生命現象の根源

こころとからだ

いのちのひびきあい

 

人のいのちは物質体であると同時に意識体でもあります。この本質的性格は、生き物としての種類や姿かたちはちがっても、「食物」として口にしている「いのち」もまた、物質一辺倒の存在ではないことを示唆しているとおもいます。また、魂という意味での「心」は、肉体的な生死を超越していることを、共時性現象が暗示しています。体は、心が作用するとはいえ、それを超える意思のような自律性をもっています。

 

次の一節は、とても興味深く重要な視点です。

 

心も体も同一、同元、同質のもので、一元一体二象体となって現れることがいのちと呼ぶものではないのか。心と体は一人二役のようなものだ。(『神秘の大樹Ⅰ偶然が消える時』「いのちは磁気・磁波・磁性体」p.210)

 

食も心も体も、人がつくる「もの」ではなく、根本的には天地自然がつくる「いのち」の現れです。出現する根源(根元)の世界は同一、全一であると想像できます。以上のような理由から、心と体の関係や、人と食物の関係は、機械的または因果的な作用や反応とはまったくちがう、響きあいだと考えています。

 

私たちは、人間中心の目線で、食物を見てしまいがちです。仮に、健康的な食物をじぶんの意思で選択する食生活をしていたとしても、健康を手に入れるための「もの」でしかないとか、欲求充足のためにむさぼるような食べ方をしているとか、そういう心根では自己調和できるはずがないと、実感として気づかされています。じぶんの体と食物への敬意・慎みよりもたいせつなものはないにちがいありません。

 

 

参考図書・参照資料「もっとくわしく」目次

 

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もっとくわしく

 

 

 

 

声なき声の心ごころ(生命の響き)が、妻の命を通して、この世の、文字に生き、数に生き、色に生きる

出典『酒乱米の生命が生きるまで』「難行苦行の人あれど」p.99

 

 

 

 

難行苦行の人あれど

 

 一方、妻のほうでは、二日目にして、雪の中から発見されたトラックのこと、使い込んだ金のことで、詰責きっせきを受けていた。当の夫は、行方不明で、雲を摑むような有り様だから、ただただ恐縮と不安の中で過ごしていた。会社側は、前代未聞の事件で、金を返済しなければ警察に届ける、と、きっぱり言い渡してきた。妻は、「それだけは勘弁してください」と、なけなしの遣り繰りをして、弁償することを約束して、どうやら、そのことだけは内々にしてもらったようだ。

 妻は、夫は必ず帰ってくると信じながらも、当座の返済には頭を痛め、洋裁で得た銭を遣り繰りしながら、返済をしていた。夫の消息不明の中で、またまた息詰まる日々を生きなければならないとは、なんと厳しい因縁なのか……。

 今、こうして、魂の入れ替えに生命いのちをかけながらも、書き綴っていても、心苦しい筆運びである。

 母が、父にかけた慈愛一路を継いで、妻は、母子心中の迷いを脱して、夫を立ち直らすことの一念を決意したという。そして、いかなる条件の中でも、明るく展開する真心の道を貫き通したのだった。

 話は、もっと後のことだが、妻は沈黙世界から響いてくる生命いのちの波動を文字に綴って久しい。彼女の〝いただいた心〟を、名刺に刷って、縁ある人々に渡していた。今それを、私の『酒乱人生・浅草以降』を書く前に紹介しておきたい。

 

難行・苦行 人あれど

我が心開きも 難行苦行

人の心を 借りて出る

人の心の 打ち勝つ泉(文字よ)

守りの世界の 尊き言葉に 頭さがる(亡き心のつなぐ文字となる)

粗末な人生 送るなと―

神の心は 伝えたき(夫へ)

険しき日々 過ぎし時

涙で見守り 強くして

幸せ道へと 進む姿なり

 

 誰一人として理解できなかった妻の世界を、力強く支え、守ってくれたのは、自然界の生命波動であった。

「声となり、言葉となって生き通う、生命いのちの愛」

人間的自我の一切ない、浄め上げられた自然界。

「そこには、万物を、生かして、生かして、生かし続ける愛しかない」

 この生命世界には、人間界のような、他を殺し、争い、奪い、傷つけ合う心はない。特に、米をはじめとして、食物一切は一時も休みなく、人間を生かし続けてくれる生命たちである。これは、どんな知性をもってきても不滅の真理である。

 妻は、この食物(人類以前の生命たち)の心に通じたのが、最初の光明だった。どんな辛い、苦しい思いも、感謝、喜びに重ねて、生きねばならぬ日々の中、恐ろしい地獄酒の夫にも、神の光の輝く日がやってきた。

「酒を憎んではなりませんよッ。酒は、浄め上げられて、神に捧げるお神酒みきとなり、また、酒は米の生命でもある。汚れが一点もない米の精と酒の精。このような酒を飲んだ夫の心には、必ず、その愛が生きる日が、やってくる。その日は、必ずやってくる」

と、生命の奥深い世界からさとされたのだった。

「ハッ……」と思った妻は、そのさとしが真実であることを、断酒当日にまざまざと見せつけられた。

 夫の生命いのちに、米の生命いのちが生きたその日のことである。

 前後不覚の状態で自家用車を乗りまわす泥酔運転となった。ところが、路上に停車していた乗用車に引き寄せられるごとく激突したのであった。その自動車のナンバーは、〝888〟であった。

 妻は、その夜のことを次のように説明した。

「米の生命(心=ひびき)と、私の愛が生きたのです。お父さんを正常な人間に引き戻すため、必死に守ったのです。

 米の生命はこの世の数字に生きて示しているのです。米は〝八十八(88)〟と、数の生命になります。そして私は、八日生まれの〝8〟の数です。

 米の愛(調和力)と、私の一心の守りが生きたのです。本当に〝888〟という車は神様です。

 数字は、単に数と思ってはなりません。沈黙世界の心が、この世の数字のいのちひびき)に生きて、活躍していることを知らねばなりません」

こう言って涙ぐむのであった。

 米の生命、そして酒の生命は、調和のひびきでさとしつづけてきた。そして、妻の一念の守りとさとしは、〝888〟という数の魂となって現実化したのであった。それは米の〝生命が生きた〟のであり、妻の守り一念の心が生きたのである。

 沈黙世界と融合一体となった妻には、人智では計りしれない、神秘現象が、日常よく起こった。現実世界の〝文字、数、色〟といったことに、見えない、黙した生命が融合して、永遠の生命の流れを証してくれる、この現象は、学問的には〝共時性現象〟と呼ばれているようなのである。

 自然界のいろいろな心(宇宙心霊)、そして、亡き人霊からも、妻を通して、生きて〝師〟となる喜びが伝えられてくる。

 私が、酒乱から救われたのも、妻を通して〝心の光〟に、米の生命が生きたからであったと思う。

 こうして、沈黙世界の心ごころが、妻の、生命の光と融合するまでの苦労と、亡き人たちの〝心ごころ〟が、妻の、心の光に通い、結ばれるまでの険しかった道程と、さらに、この声なき声の心ごころ(生命の響き)が、妻の命を通して、この世の、文字に生き、数に生き、色に生きる、までの歳月こそ、生死を超越した、難行苦行の心開きであった。

(植物の心―意識反応―の存在は、三上晃著『植物は語る』、その他によって、科学的にも証明されている)

 

「生命の守り」

 

声なき声の いのちの叫び

亡き人々の 声と声

食べるいのちの 声と声

花一輪の 声と声

自然を流るる 全いのち

みんな師となる 守り声

人の心の 正しきを

いのちの尊さ 学びあれ

人のいのちの 米たちも

みんな師となる 守り声

人の心の 正さむに

いのちの愛を 学びあれ

磨きぬかれた 酒いのち

みんな師となる 守り声

人の心よ 浄めあれ

いのちの喜び 学びあれ

今日を生かさむ 食物に

耳をかたむけ 今一度

正しく生きれや 人ごころ

いのちの愛に 目覚めあれ

愛一念に 目覚めあれ

人を育てる 米一同

知って生きるは 人の道

知って学ぶは 人の道

いのちの原点 ここにあり

 

 

「難行苦行の人あれど」九五〜一〇一頁

『酒乱‐米の生命が生きるまで』について▼

 

 

 

 

 

 

 

生命には、声も言葉もないが、絶対なる〝安定調和エネルギーを秘めた意識波動(生命の響き)〟が存在する。

出典『酒乱‐米の生命が生きるまで』「米は、いのちの光」p.214

 

 

 

 

生きとし生きる生命体の中心を貫く生命は、万物共通だと言ってもおかしくない。〝心を浄め澄ませれば、万物に心が通じる〟

出典:同上

 

 

 

 

大調和のエネルギー(米、野菜など)を食べていたとしても、不調和な心(片寄りの心)を持って生きるなら、病気にもなるだろうし、不幸を招くのも当然である。

出典:同上p.215

 

 

 

 

米は、いのちの光

 

 この現実社会にあって、一時、出家の道を真剣に考えたことがあったが、今は、あくまでも、精神性を土台として、現実凝視をして生きることを決心した。

 以前は、現実至上主義で金満家が夢であったが、そこには、大きな落とし穴のあることを知った。ブレーキのない、物質金満の世界には、見せかけの幸せが待っていて、先へ先へと走り、先を見るあまり、どうしても、足元を見失ってしまう人生である。生きる本当の喜びは、なんであるのかを見失っている人がたくさんいる。

 金で、生命いのちが保証されるのだと、錯覚するような人生は、消えていく虹の橋を渡る、虚飾の人生であることがわかった。

 そして、子孫に強欲の因縁、酒乱の因縁、色情、傲慢の因縁を残さず、その他、多くの不幸因縁を、残さぬような人生を生きようと、生きる価値観を変えることができた。

 以前の私は、浪曲『森の石松』ではないが、

「飲みねェー、飲みねェー、酒飲みねェー。喰いねェー、喰いねェー、寿司喰いねェー。……エッ……肝腎な人を忘れちゃ、おりゃせんかッ……」

と、石松ならぬ、大事な大事な生命いのち様を忘れていたのだった。

 生命は、生命でも、酒乱の唄枕に酔いれていた悪魔の生命ではない。ピッカピッカの生命様だったのである。

 

激しき宇宙の 波動はすぎて

ポッカリ浮かんだ いのち星

太古の昔の いのち花

海にいのちの 花ひらき

大地にいのちの 花ひらき

空に大気の 花ひらき

天に輝く 太陽が

ニッコリ笑って 花ひらき

お待ちいたした 人間様よ

ながき世の道 人の道

いのちの天子に 育つ世に

向けて花咲け いのち花

 

生命いのちとはなんぞやッ〟と尋ねても、生命は答えてくれない。だが、一人一人に感じられる生命の響きは必ずある。生命には、声も言葉もないが、絶対なる〝安定調和エネルギーを秘めた意識波動(生命の響き)〟が存在する。

 そして、人間以外の全存在は、自然界の調和エネルギー波動と生命同化して生きている。だが人間は、心のエネルギーを異常なまでに進化させてしまったため、千変万化する自分の心に振りまわされるようになった。

 この人間独自の心(擬似魂)は、生命から送られる安定調和の意識波動(真性魂)をさえぎり、魂の光を曇らせてきた。

 人は誰しも〝心は人間の特権〟であると思い、人間以外のものには、心の存在など容易に認めてはくれない。

 そこで、今、誰かに「あなたはどうして生きておられると思いますか」と尋ねてみたとすると、どう答えてくれるだろうか。おそらく「食べているから生きています」と言うだろう。確かに人間は、食物を食べると血となり、肉となり、さらに心を発生して、毎日を生きてゆける。

 ところが、人間以前の食物生命に、心があるかと聞かれたら、ほとんどの人は、「ノー」というだろう。米や大根、魚や果物に、(意識)があるなんてとんでもないことで、気持が悪い……と言うだろう。

 ところが妻は、この人間以前の、人間を生かし続ける食物の生命、自然界の生命に、心(意識の響き)があることを言い続けてきた。それは、妻の生命の中に、沈黙世界の声が、生きて結ばれるようになったからにほかならない。

 素直に考えれば、「人間を造り上げた食物たちは、人間ができうる可能性の根本要素(物質的、精神的)を、すべて持っている」と思うし、だから、心というものは、人間だけの特権ではなく、人間のような心にはなれなくとも、人間の心の元となる心(調和の意識波動)が、食物一切の生命にもあるといえる。

 さらに、生命界には、〝食物の心の元となる心(宇宙意識)〟があって、その心の元とは、神とも、宇宙心霊とも呼ぶことができる。だから、生きとし生きる生命体の中心を貫く生命は、万物共通だと言ってもおかしくない。

 いわゆる、万物は、宇宙意識を共有している同志ということになり、私はそのことを〝魂の平等〟と思うようになった。だから一心に、〝心を浄め澄ませれば、万物に心が通じる〟ことができると言える。心の元(宇宙意識)は、人間的煩悩心とは無縁の心であり、これこそ人間の心の羅針盤としたいものだ。したがって、食物をはじめ、自然界の一切は、〝生かし続ける愛の師となる心(調和心)〟で溢れている。

 この汚れなき、ピッカピッカの生命いのちに目覚める時、人は必ず己の愚かさに気づいてゆくはずである。

 私たちが毎日当然のごとく食べている米や野菜などに、宇宙意識の大調和エネルギー(響き)を感じながら、安定した心で生きたいものだ。

 大調和のエネルギー(米、野菜など)を食べて、不調和な心(片寄りの心)を持って生きるなら、病気にもなるだろうし、不幸を招くのも当然である。私の酒乱地獄はその典型であった。

 言い換えれば、一連の不幸性は、人間となった米、野菜たちの生命の叫びと言える。

 それでは、次に、人間の生命の光となる稲穂の喜びを、妻の心いただきの一節から紹介したいと思う。

 

カエルの声 はげましを

稲の心は はぐくみあう

緑すがたの 成長期

 

カッコウの声 勇ましく

育成のありがたさ

愛は稔り

 

朝日に開く 稲の花

セミの声聞く 夏のあい

 

青空に 祭り太鼓の音聞くも

心ごころの 稔り待つとき

 

秋のみのり 黄金の稲穂よ

小鳥の声に 喜びの揺れ

 

一粒のいのちにかけた花の木を

恵みの愛が 守る神

 

土の心 水のいのち 守りあれ

稲の心と 人生の開花

 

 米は人類究極の食糧となるであろうし、また、純日本風の食事こそ自然性にかなった、最も調和のとれた生命の救済となるのではないかと思っている。

 このうたは、昭和六十二年十二月六日、妻が映画鑑賞中に暗闇の中、手探りで綴ったものである。『牧野村物語―一〇〇〇年刻みの日時計(山形県蔵王)」という、米作りに生命を賭けた映画であった。

 

 米のうた

 

もみをぬがれて 白い肌

水でとがれて 丸裸

釜に入れられ スイッチオン

今日も輝く ダイヤの光

感謝せよとは 言わぬけど

米の尊さ 今一度

 

んで呑まれる このわたし

じっくり思う 胃の中で

今からわたしは 人間に

なって生きるを 誰が知る

知ってくれとは 言わぬけど

米の尊さ 今一度

 

りに煉られる 胃の中で

次は全身 いのち旅

隅の隅まで 血となりて

肉となりゆく 流れ旅

わかってくれとは 言わぬけど

米の尊さ 今一度

 

㈣ 五体になった 米いのち

正しく生きろと 叫ぶけど

人の心は 破れ耳

米のわたしを 閉じこめて

飲めや歌えの 浮世花

米の心は 誰が知る

 

いのちの親から いただいた

〝米〟という字の 素晴らしさ

いのちの真実 生きている

〟と〝〟の文字〝〟の文字

プラス()マイナス( )調和のいのち

〟の文字〝〟の字〝〟の文字

八字であかす米の愛

 

米のわたしを 知るならば

人の不幸は ありませぬ

宇宙天地の 調和の愛を

背負って生きる 大使命

人の心に生きるまで

人を愛して きないわたし

人の心に生きるまで

人を愛して 尽きないいのち

 

 米は食物の先頭に立って、心をさとし、調和の愛を使命として人間を生かし続けている。そして、人類の果ての果てまでも、人を造り、人を守って、運命を共にする。

 米は、正しく神の申し子であり、〝生命いのちの光〟である。

 

 

「米は、いのちの光」211222

『酒乱‐米の生命が生きるまで』について▼

 

 

 

 

 

 

 

食となって胃で燃えて、腸で人間の生命に転換する〝へソ(臍)〟の次元

出典『死んでも生きているいのちの証し』「終って終わらぬ共時の旅」p.255

 

 

 

 

一粒の米には、天地自然の普遍力が宿っている。

出典:同上

 

 

 

 

〝霊界は、憎んだり、傷つけたり、争いが絶えないけど、稲霊いなたまの世界から文字、数、色にひびかせる沈黙の世界は、傷つけ合うことはありません〟

出典:同上p.258

 

 

 

 

終って終わらぬ共時の旅

 

(中略)

 

 岡本天明の魂も、宮沢賢治の魂も決して死んで終ったのではなく、縁ある人々の心の共鳴磁場の中で魂の灯は消えることなく輝き続け共に生きている。

 文字のひびきや数のひびき、そして、色のひびきを心の舟として、沈黙の師となる愛となって活き活きと生きているのが現実と思っている。そして、何よりも自分という存在は

〝複合霊体を乗せたいのち船の船頭〟さん

と言った方がぴったりである。

 旅の最終に宮沢賢治の映画を観て家に帰えれば、〝八〇円〟切手〝八枚〟の宮沢賢治が待っていて、発信人は、岡本天明の御夫人からであるとは、まさに一本の光の糸となって結ばれている世界というほかはない。

 農を愛し、米を尊び、生きる原点に敬虔な想いを深めた賢治の魂が、岡本天明の魂と合流する次元とは一体どこかと考えた時、そこは稲霊いなたま(米のいのち)のひびきの世界であるのではないかと考えられる。

 そこはいのちの最前線といわれる世界であって、天地自然の生命情報が最も集結される次元といえる。人間なら、

〝へソ(臍)の部分〟である。

 生命情報力最も集結すると言っても、その大調和力の生命情報には、ピン(高)からキリ(低)まであるとみている。いのちの最前線のへソというのは、食物が人のいのちに転換する〝生命エネルギー転換次元〟であるから、その〝食性〟によって生命情報は、ピンからキリまであり、例えば、菜食系の人、穀菜食系の人、肉食系の人では、その普遍力に満ちた生命情報に大きな差が生ずることになるだろう。

 その能力の高いものは植物である。大地に根を下し、地球生命の体温の中で親の心(地球の心性波動)をしっかり受け取り、自然のリズムにそって共に生きる。また、地上では、天の氣を枝葉でキャッチし、宇宙の大調和力を受けとって育つことになる。

 ところが、動物は大地から分離して生きているから植物のような訳には到らず、ましてや、知性の高い人間は、生命情報感ではキリ(低)に属することになる。おのずから五感で感ずる外的心の情報にたよりがちとなり、内的・生命根源からのいのちの情報(食)にはあまり心を向けてくれないようだ。

 穀物の中でその生命情報力の高いものとしてはやはり五穀であろう。その中心をなす〝米〟が人間食の究極となろう。

 稲は、水性植物といえるほど水を好み、根も深く、半年間もじっくりと天地の生命力を吸収し、蓄えをして実らせてくれる。

 万人を守る生命素としてはこれ以上の食糧はないと思うし、米が中心となって光れば、他の食物たちは皆光ることになるのではないか。天地自然の生命情報に充満した〝米の魂〟こそ、〝稲の魂〟であり、天地を代弁する沈黙のひびきを持った人間の生命に最もふさわしい生命だと思っている。

 一粒の米には、天地自然の普遍力が宿っている。

 稲が天地の生命情報を収集して、米に凝縮させ、食となって胃で燃えて、腸で人間の生命に転換する〝へソ(臍)〟の次元が、地球生命と宇宙生命のいのちの凝縮された

〝調和意識エネルギーの中心〟

であるといえる。そして、へソ(臍)の次元こそ生命存続のいのちの鍵を握るものであり、生きるいのちの聖地であると思っている。

 世に多くの聖地と言われる場所があるものの、本当のいのちに満ちた聖地は、へソ(臍)の次元であると私は考えている。ここは、宇宙の意志が満ち溢れている

稲霊いなたまの次元〟

であるからだ。

 そして、浄化された師となる人間の魂が生命同化する次元であり、愛の調和情報を文字、数、色のひびきに乗せて発信させている次元と考えている。

 岡本天明の魂と、宮沢賢治の魂が合流した次元とは正しくこの稲霊の次元ではなかったのか。

 

(中略)

 

 妻の意識レベルには、かなり普遍的な情報チャンネルが開かれているのではないか、と、そう思われる一筋の光が見えてくる。それは、妻自身の言う〝稲霊いなたまの世界にいるから結ばれてくるのです〟

と言う心結び〝いろは四八字〟と〝共時性現象〟のことである。

私は、あなたは〝米になったひと〟か、と、何度か妻に言って来たが、意識的次元ではどうやらそのような氣持にもなる。妻がよく言うことに、

〝皆さんは、霊界の世界、私は、米の心と一緒のところにいる〟

ということがわかる思いだ。また、

〝霊界は、憎んだり、傷つけたり、争いが絶えないけど、稲霊いなたまの世界から文字、数、色にひびかせる沈黙の世界は、傷つけ合うことはありません〟

と言う。

 いのち育む米を中心とする食の次元、すなわち、人間の生命エネルギー転換次元から、こちらを見ているような意識世界のような気がする。

 この生命エネルギー転換次元(食の次元)こそ宇宙と地球生命の最前線であり、その自然界の情報がいのちの火となって燃え上る次元である。

 この時、内なる魂の情報が、いのちの光に照し出され共振共鳴が起き易くなり、共時現象は、この生命同化が起る生命エネルギー転換次元の深い無意識レべルの時、最も多く発現するように思っている。

 すなわち、米(食霊)が、いのちの光となって燃え上る世界であり、それはまた、人の心の発生次元の世界とも言えよう。

 妻が言う稲霊いなたま(米の心性エネルギー)が、人のいのちとなり、心のひびきとなる言葉の次元であり、深い無意識レベルの世界ということができるのではないだろうか。その世界こそ

万物普遍の世界であり、

共振共鳴のエネルギーが輝き合い

共時の海は、

いのちの愛で満ち溢れる

そして、

共時の縁で結ばれ

喜びを重ね

調和の心に目覚め

熱いいのちの愛を感じ

深い自己調和の心が湧き起こる

そして、

自己に目覚め

今の心に目覚め

生きる原点に目覚め

本当の幸せに目覚めてゆく人生

ではないかと思っている。

生命いのちよ、食よ、五穀よ、

米のいのちよ、ありがとう。

〝旅は終れど

 共時の旅は

 永遠とわに流れる

 宇宙のいのち

 いのちと共に

 終りなし〟

 

 

「第二章 共時現象体験の旅」>「第六節 終って終わらぬ共時の旅」二五二〜二六〇頁

『死んでも生きているいのちの証し』について▼

 

 

 

 

 

 

いのちに優劣なし 生物に優劣なし〝特性〟あるのみ

出典『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』「第一章 心のつる草」p.9▼

 

 

 

 

第一章 心のつる草

 

 人間は、万物の霊長といわれていますが、そこに一つの疑問が湧いてくるのです。本当にそうなのであろうか? 確かに想像を絶する知性を発揮するし、宇宙に人工衛星を廻し、基地をつくりだしてからも久しくなりました。さらに、あの星、この星へと探査機を飛ばし続けています。

 生活に欠かせないライフラインの基盤となる電気などには、核エネルギーを駆使していますが、その同じエネルギーは、軍事防衛と称される巨大な破壊兵器として、脅迫手段にも転じられます。人類が一巻の終わりの幕を引こうとしているかのように、私の目には映ってなりません。私たちが絶滅危惧種の筆頭になっていいわけはありません。

 人間の能力は実に見上げたもので、その科学技術の向上は絶頂期に達しています。そのせいで、生活が浮雲に乗っているような感じもしますが、私たちが文化的生活の恩恵を満喫しているのも事実です。

 確かに、万物の霊長といわれて当然かもしれません。そうです。人間は、この世で最高の頭脳を持つ、知性の神様のような生き物なのです。

 私は、思いついたことを「日々の心」として書き留めていますが、そこに次のようなことを書いていました。

 

「日々の心」四七六

 

いのちに優劣なし

生物に優劣なし

〝特性〟あるのみ

特性を観察するとき

優劣は消滅する

そのとき

新しい自分の心に気づく

人類の優れた特性は

〝知性〟であり

闘争は知性毒であり

調和は知性愛であり

いのちの道は

大調和の道

 

(中略)

 

 万物の霊長といわれる人間ですが、次元を生きる原点に引き戻して考えるとき、果たしてどうでしょうか。もしもこの大自然界に放り出されたときのことを想像するだけで、何もかもギブ・アップすることばかりです。

 人間が優れているのは〝知性〟という特性があればこそです。そして、優れているのは、単に人間社会でのことにすぎないのだと気づきます。

 単身で空を飛ぶことはできないし、オリンピックのどんな競技の一流選手でも、猿やチーターや象やライオンやイルカたちに太刀打ちできないのは先刻承知のことです。裸一貫では成すすべもありません。優劣ではなく、その種が持つ〝特性〟という、いのちの平等に立たなくては比較などできようがありません。優劣は人間社会でのことであり、他の生き物が人間より、すべてにおいて劣るという見方は、白紙に戻さなくてはなりません。

 人間は、いろいろとものを考え、何かをつくり上げるという創造力にかけてはものすごい能力を発揮しますが、これを、万物の霊長というより、人間に与えられた一大特性と考えてみたいものです。

 

(後略)

 

 

「第一章 心のつる草」八〜一四頁

『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』について▼

 

 

 

 

 

 

いのちの真実に目覚めることこそ岩戸開き、そして心の扉開きでありました

出典『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』「第二章 魂を乗せた一羽の折鶴」p.70

 

 

 

 

 

(中略)

 

 いろは姫は一介の主婦ですが、現実生活の中で、数字と文字の世界にアクセスしています。難しい学問世界はわかりませんが、ただ一つ、鉄の一心を持っています。数字と文字を心いただくことのある暮らしの中で、一切不動の鉄の一心を心がけています。そして、共時性現象を

〝食心の目は共時の目〟

という、次元ばなれした言葉で表しています。食こそいのちの根源であり、一旦口から入った食べ物は、人間の自我が立ち入ることのできないいのちの世界。それこそ、ご意志の世界、それをいろは姫は「五一四ごいし」の世界と書き換えています。「ご意志」と書けば、人間の自我が入る世界ですから、それを数字の「五一四」と表現することは、宇宙に通じる意志といえましょうか。

〝食なくてなんのおのれがこの世かな〟

 生き物は食べなくては生きていられません。あまりにも当然すぎる当然のことです。しかし、そこにこそタネ証しの謎があることに人はなかなか気づきません。知性で栄えて知性で滅びては、人間の特性は宝の持ち腐れになります。生きることの次元にこそ、共時性現象(通称=偶然の一致)の謎解きがあったのです。

 いのちは原子です。原子は食です。食に発する原子です。生きることの原子が、全身の中で舞っているから今日も生きていけます。あまりにも当たり前のため、低次元として無視されているわけですが、そこにこそ共時性の目が光っていたわけです。

 つる姫は、ユングと天明を前にして、天の川のことを話し出しました。
つる姫「ユングさんと天明さんは

立場は違っていても

ともにいのちのルーツを求め、心のふる里を求めてきました

天の川には『天意の法則』がいくつもありまして

その中に

〝一呼一吸天の気

一食一排地の気

天地の気はいのちの食

食はいのちの呼吸なり〟

というものがあります

また、〝食心の目は共時の目〟というものもあります

どちらも、食はいのち、いのちは食ということになりますが

そこにこそ、宇宙調和のエネルギーの謎があるのです

そして、縁結びの中心エネルギーとなる

「共振共鳴共時の目」があったのです

「目」とはそのものの中心と考えたらよいでしょう

ここで再び〝いのちの舞い〟を出しましょう

 

やまず

やすまず

とどまらず

とんでははねて

はねてはとんで

あっちへこっちへ

ランダムに

信号ないけど

赤・青・黄色

安心安全

原子の舞いは

いのちの喜び

大調和

いのちの原子

大調和

 

食からいただいた原子の世界は

私たちのいのちの中で

いつも引き寄せたり引き離したりして

枠を超えたら引き戻すゼロの力が働いたりして生きているわけです

共時性現象の本質はつまり

食心の目は共時の目

いのちと食は同義と解する

いろは姫の鉄の一心は

天の川の天意の法則にも当てはまっているのです」

と、ここまで話すとつる姫は

つる姫「ユングさんと

天明さんに面白い映像をお見せしましょう

これは、田之助といろは姫の話です

二人は天の川から舟に帆を立てて下ってきました

天の川から心の国へ流れている支流は数多くありますが

二人が乗った舟は

東北の山形県に流れている支流を下ってきたのです

天の川の分岐点には立て札が立っていて

「サイジョウノカワ」(最上の川)とあります

ところが、しばらく下ってくると

ちょうど山形県内に入ったところから急に川の呼び名が変わりました

「モガミガワ」(最上川)となっているのです

二人は、どんどん下ってきて河口の酒田港に到着するのですが

その舟を見ますとまるで宝船のようです

舟一杯に稲穂が積まれていて帆には大きな文字で

「食心の目は共時の目」と書かれてあって

下段一面には聞き慣れない祝詞のりとが書いてあります

 

変われども、時代変われど、いのちの光

米は変わらぬ永遠とわかて

鶴千年亀万年、稲穂の実りは億万年

人類栄えの糧となる、米が光れば皆光る

おかげで今日も生かされる

ありがとう」

 つる姫の話はここで止まりました。宝船にはその祝詞文字が金文字で浮き立っていて、そればかりか、帆柱のてっぺんには長方形の旗が風にひらひら波打っています。その旗は、金色に彩られた〝米〟の写真でした。それを見た誰かが声を出しました。「あれはユングだ!」

 びっくりしてそれを見たユングが、

ユング「おお、

よく似ているなあ」

と反応すると、こんどは天明が、

天明「本当に

ユングとそっくりだ

さらに神示のイチリンの仕組みの丸の中に点が入った記号にも似ている!」

 ユングと天明は一段と共振共鳴していたのです。

 そこに、三心クルーのもじたまの皇子が話に入ってきて、

もじたまの皇子「さっき

声を出したのは私でした

宝船の旗は誰が見てもユングさんに似ているし

丸の中に点が入った記号にも似ているし神示の中心様みたいで

田之助はこの写真のことを

一粒観音様といって大事にしているようです」

と言い、宝船の旗について盛り上がりました。

 酒田港の埠頭は大勢の見物客で大変なにぎわいです。黄金の光を放つ珍しい舟。それは稲穂の光でした。

 米は人間の主食です。生きるためのいのちの機関車です。田之助は酒好きが高じて乱れとなり、いろは姫との葛藤が長い間続きましたが、ようやく生きることの原点に気づくことができて、いのちの真実を求めることになったのです。

 片やいろは姫は、田之助を鉄の一心で守り続ける中で、いのちの真実に気づきました。

 口から入った食物たちは、いのちの光に身を任せ、やがて原子の光に立ち返って、新たないのちの光へと生き変わります。そして、働き終えた食物たちは、外界へと帰っていきます。その一人ひとりのいのちの中で命が新たないのちを育て上げるまでの運びには、いかなる人知も、いかなる自我も立ち入ることができません。立入厳禁の〝聖域〟なのです。

 この聖域の旗印が、帆に書かれている
〝食心の目は共時の目〟
という世界なのです。

 ユングと天明には、新たな驚きとひらめきが交差していました。そして口を開いたのはユングです。

ユング「つる姫様、ありがとう

単純明快にいのちの中心には食がありました

毎日の食べ物が、いのちとなる次元こそ共時性発生の次元でした

ここにこそ心と物質が融合一体となり生命発生の謎がありました

食って生きる、こんな単純なところに

山ほどの理論を積み上げたことから解放されたような気分です

ありがとう」

と、ユングの目は輝いています。そこに天明も続いて、

天明「つる姫様、ありがとう

神示の一点が解けてまいりました

食が新たないのちとなる次元いのちの中心・ゼロ一点の次元が

イチリンの仕組みの「丸の中に点が入った記号」でありました

ここにこそ鉄の一心・食心の世界・共時の世界を見ることができました

扉開きはゼロの目、食の目、共時の目を開くことでした

いのちの真実に目覚めることこそ岩戸開き、そして心の扉開きでありました

ありがとう」

と、二人は、つる姫にその思いを伝えたのでした。

 ユングにも、天明にも、地上社会でのプライドはすべて消えてなくなっていました。

 何もかもが単純明快であり、時間も空間もありません。さらに、すべてが一面一体で新旧もありません。現実には立体に見える物質世界ですが、それを成す精神構造は、極めてシンプルな一面一体の世界と考えられます。岩盤のような魂も、バラバラに分解されて、やがては「真性魂」しんせいたましいの意志基盤に合流します。真性魂とは、宇宙絶対調和エネルギーを、意志性に変換して考え出した表現です。

〝何事も想いが先のこの世かな〟

 地上社会で積み上げた心は次々と魂の集団となり、これが、真性魂に似て非なる「擬似魂」なのですが、その一人ひとりの擬似魂ぎじたましいが、その人の心の遺伝子となり、やがて心の国に入ると、いのちの意志エネルギーに同化されるようになっていきます。生命エネルギーの魂の玉は、丸く削られ、透明な玉となっていくのです。

(後略)

 

 

「第二章 魂を乗せた一羽の折鶴」六二〜七一頁

『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』について▼

 

 

 

 

 

 

ともに触れあい、ともにひびきあい、ともに時を同じくする

出典『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』「第三章 おわりに」p.147

 

 

 

 

 

(中略)

 

 ユング博士は晩年、シンクロニシティー(共時性現象)に魂を打ち込まれたといわれます。いわゆる共時性の元祖だと私は思っています。ユング博士が、広島を舞台とする折鶴に秘められた共時性をどのように受け止めてくれるか知りたいところです。

 岡本天明氏は、世界にも類例のない「数字と記号」による神示取り次ぎの自動書記を一六年間も続けてこられました。画家でもあった天明氏の故郷は『倉敷市玉島』です。元安川の〝もとやすばし〟(元安橋)で、それも雑踏の人込みの中で、無傷で、一羽の折鶴が、北国の人たちと出会って、拾い上げられました。

 天明展を見た帰りに、天明氏を証す「倉敷市玉島」と大書された折鶴と出会ったという事実。その文字が「僕は天明です」とひびかせているようです。それを尊く受け止めねばなりません。

 さらに、数字によって天明氏を証すひびきの一つに、出会い時間と日月神示がありました。出会いは〝一二時一三分〟であり、日月神示は〝日(一二)、月(一三)に符号するひびきでありました。

 また、〝もとやすばし〟(元安橋)を数霊でみれば、〝元八四八四〟のひびきともなります。折鶴と出会ったいろは姫が、「いろは四八文字」ということになりますから、四八の共振共鳴ともなりましょう。

 いろはだけではありません。当日は、〝四八回目〟の広島原爆の日です。四八回目の祈念の日に、元八四八四(元安橋)で、いろは姫が折鶴と出会いました。いろは〝四八〟字が共振共鳴するだけでなく、この折鶴の記録さえも、第四八話に入っていました、その強烈なまでの意志性を感じさせられます。

 

ともに触れあい、

ともにひびきあい、

ともに時を同じくする

 

 こうした出会いの世界、ご縁の世界では、どうしても、いのちの「意志性」を無視することはできません。

 

いのちの中心は意志性

調和の意志性

ゼロに戻す力の意志性

心身調和安定のエネルギー

それがいのちの中心力

 

何ごとも 思いが先の この世かな

魂は出会いの縁によって進化し

出会いの縁は進化の方向性を持っている

 

と思うのです。そこには逆進化のあることを思うとき、一にも二にも日々の心の大切さを肝に銘じなければなりません。

 人々の運勢運命というものの根底には、心の方向性こそ最も大切なこととしてあるのだと私は自覚するようになりました。

 (後略)

 

 

「第三章 おわりに」一四五〜一四八頁

『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』について▼

 

 

 

 

 

 

ゴールには〝ぬいぐるみ〟つまりニワトリであったり、人間であったり、犬や猫や虫たちであったり、その他もろもろの千差万別の、いのちの形が待っています。

出典『富士山と雲と神様』「第一話 ニワトリセン太の独り言」p.7▼

 

 

 

 

第一話 ニワトリセン太の独り言

 

 昔むかし、太古の時代でありました。地球がようやく穏やかになり、大陸にも緑がかがやくようになっておりました。

 ある日のこと。海辺ではいのちの一大イベントが始まろうとしていました。いのちの〝ぬいぐるみ大運動会〟です。何億万という、いのちの原子が集結していました。

 コースは漆黒の闇の中で走ります。ゴールには、数え切れないほどの〝ぬいぐるみ〟がおかれています。いよいよカウントが始まり、号砲の合図とともに、いのちの原子が一斉に飛び出しました。どんな〝ぬいぐるみ〟に出会えるか。ゴールは手さぐりです。ゴールには〝ぬいぐるみ〟、つまり、ニワトリであったり、人間であったり、犬や猫や虫たちであったり、その他もろもろの千差万別の、いのちの形が待っています。

 いのちの原子たちは各々、ゴールで手にした〝ぬいぐるみ〟を着、これよりいのちの聖火ランナーとなって延々と時空を超え、現実のこの世へと聖火を繫いでいきました。

 

(後略)

 

 

「ニワトリセン太の独り言」7〜8頁

『富士山と雲と神様』について▼

 

 

 

 

 

 

生命の最小単位である細胞は、元気で生きてゆくために私(本人)に向けてこれらの願いが叶うよう、いつも一心にアピールしているのであります。

出典『富士山と雲と神様』「第十二話 細胞からの三つの願い」p.77

 

 

 

 

第十二話 細胞からの三つの願い

 

私は細胞 微生物

一〇〇兆個の 微生物

私の願いは 三つある

きれいな水と 簡素な食事

そして一つは 調和の心

三つの願いを 聞いてくれ

私は細胞 微生物

一〇〇兆個の 微生物

どうかよろしく 願います

 

 私は私であって私ではない。そんな思いにさせたのは、二枚の写真からであります。富士山と神田川、そして富士山と芝川の写真です。それは単に山と川なのではなく、自然の循環を思い、それに自分のいのちの循環を重ね合わせることができるからです。

 重ね合わせができた時、すべては何の違和感もなく一体になります。何一つかけ離れたものはありません。すべてが、巡りの中で結び合っております。

 それらは自分の外の世界の話ですが、ひるがえって自分の中の世界を顧みてみれば、人体の一つひとつ、その完成度には神意を感ぜずにはいられません。生命の最小単位といわれる細胞は、あらゆる生命機能を備えていて、人体は一〇〇兆個ほどの細胞で構成されているといわれています。その細胞もまた、三〇〇種類近くにも分かれており、人体の各部位・器官を構成しています。細胞一つひとつに聞いてみれば、どこまでが自分であってどこまでが自分ではないのか、さっぱりわからないという感覚なのかもしれません。細胞をさらに細かく、分子→原子→素粒子へと掘り下げてゆくと、その行き着く所は、神であり、神のご意志の次元に入るのではないでしょうか。

 それはさておき。私は私であって私ではない、と感じている私は、一〇〇兆個の細胞の塊であります。

 その細胞たちから私は、「三つの願い」を託されました。それはきれいな水と、簡素な食事そして調和の心の三つであります。

 細胞からのこの三つの願いは、一〇〇兆個の細胞が元気で生き活き活躍できるための必死の願いです。生命の最小単位である細胞は、元気で生きてゆくために私(本人)に向けてこれらの願いが叶うよう、いつも一心にアピールしているのであります。

 

一、「きれいな水」

ここは富士山 富士宮

汚れを知らぬ 神田川

源流いずくと たずぬれば

浅間大社の 庭に湧く

湧玉池が ここにあり

 

 富士宮は清流に恵まれており、神田川、芝川、稲子川、潤井川、そして日本三大急流の一つ富士川が清流を供給しつづけております。「細胞の願い」の〝きれいな水〟に充分応えております。

 

二、「簡素な食事」

一呼一吸 天の気

一食一排 地の気

天地の気は いのちの食

食はいのちの呼吸なり

 

 生きてゆくための必須条件は、食事であります。毎日欠かすことのできない生命を維持する行為であります。入口(食べる口)は一つ、出口(尿と便の出口)が二つの一本道の中で、一〇〇兆個の細胞は、毎日運ばれてくる食物を待っております。

 食はいのちの呼吸であり、生死に直結する行為であります。

 三つの願いの一つ目、〝きれいな水〟は、血流を順調に運び、体のすみずみまで食事を届けてくれる流れでございます。その流れを汚さないためにも、簡素でバランスの良い食事を細胞のいのちたちは望んでいます。

 そのための食事の基本モデルとは、「一日二食」「玄米・みそ汁・納豆・お茶を摂ること」であります(以下の四点は、あくまでも筆者の基本モデルです。体調、嗜好などの個人差は多様でありますから、参考例となれば幸いです)。

■玄米

 二人の一食分として、うるち米一合に水三合を加え、柔かめに炊き上げます。

■味噌汁

 だしと具だくさんの味噌汁です。だしは食べるイリコなど、具は根菜、葉菜、海草など。

■納豆

 黒大豆納豆が好ましい。プラスαでキムチなどの発酵食を混ぜてもよいでしょう。

■お茶

 ほうじ茶、煎茶、抹茶、玄神(ブラックジンガー)など。細胞一つ一つは、最小単位の生命体です。直接本人のいのちを守る最前線で働いています。細胞が活き活きとして新陳代謝が活発であることはすなわち、本人も活き活きしていることと同義なのです。

 

三、「調和の心」

私は細胞 微生物

一〇〇兆個の 微生物

私の願いを 聞いてくれ

どうかよろしく 願います

 

 調和の心とは、何にも片寄らない心です。何かに夢中になることは時によいことでしょう。ですが、それが自らの全てとなり執着となって、排他的になることには、一線を超える危うさがあります。

 寛容度の高い、ひろい心は、細胞に過度の負担をかけません。調和不偏は、いのちに適った心といえましょう。こうした片寄らない心には、共にユーモアの心、遊びの心を忘れぬことも大切です。

 車のハンドルには一八度の遊びがあるといわれます。それは〝間をとる生き方〟にも通じます。偏りのない心で、ユーモアや遊びの感覚を持つことは、細胞に大変有益に働くことでありましょう。

 以上が、細胞からの三つの願いであります。

 

 

「第十二話 細胞からの三つの願い」七五〜八二頁

『富士山と雲と神様』について▼

 

 

 

 

 

 

心の光は意志を乗せ、魂を乗せ、物申す電磁波のひびき

出典『神秘の大樹Ⅲ文字・数・色で証す新次元』「ヨシ婆さんと心の光」p.147

 

 

 

 

ヨシ婆さんと心の光

 

 自分の考えていることが、他のいのちの中で生きることができるであろうか。

 以心伝心とか、テレパシー(遠隔精神感応)とか、よく耳にする。また、クシャミをすると、「誰かが噂をしているんじゃないか」とからかわれることもある。

 ところで、自分の考えていることが他人に筒抜けになったら生きてはいけない。世の中は騒然となってパニック状態に陥ることになり、うかうかと物事を考えることすらできなくなる。

 では本当に、人の思いというものが、他人に伝わらないのだろうか。

 このごろ私は、心は光だと考えるようになっている。光であれば電磁波となって、地の果てまでも飛んでいくだろう。心は光の波であり、心の波形が合う相手に出会えば、その波長が増幅して光を増すことになる。

 その時相手には、「あれ」という感応の瞬間が出てくるのではないかと思うし、また、その予兆を感じるだけでなく、二、三日その人の中に居候することもありえる話だと私は確信している。

 心が光だと思う訳には、「心の原料は原子である」ということが前提となっている。「原子が心の原料だなんて話は荒唐無稽も甚だしい」と叱責されるかもしれない。

 原子は、原子核(陽子と中性子)と電子からなっていて、さらに奥の世界は、素粒子の世界だといわれている。

 では、さらにその奥へ奥へと内なる宇宙に思いを進めるならば、一体どうなるのであろうか。何があるのか、誰が待っているのかと素人の空想を宇宙大に広げると、かぎりなくゼロの世界に到達するのではないのか、と思いは広がるばかりである。実はそのかぎりなくゼロの世界こそ、いのちの中心世界ではないのか、と現実味を帯びて迫ってくる。そこが、宇宙原初の時代情景なのではないかと、私はその幻想を描いているが、どうであろうか。

 ある日突然、そのかぎりなくゼロの世界に二つの激しい渦巻きが発生して、互いに回転を始めたとする。それは、互いに反対方向に回転しながら左右二つの渦巻きとなって、8文字状を描き続けることになり、私はそれを生命8字還流と呼ぶようになった。

 そして、悠久の歳月をかけ、陽子と中性子が組み合って核を成し、その周りを電子が軌道をつくっていのちの元となる原子ができたであろうことを思うとき、そのいのちの末裔である私たちは、宇宙始まって以来のいのちを繋ぐ、一三七億歳の天文長寿の、れっきとした地球人ということにならないだろうか。われわれには、天眼、天耳、天鼻などの神通力が備わっていて当然ではないか。

 だが、世の中の平安調和を思ってか、宇宙の親様は、人の心に幕をはってくれたようである。混乱がないように、心の安全弁を与えてくれたと思えてならない。

 何を考えようが、どんな心で生きようが、自己責任のもとで、寛大な自由を与えてくれたのではないであろうか。だが心の自由も、宇宙絶対調和力によって自動的に統御されているのも事実であると私は受け止めている。

 大脳新皮質が発達した人類から、神通力は加速度的に退化していると思うが、他人の心も、自分の心も、互いに不特定多数の中で時空を越えて伝播されている現実の中、ときには、心の波(波形)が類似すると一瞬のひらめきにも似た心のひびきを受け取ることもあるものである。元々生物に備わっている古い脳(大脳辺縁系)にこそ、生命の根源を司る機能が組み込まれていると思われる。

 心を電磁波の光として考えるとき、お互いの心の波形の山と山、谷と谷が合うようであれば心の光は強くなると思うし、それとは逆に、波形の山と谷、谷と山がぎこちなく重なるようなお互いの心のタイプであれば、波の干渉によってその心の光は弱くなると考えられるから、心は打ち消されて伝わらない。

 心の波形といっても、ピンからキリまであることを思えば、千変万化の人心の中で、心の波は想像以上の階層となるから、以心伝心の声なき声の響きは、そう易々とは伝わりはしないであろうし、強いてその発生メカニズムを推量するならば、絶対的な心の静けさが伴ったとき、思念の精神感応が起こりやすいと、私は自分の体験をふまえて、そのように考えている。ここで、本題に入る前に一つの体験例を紹介する。

 平成四年七月一四日からの、たま出版(株)主催のスピリチュアル・ツアーに参加した後日談であるが、帰宅した私は、自分の心に、得も知れぬ変化が起きていることに気がついた。朝、目を覚まして起き上がろうとしたその一瞬のこと、顔の中から白煙にも似た湯煙のような気が出たかと思うと、その白煙が女性の顔に変わり、またたく間に、雲が流れるようにして消えたのである。その顔は、ツアーで一緒だった女性、Y・Hさんであると確信できたから、そのことを本人に電話で伝えてみて驚いた。受話器の向こうで、「あら、やっぱりっ!」と言うではないか。その女性と別れるときにちょっとしたドラマがあったことで思いを強く発したのと、また、似たような心の波調の持ち主でもあったようである。この一例からも、心は電磁波の光であり、一種の電波ととらえてみることができよう。この場合は時間的に、二、三日の間、私の心の中に彼女の心が滞在していたことになる。

 さてここから、本題の体験の話をすることにしよう。それは、妻の父方の伯母を見舞に出かけたときのことであった。いわば〝死の予告〟とも思われる、遠隔精神感応の体験である。二日続けた見舞の初日は、平成四年五月二二日金曜日であったが、その帰りの道中で、茨野新田という集落を通過していたときのこと、突然妻は、テレパシーを受けたのであった。

「お父さん、今、ヨシ婆さんの感じのする心が入ったけど何だろうか?」

 それは、「ツーヤクダー」という、いのちからのひびきが、妻のいのちに同調していたらしい。すかさず妻が時刻を見ると、五時二二分になっていた。

「あら、今日は五月二二日だよ」

と、妻が不思議に感じて言う。

 私は、ツーヤクダー…ツーヤクダー…という言葉の流れを二度、三度頭の中で繰り返していた。そのうちに、「通訳だ」という現実語となって浮き上がってきたのである。

 ヨシ婆さんは、九六歳という立派な長寿を全うしている。何といってもこの世は有限世界であるから、九六歳は立派なものである。

 だが、生死の臨界線にいるヨシ婆さんは、枕元で呼びかける妻の言葉にはほとんど反応をしなかった。しかし妻に対して、何かしらの神通力を感じていたらしいから、ヨシ婆さんの魂はきっと、「富美子(妻)は、私のいのちの通訳だ」と言ったのではないのか、と私はそのように理解した。

 さらに、五月二二日と五時二二分は、ぴたりと一致する数霊でもあるから、この数字には深い意志性を感じられてならない。この数字の同調性をどのように受け止めればいいのか、単に、数字が合ったとか合わないという次元でないことは肌で感じられる。数字の持つ意志性には、何か根源的次元からの能動的なひびきが感じられるのである。ある特定の魂からの、言葉以前の強烈な意志の伝達があるのではないか。それこそ通訳はできないが、数字は宇宙語(私の造語)のような感じがするのである。いのちの中は、数の魂(ひびき)で一杯なのである。

 そして、翌日、二度目の見舞を終えてからの帰路のこと、助手席の妻のいのちに再びテレパシーが入ってきた。

「フミコ ト アッテカラ スンデキタ」

「どういうことですか」と妻は自問した。

「コメノトギスルノヨウニスンデキタ

イグドゴワガラネガッタガ

コンドハッキリシテキタヨダ」

 昨日は「ツーヤクダー」と言い、今日はこのようなひびきである。

 ここで、はっきりとその内容が浮き上がってきたのである。

 妻に対してヨシ婆さんが、「あなたは魂の受け答えができる通訳なんです」と言ったのが昨日のことで、今日は、

〝富美子(妻)と会ってから心が澄んできたぞ

それは米の研ぎ汁のように澄んできたよ

わたしの行く先(逝く先)わからなかったが今度はっきりしてきたよ〟

という内容であることがわかる。

 ヨシ婆さんは、生死の臨界線上に来ていて、自分の還るところは極楽でも地獄でもない、澄み切ったいのちの原子世界、生命元素(食=原子=精神世界)の世界なのだということを、一心に伝えてくれたのではないのか…。

 ヨシ婆さんは、妻に伝え終えてから四日後の平成四年五月二七日に、澄みわたる生命元素世界(光の世界)へと旅立っていった。享年九六歳の天命長寿であった。

 心はいのちの本質、死ぬことのないいのちの宝。心の光は意志を乗せ、魂を乗せ、物申す電磁波のひびきであると思うのである。

 

 

「ヨシ婆さんと心の光」一四〇〜一四七頁

『神秘の大樹Ⅲ文字・数・色で証す新次元』について▼

 

 

 

 

 

 

心も体も同一、同元、同質のもので、一元一体二象体となって現れることがいのちと呼ぶものではないのか。心と体は一人二役のようなものだ。

『神秘の大樹Ⅰ偶然が消える時』「いのちは磁気・磁波・磁性体」▼

 

 

 

 

いのちは磁気・磁波・磁性体

 

 いのちという名は誰が名付けたかは知らないが、いのち自身の自分でありながらも、いのちのことはあまりにも深く、遠くて手が届かない。そんないのちではあるが、求め続けることはいのちの果てまでも探求の道は続くであろう。

 今朝はそのいのちのことでふと浮き上がるイメージがあった。いのちはこころの源流であることを。そして、いのちの本体は磁気・磁波・磁性体であり、共振・共鳴・共時体の有視現象を起こすものであることを。またそれは生命元素(原子)の世界でさらにその奥の素粒子の世界に通じる遺伝子以前の世界であることを。

 われわれは、食をいただくお陰で生命元素が分子となり、細胞ができて、そして五体をつくる役割分担の細胞に分かれ、こうして今日食べた食物は立派な五体をつくってくれるし、五感で心をつくるまでに仕上げてくれる。

 その五感とされる視覚(眼)、嗅覚(鼻)、聴覚(耳)、味覚(舌)、触覚(皮膚)の五つの感覚と、五感の現実感とも異なる六感という霊的感覚があるわけだが、これら五感六感を感ずることのできるのは、いのちあればこそである。それらのことをつないでみると、宇宙をつくる生命元素があって、無限数の星々があって、銀河の中に太陽や地球があって、大地があって、大気があって、呼吸と食物をいただき、一体の「いのち」ができあがる。そのいのちは磁気・磁波・磁性の気をもっていて、そこに五感、六感が発生して、その反応の結果、心が生まれることに成る。そして、その心が人それぞれの人間模様をつくりだすことになる。それが人々の喜怒哀楽や悲喜劇の現実の姿となり、人間社会はとめどなくその変化を繰り返している。

 これら人間社会のあらゆる事象は人が生きている証拠でもあるわけだが、この生きているいのちは、一体何ものなのかと考えを巡らしてみた時、いのちは磁気・磁波・磁性体(=共振・共鳴・共時体)なのだということに気が付いたのであった。

 たとえば、ちょっとした物音一つでも耳がピクリと動き、そして、その音の情報を聴覚でとらえて、それが何であるかを察知して対応する。外に向けても自分の心に向けても、すぐにそれらの動きに反応をする。その反応こそ磁気・磁波・磁性体(=共振・共鳴・共時体)の反応であり、すなわち、それらの磁性こそ、私はいのちの本体であると考えてみたのであった。磁気・磁波・磁性体は共振・共鳴、共時の現象をもたらす唯一の心性媒体だと考えるようになった。

 いのちある限り、外的にも内的にも、この五感六感からの情報を元にして反応を繰り返す。その繰り返す反応こそ心の発生であり、反応即心であると考えた。

 心という磁気体が、情報を統括する脳に集積記憶として積み重ねてゆく。この心の磁気体はさらに、内的反応体(霊魂=潜在心)となって、日々の五感とともに心の宝庫として多種多彩な心のいろどりを生みつづけることになる。

 いのちの中で循環する情報反応によって、それぞれの個人差のある心を形成し、生み重ねているのが現実の姿であると考えた。いのちは、磁気・磁波・磁性体であり、共振・共鳴・共時現象の発生源なのだ。極言するなら、いのちは磁石だ。私は磁石であなたも磁石だ。いのちの本質はきっとそうに決まっているものだと私は本気でそう考えた。磁気・磁波・磁性体のエネルギーこそ、いのちの絶対調和力の核となるものだと確信に近い考えとなっている。

 共時性現象(シンクロニシティー)をもたらす共振・共鳴・共時の世界は、いのちが磁気・磁波・磁性体だからこそもたらす現象であると思っている。

 心も体も同一、同元、同質のもので、一元一体二象体となって現れることがいのちと呼ぶものではないのか。心と体は一人二役のようなものだ。だから生も死もない世界で、心も体も同一同根の生も死も呑み込む混合一体の世界であり、磁気・磁波・磁性をもった調和安定力こそいのちと呼ばれる本体であり、本質であると私は考えている。

 いのちは磁気体であればこそ、男と女はプラスとマイナスで引き合う性質をもつとしても不思議とは映らない。磁気・磁波・磁性体であればこそ、宇宙世界の生命元素(原子)とも融合できうるこのいのちといえる。素早く反応する気の流れ、気の動きこそ、心の源流であると考えても決して的外れにはならないであろう。

 

呼吸と食はいのちの食

食はいのちの元素

生命元素はいのちの光

心は光で体も光

いのちは

磁気・磁波・磁性体

いのちは

共振・共鳴・共時体

共時性現象の基を成す

いのちは心の源流

いのちはものいう光

ものいう光なのだ

みんな光の王子

みんな光の女王

 

(後略)

 

 

「いのちは磁気・磁波・磁性体」207211

『神秘の大樹Ⅰ偶然が消える時』について▼

 

 

 

 

 

 

それによって、われわれの認識や思考も同じように秩序づけられる

出典『全体性と内蔵秩序』p.205

 

 

 

 

(中略)

明らかに、座標を自然界に存在する事物と考えることはできない。むしろ座標は、人間によって作り上げられた便利な記述形式に過ぎない。(中略)

座標を用いることは、実質的には、機械論的世界観に適合するようにわれわれの注意を秩序づけることである。それによって、われわれの認識や思考も同じように秩序づけられることになる。

(後略)

 

『全体性と内蔵秩序』について▼

 

 

 

 

 

 

内蔵秩序による探究は宇宙が不可分の全体であることから出発する。

出典『全体性と内蔵秩序』p.303

 

 

 

 

(中略)

これまで内蔵秩序と顕前秩序を対比したさい、われわれはそれらを分離した別個のものとして扱って来た。だが章で示唆したように、顕前秩序はより一般的な内蔵秩序の特殊ないし特別な場合として後者から派生しうると見なすことができる。顕前秩序が異なるのは、そのように派生したものが相対的に安定した再起的な要素の集合であり、それらの要素が互いに他の外部に存在するということである。そして機械論的秩序で適切に扱える経験領域があることは、このような一群の要素 (場や粒子) の存在によって証明できるのである。だが現在流布した機械論的方法ではこれらの要素 [場や粒子] が分離・独立して存在すると仮定され、またそれらが基本的実在を成すと考えられている。するとそのばあい科学の仕事はそれらの部分から出発し、抽象によってあらゆる全体を派生させ、それらの全体を部分どうしの作用の結果として説明することである。その逆に、内蔵秩序による探究は宇宙が不可分の全体であることから出発する。それゆえ科学の仕事は抽象によって全体から部分を派生させることである。

(後略)

 

『全体性と内蔵秩序』について▼

 

 

 

 

 

 

 

心や身体より高次元の、本性上それらを超越した実在

出典『全体性と内蔵秩序』p.349350

 

 

 

 

(中略)この心と身体の繋がりは、ふつう心身的 (psychosomatic) と称されてきた(この言葉は「ギリシャ語」で「こころ」を意味する「psyche」と「からだ」を意味する「soma」とから発している)。しかし通常この語が使われるさい、そこには心と身体がほんらい分離した存在でありながら、ある種の相互作用で結びつけられているという意味合いが含まれる。だがそのような意味は内蔵秩序と相容れぬものである。なぜなら内蔵秩序にあっては、心は物質一般を包み込んでおり、したがって心はその特殊な場合としての身体を包み込んでいると言わねばならぬと同時に、身体は心を包み込んでいるばかりでなく、あるいみで全物質界を包み込んでいると言わねばならぬからである。

(中略)

  そこでわれわれはさらにつぎのように提案せねばならない。より深い内奥にあって両者を包括する実在は心でも身体でもない。それはむしろ心や身体より高次元の、本性上それらを超越した実在なのであり、そしてまたそれこそが両者をともに在らしめる共通の根拠なのである。逆に言えば、心と身体はおのおの相対的に独立した亜総体にすぎない。つまりそれらの相対的な独立性は、両者がそこにおいて究極的に一つとなる高次の根拠から派生する(むしろ顕現秩序の相対的独立性は内蔵秩序という根拠から派生する)のである。

(中略)

 心と身体が因果的に影響を与えあうのではない。むしろ両者のそれぞれの運動は、ある高次の共通根拠の射影どうしが関連しあっている結果なのである。

(後略)

 

 

『全体性と内蔵秩序』について▼

 

 

 

 

 

 

「こころとからだ」各ページ

 

引用・参考図書

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書籍『酒乱こめのいのちが生きるまで』の詳細・閲覧ページにリンクしています

酒乱
米の生命が生きるまで

菅原茂/MBC21/1993年

 

「いのちとは」「心とは」という文字通りの “命題” について、 体験を通じた非常に強く明確なメッセージを発している。 後年、この著者は『死んでも生きている いのちの証し』『神秘の大樹』を出版しているが、 第一作である本書を読むと、 なぜこの著者が、共時性を切り口にして「いのち」を語るのか、 腑に落ちる。

 

 

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書籍『神秘の大樹 第二巻 ヒロシマとつる姫』の詳細・閲覧ページにリンクしています

神秘の大樹 Ⅱ
ヒロシマとつる姫

菅原茂/おりづる書房/2011年

 

平成5年8月6日の広島平和公園で拾った一羽の折鶴は、内側に「倉敷市玉島」と印刷された折込広告の断片だった。その地名は『日月神示』で知られる岡本天明氏の出生地。縁結びの背景としての心の世界を描く。創作シナリオを織り交ぜた明るい内容の物語が主体。おそらく全四巻の中で、最も生命の本質的な核心を表現している。自分の心身と深く向き合えるようになるほど、本の内容もよりいっそう理解できる本と言ってさしつかえないだろう。

 

 


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書籍『死んでも生きているいのちのあかし』の詳細・閲覧ページにリンクしています

死んでも生きている
いのちの証し

菅原茂/たま出版/1997年

 

共時性現象の体験記録をもとに、生命の本質は不滅だと伝えている。 酒乱人生から夫婦二人三脚で新たな人生を再出発させた著者。自らの足元を照らすかのような共時性現象の記録を随想としてまとめている。また、本の表紙を飾る稲穂はこの著書の本質を象徴している。

 

 

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書籍『富士山と雲と神様』の詳細・閲覧ページにリンクしています

富士山と雲と神様

菅原茂/おりづる書房/2016年

 

この世のすべてが心性エネルギーに満ちているという生命観=宇宙観からうまれた物語。ヒトは万物霊長の存在と言われるが、著者は万物霊の視点で生命世界を観ている。ともすれば私たち人類はあらゆる生物の頂点に立つ最も優れた存在であると勘違いしがちではないだろうか。本作は子どもから大人まで読んで理解できる内容になっている点で、ほかの著作とはひと味ちがう作品。

 

 


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書籍『神秘の大樹 第三巻 文字・かず・色であかす新次元』の詳細・閲覧ページにリンクして

神秘の大樹だいじゅ
文字・数・色で証す新次元

菅原茂/おりづる書房/2012年

 

文字・数・色は人間の意思だけではなく、生死の境やほかの生物などと境なく、いわゆる「霊」や「魂」の意志性を代弁している。 共時性現象(=偶然の一致)は、それを認識させてくれると同時に、一人ひとりに対するあたたかい道案内の現象だと伝えている。

 

 

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書籍『全体性と内蔵秩序』を図書館検索サイト「カーリル」で検索します

全体性と内蔵秩序

デヴィッド・ボーム著、
井上忠・伊藤笏康・佐野正博訳/青土社/1986年

 

『WHOLENESS AND THE IMPLICATE ORDER』(1980年) の邦訳版。科学は物質を微細に分け入り、その「構成」粒子を発見してきた。一般に私たちは、それが物を形作っている最小単位だろうという見方をしがちだが、分析して見える粒子は、ある文脈によって「全体」から顕現した一時的な抽象物であって、そもそも宇宙は分割できない一つの「流動する全体運動」だという。専門の物理学(量子力学)をもとに論じるこの世界像は、あらゆる物事を部分化・断片化する見方に慣れてしまった私たちに、重要な示唆を与えている。

 

 


関連ページ

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共時性とは何か

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時空や生死を超え、人種や生物種も超えて、いのちには境界がない証し

 

因果性とは何か

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「因果性」の実際は、それほど単純ではなく、もっと複雑。科学的な「法則」は、限定的な条件のもとでのみ有効だ。

 

偶然と因果

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因果性がないというより、今の科学の尺度では説明できない、と言うべきではないのか。

 


客観と主観

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自然界と人間とを切り離す「客観」的態度が潜在的に抱えている問題点

 

共時性の真価

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平成5年8月6日、広島平和公園で偶然発見された一羽の折鶴。共時性の真の価値は、それが生命の真実を示していること。

 

参照資料の索引

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「いのちと共時性の考察」各主題の文章作成に用いた参考文献や、理解の助けとなる参照資料を網羅。