書籍『酒乱・コメのいのちが生きるまで』/このページでは、この本について詳しく紹介します。下の目次のうち「スライダで閲覧」という項目はスクリーンリーダーに対応していないため「本文からの抜粋」のご利用を。iOS及びMacは電子書籍(Apple Books)が利用可能。

要点・概要

 『酒乱 米の生命が生きるまで』は、この著者の作品の中でまず一番おすすめしたい本です。この本を一言で表現すると「赤裸々ないのちの叫び」。「いのちとは」「心とは」という文字通りの “命題” について、体験を通じた非常に強いメッセージを発しています。

 後年、この著者は『死んでも生きている いのちの証し』『神秘の大樹』という著書を出版していますが、第一作である『酒乱 米の生命が生きるまで』を読むと、なぜこの著者が、共時性を切り口にして「いのち」を語るのか、腑に落ちるだろうと思います。

 私自身がそうであるように、自分の心なのに、自分のいのちなのに、なぜこんなにコントロールがむずかしいのか…大声で叫びたくなるような、張り裂けそうな思いを経験したことのある人はきっといるのではないでしょうか。

 

自伝的随想
(印刷版:全237ページ)

著者略歴:閲覧コンテンツ内

 

本文からの抜粋

 

 

     

 

どんな苦しい思いも、どんなつらい思いも、感謝にかえたまえ
「天の啓示に生きる妻」の一節

 

 

 

天の啓示に生きる妻

 断酒数年前のこと、妻は、ある声なき声を聞くことがあったという。
 酒乱の断末魔が、響きをあげて近づく頃のこと。酒乱のやり口には身ぶるいするほどの恐怖を感じながらも、その中にあって、夫の狼藉にもいつしか感謝の気持を持てるようになっていた。
「お父さんのお蔭で、沈黙世界から、その心をいただけるようになりました。お父さん、本当にありがとうございます。」
と、どれほどに恐ろしい難儀だったことか。言うが早いか、顔をしばたたせながら、泣き出してしまっていた。
 ある日のこと、刃物を振り上げている夫のため、家へ入ることもできず、たった一人の妹に助けを求めて駆け出して行ったが、巻き添えが恐ろしくて、家に寄せて休めさせてくれなかったようだ。あまりの酒乱の恐ろしさのため、そこの小屋にさえも、休ませてもらえなかった妻の憐れさ。
 寒気が身をつんざく酷寒の夜。天を仰いで、無心の生命の中から、
「どんな苦しい思いも、どんな辛い思いも、感謝にかえたまえ」
と、心の奥深く刻んだ妻への伝言。
 それを区切りに、妻は一心に、夫のいかなる乱行にも、ただ一念に頭を下げ、どんな苦しい思いも、どんな辛い思いも、すべて感謝に変えていくことに徹した日々を過ごすようになった。
 この感謝に徹する日々こそ、神に生命を捧げ尽し切って得た、心開きの難行苦行であった。
 ついに、妻の生命には、自然界の生命の愛が全開することになる。
 ある日のこと、妻はこんなことを話すのであった。
「お父さんが悪いのではありません。米の生命がわかるまでの教えなのです。すべての食べ物、人参一本、大根一本、魚、なんでも、みな尊い人間を生かし続ける生命の元です。
 人間以前のこの生命たちの、尊く、汚れない食物たちから、生命の声が聞こえます。食物たちの生命は、それぞれ違う者たち同士ですが、人間のように争うことはいたしません。
 口から入った、いろいろな食物の生命は、一糸乱れず、人の生命を守り続けます。
 そうして、一本道の人の体を通り、ふたたび、自然界へと戻っていく生命たち。
 その代表である米の生命は、酒となり、神々にも捧げられます。透明で、汚れない姿となって神に供えられるのです。
 その、米の生命を見て、悟って、お父さんの心も、米のように、汚れない心となるまでのお役目でした。
 私は、このことを教えていただき、お父さんに、本当に感謝しなければいけないのです。ありがとうございました。」
 私は、この奇想天外な話に面喰らうばかりで、感謝しないといけないのは、こっちのほうなのに、尋常ならざる超越世界を垣間見た思いだった。
 息詰まるような酒乱の歳月の中で、妻のその辛い苦しい地獄から救う神の業であったと考えている。どんな過酷な試練をも、感謝、喜びに変えて生きていく、恐るべき神の智恵が授かったとしか言いようがない。
 米の生命がわかるまで、そして、その米の生命が生きるまでの酒乱劇。これは、永々百年に及ぶ、母と妻の二代にわたる女神のような守りであった。

 

 

 

 

正しく生きろと叫ぶけど
人の心は破れ耳
米のわたしを閉じ込めて
飲めや歌えの浮世花

「米は、いのちの光」の一節

 

 

 

米は、いのちの光

この現実社会にあって、一時、出家の道を真剣に考えたことがあったが、今は、あくまでも、精神性を土台として、現実凝視をして生きることを決心した。
 以前は、現実至上主義で金満家が夢であったが、そこには、大きな落とし穴のあることを知った。ブレーキのない、物質金満の世界には、見せかけの幸せが待っていて、先へ先へと走り、先を見るあまり、どうしても、足元を見失ってしまう人生である。生きる本当の喜びは、なんであるのかを見失っている人がたくさんいる。
 金で、生命いのちが保証されるのだと、錯覚するような人生は、消えていく虹の橋を渡る、虚飾の人生であることがわかった。
 そして、子孫に強欲の因縁、酒乱の因縁、色情、倣慢の因縁を残さず、その他、多くの不幸因縁を、残さぬような人生を生きようと、生きる価値観を変えることができた。
 以前の私は、浪曲『森の石松』ではないが、
「飲みねェー、飲みねェー、酒飲みねェー。喰いねェー、喰いねェー、寿司喰いねェー。……エッ……肝腎な人を忘れちゃ、おりゃせんかッ……」
と、石松ならぬ、大事な大事な生命いのち様を忘れていたのだった。
 生命は、生命でも、酒乱の唄枕に酔いれていた悪魔の生命ではない。ピッカピッカの生命様だったのである。

激しき宇宙の 波動はすぎて
ポッカリ浮かんだ いのち星
太古の昔の いのち花
海にいのちの 花ひらき
大地にいのちの 花ひらき
空に大気の 花ひらき
天に輝く 太陽が
ニッコリ笑って 花ひらき
お待ちいたした 人間様よ
ながき世の道 人の道
いのちの天子に 育つ世に
向けて花咲け いのち花

生命いのちとはなんぞやッ〟と尋ねても、生命は答えてくれない。だが、一人一人に感じられる生命の響きは必ずある。生命には、声も言葉もないが、絶対なる〝安定調和エネルギーを秘めた意識波動(生命の響き)〟が存在する。
 そして、人間以外の全存在は、自然界の調和エネルギー波動と生命同化して生きている。だが人間は、心のエネルギーを異常なまでに進化・・させてしまったため、千変万化する自分の心に振りまわされるようになった。
 この人間独自の心(擬似魂)は、生命から送られる安定調和の意識波動(真性魂)をさえぎり、魂の光を曇らせてきた。
 人は誰しも〝心は人間の特権〟であると思い、人間以外のものには、心の存在など容易に認めてはくれない。
 そこで、今、誰かに「あなたはどうして生きておられると思いますか」と尋ねてみたとすると、どう答えてくれるだろうか。おそらく「食べているから生きています」と言うだろう。確かに人間は、食物を食べると血となり、肉となり、さらに心を発生して・・・・・・、毎日を生きてゆける。
 ところが、人間以前の食物生命に、心があるかと聞かれたら、ほとんどの人は、「ノー」というだろう。米や大根、魚や果物に、(意識)があるなんてとんでもないことで、気持が悪い……と言うだろう。
 ところが妻は、この人間以前の、人間を生かし続ける食物の生命、自然界の生命に、心(意識の響き)があることを言い続けてきた。それは、妻の生命の中に、沈黙世界の声が、生きて結ばれるようになったからにほかならない。
 素直に考えれば、「人間を造り上げた食物たちは、人間ができうる可能性の根本要素(物質的、精神的)を、すべて持っている」と思うし、だから、心というものは、人間だけの特権ではなく、人間のような心・・・・・・・にはなれなくとも、人間の心の元となる心・・・・・・・・・・(調和の意識波動)が、食物一切の生命にもあるといえる。
 さらに、生命界には、〝食物の心の元となる心(宇宙意識)〟があって、その心の元とは、神とも、宇宙心霊とも呼ぶことができる。だから、生きとし生きる生命体の中心を貫く生命・・・・・・・は、万物共通だと言ってもおかしくない。
 いわゆる、万物は、宇宙意識を共有している同志ということになり、私はそのことを〝魂の平等・・・・〟と思うようになった。だから一心に、〝心を浄め澄ませれば、万物に心が通じる〟ことができると言える。心の元(宇宙意識)は、人間的煩悩心とは無縁の心であり、これこそ人間の心の羅針盤としたいものだ。したがって、食物をはじめ、自然界の一切は、〝生かし続ける愛の師となる心・・・・・(調和心)〟で溢れている。
 この汚れなき、ピッカピッカの生命いのちに目覚める時、人は必ず己の愚かさに気づいてゆくはずである。
 私たちが毎日当然のごとく食べている米や野菜などに、宇宙意識の大調和エネルギー(響き)を感じながら、安定した心で生きたいものだ。
 大調和のエネルギー(米、野菜など)を食べていたとしても、不調和な心(片寄りの心)を持って生きるなら、病気にもなるだろうし、不幸を招くのも当然である。私の酒乱地獄はその典型であった。
 言い換えれば、一連の不幸性は、人間となった米、野菜たちの生命の叫び・・・・・と言える。
 それでは、次に、人間の生命の光となる稲穂の喜びを、妻の心いただきの一節から紹介したいと思う。

カエルの声 はげましを
稲の心は はぐくみあう
緑すがたの 成長期

カッコウの声 勇ましく
育成のありがたさ
愛は稔り

朝日に開く 稲の花
セミの声聞く 夏のあい

青空に 祭り太鼓の音聞くも
心ごころの 稔り待つとき

秋のみのり 黄金の稲穂よ
小鳥の声に 喜びの揺れ

一粒のいのちにかけた花の木を
恵みの愛が 守る神

土の心 水のいのち 守りあれ
稲の心と 人生の開花

 米は人類究極の食糧となるであろうし、また、純日本風の食事こそ自然性にかなった、最も調和のとれた生命の救済・・・・・となるのではないかと思っている。
 このうたは、昭和六十二年十二月六日、妻が映画鑑賞中に暗闇の中、手探りで綴ったものである。『牧野村物語―一〇〇〇年刻みの日時計(山形県蔵王)」という、米作りに生命を賭けた映画であった。

 米のうた


もみをぬがれて 白い肌
水でとがれて 丸裸
釜に入れられ スイッチオン
今日も輝く ダイヤの光
感謝せよとは 言わぬけど
米の尊さ 今一度


んで呑まれる このわたし
じっくり思う 胃の中で
今からわたしは 人間に
なって生きるを 誰が知る
知ってくれとは 言わぬけど
米の尊さ 今一度


りに煉られる 胃の中で
次は全身 いのち旅
隅の隅まで 血となりて
肉となりゆく 流れ旅
わかってくれとは 言わぬけど
米の尊さ 今一度


五体になった 米いのち
正しく生きろと 叫ぶけど
人の心は 破れ耳
米のわたしを 閉じこめて
飲めや歌えの 浮世花
米の心は 誰が知る


いのちの親・・・・・から いただいた
〝米〟という字の 素晴らしさ
いのちの真実 生きている
〟と
〟の文字
〟の文字
プラス(
マイナス(
調和のいのち
〟の文字
〟の字
〟の文字
八字であかす米の愛


米のわたしを 知るならば
人の不幸は ありませぬ
宇宙天地の 調和の愛を
背負って生きる 大使命
人の心に生きるまで
人を愛して きないわたし
人の心に生きるまで
人を愛して 尽きないいのち

 米は食物の先頭に立って、心をさとし、調和の愛を使命として人間を生かし続けている。そして、人類の果ての果てまでも、人を造り、人を守って、運命を共にする。
 米は、正しく神の申し子・・・であり、〝生命いのちの光〟である。

 

 

 

 

それが自然界の調和と愛ではないのか。
「自然界がさとす〝生命いのちの声〟」の一節

 

 

 

自然界がさとす〝生命いのちの声〟

 あれから過ぎゆく五年の歳月は、一瞬のように短く感じられてならない。
 今は、不惑の心も着実に実り、心も肉体も、正しい自己の言うとおりに動いてくれる日々となっている。酒乱人生、その神経症からも立ち直り、人生再起の五十八歳にして、残りの生命いのちを一心に、正しく生き、この生命いのちを燃やしてゆきたい。生命いのちある限り、人間らしく、現実の中で、価値ある人生にすべてを捧げたい。
 そう覚悟を決めて生きようとする今、迷える同士や、現世の心失われてゆく不幸性なかたたちに、翻意をもたらす一灯なりともともすことができれば喜びである。その思いにかられて、ここに酒乱物語として世に問うものである。
 酒の生命いのち、それは米の生命いのち。この米の生命いのちは、やさしくさとしている。
〝酒乱を教えた覚えなし〟
と、一点の濁りもなく、汚れもない酒。それは米の生命いのちの精である。その汚れなき米の生命いのちをいただいて、何故、人は心を汚すのか。
「なぜ、人はアルコール依存症、酒乱になってゆくのか」
米の生命は尊く叫ぶ。

いのちの調和に生きてくれ
愛と調和と喜びの
いのちの道に目覚めあれ
米のいのちが生きるまで
飲ませつづける米の精
母一念と妻一念
やっと目覚める人ごころ
三日の習慣百までも
人の心を思い知る

 妻は、夫を警察から引取りに来たその日のこと、天井に響く階段の踊り場で、一瞬、心ひかれて外を見た。窓を額縁がくぶちにして、天下晴れての秀峰〝鳥海山〟の全容を一望した。
 妻は、すでに心浄めも高く、沈黙世界の永遠の生命いのちに、心は結び通じていた。峰の心いただきは、次のような文字となった。

窓越しの 峰の心にあらわるる
声むすばれて 生き証人の姿なり

 どんな動きが目の前に来ようとも、夫を憎んでどうなるものか。それよりも、今、肉体があるではないか。生きておればこそ、必ずや目覚めてくれるはずだ。
 夫は知らずとも、夫の生命いのちがすべてを知っている。それが自然界の調和と愛ではないのか。
 生かしつづける生命いのちを通して、自然界の愛と結ばれている夫の生命いのちではないのか。
 その愛と調和と喜びの生命いのちの光が、夫の中で輝く日は必ず来る、と、妻は決して憎むことはせず、守り一念で警察に出向いたのだった。
 自然界には、声も言葉もないが、心が通えば、声なき声で愛が結ばれる。
 この時にいただいた峰の心こそ、その真実を言いあらわした声ではないか。
「苦渋に満ちたあなたの夫は、きっと、酒の生命いのちを証してくれることのできる人になります。永遠の生命いのちの証し人になる今の姿なのです。
 米の生命いのち、自然界の生命いのち、その生命いのちを証してくれることのできるまで、その道程を行く姿こそ、夫の今のありようなのです」
と、その声が結ばれた。
 振り向いた妻は、鳥海山の澄みわたる沈黙の中から、限りなき永遠の響きを、身をふるわせながら、伝え受けたのであった。
 そして、心洗われ、さとされたのである。酒乱の勢いをかりて、女性問題を起こし、醜い嫉妬で人殺しまでやろうとした夫、その私を引取りに来た妻は、こうして、峰の心に守られながら、憎しみの一切も消えていた。
 外は、晴れて澄みわたる昼下がりのこと、警察に深々と感謝をして、帰宅することができた。

 

 

 

 

人間以前の生命の愛がないと成仏できない
「守護の窓口となった妻と自然律(悪はこの世の仮りの姿)」の一節

 

 

 

守護の窓口となった妻と自然律(悪はこの世の仮りの姿)

 あの火事の発見が、もう少し遅かったなら、大惨事になったと思うと、なぜか、私の今日ある、ゴールの灯明が輝いていたのかもしれない。勝手な想像をと思うだろうが、そこに、見えざるなにかが動いていたようにも思える。
 その橋を渡り終えるとその橋が落ち、その次の橋を渡り終えると、また、その橋が落ちていく。この時、もし大惨事になっていたなら、執行猶予が、声を立てて躍りあがって喜んだことだろう。波乱の止め金・・・だったが、そこを、どんな神様が守ってくれたのか、どんな仏様が守ってくれたのか、その護りの窓口が、〝妻の真心の一念〟だったように思える。
 その頃、妻には、親戚たちが詰め寄ってきていた。残された家族を見るに忍びなく、「離婚しなさいッ」と詰め寄られていたが、妻は、一念、夫を立て直すとの決意は固く、「夫婦の縁を粗末にするなッ」と、決して動かなかった。
 この心の奥には、どれほどの悔しさと、憎しみと、愛が、グチャグチャ揉み合い、砕け合っていたことだろうか。妻の口から、そうしたグチめいた言葉を聞いたことはなかったが……。それをよいことにしてか、心に入れてか、入れずにか、私は、泥棒にも三分の理ありとばかり、「ああでもない、こうでもない」と言い返していた。正邪善悪が麻痺する酒乱、薬物中毒患者は少々の不祥事について、本人には責任感が全くなくなっている。意識がぼけて、心神耗弱状態なのだから、やむをえないことだ。自意識がはっきりしていて、自分がなにをやっているのか、いいのか、悪いのか、思慮分別がわかるようならば、馬鹿な真似はできない。すべて、意識の埒外らちがいの出来事として、罪悪感が湧いてこないのが、厄介なアルコール性痴呆症なのである。せめても、せめても、取りつく島がないのだから、始末におえない。
 平常心で、酒と付き合える人たちには、はるかな、くだらない人たちと思えるだろう。だが、人間の進化の中で、今日までの遠い道程で、生活の友として、飲み続いているいとしき酒を、祖先の誰かが、道を少しずつはずしてきたことは、明白な事実だろう。
 こうした生命いのちが、子々孫々へと伝わる中で、きちんと飲める人と、乱れてしまう人とに分かれてしまった。そうして、時代を経て、〝悪い酒〟のほうの人が、遺伝子性の申し送りとなって、肉体的、精神的に、酒乱の素養が成長することになったようだ。
 そのため、心の習慣と肉体の習慣を、日々、粗末にできない理由が、生命いのちの裂けるほど、わかってくる。そして子孫のどこかで、必ず目覚めなくてなんとするか!!
 この永々と続いた悪習慣は、自分の過去だけのものなのか、あるいは、両親の代からのものなのか、さらに、それよりも、もっともっと先の時代にまで遡るのかは、人それぞれに異なっている。
 ただ、ここではっきりしていることは、子孫の誰かが、この先祖ぐるみの悪習慣を断ち切らなくてはならない。命がけで、生命に恥じない人間性を取り戻さなくてはいけないのである。
 そのためにも、単に人間的自我というくらいでは到底太刀打ちができない。自然界の愛が窓口にならなくては、汚れ切って、軟弱化した人間の心を、浄めることはできないだろう。
 人間発生前の、生命いのちの愛に戻って、我々を、
「生かして、生かして、生かし続ける愛の力」
を借りなければ、人間は改心できない。
 すべての宗教を超えて、生命の愛に目覚めなくては、心の汚れは浄められない。私に潜んだ、酒乱で汚れ切った心は、妻の真心の一念で、生命の愛に目覚めさせてくれたのだった。米と酒の生命が、妻の生命の光を通して、私の心の中で生き返ったのである。
 このことは、とても理解に苦しむこと、あるいは、低俗なことだと言われるかもしれない。だが、今、本当に、自分が迷っている時、そこから目覚めるためには、高尚な精神論や、宗教論で救われるだろうか。
 少なくとも、酒乱の人生から自分を目覚めさせてくれたものは、ただの主婦である妻の守りのお蔭だった。一念の真心(愛)は、人間的自我(煩悩的自我)を超えた愛の心となり、私の汚れた心を浄めてくれた。
 この妻の愛は、あまりに当たり前過ぎて、かえって説明に苦しむところだが、それは、人間的、都合的、犠牲的な愛ではない。また、男女の愛、親子の愛とも違う。それでは、どういう愛なのか。一口で言うなら、生かし続ける沈黙の愛だと、言える。また、宇宙心霊(生命界の心)が、妻の生命にがっちりと生きたのだと思われる。
 妻が、よく言う言葉に、
「人間以前の食物たちの生命(心)に戻らないと、人は成仏できない。人霊の活躍は、まだ自我がある。人間以前の生命の愛がないと成仏できない」
と、いうことがある。
 このことを知るためには、まず、毎日の食事に心を向けるがよい。食べることによって、生きることができるのは、当たり前のことだ。
 もの言わぬ米を食べ、そして、野菜、魚、その他一切の食物を食べて、こうして、自分の心が生まれ、が生まれ、言葉が生まれ、走り回り、今日を生きる人間。この、生かす力(愛)しかない食物たちと、融合一体となって、その尊い声なき心を受けることができる。酒乱の夫と過ごす尊い人生、三十三年の中で、人間を諭し続ける生命界の心と、通じ、結ばれ、生きた。そこには、いかなる理論の余地もない。
 そこにあるものは、丸裸の透き通った光だけの生命いのちしかない。そして、黙する生命の光の受け皿となった妻。しいて言うなら、沈黙の心々の世界から見たなら、灯台の光のような妻を見ているようなものであった。
 だから、米の生命は、妻の生命の光を見て、心を寄せる。酒の生命も寄ってくる。酒の心は、妻を通して叫ぶ。
「喜び、安らぎで飲むんだよッ。浄まりの生命いのちだよッ。神に捧げる生命だよッ。汚すのは、人の心だぞッ」
 また、米の心は言うだろう。
「米寿の祝いとなる生命だよッ。八十八(88)の数にも、生きられる生命だよッ。磨き抜いて、御神酒にもなる生命だよッ。生命を汚してはならないよッ……」
と、人の体の中から叫んでいるだろうし、米、酒、食物一切、また、自然界の心々、そして、人霊の心々たちも、人の世のために、代弁してくれる妻の生命に寄ってくる。となって、文字に生きて、に生きて、に生きて、寄ってくる。そして、見えざる生命の世界の心々を、人々に伝えていただく喜びが、こちらにも感じられる。
 天地の生命の愛で生かされる人間界は、必ず、一人一人の生命の中から、目覚めさせられるであろう。そして、妻の守りは、沈黙世界の、見えざる、生かし続ける愛、その愛そのものの守り姿であった。
 だから、米の生命も、酒の生命も、私の生命の中で、力強く生きた。
 まず、心の突破口は、食物たちや、自然界の生かし続ける生命の愛を、自分の心で、ガッチリと感じられるようになれば、不調和な人生から、目覚めることが早まると思う。概念としての知識だけでは、むしろ、混乱が生ずるから注意しなければならない。
 こういう、生命の原点に、真心から感謝できる心(愛)が目覚めたなら、自らを救うことが必ずできる。
 不調和な心(悪性)は、目覚めなき迷いの心だから、悪はこの世の仮りの姿だと言える。

 妻を介する 神力かみぢから
 今ぞ晴れての 人の道
 断って立ちゆく 酒の道
 いのちの原点 目覚めゆく

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