生命現象の根源

こころとからだ

天地自然の調和性と人間

 

人間は、さまざまな感情や欲望によって、心の調和が乱れたり、不安定になったりすることが多いものです。この心の性質は、人類の知性が発達しているからこその宿命と言えるかもしれません。では、ほかの生きものはどういう「いのち」なのでしょうか。

 

『いのちの証し』の表紙画像以下に挙げるいくつかの文は、すべて『死んでも生きているいのちの証し』(菅原茂著、たま出版)からの抜粋です。

 

動物は大地から分離して生きているから植物のような訳には到らず、ましてや、知性の高い人間は、生命情報感ではキリ(低)に属することになる。おのずから五感で感ずる外的心の情報にたよりがちとなり、(後略)(p.254)

 

生命界の情報量において、動物界は、植物には到底及ぶものではないと思うし、ましてや知性を最大の武器とする人間は、自然界の生命エネルギー情報キャッチにおいて極めて退化傾向にあるのではないか。そのことは、自然力、自然智という感覚から次第に遠のくことを意味する。(p.47)

 

いっぽう植物は、

 

大地に根を下し、地球生命の体温の中で親の心(地球の心性波動)をしっかり受け取り、自然のリズムにそって共に生きる。(p.254)

 

また、地上では、枝や葉や幹によって宇宙生命の情報を微細にわたってキャッチしている唯一の生物であろう。(中略)いのちの最前線といえばこの植物達である…(後略)(p.47)

 

知性の発達とともに「自然智」から遠ざかる傾向が強い人類は、自然界の食物を食べることで、いのちを調和の方向へと絶えず修正する必要があるのです。食の目的として、「満足感や満腹感を得ること」「栄養の補給」「体内浄化」など、ひとそれぞれに挙げられるとおもいますが、毎日食べ物を摂取する重要な意義は、いのちの自己調和にあると言ってさしつかえありません。

 

では、その「天地自然の普遍力」を何から得るかが問題になるわけですが、「〝食性〟によって生命情報は、ピンからキリまであり、例えば、菜食系の人、穀菜食系の人、肉食系の人では、その普遍力に満ちた生命情報に大きな差が生ずる」(p.254)と同著書において著者は述べています。 

 

食物の中でその生命情報力の高いものとしてはやはり五穀であろう。その中心をなす〝米〟が人間食の究極となろう。稲は、水性植物といえるほど水を好み、根も深く、半年間もじっくりと天地の生命力を吸収し、蓄えを実らせてくれる。 (中略)一粒の米には、天地自然の普遍力が宿っている。(p.254〜255)

 

もちろん、望ましい食生活をしていれば、万事安心というわけではありません。前に述べたように、いのちは物質的であると同時に霊的なものでもあるからです。じぶんの心の習性や癖を直視し、それを正す自覚、強い意志をもたないかぎり、いつまでたっても心の中で、相反するエネルギーや波長のギャップに葛藤し続けなければならないと言っていいとおもいます。

 

それならば、結局食物の力ではなく、強い意志の力がすべてではないかと思うかもしれませんが、どうもそうではないようなのです。わたし自身ずっと実感したいとおもい続けてきたことですが、コメ(玄米)中心の「穀菜食」にしたからといって、それだけで心が穏やかに安定するわけではありません。意志の強さはとてつもなく重要です。しかし、毎日の食がじぶんのいのち全体の方向性や質と無関係ではないことも、疑う余地がない事実です。

 

食物の調和エネルギーとは、意識下にある、いわば表層の心を、部分的・表面的に調和・安定させる力ではなく、無意識次元からいのち全体を、自然界と同じ調和性へと導く根源的な力です。このため、本質的・根本的な調和へと向かう過程で、体も心も「一種の〝苦〟」をともないます。

 

 この〝いのちの調和作用〟によって起る現象を、〝調和現象〟と考えている。調和現象の特徴は、その、いのちの中心に引き戻される時発生する一種の〝苦〟がある。それは、ゼロ志向のため起るものと考えている。これに対し、共振共鳴の共時現象は、相似融合作用であるから、それは、エネルギーの増幅志向にあるため、一種の〝快〟を発生させることになる。(p.225)

 

 

 

参考図書・参照資料「もっとくわしく」目次

 

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もっとくわしく

 

 

 

 

植物は、大地に根を下し、地球生命の情報を微細にキャッチし、また、地上では、枝や葉や幹によって宇宙生命の情報を微細にわたってキャッチしている唯一の生物であろう。

『死んでも生きているいのちの証し』「第一章/コスモスの色と妻のヘソの中」▼

 

 

 

 

菜食系の人、穀菜食系の人、肉食系の人では、その普遍力に満ちた生命情報に大きな差が生ずることになるだろう。

出典『死んでも生きているいのちの証し』「第二章/終って終らぬ共時の旅」p.254

 

 

 

 

稲は、水性植物といえるほど水を好み、根も深く、半年間もじっくりと天地の生命力を吸収し、蓄えをして実らせてくれる。

出典:同 p.254

 

 

 

 

世に多くの聖地と言われる場所があるものの、本当のいのちに満ちた聖地は、へソ(臍)の次元である

出典:同p.255

 

 

 

 

終って終わらぬ共時の旅

 

(中略)

 

 岡本天明の魂も、宮沢賢治の魂も決して死んで終ったのではなく、縁ある人々の心の共鳴磁場の中で魂の灯は消えることなく輝き続け共に生きている。

 文字のひびきや数のひびき、そして、色のひびきを心の舟として、沈黙の師となる愛となって活き活きと生きているのが現実と思っている。そして、何よりも自分という存在は

〝複合霊体を乗せた

いのち船の船頭〟さん

と言った方がぴったりである。

 旅の最終に宮沢賢治の映画を観て家に帰えれば、〝八〇円〟切手〝八枚〟の宮沢賢治が待っていて、発信人は、岡本天明の御夫人からであるとは、まさに一本の光の糸となって結ばれている世界というほかはない。

 農を愛し、米を尊び、生きる原点に敬虔な想いを深めた賢治の魂が、岡本天明の魂と合流する次元とは一体どこかと考えた時、そこは稲霊いなたま(米のいのち)のひびきの世界であるのではないかと考えられる。

 そこはいのちの最前線といわれる世界であって、天地自然の生命情報が最も集結される次元といえる。人間なら、

〝へソ(臍)の部分〟

である。

 生命情報が最も集結すると言っても、その大調和力の生命情報には、ピン(高)からキリ(低)まであるとみている。いのちの最前線のへソというのは、食物が人のいのちに転換する〝生命エネルギー転換次元〟であるから、その〝食性〟によって生命情報は、ピンからキリまであり、例えば、菜食系の人、穀菜食系の人、肉食系の人では、その普遍力に満ちた生命情報に大きな差が生ずることになるだろう。

 その能力の高いものは植物である。大地に根を下し、地球生命の体温の中で親の心(地球の心性波動)をしっかり受け取り、自然のリズムにそって共に生きる。また、地上では、天の氣を枝葉でキャッチし、宇宙の大調和力を受けとって育つことになる。

 ところが、動物は大地から分離して生きているから植物のような訳には到らず、ましてや、知性の高い人間は、生命情報感ではキリ(低)に属することになる。おのずから五感で感ずる外的心の情報にたよりがちとなり、内的・生命根源からのいのちの情報(食)にはあまり心を向けてくれないようだ。

 穀物の中でその生命情報力の高いものとしてはやはり五穀であろう。その中心をなす〝米〟が人間食の究極となろう。

 稲は、水性植物といえるほど水を好み、根も深く、半年間もじっくりと天地の生命力を吸収し、蓄えをして実らせてくれる。

 万人を守る生命素としてはこれ以上の食糧はないと思うし、米が中心となって光れば、他の食物たちは皆光ることになるのではないか。天地自然の生命情報に充満した〝米の魂〟こそ、〝稲の魂〟であり、天地を代弁する沈黙のひびきを持った人間の生命に最もふさわしい生命だと思っている。

 一粒の米には、天地自然の普遍力が宿っている。

 稲が天地の生命情報を収集して、米に凝縮させ、食となって胃で燃えて、腸で人間の生命に転換する〝へソ(臍)〟の次元が、地球生命と宇宙生命のいのちの凝縮された

〝調和意識エネルギーの中心〟

であるといえる。そして、へソ(臍)の次元こそ生命存続のいのちの鍵を握るものであり、生きるいのちの聖地であると思っている。

 世に多くの聖地と言われる場所があるものの、本当のいのちに満ちた聖地は、へソ(臍)の次元であると私は考えている。ここは、宇宙の意志が満ち溢れている

稲霊いなたまの次元〟

であるからだ。

 そして、浄化された師となる人間の魂が生命同化する次元であり、愛の調和情報を文字、数、色のひびきに乗せて発信させている次元と考えている。

 岡本天明の魂と、宮沢賢治の魂が合流した次元とは正しくこの稲霊の次元ではなかったのか。

 

(中略)

 

 妻の意識レベルには、かなり普遍的な情報チャンネルが開かれているのではないか、と、そう思われる一筋の光が見えてくる。それは、妻自身の言う

稲霊いなたまの世界にいるから

結ばれてくるのです〟

と言う心結び〝いろは四八字〟と〝共時性現象〟のことである。

 私は、あなたは〝米になったひと〟か、と、何度か妻に言って来たが、意識的次元ではどうやらそのような氣持にもなる。妻がよく言うことに、

〝皆さんは、霊界の世界、私は、米の心と一緒のところにいる〟

ということがわかる思いだ。また、

〝霊界は、憎んだり、傷つけたり、争いが絶えないけど、稲霊いなたまの世界から文字、数、色にひびかせる沈黙の世界は、傷つけ合うことはありません〟

と言う。

 いのち育む米を中心とする食の次元、すなわち、人間の生命エネルギー転換次元から、こちらを見ているような意識世界のような気がする。

 この生命エネルギー転換次元(食の次元)こそ宇宙と地球生命の最前線であり、その自然界の情報がいのちの火となって燃え上る次元である。

 この時、内なる魂の情報が、いのちの光に照し出され共振共鳴が起き易くなり、共時現象は、この生命同化が起る生命エネルギー転換次元の深い無意識レべルの時、最も多く発現するように思っている。

 すなわち、米(食霊)が、いのちの光となって燃え上る世界であり、それはまた、人の心の発生次元の世界とも言えよう。

 妻が言う稲霊いなたま(米の心性エネルギー)が、人のいのちとなり、心のひびきとなる言葉の次元であり、深い無意識レベルの世界ということができるのではないだろうか。その世界こそ

万物普遍の世界であり、

共振共鳴のエネルギーが輝き合い

共時の海は、

いのちの愛で満ち溢れる

そして、

共時の縁で結ばれ

喜びを重ね

調和の心に目覚め

熱いいのちの愛を感じ

深い自己調和の心が湧き起こる

そして、

自己に目覚め

今の心に目覚め

生きる原点に目覚め

本当の幸せに目覚めてゆく人生

ではないかと思っている。

 

生命いのちよ、食よ、五穀よ

米のいのちよ

ありがとう。

〝旅は終れど

共時の旅は

永遠とわに流れる

宇宙のいのち

いのちと共に

終りなし〟

 

 

「第二章 共時現象体験の旅」>「第六節 終って終わらぬ共時の旅」二五二〜二六〇頁

『死んでも生きているいのちの証し』について▼

 

 

 

 

 

本を閲覧:専用ページへ

第一章/コスモスの色と妻のヘソの中
第二章/終って終らぬ共時の旅 ほか
『死んでも生きているいのちの証し』について▼

 

 

 

 

生命維持エネルギー源としての食物摂取には、見えざる厳然とした掟のようなものがあるといっていい。

出典『いのちのふる里』「食い改めて百歲長寿」p.33

 

 

 

 

食い改めて百歲長寿

 

 稲作の歴史はわかっているだけでも、今から七千年以上も前に遡るという。七千年前には稲作文化が花開いていた、という中国〝河姆渡遺跡〟博物館長の話もある。

〝人間と米は一心同体の命の花

 米は人なり…人は米なり…〟

と、少し気張った感じがあるけど、御飯党員(?)の私は朝昼晚〝玄米党員〟でもある。

 五榖の中心である米は、人類救済の救世主だ。救世主、即ち〝メシア〟とはご飯こそ、〝メシア〟(飯やぁ)である。

 悔い改めるとは〝食い改めよ〟の米のことをまず生きる原点から考え直したい。

 いのちには自然治癒力という中心作用があって、常に安定を保つような生理調節機能が働いている。それが順調に働くために、また、生命機能を妨害しないためにも、自分自身の、心と体の浄化に気を配っている。

 いのちは、天の気(呼吸)と、地の気(食)の反復継続によって保存される。地の気は即ち米たち五穀や野菜等の生命エネルギーを吸収して五体生命を保ち、今日のいのちを生かされる。当たり前のことだが、普段は心がとどかない。

 この地球上には何千万種の生物が存在するといわれるが、その生命維持エネルギー源としての食物摂取には、見えざる厳然とした掟のようなものがあるといっていい。いわゆる食物連鎖と呼ばれているものであり、手当たり次第殺し合って、何でも食べるということは出来ないであろう。全ての生物が平等に存在するためには、その「種」に与えられた天与の食物が定められていて当然だ。食い物の争いは命懸けで、食糧問題は戦争にまで発展するではないか。医学者であり、文化勲章受章者でもある〝二木謙三〟先生は、次のように述べられている。

「今日の医学は、完全正食を無視した医学である。完全正食とは、蚕に桑の葉、鶴にドジョウ、鷹に雀、猫に鼠、虎に兎、日本人には玄米菜食で、それでこそ天地は生成化育で、人は自然順応で、天地に矛盾なく、人生に病無く、人は無病、無苦、無痛、安楽な死をとげることができるのである」と。

 先生は、著書『健康への道』のプロローグに記している。昭和一七年に書かれた本であるが、「日本人には玄米菜食を」ということに、今こそじっくり耳を傾け、真剣に取り上げたい時代ではないのか。

 国家医療費が三〇兆円(平成一〇年度)ともいわれ、内、一〇兆円位が老人医療費に呑み込まれているという実情は、それだけ、老人の生きざまの悪化を示しているようでならない。

 これからは、食生活を「食い改めて」、健康な心と体で人生を過ごしたいものだ。そのことは、取りも直さず

いのちのふる里に振り返り

生きる原点に振り返り

都市的、商工業的
情報的偏重から振り返り

いのちのふる里〝農業〟を
見つめ直す思いやりが
大切なことだ

農の心は天地の心

天地の心は人の道

だと、しみじみ思うのである。

 

 

「食い改めて百歲長寿」3233

『いのちのふる里』について▼

 

 

 

 

 

 

一途に自然界の調和波動に感応する感性こそいのちの触覚であり、彼らの生き方そのものである。人間のように、ひとまず考えてみるということはない。

出典『いのちのふる里』「稲の授粉にふる里を見た」p.85

 

 

 

 

稲の授粉にふる里を見た

 

 稲の開花授粉は、人目を避けるようにしてあっという間にその営みを終えてしまう。いのちの不思議な作用は子孫を残す神聖な世界だ。静まり返った真昼の沈黙世界は、実りを孕む一瞬の出来事であった。

 種同士のコミュニケーションは、他の種には全く通じない言霊となっていて、いわば極秘用語で話し合っているようである。植物たちは、完全なテレパシー波動で種同士のコミュニケーションを交わしているのであろう。

 一途に自然界の調和波動に感応する感性こそいのちの触覚であり、彼らの生き方そのものである。人間のように、ひとまず考えてみるということはない。ただひたすらに感応する世界だ。

 それは、いのちが順調になるための調和感応に他ならない。自滅するための感応は自殺行為に過ぎないから、生命力に逆行することもなく、黙々と生命界に順応する感性こそ彼らのもつ自然智ということになる。

 何故自然智なのか、と立ち止まった時「いのち」とは、生かして、生かして、生かしつづける力ということになろう。

 人間はすぐに考えてしまう。誰でも一度は立ち止まってあれこれと考え込む。考えた末に最初の直感が正しかったと気づくこともある。

 植物や動物たちは、いのちに即した感応力しか働かず、考えて頭をひねることもないから失敗して後悔することもないだろう。出来たことは全て「ベスト」なのである。渡り鳥が飛行を間違えることはないだろう。また、植物にも動物にも、未来とか過去という生き方の観念がないだろうから「今をベスト」として生死流転を繰り返しているといえる。庭のミニ田圃に咲いた稲の花を見ながら、そんなことがらをつい考えたのである。

 稲の花の六本ある葯(やく=雄しベ)たちをみていると、そこには、人間のような思考は感じられない。ただ、天地の調和力に同調する姿しか感じられない。

 生育の自然的条件は全く異なっていても、その場の環境に身を任せて今を生きる姿しかない。

 庭の砂地の稲は、肥料といっても腐葉土を少し施しただけで、農薬も使わず、水はサラシ粉の入った水道水で補充している。この稲たちは、以前どんな環境で育ってきたのかそのルーツは分からないけど、いずれにしても、庭の稲はここで花を咲かせた。そして、雌雄交配して結実手順は順調に済んだ。

 米は、少なくとも、二千年以上もこの国に定着して主食として尊ばれてきた。人間にとって、最もふさわしい食糧として人間とともに生きてきた。

 今、二一世紀の米作りとして特に、自然力の回復に向けて動き出している。農薬や化学肥料に対する考えは次第に有機、安全へと転換し始めている。合理的農業から自然と共生する農法へと大きく見直しが始まった。本来の生命力に戻る米作りに向け動き出さねばならないし、その兆候も顕著になってきたようだ。

〝元気な自然児に戻そう米作り〟

という思いが先に立つ。

 庭の稲の開花は、貴重な心を引き出してくれた。二時間位のあっという間に、そのいじらしい開花光景は終わってしまう。籾の中心から二つに割れて、その中から六本の葯が元気よく飛び出す姿は、農業のプロでもなかなか出会えない光景という。

 開花の稲は実を結び、やがて、私のいのちになる米のいのち。そこにこそ、共存共栄を見る思いになる。庭の稲にもいのちのふる里が輝いていた。

 

 

「稲の授粉にふる里を見た」八五〜八七頁

『いのちのふる里』について▼

 

 

 

 

 

 

私は私であって私ではない、と感じている私は、一〇〇兆個の細胞の塊であります。

出典『富士山と雲と神様』「第十二話 細胞からの三つの願い」p.77

 

 

 

 

第十二話 細胞からの三つの願い

 

私は細胞 微生物

一〇〇兆個の 微生物

私の願いは 三つある

きれいな水と 簡素な食事

そして一つは 調和の心

三つの願いを 聞いてくれ

私は細胞 微生物

一〇〇兆個の 微生物

どうかよろしく 願います

 

 私は私であって私ではない。そんな思いにさせたのは、二枚の写真からであります。富士山と神田川、そして富士山と芝川の写真です。それは単に山と川なのではなく、自然の循環を思い、それに自分のいのちの循環を重ね合わせることができるからです。

 重ね合わせができた時、すべては何の違和感もなく一体になります。何一つかけ離れたものはありません。すべてが、巡りの中で結び合っております。

 それらは自分の外の世界の話ですが、ひるがえって自分の中の世界を顧みてみれば、人体の一つひとつ、その完成度には神意を感ぜずにはいられません。生命の最小単位といわれる細胞は、あらゆる生命機能を備えていて、人体は一〇〇兆個ほどの細胞で構成されているといわれています。その細胞もまた、三〇〇種類近くにも分かれており、人体の各部位・器官を構成しています。細胞一つひとつに聞いてみれば、どこまでが自分であってどこまでが自分ではないのか、さっぱりわからないという感覚なのかもしれません。細胞をさらに細かく、分子→原子→素粒子へと掘り下げてゆくと、その行き着く所は、神であり、神のご意志の次元に入るのではないでしょうか。

 それはさておき。私は私であって私ではない、と感じている私は、一〇〇兆個の細胞の塊であります。

 その細胞たちから私は、「三つの願い」を託されました。それはきれいな水と、簡素な食事そして調和の心の三つであります。

 細胞からのこの三つの願いは、一〇〇兆個の細胞が元気で生き活き活躍できるための必死の願いです。生命の最小単位である細胞は、元気で生きてゆくために私(本人)に向けてこれらの願いが叶うよう、いつも一心にアピールしているのであります。

 

一、「きれいな水」

ここは富士山 富士宮

汚れを知らぬ 神田川

源流いずくと たずぬれば

浅間大社の 庭に湧く

湧玉池が ここにあり

 

 富士宮は清流に恵まれており、神田川、芝川、稲子川、潤井川、そして日本三大急流の一つ富士川が清流を供給しつづけております。「細胞の願い」の〝きれいな水〟に充分応えております。

 

二、「簡素な食事」

一呼一吸 天の気

一食一排 地の気

天地の気は いのちの食

食はいのちの呼吸なり

 

 生きてゆくための必須条件は、食事であります。毎日欠かすことのできない生命を維持する行為であります。入口(食べる口)は一つ、出口(尿と便の出口)が二つの一本道の中で、一〇〇兆個の細胞は、毎日運ばれてくる食物を待っております。

 食はいのちの呼吸であり、生死に直結する行為であります。

 三つの願いの一つ目、〝きれいな水〟は、血流を順調に運び、体のすみずみまで食事を届けてくれる流れでございます。その流れを汚さないためにも、簡素でバランスの良い食事を細胞のいのちたちは望んでいます。

 そのための食事の基本モデルとは、「一日二食」「玄米・みそ汁・納豆・お茶を摂ること」であります(以下の四点は、あくまでも筆者の基本モデルです。体調、嗜好などの個人差は多様でありますから、参考例となれば幸いです)。

■玄米

 二人の一食分として、うるち米一合に水三合を加え、柔かめに炊き上げます。

■味噌汁

 だしと具だくさんの味噌汁です。だしは食べるイリコなど、具は根菜、葉菜、海草など。

■納豆

 黒大豆納豆が好ましい。プラスαでキムチなどの発酵食を混ぜてもよいでしょう。

■お茶

 ほうじ茶、煎茶、抹茶、玄神(ブラックジンガー)など。細胞一つ一つは、最小単位の生命体です。直接本人のいのちを守る最前線で働いています。細胞が活き活きとして新陳代謝が活発であることはすなわち、本人も活き活きしていることと同義なのです。

 

三、「調和の心」

私は細胞 微生物

一〇〇兆個の 微生物

私の願いを 聞いてくれ

どうかよろしく 願います

 

 調和の心とは、何にも片寄らない心です。何かに夢中になることは時によいことでしょう。ですが、それが自らの全てとなり執着となって、排他的になることには、一線を超える危うさがあります。

 寛容度の高い、ひろい心は、細胞に過度の負担をかけません。調和不偏は、いのちに適った心といえましょう。こうした片寄らない心には、共にユーモアの心、遊びの心を忘れぬことも大切です。

 車のハンドルには一八度の遊びがあるといわれます。それは〝間をとる生き方〟にも通じます。偏りのない心で、ユーモアや遊びの感覚を持つことは、細胞に大変有益に働くことでありましょう。

 以上が、細胞からの三つの願いであります。

 

 

「第十二話 細胞からの三つの願い」七五〜八二頁

『富士山と雲と神様』について▼

 

 

 

 

 

 

悪性安定の「いのち」が出来上がる日

出典『いのちのエッセーと詩歌集』「いのちの不思議」p.136

 

 

 

 

いのちの不思議

 

 時代の変遷にはついていけないことさえある。変化の激しさは異常とさえ思うこともある。とりわけ、科学技術の進歩は、目の前を仮装行列が通り過ぎている感さえあるのだ。何となく、進化というより変化に見えてくる感じにもなる。

 人の世はとても賑やかで喜怒哀楽に富んでいる。それでいいのだが、この頃ふと真剣にこんなことを考えたりもした。というのは、人のいのちのことだが、このいのちというものは、実に、したたかな一面とひ弱な一面の両面を持つものだと思うし、このいのち、実は、人間の時代変化と共にその内部構造が少しづつ変わっているような気がする。

 したたかな一面もあれば、電撃一発ダウンするひ弱な一面が日常のこととして情報にのってくるのだ。よく耳にし、目にすることってあるではないか。

 九死に一生という死線を脱する考えられないような出来事ってある。かと思うと、キノコ一個を食ってもあの世行きってこともある。なかなか死なないという出来事があるかと思えば、僅少の食中毒死もあれば、目に見えない細菌によって高熱で死んでしまうことだってある。

 いのちは、強さと弱さの両面を持っている総合体なのかもしれない。

 食品の毒性が社会問題されるようになって久しいのだが、実はこれら食物に含有する毒性(環境関係・医薬・農薬関係・その他各種汚染一切)は、徐々に徐々に歳月をかけ、世代を積み重ねていく中で、一種の〝いのち〟の構成員となっていくのではないかと思っている。よく言われている「杭体」化していく感が湧いてくる。

 今、いのちを縮め、或いは死をもたらしている人間社会一切の毒性物質は、やがて、いのちの一構成員として稼働するようになるんじゃないのか、と。

 今は、それらを食べれば…また吸えば…そして、それらをしたならば…死ぬかもしれない一切の毒性物質が、やがては、いのちには何らの害毒とならない物質となるんじゃないのか、と考えてもみた。言い換えれば、悪性安定の「いのち」が出来上がる日が来るかもしれない。

 発見当時は、ペニシリンなどの抗生物質は魔法のように効果があったのに、今その薬に対して抗体を持つようになった細菌が出現してきて、極度にその効果が薄くなってきたと聞く。細菌たちの「いのち」は、膨大な犠牲を出して勝ち取った新生いのちになった訳ではないのか。

 人間社会と毒性汚染の戦いは、ある時代を経てその間いいしれない犠牲(死・そして経済的にも)を払いながら長い過渡期を過ぎて、化学変化した人間生命が創出される日が来るかもしれないと考えてしまった。

 人間も生態系の一種。天敵になったり、なられたり、知性の限りを尽くしながら種の数を増減しつつ未来へと続いていくのであろうか。

……うん…これでいいんだなぁー……

と、考えてしまう。自己納得する今日であった。

 喧々諤々(けんけんがくがく)、両極論を闘わせながら、人の世は、明日へと続いていくのである。皆さん、お元気で。

平成十四年七月十一日 68才 

 

 

「いのちの不思議」135137

『いのちのエッセーと詩歌集』について▼

 

 

 

 

 

 

流れはいのちを清くする / 呼吸と食はいのちの呼吸 / いのち再生調和のリズム

出典『いのちのエッセーと詩歌集』「死生川(ししょうがわ)」p.221222

 

 

 

 

死生川(ししょうがわ)

 

宇宙の神様考えた

生まれて死んでまた生まれ

流れ流れて流れを止めず

流れはこの世を清くする

朝に朝日が顔を出し

夜は夕日が姿消す

造って壊して壊して造り

いのちの原点調和のリズム

生死流転の死生川

流れ流れの死生川

 

宇宙の神様考えた

食べて排してまた食べて

流れ流れて流れを止めず

流れはいのちを清くする

いのち繫いだ食べ物たちは

役目を終えて大地に還り

巡る大地に花実を咲かす

生きる原点調和のリズム

明暗流転の死生川

流れ流れの死生川

 

宇宙の神様考えた

我が身見たさに考えた

星星つくり地球をつくり

ついに傑作人間できた

息を吹きかけ呼吸を与え

食を与えていのちを繫ぐ

呼吸と食はいのちの呼吸

いのち再生調和のリズム

天地流転の死生川

 

「死生川(ししょうがわ)」220222

『いのちのエッセーと詩歌集』について▼

 

 

 

 

 

 

自然界の愛が窓口にならなくては、汚れ切って、軟弱化した人間の心を、浄めることはできないだろう。

出典『酒乱‐米の生命が生きるまで』「守護の窓口となった妻と自然律(悪は、この世の仮りの姿)」p.110 

 

 

 

「生かして、生かして、生かし続ける愛の力」を借りなければ、人間は改心できない。

出典:同上▼

 

 

 

 

食物たちや、自然界の生かし続ける生命の愛を、自分の心で、ガッチリと感じられるようになれば、不調和な人生から、目覚めることが早まると思う。

出典:同p.113

 

 

 

 

守護の窓口となった妻と自然律(悪は、この世の仮りの姿)

 

(中略)

 

 その頃、妻には、親戚たちが詰め寄ってきていた。残された家族を見るに忍びなく、「離婚しなさいッ」と詰め寄られていたが、妻は、一念、夫を立て直すとの決意は固く、「夫婦の縁を粗末にするなッ」と、決して動かなかった。

 この心の奥には、どれほどの悔しさと、憎しみと、愛が、グチャグチャ揉み合い、砕け合っていたことだろうか。妻の口から、そうしたグチめいた言葉を聞いたことはなかったが……。それをよいことにしてか、心に入れてか、入れずにか、私は、泥棒にも三分の理ありとばかり、「ああでもない、こうでもない」と言い返していた。正邪善悪が麻痺する酒乱、薬物中毒患者は少々の不祥事について、本人には責任感が全くなくなっている。意識がぼけて、心神耗弱状態なのだから、やむをえないことだ。自意識がはっきりしていて、自分がなにをやっているのか、いいのか、悪いのか、思慮分別がわかるようならば、馬鹿な真似はできない。すべて、意識の埒外らちがいの出来事として、罪悪感が湧いてこないのが、厄介なアルコール性痴呆症なのである。せめても、せめても、取りつく島がないのだから、始末におえない。

 平常心で、酒と付き合える人たちには、はるかな、くだらない人たちと思えるだろう。だが、人間の進化の中で、今日までの遠い道程で、生活の友として、飲み続いているいとしき酒を、祖先の誰かが、道を少しずつはずしてきたことは、明白な事実だろう。

 こうした生命いのちが、子々孫々へと伝わる中で、きちんと飲める人と、乱れてしまう人とに分かれてしまった。そうして、時代を経て、〝悪い酒〟のほうの人が、遺伝子性の申し送りとなって、肉体的、精神的に、酒乱の素養が成長することになったようだ。

 そのため、心の習慣と肉体の習慣を、日々、粗末にできない理由が、生命いのちの裂けるほど、わかってくる。そして子孫のどこかで、必ず目覚めなくてなんとするか!!

 この永々と続いた悪習慣は、自分の過去だけのものなのか、あるいは、両親の代からのものなのか、さらに、それよりも、もっともっと先の時代にまで遡るのかは、人それぞれに異なっている。

 ただ、ここではっきりしていることは、子孫の誰かが、この先祖ぐるみの悪習慣を断ち切らなくてはならない。命がけで、生命に恥じない人間性を取り戻さなくてはいけないのである。

 そのためにも、単に人間的自我というくらいでは到底太刀打ちができない。自然界の愛が窓口にならなくては、汚れ切って、軟弱化した人間の心を、浄めることはできないだろう。

 人間発生前の、生命いのちの愛に戻って、我々を、

「生かして、生かして、生かし続ける愛の力」

を借りなければ、人間は改心できない。

 すべての宗教を超えて、生命の愛に目覚めなくては、心の汚れは浄められない。私に潜んだ、酒乱で汚れ切った心は、妻の真心の一念で、生命の愛に目覚めさせてくれたのだった。米と酒の生命が、妻の生命の光を通して、私の心の中で生き返ったのである。

 このことは、とても理解に苦しむこと、あるいは、低俗なことだと言われるかもしれない。だが、今、本当に、自分が迷っている時、そこから目覚めるためには、高尚な精神論や、宗教論で救われるだろうか。

 少なくとも、酒乱の人生から自分を目覚めさせてくれたものは、ただの主婦である妻の守りのお蔭だった。一念の真心(愛)は、人間的自我(煩悩的自我)を超えた愛の心となり、私の汚れた心を浄めてくれた。

 この妻の愛は、あまりに当たり前過ぎて、かえって説明に苦しむところだが、それは、人間的、都合的、犠牲的な愛ではない。また、男女の愛、親子の愛とも違う。それでは、どういう愛なのか。一口で言うなら、生かし続ける沈黙の愛だと、言える。また、宇宙心霊(生命界の心)が、妻の生命にがっちりと生きたのだと思われる。

 妻が、よく言う言葉に、

「人間以前の食物たちの生命(心)に戻らないと、人は成仏できない。人霊の活躍は、まだ自我がある。人間以前の生命の愛がないと成仏できない」

と、いうことがある。

 このことを知るためには、まず、毎日の食事に心を向けるがよい。食べることによって、生きることができるのは、当たり前のことだ。

 もの言わぬ米を食べ、そして、野菜、魚、その他一切の食物を食べて、こうして、自分の心が生まれ、が生まれ、言葉が生まれ、走り回り、今日を生きる人間。この、生かす力(愛)しかない食物たちと、融合一体となって、その尊い声なき心を受けることができる。酒乱の夫と過ごす尊い人生、三十三年の中で、人間を諭し続ける生命界の心と、通じ、結ばれ、生きた。そこには、いかなる理論の余地もない。

 そこにあるものは、丸裸の透き通った光だけの生命いのちしかない。そして、黙する生命の光の受け皿となった妻。しいて言うなら、沈黙の心々の世界から見たなら、灯台の光のような妻を見ているようなものであった。

 だから、米の生命は、妻の生命の光を見て、心を寄せる。酒の生命も寄ってくる。酒の心は、妻を通して叫ぶ。

「喜び、安らぎで飲むんだよッ。浄まりの生命いのちだよッ。神に捧げる生命だよッ。汚すのは、人の心だぞッ」

 また、米の心は言うだろう。

「米寿の祝いとなる生命だよッ。八十八(88)の数にも、生きられる生命だよッ。磨き抜いて、御神酒にもなる生命だよッ。生命を汚してはならないよッ……」

と、人の体の中から叫んでいるだろうし、米、酒、食物一切、また、自然界の心々、そして、人霊の心々たちも、人の世のために、代弁してくれる妻の生命に寄ってくる。となって、文字に生きて、に生きて、に生きて、寄ってくる。そして、見えざる生命の世界の心々を、人々に伝えていただく喜びが、こちらにも感じられる。

 天地の生命の愛で生かされる人間界は、必ず、一人一人の生命の中から、目覚めさせられるであろう。そして、妻の守りは、沈黙世界の、見えざる、生かし続ける愛、その愛そのものの守り姿であった。

 だから、米の生命も、酒の生命も、私の生命の中で、力強く生きた。

 まず、心の突破口は、食物たちや、自然界の生かし続ける生命の愛を、自分の心で、ガッチリと感じられるようになれば、不調和な人生から、目覚めることが早まると思う。概念としての知識だけでは、むしろ、混乱が生ずるから注意しなければならない。

 こういう、生命の原点に、真心から感謝できる心(愛)が目覚めたなら、自らを救うことが必ずできる。

 不調和な心(悪性)は、目覚めなき迷いの心だから、悪はこの世の仮りの姿だと言える。

妻を介する 神力かみぢから

今ぞ晴れての 人の道

断って立ちゆく 酒の道

いのちの原点 目覚めゆく

 

 

「守護の窓口となった妻と自然律(悪は、この世の仮りの姿)」108113

『酒乱‐米の生命が生きるまで』について▼

 

 

 

 

 

 

生命には、声も言葉もないが、絶対なる〝安定調和エネルギーを秘めた意識波動(生命の響き) 〟が存在する。

出典『酒乱‐米の生命が生きるまで』「米は、いのちの光」p.213

 

 

 

 

の文字 の文字/プラス()マイナス()調和のいのち/の文字 の字 の文字/八字で証す米の愛

出典『酒乱‐米の生命が生きるまで』「米は、いのちの光」p.220

 

 

 

 

米は、いのちの光

 

 この現実社会にあって、一時、出家の道を真剣に考えたことがあったが、今は、あくまでも、精神性を土台として、現実凝視をして生きることを決心した。

 以前は、現実至上主義で金満家が夢であったが、そこには、大きな落とし穴のあることを知った。ブレーキのない、物質金満の世界には、見せかけの幸せが待っていて、先へ先へと走り、先を見るあまり、どうしても、足元を見失ってしまう人生である。生きる本当の喜びは、なんであるのかを見失っている人がたくさんいる。

 金で、生命いのちが保証されるのだと、錯覚するような人生は、消えていく虹の橋を渡る、虚飾の人生であることがわかった。

 そして、子孫に強欲の因縁、酒乱の因縁、色情、傲慢の因縁を残さず、その他、多くの不幸因縁を、残さぬような人生を生きようと、生きる価値観を変えることができた。

 以前の私は、浪曲『森の石松』ではないが、

「飲みねェー、飲みねェー、酒飲みねェー。喰いねェー、喰いねェー、寿司喰いねェー。……エッ……肝腎な人を忘れちゃ、おりゃせんかッ……」

と、石松ならぬ、大事な大事な生命いのち様を忘れていたのだった。

 生命は、生命でも、酒乱の唄枕に酔いれていた悪魔の生命ではない。ピッカピッカの生命様だったのである。

 

激しき宇宙の 波動はすぎて

ポッカリ浮かんだ いのち星

太古の昔の いのち花

海にいのちの 花ひらき

大地にいのちの 花ひらき

空に大気の 花ひらき

天に輝く 太陽が

ニッコリ笑って 花ひらき

お待ちいたした 人間様よ

ながき世の道 人の道

いのちの天子に 育つ世に

向けて花咲け いのち花

 

生命いのちとはなんぞやッ〟と尋ねても、生命は答えてくれない。だが、一人一人に感じられる生命の響きは必ずある。生命には、声も言葉もないが、絶対なる〝安定調和エネルギーを秘めた意識波動(生命の響き)〟が存在する。

 そして、人間以外の全存在は、自然界の調和エネルギー波動と生命同化して生きている。だが人間は、心のエネルギーを異常なまでに進化させてしまったため、千変万化する自分の心に振りまわされるようになった。

 この人間独自の心(擬似魂)は、生命から送られる安定調和の意識波動(真性魂)をさえぎり、魂の光を曇らせてきた。

 人は誰しも〝心は人間の特権〟であると思い、人間以外のものには、心の存在など容易に認めてはくれない。

 そこで、今、誰かに「あなたはどうして生きておられると思いますか」と尋ねてみたとすると、どう答えてくれるだろうか。おそらく「食べているから生きています」と言うだろう。確かに人間は、食物を食べると血となり、肉となり、さらに心を発生して、毎日を生きてゆける。

 ところが、人間以前の食物生命に、心があるかと聞かれたら、ほとんどの人は、「ノー」というだろう。米や大根、魚や果物に、(意識)があるなんてとんでもないことで、気持が悪い……と言うだろう。

 ところが妻は、この人間以前の、人間を生かし続ける食物の生命、自然界の生命に、心(意識の響き)があることを言い続けてきた。それは、妻の生命の中に、沈黙世界の声が、生きて結ばれるようになったからにほかならない。

 素直に考えれば、「人間を造り上げた食物たちは、人間ができうる可能性の根本要素(物質的、精神的)を、すべて持っている」と思うし、だから、心というものは、人間だけの特権ではなく、人間のような心にはなれなくとも、人間の心の元となる心(調和の意識波動)が、食物一切の生命にもあるといえる。

 さらに、生命界には、〝食物の心の元となる心(宇宙意識)〟があって、その心の元とは、神とも、宇宙心霊とも呼ぶことができる。だから、生きとし生きる生命体の中心を貫く生命は、万物共通だと言ってもおかしくない。

 いわゆる、万物は、宇宙意識を共有している同志ということになり、私はそのことを〝魂の平等〟と思うようになった。だから一心に、〝心を浄め澄ませれば、万物に心が通じる〟ことができると言える。心の元(宇宙意識)は、人間的煩悩心とは無縁の心であり、これこそ人間の心の羅針盤としたいものだ。したがって、食物をはじめ、自然界の一切は、〝生かし続ける愛の師となる心(調和心)〟で溢れている。

 この汚れなき、ピッカピッカの生命いのちに目覚める時、人は必ず己の愚かさに気づいてゆくはずである。

 私たちが毎日当然のごとく食べている米や野菜などに、宇宙意識の大調和エネルギー(響き)を感じながら、安定した心で生きたいものだ。

 大調和のエネルギー(米、野菜など)を食べて、不調和な心(片寄りの心)を持って生きるなら、病気にもなるだろうし、不幸を招くのも当然である。私の酒乱地獄はその典型であった。

 言い換えれば、一連の不幸性は、人間となった米、野菜たちの生命の叫びと言える。

 それでは、次に、人間の生命の光となる稲穂の喜びを、妻の心いただきの一節から紹介したいと思う。

 

カエルの声 はげましを

稲の心は はぐくみあう

緑すがたの 成長期

 

カッコウの声 勇ましく

育成のありがたさ

愛は稔り

 

朝日に開く 稲の花

セミの声聞く 夏のあい

 

青空に 祭り太鼓の音聞くも

心ごころの 稔り待つとき

 

秋のみのり 黄金の稲穂よ

小鳥の声に 喜びの揺れ

 

一粒のいのちにかけた花の木を

恵みの愛が 守る神

 

土の心 水のいのち 守りあれ

稲の心と 人生の開花

 

 米は人類究極の食糧となるであろうし、また、純日本風の食事こそ自然性にかなった、最も調和のとれた生命の救済となるのではないかと思っている。

 このうたは、昭和六十二年十二月六日、妻が映画鑑賞中に暗闇の中、手探りで綴ったものである。『牧野村物語―一〇〇〇年刻みの日時計(山形県蔵王)」という、米作りに生命を賭けた映画であった。

 

 米のうた

 

もみをぬがれて 白い肌

水でとがれて 丸裸

釜に入れられ スイッチオン

今日も輝く ダイヤの光

感謝せよとは 言わぬけど

米の尊さ 今一度

 

んで呑まれる このわたし

じっくり思う 胃の中で

今からわたしは 人間に

なって生きるを 誰が知る

知ってくれとは 言わぬけど

米の尊さ 今一度

 

りに煉られる 胃の中で

次は全身 いのち旅

隅の隅まで 血となりて

肉となりゆく 流れ旅

わかってくれとは 言わぬけど

米の尊さ 今一度

 

五体になった 米いのち

正しく生きろと 叫ぶけど

人の心は 破れ耳

米のわたしを 閉じこめて

飲めや歌えの 浮世花

米の心は 誰が知る

 

いのちの親から いただいた

〝米〟という字の 素晴らしさ

いのちの真実 生きている

〟と〝〟の文字〝〟の文字

プラス()マイナス( )調和のいのち

〟の文字〝〟の字〝〟の文字

八字であかす米の愛

 

米のわたしを 知るならば

人の不幸は ありませぬ

宇宙天地の 調和の愛を

背負って生きる 大使命

人の心に生きるまで

人を愛して きないわたし

人の心に生きるまで

人を愛して 尽きないいのち

 

 米は食物の先頭に立って、心をさとし、調和の愛を使命として人間を生かし続けている。そして、人類の果ての果てまでも、人を造り、人を守って、運命を共にする。

 米は、正しく神の申し子であり、〝生命いのちの光〟である。

 

 

「米は、いのちの光」211222

『酒乱‐米の生命が生きるまで』について▼

 

 

 

 

 

 

折鶴を開きますと、米の字が / 中心のあるこの字は、宇宙そのものを現している / 折り目はひかりであり、四方八方へと無限に広がって行く線

『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』「あとがき」/「岡本夫人の書簡(絶筆の抜粋)」p.165

 

 

 

 

■『岡本夫人の書簡』(絶筆の抜粋)

 

 ……前略……一九九三年、平成五年八月六日、広島におきまして、天明画展を開かせていただいたとき、小さな折鶴をいただいたからでございます。それは、この世始まって以来、最初で最後のただ一度の出会いでございました。この時、大宇宙と、地球上の折鶴のいのちはこの世始まって以来初めて、深い愛のひかりで結ばれたのでございます。

 空前絶後の、言葉に尽くせぬ、深く熱い想いでございました。大きなよろこびでございました。

 日月神示に寄りますと、この出会いは、この世の最初からの経綸(四九三)であると明記されているのでございます。

 はるかに長い気の遠くなる様な、億万年の想いの込められていた日でございました。人間の心を越えた広大無辺の宇宙の、切実な愛を深く感じるのでございます。平成五年八月六日、この日、この時が大切だったのです。一枚の広告の紙は、人間に生死のないことを現しております。

 天明は、肉体浄化して、はじめて自分の五体は食によって生かされていたと知りました。神示を書き、絵をかいたのも、自分だと思っていたが、食によって、書かせていただいていたのだと。

 天明が郷里の文字に生き、とかされていたことは、いのちの永遠を悟らせてくれました。表は色の花模様で、裏を返しますと、倉敷市玉島と、天明生誕地が印刷されておりました。

 「あ、これは天明さん生きている」と、直ぐ届けていただくことが、出来たのでございます。一体、何処の、何方が折られたものでありましょう?

 一六年前に、こんな不思議なことが、起こったのでございました。折鶴を開きますと、米の字が現れます。米の字は、この世でただ一つの、中心のある最も大切な大切な字なのでございます。

 中心のあるこの字は、宇宙そのものを現していると申せます。折り目はひかりであり、四方八方へと無限に広がって行く線ですから、(後略)

 

 

『岡本夫人の書簡』(絶筆の抜粋)一六三〜一六五頁

『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』について▼

 

 

 

 

 

「こころとからだ」各ページ

 

引用・参考図書

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書籍『死んでも生きているいのちのあかし』の詳細・閲覧ページにリンクしています

死んでも生きている
いのちの証し

菅原茂/たま出版/1997年

 

共時性現象の体験記録をもとに、生命の本質は不滅だと伝えている。 酒乱人生から夫婦二人三脚で新たな人生を再出発させた著者。自らの足元を照らすかのような共時性現象の記録を随想としてまとめている。また、本の表紙を飾る稲穂はこの著書の本質を象徴している。

 

 

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フォトエッセイ『いのちのふる里』の詳細・閲覧ページにリンクしています

いのちのふる里

菅原茂/おりづる書房/2008年

 

便利な生活を享受するために、工業を中心にしてひた走ってきた日本社会。そのいっぽうで、むかしもいまも、ずっと変わらずいのちの原点でありつづける食のふる里。個人の生き方として、また社会の健全な姿としてのバランスを、どうやって回復したらよいのか。食と農と生命に実感がもてぬ現代の私達。時代や社会を経ても生きる原点は変わらないはず。私達の体と心は原点に帰れるのか。

 

 


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書籍『富士山と雲と神様』の詳細・閲覧ページにリンクしています

富士山と雲と神様

菅原茂/おりづる書房/2016年

 

この世のすべてが心性エネルギーに満ちているという生命観=宇宙観からうまれた物語。ヒトは万物霊長の存在と言われるが、著者は万物霊の視点で生命世界を観ている。ともすれば私たち人類はあらゆる生物の頂点に立つ最も優れた存在であると勘違いしがちではないだろうか。本作は子どもから大人まで読んで理解できる内容になっている点で、ほかの著作とはひと味ちがう作品。

 

 

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『いのちのエッセーと詩歌集』の詳細・閲覧ページにリンクしています

いのちのエッセーと詩歌集

菅原茂/おりづる書房/2019年

 

夫人と米の生命愛による守護の中で、酒乱の因縁から自分の生命に目覚め、いのちへの誠実な思いを深めていった著者。「自己調和」をむねとする日常生活において試行錯誤する様子をありのままに綴っている。第一章は自らの日記から抽出した文章(エッセイ)。六十歳代、七十歳代、八十歳代と自己調和の日々とともに年齢を重ねた著者。その等身大の生きざまとその心意気が伝わってくる。

 

 


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書籍『酒乱こめのいのちが生きるまで』の詳細・閲覧ページにリンクしています

酒乱
米の生命が生きるまで

菅原茂/MBC21/1993年

 

「いのちとは」「心とは」という文字通りの “命題” について、 体験を通じた非常に強いメッセージを発している。 後年、この著者は『死んでも生きている いのちの証し』『神秘の大樹』を出版しているが、 第一作である本書を読むと、 なぜこの著者が、共時性を切り口にして「いのち」を語るのか、 腑に落ちる。

 

 

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書籍『神秘の大樹 第二巻 ヒロシマとつる姫』の詳細・閲覧ページにリンクしています

神秘の大樹 Ⅱ
ヒロシマとつる姫

菅原茂/おりづる書房/2011年

 

平成5年8月6日の広島平和公園で出合った一羽の折鶴は、「倉敷市玉島」と印刷された広告で折られていた。その地名は「日月神示」で知られる岡本天明氏の出生地。縁結びのしくみを、「心のつる草」など比喩を用いた物語を織り交ぜて表現している。

 

 


関連ページ

引用・参考図書  /  抜粋・引用文集  /  参照資料の索引

 

 

共時性とは何か

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時空や生死を超え、人種や生物種も超えて、いのちには境界がない証し

 

因果性とは何か

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「因果性」の実際は、それほど単純ではなく、もっと複雑。科学的な「法則」は、限定的な条件のもとでのみ有効だ。

 

偶然と因果

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因果性がないというより、今の科学の尺度では説明できない、と言うべきではないのか。

 


客観と主観

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自然界と人間とを切り離す「客観」的態度が潜在的に抱えている問題点

 

共時性の真価

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平成5年8月6日、広島平和公園で偶然発見された一羽の折鶴。共時性の真の価値は、それが生命の真実を示していること。

 

参照資料の索引

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「いのちと共時性の考察」各主題の文章作成に用いた参考文献や、理解の助けとなる参照資料を網羅。