生命現象の根源

体と心の相関性

⑺ 響きあう「いのち」

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人のいのちは物質体であると同時に意識体でもあります。この本質的性格は、生き物としての種類や姿かたちはちがっても、「食物」として口にしている「いのち」もまた、物質一辺倒の存在ではないことを示唆しているとおもいます。また、魂という意味での「心」は、肉体的な生死を超越していることを、共時性現象が暗示しています。体は、心が作用するとはいえ、それを超える意思のような自律性をもっています。体を機械のように考えるのはまちがいではないでしょうか。

 

食も心も体も、人がつくる「もの」ではなく、根本的には天地自然がつくる「いのち」の現れです。出現する根源の世界は同一、全一であると想像できます。以上のような理由から、心と体の関係や、人と食物の関係は、機械的な作用や反応とはちがって、おたがいの「意思」疎通のようなものがあると想像します。

 

私たちは、人間中心の目線で、食物を見てしまいがちです。仮に、健康的な食物をじぶんの意思で選択する食生活をしていたとしても、健康を手に入れるための「もの」でしかないとか、欲求充足のためにむさぼるような食べ方をしているとか、そういう心根では自己調和できるはずがないことに気づかされます。じぶんの体と食物への敬意と慎みよりもたいせつなものはないにちがいありません。

 

 

創作シナリオを織り交ぜ、生命の根元領域を語る『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』より

ここから書籍『神秘の大樹第二巻ヒロシマとつる姫』の抜粋。「米は人間の主食です。生きるためのいのちの機関車です。田之助は酒好きが高じて乱れとなり、いろは姫との葛藤が長い間続きましたが、ようやく生きることの原点に気づくことができて、いのちの真実を求めることになったのです。片やいろは姫は、田之助を鉄の一心で守り続ける中で、いのちの真実に気づきました。口から入った食物たちは、いのちの光に身を任せ、やがて原子の光に立ち返って、新たないのちの光へと生き変わります。そして、働き終えた食物たちは、外界へと帰っていきます。その一人ひとりのいのちの中で命が新たないのちを育て上げるまでの運びには、いかなる人知も、いかなる自我も立ち入ることができません。立入厳禁の〝聖域〟なのです。この聖域の旗印が、帆に書かれている〝食心の目は共時の目〟という世界なのです。ユングと天明には、新たな驚きとひらめきが交差していました。そして口を開いたのはユングです。ユング「つる姫様ありがとう。単純明快にいのちの中心には食がありました。毎日の食べ物がいのちとなる次元こそ共時性発生の次元でした。ここにこそ心と物質が融合一体となり、生命発生の謎がありました。食って生きる、こんな単純なところに、山ほどの理論を積み上げたことから解放されたような気分です。ありがとう」と、ユングの目は輝いています。そこに天明も続いて、天明「つる姫様ありがとう。神示の一点が解けてまいりました。食が新たないのちとなる次元、いのちの中心、ゼロ一点の次元がイチリンの仕組みでありました。ここにこそ鉄の一心、食心の世界、共時の世界を見ることができました。扉開きはゼロの目、食の目、共時の目を開くことでした。いのちの真実に目覚めることこそ岩戸開き、そして心の扉開きでありました。」抜粋はここまで

 

 

さいごに、この文章全体の冒頭に記した『酒乱』からの抜粋文ですが、とくに印象的な部分(下線部)があります。かつて酒乱地獄を経験した夫妻の言葉です。 

 

(略)ここではっきりしていることは、子孫の誰かが、この先祖ぐるみの悪習慣を断ち切らなくてはならない。命がけで、生命に恥じない人間性を取り戻さなくてはいけないのである。 そのためにも、単に人間的自我というくらいでは到底太刀打ちができない。自然界の愛が窓口にならなくては、汚れ切って、軟弱化した人間の心を、浄めることはできないだろう。 人間発生前の、生命の愛に戻って、我々を、「生かして、生かして、生かし続ける愛の力」を借りなければ、人間は改心できない。(略) 妻がよく言う言葉に、「人間以前の食物たちの生命(心)に戻らないと、人は成仏できない。人霊の活躍は、まだ自我がある。人間以前の生命の愛がないと成仏できない」と、いうことがある。(略) まず、心の突破口は、食物たちや、自然界の生かし続ける生命の愛を、自分の心で、ガッチリと感じられるようになれば、不調和な人生から、目覚めることが早まると思う。概念としての知識だけでは、むしろ、混乱が生ずるから注意しなければならない。 こういう、生命の原点に、真心から感謝できる心(愛)が目覚めたなら、自らを救うことが必ずできる。

 

(『酒乱 米の生命が生きるまで』「守護の窓口となった妻と自然律(悪は、この世の仮りの姿)」p.110 〜より抜粋)

 

「成仏」とは、心の中の霊のことであるとともに、いずれは肉体を脱ぐじぶん自身のことだと私は感じています。私たちの生命は生と死とで、ひとつです。自然界に還っていく、すなわち天地自然の調和性と同化するために食物の生命愛が欠かせないというのは、本当のことだとおもいます。人間の根深い心の問題は、体を含めた「いのち全体」から生じる問題であるがゆえに、精神論では解決しないのです。

 

そもそも、人間は心(気もち)を最優先して体を置き去りにする傾向がないでしょうか。心が苦しいときほど、それは顕著になるはずです。この世にることは体とともにること。この事実をしっかりと受けとめたいとおもいます。

 

 

『酒乱 米の生命が生きるまで』「守護の窓口となった妻と自然律」

資料はここから。「このエイエイと続いた悪習慣は、自分の過去だけのものなのか、あるいは、両親の代からのものなのか、さらに、それよりも、もっともっと先の時代にまで遡るのかは、人それぞれに異なっている。ただ、ここではっきりしていることは、子孫の誰かが、この先祖ぐるみの悪習慣を断ち切らなくてはならない。命がけで、生命に恥じない人間性を取り戻さなくてはいけないのである。そのためにも、単に人間的自我というくらいでは到底太刀打ちができない。自然界の愛が窓口にならなくては、汚れ切って、軟弱化した人間の心を、きよめることはできないだろう。人間発生前の、生命の愛に戻って、我々を、「生かして、生かして、生かし続ける愛の力」 を借りなければ、人間は改心できない。すべての宗教を超えて、生命の愛に目覚めなくては、心の汚れはきよめられない。私に潜んだ、酒乱で汚れ切った心は、妻の真心の一念で、生命の愛に目覚めさせてくれたのだった。こめと酒の生命が、妻の生命の光を通して、私の心の中で生き返ったのである。このことは、とても理解に苦しむこと、あるいは、低俗なことだと言われるかもしれない。だが、今、本当に、自分が迷っている時、そこから目覚めるためには、高尚な精神論や、宗教論で救われることができるだろうか。少なくとも、酒乱の人生から自分を目覚めさせてくれたものは、ただの主婦である妻の守りのお蔭だった。一念の真心(愛)は、人間的自我(煩悩的自我)を超えた愛の心となり、私の汚れた心をきよめてくれた。この妻の愛は、あまりに当たり前過ぎて、かえって説明に苦しむところだが、それは、人間的、都合的、犠牲的な愛ではない。また、男女の愛、親子の愛とも違う。それでは、どういう愛なのか。一口で言うなら、生かし続ける沈黙の愛だと、言える。また、宇宙心霊(生命界の心)が、妻の生命にがっちりと生きたのだと思われる。妻が、よく言う言葉に、「人間以前の食物たちの生命(心)に戻らないと、人は成仏できない。人霊の活躍は、まだ自我がある。人間以前の生命の愛がないと成仏できない」 と、いうことがある。このことを知るためには、まず、毎日の食事に心を向けるがよい。食べることによって、生きることができるのは、当たり前のことだ。もの言わぬ米を食べ、そして、野菜、魚、その他一切の食物を食べて、こうして、自分の心が生まれ、声が生まれ、言葉が生まれ、走り回り、今日を生きる人間。この、生かす力(愛)しかない食物たちと、融合一体となって、その尊い声なき心を受けることができる。酒乱の夫と過ごす尊い人生、三十三年の中で、人間を諭し続ける生命界の心と、通じ、結ばれ、生きた。そこには、いかなる理論の余地もない。そこにあるものは、丸裸の透き通った光だけの生命しかない。そして、黙する生命の光の受け皿となった妻。しいて言うなら、沈黙の心々の世界から見たなら、灯台の光のような妻を見ているようなものであった。だから、こめの生命は、妻の生命の光を見て、心を寄せる。酒の生命も寄ってくる。酒の心は、妻を通して叫ぶ。 「喜び、安らぎで飲むんだよ。浄まりの生命だよ。神に捧げる生命だよ。汚すのは、人の心だぞ」また、こめの心は言うだろう。「米寿の祝いとなる生命だよ。八十八(88)の数にも、生きられる生命だよ。磨き抜いて、御神酒にもなる生命だよ。生命を汚してはならないよ……。」と、人の体の中から叫んでいるだろうし、こめ、酒、食物一切、また、自然界の心々、そして、人霊の心々たちも、人の世のために、代弁してくれる妻の生命に寄ってくる。声となって、文字に生きて、かずに生きて、色に生きて、寄ってくる。そして、見えざる生命の世界の心々を、人々に伝えていただく喜びが、こちらにも感じられる。天地の生命の愛で生かされる人間界は、必ず、一人一人の生命の中から、目覚めさせられるであろう。そして、妻の守りは、沈黙世界の、見えざる、生かし続ける愛、その愛そのものの守り姿であった。だから、こめの生命も、酒の生命も、私の生命の中で、力強く生きた。まず、心の突破口は、食物たちや、自然界の生かし続ける生命の愛を、自分の心で、ガッチリと感じられるようになれば、不調和な人生から、目覚めることが早まると思う。概念としての知識だけでは、むしろ、混乱が生ずるから注意しなければならない。こういう、生命の原点に、真心から感謝できる心(愛)が目覚めたなら、自らを救うことが必ずできる。不調和な心(悪性)は、目覚めなき迷いの心だから、悪はこの世の仮の姿だと言える。 「妻を介する神ちから。今ぞ晴れての人の道。断って立ちゆ酒の道。いのちの原点目覚めゆく。」以上、資料はここまで。

本の詳細は下記「出典・参考図書」

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出典・参考図書

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書籍『酒乱こめのいのちが生きるまで』の詳細・閲覧ページにリンクしています

酒乱
米の生命が生きるまで

菅原茂/MBC21/1993年

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「いのちとは」「心とは」という文字通りの “命題” について、 体験を通じた非常に強いメッセージを発している。 後年、この著者は『死んでも生きている いのちの証し』『神秘の大樹』を出版しているが、 第一作である本書を読むと、 なぜこの著者が、共時性を切り口にして「いのち」を語るのか、 腑に落ちる。

 

 

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書籍『神秘の大樹 第二巻 ヒロシマとつる姫』の詳細・閲覧ページにリンクしています

神秘の大樹 Ⅱ
ヒロシマとつる姫

菅原茂/おりづる書房/2011年

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平成5年8月6日の広島平和公園で出合った一羽の折鶴は、「倉敷市玉島」と印刷された広告で折られていた。その地名は「日月神示」で知られる岡本天明氏の出生地。縁結びのしくみを、「心のつる草」など比喩を用いた物語を織り交ぜて表現している。

 

 


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書籍『死んでも生きているいのちのあかし』の詳細・閲覧ページにリンクしています

死んでも生きている
いのちの証し

菅原茂/たま出版/1997年

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共時性現象の体験記録をもとに、生命の本質は不滅だと伝えている。 酒乱人生から夫婦二人三脚で新たな人生を再出発させた著者。自らの足元を照らすかのような共時性現象の記録を随想としてまとめている。また、本の表紙を飾る稲穂はこの著書の本質を象徴している。

 

 

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書籍『神秘の大樹 第一巻 偶然が消える時』の詳細・閲覧ページにリンクしています

神秘の大樹 Ⅰ
偶然が消える時

菅原茂/おりづる書房/2011年

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いまを生きている自分(あなた)自身の存在こそ、肉体をまとい、服を身につけている霊魂そのものだという。 霊魂というと、わが身の外に存在し、わが身の外で起きる「現象」と考えがちだが、そもそもそれは、私たちのからだやこころに内在し、わが身の中で起きていることがらなのである。

 


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フォトエッセイ『いのちのふる里』の詳細・閲覧ページにリンクしています

いのちのふる里

菅原茂/おりづる書房/2008年

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便利な生活を享受するために、工業を中心にしてひた走ってきた日本社会。そのいっぽうで、むかしもいまも、ずっと変わらずいのちの原点でありつづける食のふる里。個人の生き方として、また社会の健全な姿としてのバランスを、どうやって回復したらよいのか。食と農と生命に実感がもてぬ現代の私達。時代や社会を経ても生きる原点は変わらないはず。私達の体と心は原点に帰れるのか。

 

 

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書籍『ひふみ神示』を図書館検索サイト「カーリル」で検索します

ひふみ神示(上巻)

岡本天明著/コスモ・テン・パブリケーション/1994年

岡本天明氏の「自動書記」による著書。文中には、この神示そのものについて、人としての「道」を示したものであり、特定の宗教として広めてはならないという主旨のことが書いてある。長編であり、難解な箇所もある。諸説あるが、「アレの巻」の冒頭に書かれたごく短い二文が最も重要な部分だとも言われている。

 

 


その他のページ

共時性とは何か

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時空や生死を超え、人種や生物種も超えて、いのちには境界がない証し

 

因果性とは何か

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「因果性」の実際は、それほど単純ではなく、もっと複雑。科学的な「法則」は、限定的な条件のもとでのみ有効だ。

 

偶然にひそむ因果

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因果性がないというより、今の科学の尺度では説明できない、と言うべきではないのか。

 


共時性の真価

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平成5年8月6日、広島平和公園で偶然発見された一羽の折鶴。共時性の真の価値は、生命現象そのものではなく、それが生命の真実を示していることだ。

 

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