共時性と因果性

A.共時性とは何か

⑶共時性の価値・評価‐注意と意義‐

 

小さい偶然は日常のいたるところに発見できますが、そもそも、それに気づいていない場合が大半だとおもいます。また、偶然のできごとに出合ったとき、ことがらの意味と一致する心に気づかなければ、当事者にとって、その時点では偶然のできごとにすぎません。一見、それと共時性現象は異なるもののようですが、すべて同じような現象と言えるのかもしれないと個人的には考えています。直線的・直接的な因果関係はなくても(分からなくても)、何か意味があるかもしれないと個人的に考えてみることにはそれなりに意味がないかということです。もちろん以下のような指摘はもっともであり注意が必要です。 (以下の抜粋はいずれも『宗教と科学の接点』河合隼雄著)

 

  • ある人にとってはあらゆることが共時的現象と受けとめられる危険性がないかという疑問が湧いてくるであろう。確かにそのとおりで、これは下手をすると迷信の集積になる。(「第二章 共時性について」>「実際的価値」p.68)
  • 全体の共時的連関を読み取ることは、ややもすると偽の因果律と結びつく危険性をもつ。たとえば、彗星の出現と帝王の死が、ある史書に記載されたとする。それを一回かぎりの現象として、その他のその時に生じた事象と共に全体として布置されたものを読みとる態度によって、それを読むといいが、そこで「彗星が現われたから帝王が死んだ」と考え、次に彗星が現われると帝王が死ぬだろうなどと考えはじめると、それは偽の因果律になってくる。このような思考法は数多くの偽科学を生ぜしめ、それが真の科学の発展の妨げになることは、もちろんである。(後略)(「第二章 共時性について」>「共時性と科学」p.48)
  • ユングが共時性について発表したときは賛否相半ばし、たとえば、ユング心理学についてユング派以外の人間として、よき入門書を書いたアンソニー・ストーも、「共時性に関する彼の著作は、混乱して、ほとんど実際的価値がないと私には思えることを、告白せざるを得ない」と述べている。(中略)このような現象に対しては、自我の弱い人がひきこまれてしまう傾向が強いので、その人たちはアカデミックな研究に適合しないのも当然で、そのことがわが国のこのような研究の遅れを助長していることも事実である。「第二章 共時性について」>「共時性と科学」p.51)

 

短絡的な関連づけはこじつけを生み、じっさいのところ現実的な見方を見失いかねません。そのいっぽうで、統計的・確率的な視点で当事者の思いこみだと結論づけるのは、数理的な原理や法則性に裏付けられているか否かという考え方に基づいているとは言え、そもそも科学(学問)が説明できていることがらは非常に限定的かつ断片的である事実を忘れてしまっているようにおもえます※イ

 

  • 極めて興味深いことに、(中略)自然科学の最先端において、それまでの方法論に対して根本的な反省をうながす問題が生じてきたのである。(「第二章 共時性について」>「共時性と科学」p.51)
  • ユングが共時性について発表したとき(中略)一方ではハイゼンベルクやパウリなどの理論物理学者がこの考えに深い理解と共感を示したことも非常に興味深いことである。特に、パウリはユングとともに、共時性に関する書物を出版するに到ったのである。わが国においては、大学におけるアカデミズムが西洋近代に追いつこうとする姿勢を強く維持してきた点もあって、近代合理主義の勢いが非常に強く、西洋よりも硬直化しているところがあり、超常現象に関するアカデミックな研究は欧米に比して極端に遅れている。(出典:同上)
  • 共時性の現象を受け容れることによって、われわれは失われていた、マクロコスモスとミクロコスモスの対応を回復するのだとも言える。つまり、コスモロジーのなかに、自分を定位できるのである。しかし、黄金虫の例や、あるいは筆者の易の例は簡単に冷笑の対象ともなり得る。それは極めて一般性を欠いた事象であるからである。しかし、普遍的に正しいことばかりに支えられて生きていて、その人は個人として人生を生きたと言えるのだろうか。因果律による法則は個人を離れた普遍的な事象の解明に力をもつ※ロしかし、個人の一回かぎりの事象について、個人にとっての「意味」を問題にするとき、共時的な現象の見方が有効性を発揮する。そして、心理療法においては、後者の方こそが重要なのである。(「第二章 共時性について」>「実際的価値」p.67)

     

個人的なことがらを「無意味だ」「価値がない」と断じてしまうこと、ひとつひとつの現象・事例に対し、第三者が表面的・一面的に見て意味づけや評価を下すことは適正ではないということです。「普遍的に正しいことばかりに支えられて生きていて、その人は個人として人生を生きたと言えるのだろうか。」という言葉はとりわけ印象的で的確な指摘だとおもいます。

 

【参照】

※イ「因果性とは何か」→

※イ「たましいとは何か」▼

※ロ「西洋近代の自我」▼

 

 

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共時性とは何か⑷

「共時性の背景要因」

【参照】

 

デカルトの切断によって、すべてのことが明確になったが、それによって人間存在のもつ大切な何かが消え失せたのではないか。

出典『宗教と科学の接点』「第一章 たましいについて」「たましいとは何か」▼

 

 

 

 

このように他と切り離して確立された自我が、自然科学を確立するための重要な条件となっている

出典:同著・同章「西洋近代の自我」▼

 

 

 

 

たましいとは何か

 

(中略) 「たましい」という言葉をわれわれは明確な方法によって用いることはできない。なぜそれはあいまいなのか、なぜわざわざそのようなあいまいな言葉を使用するのか。これに答えるためには、デカルトによる物と心の明確な切断について考えてみるとよい。デカルトの切断によって、すべてのことが明確になったが、それによって人間存在のもつ大切な何かが消え失せたのではないか。その大切な何かがたましいであり、デカルト的切断の明確さに対応するために、それはあいまいでなければならないのである。たましいをもし明確に定義するならば、それはデカルト的切断力によって、物か心かのいずれかに還元されてしまうであろう。従って、ヒルマンが、「たましいという言葉によって、私はまずひとつの実体サブスタンスではなく、ある展望パースペクティブ、つまり、ものごと自身ではなくものごとに対する見方、を意味している」と述べるとき、それはデカルト的な世界観に対抗する見方をとることを宣言しているのである。物と心、自と他などの明確な分割によって近代人は多くを得たが、そこに見失われたものを尊重しようとする態度を、たましいというあいまいな言葉を用いることによって明らかにしようというのである。

(後略)

 

「第一章 たましいについて」>「たましいとは何か」2021

 

 

西洋近代の自我

 

(中略)

 西洋近代に確立された自我は、自分を他と切り離した独立した存在として自覚し、他に対して自立的であろうとするところに、その特徴がある。このようにして確立された個人を、英語でindividualと表現する。つまり、これ以上は分割し得ざる存在ということであり、その個人を成立させるためには、物事を分割する、切断するという機能が重要な働きをもつことを示している。有機物と無機物という分割、有機物をまた分割してゆき、人間と他の生物という分類が行われ、その人間をいかに分割していっても、個人が分割し得ないものとして残る。このことは逆に言えば、個人は他と切り離されることによって存在が明らかになると言える。

(中略)

 このように他と切り離して確立された自我が、自然科学を確立するための重要な条件となっていることは容易に了解できるであろう。つまり、このような自我をもってして、はじめて外界を客観的に観察できるのである。このような「切り離し」による外界の認識は、個々の人間とは直接関係しないものとなり、その意味で「普遍性」をもつので、極めて強力な知を人間に提供する。これが、これまでの自然科学である。

(後略)

 

 

「第一章 たましいについて」>「西洋近代の自我」2526

『宗教と科学の接点』について▼

 

 

 

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共時性とは何か⑷

「共時性の背景要因」

 

引用・参考図書

 

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宗教と科学の接点

河合隼雄/岩波書店/1986年

ここでいう宗教とは、特定の教義をもつ各宗教のことではなく、心や魂を担当してきた分野という広い意味をさしている。これまで単純に対立的にとらえられてきた物と心の問題をだれもが真剣に考えることは、21世紀の人類を考える上できわめて重要だとしている。

 

 

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