ウェブサイト版

図・写真を除く文章のみの掲載。

富士山と
  雲と神様

 

 

 

第十七話 カマキリライダー富士をゆく

 

 富士山上空をかすめるようにして、雲に乗ったカマキリライダーがやってきました。カマキリ念願の富士山探訪となったのです。

 憧れの富士山に向けて、情念あふれる思いのほどを歌詩に託して伝えようとしていました。それは「三角の想い」といいます。

 

一、富士山大好き 三角美人

わたしゃカマキリ 三角美人

顔は三角 心は丸い

体細いが 心は太い

太い心で 食欲旺盛

うちの旦那を 食べたいほどに

愛してやまない カマキリ女房

カマキリ、カマキリ、恋女房

 

二、富士山大好き 三角美人

夏は日焼けて 肌黒美人

冬は雪肌 色白美人

夏はのり巻 三角おむすび

冬は真白い 三角おむすび

わたしゃ 三角さかさま三角

わたしゃ気強い 三角美人

富士さん好き好き 好きなのよ

 

 唄い終ったカマキリライダーは、記録の写真を残してくれたカメラマンの田之助に、軽くウインクをしながら、いずこともなく飛んで行きました。

 こうしてカマキリのいのちは、雲のいのちに同化して、水の精霊へと還って行ったのであります。

 

 

 

 

 

 

第十八話 火の神と水の神の郷愁 —— 宇宙は二層の卵

 

 天青く静かに澄みわたったある日のこと、火の神様である富士山に、雲に乗った水の神様が訪ねてこられました。火の神と水の神は、元神様の双子のお子でございます。火の神様、水の神様という二大生命エネルギーは、いのちのルーツの原点でありますから、太古の宇宙時代が懐かしく湧き上ってきたということでございます。火の神様、水の神様は話に花を咲かせ、懐かしい原始の宇宙時代を語り始めておりました。

 火の神様、水の神様の知っている、宇宙の原始の姿は、外宇宙と内宇宙からできている二層の卵であります。それは精神宇宙と物質宇宙の二層であり、煉りに煉られて時空を超えて、いのちの末裔である人類に至るまで、一三七億年というはるかなる道程みちのりのドラマであります。〝燃えて燃えて火の神燃えて 鎮めて鎮めて水の神 二大生命煉りに煉る〟。大調和のいのちでございます。

 富士山で出会った火の神様と水の神様は、いのちのふる里が懐かしく、原始のいのちが懐かしく、太古の宇宙への追憶に思いをはせるのでありました。火の神様、水の神様の語りを以下にまとめます。

 

太古の宇宙からの神の誕生

 太古の宇宙。それは時空を超えた世界、生命の洪水であった。

 暗黒の渦は沈黙の轟音の中で煉りつづけられている。

 何かを創成しようとする恐ろしいほどのエネルギーが、次第に無気味さを加えながらあやしく輝くさまは、神の誕生そのものだ。神は悶え喘ぎ、苦しみながらも生命を形づくろうとする。

 だがその精進や努力は、地獄の中に吸いこまれ、打ち消されていった。

 神は、生命を生み出す重圧にあらがうすべもなく、ただ日は打ち過ぎてゆく。

 神にまさる力とはいったい何なのか。それは、魔の霊力である。太古の宇宙でみられるのは、暗黒の中で繰り広げられる、二大生命エネルギーの巨大な渦潮だけであった。そこには始まりも終わりもなく、時を超え空間を超えて、ただ巨大な生命の渦だけが激しさを増してゆく。そしてその両極にあるエネルギーが、何かを目指していく。二大生命エネルギーとは、具現化のための「生成エネルギー」であり、それを破壊しようとする「消滅エネルギー」であった。この二大生命エネルギーの進化と退化のドラマが、太古の宇宙の生命世界であった。

 生成と消滅のドラマが一〇〇億年単位のもとでくりかえされることが、宇宙の新陳代謝である。この巨大宇宙では、はっきりとした「意志の存在」を否定することはできない。その意志とは? それは新しきものを造り出そうとする創造の意志である。それはまた宇宙生命ご自身の一大進化の幕開けでもあった。

 

二大生命エネルギーの拮抗

 この二大生命エネルギーの潮流の拮抗は、絶えることなく続いていた。だがその進化の中で、両極のエネルギーには次第に勢力の転換がみられるようになった。その頃、巨大原始宇宙は無数の胎児を宿していた。

 原始宇宙時代の二大生命エネルギーの勢力は、消滅エネルギーが「六」で生成エネルギーが「四」の対比であった。ところが宇宙生命の進化が進むにつれて、その勢力比が五対五に変り、消滅エネルギーは次第にかげりをみせ始めていった。

 さらに進化の歩みは止まることなく、ついにその勢力は逆転することになった。生成エネルギーが「六」で消滅エネルギーが「四」となったのである。と同時に、この暗黒宇宙には、多くの光明が輝き始めた。生成エネルギーが消滅エネルギーを凌ぐ勢力となり、無数の星々が創造したからであった。それは、物質宇宙(内宇宙)の夜明けであったのだ。

 

いのちの両輪を思う

 光り耀かがやく現宇宙は、生命進化の絶頂のようにもみえる。だが、陰の存在となった消滅エネルギーは、決して油断ならぬものだ。なぜか? それは絶対調和安定エネルギー(外宇宙の根本エネルギー)の統御下で、すべての潮流は動いているからなのだ。

 地球は青く澄みわたり、太陽は黄金に輝きみち、神の饗宴に湧く我らの宇宙。それは物を育み、愛の加護を告げてくれる生命の生成力である。だが、その育ての愛がこの世にすべてとなることは決してあり得ない。

 常に生成と消滅という両極の中で、消滅エネルギーの存在はなくてはならない牽制カである。だが、消滅エネルギーがむやみに増大すれば、暗黒の道へと転換することになる。

 生成エネルギーを進化の道とする時、それは〝神(光明)〟であり消滅エネルギーを退化の道とする時、それは〝魔(暗黒)〟と呼ぶことができるであろう。

 神と魔は、生命の表裏一体の存在であり、決して切り離すことはできないものだ。不離一体、融合一体で、相互に関係しあった〝いのちの両輪〟なのである。神の勢力が優勢であるのは、光明宇宙の原理であり、消滅エネルギーが増大すればこの原理は崩れ、この世から星星が消えてゆくという太古の暗黒時代に還る流れとなる。だが、それは宇宙再生の暗黒のドラマなのだ。生あるものは必ず消える明暗のドラマなのである。早かれ遅かれその中には、この世の一切が入っているのである。

 

 物質宇宙(内宇宙)にも寿命があり、人間の寿命と変わりはない。たかだか一〇〇歳ほどの人間の寿命サイクルとは違ったとしても、物質宇宙(内宇宙)でさえ、二〇〇億年ほどの単位で生成・消滅をくりかえすのであろう。

 暗黒から光明へ、光明から暗黒へ……、生まれて死んで、死んで生まれてを繰り返す。死は消滅であり、生命体から元素へ、元素はまた生命体へと生成(再成)するのである。

 死(消滅)は厳粛にして尊く、生命存続のバックボーンなのだ。

 ここで一息ついて、一篇の詩を挿入します。

 

「生と死と八分咲」

死ぬのはいやだ

死にたくないよ

無情の風が吹きすさぶ

あの人この人いつしか消えた

やがてくるくるおいらの番が

無情の雨は音もなく

死んで消えゆく定めとて

辛いよ怖い未練が残る

病んで死ぬならなお辛い

連れて行ってよ

死のない国へ

どうか神様たのみます

聞かれた神様

二つ返事でつれ去った

連れてこられた死のない国へ

ここは天国極楽浄土

病がないから医者いらず

百歳すぎて千歳すぎて

万歳すぎて溢れるいのち

魚は泳げず飛ぶ鳥飛べず

草木はギシギシ人は動けず

助けてください

死なせてください

連れて行ってよ

死なせる国へ

どうか神様たのみます

聞かれた神様

二つ返事でつれ去った

死なせる国は

七色八色

寿命の花が咲き乱れ

不足と思わず八分咲き

草木の花は八分が見ごろ

いのちの食は八分が薬

人の交わり八分が手頃

せめて寿命は八八米寿

お前もおれも無理せず八分

文明文化は急がず八分

二分はいのちの潤滑油

余裕で生きる八分咲

この世は天国八分咲

 

* * *

 

 物質宇宙(内宇宙)の生成・消滅の二大生命エネルギーが調和安定するには、それを統御する根本エネルギーの存在が必要である。それが「外宇宙」である。

 だからこそ宇宙は、〝外宇宙と内宇宙の二層の卵〟である必要があるのだ。外宇宙は「精神宇宙」であり、〝絶対調和意志エネルギー〟が、その根本エネルギーである。それは絶対静の、絶対無(ゼロ)の慣性場である。

 外宇宙は精神宇宙であり、調和意志エネルギーなのだ。ゼロという安定に還るための代謝エネルギーなのである。

〝生成は火の力で消滅は水の力〟と表現することもできる。〝火と水〟は、まさしくいのちのふる里なのである。

 

 

 

 

 

 

第十九話 フジ子姉さんと雲右ェ門

 

 カラスの小太郎が、一通の手紙をくわえて富士山麓の雲スクールに向って飛んできました。カメラマンの田之助から頼まれて、雲右ェ門校長に届けに行ったのです。

 ようやく校門前に着くと、折よく外出先から戻られた雲右ェ門校長とばったり出会いました。お互いに昔からの顔馴染みですから、直ぐに雲右ェ門校長が声をかけてくれました。

「小太郎君どうした?手紙を持ってきたのかね」

そう聞かれたカラスの小太郎は、

「はい、田之助からの手紙です。雲右ェ門校長先生からの返事をいただいてくるようにと、言われたんです」

と、手紙を手渡したカラスの小太郞は伝えました。受け取った雲右ェ門校長は、カラスの小太郎を校長室に待たせておいて、手紙の内容を読み始めました。

 

 

雲右ェ門校長殿

 ご機嫌いかがですか。長らくご無沙汰いたしました。暑さも盛りとなり、毎日がご多忙のことと存じ上げます。

 ところで、夏場になると心配なのが、フジ子姉さんのことでございます。

 雲右ェ門校長とは、従姉同士にあたるフジ子姉さんは、地球誕生以来の同志として、ご活躍されておられます。ご両人は、火の神様、水の神様の末裔として、元神さまからは、地球の特命大使を任命されておられます。

 そのことを知っている僕は、この頃めっきりフジ子姉さんのうつむき加減の寂しそうなお姿を見るにつけ、心が痛みます。毎年のことですが、今年は特に暑さが厳しいこともあって、とりわけ痛々しいのです。夏場の二ヶ月間は、あまりにも長く感じられてなりません。そこで思いついたのは雲右ェ門校長にお願いをしてフジ子姉さんを元気づけるために、一肌脱いでいただくことてす。以下にそのご提案申し上げる次第です。

 雲スクールの生徒たらによる〝アシカ・ショウ〟を催してはいかがでしょう。

 フジ子姉さんは火の神のご出身です。火の神を鎮めるには、水の神のご出身である雲スクールの皆さんが最適でございます。

 雲右ェ門校長がご存知の通り、フジ子姉さんの夏場の悩みの最たることは、〝肌荒れ〟なのでございます。フジ子姉さんにとって、肌荒れこそ心痛の極みでございます。

 この用件は、急を要することなので文章にして、カラスの小太郎に届けてもらいます。何卒よろしくお願い申し上げます。

田之助拝

 

 

 田之助の手紙を読み終えた雲右ェ門校長はフジ子姉さんの悩みが身に沁みてきます。

 ここで、雲スクールの校長として、これまでにもフジ子姉さんには出来うる限りのことをしてきたつもりでしたが、昨今のフジ子姉さんが、田之助が言うような姿になっていることまでは、気がついていなかったのです。

 今回の田之助の提案はあまりにも奇抜で、思いもつかぬことでした。天空に海を演出して〝アシカ・ショウ〟を催すのは、もちろん雲スクールとしては初めての試みとなります。

 フジ子姉さんも、アシカ・ショウを目の前にしたら、何もかも忘れて、きっと喜んでくれるにちがいない。そう思うと、雲右ェ門校長は、ここで一肌も二肌も脱いで、フジ子姉さんを慰めたいと決心しました。そこで雲右ェ門校長は、田之助に返事を書く前に、フジ子姉さんに一言、田之助の思いを伝えておきたいと思ったのです。詳しいことは省略して、

  • 田之助が、心配していること。
  • フジ子姉さんに元気を出してほしいこと。
  • フジ子姉さんの喜びそうなことを考えていること。

 以上の三点にしぼって手紙を書いて、カラスの小太郎に届けてもらうことにしました。田之助には、フジ子姉さんの返事を待ってから書くことにしたのです。カラスの小太郎は、お安いご用とばかりに手紙をくわえて、フジ子姉さんのもとへと飛びたちました。

 手紙を受けとったフジ子姉さんは、その手紙が雲右ェ門校長からと知って、胸をわくわくさせて読み、驚かれました。田之助が、夏場の自分の姿をこれほどまで気遣ってくれていることを知り、目頭が熱くなりました。田之助の心配は、的中していたようです。

 田之助の考えていることを知り、フジ子姉さんはようよう、田之助からのプレゼントが気になり始めておりました。そこでさっそくフジ子姉さんは、雲右ェ門校長に返信を書いたのであります。

 

 

 雲右ェ門校長さん、今回はお手紙ありがとう。今年は特に夏場の暑さが厳しいようです。特に世界の宝となったことも重なり、何故かしら肌荒れが一段ときびしゅうございます。カメラマンの田之助さんに、よく気づいてくれました。火の神の子ですから、暑さはよしとしても肌荒れが一番の悩みです。とはいっても夏場二ヶ月の辛抱ですから、今少しの我慢と思っていたところなのです。

 ところで今回のお便りでは、喜びのプレゼントをいただけるとのこと、楽しみにしてお待ちいたします。

 それからね、最後に雲右ェ門校長さんに私の駄作をのせておきました。

〝近くでみられりゃ 恥かしい わたしゃアバタで 恥かしい(笑)〟

 

 

 フジ子姉さんは、カラスの小太郎に手紙を渡すと

「小太郎さん、たのむわよ。校長さんに届ける時には、田之助さんにもよろしくと、伝えてくださいね」

 このフジ子姉さんからの返事をきいて、いよいよ雲右ェ門校長は、田之助の提案に一肌も二肌も脱ぐことにしたのであります。

 田之助からの提案一切を承諾したことを手紙に書き、届けてもらうことにしました。こうして、カラスの小太郎は、田之助に手紙を届けて無事大役をはたし終えたのであります。

 そして雲スクールでは連日連夜、雲右ェ門校長による猛特訓が始まっていました。催し物のメインは、アシカの曲芸であります。それは、雲の玉を幾重にも口先でとらえては飛ばし、飛ばしてはとらえ、また飛ばすものでした。アシカにとっては、動きのある動作はたいそうむずかしいもの。何度も挑戦をつづけるメタボ姿の生徒たち、一心に汗を流しながら、いよいよ本番の日を迎えることになりました。

 

 平成二十七年(二〇一五年)七月十五日、深く澄んだ青空は、海の中そっくりです。この記録は、カメラマンの田之助が担当しました。

 天空いっぱいに、雅楽の曲がひびきわたり、同時に三発の号砲が大地を震わせて打ち上げられました。

ドーン ドーン ドーン

 耳元の騒ぎに驚いたのは、富士山の最も高いところでうたたねをしていたフジ子姉さんであります

「こや なにごとぞ」

と、観音開きの窓を開いてみると、直ぐ目の前で、雲のアシカ君たちが曲芸を始めております。曲芸に見とれていたフジ子姉さんは、ふと思い出しました。先日の雲右ェ門校長からの手紙にあった催し物が始まったのだとわかった時、フジ子姉さんは窓から身を乗り出し、うっとりと溜息をつきながら見とれておりました。曲芸のクライマックスは、富士山ほどもある大きな雲の玉を、アシカ君たちがいとも軽々とひょいと飛ばしては受けて……、という動作を何度も繰り返し、七、八個もの雲の玉を次々と回しながら、雅楽の曲に合せて操る芸当でした。

 フジ子姉さんがわれを忘れて見とれているその時でした。アシカ・ショウの音楽が変わったのであります。雅楽から管弦楽による曲になったかと思うと、今度はその調べに乗ってフジ子姉さんの目前に現われたのは、渦巻雲に乗った雲右ェ門校長でありました。

 これにはびっくり仰天したフジ子姉さん。思わず頓狂とんきょうな声を出しました。

「クモエモンマッテマシター‼︎

 ところが予期せぬ掛け声に驚いたのは、渦巻雲に乗っていた、当の雲右ェ門校長です。雲からころげ落ちそうになるほど驚きつつも、渦巻雲に乗った雲右ェ門校長は一言あいさつをされました。

 校長自らが企画した、アシカ・ショウへの飛び入りだったのです。

「フジ子姉さん唄いますぞ台風の歌を唄いますぞ」

と言い終えると、管弦楽の演奏に合わせてなまり声で唄い始めました。

 

「僕は台風」

一、僕は南の海育ち

大きくなれと渦を巻く

熱風逆巻き天高く

左へ左へ渦を巻く

僕はぐんぐん舞い上がり

立派な台風晴れ姿

いのちの親さま喜んで

でっかい目玉をプレゼント

 

二、いよいよ僕は独り立ち

短いいのちの独り立ち

いよいよ僕は旅に出る

短いいのちの旅に出る

日本の国が大好きで

寄り道あれど真直ぐら

いつか来た道なつかしい

北の海へと続く道

 

三、僕に悪意はないんだよ

天を浄めて地を浄め

草木を浄めて元気だせ

唱えつづけて通る道

僕はいのちの調和力

僕に悪意はないんだよ

短い短いいのちです

北へ北への旅の道

 

四、短いいのちは北海の

いのちの海へ帰ります

生れて消えてまた生れ

夏と秋には旅に出る

海の水をば雲に乗せ

いのちの水を運びます

僕は台風さようなら

また逢う日までさようなら

 

 雲右ェ門校長は途中で汗をふきふき、それでも無事唄いあげました。想定外の雲右ェ門校長の飛び入りで、明るい別世界に変わった富士山一帯は、天も静まり、地も静まり、草木も生き生きと生気を取り戻しました。雲右ェ門校長という水の神様がやってきたことで、すがすがしい雰囲気に包まれたのでございます。

 こうして、フジ子姉さんが、夏場の二か月間に打ち沈んだ肌荒れの憂鬱は嘘のように消え去ったのでございます。

 フジ子姉さんの肌荒れに悩む姿を見るに見かねて、アシカ・ショウを提案したカメラマンの田之助は、安堵の胸をなでおろしました。そして雲右ェ門校長からの渾身の唄もきき、フジ子姉さんには、これ以上の慰めはない時間となりました。

 そもそも、フジ子姉さんの悩みは、夏場の二か月間だけ。九月上旬ともなれば、富士山はシーズンオフとなり、その後は肌荒れの心配が消える時期に入ります。

 富士山の登山を経験している田之助は、フジ子姉さんの肌荒れの辛さと、その原因に思いをはせつつ、シーズンオフがもうすぐやってくることを待ちながら、フジ子姉さんの心情を鑑みたのであります。

〝遠くでみられりゃ 富士は神 みればみるほど 富士は神〟

 

 

 

 

 

 

第二十話 富士は神

 

近くでみられりゃ

はずかしい

わたしゃアバタで

はずかしい

遠くでみられりゃ

富士は神

みればみるほど

富士は神

 

 

 

 

       

 

 

©︎おりづる書房