生命現象の根源

こころとからだ

心身相関と食の生命いのち

 

体質が変われば、それにともなって自然に心の質が一変するかといえば、それはあり得ないと考えています。体と心は機械的な関係ではありません。そもそも体質は気質と同じく先天的特徴だとすると、それが変わること(変質や転換)がありうるのかという疑問も若干あります。たとえば、食生活を一変させた結果、体質転換を想像させる体の大きな変化を経験する場合です。それは体質の現れである健康状態の改善であり、体質転換ではないという見方もできるのではないかと、みずからの経験を振り返って感じています。

 

では、食習慣を変えることで起きる健康状態の向上や改善は、心に影響すると言えるでしょうか。食習慣の変化による健康状態の向上や改善が心に変化をもたらすというより、意識の改善なくして健康状態の改善はないと考えています。何をどう食べるかは、食物と体に対する認識の仕方や態度の問題と切り離せません。したがってそれに応じて、健康状態の向上や一般的に言われる「体質」改善の可能性が開けるというのが事実ではないかとおもいます。

 

心のもち方ひとつで体の反応は変わるというのも、経験的に多くの人が実感していることです。これは、いま述べた点と共通していますが、それを理由に、食は大した問題ではないと考えるのは問題があります。心のありようがすべてだという思想は、体と食の軽視であり偏った精神論です。また、体や食物が心をつくるという考え方も、ある意味では短絡的であり、当人の意思の方向性を考慮していないとすれば偏見と言わねばなりません。体も心もそれぞれが意志性をもつ「いのち」という「本質」の投影だとすれば、「いのち」の視点に立ち返って見直す必要があるとおもいます。

 

生死に関係なく人間が「モノ」ではないことはだれもが納得しますが、食物も「いのち」であって「モノ」ではないという自明の理に対しては、概して非常に鈍感です。ひとのいのちは食の「いのち」なしに成立しません。それほど重要な食の本質(いのち)を軽視・無視することは決して些細な問題ではなく、心と体の真の健康と調和という人間の本質的な願いに逆行・矛盾する致命的な問題と言えます。

 

 

 

参考図書・参照資料「もっとくわしく」目次

 

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もっとくわしく

 

 

 

 

心と身体が因果的に影響を与えあうのではない。むしろ両者のそれぞれの運動は、ある高次の共通根拠の射影どうしが関連しあっている結果なのである。

出典『全体性と内蔵秩序』p.349350

 

 

 

 

(中略)

 

この心と身体の繋がりは、ふつう心身的 (psychosomatic) と称されてきた (この言葉は「ギリシャ語」で「こころ」を意味する「psyche」と「からだ」を意味する「soma」とから発している) 。しかし通常この語が使われるさい、そこには心と身体がほんらい分離した存在でありながら、ある種の相互作用で結びつけられているという意味合いが含まれる。だがそのような意味は内蔵秩序と相容れぬものである。なぜなら内蔵秩序にあっては、心は物質一般を包み込んでおり、したがって心はその特殊な場合としての身体を包み込んでいると言わねばならぬと同時に、身体は心を包み込んでいるばかりでなく、あるいみで全物質界を包み込んでいると言わねばならぬからである。

(中略)

そこでわれわれはさらにつぎのように提案せねばならない。より深い内奥にあって両者を包括する実在は心でも身体でもない。それはむしろ心や身体より高次元の、本性上それらを超越した実在なのであり、そしてまたそれこそが両者をともに在らしめる共通の根拠なのである。逆に言えば、心と身体はおのおの相対的に独立した亜総体にすぎない。つまりそれらの相対的な独立性は、両者がそこにおいて究極的に一つとなる高次の根拠から派生する(むしろ顕現秩序の相対的独立性は内蔵秩序という根拠から派生する)のである。

(中略)

心と身体が因果的に影響を与えあうのではない。むしろ両者のそれぞれの運動は、ある高次の共通根拠の射影どうしが関連しあっている結果なのである。

 

(後略)

 

 

『全体性と内蔵秩序』について▼

 

 

 

 

 

 

 

宇宙が不可分の全体であることから出発する。それゆえ科学の仕事は抽象によって全体から部分を派生させることである。

出典『全体性と内蔵秩序』p.303

 

 

 

 

(中略)

 

これまで内蔵秩序と顕前秩序を対比したさい、われわれはそれらを分離した別個のものとして扱って来た。だがⅥ章で示唆したように、顕前秩序はより一般的な内蔵秩序の特殊ないし特別な場合として後者から派生しうると見なすことができる。顕前秩序が異なるのは、そのように派生したものが相対的に安定した再起的な要素の集合であり、それらの要素が互いに他の外部に存在するということである。そして機械論的秩序で適切に扱える経験領域があることは、このような一群の要素 (場や粒子) の存在によって証明できるのである。だが現在流布した機械論的方法ではこれらの要素 [場や粒子] が分離・独立して存在すると仮定され、またそれらが基本的実在を成すと考えられている。するとそのばあい科学の仕事はそれらの部分から出発し、抽象によってあらゆる全体を派生させ、それらの全体を部分どうしの作用の結果として説明することである。その逆に、内蔵秩序による探究は宇宙が不可分の全体であることから出発する。それゆえ科学の仕事は抽象によって全体から部分を派生させることである。

 

(後略)

 

『全体性と内蔵秩序』について▼

 

 

 

 

 

 

磁気・磁波・磁性体であればこそ、宇宙世界の生命元素(原子)とも融合できうるこのいのちといえる。

『神秘の大樹Ⅰ偶然が消える時』「いのちは磁気・磁波・磁性体」▼

 

 

 

 

いのちは磁気・磁波・磁性体

 

 いのちという名は誰が名付けたかは知らないが、いのち自身の自分でありながらも、いのちのことはあまりにも深く、遠くて手が届かない。そんないのちではあるが、求め続けることはいのちの果てまでも探求の道は続くであろう。

 今朝はそのいのちのことでふと浮き上がるイメージがあった。いのちはこころの源流であることを。そして、いのちの本体は磁気・磁波・磁性体であり、共振・共鳴・共時体の有視現象を起こすものであることを。またそれは生命元素(原子)の世界でさらにその奥の素粒子の世界に通じる遺伝子以前の世界であることを。

 われわれは、食をいただくお陰で生命元素が分子となり、細胞ができて、そして五体をつくる役割分担の細胞に分かれ、こうして今日食べた食物は立派な五体をつくってくれるし、五感で心をつくるまでに仕上げてくれる。

 その五感とされる視覚(眼)、嗅覚(鼻)、聴覚(耳)、味覚(舌)、触覚(皮膚)の五つの感覚と、五感の現実感とも異なる六感という霊的感覚があるわけだが、これら五感六感を感ずることのできるのは、いのちあればこそである。それらのことをつないでみると、宇宙をつくる生命元素があって、無限数の星々があって、銀河の中に太陽や地球があって、大地があって、大気があって、呼吸と食物をいただき、一体の「いのち」ができあがる。そのいのちは磁気・磁波・磁性の気をもっていて、そこに五感、六感が発生して、その反応の結果、心が生まれることに成る。そして、その心が人それぞれの人間模様をつくりだすことになる。それが人々の喜怒哀楽や悲喜劇の現実の姿となり、人間社会はとめどなくその変化を繰り返している。

 これら人間社会のあらゆる事象は人が生きている証拠でもあるわけだが、この生きているいのちは、一体何ものなのかと考えを巡らしてみた時、いのちは磁気・磁波・磁性体(=共振・共鳴・共時体)なのだということに気が付いたのであった。

 たとえば、ちょっとした物音一つでも耳がピクリと動き、そして、その音の情報を聴覚でとらえて、それが何であるかを察知して対応する。外に向けても自分の心に向けても、すぐにそれらの動きに反応をする。その反応こそ磁気・磁波・磁性体(=共振・共鳴・共時体)の反応であり、すなわち、それらの磁性こそ、私はいのちの本体であると考えてみたのであった。磁気・磁波・磁性体は共振・共鳴、共時の現象をもたらす唯一の心性媒体だと考えるようになった。

 いのちある限り、外的にも内的にも、この五感六感からの情報を元にして反応を繰り返す。その繰り返す反応こそ心の発生であり、反応即心であると考えた。

 心という磁気体が、情報を統括する脳に集積記憶として積み重ねてゆく。この心の磁気体はさらに、内的反応体(霊魂=潜在心)となって、日々の五感とともに心の宝庫として多種多彩な心のいろどりを生みつづけることになる。

 いのちの中で循環する情報反応によって、それぞれの個人差のある心を形成し、生み重ねているのが現実の姿であると考えた。いのちは、磁気・磁波・磁性体であり、共振・共鳴・共時現象の発生源なのだ。極言するなら、いのちは磁石だ。私は磁石であなたも磁石だ。いのちの本質はきっとそうに決まっているものだと私は本気でそう考えた。磁気・磁波・磁性体のエネルギーこそ、いのちの絶対調和力の核となるものだと確信に近い考えとなっている。

 共時性現象(シンクロニシティー)をもたらす共振・共鳴・共時の世界は、いのちが磁気・磁波・磁性体だからこそもたらす現象であると思っている。

 心も体も同一、同元、同質のもので、一元一体二象体となって現れることがいのちと呼ぶものではないのか。心と体は一人二役のようなものだ。だから生も死もない世界で、心も体も同一同根の生も死も呑み込む混合一体の世界であり、磁気・磁波・磁性をもった調和安定力こそいのちと呼ばれる本体であり、本質であると私は考えている。

 いのちは磁気体であればこそ、男と女はプラスとマイナスで引き合う性質をもつとしても不思議とは映らない。磁気・磁波・磁性体であればこそ、宇宙世界の生命元素(原子)とも融合できうるこのいのちといえる。素早く反応する気の流れ、気の動きこそ、心の源流であると考えても決して的外れにはならないであろう。

 

呼吸と食はいのちの食

食はいのちの元素

生命元素はいのちの光

心は光で体も光

いのちは

磁気・磁波・磁性体

いのちは

共振・共鳴・共時体

共時性現象の基を成す

いのちは心の源流

いのちはものいう光

ものいう光なのだ

みんな光の王子

みんな光の女王

 

(後略)

 

 

「いのちは磁気・磁波・磁性体」207211

『神秘の大樹Ⅰ偶然が消える時』について▼

 

 

 

 

 

 

 

いのちは、元は一体のエネルギー体

『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』「第一章 心のつる草」p.19

 

 

 

 

第一章 心のつる草

 

(中略)

 

「日々の心」四八二

 

母はわが子を宿した

そして

その子に母は宿る

母はわが子を生んだ

そして

その子の中に

自分をも産み落とした

そして

その子の中で生き

母と父

その子の外にいる元の

母と父

そして

その子の中にも

生きている母と父

どちらも〝本物〟だ

そして

元の母と父は死んだ

そして

その子の中で育つ

母と父

永遠に繰り返される

母と子

子は母となり

子を宿し母となり

子の中に生きる

死に変わり生き変わりて

続く魂

自分の中は魂の博物館

 

「日々の心」四八三

 

母の子宮の中では

いのちがいのちを

いのちたらしめるための

十月十日とつきとおか

新しいいのちの再生世界

そこは母の〝呼吸と食〟以外は

立入禁止の聖域

また、いのちの道は一本道

口から入った食が

いのちを

いのちたらしめるための一本道

食はいのちで

食以外は立入禁止

一呼一吸天の気

一食一排地の気

天地の気はいのちの食

食はいのちの呼吸なり

 

 万物の霊長といわれる人間ですが、次元を生きる原点に引き戻して考えるとき、果たしてどうでしょうか。もしもこの大自然界に放り出されたときのことを想像するだけで、何もかもギブ・アップすることばかりです。

 人間が優れているのは〝知性〟という特性があればこそです。そして、優れているのは、単に人間社会でのことにすぎないのだと気づきます。

 単身で空を飛ぶことはできないし、オリンピックのどんな競技の一流選手でも、猿やチーターや象やライオンやイルカたちに太刀打ちできないのは先刻承知のことです。裸一貫では成すすべもありません。優劣ではなく、その種が持つ〝特性〟という、いのちの平等に立たなくては比較などできようがありません。優劣は人間社会でのことであり、他の生き物が人間より、すべてにおいて劣るという見方は、白紙に戻さなくてはなりません。

 人間は、いろいろとものを考え、何かをつくり上げるという創造力にかけてはものすごい能力を発揮しますが、これを、万物の霊長というより、人間に与えられた一大特性と考えてみたいものです。

 特性である〝知性〟の活躍で、人間はとてつもなく広大な文化圏をつくり出しましたが、その、量的資産と同様に〝心の資産〟をも積み上げてきました。この心の資産を「魂」と呼んでみたとき、人間の魂は、私なりに考えれば、人間の遺伝子(DNA)とイコールに近いのではないかと思うのです。

 人類の心と行動のすべてが、一つ一つの細胞に組み込まれている遺伝子そのものの、大部分を形成しているのではないでしょうか。これについてはもちろん、人類という種に到達するまでの、果てしない生物の精神体である「心性」のルーツに遡らなければなりませんが、人類になってからに絞って考えてみるならば、人間が人間であるための、心と体の生きざまの記憶量が「遺伝子化」したのではないかと考えてしまうのです。

 ナンセンスも甚だしいとそしりを免れないでしょうが、今は、ヒトゲノムが解明されている時代です。遺伝子の数は約2万といわれ、その中で、確かに意味が解明されている遺伝子は全体の2%以下に過ぎず、大部分は何のためにあるのかさえわからないというではないですか。もしかするとそれこそ〝魂のDNA〟なのではないか、これは、ずぶの素人だからおそれもなく考えつくことかもしれません。

 いずれにしても、人の心の記憶蓄積量は、他の生物たちと比べたら、とんでもなく膨大な量になると思うのです。

 一人ひとりのいのちの中は、魂の巨大なダムになっています。その魂が、いのちの光の柱に絡み付くようにして生き続けています。

 いのちの道は一本道です。大調和の光を放つ一本道です。そのいのちの一本道の光の中で、人間の魂は正しい調和安定の波動に見据えられ、かつ、監視・コントロールされているのです。

「日々の心 四八三」で記したように、母の子宮の中は、母の「呼吸と食」以外は絶対立入禁止の聖域なのです。いのち自身がいのちを育てている聖域なのです。その十月十日とつきとおかといわれる平均期間内で、人が人として再生します。このとき、圧縮し、凝縮された魂も同時に再生の道に入ります。

 その間、母が摂取する「呼吸と食」以外は立入禁止の、いのちの聖域である「子宮」の中で、引き継がれてきた魂のすべても、この世の夜明けを待って、新生児として誕生します。肉体の誕生は魂の誕生でもあります。

 子宮の中では、母がいただく大気の呼吸と食物の摂取によって、

 

いのちによる

いのちたらしめる

いのちのために

宇宙根源からの

生命エネルギーで

ごくごく自然に

肉体と精神の

一元一体の

いのちの姿になるために

その流れを続けます

 

 ひたすら母親は、呼吸の気を送り、生命元素の〝食〟を送り続けての生命奉仕です。十月十日とつきとおかは、立入厳禁聖域となる子宮の小宇宙世界であり、宇宙意志のカプセルでもあるのです。

 そして、機が満ちてこの世に出生した新生児は、やがて、一体のいのちとして、その骨格が完了するのは、男性でだいたい一八歳、女性で一五歳少々に達してのこと。骨の数は、新生児で約三〇〇本、最終的には全部で〝二〇六本〟になるといわれています。

 一生命体が完成するまでの原形は、十月十日とつきとおかの、子宮という小宇宙世界で、その基盤ができあがるわけです。母親の口から入った〝食〟が胃に入って、十二指腸に入り、小腸に入り、分子・原子次元まで分解された物が吸収細胞によって取り込まれ、全身に届けられます。そこでいのちの新陳代謝が起こり、生き生きと輝く命となります。そして、子宮の胎児が育ちます。

 胎児が出生するまでの、この完璧ないのちの組み立ての仕組みは、〝天のご意志〟というほかありません。

 こうして積み上げられてきた人間の魂は、成長とともに、この世のあらゆる心身環境を取り入れながら、扉を一つ、また一つと開いていくこととなるでしょう。

 いのちの監視の中にある魂は、億万年の心の集団です。魂に新旧はないと私は思っています。昔も今もありません。百年前も、万年前の魂も、すべて〝今〟に生き生きと輝くのです。多次元立体ではなく、一次元の、一面一体で同時再生の世界です。

 浮き上がる心の条件さえ整えば、昔も今も越えた次元の〝今〟に生きてくる世界なのです。魂は活火山と同じです。条件を待って噴き上がります。その条件は、今の心でお膳立てをしています。

「今の思い」という心も亡き魂の心も、すべて、このいのちの中に在ります。いのちの〝原子〟となって生きているのです。

 大地を見てみれば、種を蒔いてもいないのに、いつの間にか思い思いに芽を吹き出した草木がずんずんと丈を伸ばして花を咲かせ、実をつけ、種を育てます。太陽や水などの自然の発芽環境条件を待ちつづけて、いのちに最もよい自然条件の下で顔を出してきているのです。生命波動の共振共鳴の現象です。

 たとえ、何もない荒れ地でも芽を出し始める草木たちの、そのいのちを、自分の中の魂にも重ね合わせてみることができるというものです。自分のいのちを、〝心の大地〟に見立てたとき、その心の大地から多くの魂の芽が、生きる条件を待ちながら、顔を出そうとしています。

 それを〝心のつる草〟にたとえるなら、各人の心の大地から育ち始めている心のつる草は、その人の「縁結びの使者」となって、人生に大きな力となって働き続けることになりましょう。

 この世界の人間のいるところ、どこにでも、心のつる草が縁結びの一大センサーとなって交錯している事実は、目には見えない光の世界です。

 心のつる草は光です。なぜ光なのかといえば、心は、生命組成である原子の反応から発する電磁波と考えるからです。

 心は、いのちという光の下でしか生きられない宿命を背負っています。それゆえにいのちは、一元一体二象体という現れ方をします。いのちは、元は一体のエネルギー体であって、その中では、物質体と精神体という二大特性を持つエネルギーが融合一体となって、動となり静となり、火となり水となり、中心には絶対静のゼロ磁場があると思うのです。その一体の中に二象体のエネルギーを容しているのが、私の考えるいのちの実体像なのです。その〝二象体〟は、物質体(物性=肉体)と、精神体(心性=心)という現れ方であり、その〝精神体〟の部分から発する二次的生命に当たるのが心であると考えています。いのちのエネルギーは、そのような実体像を持つ、宇宙絶対調和力(一大調和ご意志)であると思えば、心というのは常に、生命エネルギーの調和安定に引き戻される宿命の下でしか存在できないということになります。

 

(後略)

 

 

「第一章 心のつる草」1023

『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』について▼

 

 

 

 

 

 

 

究極の無の世界では、精神的、物質的な両極を超えた一元一体二象体

出典『神秘の大樹Ⅰ偶然が消える時』「魂の生きかえる道」p.157

 

 

 

 

魂の生きかえる道

 

 この体の中は今でいうオンラインシステムのようになっているらしい。あらゆる心的情報も肉体的情報も頭脳中枢に集まってきて、何がどうなるのか分からないが、いろいろとアクセスし合って、自分の無意識世界で絶え間なく作動している。そして、その情報がはっきりと頭のてっぺんまで昇り上がってくるし、また思ったりすることは、外に向けて能動的にアクセスされてどこかに飛んで行くらしいし、そこで出会ったこちらの思いがあちらに何かを感じさせるらしい。それも、時間も無く、距離感も無く心的雰囲気が同調意識レベルの時にあちら側の心の窓を開けさせる。すなわち、その人の意識をつき動かすのである。

 この五臓六腑の五体はコンピューターになっていて、それも、ちゃんと統括する本部があって、こちらで受ける受動情報をより効率よくコンピューター本部で仕分けをしてアクセスしてくれる。すなわち、いのちというライフコンピューターはオンラインシステムになっているのだ。

 こちらから発する能動的心も、逆に、あちらから発せられた受動的意識波動も、それらのアクセス機能がオンラインシステムによって素早く判別され、スイッチのON・OFFに接続されていると思われる。

 このいのちの中は、元々外界の全てに光で接続されていて、精神的には記憶再生機能が働き、物質的には生体再生機能が働いていて、五臓六腑を生成する。

 共時性現象が起きる原因は何もかも外界にその因子があると思いがちであるが、「外は内なり、内は外なり」で、全てその因子は、この自分のいのちの中で起きていることを認識できるものだと、私は考えをそこにおいている。

 いのちの聖火ランナーである私たちは、宇宙創成以来の連綿たる一切の情報を引き継いできた。それは内なるこのいのちが、それらの歴史的全てを掌握している事実が土台となっているから、無いものは無い世界なのだ。いわばこのいのちの中は魂の博物館といったらいいのかもしれない。

 生命コンピューターは、外界情報の一切に対してアクセスをやり遂げているが、その統御機能はすぐれもので、情報の扉を一気に開いたら魂の洪水となり生きてはいられまい。それで、情報の一切を受動的にもまた、能動的にもアクセスして、オンラインシステムによって判別仕訳をし、必要最小限の情報を、閃きや、夢や、表層的思念に転化して接続してくれていると思うのだ。その結果としての出会いがあり、縁結びがあると考えることで、私の意識の中では一つの整合性ができてくる。

「内は外なり、外は内なり」を信条とする私の中では、受動する情報についてはつねにそのアクセスするタイミングを見ているし、それは共振共鳴のタイミングのスイッチがONになったりOFFになったりしているとでもいえようか。

 いのちは宇宙に結ばれている。だからいのちの中は宇宙のオンラインシステムによって自動調整されていると考えられるし、そしていのちの中は万物万霊にアクセスできるようになっていて、それが共振共鳴次元まで達する魂のひびきであればこそ、縁結びという、時を同じくする共時性現象化となって浮上するのかもしれない。

 あらゆる生命体のどのような心霊体にせよ、思ったり考えたりする心が、いのちの光に点火するには、その原点が自分の原始組成単位である原子の意志的反応次元と考えてみれば、この世での離合集散の出会いの縁のメカニズムがうっすらであっても心象できるのではないだろうか。

 今では、物理学の世界は原子のさらなる物質(素粒子・光子)と無の解明に向けて進められている。難しい学問の世界は分からないが、何しろ私は、共時性現象を体験してきたことから、究極の無の世界では、精神的、物質的な両極を超えた一元一体二象体といういのち本来の〝意志性〟こそ、この世の縁結びの謎解きのように思えてならない。

 自分といういのちの原子組成は、毎日摂取する食物の原子によって成り立っている。それを思えば、いのちと食は同義であって当然だし、そもそも自分は原始的にも意志性の生体であったと思うに何らの不思議はない。それを思う時、極端ではあるが、毎日の食こそが出会いや縁結びなどの中枢であることになる。

 草木や虫などあらゆる生物や、あらゆる存在群とこの自分とは、原子の心性波動によって結ばれているものだ。決して離れたものではない。それを成し遂げてくれているのが原子であり、その土台の基礎となっているのが毎日の食なのである。だからこそ、心と心のアクセス切符の発行所は毎日の食に依拠しているといえるし、原子には宇宙に通じる共通語的文字・数・色のサイクルが組み込まれているのではないか。とくに数霊こそは、宇宙意志性のシンボル的存在ではないかと思っている。

 生から死までの中で、数限りなく心を生み続けた人生。心は目に見えない霊魂の世界をつくり、共振共鳴の反応によって、ほかとその心を共有する。死する者の魂の蓄積によって、人の世を、良きにつけ悪しきにつけ築き上げてきた。いのちの光に巻き付くようにして、それぞれの生物の肉体生命に寄宿する霊体となって、心は生き続けている。それは、遺伝子性の実体となり、また物言う霊体となって肉体生命に寄宿してのみ生き続けられる運命として、我々の心となって蓄積される。

 肉体を脱した死者の心の霊体は、あらゆる霊脈のネットワークを通しての心波を共有できる肉体生命の中で、自在に生き続けることができるし、それが魂の実態ではないのか。その霊魂の生きられる世界こそ、時空なき自在無限の世界と考えられる。

 肉体生命は、巨大な記憶素子を積まれている記憶体であり、脳という基本ソフトを備え、宇宙というハードウエアの中で、各自の生命コンピューターは万物にわたるネットワークを持ち、共振共鳴してソフトを開き、霊魂のコミュニケーションがひびき合う。そして、いのちのネットワークの中でソフトを開いた者には、その姿や言語のひびきを結ぶことができるというものだ。

 科学技術は、インターネットで結ぶネットワークの世界で、その情報共有は、ほんの秒単位で可能になっている。だがその人間の科学力でさえ、この宇宙生命界における一片の応用にすぎない。

 生命界のハードの中で、各生命体に組み込まれている生命コンピューターは、莫大な数のソフトで駆使できるようになっている。そして、その情報は秒単位、否、それ以上に早く共有できるはずではないのか。ついそんな思いに立って心や霊魂の世界を考えてしまうのである。

 生命コンピューター回路が開かれているなら、何といってもこのいのちのコンピューターは、地球経由の宇宙に直結しているすぐれものだし、どんなに多種多様化されていても、その記憶メディア(脳など)がある限り、種の肉体存続ある限り、死んでも生きて通わす身のさだめということができる。パソコンでいう基本ソフト(OS)や、アプリケーションといわれるソフトにしても、ネット接続のプロバイダ(接続業者)なども不要であり、自分の霊的ソフトが開いてさえおればいいわけで、強いていうなら出会いの縁が一種の接続代理ということができよう。共振共鳴共時の現象に関心をもつ心になればこそ、それに近づけると思っている。

(後略)

 

 

「魂の生きかえる道」一五四〜一五九頁

『神秘の大樹Ⅰ偶然が消える時』について▼

 

 

 

 

 

 

 

大調和のエネルギー(米、野菜など)を食べていたとしても、不調和な心(片寄りの心)を持って生きるなら、病気にもなるだろうし、不幸を招くのも当然である。

出典『酒乱‐米の生命が生きるまで』「米は、いのちの光」p.215

 

 

 

 

米は、いのちの光

 

 この現実社会にあって、一時、出家の道を真剣に考えたことがあったが、今は、あくまでも、精神性を土台として、現実凝視をして生きることを決心した。

 以前は、現実至上主義で金満家が夢であったが、そこには、大きな落とし穴のあることを知った。ブレーキのない、物質金満の世界には、見せかけの幸せが待っていて、先へ先へと走り、先を見るあまり、どうしても、足元を見失ってしまう人生である。生きる本当の喜びは、なんであるのかを見失っている人がたくさんいる。

 金で、生命いのちが保証されるのだと、錯覚するような人生は、消えていく虹の橋を渡る、虚飾の人生であることがわかった。

 そして、子孫に強欲の因縁、酒乱の因縁、色情、傲慢の因縁を残さず、その他、多くの不幸因縁を、残さぬような人生を生きようと、生きる価値観を変えることができた。

 以前の私は、浪曲『森の石松』ではないが、

「飲みねェー、飲みねェー、酒飲みねェー。喰いねェー、喰いねェー、寿司喰いねェー。……エッ……肝腎な人を忘れちゃ、おりゃせんかッ……」

と、石松ならぬ、大事な大事な生命いのち様を忘れていたのだった。

 生命は、生命でも、酒乱の唄枕に酔いれていた悪魔の生命ではない。ピッカピッカの生命様だったのである。

 

激しき宇宙の 波動はすぎて

ポッカリ浮かんだ いのち星

太古の昔の いのち花

海にいのちの 花ひらき

大地にいのちの 花ひらき

空に大気の 花ひらき

天に輝く 太陽が

ニッコリ笑って 花ひらき

お待ちいたした 人間様よ

ながき世の道 人の道

いのちの天子に 育つ世に

向けて花咲け いのち花

 

生命いのちとはなんぞやッ〟と尋ねても、生命は答えてくれない。だが、一人一人に感じられる生命の響きは必ずある。生命には、声も言葉もないが、絶対なる〝安定調和エネルギーを秘めた意識波動(生命の響き)〟が存在する。

 そして、人間以外の全存在は、自然界の調和エネルギー波動と生命同化して生きている。だが人間は、心のエネルギーを異常なまでに進化させてしまったため、千変万化する自分の心に振りまわされるようになった。

 この人間独自の心(擬似魂)は、生命から送られる安定調和の意識波動(真性魂)をさえぎり、魂の光を曇らせてきた。

 人は誰しも〝心は人間の特権〟であると思い、人間以外のものには、心の存在など容易に認めてはくれない。

 そこで、今、誰かに「あなたはどうして生きておられると思いますか」と尋ねてみたとすると、どう答えてくれるだろうか。おそらく「食べているから生きています」と言うだろう。確かに人間は、食物を食べると血となり、肉となり、さらに心を発生して、毎日を生きてゆける。

 ところが、人間以前の食物生命に、心があるかと聞かれたら、ほとんどの人は、「ノー」というだろう。米や大根、魚や果物に、(意識)があるなんてとんでもないことで、気持が悪い……と言うだろう。

 ところが妻は、この人間以前の、人間を生かし続ける食物の生命、自然界の生命に、心(意識の響き)があることを言い続けてきた。それは、妻の生命の中に、沈黙世界の声が、生きて結ばれるようになったからにほかならない。

 素直に考えれば、「人間を造り上げた食物たちは、人間ができうる可能性の根本要素(物質的、精神的)を、すべて持っている」と思うし、だから、心というものは、人間だけの特権ではなく、人間のような心にはなれなくとも、人間の心の元となる心(調和の意識波動)が、食物一切の生命にもあるといえる。

 さらに、生命界には、〝食物の心の元となる心(宇宙意識)〟があって、その心の元とは、神とも、宇宙心霊とも呼ぶことができる。だから、生きとし生きる生命体の中心を貫く生命は、万物共通だと言ってもおかしくない。

 いわゆる、万物は、宇宙意識を共有している同志ということになり、私はそのことを〝魂の平等〟と思うようになった。だから一心に、〝心を浄め澄ませれば、万物に心が通じる〟ことができると言える。心の元(宇宙意識)は、人間的煩悩心とは無縁の心であり、これこそ人間の心の羅針盤としたいものだ。したがって、食物をはじめ、自然界の一切は、〝生かし続ける愛の師となる心(調和心)〟で溢れている。

 この汚れなき、ピッカピッカの生命いのちに目覚める時、人は必ず己の愚かさに気づいてゆくはずである。

 私たちが毎日当然のごとく食べている米や野菜などに、宇宙意識の大調和エネルギー(響き)を感じながら、安定した心で生きたいものだ。

 大調和のエネルギー(米、野菜など)を食べて、不調和な心(片寄りの心)を持って生きるなら、病気にもなるだろうし、不幸を招くのも当然である。私の酒乱地獄はその典型であった。

 言い換えれば、一連の不幸性は、人間となった米、野菜たちの生命の叫びと言える。

 それでは、次に、人間の生命の光となる稲穂の喜びを、妻の心いただきの一節から紹介したいと思う。

 

カエルの声 はげましを

稲の心は はぐくみあう

緑すがたの 成長期

 

カッコウの声 勇ましく

育成のありがたさ

愛は稔り

 

朝日に開く 稲の花

セミの声聞く 夏のあい

 

青空に 祭り太鼓の音聞くも

心ごころの 稔り待つとき

 

秋のみのり 黄金の稲穂よ

小鳥の声に 喜びの揺れ

 

一粒のいのちにかけた花の木を

恵みの愛が 守る神

 

土の心 水のいのち 守りあれ

稲の心と 人生の開花

 

 米は人類究極の食糧となるであろうし、また、純日本風の食事こそ自然性にかなった、最も調和のとれた生命の救済となるのではないかと思っている。

 このうたは、昭和六十二年十二月六日、妻が映画鑑賞中に暗闇の中、手探りで綴ったものである。『牧野村物語―一〇〇〇年刻みの日時計(山形県蔵王)」という、米作りに生命を賭けた映画であった。

  

米のうた

 

もみをぬがれて 白い肌

水でとがれて 丸裸

釜に入れられ スイッチオン

今日も輝く ダイヤの光

感謝せよとは 言わぬけど

米の尊さ 今一度

 

んで呑まれる このわたし

じっくり思う 胃の中で

今からわたしは 人間に

なって生きるを 誰が知る

知ってくれとは 言わぬけど

米の尊さ 今一度

 

りに煉られる 胃の中で

次は全身 いのち旅

隅の隅まで 血となりて

肉となりゆく 流れ旅

わかってくれとは 言わぬけど

米の尊さ 今一度

 

五体になった 米いのち

正しく生きろと 叫ぶけど

人の心は 破れ耳

米のわたしを 閉じこめて

飲めや歌えの 浮世花

米の心は 誰が知る

 

いのちの親から いただいた

〝米〟という字の 素晴らしさ

いのちの真実 生きている

〟と〝〟の文字〝〟の文字

プラス()マイナス( )調和のいのち

〟の文字〝〟の字〝〟の文字

八字であかす米の愛

 

米のわたしを 知るならば

人の不幸は ありませぬ

宇宙天地の 調和の愛を

背負って生きる 大使命

人の心に生きるまで

人を愛して きないわたし

人の心に生きるまで

人を愛して 尽きないいのち

 

 米は食物の先頭に立って、心をさとし、調和の愛を使命として人間を生かし続けている。そして、人類の果ての果てまでも、人を造り、人を守って、運命を共にする。

 米は、正しく神の申し子であり、〝生命いのちの光〟である。

 

 

「米は、いのちの光」211222

『酒乱‐米の生命が生きるまで』について▼

 

 

 

 

 

 

 

食なくして五体はこの世に存在出来ません。

出典『至恩通信』平成19年5月23日(旧4/7)号(258号)▼

 

 

 

 

(中略)

 

人のいのちの成り立ちは

母胎に宿った 十月十日 八八 八四 で運ぶ 食のみによって 育成生 致します。誰も 手をかけることの出来ないウソのない母体の中 光 恵 恩 実 証す。

いのちの元点を 心に抱いて 一生あらねばならぬ 悟りとなりました。

食なくして 五体は この世に存在出来ません。

この五体は ひかりでございます。と、さとった今、身体をなでながら、ふでに「自分拝まねば どうにもならんことになるぞ」と、示されているのは、このことでございました。

今迄 遠く 天空の彼方に 神を拝してまいりました。

自らの五体こそ、食に生かされている カミ の器でございました。

 

(後略)

 

(注)以上の文は『日月神示』の著者岡本天明氏の妻、岡本三典氏によるもの。右の記述に表れている生命観は、下記『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』「第一章心のつる草」で述べられている。

 

 

 

 

「こころとからだ」各ページ

 

引用・参考図書

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書籍『神秘の大樹 第二巻 ヒロシマとつる姫』の詳細・閲覧ページにリンクしています

神秘の大樹 Ⅱ
ヒロシマとつる姫

菅原茂/おりづる書房/2011年

 

縁結びの背景としての心の世界を描くシリーズ第二巻。創作シナリオを織り交ぜた明るい内容の比較的短い物語が主体だが、おそらく全四巻の中で、生命の最も本質的な核心を表現している。自分の心身と深く向き合えるようになるほど、本の内容もよりいっそう理解できる本と言ってさしつかえないだろう。

 

 

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書籍『酒乱こめのいのちが生きるまで』の詳細・閲覧ページにリンクしています

酒乱
米の生命が生きるまで

菅原茂/MBC21/1993年

 

「いのちとは」「心とは」という文字通りの “命題” について、 体験を通じた非常に強いメッセージを発している。 後年、この著者は『死んでも生きている いのちの証し』『神秘の大樹』を出版しているが、 第一作である本書を読むと、 なぜこの著者が、共時性を切り口にして「いのち」を語るのか、 腑に落ちる。

 

 


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書籍『ひふみ神示』を図書館検索サイト「カーリル」で検索します

ひふみ神示(上巻)

岡本天明著/コスモ・テン・パブリケーション/1994年

岡本天明氏の「自動書記」による著書。心の目を開いて自己調和に努めるよう人類に警鐘を鳴らし気づきを促す書として知られている。文中には、この神示そのものについて、人としての「道」を示したものであり、特定の宗教として広めてはならないという主旨のことが書いてある。長編であり、難解な箇所もある。諸説あるが、「アレの巻」の冒頭に書かれたごく短い二文(下記)が最も重要な部分だとも言われている。

 

 

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書籍『全体性と内蔵秩序』を図書館検索サイト「カーリル」で検索します

全体性と内蔵秩序

デヴィッド・ボーム著、
井上忠・伊藤笏康・佐野正博訳/青土社/1986年

『WHOLENESS AND THE IMPLICATE ORDER』(1980年) の邦訳版。科学は物質を微細に分け入り、その「構成」粒子を発見してきた。一般に私たちは、それが物を形作っている最小単位だろうという見方をしがちだが、分析して見える粒子は、ある文脈によって「全体」から顕現した一時的な抽象物であって、そもそも宇宙は分割できない一つの「流動する全体運動」だという。専門の物理学(量子力学)をもとに論じるこの世界像は、あらゆる物事を部分化・断片化する見方に慣れてしまった私たちに、重要な示唆を与えている。

 

 


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書籍『神秘の大樹 第一巻 偶然が消える時』の詳細・閲覧ページにリンクしています

神秘の大樹 Ⅰ
偶然が消える時

菅原茂/おりづる書房/2011年

 

いまを生きている自分(あなた)自身の存在こそ、肉体をまとい、服を身につけている霊魂そのものだという。 霊魂というと、わが身の外に存在し、わが身の外で起きる「現象」と考えがちだが、そもそもそれは、私たちのからだやこころに内在し、わが身の中で起きていることがらなのである。

 

 

至恩通信 258号

岡本三典/至恩郷/2007年

B4版の二つ折りの会報。本号は全3ページ。『日月神示』および『ひふみ神示』に頻繁に出てくる、円に点を入れた記号「丸天記号」を間に挟み、『至恩通信』という題名で印刷されている。掲載した資料は、文章終盤に記述されている部分。

 

 

関連ページ

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共時性とは何か

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時空や生死を超え、人種や生物種も超えて、いのちには境界がない証し

 

因果性とは何か

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「因果性」の実際は、それほど単純ではなく、もっと複雑。科学的な「法則」は、限定的な条件のもとでのみ有効だ。

 

偶然と因果

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因果性がないというより、今の科学の尺度では説明できない、と言うべきではないのか。

 


客観と主観

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自然界と人間とを切り離す「客観」的態度が潜在的に抱えている問題点

 

共時性の真価

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平成5年8月6日、広島平和公園で偶然発見された一羽の折鶴。共時性の真の価値は、それが生命の真実を示していること。

 

参照資料の索引

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「いのちと共時性の考察」各主題の文章作成に用いた参考文献や、理解の助けとなる参照資料を網羅。