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要点・概要

 

 

 

やっと目覚める我がいのち
天下晴れての人の道
いのちの原点ここにあり

書籍『酒乱‐米の生命が生きるまで』「序・心の目覚め」の一節

 

 

 

『酒乱 米の生命が生きるまで』は、この著者の作品の中でまず一番おすすめしたい本です。この本を一言で表現すると「赤裸々ないのちの叫び」。「いのちとは」「心とは」という文字通りの “命題” について、体験を通じた非常に強いメッセージを発しています。

 

後年、この著者は『死んでも生きている いのちの証し』『神秘の大樹』という著書を出版していますが、第一作である『酒乱 米の生命が生きるまで』を読むと、なぜこの著者が、共時性を切り口にして「いのち」を語るのか、腑に落ちるだろうと思います。

 

私自身がそうであるように、自分の心なのに、自分のいのちなのに、なぜこんなにコントロールがむずかしいのか…大声で叫びたくなるような、張り裂けそうな思いを経験したことのある人はきっといるのではないでしょうか。

 

 


書籍『酒乱・コメのいのちが生きるまで』/このページでは、この本について詳しく紹介します。下の目次のうち「スライダで閲覧」という項目はスクリーンリーダーに対応していないため「本文からの抜粋」(=縦書き)のご利用を。iOS端末及びMacは電子書籍(Apple Books)が利用できます。

本文からの抜粋

 

 

 

 

今までの自分の、不調和な生き方から、本当に目覚めた時、生命いのちの中から、喜びが湧いてくる。

「序 心の目覚め」の一節

 

 

 

 

 心の目覚め

 

 酒乱地獄二十八年から目覚めた自分。目覚めることのいかに、素晴らしいことか。

 今までの自分の、不調和な生き方から、本当に目覚めた時、生命いのちの中から、喜びが湧いてくる。

 その喜びは、生かし続けた、米の生命いのち(愛)の喜びであり、透明な光となった、清酒さけ生命いのちの喜びであり、食物一切の、生命いのちたちの喜びである。

 さらに、自然界の、生命いのちたちの喜びでもある。

 人となった、その生命いのちたちは、真理(調和)の中で、生かさねばならぬと、祈り願った、愛の喜びである。

 酒の生命いのちに、目覚めることは、素晴らしいことだ。

 酒乱人生を通して、五十八歳にして目覚めた自分。

 死よりも強き力(生命)の中で守った妻。

 自然界の心を生かされた妻の愛。

 限りなき、生命いのちの愛に感謝したい。

 

いのちの守り(いのちの原点)

 

日々に苦しむ 夫の酒乱
妻の苦しみ 見いかねて
亡き人々も 立ち上がり
米一同も 立ち上がり
酒一同も 立ち上がり
自然のいのちも 立ち上がり
天地の愛が 立ち上がり
妻よしっかり しなはれと
いのち一同の 守り声
守りの声は 文字となり
いのちの愛が 文字となり
夫の中で 生き通う
生きて通わす 断酒の日まで
働き続ける 米の精
働き続ける 酒の精
働き続ける 自然界
守りの力 重なりて
妻はここまで 生きてきた
感謝の喜び 胸一杯
米のいのちよ ありがとう
酒のいのちよ ありがとう
食べるいのちよ ありがとう
天地の愛よ ありがとう
やっと目覚める 我がいのち
天下晴れての 人の道
いのちの原点 ここにあり

 

「序 心の目覚め」一〜五頁

 

 

 

 

それが自然界の調和と愛ではないのか。

「自然界がさとす〝生命いのちの声〟」の一節

 

 

 

 

自然界がさとす〝生命いのちの声〟

 

 あれから過ぎゆく五年の歳月は、一瞬のように短く感じられてならない。

 今は、不惑の心も着実に実り、心も肉体も、正しい自己の言うとおりに動いてくれる日々となっている。酒乱人生、その神経症からも立ち直り、人生再起の五十八歳にして、残りの生命いのちを一心に、正しく生き、この生命いのちを燃やしてゆきたい。生命いのちある限り、人間らしく、現実の中で、価値ある人生にすべてを捧げたい。

 そう覚悟を決めて生きようとする今、迷える同士や、現世の心失われてゆく不幸性なかたたちに、翻意をもたらす一灯なりともともすことができれば喜びである。その思いにかられて、ここに酒乱物語として世に問うものである。

 酒の生命いのち、それは米の生命いのち。この米の生命いのちは、やさしくさとしている。

〝酒乱を教えた覚えなし〟

と、一点の濁りもなく、汚れもない酒。それは米の生命いのちの精である。その汚れなき米の生命いのちをいただいて、何故、人は心を汚すのか。

「なぜ、人はアルコール依存症、酒乱になってゆくのか」

米の生命は尊く叫ぶ。

 

いのちの調和に生きてくれ

愛と調和と喜びの

いのちの道に目覚めあれ

米のいのちが生きるまで

飲ませつづける米の精

母一念と妻一念

やっと目覚める人ごころ

三日の習慣百までも

人の心を思い知る

 

 妻は、夫を警察から引取りに来たその日のこと、天井に響く階段の踊り場で、一瞬、心ひかれて外を見た。窓を額縁がくぶちにして、天下晴れての秀峰〝鳥海山〟の全容を一望した。

 妻は、すでに心浄めも高く、沈黙世界の永遠の生命いのちに、心は結び通じていた。峰の心いただきは、次のような文字となった。

 

窓越しの 峰の心にあらわるる

声むすばれて 生き証人の姿なり

 

 どんな動きが目の前に来ようとも、夫を憎んでどうなるものか。それよりも、今、肉体があるではないか。生きておればこそ、必ずや目覚めてくれるはずだ。

 夫は知らずとも、夫の生命いのちがすべてを知っている。それが自然界の調和と愛ではないのか。

 生かしつづける生命いのちを通して、自然界の愛と結ばれている夫の生命いのちではないのか。

 その愛と調和と喜びの生命いのちの光が、夫の中で輝く日は必ず来る、と、妻は決して憎むことはせず、守り一念で警察に出向いたのだった。

 自然界には、声も言葉もないが、心が通えば、声なき声で愛が結ばれる。

 この時にいただいた峰の心こそ、その真実を言いあらわした声ではないか。

「苦渋に満ちたあなたの夫は、きっと、酒の生命いのちを証してくれることのできる人になります。永遠の生命いのちの証し人になる今の姿なのです。

 米の生命いのち、自然界の生命いのち、その生命いのちを証してくれることのできるまで、その道程を行く姿こそ、夫の今のありようなのです」

と、その声が結ばれた。

 振り向いた妻は、鳥海山の澄みわたる沈黙の中から、限りなき永遠の響きを、身をふるわせながら、伝え受けたのであった。

 そして、心洗われ、さとされたのである。酒乱の勢いをかりて、女性問題を起こし、醜い嫉妬で人殺しまでやろうとした夫、その私を引取りに来た妻は、こうして、峰の心に守られながら、憎しみの一切も消えていた。

 外は、晴れて澄みわたる昼下がりのこと、警察に深々と感謝をして、帰宅することができた。

 

「地獄期」>「自然界がさとす〝生命いのちの声〟」二一〜二五頁

 

 

 

 

どんな苦しい思いも、どんなつらい思いも、感謝にかえたまえ

「天の啓示に生きる妻」の一節

 

 

 

 

天の啓示に生きる妻

 

 断酒数年前のこと、妻は、ある声なき声を聞くことがあったという。

 酒乱の断末魔が、響きをあげて近づく頃のこと。酒乱のやり口には身ぶるいするほどの恐怖を感じながらも、その中にあって、夫の狼藉にもいつしか感謝の気持を持てるようになっていた。

「お父さんのお蔭で、沈黙世界から、その心をいただけるようになりました。お父さん、本当にありがとうございます。」

と、どれほどに恐ろしい難儀だったことか。言うが早いか、顔をしばたたせながら、泣き出してしまっていた。

 ある日のこと、刃物を振り上げている夫のため、家へ入ることもできず、たった一人の妹に助けを求めて駆け出して行ったが、巻き添えが恐ろしくて、家に寄せて休めさせてくれなかったようだ。あまりの酒乱の恐ろしさのため、そこの小屋にさえも、休ませてもらえなかった妻の憐れさ。

 寒気が身をつんざく酷寒の夜。天を仰いで、無心の生命の中から、

「どんな苦しい思いも、どんな辛い思いも、感謝にかえたまえ」

と、心の奥深く刻んだ妻への伝言。

 それを区切りに、妻は一心に、夫のいかなる乱行にも、ただ一念に頭を下げ、どんな苦しい思いも、どんな辛い思いも、すべて感謝に変えていくことに徹した日々を過ごすようになった。

 この感謝に徹する日々こそ、神に生命を捧げ尽し切って得た、心開きの難行苦行であった。

 ついに、妻の生命には、自然界の生命の愛が全開することになる。

 ある日のこと、妻はこんなことを話すのであった。

「お父さんが悪いのではありません。米の生命がわかるまでの教えなのです。すべての食べ物、人参一本、大根一本、魚、なんでも、みな尊い人間を生かし続ける生命の元です。

 人間以前のこの生命たちの、尊く、汚れない食物たちから、生命の声が聞こえます。食物たちの生命は、それぞれ違う者たち同士ですが、人間のように争うことはいたしません。

 口から入った、いろいろな食物の生命は、一糸乱れず、人の生命を守り続けます。

 そうして、一本道の人の体を通り、ふたたび、自然界へと戻っていく生命たち。

 その代表である米の生命は、酒となり、神々にも捧げられます。透明で、汚れない姿となって神に供えられるのです。

 その、米の生命を見て、悟って、お父さんの心も、米のように、汚れない心となるまでのお役目でした。

 私は、このことを教えていただき、お父さんに、本当に感謝しなければいけないのです。ありがとうございました。」

 私は、この奇想天外な話に面喰らうばかりで、感謝しないといけないのは、こっちのほうなのに、尋常ならざる超越世界を垣間見た思いだった。

 息詰まるような酒乱の歳月の中で、妻のその辛い苦しい地獄から救う神の業であったと考えている。どんな過酷な試練をも、感謝、喜びに変えて生きていく、恐るべき神の智恵が授かったとしか言いようがない。

 米の生命がわかるまで、そして、その米の生命が生きるまでの酒乱劇。これは、永々百年に及ぶ、母と妻の二代にわたる女神のような守りであった。

 

「地獄期」>「天の啓示に生きる妻」八〇〜八二頁

 

 

 

 

人間的自我の一切ない、浄め上げられた自然界/人間界のような、他を殺し、争い、奪い、傷つけ合う心はない。

「難行苦行の人あれど」 九七ページ

 

 

 

 

難行苦行の人あれど

 

 一方、妻のほうでは、二日目にして、雪の中から発見されたトラックのこと、使い込んだ金のことで、詰責きっせきを受けていた。当の夫は、行方不明で、雲を摑むような有り様だから、ただただ恐縮と不安の中で過ごしていた。会社側は、前代未聞の事件で、金を返済しなければ警察に届ける、と、きっぱり言い渡してきた。妻は、「それだけは勘弁してください」と、なけなしの遣り繰りをして、弁償することを約束して、どうやら、そのことだけは内々にしてもらったようだ。

 妻は、夫は必ず帰ってくると信じながらも、当座の返済には頭を痛め、洋裁で得た銭を遣り繰りしながら、返済をしていた。夫の消息不明の中で、またまた息詰まる日々を生きなければならないとは、なんと厳しい因縁なのか……。

 今、こうして、魂の入れ替えに生命いのちをかけながらも、書き綴っていても、心苦しい筆運びである。

 母が、父にかけた慈愛一路を継いで、妻は、母子心中の迷いを脱して、夫を立ち直らすことの一念を決意したという。そして、いかなる条件の中でも、明るく展開する真心の道を貫き通したのだった。

 話は、もっと後のことだが、妻は沈黙世界から響いてくる、生命いのちの波動を文字に綴って久しい。彼女の〝いただいた心〟を、名刺に刷って、縁ある人々に渡していた。今それを、私の『酒乱人生・浅草以降』を書く前に紹介しておきたい。

 

難行・苦行 人あれど

我が心開きも 難行苦行

人の心を 借りて出る

人の心の 打ち勝つ泉(文字よ)

守りの世界の 尊き言葉に 頭さがる(亡き心のつなぐ文字となる)

粗末な人生 送るなと―

神の心は 伝えたき(夫へ)

険しき日々 過ぎし時

涙で見守り 強くして

幸せ道へと 進む姿なり

 

 誰一人として理解できなかった妻の世界を、力強く支え、守ってくれたのは、自然界の生命波動であった。

「声となり、言葉となって生き通う、生命いのちの愛」

人間的自我の一切ない、浄め上げられた自然界。

「そこには、万物を、生かして、生かして、生かし続ける愛しかない」

 この生命世界には、人間界のような、他を殺し、争い、奪い、傷つけ合う心はない。特に、米をはじめとして、食物一切は一時も休みなく、人間を生かし続けてくれる生命たちである。これは、どんな知性をもってきても不滅の真理である。

 妻は、この食物(人類以前の生命たち)の心に通じたのが、最初の光明だった。どんな辛い、苦しい思いも、感謝、喜びに重ねて、生きねばならぬ日々の中、恐ろしい地獄酒の夫にも、神の光の輝く日がやってきた。

「酒を憎んではなりませんよッ。酒は、浄め上げられて、神に捧げるお神酒みきとなり、また、酒は米の生命でもある。汚れが一点もない米の精と酒の精。このような酒を飲んだ夫の心には、必ず、その愛が生きる日が、やってくる。その日は、必ずやってくる」

と、生命の奥深い世界からさとされたのだった。

「ハッ……」と思った妻は、そのさとしが真実であることを、断酒当日にまざまざと見せつけられた。

 夫の生命いのちに、米の生命いのちが生きたその日のことである。

 前後不覚の状態で自家用車を乗りまわす泥酔運転となった。ところが、路上に停車していた乗用車に引き寄せられるごとく激突したのであった。その自動車のナンバーは、〝888〟であった。

 妻は、その夜のことを次のように説明した。

「米の生命(心=ひびき)と、私の愛が生きたのです。お父さんを正常な人間に引き戻すため、必死に守ったのです。

 米の生命はこの世の数字に生きて示しているのです。米は〝八十八(88)〟と、数の生命になります。そして私は、八日生まれの〝8〟の数です。

 米の愛(調和力)と、私の一心の守りが生きたのです。本当に〝888〟という車は神様です。

 数字は、単に数と思ってはなりません。沈黙世界の心が、この世の数字のいのち(ひびき)に生きて、活躍していることを知らねばなりません」

こう言って涙ぐむのであった。

 米の生命、そして酒の生命は、調和のひびきでさとしつづけてきた。そして、妻の一念の守りとさとしは、〝888〟という数の魂となって現実化したのであった。それは米の〝生命が生きた〟のであり、妻の守り一念の心が生きたのである。

 沈黙世界と融合一体となった妻には、人智では計りしれない、神秘現象が、日常よく起こった。現実世界の〝文字、数、色〟といったことに、見えない、黙した生命が融合して、永遠の生命の流れを証してくれる、この現象は、学問的には〝共時性現象〟と呼ばれているようなのである。

 自然界のいろいろな心(宇宙心霊)、そして、亡き人霊からも、妻を通して、生きて〝師〟となる喜びが伝えられてくる。

 私が、酒乱から救われたのも、妻を通して〝心の光〟に、米の生命が生きたからであったと思う。

 こうして、沈黙世界の心ごころが、妻の、生命の光と融合するまでの苦労と、亡き人たちの〝心ごころ〟が、妻の、心の光に通い、結ばれるまでの険しかった道程と、さらに、この声なき声の心ごころ(生命の響き)が、妻の命を通して、この世の、文字に生き、数に生き、色に生きる、までの歳月こそ、生死を超越した、難行苦行の心開きであった。

(植物の心―意識反応―の存在は、三上晃著『植物は語る』、その他によって、科学的にも証明されている)

 

「生命の守り」

 

声なき声の いのちの叫び

亡き人々の 声と声

食べるいのちの 声と声

花一輪の 声と声

自然を流るる 全いのち

みんな師となる 守り声

人の心の 正しきを

いのちの尊さ 学びあれ

人のいのちの 米たちも

みんな師となる 守り声

人の心の 正さむに

いのちの愛を 学びあれ

磨きぬかれた 酒いのち

みんな師となる 守り声

人の心よ 浄めあれ

いのちの喜び 学びあれ

今日を生かさむ 食物に

耳をかたむけ 今一度

正しく生きれや 人ごころ

いのちの愛に 目覚めあれ

愛一念に 目覚めあれ

人を育てる 米一同

知って生きるは 人の道

知って学ぶは 人の道

いのちの原点 ここにあり

 

「地獄期」>「難行苦行の人あれど」九五〜一〇一頁

 

人間以前の生命の愛がないと成仏できない

「守護の窓口となった妻と自然律(悪はこの世の仮りの姿)」の一節

守護の窓口となった妻と自然律(悪はこの世の仮りの姿)

 

 あの火事の発見が、もう少し遅かったなら、大惨事になったと思うと、なぜか、私の今日ある、ゴールの灯明が輝いていたのかもしれない。勝手な想像をと思うだろうが、そこに、見えざるなにかが動いていたようにも思える。

 その橋を渡り終えるとその橋が落ち、その次の橋を渡り終えると、また、その橋が落ちていく。この時、もし大惨事になっていたなら、執行猶予が、声を立てて躍りあがって喜んだことだろう。波乱の止め金・・・だったが、そこを、どんな神様が守ってくれたのか、どんな仏様が守ってくれたのか、その護りの窓口が、〝妻の真心の一念〟だったように思える。

 その頃、妻には、親戚たちが詰め寄ってきていた。残された家族を見るに忍びなく、「離婚しなさいッ」と詰め寄られていたが、妻は、一念、夫を立て直すとの決意は固く、「夫婦の縁を粗末にするなッ」と、決して動かなかった。

 この心の奥には、どれほどの悔しさと、憎しみと、愛が、グチャグチャ揉み合い、砕け合っていたことだろうか。妻の口から、そうしたグチめいた言葉を聞いたことはなかったが……。それをよいことにしてか、心に入れてか、入れずにか、私は、泥棒にも三分の理ありとばかり、「ああでもない、こうでもない」と言い返していた。正邪善悪が麻痺する酒乱、薬物中毒患者は少々の不祥事について、本人には責任感が全くなくなっている。意識がぼけて、心神耗弱状態なのだから、やむをえないことだ。自意識がはっきりしていて、自分がなにをやっているのか、いいのか、悪いのか、思慮分別がわかるようならば、馬鹿な真似はできない。すべて、意識の埒外らちがいの出来事として、罪悪感が湧いてこないのが、厄介なアルコール性痴呆症なのである。せめても、せめても、取りつく島がないのだから、始末におえない。

 平常心で、酒と付き合える人たちには、はるかな、くだらない人たちと思えるだろう。だが、人間の進化の中で、今日までの遠い道程で、生活の友として、飲み続いているいとしき酒を、祖先の誰かが、道を少しずつはずしてきたことは、明白な事実だろう。

 こうした生命いのちが、子々孫々へと伝わる中で、きちんと飲める人と、乱れてしまう人とに分かれてしまった。そうして、時代を経て、〝悪い酒〟のほうの人が、遺伝子性の申し送りとなって、肉体的、精神的に、酒乱の素養が成長することになったようだ。

 そのため、心の習慣と肉体の習慣を、日々、粗末にできない理由が、生命いのちの裂けるほど、わかってくる。そして子孫のどこかで、必ず目覚めなくてなんとするか!!

 この永々と続いた悪習慣は、自分の過去だけのものなのか、あるいは、両親の代からのものなのか、さらに、それよりも、もっともっと先の時代にまで遡るのかは、人それぞれに異なっている。

 ただ、ここではっきりしていることは、子孫の誰かが、この先祖ぐるみの悪習慣を断ち切らなくてはならない。命がけで、生命に恥じない人間性を取り戻さなくてはいけないのである。

 そのためにも、単に人間的自我というくらいでは到底太刀打ちができない。自然界の愛が窓口にならなくては、汚れ切って、軟弱化した人間の心を、浄めることはできないだろう。

 人間発生前の、生命いのちの愛に戻って、我々を、

「生かして、生かして、生かし続ける愛の力」

を借りなければ、人間は改心できない。

 すべての宗教を超えて、生命の愛に目覚めなくては、心の汚れは浄められない。私に潜んだ、酒乱で汚れ切った心は、妻の真心の一念で、生命の愛に目覚めさせてくれたのだった。米と酒の生命が、妻の生命の光を通して、私の心の中で生き返ったのである。

 このことは、とても理解に苦しむこと、あるいは、低俗なことだと言われるかもしれない。だが、今、本当に、自分が迷っている時、そこから目覚めるためには、高尚な精神論や、宗教論で救われるだろうか。

 少なくとも、酒乱の人生から自分を目覚めさせてくれたものは、ただの主婦である妻の守りのお蔭だった。一念の真心(愛)は、人間的自我(煩悩的自我)を超えた愛の心となり、私の汚れた心を浄めてくれた。

 この妻の愛は、あまりに当たり前過ぎて、かえって説明に苦しむところだが、それは、人間的、都合的、犠牲的な愛ではない。また、男女の愛、親子の愛とも違う。それでは、どういう愛なのか。一口で言うなら、生かし続ける沈黙の愛だと、言える。また、宇宙心霊(生命界の心)が、妻の生命にがっちりと生きたのだと思われる。

 妻が、よく言う言葉に、

「人間以前の食物たちの生命(心)に戻らないと、人は成仏できない。人霊の活躍は、まだ自我がある。人間以前の生命の愛がないと成仏できない」

と、いうことがある。

 このことを知るためには、まず、毎日の食事に心を向けるがよい。食べることによって、生きることができるのは、当たり前のことだ。

 もの言わぬ米を食べ、そして、野菜、魚、その他一切の食物を食べて、こうして、自分の心が生まれ、が生まれ、言葉が生まれ、走り回り、今日を生きる人間。この、生かす力(愛)しかない食物たちと、融合一体となって、その尊い声なき心を受けることができる。酒乱の夫と過ごす尊い人生、三十三年の中で、人間を諭し続ける生命界の心と、通じ、結ばれ、生きた。そこには、いかなる理論の余地もない。

 そこにあるものは、丸裸の透き通った光だけの生命いのちしかない。そして、黙する生命の光の受け皿となった妻。しいて言うなら、沈黙の心々の世界から見たなら、灯台の光のような妻を見ているようなものであった。

 だから、米の生命は、妻の生命の光を見て、心を寄せる。酒の生命も寄ってくる。酒の心は、妻を通して叫ぶ。

「喜び、安らぎで飲むんだよッ。浄まりの生命いのちだよッ。神に捧げる生命だよッ。汚すのは、人の心だぞッ」

 また、米の心は言うだろう。

「米寿の祝いとなる生命だよッ。八十八(88)の数にも、生きられる生命だよッ。磨き抜いて、御神酒にもなる生命だよッ。生命を汚してはならないよッ……」

と、人の体の中から叫んでいるだろうし、米、酒、食物一切、また、自然界の心々、そして、人霊の心々たちも、人の世のために、代弁してくれる妻の生命に寄ってくる。となって、文字に生きて、に生きて、に生きて、寄ってくる。そして、見えざる生命の世界の心々を、人々に伝えていただく喜びが、こちらにも感じられる。

 天地の生命の愛で生かされる人間界は、必ず、一人一人の生命の中から、目覚めさせられるであろう。そして、妻の守りは、沈黙世界の、見えざる、生かし続ける愛、その愛そのものの守り姿であった。

 だから、米の生命も、酒の生命も、私の生命の中で、力強く生きた。

 まず、心の突破口は、食物たちや、自然界の生かし続ける生命の愛を、自分の心で、ガッチリと感じられるようになれば、不調和な人生から、目覚めることが早まると思う。概念としての知識だけでは、むしろ、混乱が生ずるから注意しなければならない。

 こういう、生命の原点に、真心から感謝できる心(愛)が目覚めたなら、自らを救うことが必ずできる。

 不調和な心(悪性)は、目覚めなき迷いの心だから、悪はこの世の仮りの姿だと言える。

 

妻を介する 神力かみぢから

今ぞ晴れての 人の道

断って立ちゆく 酒の道

いのちの原点 目覚めゆく

 

「地獄期」>「守護の窓口となった妻の自然律(悪は、この世の仮りの姿)」一〇八〜一一三頁

縁に偽りはない。

「神技一瞬、〝やいばに変わる水杓みずひしゃく〟」p.168

神技一瞬、〝やいばに変わる水杓みずひしゃく

 

 縁は生命の調和力 。目の前にやってくる縁は、すべて自分に相応ふさわしい縁なのである。縁に偽りはない。私が引き寄せたものであり、みなさん自身が、引き寄せたものなのである。縁は、絶対の力を持って、私たちに逢いにくる。「よくやってくれた」と、ご褒美ほうびを持ってくることもあるし、あるいは、「えらいことをやってくれたなッ」と、言いながら、やってくることもある。

 だから、みんなの目の前に現われるは、すべて、己の目覚めのためにやってきてくれる。善きにつけ、悪しきにつけて、やってくる。私の酒乱についても、当然、「お前は不調和な生き方をしているぞッ、早く気づけーッ」と、催足する現象を示す。

 酒乱の夫を正すため、縁の強力な化身となった妻は、酒乱に耐えうる身仕度を整えて結ばれてきたのであろう。そして、夫の心の中に、米の生命いのちが生きるまで、酒の生命が生きるまで、と、一心に祈った千カ日の神参りも終えた。が、しかし、私は、汚れの知らない酒飲んで、〝飲んで咲かそか地獄花〟では、神不在の不届者である。
 だがいよいよ、私を正さんがための、の化身が、その攻勢を強めてきた。というのは、とうとう、私は自宅を売る羽目となってしまった。まさに、悪魔の毒で、崩壊寸前となってしまった私に、縁が次々とやってきたのだった。今度は、女の魔神が足音を高めてやってきた。それと並行して、時代劇まがいの酒乱を起こしてしまった。
 妻は、素速く現場に現れて、神技で夫を守る。「お父さんは、ひしゃくを持っていたんですッ。これこのとおりッ…」と、ハッタと右手にかざした手杓を見せてやる。それを見せられた警官は、杓じゃ、大したことではない、と、たかをくくった。

 ところがである。真実は杓どころではなかった。刃渡り四〇センチほどの、キラリッ、と光る本物の刺身包丁である。それを、店から持ち出し、いとも慣れ切ったさむらい姿で、相手に切りかかっていく。殺られたら、第一巻の終りとばかり、一目散に跳び逃げた。「ブッ殺してやるッ」と、うなりをあげてつぶやいた。そこへ、急場をきいて駆けつけてきた警察官の前に、どこから来たのか神姿で、一本の水ひしゃくを持って、立ちはだかった妻!。

 人智も及ばぬ、一瞬の神技が働いたのだった。

 この一件は、私の後をつけて来た妻が、いつの間にか、私の持っていた刺身包丁を奪い取り、警察官が来た時には、水ひしゃくを見せて、事実を隠してくれたというものであった。

 

「地獄期」>「神技一瞬、〝刃に変わる水杓〟」一六八〜一六九頁

 

 

 

 

この体ひとつにも、何千年、何万年の歴史が刻み込まれているのだから、油断をしたら、なにが飛び出してくるかわからない。

「酒乱の因縁と闘う自己解体」二〇〇ページ

 

 

 

 

酒乱の因縁と闘う自己解体

 

 いかに、祖先累々の生き様がどうであろうと、また、このオレも祖先になる日がくる。今の自分に責任をとれるのは、当然、自分だけだ。

 今、このオレをバラバラにして洗い直し、組み立てなくて、なんとするか。悪い習慣の心は、焼き捨ててしまわなくて、なんとするのか。無難に生きる人々には、アッケにとられる話かもしれない。なんとしても、り通すことだと、その後も、私は身心に、過酷なプレッシャーをかけていった。

 この、心を改心させなくては、ふたたび、酒乱は雑草のごとくに生えてくる。いつも脅かされることになるのは、火を見るよりも明らかではないのかッ。新しい生き方の幕明けのためには、それなりの覚悟が必要だ。

 酒乱(酒害)を直す第一条件は、断酒以外にない。その次は、心の転換だ。心の向きを変えていき、新しい心の習慣を確立することだ。そのため、私は、心身にプレッシャーをかけて、従来の、物事に押し流される弱い心から、強い意志力に変身しようとしている。

 酒を飲まないで、生きる喜びを、ありあまるほど味わえる人間にならなくては、意味はない。また、飲んだとしても、自在にコントロールできる意志力と、新しい価値観を開発しなくてはならない。

 このような話は、酒と縁のない人たちや、喜び酒より飲まない人には、よくわからないことだろう。だが、私にとってはそれどころではない。まず、酒をやめ、次に、新しい意識の転換をやらねばならないと思った。そのためには、新しい心の積み重ねしか方法はない。

 意識を改めるということは、容易のことではない。この体ひとつにも、何千年、何万年の歴史が刻み込まれているのだから、油断をしたら、なにが飛び出してくるかわからない。良いものばかりが、どんどん出てくれたら、そりゃ優等生になる。だが、私みたいに、具合の悪い、毒性ばかり出てくると、一生がメチャメチャの波乱となる。

 具合の悪い、暗い影に脅かされることなく、いつも正しく、明かるく生きられるためには、祖先累々の想念を引き出さねばならない。その誘導は、今の心であり、一心に善い心を持ち続けなくてはいけない、と、真剣に考えつづけた。そんなことは、小学生にだって先刻承知なのだが、この五十男は、カラスに襲われながらも、必死になってそう思っていた。

 だが、その善い心を持続しようとすると、なにかに、パクッと、食われてしまう。自分の中の悪性の心が、善性の心を、いつも食い続けている、ということなのだ。それでは、その悪を退治しなくては、いつになってもやられっぱなしとなる。それで、私は、足腰立たなくなるまでに、新しい自分の心を確立して、価値観を高めるということを始めたのである。

 要するに、自分の体内にある、過去性とか、祖先累々の想念を大掃除して、俗にいわれる、因縁解脱げだつとか、因縁成仏という意識の転換を果たして、新しい信念の確立をするということなのである。そのためには、肉体的、精神的にも、自分をバラバラに分解することだと考えたわけである。

 このことは、とても危険な模索であった。そのため、社会の常識性を、一切遮断することからの出発なのである。そして、正気と狂気の境界線を走り出した。少し気を許すと、狂人世界に足を踏み入れることになる。何度か勇み足もあった。その意識の混沌とした時に、七羽のカラスに攻撃されたのだった。

 だが、そんな時であっても、〝自分というものに目覚めていること〟に成功することができた。このような自己覚醒ということは、とても大事なことである。それは、狂気に陶酔して、目覚めがなくなっては、自己不在の恐ろしいこととなる。病院行きはご免だッ。世の中の乱れは、目覚めなき、自己不在の陶酔狂に、ほかならない。

 自己に目覚めることの、いかに重要なことか。これは、生命いのちを知るきっかけとなった。そして、自己に目覚めながら、もっと、もっと、自分を狂わせて、ギリギリまで心の奥へ踏み込んでみようと思う。

 

「黎明期」>「酒乱の因縁と闘う自己解体」一九九〜二〇二

 

 

 

 

心は、現実界と精神界を、行ったり来たりと、混迷の度合を深めていく。

「妻との葛藤」二〇三ページ

 

 

 

 

妻との葛藤

 

 もう、心身がボソボソになったが、この危険な時でも、妻は、静かに見守っていてくれた。ここまでくると、酒乱であったことの記憶も、だいぶ薄れたが、目指すは変身した自分だ。それは、いかなる心や、現象にも迷い、執着することのない自分に変身することだった。正しい尺度に照らした安定調和の心で、この世をまっとうできる自分になることだと。

 同僚たちは、そろそろ定年で退職だ。そして第二の余生を、どんな気持で生きるかは知らない。ところが、私は、これからが本番の、人体実験の真只中である。

 そして、極楽浄土の真ん中で、生きる喜びを爆発させなくては、なんにもならない。また、一方では、妻の愛一念に先導されながらも、断酒後の中で、妻との葛藤が烈しさを増している。地獄からは、どうやら這い上がったものの、極楽浄土までは、遠い遠い道程であった。

 妻と、意識の上で、真向から対立することがある。酒乱真盛りの頃、妻は、従順の女から、強い女へと変身をした。こっちは、なぜか、自分を先導しようとする妻に、反射的に対立する。主従の関係、夫唱婦随の形が逆転し、妻が強くなったということより、妻は不動の信念を持つに至ったというのが、真実だ。

 私はというと、表面意識が薄れてガタガタの身心だから、舞い上がる潜在心が騒ぎ出す。もろもろの抑制心、劣等感が堰を切ったように崩れてしまう。「お前の世界、お前の心には、ついてはゆけない。お前は、こっちの考えに、半分くらいは譲らんのかッ」と、考え方の違い、人生観の違い、全体的意識の焦点が違うという理由で、事あるごとに対立が続いてきた。お互いに、心の中心にある芯を、き出そうともがき続け、心は、現実界と精神界を、行ったり来たりと、混迷の度合を深めていく。「オレは、なんのために生きてるのか。生きる証しは、なになのかッ。ただ、食って、寝て、起きて、タレて……、オレの生きる証しとは、なになのかッ、教えてくれーッ」と、誰に叫ぶでもなく、苦悶を続ける中、そこに、妻の心試しが、矢のごとく打ち込んでくる。

「夫は、心浄めをどこまで高めておるのか……」と、こっちの嫌なことを、すっぱと放つから、「なんだよーッ、いつまでも、オレのやったことを言いやがってッ。やっと、すまないことをしたもんだと、思っているのに、お前を苦しめ通しで、なんてこったッ。申しわけないッ、と思ってきた矢先に、傷口を広げるように、あの時、あんなことしておいて、よくも平気でおられるもんだとは、なんてこったッ。酒やめたら、オレの欠点はないんだろッ。酒をやめても、グタグタ言いやがって、お前とは、いっしょにおれないよッ」と、言いたい放題である。

 ところが、妻は平然として、「お父さんの心は、浄まりには、まだ遠い先のことだこと……」と、返してよこす。

 真心のない、粉飾した人の心ほど、嫌なことはない。妻は、真心のないニセの愛情にはことのほか冷徹に跳ね返してくる。夫にも、出入りの人たちにも、区別はしない。

「今日は嫌だとか、調子が悪いとか、なんだかんだと、愚痴を言って、太陽は休んだり、愚痴を言うかッ」と、やられる。

「心を汚すとは、なんということです。みんなを生かす食物の生命いのちは、それぞれ違う物が口から入って、一本の管を通っていく。口から入った食物たちが、体の中で、互いに、あーだの、こうーだの、混線するかいッ。一糸違わず、一体となって、流れていくじゃないか。そして、外に出てくる。だから、こうして、みんな生きてるじゃないかッ。食物の生命に笑われるぞッ。意地の悪い心を持っちゃ、申しわけないよッ」と、さとすのだった。

 また、「死は、師となる生命」と妻は言う。亡くなった人の生命も、食物の生命も、自然界のすべての生命も、みな、我々の師となる生命だと言う。「どんな辛い思いも、どんな苦しい思いも、感謝、喜びに代えて、生きねばならないものです」と、言い続ける毎日であった。

 

「黎明期」>「妻との葛藤」二〇二〜二〇五頁

 

 

 

 

正しく生きろと叫ぶけど
人の心は破れ耳
米のわたしを閉じ込めて
飲めや歌えの浮世花

「米は、いのちの光」の一節

 

 

 

 

米は、いのちの光

 

 この現実社会にあって、一時、出家の道を真剣に考えたことがあったが、今は、あくまでも、精神性を土台として、現実凝視をして生きることを決心した。

 以前は、現実至上主義で金満家が夢であったが、そこには、大きな落とし穴のあることを知った。ブレーキのない、物質金満の世界には、見せかけの幸せが待っていて、先へ先へと走り、先を見るあまり、どうしても、足元を見失ってしまう人生である。生きる本当の喜びは、なんであるのかを見失っている人がたくさんいる。

 金で、生命いのちが保証されるのだと、錯覚するような人生は、消えていく虹の橋を渡る、虚飾の人生であることがわかった。

 そして、子孫に強欲の因縁、酒乱の因縁、色情、倣慢の因縁を残さず、その他、多くの不幸因縁を、残さぬような人生を生きようと、生きる価値観を変えることができた。

 以前の私は、浪曲『森の石松』ではないが、

「飲みねェー、飲みねェー、酒飲みねェー。喰いねェー、喰いねェー、寿司喰いねェー。……エッ……肝腎な人を忘れちゃ、おりゃせんかッ……」

と、石松ならぬ、大事な大事な生命いのち様を忘れていたのだった。

 生命は、生命でも、酒乱の唄枕に酔いれていた悪魔の生命ではない。ピッカピッカの生命様だったのである。

 

激しき宇宙の 波動はすぎて

ポッカリ浮かんだ いのち星

太古の昔の いのち花

海にいのちの 花ひらき

大地にいのちの 花ひらき

空に大気の 花ひらき

天に輝く 太陽が

ニッコリ笑って 花ひらき

お待ちいたした 人間様よ

ながき世の道 人の道

いのちの天子に 育つ世に

向けて花咲け いのち花

 

生命いのちとはなんぞやッ〟と尋ねても、生命は答えてくれない。だが、一人一人に感じられる生命の響きは必ずある。生命には、声も言葉もないが、絶対なる〝安定調和エネルギーを秘めた意識波動(生命の響き)〟が存在する。

 そして、人間以外の全存在は、自然界の調和エネルギー波動と生命同化して生きている。だが人間は、心のエネルギーを異常なまでに進化・・させてしまったため、千変万化する自分の心に振りまわされるようになった。

 この人間独自の心(擬似魂)は、生命から送られる安定調和の意識波動(真性魂)をさえぎり、魂の光を曇らせてきた。

 人は誰しも〝心は人間の特権〟であると思い、人間以外のものには、心の存在など容易に認めてはくれない。

 そこで、今、誰かに「あなたはどうして生きておられると思いますか」と尋ねてみたとすると、どう答えてくれるだろうか。おそらく「食べているから生きています」と言うだろう。確かに人間は、食物を食べると血となり、肉となり、さらに心を発生して・・・・・・、毎日を生きてゆける。

 ところが、人間以前の食物生命に、心があるかと聞かれたら、ほとんどの人は、「ノー」というだろう。米や大根、魚や果物に、(意識)があるなんてとんでもないことで、気持が悪い……と言うだろう。

 ところが妻は、この人間以前の、人間を生かし続ける食物の生命、自然界の生命に、心(意識の響き)があることを言い続けてきた。それは、妻の生命の中に、沈黙世界の声が、生きて結ばれるようになったからにほかならない。

 素直に考えれば、「人間を造り上げた食物たちは、人間ができうる可能性の根本要素(物質的、精神的)を、すべて持っている」と思うし、だから、心というものは、人間だけの特権ではなく、人間のような心・・・・・・・にはなれなくとも、人間の心の元となる心・・・・・・・・・・(調和の意識波動)が、食物一切の生命にもあるといえる。

 さらに、生命界には、〝食物の心の元となる心(宇宙意識)〟があって、その心の元とは、神とも、宇宙心霊とも呼ぶことができる。だから、生きとし生きる生命体の中心を貫く生命・・・・・・・は、万物共通だと言ってもおかしくない。

 いわゆる、万物は、宇宙意識を共有している同志ということになり、私はそのことを〝魂の平等・・・・〟と思うようになった。だから一心に、〝心を浄め澄ませれば、万物に心が通じる〟ことができると言える。心の元(宇宙意識)は、人間的煩悩心とは無縁の心であり、これこそ人間の心の羅針盤としたいものだ。したがって、食物をはじめ、自然界の一切は、〝生かし続ける愛の師となる心・・・・・(調和心)〟で溢れている。

 この汚れなき、ピッカピッカの生命いのちに目覚める時、人は必ず己の愚かさに気づいてゆくはずである。

 私たちが毎日当然のごとく食べている米や野菜などに、宇宙意識の大調和エネルギー(響き)を感じながら、安定した心で生きたいものだ。

 大調和のエネルギー(米、野菜など)を食べていたとしても、不調和な心(片寄りの心)を持って生きるなら、病気にもなるだろうし、不幸を招くのも当然である。私の酒乱地獄はその典型であった。

 言い換えれば、一連の不幸性は、人間となった米、野菜たちの生命の叫び・・・・・と言える。

 それでは、次に、人間の生命の光となる稲穂の喜びを、妻の心いただきの一節から紹介したいと思う。

 

カエルの声 はげましを
稲の心は はぐくみあう
緑すがたの 成長期

 

カッコウの声 勇ましく
育成のありがたさ
愛は稔り

 

朝日に開く 稲の花
セミの声聞く 夏のあい

 

青空に 祭り太鼓の音聞くも
心ごころの 稔り待つとき

 

秋のみのり 黄金の稲穂よ
小鳥の声に 喜びの揺れ

 

一粒のいのちにかけた花の木を
恵みの愛が 守る神

 

土の心 水のいのち 守りあれ
稲の心と 人生の開花

 

 米は人類究極の食糧となるであろうし、また、純日本風の食事こそ自然性にかなった、最も調和のとれた生命の救済・・・・・となるのではないかと思っている。

 このうたは、昭和六十二年十二月六日、妻が映画鑑賞中に暗闇の中、手探りで綴ったものである。『牧野村物語―一〇〇〇年刻みの日時計(山形県蔵王)」という、米作りに生命を賭けた映画であった。

 

 米のうた

 

㈠ もみをぬがれて 白い肌

水でとがれて 丸裸

釜に入れられ スイッチオン

今日も輝く ダイヤの光

感謝せよとは 言わぬけど

米の尊さ 今一度

 

㈡  んで呑まれる このわたし

じっくり思う 胃の中で

今からわたしは 人間に

なって生きるを 誰が知る

知ってくれとは 言わぬけど

米の尊さ 今一度

 

㈢ りに煉られる 胃の中で

次は全身 いのち旅

隅の隅まで 血となりて

肉となりゆく 流れ旅

わかってくれとは 言わぬけど

米の尊さ 今一度

 

㈣ 五体になった 米いのち

正しく生きろと 叫ぶけど

人の心は 破れ耳

米のわたしを 閉じこめて

飲めや歌えの 浮世花

米の心は 誰が知る

 

㈤ いのちの親・・・・・から いただいた

〝米〟という字の 素晴らしさ

いのちの真実 生きている

〟と

〟の文字

〟の文字

プラス(

マイナス(

調和のいのち

〟の文字

〟の字

〟の文字

八字であかす米の愛

 

㈥ 米のわたしを 知るならば

人の不幸は ありませぬ

宇宙天地の 調和の愛を

背負って生きる 大使命

人の心に生きるまで

人を愛して きないわたし

人の心に生きるまで

人を愛して 尽きないいのち

 

 米は食物の先頭に立って、心をさとし、調和の愛を使命として人間を生かし続けている。そして、人類の果ての果てまでも、人を造り、人を守って、運命を共にする。

 米は、正しく神の申し子・・・であり、〝生命いのちの光〟である。

 

「黎明期」>「米は、いのちの光」二一一〜二二二頁

 

 

 

 

全人類を一本の生命の樹と見て、そこに花を咲かせている梢の先々が、我々、現世の人間

「生命の樹」223ページ

 

 

 

 

生命いのち

 

 悪魔に乗っ取られた酒乱の私でも、ピッカピッカの生命いのちが宿っている。この生命こそ、永遠不滅にして、宇宙創成の原点に結びついているものだ。見た目には、一人一人は別個の生命体である。だが、それは単に肉体だけのことで、みなさんも、私も、たとえ親子でなくても、生命に関しては、すべてつながっている。そして、それは人間ばかりでなく、天地万物の全生命は、相互に関連のある生命ではないか。

 このことは、自分の存在を考えたなら、すぐに理解できることだろう。この自分は、どこから生まれてきたのか。もちろん、父母からに決まっている。では、その父母は……。そして、その上は……。そして、また、……。その上の父母へとつながって、ついに、人間以前の生命体へつながっていく。

 そして、我々人類こそ、地球上で最も遅く誕生した生命体なのであると思う。宇宙と太陽、海の幸、大地の幸、万端が整った時、〝星の王子様〟として誕生した。その生命の糸は、人間が生まれ出る以前の、諸々の生命たちへとつながって、ついには、宇宙創成の原点の〝生命の親様〟へと結ばれていくことがわかる。

 だから、自分という一個の生命体の中には、まぎれもなく、何億万年の生命いのちの歴史が刻み込まれていることになる。それぞれの遺伝子の中は、生命博物館のようなものではないか、と思われる。私は、自分の意識改革を実行する中で、この生命の流れに、本当に感心した。全人類を一本の生命いのちと見て、そこに花を咲かせている梢の先々が、我々、現世の人間の姿と見たのである。

 私が、狂った果実となったことは、心という生命の養分が、祖先のどこかで、誰かが狂わしてしまったのだと思う。だから、私の身体に黒い花を咲かせ、黒い果実を実らせた。この生命の、心という養分を変えない限り、いつまでも、どこまでも、子孫の花が狂うのである。どこかで、誰かが、心の養分を自然体に戻してやらなければ、子孫のみんなに、迷惑をかけることになる。

 代々引き継がれた心の歴史(潜在層)は、次第に、ひとつの生命体として、独り歩きをし、それが、現在の自分を操作支配する力となる。そして、今の心の習慣が、積もり積もって、自分を、さらに、子孫を支配する心の生命に育つ。自分の過去の心、祖先累々の心が、ビックリ箱のように、現在の自分の前に躍り出てくるという仕掛けであると思う。

 こう考えてくると、勝手気まま、好き放題に、不調和な心を発散し続けてはならない。日頃の心の習慣が、ルーズになってくると、自己管理が不可能となって、人霊世界の思うままにされてしまうのだ。

 だから、酒を一杯飲むと、過去前世の悪心、亡者が小躍りしてやってくる。心の世界には、時間、空間はなく、一面的、一本直通だから、一瞬にして現われる。こうして、生命いのちを伝って、全方向から、飲み足りない亡者の援軍が集結することになる。もう、こうなったら、現世の自分は、ブレーキなしの車が、下り坂を走るようなものだ。

 ある日、妻が、こんなことを言った。

「お父さんが、少し飲み出すと、この世で飲み足りなかった人たちが、いっぱい集まってきます。〝もっと飲め、もっと飲めッ〟と、集まってくる。だから、お父さんであって、お父さんでなくなるのです」

 このことが、今になって、そうであるとはっきり実感できた。

 その亡者に対抗するためにも、日頃の自己管理=意志力が、いかに重要であることか。日々の心の習慣が、いかに重要であることか、身にみてわかった。七羽のカラスから攻撃を受けながらも、身心をバラバラに分離、組立てることになった理由も、そこにあった。

 私は、身心に荒っぽい修行の負担をかけ、また、実際に、多くの修行体験もしてきた。危険な試行錯誤を続けた人体実験は、生命いのちに対する不調和な行為だったと思う。この自己改革の執念は、死にもの狂いだった。人の道をはずした者が、道をはずしたことに気づかされ、子孫には、この因縁を流してはならじと、その一念が、今は、人の道をはずすことなく、生命いのちの光が輝くように祈る毎日となっている。

 

いのちは ピッカピッカ輝く毎日だ

今日も、明日の一日も

手つかずのいのちの日めくり

ピッカピッカ輝く

いのちの世界が待っている!!

 

「黎明期」>「生命の樹」二二三〜二二五頁

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米(食物・自然界)の生命愛に身も心も重ねることで、波乱万丈な人生もどんなに苦しい思いも澄み切ったものへと昇華した著者夫妻。その二人が遭遇した共振共鳴共時の記録は、「こころとは」「いのちとは」という命題に対する答えの証しです。