生命現象の根源

こころとからだ

体の自律性への依存

 

私たちは、基本的な生命活動をすべて、体の精緻な働きに依存しています。体内の微視的領域はだれも立ち入ることができない、いわば「聖域」。たとえば「食は大事だ」という思想は一見単純ですが、自分の意思で選んで口にした食物は、いったん飲みこむと、あとは体にゆだねるしかありません。これが真実です。

 

わたしたち人間の生命維持が食物のおかげであることは言うまでもありませんが、その消化吸収から排泄までのすべてを、まるで「自動的」であるかのように処理しているのは体です。はたして体は、遺伝子に組み込まれた情報に従って動き続けているだけでしょうか。体内でおきている化学反応や物理現象の実際は、諸条件に沿って機械的・規則的に起きているというよりは、「自律的」におこなわれているようでもあり、とても神秘的です。

 

ところで、人間はなぜ食物を食べるのでしょうか。おそらく答えは空腹や食欲を満たすため。では、なぜ食べなければ生きられないように、いのちはできているのでしょう。まるで、何を食べるかという選択の自由を与えられ、意思を試されているかのようです。というのも、基本的に、体質は先天性のものですが、その現れとしての健康状態は決して固定的ではなく流動的で、実際に日々の食生活が健康状態を左右します。ゆっくりと年月をかけて、しかし、まちがいなく変化します。しかも、私たちの体は常に変化し続けているため、特に病んではいなくても、その改善や向上にこれでよいという終わりもありません。

 

体は、まず前提として食物の力を借りるしかありませんし、それが最も自然な姿です。にもかかわらず、私たちは体内における食物の行方が見えないため、食に対して適当になりがちです。じぶんの生命全体に関わる問題として深く考えず、自律的ないのちの営みに任せっぱなし。体のなかでどのようなことがおきているかを意識することは、ほとんどありません。じぶんの体の見えざる真実へのまなざしと気づきは、心身を調和・統合できるかどうかと密接に関わるとても重要な課題だと感じます。

 

 

 

参考図書・参照資料「もっとくわしく」目次

 

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もっとくわしく

 

 

 

 

自分ではどうにもこうにも手のかけようもない不可侵の聖域

出典『神秘の大樹Ⅰ偶然が消える時』「天地普遍の縁エネルギー」p.42

 

 

 

 

天地普遍の縁エネルギー

 

(中略)

 

非現実が現実となり

不可視が可視となり

現実の裏で働く真実

 

 いのちほど神秘な世界はない。見える現実の奥できらめく縁のエネルギー。満光満華の光で交差している真実世界。出会いの秘密はどうもここにあるようだ。現実世界を紡ぎ出す裏方さんのその縁の発生源は、生命の本質、いのちの本体にその秘密が内在されているようだ。まず、生きる原点を覗いたとすれば「食と呼吸」に行き着く。

 

食が生命に転換する次元

口から入った食物が胃で燃やされて

小腸で吸収され血となり肉となる生命転換次元

 

に、縁エネルギーの結びの神がおられるようだと考えてみた。そこは思えば思うほど、自分ではどうにもこうにも手のかけようもない不可侵の聖域なのだ。そこを生命のゼロ磁場の世界と私は考えた。

 いのちの単位には、一体の生命体にしても、それを構成する細胞一つにしても、原子(元素)一つにしても、必ずやゼロの磁場があると思っている。この命のゼロ磁場こそ万物普遍の情報をキャッチできる次元で、人知ではコントロールできない次元ではないのか。

 この世の億万兆の情報をキャッチできる次元のその接点を結んだ時、「あっ、この方と会いたいっ!」と、全身に閃きを発生させ.意識へと昇華されるのかもしれない。

 共振共鳴共時の現象は、おおむね「文字・数・色」に分類されて、相互にその接点を結び合う吸引・反発の霊魂の働きと考えてもみた。その発生場がいのちの中心軸=ゼロ磁場ではないのだろうか。

 こうして私たちの、共振・共鳴・共時の旅は果てしなく続いている。

 

 

「天地普遍の縁エネルギー」四一〜四三頁

『神秘の大樹Ⅰ偶然が消える時』について▼

 

 

 

 

 

上記の一部

  • ここから書籍『神秘の大樹 第一巻 偶然が消える時』の抜粋。「まず、生きる原点を覗いたとすれば「食と呼吸」に行き着く。食が生命に転換する次元、口から入った食物が胃で燃やされて、小腸で吸収され血となり肉となる生命転換次元に、縁エネルギーの結びの神がおられるようだと考えてみた。そこは思えば思うほど、自分ではどうにもこうにも手のかけようもない不可侵の聖域なのだ。そこを生命のゼロ磁場の世界と私は考えた。
  • いのちの単位には、一体の生命体にしても、それを構成する細胞一つにしても、原子(元素)一つにしても、必ずやゼロの磁場があると思っている。この命のゼロ磁場こそ万物普遍の情報をキャッチできる次元で、人知ではコントロールできない次元ではないのか。」抜粋はここまで

 

 

 

 

絶対立入禁止の聖域
いのち自身がいのちを育てている聖域

出典『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』「第一章 心のつる草」p.16

 

 

 

 

(中略)

 

「日々の心」 四八二

 

母はわが子を宿した

そして

その子に母は宿る

母はわが子を生んだ

そして

その子の中に

自分をも産み落とした

そして

その子の中で生き

母と父

その子の外にいる元の

母と父

そして

その子の中にも

生きている母と父

どちらも〝本物〟だ

そして

元の母と父は死んだ

そして

その子の中で育つ

母と父

永遠に繰り返される

母と子

子は母となり

子を宿し母となり

子の中に生きる

死に変わり生き変わりて

続く魂

自分の中は魂の博物館

 

「日々の心」四八三

 

母の子宮の中では

いのちがいのちを

いのちたらしめるための

十月十日とつきとおか

新しいいのちの再生世界

そこは母の〝呼吸と食〟以外は

立入禁止の聖域

また、いのちの道は一本道

口から入った食が

いのちを

いのちたらしめるための一本道

食はいのちで

食以外は立入禁止

一呼一吸天の気

一食一排地の気

天地の気はいのちの食

食はいのちの呼吸なり

 

 万物の霊長といわれる人間ですが、次元を生きる原点に引き戻して考えるとき、果たしてどうでしょうか。もしもこの大自然界に放り出されたときのことを想像するだけで、何もかもギブ・アップすることばかりです。

 人間が優れているのは〝知性〟という特性があればこそです。そして、優れているのは、単に人間社会でのことにすぎないのだと気づきます。

 単身で空を飛ぶことはできないし、オリンピックのどんな競技の一流選手でも、猿やチーターや象やライオンやイルカたちに太刀打ちできないのは先刻承知のことです。裸一貫では成すすべもありません。優劣ではなく、その種が持つ〝特性〟という、いのちの平等に立たなくては比較などできようがありません。優劣は人間社会でのことであり、他の生き物が人間より、すべてにおいて劣るという見方は、白紙に戻さなくてはなりません。

 人間は、いろいろとものを考え、何かをつくり上げるという創造力にかけてはものすごい能力を発揮しますが、これを、万物の霊長というより、人間に与えられた一大特性と考えてみたいものです。

 特性である〝知性〟の活躍で、人間はとてつもなく広大な文化圏をつくり出しましたが、その、量的資産と同様に〝心の資産〟をも積み上げてきました。この心の資産を「魂」と呼んでみたとき、人間の魂は、私なりに考えれば、人間の遺伝子(DNA)とイコールに近いのではないかと思うのです。

 人類の心と行動のすべてが、一つ一つの細胞に組み込まれている遺伝子そのものの、大部分を形成しているのではないでしょうか。これについてはもちろん、人類という種に到達するまでの、果てしない生物の精神体である「心性」のルーツに遡らなければなりませんが、人類になってからに絞って考えてみるならば、人間が人間であるための、心と体の生きざまの記憶量が「遺伝子化」したのではないかと考えてしまうのです。

 ナンセンスも甚だしいとそしりを免れないでしょうが、今は、ヒトゲノムが解明されている時代です。遺伝子の数は約2万といわれ、その中で、確かに意味が解明されている遺伝子は全体の2%以下に過ぎず、大部分は何のためにあるのかさえわからないというではないですか。もしかするとそれこそ〝魂のDNA〟なのではないか、これは、ずぶの素人だからおそれもなく考えつくことかもしれません。

 いずれにしても、人の心の記憶蓄積量は、他の生物たちと比べたら、とんでもなく膨大な量になると思うのです。

 一人ひとりのいのちの中は、魂の巨大なダムになっています。その魂が、いのちの光の柱に絡み付くようにして生き続けています。

 いのちの道は一本道です。大調和の光を放つ一本道です。そのいのちの一本道の光の中で、人間の魂は正しい調和安定の波動に見据えられ、かつ、監視・コントロールされているのです。

 「日々の心 四八三」で記したように、母の子宮の中は、母の「呼吸と食」以外は絶対立入禁止の聖域なのです。いのち自身がいのちを育てている聖域なのです。その十月十日とつきとおかといわれる平均期間内で、人が人として再生します。このとき、圧縮し、凝縮された魂も同時に再生の道に入ります。

 その間、母が摂取する「呼吸と食」以外は立入禁止の、いのちの聖域である「子宮」の中で、引き継がれてきた魂のすべても、この世の夜明けを待って、新生児として誕生します。肉体の誕生は魂の誕生でもあります。

 子宮の中では、母がいただく大気の呼吸と食物の摂取によって、

 

いのちによる

いのちたらしめる

いのちのために

宇宙根源からの

生命エネルギーで

ごくごく自然に

肉体と精神の

一元一体の

いのちの姿になるために

その流れを続けます

 

 ひたすら母親は、呼吸の気を送り、生命元素の〝食〟を送り続けての生命奉仕です。十月十日とつきとおかは、立入厳禁聖域となる子宮の小宇宙世界であり、宇宙意志のカプセルでもあるのです。

 そして、機が満ちてこの世に出生した新生児は、やがて、一体のいのちとして、その骨格が完了するのは、男性でだいたい一八歳、女性で一五歳少々に達してのこと。骨の数は、新生児で約三〇〇本、最終的には全部で〝二〇六本〟になるといわれています。

 一生命体が完成するまでの原形は、十月十日とつきとおかの、子宮という小宇宙世界で、その基盤ができあがるわけです。母親の口から入った〝食〟が胃に入って、十二指腸に入り、小腸に入り、分子・原子次元まで分解された物が吸収細胞によって取り込まれ、全身に届けられます。そこでいのちの新陳代謝が起こり、生き生きと輝く命となります。そして、子宮の胎児が育ちます。

 胎児が出生するまでの、この完璧ないのちの組み立ての仕組みは、〝天のご意志〟というほかありません。

 こうして積み上げられてきた人間の魂は、成長とともに、この世のあらゆる心身環境を取り入れながら、扉を一つ、また一つと開いていくこととなるでしょう。

 いのちの監視の中にある魂は、億万年の心の集団です。魂に新旧はないと私は思っています。昔も今もありません。百年前も、万年前の魂も、すべて〝今〟に生き生きと輝くのです。多次元立体ではなく、一次元の、一面一体で同時再生の世界です。

 浮き上がる心の条件さえ整えば、昔も今も越えた次元の〝今〟に生きてくる世界なのです。魂は活火山と同じです。条件を待って噴き上がります。その条件は、今の心でお膳立てをしています。

 「今の思い」という心も亡き魂の心も、すべて、このいのちの中に在ります。いのちの〝原子〟となって生きているのです。

 大地を見てみれば、種を蒔いてもいないのに、いつの間にか思い思いに芽を吹き出した草木がずんずんと丈を伸ばして花を咲かせ、実をつけ、種を育てます。太陽や水などの自然の発芽環境条件を待ちつづけて、いのちに最もよい自然条件の下で顔を出してきているのです。生命波動の共振共鳴の現象です。

 たとえ、何もない荒れ地でも芽を出し始める草木たちの、そのいのちを、自分の中の魂にも重ね合わせてみることができるというものです。自分のいのちを、〝心の大地〟に見立てたとき、その心の大地から多くの魂の芽が、生きる条件を待ちながら、顔を出そうとしています。

 それを〝心のつる草〟にたとえるなら、各人の心の大地から育ち始めている心のつる草は、その人の「縁結びの使者」となって、人生に大きな力となって働き続けることになりましょう。

 この世界の人間のいるところ、どこにでも、心のつる草が縁結びの一大センサーとなって交錯している事実は、目には見えない光の世界です。

 心のつる草は光です。なぜ光なのかといえば、心は、生命組成である原子の反応から発する電磁波と考えるからです。

 心は、いのちという光の下でしか生きられない宿命を背負っています。それゆえにいのちは、一元一体二象体という現れ方をします。いのちは、元は一体のエネルギー体であって、その中では、物質体と精神体という二大特性を持つエネルギーが融合一体となって、動となり静となり、火となり水となり、中心には絶対静のゼロ磁場があると思うのです。その一体の中に二象体のエネルギーを容しているのが、私の考えるいのちの実体像なのです。その〝二象体〟は、物質体(物性=肉体)と、精神体(心性=心)という現れ方であり、その〝精神体〟の部分から発する二次的生命に当たるのが心であると考えています。いのちのエネルギーは、そのような実体像を持つ、宇宙絶対調和力(一大調和ご意志)であると思えば、心というのは常に、生命エネルギーの調和安定に引き戻される宿命の下でしか存在できないということになります。

 

(後略)

 

 

「第一章 心のつる草」一〇〜二〇頁

『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』について▼

 

 

 

 

 

 

 

一旦口から入った食べ物は、人間の自我が立ち入ることのできないいのちの世界

出典『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』「第二章 魂を乗せた一羽の折鶴」p.62

 

 

 

 

(中略)

 いろは姫は一介の主婦ですが、現実生活の中で、数字と文字の世界にアクセスしています。難しい学問世界はわかりませんが、ただ一つ、鉄の一心を持っています。数字と文字を心いただくことのある暮らしの中で、一切不動の鉄の一心を心がけています。そして、共時性現象を

〝食心の目は共時の目〟

という、次元ばなれした言葉で表しています。食こそいのちの根源であり、一旦口から入った食べ物は、人間の自我が立ち入ることのできないいのちの世界。それこそ、ご意志の世界、それをいろは姫は「五一四ごいし」の世界と書き換えています。「ご意志」と書けば、人間の自我が入る世界ですから、それを数字の「五一四」と表現することは、宇宙に通じる意志といえましょうか。

〝食なくてなんのおのれがこの世かな〟

 生き物は食べなくては生きていられません。あまりにも当然すぎる当然のことです。しかし、そこにこそタネ証しの謎があることに人はなかなか気づきません。知性で栄えて知性で滅びては、人間の特性は宝の持ち腐れになります。生きることの次元にこそ、共時性現象(通称=偶然の一致)の謎解きがあったのです。

 いのちは原子です。原子は食です。食に発する原子です。生きることの原子が、全身の中で舞っているから今日も生きていけます。あまりにも当たり前のため、低次元として無視されているわけですが、そこにこそ共時性の目が光っていたわけです。

 つる姫は、ユングと天明を前にして、天の川のことを話し出しました。

つる姫「ユングさんと天明さんは

立場は違っていても

ともにいのちのルーツを求め、

心のふる里を求めてきました

天の川には『天意の法則』がいくつもありまして

その中に

〝一呼一吸天の気

一食一排地の気

天地の気はいのちの食

食はいのちの呼吸なり〟

というものがあります

また、〝食心の目は共時の目〟

というものもあります

どちらも、食はいのち、いのちは食ということになりますが

そこにこそ、宇宙調和のエネルギーの謎があるのです

そして、縁結びの中心エネルギーとなる

「共振共鳴共時の目」があったのです

「目」とはそのものの中心と考えたらよいでしょう

ここで再び〝いのちの舞い〟を出しましょう

 

やまず

やすまず

とどまらず

とんでははねて

はねてはとんで

あっちへこっちへ

ランダムに

信号ないけど

赤・青・黄色

安心安全

原子の舞いは

いのちの喜び

大調和

いのちの原子

大調和

 

食からいただいた原子の世界は

私たちのいのちの中で

いつも引き寄せたり引き離したりして

枠を超えたら引き戻すゼロの力が働いたりして生きているわけです

共時性現象の本質はつまり

食心の目は共時の目

いのちと食は同義と解する

いろは姫の鉄の一心は

天の川の天意の法則にも当てはまっているのです」

と、ここまで話すとつる姫は

つる姫「ユングさんと天明さんに

面白い映像をお見せしましょう

これは、田之助といろは姫の話です

二人は天の川から舟に帆を立てて下ってきました

天の川から心の国へ流れている支流は数多くありますが

二人が乗った舟は

東北の山形県に流れている支流を下ってきたのです

天の川の分岐点には立て札が立っていて

「サイジョウノカワ」(最上の川)とあります

ところが、しばらく下ってくると

ちょうど山形県内に入ったところから急に川の呼び名が変わりました

「モガミガワ」(最上川)となっているのです

二人は、どんどん下ってきて河口の酒田港に到着するのですが

その舟を見ますとまるで宝船のようです

舟一杯に稲穂が積まれていて帆には大きな文字で

「食心の目は共時の目」と書かれてあって

下段一面には聞き慣れない祝詞のりとが書いてあります

変われども、時代変われど、いのちの光

米は変わらぬ永遠とわかて

鶴千年亀万年、稲穂の実りは億万年

人類栄えの糧となる、米が光れば皆光る

おかげで今日も生かされる

ありがとう」

 つる姫の話はここで止まりました。宝船にはその祝詞文字が金文字で浮き立っていて、そればかりか、帆柱のてっぺんには長方形の旗が風にひらひら波打っています。その旗は、金色に彩られた〝米〟の写真でした。それを見た誰かが声を出しました。「あれはユングだ!」

 びっくりしてそれを見たユングが、

ユング「おお、

よく似ているなあ」

と反応すると、こんどは天明が、

天明「本当に

ユングとそっくりだ

さらに神示のイチリンの仕組みの丸の中に点が入った記号にも似ている!」

ユングと天明は一段と共振共鳴していたのです。

 そこに、三心クルーのもじたまの皇子が話に入ってきて、

もじたまの皇子「さっき

声を出したのは私でした

宝船の旗は誰が見てもユングさんに似ているし

丸の中に点が入った記号にも似ているし神示の中心様みたいで

田之助はこの写真のことを

一粒観音様といって大事にしているようです」

と言い、宝船の旗について盛り上がりました。

 酒田港の埠頭は大勢の見物客で大変なにぎわいです。黄金の光を放つ珍しい舟。それは稲穂の光でした。

 米は人間の主食です。生きるためのいのちの機関車です。田之助は酒好きが高じて乱れとなり、いろは姫との葛藤が長い間続きましたが、ようやく生きることの原点に気づくことができて、いのちの真実を求めることになったのです。

 片やいろは姫は、田之助を鉄の一心で守り続ける中で、いのちの真実に気づきました。

 口から入った食物たちは、いのちの光に身を任せ、やがて原子の光に立ち返って、新たないのちの光へと生き変わります。そして、働き終えた食物たちは、外界へと帰っていきます。その一人ひとりのいのちの中で命が新たないのちを育て上げるまでの運びには、いかなる人知も、いかなる自我も立ち入ることができません。立入厳禁の〝聖域〟なのです。

 この聖域の旗印が、帆に書かれている

〝食心の目は共時の目〟

という世界なのです。

 ユングと天明には、新たな驚きとひらめきが交差していました。そして口を開いたのはユングです。

ユング「つる姫様、

ありがとう

単純明快にいのちの中心には食がありました

毎日の食べ物が、いのちとなる次元こそ共時性発生の次元でした

ここにこそ心と物質が融合一体となり生命発生の謎がありました

食って生きる、こんな単純なところに

山ほどの理論を積み上げたことから解放されたような気分です

ありがとう」

と、ユングの目は輝いています。そこに天明も続いて、

天明「つる姫様、

ありがとう

神示の一点が解けてまいりました

食が新たないのちとなる次元

いのちの中心・ゼロ一点の次元が

イチリンの仕組みの「丸の中に点が入った記号」でありました

ここにこそ鉄の一心・食心の世界・共時の世界を見ることができました

扉開きはゼロの目、食の目、共時の目を開くことでした

いのちの真実に目覚めることこそ岩戸開き、そして心の扉開きでありました

ありがとう」

と、二人は、つる姫にその思いを伝えたのでした。

 ユングにも、天明にも、地上社会でのプライドはすべて消えてなくなっていました。

 何もかもが単純明快であり、時間も空間もありません。さらに、すべてが一面一体で新旧もありません。現実には立体に見える物質世界ですが、それを成す精神構造は、極めてシンプルな一面一体の世界と考えられます。岩盤のような魂も、バラバラに分解されて、やがては「真性魂」しんせいたましいの意志基盤に合流します。真性魂とは、宇宙絶対調和エネルギーを、意志性に変換して考え出した表現です。

〝何事も想いが先のこの世かな〟

 地上社会で積み上げた心は次々と魂の集団となり、これが、真性魂に似て非なる「擬似魂」なのですが、その一人ひとりの擬似魂ぎじたましいが、その人の心の遺伝子となり、やがて心の国に入ると、いのちの意志エネルギーに同化されるようになっていきます。生命エネルギーの魂の玉は、丸く削られ、透明な玉となっていくのです。

(後略)

 

 

「第二章 魂を乗せた一羽の折鶴」六二〜七一頁

『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』について▼

 

 

 

 

 

 

 

生命体の見えない体内では、すべてが相互信頼で、すべてが連携プレー/それも正確無比無休で一切が自動

出典『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』「第二章 魂を乗せた一羽の折鶴」p.118

 

 

 

 

(中略)

 

 目には見えない時計の内面が時計の命であり、メカニズムであり、無数の担当部品たちの正確無比無休の働きがあればこそ、表の大針小針で現実を表示します。人体もまた同じことです。体内を構成する億万兆の細胞たち、二〇六本の骨、血管、神経、体液、脳、心臓、肺、食道、胃、十二指腸、小腸、大腸、肛門、膵臓、肝臓、脾臓、卵巣、子宮、睾丸、大脳、小脳、間脳、脳髄、延髄、視床下部、脳下垂体、目、口、鼻、耳、舌、歯、喉仏に気管支、手足の指は二十本、頭の毛数十万本、陰毛、腋毛に胸毛…書きはじめたら何日かかるかわかりません。生命体の見えない体内では、すべてが相互信頼で、すべてが連携プレーです。それも正確無比無休で一切が自動です。内面のエネルギーは唯一点に結ばれています。そしてこの内面が〝心の国〟なのです。時計の針が動くのと一緒で、人々の現実生活が流れている根幹が心の国にありました。心の国の喜びが、自分の喜びの表情となるのです。

 このように、心の国ではそれに気づいても気づかなくても、動きが止まることはありません。止まれば暗黒世界。動きあればこその現実があります。

〝いのちの裏時計〟に気づきはじめたとき、心の扉が開かれてきます。そのとき、万光の輝きとなり、平安の輝きとなり、無益な闘争の火が消える日がやって来ます。必ずやって来ます。

 心の原点、生きる原点を開くことが、天明が取り次いだ日月神示第一六巻でいう、

〝いわとびらきなりなるぞ、

まこといわとはとわぞ〟

これこそが、日月神示の真骨頂でしょう。

 岡本天明が取り次いだ一六年間の神示は主に数字と記号でした。ご縁というものはすばらしいもので、この神示を解読する作業に強力な助っ人が加わったのです。

 昭和三四(一九五九)年七月七日、小田野おだの女史との出会いです。画家、数学者、哲学者といういかめしい肩書を持った偉人でした。

 小田野女史は、日月神示の核心を貫く一本の光は「ことば」(光透波)であると直言しました。「ことば」は神示でいう丸の中に点が入っている記号であり神であるわけです。また、数字のことば「九十八ことば」に展開されます。さらに、九十八の和数は「九」であるとして、九こそ天の意、すなわち、宇宙意志であり、いのちの本質であることを示されました。

 このことを田之助の妻、いろは姫は、「九」を「食」だというのです。九=クをクウにひびきを重ねて「食う」へと展開するわけですが、それほどの違和感はありません。田之助が、タマヒロ社長と会話の後で急に唱えだした〝わたしは原子〟に戻ってみれば、ここでの「九と食う」という展開は自然の流れでありましょう。食といのちの循環リズムの中にこそいのちの本質を探る道筋があるといえるし、食といのちは同義と考えてもおかしくはないのです。

 

一呼一吸天の気

一食一排地の気

天地の気はいのちの食

食はいのちの呼吸なり

 

 食はいのちの呼吸ですから同義同体なのです。

 その「食って生きる」原点にこそ共振共鳴共時性の原理の世界が見えてくるといえます。いのちを神と呼ぶなら、食もまた神ということになりましょう。

 

(後略)

 

 

「第二章 魂を乗せた一羽の折鶴」118120

『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』について▼

 

 

 

 

 

 

 

ひるがえって自分の中の世界を顧みてみれば、人体の一つひとつ、その完成度には神意を感ぜずにはいられません。

出典『富士山と雲と神様』「第十二話 細胞からの三つの願い」p.77

 

 

 

 

第十二話 細胞からの三つの願い

 

私は細胞 微生物

一〇〇兆個の 微生物

私の願いは 三つある

きれいな水と 簡素な食事

そして一つは 調和の心

三つの願いを 聞いてくれ

私は細胞 微生物

一〇〇兆個の 微生物

どうかよろしく 願います

 

 私は私であって私ではない。そんな思いにさせたのは、二枚の写真からであります。富士山と神田川、そして富士山と芝川の写真です。それは単に山と川なのではなく、自然の循環を思い、それに自分のいのちの循環を重ね合わせることができるからです。

 重ね合わせができた時、すべては何の違和感もなく一体になります。何一つかけ離れたものはありません。すべてが、巡りの中で結び合っております。

 それらは自分の外の世界の話ですが、ひるがえって自分の中の世界を顧みてみれば、人体の一つひとつ、その完成度には神意を感ぜずにはいられません。生命の最小単位といわれる細胞は、あらゆる生命機能を備えていて、人体は一〇〇兆個ほどの細胞で構成されているといわれています。その細胞もまた、三〇〇種類近くにも分かれており、人体の各部位・器官を構成しています。細胞一つひとつに聞いてみれば、どこまでが自分であってどこまでが自分ではないのか、さっぱりわからないという感覚なのかもしれません。細胞をさらに細かく、分子→原子→素粒子へと掘り下げてゆくと、その行き着く所は、神であり、神のご意志の次元に入るのではないでしょうか。

 それはさておき。私は私であって私ではない、と感じている私は、一〇〇兆個の細胞の塊であります。

 その細胞たちから私は、「三つの願い」を託されました。それはきれいな水と、簡素な食事そして調和の心の三つであります。

 細胞からのこの三つの願いは、一〇〇兆個の細胞が元気で生き活き活躍できるための必死の願いです。生命の最小単位である細胞は、元気で生きてゆくために私(本人)に向けてこれらの願いが叶うよう、いつも一心にアピールしているのであります。

 

一、「きれいな水」

ここは富士山 富士宮

汚れを知らぬ 神田川

源流いずくと たずぬれば

浅間大社の 庭に湧く

湧玉池が ここにあり

 

 富士宮は清流に恵まれており、神田川、芝川、稲子川、潤井川、そして日本三大急流の一つ富士川が清流を供給しつづけております。「細胞の願い」の〝きれいな水〟に充分応えております。

 

二、「簡素な食事」

一呼一吸 天の気

一食一排 地の気

天地の気は いのちの食

食はいのちの呼吸なり

 

 生きてゆくための必須条件は、食事であります。毎日欠かすことのできない生命を維持する行為であります。入口(食べる口)は一つ、出口(尿と便の出口)が二つの一本道の中で、一〇〇兆個の細胞は、毎日運ばれてくる食物を待っております。

 食はいのちの呼吸であり、生死に直結する行為であります。

 三つの願いの一つ目、〝きれいな水〟は、血流を順調に運び、体のすみずみまで食事を届けてくれる流れでございます。その流れを汚さないためにも、簡素でバランスの良い食事を細胞のいのちたちは望んでいます。

 そのための食事の基本モデルとは、「一日二食」「玄米・みそ汁・納豆・お茶を摂ること」であります(以下の四点は、あくまでも筆者の基本モデルです。体調、嗜好などの個人差は多様でありますから、参考例となれば幸いです)。

■玄米

 二人の一食分として、うるち米一合に水三合を加え、柔かめに炊き上げます。

■味噌汁

 だしと具だくさんの味噌汁です。だしは食べるイリコなど、具は根菜、葉菜、海草など。

■納豆

 黒大豆納豆が好ましい。プラスαでキムチなどの発酵食を混ぜてもよいでしょう。

■お茶

 ほうじ茶、煎茶、抹茶、玄神(ブラックジンガー)など。細胞一つ一つは、最小単位の生命体です。直接本人のいのちを守る最前線で働いています。細胞が活き活きとして新陳代謝が活発であることはすなわち、本人も活き活きしていることと同義なのです。

 

三、「調和の心」

私は細胞 微生物

一〇〇兆個の 微生物

私の願いを 聞いてくれ

どうかよろしく 願います

 

 調和の心とは、何にも片寄らない心です。何かに夢中になることは時によいことでしょう。ですが、それが自らの全てとなり執着となって、排他的になることには、一線を超える危うさがあります。

 寛容度の高い、ひろい心は、細胞に過度の負担をかけません。調和不偏は、いのちに適った心といえましょう。こうした片寄らない心には、共にユーモアの心、遊びの心を忘れぬことも大切です。

 車のハンドルには一八度の遊びがあるといわれます。それは〝間をとる生き方〟にも通じます。偏りのない心で、ユーモアや遊びの感覚を持つことは、細胞に大変有益に働くことでありましょう。

 以上が、細胞からの三つの願いであります。

 

 

「第十二話 細胞からの三つの願い」七五〜八二頁

『富士山と雲と神様』について▼

 

 

 

 

 

 

誰も手をかけることの出来ないウソのない母体の中

出典『至恩通信』平成19年5月23日(旧4/7号(258号)▼

 

 

 

 

(中略)

 

人のいのちの成り立ちは

母胎に宿った 十月十日 八八 八四 で運ぶ 食のみによって 育成生 致します。誰も 手をかけることの出来ないウソのない母体の中 光 恵 恩 実 証す。

いのちの元点を 心に抱いて 一生あらねばならぬ 悟りとなりました。

食なくして 五体は この世に存在出来ません。

この五体は ひかりでございます。と、さとった今、身体をなでながら、ふでに「自分拝まねば どうにもならんことになるぞ」と、示されているのは、このことでございました。

今迄 遠く 天空の彼方に 神を拝してまいりました。

自らの五体こそ、食に生かされている カミ の器でございました。

 

(後略)

 

(注)以上の文は『日月神示』の著者岡本天明氏の妻、岡本三典氏によるもの。右の記述に表れている生命観は、下記『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』「第一章心のつる草」で述べられている。

 

 

 

 

「こころとからだ」各ページ

 

引用・参考図書

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書籍『神秘の大樹 第一巻 偶然が消える時』の詳細・閲覧ページにリンクしています

神秘の大樹 Ⅰ
偶然が消える時

菅原茂/おりづる書房/2011年

 

いまを生きている自分(あなた)自身の存在こそ、肉体をまとい、服を身につけている霊魂そのものだという。 霊魂というと、わが身の外に存在し、わが身の外で起きる「現象」と考えがちだが、そもそもそれは、私たちのからだやこころに内在し、わが身の中で起きていることがらなのである。

 

 

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神秘の大樹 Ⅱ
ヒロシマとつる姫

菅原茂/おりづる書房/2011年

 

縁結びの背景としての心の世界を描くシリーズ第二巻。創作シナリオを織り交ぜた明るい内容の比較的短い物語が主体だが、おそらく全四巻の中で、生命の最も本質的な核心を表現している。自分の心身と深く向き合えるようになるほど、本の内容もよりいっそう理解できる本と言ってさしつかえないだろう。

 

 


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ひふみ神示(上巻)

岡本天明著/コスモ・テン・パブリケーション/1994年

岡本天明氏の「自動書記」による著書。心の目を開いて自己調和に努めるよう人類に警鐘を鳴らし気づきを促す書として知られている。文中には、この神示そのものについて、人としての「道」を示したものであり、特定の宗教として広めてはならないという主旨のことが書いてある。長編であり、難解な箇所もある。諸説あるが、「アレの巻」の冒頭に書かれたごく短い二文(下記)が最も重要な部分だとも言われている。

 

 

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富士山と雲と神様

菅原茂/おりづる書房/2016年

 

この世のすべてが心性エネルギーに満ちているという生命観=宇宙観からうまれた物語。ヒトは万物霊長の存在と言われるが、著者は万物霊の視点で生命世界を観ている。ともすれば私たち人類はあらゆる生物の頂点に立つ最も優れた存在であると勘違いしがちではないだろうか。本作は子どもから大人まで読んで理解できる内容になっている点で、ほかの著作とはひと味ちがう作品。

 

 


至恩通信 258号

岡本三典/至恩郷/2007年

B4版の二つ折りの会報。本号は全3ページ。『日月神示』および『ひふみ神示』に頻繁に出てくる円に点を入れた記号「丸天記号」を間に挟み、『至恩通信』という題名で印刷されている。掲載した資料は、文章終盤に記述されている部分。

 

 

関連ページ

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共時性とは何か

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時空や生死を超え、人種や生物種も超えて、いのちには境界がない証し

 

因果性とは何か

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「因果性」の実際は、それほど単純ではなく、もっと複雑。科学的な「法則」は、限定的な条件のもとでのみ有効だ。

 

偶然と因果

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客観と主観

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自然界と人間とを切り離す「客観」的態度が潜在的に抱えている問題点

 

共時性の真価

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平成5年8月6日、広島平和公園で偶然発見された一羽の折鶴。共時性の真の価値は、それが生命の真実を示していること。

 

参照資料の索引

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「いのちと共時性の考察」各主題の文章作成に用いた参考文献や、理解の助けとなる参照資料を網羅。