共時性と因果性

A.共時性とは何か

⑹本質性・根元性こそ重要

 

ヒトが物質的世界と心的世界の両方を同時的に生きていることは疑う余地がない現実です。一般に主観的か客観的か、科学的根拠は、ということばかりが問われますが、いずれの場合も根元的かつ本質的かどうかを考慮しなければ不十分だとおもいます。「自らを宇宙の中にどう定位するか(下記より引用)、あるいは生と死、そういう視点を欠くことは、氷山・・の一角を見てその背景にあるはずの実像や海面・・下の全体像を観ないようなものではないでしょうか。

 

  • ミクロコスモスとマクロコスモスの対応という考え方は、ミクロコスモスとしての人間をマクロコスモスとしての宇宙に関連づける思想であったが、西洋の近代自我が自我を世界から切り離し、自我を取り巻く世界を客観対象として見ることを可能にしたとき、そこに観察される事象は、個人を離れた普遍性をもつことになり、自然科学が急激に進歩したのである。普遍的な学としての自然科学はその後ますます力を発揮し、人間は世界を支配したかの如く見えながら、宇宙との「対応」を失ってしまったという点において、自らを宇宙の中にどう定位するかという点で、根本的な問題を抱え込むことになった。(『宗教と科学の接点』河合隼雄著「第二章 共時性について」>「共時性と科学」p.50、岩波書店)

 

書籍『酒乱』の表紙画像たとえば、母体である宇宙や地球。それらと切り離せないあらゆる生命。そのひとつであるヒト。そのひとりである自分。その体と心。ヒトと並んで存在するいのちを食べてつむがれつながる生命。この一連の成り立ちをふまえ、生命は肉体的にも霊的にも祖先累々るいるいの因子と切り離せないのはもちろん、※イ天地万物の全生命は、相互に関連のある生命ではないか」という指摘があります。(※イ『酒乱‐米の生命が生きるまで』菅原茂著「黎明期」>「生命の樹」p.223

 

じっさい、食べなければ生存できないという事実は、食がいかにたいせつか、食べた生命と同化する場としての体がいかに神秘的で重要なはたらきをしているかを明確に表しています。この現実にもとづけば、知性よりも原初的次元こそ生命の原点であり、それが「万物普遍」の次元にちがいないというのはきわめて正当な見解ではないかとおもいます。

 

  • ヘソ(臍)の中は、宇宙生命、そして、地球生命のいのちの最前線であると共に、〝万物普遍の情報源〟という外界との一大接点『死んでも生きている‐いのちの証し』菅原茂著「あとがき」p.267~268、たま出版)

 

以上のような生命の根元的かつ本質的な特性をふまえると、共時性とは、生死の境界や主客の区別を超えた「全一的」視点の尺度だと言えます※ロ事実、いのちの源流をたどると他者をはじめとする外界との境界は曖昧になります。また、いのちは生と死とでひとつであり、死は生存と同様に人間の知性を超えた自然現象にほかなりません。しかし一般認識として「人々が死を拒否しようとするのは、彼らのもつ世界観のなかに死が位置づけられないからである※ハという米国人の傾向を述べた見解は、まちがいなく日本人にも当てはまる問題です。自らの内にある「死」を神話や宗教の解釈ではなく現実の生存と分離しないで根元的に観てこそ、生命の実像や実相を全一的という意味で適正に理解できるのではないでしょうか。(※ハ『宗教と科学の接点』「第三章 死について」>「死の位置」p.78

 

【参照】

※イ「生命の樹」▼

※ロ「いのちは磁気・磁波・磁性体」▼

 

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B. 因果性とは何か

「因果性」は私たちが思うほど単純ではない

 

C. 偶然と因果

「非因果的」という表現

【参照】

 

全人類を一本の生命の樹と見て、そこに花を咲かせている梢の先々が、我々、現世の人間

出典『酒乱‐米の生命が生きるまで』「生命の樹」▼

 

 

 

 

生命いのち

 

 悪魔に乗っ取られた酒乱の私でも、ピッカピッカの生命いのちが宿っている。この生命こそ、永遠不滅にして、宇宙創成の原点に結びついているものだ。見た目には、一人一人は別個の生命体である。だが、それは単に肉体だけのことで、みなさんも、私も、たとえ親子でなくても、生命に関しては、すべてつながっている。そして、それは人間ばかりでなく、天地万物の全生命は、相互に関連のある生命ではないか。

 このことは、自分の存在を考えたなら、すぐに理解できることだろう。この自分は、どこから生まれてきたのか。もちろん、父母からに決まっている。では、その父母は……。そして、その上は……。そして、また、……。その上の父母へとつながって、ついに、人間以前の生命体へつながっていく。

 そして、我々人類こそ、地球上で最も遅く誕生した生命体なのであると思う。宇宙と太陽、海の幸、大地の幸、万端が整った時、〝星の王子様〟として誕生した。その生命の糸は、人間が生まれ出る以前の、諸々の生命たちへとつながって、ついには、宇宙創成の原点の〝生命の親様〟へと結ばれていくことがわかる。

 だから、自分という一個の生命体の中には、まぎれもなく、何億万年の生命いのちの歴史が刻み込まれていることになる。それぞれの遺伝子の中は、生命博物館のようなものではないか、と思われる。私は、自分の意識改革を実行する中で、この生命の流れに、本当に感心した。全人類を一本の生命いのちと見て、そこに花を咲かせている梢の先々が、我々、現世の人間の姿と見たのである。

 私が、狂った果実となったことは、心という生命の養分が、祖先のどこかで、誰かが狂わしてしまったのだと思う。だから、私の身体に黒い花を咲かせ、黒い果実を実らせた。この生命の、心という養分を変えない限り、いつまでも、どこまでも、子孫の花が狂うのである。どこかで、誰かが、心の養分を自然体に戻してやらなければ、子孫のみんなに、迷惑をかけることになる。

 代々引き継がれた心の歴史(潜在層)は、次第に、ひとつの生命体として、独り歩きをし、それが、現在の自分を操作支配する力となる。そして、今の心の習慣が、積もり積もって、自分を、さらに、子孫を支配する心の生命に育つ。自分の過去の心、祖先累々の心が、ビックリ箱のように、現在の自分の前に躍り出てくるという仕掛けであると思う。

 こう考えてくると、勝手気まま、好き放題に、不調和な心を発散し続けてはならない。日頃の心の習慣が、ルーズになってくると、自己管理が不可能となって、人霊世界の思うままにされてしまうのだ。

 だから、酒を一杯飲むと、過去前世の悪心、亡者が小躍りしてやってくる。心の世界には、時間、空間はなく、一面的、一本直通だから、一瞬にして現われる。こうして、生命いのちを伝って、全方向から、飲み足りない亡者の援軍が集結することになる。もう、こうなったら、現世の自分は、ブレーキなしの車が、下り坂を走るようなものだ。

 ある日、妻が、こんなことを言った。

「お父さんが、少し飲み出すと、この世で飲み足りなかった人たちが、いっぱい集まってきます。〝もっと飲め、もっと飲めッ〟と、集まってくる。だから、お父さんであって、お父さんでなくなるのです」

と、言ったことが、今になって、そうであるとはっきり実感できた。

 その亡者に対抗するためにも、日頃の自己管理=意志力が、いかに重要であることか。日々の心の習慣が、いかに重要であることか、身にみてわかった。七羽のカラスから攻撃を受けながらも、身心をバラバラに分離、組立てることになった理由も、そこにあった。

 私は、身心に荒っぽい修行の負担をかけ、また、実際に、多くの修行体験もしてきた。危険な試行錯誤を続けた人体実験は、生命いのちに対する不調和な行為だったと思う。この自己改革の執念は、死にもの狂いだった。人の道をはずした者が、道をはずしたことに気づかされ、子孫には、この因縁を流してはならじと、その一念が、今は、人の道をはずすことなく、生命いのちの光が輝くように祈る毎日となっている。

 

(後略)

 

 

「生命の樹」223225

『酒乱‐米の生命が生きるまで』について▼

 

 

 

 

 

 

磁気・磁波・磁性体であればこそ、宇宙世界の生命元素(原子)とも融合できうるこのいのちといえる。

『神秘の大樹Ⅰ偶然が消える時』「いのちは磁気・磁波・磁性体」▼

 

 

 

いのちは磁気・磁波・磁性体

 

 いのちという名は誰が名付けたかは知らないが、いのち自身の自分でありながらも、いのちのことはあまりにも深く、遠くて手が届かない。そんないのちではあるが、求め続けることはいのちの果てまでも探求の道は続くであろう。

 今朝はそのいのちのことでふと浮き上がるイメージがあった。いのちはこころの源流であることを。そして、いのちの本体は磁気・磁波・磁性体であり、共振・共鳴・共時体の有視現象を起こすものであることを。またそれは生命元素(原子)の世界でさらにその奥の素粒子の世界に通じる遺伝子以前の世界であることを。

 われわれは、食をいただくお陰で生命元素が分子となり、細胞ができて、そして五体をつくる役割分担の細胞に分かれ、こうして今日食べた食物は立派な五体をつくってくれるし、五感で心をつくるまでに仕上げてくれる。

 その五感とされる視覚(眼)、嗅覚(鼻)、聴覚(耳)、味覚(舌)、触覚(皮膚)の五つの感覚と、五感の現実感とも異なる六感という霊的感覚があるわけだが、これら五感六感を感ずることのできるのは、いのちあればこそである。それらのことをつないでみると、宇宙をつくる生命元素があって、無限数の星々があって、銀河の中に太陽や地球があって、大地があって、大気があって、呼吸と食物をいただき、一体の「いのち」ができあがる。そのいのちは磁気・磁波・磁性の気をもっていて、そこに五感、六感が発生して、その反応の結果、心が生まれることに成る。そして、その心が人それぞれの人間模様をつくりだすことになる。それが人々の喜怒哀楽や悲喜劇の現実の姿となり、人間社会はとめどなくその変化を繰り返している。

 これら人間社会のあらゆる事象は人が生きている証拠でもあるわけだが、この生きているいのちは、一体何ものなのかと考えを巡らしてみた時、いのちは磁気・磁波・磁性体(=共振・共鳴・共時体)なのだということに気が付いたのであった。

 たとえば、ちょっとした物音一つでも耳がピクリと動き、そして、その音の情報を聴覚でとらえて、それが何であるかを察知して対応する。外に向けても自分の心に向けても、すぐにそれらの動きに反応をする。その反応こそ磁気・磁波・磁性体(=共振・共鳴・共時体)の反応であり、すなわち、それらの磁性こそ、私はいのちの本体であると考えてみたのであった。磁気・磁波・磁性体は共振・共鳴、共時の現象をもたらす唯一の心性媒体だと考えるようになった。

 いのちある限り、外的にも内的にも、この五感六感からの情報を元にして反応を繰り返す。その繰り返す反応こそ心の発生であり、反応即心であると考えた。

 心という磁気体が、情報を統括する脳に集積記憶として積み重ねてゆく。この心の磁気体はさらに、内的反応体(霊魂=潜在心)となって、日々の五感とともに心の宝庫として多種多彩な心のいろどりを生みつづけることになる。

 いのちの中で循環する情報反応によって、それぞれの個人差のある心を形成し、生み重ねているのが現実の姿であると考えた。いのちは、磁気・磁波・磁性体であり、共振・共鳴・共時現象の発生源なのだ。極言するなら、いのちは磁石だ。私は磁石であなたも磁石だ。いのちの本質はきっとそうに決まっているものだと私は本気でそう考えた。磁気・磁波・磁性体のエネルギーこそ、いのちの絶対調和力の核となるものだと確信に近い考えとなっている。

 共時性現象(シンクロニシティー)をもたらす共振・共鳴・共時の世界は、いのちが磁気・磁波・磁性体だからこそもたらす現象であると思っている。

 心も体も同一、同元、同質のもので、一元一体二象体となって現れることがいのちと呼ぶものではないのか。心と体は一人二役のようなものだ。だから生も死もない世界で、心も体も同一同根の生も死も呑み込む混合一体の世界であり、磁気・磁波・磁性をもった調和安定力こそいのちと呼ばれる本体であり、本質であると私は考えている。

 いのちは磁気体であればこそ、男と女はプラスとマイナスで引き合う性質をもつとしても不思議とは映らない。磁気・磁波・磁性体であればこそ、宇宙世界の生命元素(原子)とも融合できうるこのいのちといえる。素早く反応する気の流れ、気の動きこそ、心の源流であると考えても決して的外れにはならないであろう。

 

呼吸と食はいのちの食

食はいのちの元素

生命元素はいのちの光

心は光で体も光

いのちは

磁気・磁波・磁性体

いのちは

共振・共鳴・共時体

共時性現象の基を成す

いのちは心の源流

いのちはものいう光

ものいう光なのだ

みんな光の王子

みんな光の女王

 

(後略)

 

 

「いのちは磁気・磁波・磁性体」207211

『神秘の大樹Ⅰ偶然が消える時』について▼

 

 

 

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B. 因果性とは何か

「因果性」は私たちが思うほど単純ではない

 

C. 偶然と因果

「非因果的」という表現

引用・参考図書

 

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書籍『宗教と科学の接点』を図書館情報サイト「カーリル」で検索します

宗教と科学の接点

河合隼雄/岩波書店/1986年

ここでいう宗教とは、特定の教義をもつ各宗教のことではなく、心や魂を担当してきた分野という広い意味をさしている。これまで単純に対立的にとらえられてきた物と心の問題をだれもが真剣に考えることは、21世紀の人類を考える上できわめて重要だとしている。

 

 

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書籍『酒乱 こめのいのちが生きるまで』の詳細・閲覧ページにリンクしています

酒乱
米の生命が生きるまで

菅原茂/MBC21/1993年

 

 

「いのちとは」「心とは」という文字通りの “命題” について、 体験を通じた非常に強いメッセージを発している。 後年、この著者は『死んでも生きている いのちの証し』『神秘の大樹』を出版しているが、 第一作である本書を読むと、 なぜこの著者が、共時性を切り口にして「いのち」を語るのか、 腑に落ちる。

 

 


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書籍『神秘の大樹 第一巻 偶然が消える時』の詳細・閲覧ページにリンクしています

神秘の大樹Ⅰ
偶然が消える時

菅原茂/おりづる書房/2011年

 

いまを生きている自分(あなた)自身の存在こそ、肉体をまとい、服を身につけている霊魂そのものだという。 霊魂というと、わが身の外に存在し、わが身の外で起きる「現象」と考えがちだが、そもそもそれは、私たちのからだやこころに内在し、わが身の中で起きていることがらなのである。

 

 

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平成5年8月6日、広島平和公園で偶然発見された一羽の折鶴。共時性の真の価値は、それが生命の真実を示していること。

 

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いのちと共時性の考察

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「いのちと共時性の考察」各主題の文章作成に用いた参考文献や、理解の助けとなる参照資料を網羅。