いのちは動植物ましてや人間だけのものではなく、万物に宿るという生命観は究極的に宇宙観へと通じます。生命をどこまでもさかのぼれば、生命の起源が宇宙にあることは明らかです。森羅万象に共通するいのちの原子という点を踏まえて写真に映る「霊顔」を眺めてみてください。
(以下まえがきより抜粋)「この〝いのちの顔〟は、主に、雲を筆頭にしたものが多くなっている。客観する皆さんには、必ずしも〝顔〟や〝ある形〟に似ていると思うかどうか、(中略)。俗に、偶然の出来事として、面白おかしく取り沙汰されていることでも、私にしたらとんでもない関心の高い領域であるから、子細なことでも記録に残してきた。この体験記録を改めて観ていると、そこには示唆や啓発に富んだ情報の多いことに気づかされる。」
「まえがき」の一節
この科学万能の世の中にあって、神秘的なことは、異次元そのものであり、興味本位に心を寄せてくれてもその信用度はかなり低くなる。
ところがこの私ときたら、神秘のほうで手招きをしている感じであるからその同調度もかなり高くなる。さらに、すぐに行動に移すから、その体験記録もまた馬鹿にならず膨大なものになってくる。
この体験記録を改めて観ていると、そこには示唆や啓発に富んだ情報の多いことに気づかされる。
俗に、偶然の出来事として、面白おかしく取り沙汰されていることでも、私にしたらとんでもない関心の高い領域であるから、子細なことでも記録に残してきた。
これら、偶然の一致とされていることを、こちらは「共時性現象」としてとらえ、「いのちの根源」に発する大変な世界だと認識しているから、ことはあまりにも深淵問題となっている。なんと、この世一切が 〝いのちの世界〟であるから、ことごとく、共振・共鳴のひびきあいに係わってくることにもなる。神秘の重圧ときたら、おしつぶされるほどのすごいものであるし、明快な科学的結論の無いまま、手ごたえの無い糠に釘を打つ心の感触でいるのも事実だ。
偶然の一致ということを、単に、偶然でとらえるならこれは実に風通しのよい話であり、それっきりの話で、あとがないからすっきりだ。
こちらは、偶然の一致ときたら、ただ事ではない。心の根源に引き込む問題であり、ひいては、一人一人の運勢運命に係わる重要なこととなる。
神秘世界といっても、その範囲はピンからキリまであるから、それぞれそれなりに真剣かも知れないが、こちらは、神秘といっても、すべて「可視の現実」の世界であって、出来る限りに現実証拠となる写真を残してその話を展開している。
最低限の現実感を確保するための「写真」を活用するのが、こちらの他と違う神秘世界である。
今回、出版することになった、この〝いのちの顔〟は、主に、雲を筆頭にしたものが多くなっている。
客観する皆さんには、必ずしも 〝顔〟や〝ある形〟に似ていると思うかどうか、保証の限りではないので勘弁を願いたい。
人々の言う、幻視・幻覚などが、無意味と断定されるなら、今の私は全く無意味となるやもしれない。科学的にはナンセンスとされる世界にいるわけだが、それを蓄積する資料が多ければ多いほど、その体験資料は科学ではあり得ないとされる神秘世界の一証左になるものと信じている。
今回の〝いのちの顔〟は、今後二~三年内に完成させたいと思っている「共時性現象」(俗称・偶然の一致など)の著作に関する一端として、また、別の角度から観た「いのちの世界観」として出版することになった。
かつて、このような話や著作にはお目にかかったことがないから、自分の中で育った〝いのち〟への思いを確信に似た信念で記してみたのである。
「お茶が牛となった」の一節
お茶が牛となった
インドでは、宗教的庇護のもと街巷いたるところでノッシ…ノッシと闊歩する牛。牛は仏様の使いなのか、神様の使い手なのか…牛は死んでからもその魂はこの世に物質化現象を起こすのか…と、また、人の想いが真に物質化現象を引き起こせるものなのか。あまりのリアリティーに息をのむ。
平成三年一一月九日、旧知の方が訪ねてきた。祖母の代から使役してきた黒牛の話に一段と熱が入った。
身代の基礎をつくりあげたこの家の黒牛は、正しく家宝として親子代々にわたり飼い続けたという。ことのほか、この黒牛には思い出が深いという。
胸を詰まらせて語ってくれたその方に、私は茶菓子を出し、お茶椀を手渡したその一瞬、数滴がこぼれた。なんとそこにありありと浮き出たのは〝黒牛〟の顔!
物質化現象は紛れもない真実だ。魂不滅の謎に光明あれっ…。
お茶がこぼれて牛の顔
「あとがき」の一節
現代社会は、何かと動に充ちていて騒然としている。一触即発の綱渡りにも似て危なっかしいこと甚だしい。半世紀前なら、あるいは、戦争になるようなことは少なくはないだろう。宗教界の精神統括というか、自己救済であるはずの信仰が、暴走性を秘めた人類間の闘争対峙ともなってつづく現実。
そこに、政治、経済、その他人間の知性が絡み付いて、東西南北、四方八方に膨れ上がり、かたや縮み込み、闘争の呼吸が絶えることのない人間世界。ただ傍観できるならまだいいが、それが何と善男善女をもぐるぐる否応無く巻き込むから無常だ。
知性豊かな人類は、そうした暗い暴走性ばかりではないはずだ。必ずや、めぐる調和宇宙と共に、善い方向に向いている…これだけは事実だろう。
この写真集〝いのちの顔〟は、天地の意思の存在を明らかにしているに違いない、と私は感じている。地球のウイルス的存在の人類に、何かを語りかけている神秘映像、とさえ思える。意図して、また、故意に「顔変化」したわけではないから、そこには、大いなる天地の意思を感じる他に何も無い。
地球は紛れも無く、われわれ全生命の生みの親であることを誰ひとり否定できないはずだ。心も、意思も、人間だけのものだとしたらとんでもない、傲慢の一言に尽きる。われわれは、単に、地球や月や太陽の宇宙生命の心や、意思のひびきを感じていないだけのことと思えないだろうか。人間の生命はたかが八〇年。カゲロウの生命は、羽化してせいぜい一日。地球や月、太陽や宇宙の生命は、百億年…二百億年。この単位の違いは、人間の脳みそをいくら膨らましても比較になるわけもない。
相手が巨大で、天…天…天才だから、そろそろ、「うやまう心」をもってもいいじゃないか。はっきり言えば
…地球の心の中で生きているだけ…
の話にすぎない。宇宙の心(ご意志=想い)の中で生かされているだけのことなのである。感謝、の一言だ。
ここで、人間の残忍さだけは中止、放棄しなけりゃならない。
地球という生命体が本気で一振り、体を大振りしたなら何もかもおしまいでござる。そこで生き残れるものは、ただ一点「原生生物」のみだ。
無重力空間といわれる宇宙の世界に、万物の星星が自転し、公転し、リズミカルに永遠の光を輝かせ、調和の会話をしている、と私には感じられてならない。
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米(食物・自然界)の生命愛に身も心も重ねることで、波乱万丈な人生もどんなに苦しい思いも澄み切ったものへと昇華した著者夫妻。その二人が遭遇した共振共鳴共時の記録は、「こころとは」「いのちとは」という命題に対する答えの証しです。