いのちの
ふる里の扉をあけに
稲霊に誘われた共振・共鳴・共時の旅の記録
本書「帯」記載の文言より
酒乱人生から夫婦二人三脚で新たな生き方を再出発させた著者。自らの足元を照らすかのように出会う共時性現象の体験記録を随想としてまとめています。その中心は、題名の通り、生命の本質は死なないということ。例えば、平成5年8月6日に広島で催された岡本天明絵画展にまつわる話です。訪れた著者夫妻には、「一羽の折鶴」との鮮烈な出合いが待っていました。この件に関しては、後年出版された『神秘の大樹 ヒロシマとつる姫』の中心的エピソードにもなっています。
おそらく「死んでも生きている」というスピリチュアルな副題から誰も「食」を連想しないでしょう。また、一般的な認識として「共時性」というテーマからも、「食」を連想する人は少ないかもしれません。しかし、人間の、少なくとも私たち日本人の「いのち」のシンボルであるといっても過言ではない稲やお米。本の表紙を飾る稲穂は、そのことを象徴しています。
随想(印刷版:全268ページ)
著者略歴:閲覧コンテンツ内
もし、旅の出会いで、虎と鹿に止どまるならば、妻のジャンバーの絵柄には、それほどの意味をもたなくなると、やはり、偶然の域を出ないのか、と、これまでの確信を弱めることにもなりかねない思いが、隙間風となって吹いている。お茶をいただきながら、妻との会話も途切れがちになり、次第に、二人の間には、呼吸が止ったような静かな時が流れていた。と、その時である。突然に、「あれーっ、あれーっ」と、叫びだした妻は、激しく腕を伸して、指先で、あれーっ、と叫んだのである。(写真・文ともに『死んでも生きているいのちの証し』より)
この世に生まれて63歳となったいま、好きでこの本を出版しようと思ったのではなく、たとえようのない義務感というか、使命感には達しないそれこそ神秘的心理状況下でペンを執ることになった。
まさかこの神秘的な本を書くことになるとは、私の人生からは考えられない世界である。
52歳のときでこの世の現実的職業は、天に吸い上げられたように消えてしまった。16年間の不動産業が最後であり、その吸い上げた天の代役は、私の中の虫であった。酒という虫が、時には暴れ出し手のつけられない怪獣ともなった。
酒が天に代って現実社会の武器(職業)をすべて奪ったのである。
そして、天から降ろされた“玉手箱”には、自己改革の命題が印されていて、ついに、外界に向けていた五感は、一気に内界の虫(酒)の真実を探ることになった。
そして、生きる原点・心の原点に達し、人間のいのちの最前線に立つ“米のいのち”から出直す人生となったのである。
それまでの30年間、死を超す難行苦行に立たされ続けた妻は、既に米の心(稲霊)に同化し、天地自然に通じる意識世界を堅持していたのである。
命題の自己改革もほぼ成り、次は、“玉手箱の中を開く”ことになった。すると、そこには、“共時現象の記録係”という白煙の文字が、猛々と立ち昇ったのである。
単に、非現実とも、神秘現象とも言われ、また、半信半疑とされ、さらに、偶然の一致とされてきた世界を、2000例以上の収集資料が山積する中から、最新の体験記をありのままに綴ってみた。
(後略)
まえがき
第一章 副題〝死んでも生きている〟その秘密と現象八例
第二章 共時現象体験の旅
1.旅の第一日(十月七日)
2.旅の第二日(十月八日)
3.旅の第三日(十月九日)
4.旅の第四日(十月十日)
5.旅の第五日(十月十一日)
6.終って終らぬ共時の旅
《特別手記》〝時空を超えた愛犬ペペロの魂〟か
あとがき
本の副題名を決定したのは、平成九年二月一日のことである。それまでの間どうしたものかときめかねながら、体験記の原稿文を書き進めて来た。主題の〝いのちの証し〟は変らなかったが、サブタイトルが出てこない。私は、メモ用として、失敗した原稿の下書き用紙と、筆を持って妻のところに行き、テーブルの前でしばしの時を過ごした。次第に静かな心となり、思念が消えたかと思ったその時、一瞬の閃きが走った。
〝死んでも生きている〟
という思いが、心の奥に激しく刻まれる感じになり、その時既に、右手に持った宋色の毛筆で〝いのちの証し〟と大きく書き、次に、黒色の毛筆で〝死んでも生きている〟とサブタイトルを書いた。
やっと決めたぞう、と思い、妻に見せたところ二言もなく大賛成してくれたのである。その時妻に、
「お父さん、その裏には何が書いてあるんですか」
と聞かれたので、フィッと裏返えしをしてみると、その二行目には、 ……宮沢賢治の魂……云々。
と書いてある。
えっ……宮沢賢治ではないか……
えっ……賢治は、九月二一日に亡くなったんだ。九月二一日……
〝九二一〟!
あっ、今日だ。今日は、平成九年二月一日だっ
〝九二一〟!
宮沢賢治の魂がここに生きて教えてくれたのだっ……。〝九二一〟の賢治の数霊は、今日の数のいのち〝九二一〟と共振共鳴して、
「賢治だよっ、賢治だよっ、
それでいい……
〝死んでも生きている〟
それでよいのだぞっ」
というような、〝思えば通わす命綱〟
となって、今、捨てられそうになった一枚のメモ用紙の文字にも、暦(九年二月一日)の数字にも、心を寄せる者にはその魂のひびきを通わせ続けている真実があったのである。
このことがあって間もなく、下書きから本原稿に清書する日々が続いたのである。いよいよ脱稿間もない今日、三月九日(旧暦・二月一日、この項の宮沢賢治の魂と、サブタイトル決定の秘密を書き終えたのである。
タイトル決定九年二月一日(九ニー)
宮沢賢治の命日、九月二一日(九二一)
この項脱稿旧暦九年二月一日(九二一)
と、賢治の魂は、最後まで見守ってくれたとしか私には思えないのである。
心を澄ませば、一片の紙の〝文字、数、色にも、縁となって引き寄せ合いながら、生きる〟
〝いのちの証し〟となって響いてくるものだ。
昔から偶然とされ、あるいは、迷信とされながらも人々の心に定着する色々な話がある。例えば、
〝噂をすれば影とやら〟
〝泣き面に蜂〟
〝弱り目に崇り目〟
〝誰れそれの先魂が来たッ……〟
〝風の便りで……〟
等と、現実感の薄い神秘的な話は、手応えもなく、それでいてどんな人の心にも刻まれていて、消えて消えやらぬ〝真実の影〟となって浮き沈みしているものだ。どれほど剛毅な人でも、この 〝真実の影〟を否定し、また、抗しきれるものではないだろう。
それは、自らの生命の中に鎮座する悠久の魂の世界から発するものであり、それはまた、各人の意識の本流であり、今の心の本体であり、個性的自我の実像なのである。
私とは、人霊の総合体であり、食の化身であり、食は、植物の化身であり、宇宙生命の根源と結ぶ生命であり、すなわち、〝複合霊体(総合意識エネルギー)〟であると思っている。
その考えに立つ時、人間は、万物の霊長という言葉から、〝万物霊同〟という思いになり、自然界のすべてが愛しくなり、有難い思いが湧いてくる。
そして、魂に死はなく、今の私の生命(心身)に同化した尊い魂という思いに立つものであり、次に紹介する、〝共時現象八例〟と第二章の〝共時の旅五日間〟で見せてくれる多くの魂も、現実の自分の心も、何一つ変ることなく、活き活きと生き、蔭になり、日向となって表裏一体の尊い生命体であることを、確信させてくれるのではないだろうか。
かねてより妻は、上杉鷹山公に想いを寄せていた。殿の妻、幸姫には殊さらに深い想いを寄せていた。いつの日か、米沢の上杉神社と上杉家廟所を参拝出来る日を、心待ちしていたことを私は知っていた。
ちょうどその頃、山形新聞夕刊一面で、県内の温泉めぐりの記事を連載していて、それを私はスクラップしていた。その中で、特に心を引いた山峡の温泉が心に残り、それも、妻の想いと合流できる米沢市であることから、早速訪れることになった。
平成六年八月三〇日早朝五時一分、自宅を出た車は、一路米沢へと向った。上杉鷹山公経由滑川温泉行きのコースで走ったのである。
妻は、米(稲霊)の意識レベルに在り、私も、米はいのちの光と尊く思い、米の種籾を肌身離すことはない。共に、米は、心の共鳴磁場として一際敬虔な思いの中にある。
上杉鷹山公は、江戸時代随一の名君とも言われており、いのちを守る米については、凶作に備え、城下や村々の蔵に、稲籾のままの備蓄を果たし、天明の大飢饉でも、一人の領民をも欠かすことなく救ったと伝えられている。鷹山公の遺影を残す坐像は、彫刻家、米林勝二、鋳造者は、境幸山が製作に当り完成されている。
〝米〟を心の共鳴磁場に持つ者にとっては、
米沢の〝米の文字〟も
鷹山公の〝米〟に向けるいのちの愛も
坐像担当の、米林勝二の〝米の文字〟も
共に、いのちの米に向ける熱い魂のひびきで結ばれているのではないだろうか。
さらに、上杉謙信公家訓〝一六ケ條〟は、米の数霊シンボル(八八=一六=七)の〝一六〟に、共振共鳴し、やはり、〝米〟との共時性と見てよいのでは、と、秘かに思ってみた。
また、上杉家の家紋は、
〝竹に雀〟
であることを知り、雀とは、また、米にとって縁深い波動を感じさせてくれるし……いよいよ、魂の共振を深めたのである。
上杉家を離れ、一路温泉に向けて走った。温泉は、深山幽谷の自然美に抱かれ、約二二〇年前、上杉藩第九代、上杉重定(鷹山公の妻、幸姫の父)の許を得て開湯され、山峡のいで湯として多くの人々に親しまれて来たと言われる滑川温泉である。
温泉旅館、福田屋に到着し、第一号室に通され、中に入ると、思いは一気に爆発することになった。
鷹山公の魂が、目の前に居られるとしか思えない現象が発現したのである。あまりの驚きで仲居さんに尋ねてみると、
「この部屋(第一号室)だけにこの座布団を敷いてあって、他には、一切使っておりません」
という。
座布団には、花が咲いように、
〝竹に雀〟
の家紋が織られていたのである。〝竹に雀〟の家紋を持つ上杉鷹山公とご縁いただいたのは、つい先程のことである。さらに、布団カバーには、
〝N o.一六〟
と印されていて、米の数霊シンボル〝一六〟(八八=一六)と共振し、上杉家〝一六ケ條〟家訓とも共鳴するではないか。
次々織りなす魂のひびきは、広く深い普遍の世界、いのちが輝く普遍の世界から鳴りひびいてくる。
また、氣付いたことの一つに、鷹山公の坐像製作担当者〝堺幸山〟 の名前にも、霊妙なるいざないを感じたのである。
〝幸姫の「幸」と、鷹山公の「山」〟と、殿夫婦の各一字を合せると〝幸山〟となるではないか。
ここにも、文字を共鳴媒体としての魂のひびきを感じ、胸の高鳴る思いが続いたのである。
一二月八日といえば、お釈迦様の大悟された日として、各所で〝成道会〟が行なわれることで広く知られている。
昭和六二年の当日のこと、二人の女性が、自ら信仰する東京都下に本部を置く教団に、法要参加するため、自家用車で急拠直行したのは、昨夕のことであった。
二人は、縁あって、妻とも親交を続けていた。出発に際して妻は、これは万一不足した時に役立てて下さいと言ってお金を手渡した。
「このお札は、〝飛鳥せき(霊能者)〟の魂がこめられており、私が、何かにお役立て下さいと言われて、親族からあずかったものです」と、妻は、二人に念を押して手渡したのであった。
初冬といっても、日中は晴れ渡る良い天気に恵まれ、出発当夜は、うっすら雪の気配があるくらいで、心配することもなく車で出掛けたのである。
ところが、日付が八日に変った深夜二時頃のこと、私は、ふと目が覚めかけたその時、
〝アァーッ……ウァーッ……〟
と、二人の女の声を聞いたのである。
その叫び声は鮮かに耳元に残った。その瞬間、昨夕出発した二人のことが気になった。あるいはッ……事故でもあったのではないか……と、全身に冷気が走った。一体どうしたことだろうか
と、しばし、その叫び声が離れず寝就くこともできなかったが、夜も明け、朝を迎えた頃二人から連絡があって、無事に到着したことを報らされた。
あの声は一体なんだったろうか、単なる幻聴ということなのか、と思ってもみたが、いつしかそのことも忘れてその日は過ぎた。
二人は、成道会も終えて、都下を出発したのは夜の六時過ぎである。
翌朝四時頃、微かにひびくべルの音は、眠気に消されて、遠くなり、近くになりながらひびいてくる。鳴り止まないベルの音は、一気に眠りを覚ました。
まさかーッ……という思いが走った時には、ベルは止んでいた。
二度目のベルが鳴り出したのは、五時頃のことである。再び、まさか一つと思い階下に走り、受話器を受けると、
「事故を起したー……」
と、弱々しい女の声がする。
「場所は、どこかッ……」
と聞くと、
「飛鳥の所で、堰に落ちたー……」
というのだ。
「えーッ飛鳥のせき!〝飛鳥せき〟かッ!」と絶句した。
夜通し交替しながら走り続けて、もう一五キロくらいで到達できるという地点で自爆したのである。
幅約二メートル、深さ約二メートルくらいの〝せき(堰)〟に、垂直に落下した如くにはまって大破した。二人の生命には別状なく、僅かの擦過傷と打撲で済む奇跡の事故となったのである。
二人の話から、意外な事実がわかった。昨日の法要に参詣する時、所持金のお札は汚れでいるから、
〝飛鳥せき〟
からの、折目のないお札を抜き出してお供えしたという。あれほど念押しされたことをすっかり忘れて、自我の面目を立てたのである。〝万一不足の時は役立てて下さい〟と言う〝飛鳥せき〟からの真心の約束を破り、教団の面目を第一に考えた二人は
〝飛鳥(村)の、せき(堰)〟
に引き込まれたという他ないのである。
このことは、亡き魂の愛の実在を示すこととして、心の引締まる思いになる。
霊能者、〝飛鳥せき〟は、旧姓、高橋で、最上郡赤倉温泉に出生し、向町の〝飛鳥姓〟に嫁いだ。飛鳥姓のルーツは、飽海群飛鳥郷(現在の平田町飛鳥)から、開拓のため入植したことが始まりと聞き及んでいる。
まさに、二人が落下した場所こそ、旧、飛鳥郷の中心であったのである。
私の庭には、畳大のミニ田圃があって、昨秋は〝亀の尾〟と〝女鶴〟を収穫した。
そして、平成八年四月八日のこと、五年前からパンツの袋に肌身離さず護持した稲籾(ササニシキ)を、昨秋作った〝亀の尾〟と〝女鶴〟の稲穂に交替したのである。亀の尾の創始者は、明治の篤農家、阿部亀治という方で、うるち米〝亀の尾〟はかつて、日本の三大優良品種の一つとして推称されたという。
(略)
ある村の中を徐行している時、庭の他の前に佇む一人の長老を発見したので訪ねてみた。
訪ね人の〝亀治〟ついては、情報は得られなかったが、伺い始めて、文字的に共振する深い魂の世界に改めて心が洗われる思いになった。
○○亀治の所在を尋ねた方が
〇〇亀三郎
明治四二年一月一五日生れ、八八歳
(略)
阿部亀治が創始した稲、
〝亀の尾〟を身につけ、
〇〇亀治を尋ねた方が
〇〇亀三郎である
という。
さらに、訪ねた〇〇亀三郎さんは、八八歳の米寿を祝ったばかりだという。身につけている〝亀の尾〟は、如何に喜んだことか。
米の数霊〝八八〟と
米寿の祝い〝八八歳〟が
共振する喜びは、これぞいのちの喜びではないか。
さらに、亀三郎さんの地番は、〝一一七〟番地で、私の出生地番も、大字連枝字沼端〝一一七〟番地とぴったり共振共鳴するではないか。
単に、文字合せ、数合せを唯喜んでいるのではなく、このいのちの奥にある〝人間の魂〟の世界、動植物、地球生命、ひいては、宇宙までひろがる〝いのちの情報、心の情報〟が、わが身のいのちに内在するという、その一大普遍性を感じてならないし、そして、自己を見つめる大きな原動力ともなる。
目で見る外界は、わがいのちの中にあり、わがいのちの世界は、外界と何ら変らないという生命感が生きてくる。
所蔵図書館一覧を掲載しています。
各都道府県の横断検索ができます。
米(食物・自然界)の生命愛に身も心も重ねることで、波乱万丈な人生もどんなに苦しい思いも澄み切ったものへと昇華した著者夫妻。その二人が遭遇した共振共鳴共時の記録は、「こころとは」「いのちとは」という命題に対する答えの証しです。