河合隼雄氏は、心理療法家としての臨床経験をもとにして、次のように述べています。また、理論物理学者のニールス・ボーア氏も、似たようなことを指摘しています。
これは、客観性をテーマにするとき、必ず突き当たる問題かもしれません。仮にここで、一般的に使われるときの客観的知識は人と共有できる理論、主観的知識はそれ以外の個人的・感覚的なものだと、意味を限定するなら、両者を区別する必要があるのではないかと考えます。ただ、上の引用文と同様に、たいへん重要だとおもっている見方が以下の文です。
「思考の世界では主観と客観に分離出来るが、いのちの世界から見るならば、主観も客観もなく世界は一つ」(『いのちのふる里』菅原茂著)
上の著者が述べていますが、私たちの「からだ」のルーツをたどると、親から無数の先祖へとさかのぼることになり、究極的には地球、宇宙へと広がっていきます。また、生物となった時点から常に広い意味での食が密接に関わっています。
「こころ」のルーツは、目に見えない分、判然としないのはたしかですが、「からだ」の場合と共通性があると考えるのが自然ではないでしょうか。こうして生命の成り立ちを考慮すると、主客の区別という見方が本質的に成立するのか、素朴な疑問も生じます。
「思考の世界では主観と客観に分離出来るが、いのちの世界から見るならば、主観も客観もなく世界は一つだ。外の世界と自分は完全に分離していると考えがちだが、いのちの世界から見た時そうではなくなる。内なるスクリーンには常に外の世界が映し出されているのが真実だ。“内は外なり、外は内なり 主観は客観、客観は主観なり”ということになる。」(『いのちのふる里』菅原茂 p.19より抜粋)
客観や主観という概念は、観察される側と観察する側との区別や、物と意識との区別、という具合に定義できるといいます。ただ、観察される側が物ではなく自分の心であるとき混乱が生じます。「人間の心を「客観的対象」と見なそうとしても、観察者自身も「心」をもっているので、」という河合隼雄氏の言葉は、おそらくそういうことです。
その上で、一般的に、私たちが「客観的」「主観的」というときには、前者を科学的思考(普遍的認識)、後者を非科学的思考(個人的認識)という感じの意味合いで用いていると推測します。私たちは、日々経験することがらに対して、基本的に自分の体、心、頭を頼りに認識・評価しています。ただ、その評価は、誤認や思い込み、偏見と、常に紙一重です。自分の(主観的)認識に誤りはないか、論理的(客観的)思考をくぐらせて検討し、再評価することもたしかに必要な視点です。
しかし、そもそも認識、想像、客観、いずれも意識という主観の働きですから、主観と客観との区別には、常に矛盾が付いて回ると考えられます。
共時性現象は、魂という意味での「心」が、肉体的な生死を超越していることを暗示しています。であれば、客観と主観、客観的・主観的という概念は、心の霊的性質を踏まえた上で、欲求、意志、感情、想像、思考、記憶、直感などの定義をあらためて考察すべき課題であるはずです。
いっぽう、これまで掲載してきた文章では、「論理的思考や科学的知識(断片)」か、「個人的信条や宗教的知識(固定観念)」か、そのいずれかに偏りがちな現代人の思考傾向を批判的に考察するにとどまり、心とはどういう世界かをより一層理解するための総合的考察という点で不十分でした。ただ、現状では力不足のため改訂をあきらめ、掲載内容の一部(=上の文章)を残し、ほとんどを削除しました。客観と主観について直接触れてはいませんが、心の性質について整理した「体と心の相関性」をご参照ください。
便利な生活を享受するために、工業を中心にしてひた走ってきた日本社会。そのいっぽうで、むかしもいまも、ずっと変わらずいのちの原点でありつづける食のふる里。個人の生き方として、また社会の健全な姿としてのバランスを、どうやって回復したらよいのか。食と農と生命に実感がもてぬ現代の私達。時代や社会を経ても生きる原点は変わらないはず。私達の体と心は原点に帰れるのか。