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酒乱
米の生命いのちが生きるまで

 

 

  目次

 

序 心の目覚め

 

地獄期

 

酒乱の断末魔

自然界がさとす〝生命いのちの声〟

母の生い立ちと因果の流れ

酒精に呑まれた父

墓の塔婆木とうばぎに化けた魚代金

天に詫びる母

不思議な因縁の組み合わせ

頭上を飛ぶ御鉢

酒乱因子の吹きだまり

慈愛一路で生きた母の最期

母の心残り

目覚めなき、父の最期

酒飲みの血統に向けた神の矢

酒害因子の開花

酒乱人生の開幕

母子心中を超越した〝妻の一念〟

天の啓示に生きる妻

妻子を残して土方三昧

真っ赤に走る一台のトラック

お上り乞食の一夜の浅草

難行苦行の人あれど

久しく燃える酒乱の炎

守護の窓口となった妻と自然律(悪は、この世の仮りの姿)

息詰まる死の恐怖

泊められない宿

酒乱と嫉妬の協奏曲

神の絵図面を歩く夫

噴火口に真っ逆さまの霊夢

神のお膳立て、四十五歳計画

天馬のごとし女神の妻

神と魔の対決

澄みわたる妻と錯乱の夫

妻の〝心き〟(Tさんと日光のサル軍団)

酒乱の先祖おろし

一心同体、生命いのち運命さだめ

千日悲願(米の生命が生きるまで)

神技一瞬、〝やいばに変わる水杓〟ひしゃく

神が手向たむけた女の魔神

 

黎明れいめい

 

地獄に降ろされた御神火

酒乱童子の成仏

心霊へのいざない(死後に残る津波の恐怖)

人間改造への突入

七羽のカラスに襲われたガタガタの体

酒乱の因縁と闘う自己解体

妻との葛藤

浄土へ向けての過渡期

酒乱成仏、息子に残してなるものか

米は、いのちの光

生命いのち

輝け、人生の扉開き

 

むすび

 

 

 

 

 

 

米は、いのちの光

 

 この現実社会にあって、一時、出家の道を真剣に考えたことがあったが、今は、あくまでも、精神性を土台として、現実凝視をして生きることを決心した。

 以前は、現実至上主義で金満家が夢であったが、そこには、大きな落とし穴のあることを知った。ブレーキのない、物質金満の世界には、見せかけの幸せが待っていて、先へ先へと走り、先を見るあまり、どうしても、足元を見失ってしまう人生である。生きる本当の喜びは、なんであるのかを見失っている人がたくさんいる。

 金で、生命いのちが保証されるのだと、錯覚するような人生は、消えていく虹の橋を渡る、虚飾の人生であることがわかった。

 そして、子孫に強欲の因縁、酒乱の因縁、色情、傲慢の因縁を残さず、その他、多くの不幸因縁を、残さぬような人生を生きようと、生きる価値観を変えることができた。

 以前の私は、浪曲『森の石松』ではないが、

「飲みねェー、飲みねェー、酒飲みねェー。喰いねェー、喰いねェー、寿司喰いねェー。……エッ……肝腎な人を忘れちゃ、おりゃせんかッ……」
と、石松ならぬ、大事な大事な生命いのち様を忘れていたのだった。

 生命は、生命でも、酒乱の唄枕に酔いれていた悪魔の生命ではない。ピッカピッカの生命様だったのである。

 

激しき宇宙の 波動はすぎて

ポッカリ浮かんだ いのち星

太古の昔の いのち花

海にいのちの 花ひらき

大地にいのちの 花ひらき

空に大気の 花ひらき

天に輝く 太陽が

ニッコリ笑って 花ひらき

お待ちいたした 人間様よ

ながき世の道 人の道

いのちの天子に 育つ世に

向けて花咲け いのち花

 

生命いのちとはなんぞやッ〟と尋ねても、生命は答えてくれない。だが、一人一人に感じられる生命の響きは必ずある。生命には、声も言葉もないが、絶対なる〝安定調和エネルギーを秘めた意識波動(生命の響き)〟が存在する。

 そして、人間以外の全存在は、自然界の調和エネルギー波動と生命同化して生きている。だが人間は、心のエネルギーを異常なまでに進化させてしまったため、千変万化する自分の心に振りまわされるようになった。

 この人間独自の心(擬似魂)は、生命から送られる安定調和の意識波動(真性魂)をさえぎり、魂の光を曇らせてきた。

 人は誰しも〝心は人間の特権〟であると思い、人間以外のものには、心の存在など容易に認めてはくれない。

 そこで、今、誰かに「あなたはどうして生きておられると思いますか」と尋ねてみたとすると、どう答えてくれるだろうか。おそらく「食べているから生きています」と言うだろう。確かに人間は、食物を食べると血となり、肉となり、さらに心を発生して、毎日を生きてゆける。

 ところが、人間以前の食物生命に、心があるかと聞かれたら、ほとんどの人は、「ノー」というだろう。米や大根、魚や果物に、(意識)があるなんてとんでもないことで、気持が悪い……と言うだろう。

 ところが妻は、この人間以前の、人間を生かし続ける食物の生命、自然界の生命に、心(意識の響き)があることを言い続けてきた。それは、妻の生命の中に、沈黙世界の声が、生きて結ばれるようになったからにほかならない。

 素直に考えれば、「人間を造り上げた食物たちは、人間ができうる可能性の根本要素(物質的、精神的)を、すべて持っている」と思うし、だから、心というものは、人間だけの特権ではなく、人間のような心にはなれなくとも、人間の心の元となる心(調和の意識波動)が、食物一切の生命にもあるといえる。

 さらに、生命界には、〝食物の心の元となる心(宇宙意識)〟があって、その心の元とは、神とも、宇宙心霊とも呼ぶことができる。だから、生きとし生きる生命体の中心を貫く生命は、万物共通だと言ってもおかしくない。

 いわゆる、万物は、宇宙意識を共有している同志ということになり、私はそのことを〝魂の平等〟と思うようになった。だから一心に、〝心を浄め澄ませれば、万物に心が通じる〟ことができると言える。心の元(宇宙意識)は、人間的煩悩心とは無縁の心であり、これこそ人間の心の羅針盤としたいものだ。したがって、食物をはじめ、自然界の一切は、〝生かし続ける愛の師となる心(調和心)〟で溢れている。

 この汚れなき、ピッカピッカの生命いのちに目覚める時、人は必ず己の愚かさに気づいてゆくはずである。

 私たちが毎日当然のごとく食べている米や野菜などに、宇宙意識の大調和エネルギー(響き)を感じながら、安定した心で生きたいものだ。

 大調和のエネルギー(米、野菜など)を食べて、不調和な心(片寄りの心)を持って生きるなら、病気にもなるだろうし、不幸を招くのも当然である。私の酒乱地獄はその典型であった。

 言い換えれば、一連の不幸性は、人間となった米、野菜たちの生命の叫び と言える。

 それでは、次に、人間の生命の光となる稲穂の喜びを、妻の心いただきの一節から紹介したいと思う。

 

カエルの声 はげましを

稲の心は はぐくみあう

緑すがたの 成長期

 

カッコウの声 勇ましく

育成のありがたさ

愛は稔り

 

朝日に開く 稲の花

セミの声聞く 夏のあい

 

青空に 祭り太鼓の音聞くも

心ごころの 稔り待つとき

 

秋のみのり 黄金の稲穂よ

小鳥の声に 喜びの揺れ

 

一粒のいのちにかけた花の木を

恵みの愛が 守る神

 

土の心 水のいのち 守りあれ

稲の心と 人生の開花

 

 米は人類究極の食糧となるであろうし、また、純日本風の食事こそ自然性にかなった、最も調和のとれた生命の救済となるのではないかと思っている。

 このうたは、昭和六十二年十二月六日、妻が映画鑑賞中に暗闇の中、手探りで綴ったものである。『牧野村物語―一〇〇〇年刻みの日時計(山形県蔵王)」という、米作りに生命を賭けた映画であった。

 

米のうた

 

もみをぬがれて 白い肌

水でとがれて 丸裸

釜に入れられ スイッチオン

今日も輝く ダイヤの光

感謝せよとは 言わぬけど

米の尊さ 今一度

 

んで呑まれる このわたし

じっくり思う 胃の中で

今からわたしは 人間に

なって生きるを 誰が知る

知ってくれとは 言わぬけど

米の尊さ 今一度

 

りに煉られる 胃の中で

次は全身 いのち旅

隅の隅まで 血となりて

肉となりゆく 流れ旅

わかってくれとは 言わぬけど

米の尊さ 今一度

 

五体になった 米いのち

正しく生きろと 叫ぶけど

人の心は 破れ耳

米のわたしを 閉じこめて

飲めや歌えの 浮世花

米の心は 誰が知る

 

いのちの親から いただいた

〝米〟という字の 素晴らしさ

いのちの真実 生きている

〟と

〟の文字

〟の文字

プラス(
マイナス(
調和のいのち

〟の文字

〟の字

〟の文字

八字であか す米の愛

 

米のわたしを 知るならば

人の不幸は ありませぬ

宇宙天地の 調和の愛を

背負って生きる 大使命

人の心に生きるまで

人を愛してきないわたし

人の心に生きるまで

人を愛して 尽きないいのち

 

 米は食物の先頭に立って、心をさとし、調和の愛を使命として人間を生かし続けている。そして、人類の果ての果てまでも、人を造り、人を守って、運命を共にする。

 米は、正しく神の申し子であり、〝生命いのちの光〟である。

 

 

 

 

 

 

生命いのち

 

 悪魔に乗っ取られた酒乱の私でも、ピッカピッカの生命いのちが宿っている。この生命こそ、永遠不滅にして、宇宙創成の原点に結びついているものだ。見た目には、一人一人は別個の生命体である。だが、それは単に肉体だけのことで、みなさんも、私も、たとえ親子でなくても、生命に関しては、すべてつながっている。そして、それは人間ばかりでなく、天地万物の全生命は、相互に関連のある生命ではないか。

 このことは、自分の存在を考えたなら、すぐに理解できることだろう。この自分は、どこから生まれてきたのか。もちろん、父母からに決まっている。では、その父母は……。そして、その上は……。そして、また、……。その上の父母へとつながって、ついに、人間以前の生命体へつながっていく。

 そして、我々人類こそ、地球上で最も遅く誕生した生命体なのであると思う。宇宙と太陽、海の幸、大地の幸、万端が整った時、〝星の王子様〟として誕生した。その生命の糸は、人間が生まれ出る以前の、諸々の生命たちへとつながって、ついには、宇宙創成の原点の〝生命の親様〟へと結ばれていくことがわかる。

 だから、自分という一個の生命体の中には、まぎれもなく、何億万年の生命いのちの歴史が刻み込まれていることになる。それぞれの遺伝子の中は、生命博物館のようなものではないか、と思われる。私は、自分の意識改革を実行する中で、この生命の流れに、本当に感心した。全人類を一本の生命いのちと見て、そこに花を咲かせている梢の先々が、我々、現世の人間の姿と見たのである。

 私が、狂った果実となったことは、心という生命の養分が、祖先のどこかで、誰かが狂わしてしまったのだと思う。だから、私の身体に黒い花を咲かせ、黒い果実を実らせた。この生命の、心という養分を変えない限り、いつまでも、どこまでも、子孫の花が狂うのである。どこかで、誰かが、心の養分を自然体に戻してやらなければ、子孫のみんなに、迷惑をかけることになる。

 代々引き継がれた心の歴史(潜在層)は、次第に、ひとつの生命体として、独り歩きをし、それが、現在の自分を操作支配する力となる。そして、今の心の習慣が、積もり積もって、自分を、さらに、子孫を支配する心の生命に育つ。自分の過去の心、祖先累々の心が、ビックリ箱のように、現在の自分の前に躍り出てくるという仕掛けであると思う。

 こう考えてくると、勝手気まま、好き放題に、不調和な心を発散し続けてはならない。日頃の心の習慣が、ルーズになってくると、自己管理が不可能となって、人霊世界の思うままにされてしまうのだ。

 だから、酒を一杯飲むと、過去前世の悪心、亡者が小躍りしてやってくる。心の世界には、時間、空間はなく、一面的、一本直通だから、一瞬にして現われる。こうして、生命いのちを伝って、全方向から、飲み足りない亡者の援軍が集結することになる。もう、こうなったら、現世の自分は、ブレーキなしの車が、下り坂を走るようなものだ。

 ある日、妻が、こんなことを言った。

「お父さんが、少し飲み出すと、この世で飲み足りなかった人たちが、いっぱい集まってきます。〝もっと飲め、もっと飲めッ〟と、集まってくる。だから、お父さんであって、お父さんでなくなるのです」

と、言ったことが、今になって、そうであるとはっきり実感できた。

 その亡者に対抗するためにも、日頃の自己管理=意志力が、いかに重要であることか。日々の心の習慣が、いかに重要であることか、身にみてわかった。七羽のカラスから攻撃を受けながらも、身心をバラバラに分離、組立てることになった理由も、そこにあった。

 私は、身心に荒っぽい修行の負担をかけ、また、実際に、多くの修行体験もしてきた。危険な試行錯誤を続けた人体実験は、生命いのちに対する不調和な行為だったと思う。この自己改革の執念は、死にもの狂いだった。人の道をはずした者が、道をはずしたことに気づかされ、子孫には、この因縁を流してはならじと、その一念が、今は、人の道をはずすことなく、生命いのちの光が輝くように祈る毎日となっている。

 

いのちは ピッカピッカ輝く毎日だ

今日も、明日の一日も

手つかずのいのちの日めくり

ピッカピッカ輝く

いのちの世界が待っている!!

 

 

 

 

 

 

輝け、人生の扉開き

 

 人の道をはずしてきた私は、人の道に目覚めることができて、なにがわかったか。それは地べたにゴロゴロと転がっている当たり前のことがわかったのである。

〝心の習慣と毎日の行ない〟が、どんなに恐ろしいことで、そして、どんなに素晴らしいことかがわかったのであった。子供でも知っている、〝いい心、悪い心の習慣〟が、運命を支配するになるということである。現代は、スピードの時代で、速効性がないと見向きもされないが、そこにこそ危険な落とし穴がある。不在の暴走が、実に、恐ろしい。

「三つ子の魂百までも」と言われる。これを〝三日の習慣百までも〟と言い換えたいほど、心の習慣性は、独り歩きが上手であり、その成長も実に早い。

 私は、善い心と悪い心の基準は、なんであるのかと考えた。生命いのちに即した生き方が善い心であり、人の道だと感ずることができた。酒を飲んで、安らぎ、喜ぶ心は、生命いのちに即した善い心であり、酒乱が人の道をはずれた悪い心であるのは当然のことだ。

 それでは、生命とはなんであるのか、と考えた。そして、それは、代謝力(数的バランス=数霊かずだま)を基調とした、絶対的安定力を持った、永遠の意識体であると思った。

 だから、生命は熟睡の時でも、無意識下であっても、眠ることなく、夜も昼も目覚め通しで、我々を守ってくれている。生命いのちは、ひたすら、〝生かして、生かして、生かし続ける意識波動〟だ!!

 だから、病気から立ち直るのも、精神的に立ち直るのも、運命を変えていく縁の力も、みな、この生命の愛があるから、安定調和の生命に戻ることができる。また、自然治癒力こそ、生命の安定調和力=生命力そのものだと思う。

 この、宇宙意識といえる生命力の具象化こそ、天地万物、食物一切の姿であり、この生命力は、万物を生かし続ける意識波動(沈黙の声)とも言えるから、その声なき声の響きを感じて、その愛のさとし、教えがわかる次元まで、心を裸にして生きていきたい。

 けわしく長かった酒乱峠も、どうにか越すことができた。

 ハッと気づいた時、私は妻に手をひかれていたのであった。以前の私とは反対の立場になっていたのである。

 妻は、私の妻でありながらも、単に一人の女性ではなくなっていた。男と女が融合一体となって、「両性を超越した宇宙心霊の次元を歩いていたのである。米や野菜などの心と一体になり、山川草木、自然界の黙した生命いのちと融合一体となり得る〝いのちの芯〟を歩く女性になっていたのである。

 この自然界は、調和の響きで充ち溢れ、安らかなハーモニーとなって響きわたっている。妻は、この生命いのちのハーモニーを、声なき声の意識としてとらえるようになった。

 では、ここで生命というものをもう一度まとめてみたい。それは「のエネルギー」と「のエネルギー」が融合一体となり、その代謝力(数的バランス=数霊)を基調にした姿ではないかと仮定したのである。

 生命の安定調和エネルギーは「火の力」と「水の力」の〝一元二体〟の姿のようなものだ。あたかも一卵性双生児のようである。元は一つながら、相対的(二体性)に作用し合う、大バランスの生命循環だと思った。これはあくまでも、イメージの上での仮定である。このことを私は、「生命8字環流」または「生命8字」と呼んでいる。

 この「生命8字」は、一個の細胞の世界から宇宙の果てまでも、大バランス(大調和)の作用となって働いているのであろう。

 男と女、表と裏、陰と陽、破壊と生成、動と静……無限的に融合一体となって作用している。そして、無数の縁エネルギーとなって作用する〝 プラスマイナス〟、そのプラス因縁波動とマイナス因縁波動が縁となって、安定調和力が働き続けながら、永遠の流れとなっていく。

 人類の世界も諸行無常だ。常に試行錯誤の連続である。国民一人一人の幸せのために、また、国家安泰のためにと、平和を目的に、人間同士の激しい殺戮さつりくの流血を伴って変化する。人類には、絶対的調和は望み得ないのであろうか。

 平和を願って試行する。そして錯誤と修正の中で、時代の潮流はつくりあげられてゆく。右へ、左へと蛇行しながら、人類の流れは天地狭しと揺れ動く。そこには、悪意に染まった時代とてない。皆、平和のために闘うのである。皆、正しさのために闘うのである。正者と正者が闘う、摩珂まか不思議な人間の世界である。

 それは、生命いのちから発せられる調和波動のうねりともいえる。宇宙生命の安定調和力が働くかぎり、人は個人なるも、国家なるも問わず、調和の道に引き戻されてゆくと信ずる。

 私の酒乱も、人々の悩みも、非行も、男女の乱行も、国家の横暴も、家庭の不和も、必ず引き戻されてゆくものだ。

 いつか必ず、正されていく人間、そして、人類。その調和の使者は目を光らせてきた。今日も、昨日も、明日なる一日も、そして手向たむける縁の早技。縁は生命いのちの調和力となってやってくる。それは、自分の原因性=心で呼び寄せたものだから、決して、いかなる縁をも嫌わずに、善い縁の時は感謝をし、具合の悪い縁の時は、己を見つめるよいチャンスと思えば、目の前のもの一切に、にが虫を噛みつぶしたような顔はなくなる。

 酒乱の父に母が、酒乱の夫に妻が、調和の使者として尽くしてくれた、八十八年間の苦労に、改めて礼を述べたい。

 

ありがたきかな 天の幸

ありがたきかな 地の幸よ

めぐるいのちの 浄土の光

運べし縁の 自然力

忘れてならぬいのちの力

今日は私か 明日は誰

めぐるいのちの 糸車

いのちの真実 歩くなら

これぞまことの 人の道

 

 目覚めて生きる今日の一日、そして、今日を生かし続ける食物の生命いのちたちは、

〝争いも、憎しみのかけらもなく、みんな一同、この体の中で、仲良く、睦まじく、唄い、踊り、生命いのちの響きが、鳴りわたる〟

 だから、今日も生きられる。

 私と思う生命は、本当はを代表とする食物たちの、複合生命体(調和エネルギー=宇宙心霊)であったのである。

 

声も言葉も ないけれど

黙して語る、米いのち

心澄まして一心に

内なる耳を 澄ます時

語ってまない 米いのち

調和の真実 鳴りまん

人の心の 原点を

師となり語る 米いのち

人間以前の 真実を

あかしつづける 米いのち

天に恥じない 人の道

さとしつづける 米いのち

米に恥じない 人となれ

酒に恥じない 人となれ

米の調和(心)を 信ずれば

道を外さぬ 人となる

米の心が 生きるなら

喜びだけの 人となる

 

 体の中から、〟となる声が……。共に生きて、生かし、そして、喜びに触れ合う幸せの声が。妻は、この人体の源を造っている沈黙生命とともに、その愛と和の、呼びかよう日々をおくる。

 

米のいのちに 笑わるな

汚れを知らぬ 米いのち

酒のいのちに 笑わるな

汚れを知らぬ 酒いのち

米のいのちが わかるまで

酒のいのちが 生きるまで

育て導く 酒乱のいばら

飲ませ続けた 命綱

 

 春日和のある日のこと、妻は、電話でこんな話をしていた。

「精一杯、体当たりで、生きていくことです。後は、神様が教えてくれます」と。

 そうだ。これからは、生命の光に恥じない人生を、精一杯、体当たりで生きねばならぬ。そして、子孫には、善い習慣の波動を残してゆこう。

 これからが、生きることの本番だ。今、やっと、人生の扉開きができあがった。

 

 

 

 

むすび

 

 私は今、酒乱物語を書き終えて、これで丸裸になったと思っています。これまでの、ドロドロへばりついていた諸々の執着が、ほとんど崩れ落ちたと感じています。

 心を浄めるために、ずいぶんと荒っぽいこともやりました。そのため、本書の中にも、四角ばったことや、理屈っぽく、偉そうなことを書いてしまったかも知れません。それは、悪性に対する激しい義憤から出たのも事実です。

 今は、そうした気負いも、極度に薄れてきました。それは、生命いのちの真実が見えるところまで来たからではないでしょうか。

 毎日毎日、飲んで、食って、寝て、たれて、むき出しの欲望に生きる人生からは縁遠い日々となりました。

 絶妙なる、大バランスの生命世界に魅せられることとなり、これからは生命をテーマにした人生を歩みたいと考えています。

 また昨今は、人様の幸せを念ずる心が湧くようにもなりました。

 過日、宿泊したホテルでのこと、隣りの部屋では酔客たちの醜悪な会話が一晩中続いていました。それでも私は腹も立てずに、むしろ念ずる心を持つことができたのです。

 

米のいのちが 生きますように

酒のいのちが 生きますように

いのちの光が 輝きますように

いのちの愛が みなぎりますように

いのちの調和が ひびきますように

 

と、何度も心の底から念じました。

 すると、不思議にピタリと静かになったのです。

 この時私はただ念じたのではありません。下腹部に両手を当ててお願いしたのです。下腹部には、「稲穂(米のもみ)と太陽の写真」を肌身離さず付けているのです。妻が一カ月前に作ってくれたものです。

 米のもみは、条件次第では不滅のエネルギーを発揮します。何千年っても発芽すると言われております。

 米は、宇宙生命エネルギーの波動(意識の響き)そのものであり、人類に授けられた究極の救い主であると考えます。

 一粒の米には、広大無辺の宇宙生命感が溢れています。そして、米や食物たちは、まさに沈黙のブッダでもあるのです。

 私は、自然界の〝いのちの光〟を、米(酒)を窓口として学ぶことができました。

 ご縁の皆様の心に響くものがあったでしょうか。一片なりともあり得たなら幸いです。

 ここまでくるには、自然と共に生きる妻、富美子の、命賭けの守りを受けてきました。その守りがあったからこそ、ここまで心を浄めることができました。改めて感謝します。

 また、理解できず、いろいろと批判されながらも、妻を信じて見守ってくれた方々にこの場を借りて心から感謝いたします。

 さらに、今回の出版の機縁として、㈱東京経済・渡辺勝利社長との心霊的出逢いに導いてくれた心々に感謝申し上げ、そして、社長の人間味溢れる真心に改めて感謝いたします。

 また、乱暴な素人文章を終始ご指導の上、忍耐強く編集されたMBC21の大脇編集長をはじめ、スタッフの皆様に心からお礼を申し上げます。

 本当にありがとうございました。

 

平成五年一月十一日

菅原 茂

 

 

 

 

 

 

菅原 茂(すがわら しげる)

 

 昭和9年9月、山形県に生まれる。

 県立酒田商工高等学校卒業後、農業協同組合に就職。在職中、酒で問題を起こし退職。以後数年間、土木作業員として働く。

 その後、ビル専門防水工事請負業、旅館業、不動産取引業を経営するが、酒乱のために、昭和61年、事業はすべて廃業。

 やがて自己に目覚め、生命世界の研究に取り組み、現在に至る。

 

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