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要点・概要

 

 

この世のすべてが心性エネルギーに満ちているという生命観=宇宙観からうまれた物語。ヒトは万物霊長の存在と言われるわけですが、著者は万物霊の視点で生命世界を観ています。ともすれば私たち人類はあらゆる生物の頂点に立つ最も優れた存在であると勘違いしがちではないでしょうか。本作は子どもから大人まで読んで理解できる内容になっている点で、ほかの著作とはひと味ちがう作品。ごく短いものも含め全20話に分かれています。美しい富士山を彩る個性的な雲の写真も見どころです。

 

 


書籍『富士山と雲と神様』/このページでは、この本について詳しく紹介します。下の目次のうち「スライダで閲覧」という項目はスクリーンリーダーに対応していないため「本文からの抜粋」(=縦書き)のご利用を。

本文からの抜粋

 

 

 

 

火と水の玉、これがわれらの地球/われらのいのちの根本エネルギーは、火と水の化学合成ということになりましょうか。

「はじめに」の一節

 

 

 

 

はじめに

 

 原初の地球が、まだ火の玉であった頃から今日まで、煉りに煉られた悠久の歳月の中で、火の中に含まれていた水は、火の玉の表面に押し出されました。こうして、火と水が分離したと考えてみます。

 では、その地球を一個の丸いリンゴに見立てて、半分に割ってみます。すると、表皮の部分はさしずめ、ほぼ海水に覆われているということになります。さらに中心には核があり、果肉の部分はすべて火ということになりましょう。

 火と水の玉、これがわれらの地球ということになります。いかに凄い所にわれらが生きているかは一目瞭然であります。

 海水であるリンゴの表皮の所々には陸地があって、われらはその陸地に宿を借りて生きています。われらのいのちの根本エネルギーは、火と水の化学合成ということになりましょうか。

 優れた人間の知性は、進化の中で磨き上げられて獲得したにしても、きっとそれは、神からいただいた奇跡というほかありません。神は人間を生命ロボットの試作品として、創造されたのかもしれません。その奇跡的知性が、神から除外されない為にも、地球の調和ご意志に、従順にして、順応いたしたいものでございます。

 地球にご意志ありと思う者にとっては、当然にして地上万物にも心性エネルギーの存在があることを否定するものではごさいません。山であっても、一片の雲であっても、心性エネルギー体として受け容れることが肝要と思っております。

 このたび本書を発刊するにあたっても、その内容は全てにわたって心性エネルギーの顕われとして、考えております。

 富士山には、本書の語りの中で多様な呼び名で親しみをもって呼ばせていただきました。雲にしても同じことでございます。そうした流れの中で、「いのち」に対する私の思いを伝えようと試みました。

 富士山にも、雲にも、ニワトリにも、タコや鮭にも、カラスにも……ましてや、宇宙根本のいのちの親さまにも登場していただきました。いわば寓話の世界のようでもあります。

 また「いのち」の何たるかを、科学的生命観や宗教的生命観とも、共有の一面をもちつつ、特異な生命観の中で書き進めました。

 執筆の際の最たるモチべーションは、「富士山と雲」の一枚一枚の写真を凝視することでありました。

 写真を見つづける中で、いのちにまつわる物語性の骨格が見えてくるのであります。

 ご縁があります皆様方の心には、本書で伝えたいことがどのように映るのかと、とてもわくわくする思いでございます。

著者  菅原 茂

 

 

 

 

海辺ではいのちの一大イベントが始まろうとしていました。いのちの〝ぬいぐるみ大運動会〟です。

「第一話 ニワトリセン太の独り言」の一節

 

 

 

 

第一話 ニワトリセン太の独り言

 

 昔むかし、太古の時代でありました。地球がようやく穏やかになり、大陸にも緑がかがやくようになっておりました。

 ある日のこと。海辺ではいのちの一大イベントが始まろうとしていました。いのちの〝ぬいぐるみ大運動会〟です。何億万という、いのちの原子が集結していました。

 コースは漆黒の闇の中で走ります。ゴールには、数え切れないほどの〝ぬいぐるみ〟がおかれています。いよいよカウントが始まり、号砲の合図とともに、いのちの原子が一斉に飛び出しました。どんな〝ぬいぐるみ〟に出会えるか。ゴールは手さぐりです。ゴールには〝ぬいぐるみ〟、つまり、ニワトリであったり、人間であったり、犬や猫や虫たちであったり、その他もろもろの千差万別の、いのちの形が待っています。

 いのちの原子たちは各々、ゴールで手にした〝ぬいぐるみ〟を着、これよりいのちの聖火ランナーとなって延々と時空を超え、現実のこの世へと聖火を繫いでいきました。

 

* * *

 

 ニワトリとなってこの世に迎えられたボク。ヒヨコ売りのおじさんに連れられて、裸電球のうす明りの下、ほかのヒヨコたちに混じって箱の中にいました。浅間大社の宵祭りの日でありました。

 祭りもなかば頃のこと。一組の親子連れが足を止めました。そしてまだ幼い女の子が、ボクと視線が合うと同時に、

「お母さん、私このヒヨコ飼いたい!」

と、せがんだのです。ボクはドキドキしました。するとお母さんが喜んで買ってくれたのです。この日からボクは、人間と一緒に生きることになりました。ボクの育ての親であるこの家の幼い女の子から、ボクは人間の言葉も自然におぼえていきました。

 毎日食事を与えられ、やさしい声をかけられて、毎日が幸せでした。ところが、そんな幸せな日々も、長くはつづきませんでした。

 ボクが成長するにつれて、次第に愛くるしい姿は消えていきました。頭上には紅色の大きなトサカ、声もピヨピヨからコッコッコッと太いかすれ声に、脚は太く、爪は鋭くなり、食欲は旺盛となり、まったく可愛くない姿になりました。幼い女の子は次第に離れがちとなり、ボクはさびしくなりました。

 それから間もなくのこと。突然ボクは籠に入れられて、近くの神社の林に置き去りにされたのです。寂しい別れを経てからというもの、ボクは命がけの日々を過ごすことになったのです。

 食べものはない。これまで見たこともない野良猫や野良犬が寄ってきては嚙みつきにかかる。ただでさえ腹ぺこのボクは、逃げるのに精一杯でした。

 本当は何億万年前は、皆が同じいのちの原子だったのに、あの〝ぬいぐるみ大運動会〟があった日から、姿も心も運命も、すべてが行きちがうようになったのです。今では猫にも犬にも追われる、あわれなボクです。

 ある夜のこと。ボクは太い木の根元で仮りそめの眠りに落ちておりました。その時、はっきりとした夢を見たのです。

「ボクちゃん、ボクちゃん……」

何度も呼ばれました。目の前には、立派なお姿のお姫さまが立っていました。ボクが無言で見上げると

「ボクちゃん、今日から私がお母さんになってあげましょう。だから安心して、神の池(湧玉池)のそばでがんばりなさい。ボクちゃんはお利口だから大丈夫。食事は自分で考えるの。でも神の池の水をいただくだけでも生きられるから、安心しなさいね。

 どうしても我慢できない時は、心の中で私の名を叫びなさい。私の名は〝浅間大社の守り神・コノハナノサクヤ姫〟といいます。私の家は富士山にあります。強く生きなさい」

 ここでボクは、夢から醒めたのです。ボクはうれしかった。生きる勇気が湧いてきました。ボクの棲み家は神の庭。食べものは、ボクの糞尿や草木や落葉、そして大地の力を借りて育てよう。ボクの逞しくなった脚は鍬の代わりに、外敵には強い蹴りが武器になるから安心です。そしてボクは、夢の中でみたコノハナノサクヤ姫を、心の里親と決めました。そして浅間大社の庭を、棲み家と決めたのです。

それから数日後のことでした。湧玉池を源流として潤井川に注ぐ神田川の近くで軽い食事をしていた時、背後から冷めたい霊気が流れてきました。ボクは直ぐに感じました。

「野犬だ‼︎ 危ないっ‼︎

 そう思ったとたん、ボクは川に飛びこみました。その時、どこから姿を現わしたのか、巨大なイワナが川面から顔を出し、野犬をめがけて強力な水鉄砲を噴射したのです。見事目玉に水鉄砲が命中した野犬は、もんどりうって必死に逃げ出し、ボクは九死に一生を得ました。それからというもの、ボクはこの巨大なイワナを〝イワナドン〟と呼び、命の恩人として尊敬しています。

 あとで知ったことですが、イワナドンはコノハナノサクヤ姫から、ボクの見守りを託されていました。それからというもの、ボクはコノハナノサクヤ姫のご加護とイワナドンのお守りのおかげで、たくましく成長していきました。

 それから、どれほどの時が過ぎたことでしょう。ボクは田之助という、カメラが趣味の人間にかかわることになりました。

 ボクはニワトリだから平気ですが、ボクをみかけるとすぐにいろいろ、話しかけてくるのです。

「お前はたくましいやつだ。ハーレムをつくっているばかりか(俺の妻は一人だけだ)、自給自足をし、皆に愛されている。すぐそばにすむ土鳩のドバ吉とは、天と地ほどの差だ。お前は糞も散らさず、餌は自給で、静かにたくましく生きている。ドバ吉は人間にエサをねだるし、神の橋にまで糞をし散らかす。それに対してお前は、さすが日本一の神さまの里子になったニワトリだな。この俺が新しい名前をつけてやろう。〝浅間大社のニワトリセン太〟だ。どうだい、セン太?」

と言って、ボクに新しい名前をつけてくれたのです。これを知ったサクヤ姫も喜び、ボクもその気になりました。さらに田之助はこう言いました。

「セン太、お前は頭が回るし、俺よりも多くの人間を見ているから知恵が回るよな。セン太に、神を讃える歌をリクエストするから、聞かせてくれよ」

 富士山のこと、サクヤ姫のこと、浅間大社のこと、神田川のこと。そして「セン太、お前自身の話を入れて、即興でな」と言うのです。

 乗り気になったボクは、すぐに心の赴くままに唄いだしました。

 題は「〝ニワトリセン太〟の独り言」。

 

一、ここは富士山 富士宮

日本一なら三つもあるぜ
富士の高さは日本一
白い帽子がよく似合う
富士の神様 サクヤ姫
浅間大社の守り神
ケッコウ ケッコウ
コケコッコウー

 

二、ここは富士山 富士宮

日本一なら三つもあるぜ
川の長さが一〇〇〇メートル(市街地図からの概算)
清く短い 日本一
天然記念の 神田川
イワナのドンが 待ってるぜ
ケッコウ ケッコウ
コケコッコウー

 

三、ここは富士山 富士宮

日本一なら三つもあるぜ
鳥居があって 鳥が居る
神社のニワトリここだけよ(日本一!)
自給自足の エコロジー
ハーレムつくって 待ってるぜ
ケッコウ ケッコウ
コケコッコウー

 

 この讃歌は、コノハナノサクヤ姫にも届けられました。姫からは祝福の返信が寄せられ、川辺ではイワナドンも身をのり出して祝福してくれました。

 セン太は最高の幸せをかみしめながら、うれし涙を浮かべていとしいハーレムへと帰って行きました。浅間大社にも夜のとばりが降り、田之助もようよう家路につきました。

 

星座の数は、〝八十八〟であったのです。

「第十三話 富士シアター・星々招待」の一節

第十三話 富士シアター・星々招待

 

 昔むかし、その昔、人々は天に感謝し、大地に感謝しながら、稲作に精を出しておりました。

 ここは豊葦原の瑞穂の国です。米作りには恵まれているといわれています。山並みはどこまでも深く、冬になればその山にたくさんの雪が積もり、春ともなれば、里の田圃に豊かな水を届けてくれます。

 かつては、農家の人々が働く田圃のまわりの小川には、鶴などの鳥が当たり前に、ドジョウや小魚をついばんでいたのです。米を作る彼らとともに、安心して生きてきた姿があったのです。

 この豊葦原の瑞穂の国、すなわち日本は豊かな水と、多くの生き物たちに恵まれております。その水源を守る深い山々が連なる島の中ほどには、日本一高く、美しい富士山がそびえております。

 富士の神様は、女神のサクヤ姫であります。いのちの水を守りつづけてくれております。

 今は、昔とはちがって、田圃に鶴などの姿は見られませんが、農人の体の中には、鮮明な記憶となって残っております。山があって、川があって、そこに田圃がある、そのことは農人ならずも、万人のいのちに刻まれている、いのちのふる里なのであります。しかも、米は、いのちの主食です。

 いのちのふる里である日本の中央には、富士山がそびえております。世界の宝と認められたことで、富士の神様であるサクヤ姫は、ハタと考えたのでございます。世界遺産となったこの喜びをひとつの節目として、地球はもとより、宇宙の星々のみなさんと、その喜びを分かち合いたいものだと思われたのでございます。

 ちょうどそんな頃のことでした。富士の神様が、宇宙の星を見渡していた時、例によってカメラマンの田之助が、何やらパチリ、パチリと写していたのです。

 富士の神様は「それはきっと〝私と雲〟を撮っているのでしょう」と思ったのでございます。

 さっそく田之助にテレパシーで訪ねると、すぐに反応がありました。

「サクヤ姫様、よくぞお気付きになられました。たいそう気になる一枚が撮れまして……。サクヤ姫様にぜひともお伝えしたいと思っていたところでこざいます」

 富士の神様にしてみれば、世界の宝に登録されたこの喜びを、宇宙の星々の皆さんと共に分かち合いたいと思っていた矢先のことでしたから、田之助の写真の話は、どうにも気になるものでした。

「その気になる一枚とは、どんな写真なのか知らせて下さいな」

 そういうサクヤ姫様の言葉に、田之助は、胸がわくわくしてきました。その時、田之助の頭に、新しい考えが浮かんできたのです。

「サクヤ姫様。喜びを分かち合うというのなら、宇宙の星々の皆さんをこちらに招待して、私の撮影した一枚の写真で、バラエティショウを催されてはいかがでしょうか」

 田之助からこれを聞いたサクヤ姫様は大変驚きました。同時に、またとないチャンスとも思ったのでございます。

「田之助さん、これはうれしい話です。私も大賛成です」

 サクヤ姫様は少女のように喜んでくださったのです。田之助は責任の重さを感じはじめていました。

 宇宙には何千億と星のいのちがあります。それらの星々の皆さんを招待し、しかも一枚の写真で喜びを完結させようと考えたのですから地に足がつかない状態であります。

 そこで田之助は考えました。そうだ、宇宙の各星座の座長を招待するのがよかろう、そう思ったのであります。

「サクヤ姫様。宇宙の皆さんはむずかしくても、星座の座長さんをご招待するなら、話は早いと思いますが…」

そう田之助が伝えると、サクヤ姫様は、それが一番だと思われました。

「それが一番でしょうね。でも宇宙には、どれほどの星座があるのでしょう」

とたずねられました。

 そこで田之助は、宇宙のネットワークにアクセスして調べた結果……「驚いた‼︎」、田之助の全身に電撃が走るほどの感動を受けたのです。星座の数は、〝八十八〟であったのです。八十八という数字のあらわす意味は、田之助にとって〝米〟以外の何物でもありません。米の数霊かずだまは八十八です。人類のいのちを守る主食は〝米〟であります。

〝稲穂の実りは億万年 人類栄えの糧となる 米が光れば皆光る〟

 八十八星座はいのちの、米の光が全宇宙に輝いていることを明らかに示しています。宇宙の四方八方は、米の文字で彩られ、照らされているのであります。

 そして豊葦原の瑞穂(稲穂)の国の中心に立つ富士の神様であるサクヤ姫は、稲作の守り神でもあります。稲作を守る〝火と水の神様〟サクヤ姫も、八十八星座ときいて、全宇宙に遍満する米(八十八)の光に圧倒されておられました。

「私は胸がつまる思いです。宇宙が米の光で満ち満ちているとは。富士の神として生まれた私は、幸せの極みです」

 サクヤ姫は、涙をにじませて、こうおっしゃいました。

 宇宙が米の光で充ちあふれていることを知り、田之助は、お役目ですと心を引き締め、神様の助手をつとめてバラエティショウの準備を進めていきました。まず、〝富士シアター〟を開設して、初代の館長にサクヤ姫についていただきました。

 そしてショウのテーマを「いのちの饗宴・雲のバラエティショウ」と決めました。ショウに出演するのは、富士山の麓にある雲スクールの生徒たちであります。校長の雲右ェ門は喜んで引き受けてくれました。

 いよいよバラエティショウ当日。平成二十六年(二〇一四年)十一月十八日の夕刻でありました。ショウに招待された星座の座長八十八名は、快く参加を決めてくれました。上映に先立って、サクヤ姫からのあいさつがあり、次に各星座の座長たちの紹介が始まりました。そして「しし座」の番にきた時のことであります。

 天地が一瞬にして無音となり、天からエコーが鳴りひびき、淡い鈴の音と共に、天の声がひびきわたったのでございます。

「富士のサクヤ姫よ、おめでとう。美貌に安住せず、いのちの大調和を心して守れよ。わしも祝福いたすぞ」

 そして天から一斉に金粉、銀粉がキラキラ輝きながら降り注がれたのであります。それは宇宙創造の〝いのちの親さま〟からの、慈愛の光でありました。

 ちょうどこの日は、しし座流星群が出現する日でもあります。全宇宙には、いのちの光が通い合っております。絶え間なく、共振、共鳴のいのちの光で結ばれているのでございます。

 紹介をつづけるサクヤ姫は、涙を浮かべて声をつまらせながら、深々と頭を下げて感謝の意をあらわしました。その後、八十八名の座長たちの紹介を、すべて終えることができました。

 華やぎの中でいのちの饗宴〝雲のバラエティショウ〟も大団円をむかえ、ここで田之助の提案により、八十八名の座長たちと一緒に「米さん音頭」を合唱してお開きとすることになりました。

 

一、オーイ

米はいのちだ
いのちの米だ

一年一度の
米作り

ソレホントに
ホントに
米作り

 

二、オーイ

米はいのちだ
いのちの米だ

米の恩恵
富士の山

ソレホントに
ホントに
富士の山

 

三、オーイ

米はいのちだ
いのちの米だ

生かす力の
愛ばかり

ソレホントに
ホントに
愛ばかり

 

四、オーイ

米はいのちだ
いのちの米だ

ご飯みそ汁
日本食

ソレホントに
ホントに
日本食

 

五、オーイ

米はいのちだ
いのちの米だ

米を守るは
人の知恵

ソレホントに
ホントに
ひとの知恵

 

六、オーイ

米はいのちだ
いのちの米だ

米を作るは
山川田んぼ

ソレホントに
ホントに
山川田んぼ

 

七、オーイ

米はいのちだ
いのちの米だ

末代までの
宝です

ソレホントに
ホントに
宝です

 

 米さん音頭は、宇宙いっぱいに響きわたりました。これでバラエティショウも無事終了することができて、気分も新たに座長八十八名は宇宙に輝く〝米の光〟を心に刻んでお帰りになられたのでございます。

 それから数日後のことでした。八十八名の座長を代表して、しし座の座長から感謝の思いも厚く、八十八星座の紹介文が届けられたのでした。

 その夜、サクヤ姫様から預った八十八星座の紹介文を胸に抱き、満天に輝く星空の中、田之助は〝食なくて何の己がこの世かな……〟と繰り返しながら、生きる原点に心を合わせて、家路につきました。

 

*一九三〇年、国際天文連合は、全天に〝八八星座〟を設定した。

出典=藤井旭著「全天星座百科」河出書房新社

 

 

 

 

 

煉りに煉られて時空を超えて、いのちの末裔まつえいである人類に至るまで、一三七億年というはるかなる道程みちのりのドラマであります。

「第十八話 火の神と水の神の郷愁 —— 宇宙は二層の卵」の一節

 

 

 

 

第十八話 火の神と水の神の郷愁 —— 宇宙は二層の卵

 

 天青く静かに澄みわたったある日のこと、火の神様である富士山に、雲に乗った水の神様が訪ねてこられました。火の神と水の神は、元神様の双子のお子でございます。火の神様、水の神様という二大生命エネルギーは、いのちのルーツの原点でありますから、太古の宇宙時代が懐かしく湧き上ってきたということでございます。火の神様、水の神様は話に花を咲かせ、懐かしい原始の宇宙時代を語り始めておりました。

 火の神様、水の神様の知っている、宇宙の原始の姿は、外宇宙と内宇宙からできている二層の卵であります。それは精神宇宙と物質宇宙の二層であり、煉りに煉られて時空を超えて、いのちの末裔である人類に至るまで、一三七億年というはるかなる道程みちのりのドラマであります。〝燃えて燃えて火の神燃えて 鎮めて鎮めて水の神 二大生命煉りに煉る〟。大調和のいのちでございます。

 富士山で出会った火の神様と水の神様は、いのちのふる里が懐かしく、原始のいのちが懐かしく、太古の宇宙への追憶に思いをはせるのでありました。火の神様、水の神様の語りを以下にまとめます。

 

太古の宇宙からの神の誕生

 太古の宇宙。それは時空を超えた世界、生命の洪水であった。

 暗黒の渦は沈黙の轟音の中で煉りつづけられている。

 何かを創成しようとする恐ろしいほどのエネルギーが、次第に無気味さを加えながらあやしく輝くさまは、神の誕生そのものだ。神は悶え喘ぎ、苦しみながらも生命を形づくろうとする。

 だがその精進や努力は、地獄の中に吸いこまれ、打ち消されていった。

 神は、生命を生み出す重圧にあらがうすべもなく、ただ日は打ち過ぎてゆく。

 神にまさる力とはいったい何なのか。それは、魔の霊力である。太古の宇宙でみられるのは、暗黒の中で繰り広げられる、二大生命エネルギーの巨大な渦潮だけであった。そこには始まりも終わりもなく、時を超え空間を超えて、ただ巨大な生命の渦だけが激しさを増してゆく。そしてその両極にあるエネルギーが、何かを目指していく。二大生命エネルギーとは、具現化のための「生成エネルギー」であり、それを破壊しようとする「消滅エネルギー」であった。この二大生命エネルギーの進化と退化のドラマが、太古の宇宙の生命世界であった。

 生成と消滅のドラマが一〇〇億年単位のもとでくりかえされることが、宇宙の新陳代謝である。この巨大宇宙では、はっきりとした「意志の存在」を否定することはできない。その意志とは? それは新しきものを造り出そうとする創造の意志である。それはまた宇宙生命ご自身の一大進化の幕開けでもあった。

 

二大生命エネルギーの拮抗

 この二大生命エネルギーの潮流の拮抗は、絶えることなく続いていた。だがその進化の中で、両極のエネルギーには次第に勢力の転換がみられるようになった。その頃、巨大原始宇宙は無数の胎児を宿していた。

 原始宇宙時代の二大生命エネルギーの勢力は、消滅エネルギーが「六」で生成エネルギーが「四」の対比であった。ところが宇宙生命の進化が進むにつれて、その勢力比が五対五に変り、消滅エネルギーは次第にかげりをみせ始めていった。

 さらに進化の歩みは止まることなく、ついにその勢力は逆転することになった。生成エネルギーが「六」で消滅エネルギーが「四」となったのである。と同時に、この暗黒宇宙には、多くの光明が輝き始めた。生成エネルギーが消滅エネルギーを凌ぐ勢力となり、無数の星々が創造したからであった。それは、物質宇宙(内宇宙)の夜明けであったのだ。

 

いのちの両輪を思う

 光り耀かがやく現宇宙は、生命進化の絶頂のようにもみえる。だが、陰の存在となった消滅エネルギーは、決して油断ならぬものだ。なぜか? それは絶対調和安定エネルギー(外宇宙の根本エネルギー)の統御下で、すべての潮流は動いているからなのだ。

 地球は青く澄みわたり、太陽は黄金に輝きみち、神の饗宴に湧く我らの宇宙。それは物を育み、愛の加護を告げてくれる生命の生成力である。だが、その育ての愛がこの世にすべてとなることは決してあり得ない。

 常に生成と消滅という両極の中で、消滅エネルギーの存在はなくてはならない牽制カである。だが、消滅エネルギーがむやみに増大すれば、暗黒の道へと転換することになる。

 生成エネルギーを進化の道とする時、それは〝神(光明)〟であり消滅エネルギーを退化の道とする時、それは〝魔(暗黒)〟と呼ぶことができるであろう。

 神と魔は、生命の表裏一体の存在であり、決して切り離すことはできないものだ。不離一体、融合一体で、相互に関係しあった〝いのちの両輪〟なのである。神の勢力が優勢であるのは、光明宇宙の原理であり、消滅エネルギーが増大すればこの原理は崩れ、この世から星星が消えてゆくという太古の暗黒時代に還る流れとなる。だが、それは宇宙再生の暗黒のドラマなのだ。生あるものは必ず消える明暗のドラマなのである。早かれ遅かれその中には、この世の一切が入っているのである。

 

 物質宇宙(内宇宙)にも寿命があり、人間の寿命と変わりはない。たかだか一〇〇歳ほどの人間の寿命サイクルとは違ったとしても、物質宇宙(内宇宙)でさえ、二〇〇億年ほどの単位で生成・消滅をくりかえすのであろう。

 暗黒から光明へ、光明から暗黒へ……、生まれて死んで、死んで生まれてを繰り返す。死は消滅であり、生命体から元素へ、元素はまた生命体へと生成(再成)するのである。

 死(消滅)は厳粛にして尊く、生命存続のバックボーンなのだ。

 ここで一息ついて、一篇の詩を挿入します。

 

「生と死と八分咲」

死ぬのはいやだ

死にたくないよ

無情の風が吹きすさぶ

あの人この人いつしか消えた

やがてくるくるおいらの番が

無情の雨は音もなく

死んで消えゆく定めとて

辛いよ怖い未練が残る

病んで死ぬならなお辛い

連れて行ってよ

死のない国へ

どうか神様たのみます

聞かれた神様

二つ返事でつれ去った

連れてこられた死のない国へ

ここは天国極楽浄土

病がないから医者いらず

百歳すぎて千歳すぎて

万歳すぎて溢れるいのち

魚は泳げず飛ぶ鳥飛べず

草木はギシギシ人は動けず

助けてください

死なせてください

連れて行ってよ

死なせる国へ

どうか神様たのみます

聞かれた神様

二つ返事でつれ去った

死なせる国は

七色八色

寿命の花が咲き乱れ

不足と思わず八分咲き

草木の花は八分が見ごろ

いのちの食は八分が薬

人の交わり八分が手頃

せめて寿命は八八米寿

お前もおれも無理せず八分

文明文化は急がず八分

二分はいのちの潤滑油

余裕で生きる八分咲

この世は天国八分咲

 

* * *

 

 物質宇宙(内宇宙)の生成・消滅の二大生命エネルギーが調和安定するには、それを統御する根本エネルギーの存在が必要である。それが「外宇宙」である。

 だからこそ宇宙は、〝外宇宙と内宇宙の二層の卵〟である必要があるのだ。外宇宙は「精神宇宙」であり、〝絶対調和意志エネルギー〟が、その根本エネルギーである。それは絶対静の、絶対無(ゼロ)の慣性場である。

 外宇宙は精神宇宙であり、調和意志エネルギーなのだ。ゼロという安定に還るための代謝エネルギーなのである。

〝生成は火の力で消滅は水の力〟と表現することもできる。〝火と水〟は、まさしくいのちのふる里なのである。

 

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印刷版:全143ページ
おりづる書房、2016年

 

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米(食物・自然界)の生命愛に身も心も重ねることで、波乱万丈な人生もどんなに苦しい思いも澄み切ったものへと昇華した著者夫妻。その二人が遭遇した共振共鳴共時の記録は、「こころとは」「いのちとは」という命題に対する答えの証しです。