する上において相補的な役割をなすものであり、両者はまったく性格を異にする原理であることを認めるのである。(第二章 共時性について「共時性とは何か」p.40〜41)▼ 偶然と因果 ⑸思想に左右される世界観・生命観
  • 全体の共時的連関を読み取ることは、ややもすると偽の因果律と結びつく危険性をもつ。たとえば、彗星の出現と帝王の死が、ある史書に記載されたとする。それを一回かぎりの現象として、その他のその時に生じた事象と共に全体として布置されたものを読みとる態度によって、それを読むといいが、そこで「彗星が現われたから帝王が死んだ」と考え、次に彗星が現われると帝王が死ぬだろうなどと考えはじめると、それは偽の因果律になってくる。このような思考法は数多くの偽科学を生ぜしめ、それが真の科学の発展の妨げになることは、もちろんである。(第二章 共時性について「共時性と科学」p.48)▼ 共時性とは何か ⑶共時性の価値・評価(注意と意義)
  • ミクロコスモスとマクロコスモスの対応という考え方は、ミクロコスモスとしての人間をマクロコスモスとしての宇宙に関連づける思想であったが、西洋の近代自我が自我を世界から切り離し、自我を取り巻く世界を客観対象として見ることを可能にしたとき、そこに観察される事象は、個人を離れた普遍性をもつことになり、自然科学が急激に進歩したのである。普遍的な学としての自然科学はその後ますます力を発揮し、人間は世界を支配したかの如く見えながら、宇宙との「対応」を失ってしまったという点において、自らを宇宙の中にどう定位するかという点で、根本的な問題を抱え込むことになった。(第二章 共時性について「共時性と科学」p.50)
  • ▼ 客観と主観 ⑵「自然」と「科学」という概念の発端にある客観視
  • ▼ 共時性とは何か ⑹本質性・根元性こそ重要
  • ユングが共時性について発表したときは賛否相半ばし、たとえば、ユング心理学についてユング派以外の人間として、よき入門書を書いたアンソニー・ストーも、「共時性に関する彼の著作は、混乱して、ほとんど実際的価値がないと私には思えることを、告白せざるを得ない」と述べている。(中略)このような現象に対しては、自我の弱い人がひきこまれてしまう傾向が強いので、その人たちはアカデミックな研究に適合しないのも当然で、そのことがわが国のこのような研究の遅れを助長していることも事実である。(第二章 共時性について「共時性と科学」p.51)▼ 共時性とは何か ⑶共時性の価値・評価(注意と意義)
  • ユングが共時性について発表したとき(中略)一方ではハイゼンベルクやパウリなどの理論物理学者がこの考えに深い理解と共感を示したことも非常に興味深いことである。特に、パウリはユングとともに、共時性に関する書物を出版するに到ったのである。わが国においては、大学におけるアカデミズムが西洋近代に追いつこうとする姿勢を強く維持してきた点もあって、近代合理主義の勢いが非常に強く、西洋よりも硬直化しているところがあり、超常現象に関するアカデミックな研究は欧米に比して極端に遅れている。(同右、p.51)▼ 共時性とは何か ⑶共時性の価値・評価(注意と意義)
  • 理論物理学者のデイヴィッド・ボームは、われわれが普通に知覚している世界は、一種の顕現の世界であり、その背後に時空を超えた全一的な、彼の言う暗在系 (implicate order) を有しているとの画期的な考えをもつようになった  われわれが五感を通じて知る世界は、いろいろな事物に分割され、部分化されているが、それらのものは暗在系に対する、明在系 (explicate order) であり、明在系においては、外的に個別化され無関係に存在しているような事物は、実は暗在系においては、全き存在として、全一的に、しかも動きをもって存在している  これを彼はホロ・ムーブメントと名づけた。暗在系のホロ・ムーブメントは五感によっては把握できないものである。脳はこれらの現象のホログラムとして機能するのであるが、人間はものごとを知覚する際に相当な捨象を行い、顕在系として存在しているものを知覚する
  •  (中略)
  • ボームの理論を見ると、彼の言う暗在系の顕現という概念に、それほど広くはないが、ユングの言う元型的布置の考えが相当に重なっていることに気づくであろう。つまり、元型という究極的には知ることのできぬパターンの顕われとして、元型的布置の現象が認められ、そこには共時的現象が生じうるのである。(第二章 共時性について「ホログラフィック・パラダイム」p.57〜59 / 文中のABC・傍線は、サイト編者による注記号。表記の都合上、A文・B文の間に空白を挿入した。)
  • A文のみ 
  • ▼ 偶然と因果 ⑵心と物質世界との関係
  • B文のみ 
  • ▼ 客観と主観 ⑶客観・主観の区別をめぐる指摘と本質的不可分性
  • ABC文 
  • ▼ 因果性とは何か ⑶人間の知覚領域は断片的 ▼ A文B文C文
  • 右記全文 
  • ▼ 共時性とは何か ⑷共時性の背景要因
  • 「暗在系にあっては、心は物質一般を巻きこんでいる、なによりも身体を巻きこんでいると言わねばならない。同様に、身体は心だけではなく、ある意味において、物質宇宙のことごとくを巻きこんでもいるのである。身体と心とは、したがって、より広大なる一個の亜総体のファクター(因子)と呼ばれてしかるべきであり、この亜総体が心身双方の基礎をなしていると言いうるのである」とボームは述べている。(第二章 共時性について「心身の相関」p.63〜64)
  • ▼ 共時性とは何か ⑷共時性の背景要因
  • ▼ 偶然と因果 ⑵心と物質世界との関係
  • 共時性の現象を受け容れることによって、われわれは失われていた、マクロコスモスとミクロコスモスの対応を回復するのだとも言える。つまり、コスモロジーのなかに、自分を定位できるのである。しかし、黄金虫の例や、あるいは筆者の易の例は簡単に冷笑の対象ともなり得る。それは極めて一般性を欠いた事象であるからである。しかし、普遍的に正しいことばかりに支えられて生きていて、その人は個人として人生を生きたと言えるのだろうか。因果律による法則は個人を離れた普遍的な事象の解明に力をもつ。しかし、個人の一回かぎりの事象について、個人にとっての「意味」を問題にするとき、共時的な現象の見方が有効性を発揮する。そして、心理療法においては、後者の方こそが重要なのである。(第二章 共時性について「実際的価値」p.67)▼ 共時性とは何か ⑶共時性の価値・評価(注意と意義)
  • (東洋の宗教が見出した意識の在り方について述べ、それに対して西洋の人たちが最近とみに関心をもち始めたことを指摘した。その上、理論物理学の最先端を行く科学者たちが、彼らの体験を踏まえて同様のことを言い始めたのである。)たとえば量子力学の生みの親、シュレーディンガーは「主体と客体は、一つのものである。それらの境界が、物質科学の最近の成果でこわれたということはできない。なぜなら、そんな境界など存在しないからだ」と述べている。(第四章 意識について「意識のスペクトル」p.117〜118)
  • ▼ 客観と主観 ⑶客観・主観の区別をめぐる指摘と本質的不可分性
  • ▼ 共時性とは何か ⑵共時性の価値・評価(問題提起)

 

 

 

 

 

『宗教と科学の接点』(河合隼雄)

自然とは何か

 

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 今日では、日本人のほとんどが「自然」という言葉を、英語の nature と同じような意味に解していると言っていいだろう。人間および人工的なものに対するものとして、いわゆる山川草木、および人間以外の動物、それに鉱物などを含め、それを宇宙にまで拡大して、総称して「自然」と呼んでいる。しかし、実のところ、そのような客観的な対象としての「自然」などという概念も、また言葉も、もともと日本にはなかったものであり、nature という英語に「自然」という訳語を当てはめたために多くの混乱が生じることになった事実は、柳父 章やなぶ あきらの周到な分析によって周知のこととなっている。従って、この点については省略するが、そうなると、現代の日本人は、自然をどう把握しているのか、そもそも古来からはどうであったのかなどが問題となってくる。(後略)

 「自然」という語は、もちろん中国から由来しているわけであるが、(中略)自然という語は、「『オノズカラシカル』すなわち本来的にそうであること(そうであるもの)、もしくは人間的な作為の加えられていない(人為に歪曲されず汚染されていない)、あるがままの在り方を意味し、必ずしも外界としての自然の世界、人間界に対する自然界をそのままでは意味しない」ことを指摘している。この「オノズカラシカル」という考えは、天地万物も人間も同等に自生自化するという考えにつながり、「物我の一体性すなわち万物と自己とが根源的には一つであること」を認める態度につながるものである。(後略)

 このような中国の「自然」に対する態度は、インドからの仏教を受けいれたときに影響し、福永は、「西暦七-一〇世紀、唐の時代の中国仏教学をインドのそれと比較して最も注目されることの一つは、草木土石の自然物に対しても仏性すなわち成仏の可能性を肯定していることである」と述べている。つまり、生物のみならず無生物も、森羅万象すべてが仏性をもつと考えたのである。

 このような考えはそのままわが国にも伝来されてきたが、「自然」という用語は、従って、「オノズカラシカル」という意味で用いられ、それは「自然じねん」と発音されることとなった。そして、西洋人のように自我に対する客観的対象として「自然ネイチャー」を把握する態度は存在せず、従って、そのような名詞も日本語にはなかったのである。「山川草木」というような表現が示すように、個々の具体的なものを認識の対象とはしたであろうが、おそらく、それは近代人のする「認知」とは異なるものであったと考えられる。対象と自分との区別は、昔の日本人にとって思いの他にあいまいなものであったろうと思われる。

 西洋における(中略)「自然」を客観的対象としてみる態度の背後には、キリスト教による人間観、世界観が強く存在していると思われる。聖書には、神が世界を創造し、人間を創造するときに「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、それに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」(創世記一章二六)と言ったと述べられている。ここに、人間とその他の存在物との間に画然とした区別が存在することになった。このような宗教的な背景をもって、他と自分とを明確に区別し、他を客観的対象とし得るような自我が成立することになったと思われる。そして、その自我が「自然」を対象として観察し、そこに自然科学が発達することになったのである。このため、「自然ネイチャー」は西洋において科学の対象となるし、「自然じねん」は東洋において宗教のもっとも本質にかかわるものとなったのである。

 ところで、日本人は近代になって西洋の nature の概念に接したとき、これに「自然じねん」の漢字をあて、「自然しぜん」と呼ぶようにしたのであるが、そのために柳父章の指摘するような混乱が生じた(後略)

 

 

(第五章 自然について「自然とは何か」p.141〜145)文中の人名への振り仮名はサイト編者による。

▼ 偶然と因果 ⑷ 自然と宗教と科学

▼ 客観と主観 ⑵「自然」と「科学」という概念の発端にある客観視

 

 

 

 

西洋近代の自我

 

(中略)

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 西洋近代に確立された自我は、自分を他と切り離した独立した存在として自覚し、他に対して自立的であろうとするところに、その特徴がある。このようにして確立された個人を、英語でindividualと表現する。つまり、これ以上は分割し得ざる存在ということであり、その個人を成立させるためには、物事を分割する、切断するという機能が重要な働きをもつことを示している。有機物と無機物という分割、有機物をまた分割してゆき、人間と他の生物という分類が行われ、その人間をいかに分割していっても、個人が分割し得ないものとして残る。このことは逆に言えば、個人は他と切り離されることによって存在が明らかになると言える。

(中略)

 このように他と切り離して確立された自我が、自然科学を確立するための重要な条件となっていることは容易に了解できるであろう。つまり、このような自我をもってして、はじめて外界を客観的に観察できるのである。このような「切り離し」による外界の認識は、個々の人間とは直接関係しないものとなり、その意味で「普遍性」をもつので、極めて強力な知を人間に提供する。これが、これまでの自然科学である。

(後略)

 

 

(第一章 たましいについて「西洋近代の自我」p.25~26)▼ 客観と主観 ⑶客観・主観の区別をめぐる指摘と本質的不可分性

 

 

 

 

 

 

 

『広辞苑 第四版第六刷』

因果
  • ①〔仏〕
  • ㋑直接的原因(因)と間接的条件(縁)との組み合わせによってさまざまの結果(果)を生起すること。今昔「仏法を悟り因果を知りて極楽に往生する」
  • ㋺特に、善悪の業(ごう)によってそれに相当する果報を招くこと。また、その法則性。太平記「因果に依つて田夫は沙門と生れ、蛙は波羅奈国の大王と生れ」
  • ㋩悪業の果報である不幸な状態。不運なめぐり合せ。昨日きのふ今日けふの物語「いかなる因果にて我らはかやうにあさましき事や」。「因果な話」
  • ②原因と結果。
  • 【因果応報】〔仏〕過去における善悪の業(ごう)に応じて未来の果報を生ずること。
  • 【因果関係】原因とそれによって生ずる結果との関係。
  • 【因果性】〔哲〕(causality イギリス) 二つないしそれ以上の存在の間に、原因および結果としての結びつきがあること。因果原理。原因性。
  • 【因果律】〔哲〕一切のものは原因があって生起し、原因がなくては何も生じないという法則。因果性の法則化された形式。
  • 以上の出典は『広辞苑第四版』岩波書店、第六刷‐一九九七年。〔仏〕は仏教、〔哲〕は哲学。「今昔四」は今昔物語集の第四巻、「太平記二」は太平記の第二巻。▼ 偶然と因果 ⑷自然と宗教と科学
  •  

 

 

 

『広辞苑 第四版第六刷』

客観

【客観】[哲学](object) ①主観の認識及び行動の対象となるもの。②主観の作用とは独立に存在すると考えられたもの。客体。↔︎主観。

【客観性】(objectivity) 客観的であること。

【客観的】特定の個人的主観の考えや評価から独立で、普遍性をもつことについていう語。

【客体】(object) 客観②に同じ。特に主体に対応する存在。また、主体の作用の及ぶ存在。↔︎主体

 

主観

【主観】[哲学](subjectの西周による訳語)客観に対する語。語源的には作用・性質・状態を担う基体(subjectumラテン)を意味する。近世以降は感覚・認識・行為の担い手として意識をもつ自我をいう。特にカントでは、主観は生得の、一定の形式・法則に従って、客観的対象を把握する先験的主観とされた。カント以後は、単に認識主観にとどまらず、実践的能動性と自由の基体として、特に主体という意味が強調されるようになる。↔︎客観。→主体。

【主観性】[哲学](subjectivity) ①主観であること、また主観に依存していること。主観の所産であること。②個人的・歴史的・社会的な条件に制約された或る主観に依存しているという意味で、客観性が乏しいこと。

【主観的】①主観による価値を第一に重んずるさま。主観にもとづくさま。②俗に、自分ひとりの考えや感じ方にかたよる態度であること。

【主体】② (subject) 元来は、根底にあるもの、基体の意。㋑性質・状態・作用の主。赤色を具有するところの赤い椿の花、語る作用をなすところの人間など。㋺主観と同意味で、認識し、行為し、評価する我を指すが、主観を主として認識主観の意味に用いる傾向があるので、個人性・実践性・身体性を強調するために、この訳語を用いるに至った。↔︎客体。

 

 

出典『広辞苑 第四版第六刷』一九九七年(岩波書店)。略号[哲]の記載を[哲学]に置き換えて表記した。▼ 客観と主観 ⑴「客観」「主観」言葉の意味(定義)と観察の視点

 

 

 

 

 

『日本語大辞典』

客観

【客観】(対義)主観。①個人的・経験的意識にとらわれることなく、見たり、考えたりすること。object ②人間の行動・思惟しいには関係なく、独立に存在する物質・自然。外界。客体。object ③哲学などで、知るという主観の認識の対象になるもの。認識論上の対象。object

【客観性】 ①自己の意識をはなれていること。②物事が独立にもつ性質。③普遍妥当性。④対象に対する態度が個人的な感情をまじえず公平であること。

【客観的】(対義)主観的。①主観の働きに支配されず、第三者が批評するように公平に判断しようとする態度。②精神にかかわりなく、外界に独立して存在しているさま。③いつ誰が見てもあてはまるという性質があるさま。

【客体】=かくたい。①目的物。対象。object ②人間の精神的・肉体的・物的行為の向けられるもの。主体の主観作用の対象となるもの。存在論上の対象のこと。object(対義)主体③人間にかかわりなく独立して外界に存在する事物。人間の精神以外の物質。object(対義)主体

 

主観

【主観】(対義)客観。①自分だけの考え・見方。②対象となりうる一切をのぞき、対象化できないもの、すなわち意識それ自体。subject ③外界を知覚・意識する主体。認識主観。自我。subject ④事物を見たり聞いたりして心の中にえがいた意識内容。subject

【主観性】

【主観的】(対義)客観的。①自分の考えを中心に、物事を処理しようとするさま。subjective ②個人的。自分勝手な。公平に物を見ないで自己の感情・意志のままにふるまうさま。subjective

【主体】①他に働きかけるもとになるもの。subject ②性質・状態・働きのもとになる本体。知・情・意の働きの統一体としての実体。subject

 

 

出典『日本語大辞典』一九八九年(講談社)※「主観性」という語は掲載されていない。便宜上「【主観性】-」と表記した。

▼ 客観と主観 ⑴「客観」「主観」言葉の意味(定義)と観察の視点

▼ 共時性とは何か ⑵共時性の価値・評価(問題提起)

 

 

 

 

 

 

引用図書

 

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