哲学的視点

客観と主観

概 要

 

要約

 

日頃よく使われる「客観的に」という表現。少なくとも自然科学においては、人間の存在・関与から完全に独立した自然現象の描写・記述こそ理想としての純粋な客観性である、と定義してきたことが推定できます。

 

ところが、「客観」という言葉の由来や西洋・東洋の自然観の成り立ちを知ると、単なる言葉の話では済まない疑問、矛盾、問題に気づきます。それは「純粋な客観性」が本質的に存在するのかという疑問、自分の心に対する、定義されるような文字通りの厳密な客観視ということの矛盾、純粋な客観性が存在すると想定したときに生じる問題です。

 

客観・主観のように世界を二分する見方・考え方は二元論と呼ばれ、明治以降現代の日本人はこの影響を強く受けています。日々の生活に恩恵をもたらしている科学。その世界観の特徴や成立起源が、河合隼雄氏による指摘から理解できます。

 

それによると、「客観的」=科学的・普遍的、「主観的」=非科学的・個人的という印象の源は、自然観が根本にあるようです。西欧人に比べれば日本人には自然と人間との線引きによい意味で曖昧さが残ってはいますが、自然は人間の外部に存在する環境だという認識は、自然と人間の分断によって心理的距離を生じさせます。

 

また、想いが外部へ向くほど、自分の体内へと注意が向きにくくなるようです。そんな日々の中で「自らを宇宙の中にどう定位するか」(下記より引用)、あるいは生と死、その視点や感覚、いわゆる「主観的」認識や実感を失っても不思議ではありません。

 

私たちの「からだ」の起源をたどると、親から無数の先祖へとさかのぼることになり、究極的には地球、宇宙へと広がっていきます。また、生物となった時点から「食」が密接に関わっているはず。「こころ」の起源は判然としないのは確かですが、「からだ」の場合と共通していると考えるのが自然であるはずです。こうして「いのち」の成り立ちを考慮すると、主客の区別という見方が本質的に成立するのか、素朴な疑問が生じます。

 

客観的な理論や根拠と言われるものは、部分的に見ればたいてい合理性や整合性が認められるものです。問題は、根元的な視点を欠いているとき、そこに潜んでいた欠陥や矛盾が、個人や社会の問題として表れることにあります。客観的および科学的な理論やそれに基づく手法は、便宜的または部分的な効力を発揮しているのであり、その絶大な恩恵を受けているいっぽう、それを根本的(=根元的かつ本質的)な解決策と混同したり、絶対的と考えたりするのは誤りです。

 

いのち(生命)の成立過程を全一的・根元的に考えると、「部分」の客観的整合性が、自然の摂理とも言える「いのち」に適合するとは限りません。これを承知していないと詭弁や水掛け論を生んだり振り回されたりしかねないと考えます。根元的・本質的な視点からの考察かどうかを見極めることはひじょうに重要です。

 

この命題に関して『神秘の大樹』『いのちのふる里』をはじめとする書籍の一部を以下に掲載しています。また「引用・参考図書」のうち、表紙画像に「▼本の中身を見る」と付いている図書は、閲覧可能です。

 

 

引用・参考

(リンク:ページ内)

 

  • 『広辞苑』第四版、新村 出しんむらいづる 編、岩波書店、1997年
  • 『日本語大辞典』梅棹忠夫/金田一春彦/朝倉篤義/日野原重明 監修、講談社、1989年
  • 『場の観点から認知を捉える』(早稲田大学・東京学芸大学)http://www.u-gakugei.ac.jp/~gangzhi/wp-content/uploads/2012/12/JCLA2016%EF%BC%88%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E3%83%BB%E5%B2%A1%EF%BC%89.pdf
  • 『客観性』ロレイン・ダストン、ピーター・ギャリソン著(への論評)https://researchmap.jp/Yasuhiro_Okazawa/published_papers/33658546/attachment_file.pdf
  • 『こころの時代〜宗教・人生〜』「瞑想(めいそう)でたどる仏教〜心と身体を観察する ⑹」NHK、2021年
  • 『宗教と科学の接点』河合隼雄 著、岩波書店、1986年
  • 『ニールス・ボーア論文集1因果性と相補性』ニールス・ボーア著、山本義隆 編訳、岩波文庫、1999年
  • 『現代物理学における因果性と偶然性』デヴィッド・ボーム著、村田良夫 訳、東京図書、1969年
  • 『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』菅原茂 著、おりづる書房、2011年
  • 『いのちのふる里』菅原茂 著、おりづる書房、2008年
  • 『全体性と内蔵秩序』デヴィッド・ボーム著、井上忠/伊藤笏康/佐野正博 訳、青土社、1986年
  •  

参照・抜粋

 

抜粋・引用文集

(「客観と主観」各ページへの)

 

 

 

河合隼雄『宗教と科学の接点』

  • ミクロコスモスとマクロコスモスの対応という考え方は、ミクロコスモスとしての人間をマクロコスモスとしての宇宙に関連づける思想であったが、西洋の近代自我が自我を世界から切り離し、自我を取り巻く世界を客観対象として見ることを可能にしたとき、そこに観察される事象は、個人を離れた普遍性をもつことになり、自然科学が急激に進歩したのである。普遍的な学としての自然科学はその後ますます力を発揮し、人間は世界を支配したかの如く見えながら、宇宙との「対応」を失ってしまったという点において、自らを宇宙の中にどう定位するかという点で、根本的な問題を抱え込むことになった。(「第二章 共時性について」>「共時性と科学」p.50)傍線は引用者。
  • ▼ ⑵「自然」と「科学」という概念の発端にある客観視
  • ▼ このページ冒頭の要約文
  • たとえば量子力学の生みの親、シュレーディンガーは「主体と客体は、一つのものである。それらの境界が、物質科学の最近の成果でこわれたということはできない。なぜなら、そんな境界など存在しないからだ」と述べている。(「第四章 意識について」>「意識のスペクトル」p.117~118)▼ ⑶客観・主観の区別をめぐる指摘と本質的不可分性
  • 西洋の医学が人間の身体を「客観的対象」と見なすことにより、科学的な医学を発展させてきたように、人間の「心」というものを「客観的対象」と見なそうとしても、観察者自身も「心」をもっているので、そのようなことが成立しないのである。(「第6章 心理療法について」>「宗教と科学の接点」p.192)▼ ⑶客観・主観の区別をめぐる指摘と本質的不可分性
  • われわれが五感を通じて知る世界は、いろいろな事物に分割され、部分化されているが、それらのものは暗在系に対する、明在系であり、明在系においては、外的に個別化され無関係に存在しているような事物は、実は暗在系においては、全き存在として、全一的に、しかも動きをもって存在している。(「第2章 共時性について」>「ホログラフィック・パラダイム」p.58、理論物理学者のデヴィッド・ボーム氏の見解を引用している箇所)▼ ⑶客観・主観の区別をめぐる指摘と本質的不可分性

 

デヴィッド・ボーム(David Bohm『現代物理学における因果性と偶然性』

  • 第5節と第7節で述べたように,ボーアは,量子論の通常解釈においては,このような性質は,被観測系に客観的に存在すると考えるべきではないことを示したのである.けれども,彼の観点にしたがえば,あらゆる問題,意向,および目的に対して客観的であると認められるものは,確かに存在する.すなわち,観測可能な大規模な現象がそれである.(「第三章量子論」>「⒐ 量子論の通常解釈」p.144、原文どおり横書きの句読点を使用)▼ ⑶客観・主観の区別をめぐる指摘と本質的不可分性

 

デヴィッド・ボーム(David Bohm『全体性と内蔵秩序』

  • 異なるものと異ならないものとを混同することはすべてのものを混同することである(あるいは、すべてのものについて混乱することである)。このようにわれわれの断片的な思考形式が、一つの全体としての個人そして一つの全体としての社会の中に社会的、政治的、経済的、生態学的などなどの広汎な危機をもたらすことは偶然ではない。また断片的な思考様式は、混沌として無意味な争いを果てしなく引き起こす。(「Ⅰ断片化と全体性」>「6 科学と社会に根をひろげる原子論」p.49、傍点は原文どおり)▼ ⑶客観・主観の区別をめぐる指摘と本質的不可分性

 

ニールス・ボーア(Niels Bohr『因果性と相補性』

  • 私たちの心の働きを記述するためには,私たちは,一方では,客観的に与えられた内容が,それを観測している主観に対置されておかれることを必要とするが,他方では,このような言い回しからすでに明らかなように,後者の主観もまた私たちの心的内容に属するのであるから,主観と客観のあいだの厳格な区別を維持することはできないのである.(「⒉ 作用量子と自然の記述」p.70、原文どおり横書きの句読点を使用)▼ ⑶客観・主観の区別をめぐる指摘と本質的不可分性

 

菅原茂『神秘の大樹 Ⅱ ヒロシマとつる姫』

  • 一生命体が完成するまでの原形は、十月十日(とつきとおか)の、子宮という小宇宙世界で、その基盤ができあがるわけです。母親の口から入った〝食〟が胃に入って、十二指腸に入り、小腸に入り、分子・原子次元まで分解された物が吸収細胞によって取り込まれ、全身に届けられます。そこでいのちの新陳代謝が起こり、生き生きと輝く命となります。そして、子宮の胎児が育ちます。(「第一章 心のつる草」p.17~18)▼ ⑵「自然」と「科学」という概念の発端にある客観視

 

 

  

 

 

河合隼雄『宗教と科学の接点』

 自然とは何か

 

 今日では、日本人のほとんどが「自然」という言葉を、英語の nature と同じような意味に解していると言っていいだろう。人間および人工的なものに対するものとして、いわゆる山川草木、および人間以外の動物、それに鉱物などを含め、それを宇宙にまで拡大して、総称して「自然」と呼んでいる。しかし、実のところ、そのような客観的な対象としての「自然」などという概念も、また言葉も、もともと日本にはなかったものであり、nature という英語に「自然」という訳語を当てはめたために多くの混乱が生じることになった事実は、柳父章の周到な分析によって周知のこととなっている。従って、この点については省略するが、そうなると、現代の日本人は、自然をどう把握しているのか、そもそも古来からはどうであったのかなどが問題となってくる。(後略)

 「自然」という語は、もちろん中国から由来しているわけであるが、(中略)自然という語は、「『オノズカラシカル』すなわち本来的にそうであること(そうであるもの)、もしくは人間的な作為の加えられていない(人為に歪曲されず汚染されていない)、あるがままの在り方を意味し、必ずしも外界としての自然の世界、人間界に対する自然界をそのままでは意味しない」ことを指摘している。この「オノズカラシカル」という考えは、天地万物も人間も同等に自生自化するという考えにつながり、「物我の一体性すなわち万物と自己とが根源的には一つであること」を認める態度につながるものである。(後略)

 このような中国の「自然」に対する態度は、インドからの仏教を受けいれたときに影響し、福永は、「西暦七-一〇世紀、唐の時代の中国仏教学をインドのそれと比較して最も注目されることの一つは、草木土石の自然物に対しても仏性すなわち成仏の可能性を肯定していることである」と述べている。つまり、生物のみならず無生物も、森羅万象すべてが仏性をもつと考えたのである。

 このような考えはそのままわが国にも伝来されてきたが、「自然」という用語は、従って、「オノズカラシカル」という意味で用いられ、それは「自然じねん」と発音されることとなった。そして、西洋人のように自我に対する客観的対象として「自然ネイチャー」を把握する態度は存在せず、従って、そのような名詞も日本語にはなかったのである。「山川草木」というような表現が示すように、個々の具体的なものを認識の対象とはしたであろうが、おそらく、それは近代人のする「認知」とは異なるものであったと考えられる。対象と自分との区別は、昔の日本人にとって思いの他にあいまいなものであったろうと思われる。

 西洋における(中略)「自然」を客観的対象としてみる態度の背後には、キリスト教による人間観、世界観が強く存在していると思われる。聖書には、神が世界を創造し、人間を創造するときに「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、それに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」(創世記一章二六)と言ったと述べられている。ここに、人間とその他の存在物との間に画然とした区別が存在することになった。このような宗教的な背景をもって、他と自分とを明確に区別し、他を客観的対象とし得るような自我が成立することになったと思われる。そして、その自我が「自然」を対象として観察し、そこに自然科学が発達することになったのである。このため、「自然ネイチャー」は西洋において科学の対象となるし、「自然じねん」は東洋において宗教のもっとも本質にかかわるものとなったのである。

 ところで、日本人は近代になって西洋の nature の概念に接したとき、これに「自然じねん」の漢字をあて、「自然しぜん」と呼ぶようにしたのであるが、そのために柳父章の指摘するような混乱が生じた(後略)

 

 

出典『宗教と科学の接点』第五章 自然について「自然とは何か」(一四一〜一四五頁)

▼ ⑵「自然」と「科学」という概念の発端にある客観視

『宗教と科学の接点』について▼

 

 

 

 

 

河合隼雄『宗教と科学の接点』

 西洋近代の自我

 

(中略)

 西洋近代に確立された自我は、自分を他と切り離した独立した存在として自覚し、他に対して自立的であろうとするところに、その特徴がある。このようにして確立された個人を、英語でindividualと表現する。つまり、これ以上は分割し得ざる存在ということであり、その個人を成立させるためには、物事を分割する、切断するという機能が重要な働きをもつことを示している。有機物と無機物という分割、有機物をまた分割してゆき、人間と他の生物という分類が行われ、その人間をいかに分割していっても、個人が分割し得ないものとして残る。このことは逆に言えば、個人は他と切り離されることによって存在が明らかになると言える。

(中略)

 このように他と切り離して確立された自我が、自然科学を確立するための重要な条件となっていることは容易に了解できるであろう。つまり、このような自我をもってして、はじめて外界を客観的に観察できるのである。このような「切り離し」による外界の認識は、個々の人間とは直接関係しないものとなり、その意味で「普遍性」をもつので、極めて強力な知を人間に提供する。これが、これまでの自然科学である。

(後略)

 

 

出典『宗教と科学の接点』第一章 たましいについて「西洋近代の自我」(二五~二六頁)

▼ ⑵「自然」と「科学」という概念の発端にある客観視

『宗教と科学の接点』について▼

 

 

 

 

 

『広辞苑 第四版第六刷』

客観

【客観】[哲学](object) ①主観の認識及び行動の対象となるもの。②主観の作用とは独立に存在すると考えられたもの。客体。↔︎主観。

【客観性】(objectivity) 客観的であること。

【客観的】特定の個人的主観の考えや評価から独立で、普遍性をもつことについていう語。

【客体】(object) 客観②に同じ。特に主体に対応する存在。また、主体の作用の及ぶ存在。↔︎主体

 

主観

【主観】[哲学](subjectの西周による訳語)客観に対する語。語源的には作用・性質・状態を担う基体(subjectumラテン)を意味する。近世以降は感覚・認識・行為の担い手として意識をもつ自我をいう。特にカントでは、主観は生得の、一定の形式・法則に従って、客観的対象を把握する先験的主観とされた。カント以後は、単に認識主観にとどまらず、実践的能動性と自由の基体として、特に主体という意味が強調されるようになる。↔︎客観。→主体。

【主観性】[哲学](subjectivity) ①主観であること、また主観に依存していること。主観の所産であること。②個人的・歴史的・社会的な条件に制約された或る主観に依存しているという意味で、客観性が乏しいこと。

【主観的】①主観による価値を第一に重んずるさま。主観にもとづくさま。②俗に、自分ひとりの考えや感じ方にかたよる態度であること。

【主体】② (subject) 元来は、根底にあるもの、基体の意。㋑性質・状態・作用の主。赤色を具有するところの赤い椿の花、語る作用をなすところの人間など。㋺主観と同意味で、認識し、行為し、評価する我を指すが、主観を主として認識主観の意味に用いる傾向があるので、個人性・実践性・身体性を強調するために、この訳語を用いるに至った。↔︎客体。

 

 

出典『広辞苑 第四版第六刷』一九九七年(岩波書店)。略号[哲]の記載を[哲学]に置き換えて表記した。▼ ⑴「客観」「主観」言葉の意味(定義)と観察の視点

 

 

 

 

 

『日本語大辞典』

客観

【客観】(対義)主観。①個人的・経験的意識にとらわれることなく、見たり、考えたりすること。object ②人間の行動・思惟しいには関係なく、独立に存在する物質・自然。外界。客体。object ③哲学などで、知るという主観の認識の対象になるもの。認識論上の対象。object

【客観性】 ①自己の意識をはなれていること。②物事が独立にもつ性質。③普遍妥当性。④対象に対する態度が個人的な感情をまじえず公平であること。

【客観的】(対義)主観的。①主観の働きに支配されず、第三者が批評するように公平に判断しようとする態度。②精神にかかわりなく、外界に独立して存在しているさま。③いつ誰が見てもあてはまるという性質があるさま。

【客体】=かくたい。①目的物。対象。object ②人間の精神的・肉体的・物的行為の向けられるもの。主体の主観作用の対象となるもの。存在論上の対象のこと。object(対義)主体③人間にかかわりなく独立して外界に存在する事物。人間の精神以外の物質。object(対義)主体

 

主観

【主観】(対義)客観。①自分だけの考え・見方。②対象となりうる一切をのぞき、対象化できないもの、すなわち意識それ自体。subject ③外界を知覚・意識する主体。認識主観。自我。subject ④事物を見たり聞いたりして心の中にえがいた意識内容。subject

【主観性】

【主観的】(対義)客観的。①自分の考えを中心に、物事を処理しようとするさま。subjective ②個人的。自分勝手な。公平に物を見ないで自己の感情・意志のままにふるまうさま。subjective

【主体】①他に働きかけるもとになるもの。subject ②性質・状態・働きのもとになる本体。知・情・意の働きの統一体としての実体。subject

 

 

出典『日本語大辞典』一九八九年(講談社)※「主観性」という語は掲載されていない。便宜上「【主観性】-」と表記した。▼ ⑴「客観」「主観」言葉の意味(定義)と観察の視点

 

 

 

 

 

参照資料・文献

(「客観と主観」各ページへの)

 

子は母となり
子を宿し母となり
子の中に生きる

「第一章 心のつる草」の一節▼

 

 

第一章 心のつる草

 

 人間は、万物の霊長といわれていますが、そこに一つの疑問が湧いてくるのです。本当にそうなのであろうか? 確かに想像を絶する知性を発揮するし、宇宙に人工衛星を廻し、基地をつくりだしてからも久しくなりました。さらに、あの星、この星へと探査機を飛ばし続けています。

 生活に欠かせないライフラインの基盤となる電気などには、核エネルギーを駆使していますが、その同じエネルギーは、軍事防衛と称される巨大な破壊兵器として、脅迫手段にも転じられます。人類が一巻の終わりの幕を引こうとしているかのように、私の目には映ってなりません。私たちが絶滅危惧種の筆頭になっていいわけはありません。

 人間の能力は実に見上げたもので、その科学技術の向上は絶頂期に達しています。そのせいで、生活が浮雲に乗っているような感じもしますが、私たちが文化的生活の恩恵を満喫しているのも事実です。

 確かに、万物の霊長といわれて当然かもしれません。そうです。人間は、この世で最高の頭脳を持つ、知性の神様のような生き物なのです。

 私は、思いついたことを「日々の心」として書き留めていますが、そこに次のようなことを書いていました。

 

(中略)

「日々の心」 四八二

母はわが子を宿した

そして
その子に母は宿る

母はわが子を生んだ

そして
その子の中に
自分をも産み落とした

そして
その子の中で生きる
母と父

その子の外にいる元の
母と父

そして
その子の中にも
生きている母と父

どちらも〝本物〟だ

そして
元の母と父は死んだ

そして
その子の中で育つ
母と父

永遠に繰り返される
母と子

子は母となり

子を宿し母となり

子の中に生きる

死に変わり生き変わりて
続く魂

自分の中は魂の博物館

 

「日々の心」四八三

母の子宮の中では

いのちがいのちを

いのちたらしめるための
十月十日

新しいいのちの再生世界

そこは母の〝呼吸と食〟以外は
立入禁止の聖域

また、いのちの道は一本道

口から入った食が

いのちを
いのちたらしめるための一本道

食はいのちで
食以外は立入禁止

一呼一吸天の気

一食一排地の気

天地の気はいのちの食

食はいのちの呼吸なり

 

(中略)

 

「日々の心 四八三」で記したように、母の子宮の中は、母の「呼吸と食」以外は絶対立入禁止の聖域なのです。いのち自身がいのちを育てている聖域なのです。その十月十日といわれる平均期間内で、人が人として再生します。このとき、圧縮し、凝縮された魂も同時に再生の道に入ります。

 その間、母が摂取する「呼吸と食」以外は立入禁止の、いのちの聖域である「子宮」の中で、引き継がれてきた魂のすべても、この世の夜明けを待って、新生児として誕生します。肉体の誕生は魂の誕生でもあります。

 子宮の中では、母がいただく大気の呼吸と食物の摂取によって、

 

いのちによる

いのちたらしめる

いのちのために

宇宙根源からの
生命エネルギーで

ごくごく自然に

肉体と精神の

一元一体の

いのちの姿になるために

その流れを続けます

 

 ひたすら母親は、呼吸の気を送り、生命元素の〝食〟を送り続けての生命奉仕です。十月十日は、立入厳禁聖域となる子宮の小宇宙世界であり、宇宙意志のカプセルでもあるのです。

 そして、機が満ちてこの世に出生した新生児は、やがて、一体のいのちとして、その骨格が完了するのは、男性でだいたい一八歳、女性で一五歳少々に達してのこと。骨の数は、新生児で約三〇〇本、最終的には全部で〝二〇六本〟になるといわれています。

 一生命体が完成するまでの原形は、十月十日の、子宮という小宇宙世界で、その基盤ができあがるわけです。母親の口から入った〝食〟が胃に入って、十二指腸に入り、小腸に入り、分子・原子次元まで分解された物が吸収細胞によって取り込まれ、全身に届けられます。そこでいのちの新陳代謝が起こり、生き生きと輝く命となります。そして、子宮の胎児が育ちます。

 胎児が出生するまでの、この完璧ないのちの組み立ての仕組みは、〝天のご意志〟というほかありません。

 こうして積み上げられてきた人間の魂は、成長とともに、この世のあらゆる心身環境を取り入れながら、扉を一つ、また一つと開いていくこととなるでしょう。

(中略)

 

 

出典『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』「第一章 心のつる草」八〜二四頁

この本について▼

 

 

 

 

 

思考の世界では主観と客観に分離出来るが、いのちの世界から見るならば主観も客観もなく世界は一つだ。

『いのちのふる里』「いのちのスクリーン」の一節▼

 

 

 

いのちのスクリーン

 

 自分のいのちは、他のいのちと霊線(命の光)でつながっていることがそれとなくわかる。

 原始の単細胞時代から永々時の流れの中で進化し続け、ついに、現代人の姿まで変化した。これまで発生した全ての生命世界には、どれ一つとして、命のつながりに無縁のいのちはないはずだ。

 どれほどあるか夥しい数の〝種〟があって、更に膨大な数の〝個〟が存在する。ところが、生命エネルギーの本流から見たなら、どれ一つとつても別世界の命の持ち主はいないと思うのだ。それは、宇宙から発せられた地球の命の流れであり、この宇宙以外の世界からの生命は考えられない。

 いのちの本体のことを命の光と言えるなら、この世の森羅万象は、命の光を本体にしてみな平等不滅の光を発していることになる。人間だけが別世界の命なのではあり得ない。働きは異なるとはいえ、命の光はみな平等にして変わりない光を発している。

 この世一切が命の光で結ばれているなら話は早い。外の世界一切と自分とはみな不離一体同根の光だ。しからば、目前の風景にせよ、みな自分のいのちの中に存在していることになる。

 いのちのルーツを遡及したとき、風景の一部始終に自分の命が結ばれている仕組みがわかってくるし、それは、生命同根のいのちの持ち主たちであるから理屈もない。

 内なる自分の世界は、実際にこの目で見ている風景そのものであるわけだ。

 風景が自分だなどと言えばいよいよ狂気じみてくるが、理屈なく本当の世界なのだ。

 思考の世界では主観と客観に分離出来るが、いのちの世界から見るならば主観も客観もなく世界は一つだ。外の世界と自分は完全に分離していると考えがちだが、いのちの世界からみた時そうではなくなる。内なるスクリーンには常に外の世界が映し出されているのが真実の姿だ。

 

〝内は外なり、外は内なり

主観は客観、客観は主観なり〟

 

ということになる。

 この考え方は、あくまでもいのちという万物共通の観点からであり、心の問題はまた別のことである。

 

山襞やまひだ深く

雪また深く

燃え立ついのちは
大地の中

寂寥せきりょう深々草木眠りて

春の目覚めは
まだ遠い〟

 

 雪国の写真一枚見るにしても、それは、常に、命のスクリーンに依存する光景なのだ。

 われわれは、発する思考力を停止して、無想の境地になった時、客観の風景は、内なる風景と合致する。外が内になり、内が外になった時、いのち本流からの波動と共振共鳴の感動が湧き上がる。激しい感動のひびきが沸き起こる。そこが、

〝いのちのふる里だ〟

 

山があって
川が流れ

ほとりに
耕しつづけた
田圃があって

点々と
家があって

そこで暮らす
人々がいる

 

 

出典『いのちのふる里』一八〜二〇頁

この本について▼

 

 

 

 

 

『広辞苑 第四版第六刷』

 

【想像】①実際に経験していないことを、こうではないかとおしはかること。②実際の知覚に与えられていない物事の心像(イメージ)を心に浮かべること。

 

【空想】現実にはあり得るはずのないことをいろいろと思いめぐらすこと。[心理学]想像の一種で、観念または心像としてあらわれる精神活動またはその所産をいう。願望充足の機能を持つことがある。

 

【妄想】①[仏教](モウゾウとも)みだりなおもい。正しくない想念。②[心理学]根拠のない主観的な想像や信念。病的原因によって起り、事実の経験や論理によっては容易に訂正されることがない。

 

【幻想】現実にないことをあるように感ずる想念。

 

【欲望】ほしがること。また、ほしいと思うこと。不足を感じてこれを満たそうと望む心。

 

【意思】考え。おもい。「-表示」

 

【意志】①(will) ㋑[哲学]道徳的評価の主体であり、かつ客体であるもの。また、理性による思慮・選択を決心して実行する能力。知識・感情と対立するものとされ、併せて知・情・意という。「-薄弱」㋺[心理学]ある行動をとることを決意し、かつそれを生起させ、持続させる心的機能。②こころざし。

 

【意欲】①積極的に何かをしようと思う気持。②[倫理]種々の動機の中から或る一つを選択してこれを目標とする能動的意志活動。狭義には、当為に対する主観的意志活動即ち任意・恣意を意味する。

 

【感情】①喜怒哀楽や好悪など、物事に感じて起る気分。「-を害する」「-がたかぶる」②[心理学]精神の働きを知・情・意に分けた時の情的過程全般を指す。情動・気分・情操などが含まれる。「快い」「美しい」「感じが悪い」などというような、主体の情況や対象に対する態度あるいは価値づけをする心的過程。

 

【直感】説明や証明を経ないで、物事の真相をただちに感じ知ること。

 

【直観】一般に、判断・推理などの思惟作用の結果ではなく、精神が対象を直接に知的に把握する作用。直感ではなく直知であり、プラトンによるディアレクティケーギリシャ語の「対話」》を介してのイデア直観、フッサールの現象学的還元による本質直観など。

 

【霊感】②(inspiration)人間の霊の微妙な作用による感応。心にぴんとくる不思議な感じ。

 

【第六感】五官のほかあるとされる感覚で、鋭く物事の本質をつかむ心のはたらき。(五官とは、五感を生ずる五つの感覚器官。眼(視覚)・耳(聴覚)・鼻(嗅覚)・舌(味覚)・皮膚(触覚)をいう。仏教にいう五根から出た語。)

 

 

出典『広辞苑 第四版第六刷』一九九七年(岩波書店)。なお、略号[心][仏][哲][倫]の記載を、それぞれ[心理学][仏教][哲学][倫理]に置き換えて表記した。

★『知識創造の方法論』野中郁次郎著、二〇〇三年、東洋経済新聞社(『広辞苑』に掲載されていない用語だったため引用した。)

 

 

引用・参考図書

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書籍『宗教と科学の接点』を図書館情報サイト「カーリル」で検索します

 

宗教と科学の接点

河合隼雄/岩波書店/1986年

ここでいう宗教とは、特定の教義をもつ各宗教のことではなく、心や魂を担当してきた分野という広い意味をさしている。これまで単純に対立的にとらえられてきた物と心の問題をだれもが真剣に考えることは、21世紀の人類を考える上できわめて重要だとしている。

 

 

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書籍『因果性と相補性』を図書館情報サイト「カーリル」で検索します

ニールス・ボーア論文集1
因果性と相補性

ニールス・ボーア/山本義隆編訳/
岩波文庫/1999(平成11)年

原子構造の解明、原子核理論の構築など、量子力学を開拓した理論物理学者のニールス・ボーア氏による論文集の邦訳。

 

 


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書籍『現代物理学の因果性と偶然性』を図書館情報サイト「カーリル」で検索します

現代物理学における
因果性と偶然性

デヴィッド・ボーム/ 村田良夫訳/
東京図書/1969(昭和44)年

量子力学の成果や有用性を認めながらも、量子力学に対する永久的・絶対的な見方や論法に批判的な立場をしめしたボーム氏。機械論的自然観への批判的考察を通じて、直面しつつある(するかもしれない)物理学の限界を打ち破り、進化し続けねばならないと考えていた。

 

 

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書籍『神秘の大樹 第二巻 ヒロシマとつる姫』の詳細・閲覧ページにリンクしています

神秘の大樹 Ⅱ
ヒロシマとつる姫

菅原茂/おりづる書房/2011年

 

平成5年8月6日の広島平和公園で出合った一羽の折鶴は、「倉敷市玉島」と印刷された広告で折られていた。その地名は「日月神示」で知られる岡本天明氏の出生地。縁結びのしくみを、「心のつる草」など比喩を用いた物語を織り交ぜて表現している。

 

 


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フォトエッセイ『いのちのふる里』の詳細・閲覧ページにリンクしています

いのちのふる里

菅原茂/おりづる書房/2008年

 

便利な生活を享受するために、工業を中心にしてひた走ってきた日本社会。そのいっぽうで、むかしもいまも、ずっと変わらずいのちの原点でありつづける食のふる里。個人の生き方として、また社会の健全な姿としてのバランスを、どうやって回復したらよいのか。食と農と生命に実感がもてぬ現代の私達。時代や社会を経ても生きる原点は変わらないはず。私達の体と心は原点に帰れるのか。

 

 

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書籍『全体性と内蔵秩序』を図書館検索サイト「カーリル」で検索します

全体性と内蔵秩序

デヴィッド・ボーム著、
井上忠・伊藤笏康・佐野正博訳/青土社/1986年

『WHOLENESS AND THE IMPLICATE ORDER』(1980年) の邦訳版。科学は物質を微細に分け入り、その「構成」粒子を発見してきた。一般に私たちは、それが物を形作っている最小単位だろうという見方をしがちだが、分析して見える粒子は、ある文脈によって「全体」から顕現した一時的な抽象物であって、そもそも宇宙は分割できない一つの「流動する全体運動」だという。専門の物理学(量子力学)をもとに論じるこの世界像は、あらゆる物事を部分化・断片化する見方に慣れてしまった私たちに、重要な示唆を与えている。

 

 


関連ページ

引用・参考図書  /  抜粋・引用文集  /  参照資料の索引

 

 

共時性とは何か

共時性と因果性

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時空や生死を超え、人種や生物種も超えて、いのちには境界がない証し

 

因果性とは何か

物理学的視点

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「因果性」の実際は、それほど単純ではなく、もっと複雑。科学的な「法則」は、限定的な条件のもとでのみ有効だ。

 

偶然と因果

共時性と因果性

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因果性がないというより、今の科学の尺度では説明できない、と言うべきではないのか。

 


共時性の真価

いのちの真実

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平成5年8月6日、広島平和公園で偶然発見された一羽の折鶴。共時性の真の価値は、それが生命の真実を示していること。

 

こころとからだ

生命現象の根源

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私たち現代人が見失っている食の本質。生命と生命現象の根源は食にある。自分のいのち食のいのちに対する考え方が問われている。

 

抜粋・引用文集

いのちと共時性の考察

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「いのちと共時性の考察」各ページに抜粋・引用した文や図書の一部を、横断的に集約。