本の詳細

要点・概要

 

 

 

心と縁が握る運命転換の鍵
書籍『神秘の大樹Ⅰ偶然が消える時』「おび」記載の文言より

 

 

 

共時性現象(シンクロニシティー=偶然の一致)は、生死や種の区別を超えて、生命の本質が通じ合う次元が心の中にあることを証しています。じつは身近なところで起きている現象であることを、みずからの体験記録をもとに伝えています。

 

「霊魂」というと死者のイメージが強く、ネガティブで暗い印象に結びつきやすいかと思います。「死」は、多くの人にとって遠ざけたいことです。しかし、「霊」や「死」に対して、いたずらに恐怖心や不安をいだくだけでは、生命の本質を見逃してしまうことを、この本は教えてくれます。

 

いまを生きている自分(あなた)自身の存在こそ、肉体をまとい、服を身につけている霊魂そのものだといいます。霊魂というと、わが身の外に存在し、わが身の外で起きる「現象」と考えがちですが、そもそもそれは、私たちのからだやこころに内在し、わが身の中で起きていることがらなのです。

 

 

 


書籍『神秘の大樹・第1巻・偶然が消える時』/このページでは、この本について詳しく紹介します。下の目次のうち「スライダで閲覧」という項目はスクリーンリーダーに対応していないため、「本文からの抜粋」(=縦書き)のご利用を。iOS端末及びMacは電子書籍(Apple Books)が利用できます。


本文からの抜粋

 

 

 

 

つねに心の倉の「光と闇の風」に吹きさらされていることになる。

「数霊は心のシグナル」の一節

 

 

 

 

数霊は心のシグナル

 

 現代医学の治療には、物理的療法や、カウンセリング(精神医学)など包括的に、また、広範囲な面からその治療体制は整えられている。だがそれでもなお、いのちの本質的な世界、奥深い意志性の発現には届かぬことが多いだろう。また、そこまで進展させなくてもいいのかもしれない。

 奥深い意志性、すなわち、潜在されて表にはなかなか浮上してこない心の世界には、通常、係われる問題ではないが、現実には長期にわたり意識が戻らぬという病人は決して少なくもない。しかし、意識不明であっても、奥深い魂の世界は、生き生きと輝いているのは事実だ。

 我々のいのちの中身は、すべて物申す霊体であるし、自分などという存在は、何といっても「今」しかない訳で、今という時間刻みは、一刻も停止することはできない。心臓の不眠不休と同じで、今を停止することは不可能だ。「人生は時間刻みの回り舞台だ」そして、過ぎし思いは魂(心=意識)となって、心の倉庫に倉積みされてゆく。

 いわば、その心の倉の入り口に立っているのが、今の自分と考えればいい。ところが、心の倉の入り口には扉は無く、いつも開かれているから、入り口に立っている今という自分は、つねに心の倉の「光と闇の風」に吹きさらされていることになる。その魂の圧力下におかれている今の自分は、いわば、自分であって自分に非ず、万物普遍に通じる心の倉の番人のようなものだ。

 だから、無意識下にある病人たちは、いわば「心の倉の番人役不在」(自己不在)ということもできる。扉のない心の倉から湧き上がる魂の交通整理もままならず、自由に魂が出入りすることができる世界を思うとき、無意識下にある病人たちの心の倉と心の結びをするには、こちらもまた、無の世界に立ってその通じ合いをしなくてはならない。

 時に、当時の妻は心の倉(魂)にその心結びができる境地にあった。これも一つの縁で、遠距離にあった知人の入院先へ望まれるままに何度か見舞いに出かけていた。

 昭和六三(一九八八)年一〇月二一日のこと、先方の奥様から、入院中の夫の様子がおかしいという連絡が入った。もちろん主治医の指示によって治療は続けているものの、なにしろ、病の夫は、すでに、二七年間にわたり寝たきりという難病であり、家族の思いを伝えることは不可能に近く、ひたすら看病一筋の難行苦行の道のりであった。奥様の言うには、「シャックリが止まらない」「熱が三九度もある」「さらに痙攣が続いている」といった、普段にはみられない症状なので心配でならないから会ってみて下さいという。夫は、何かを伝えたかったのかもしれない。翌一〇月二二日に駆けつけてみた。酒田市からは、所要二時間近い道のりにある町の総合病院である。

 昨日までは、二人部屋の二〇二号室だったが、今日からは二階の「一六号室」(二一六号室)に移ったという。病状の重篤から一人部屋に移ったのかもしれない。

 病室に入った妻は、彼の耳元で、語りかけるように一言一言、静かにあいさつの話しかけをしていた。彼の表情からは、微かな反応を感じられた。顔はいくぶん腫れ気味で、肌は透き通っていた。仏教でいう浄土の世界感とはこうした雰囲気なのかもしれない。奥深く輝きつづける魂のひびきは、まさしく、時を超え、空間を超えた、時空の干渉を受けない自在無碍むげの世界であろうか。

 しばし、時の流れを過ごして病室を出たのは夕刻のこと、帰路は心にもなく、車のスピードをあげて走り続けること四、五〇分の頃、晩秋の日暮れは早く、ライトを照らし、ある町外れにさしかかった時、前方で半円に振られる赤い灯にハッとした。「取締だ…」と気づきメーターに目をやったら針は六〇キロ位になっていた。停止すると首をかがめた警察官が

「速度違反です」

と、宣告してきた。ここは四〇キロ制限で、五六キロで走行していたという。「一六」キロオーバーになっていたのである。反則切符を切られているとき、そばにいた妻が

「お父さん、病院の部屋は何号室でした?」

と聞いてきた。

「あれは二階の一六号室だったよ」

と言ってから、私は全身から昇り上がってくる霊気を感じた。一六キロオーバーと二階の「一六号室」(二一六号室)との共振共鳴なのだ。

 この時、私は、魂は奥深くで生き生きと輝いているのだと実感した。たとえ意識がなくとも、この現実の自分という霊体の中に同化して何かを語りかけている。すなわち、魂は生きているということなのだ。

 この世全てが、たまたまの偶然の流れだという、一過性の現象は何一つないであろうと実感させられた。

 一六号室の病室名で、自分の魂(霊体=心)を数字(数霊)で象徴化する。そして、「わたしだよ」、また、「ありがとう」とか、そういう何らかのメッセージを発信させて、魂不滅を感じてもらう。

 数字のひびきに魂を乗せて、天地自在に「思えば通わすいのち綱」となって働き続けている意識の世界。

 数字を媒体にして、数字をシグナルにして、語りかけている無意識の世界。

 数のひびきで、生き生き輝き、語りかけているのである。

 

 

 

 

 

自分の本体である霊魂の管理責任者こそ、今の「自分」なのである。

「数霊は霊魂のシグナル」の一節

 

 

 

 

数霊は霊魂のシグナル

 

 今、見舞ってきたばかりの、長期療養者の魂が、病院を抜け出して私たちの帰りの車に同乗してきたんです…と言ったら、誰でもぞくぞくと鳥肌が立つような話である。

 一度は耳にしたことのあるこのような話は、幽霊や怪談話としてこの世にいくらでもありそうな話だが、これは本当の実体験の話である。

 ここで話を一八〇度転換すると、この世の一人残らず皆幽霊に着物を着せているようなものであるから、表現方法が違うだけのことであって、自分も幽霊も同じことなのである。亡くなった魂を幽霊と言っているだけのことであって何ら変わりはないではないか。そこかしこで着物を着て行き交う人々の本体は霊体なのであって、また、別の言い方をしたなら、過去世の心(死霊)と、この世での心(生霊)の複合霊が自分なのであって、それは見ることはできない。鏡に映しても駄目なのであって心は決して見えないのである。よく耳にする一〇億分の一というナノ単位の世界なのだ。

 だが、見えないはずの心が見えたら、それは幽霊というしかないであろう。ずばりいうなら、自分というこの生体こそその大半は過去世の心そのものであり、その中心を貫いている宇宙根源にさかのぼるいのちの光以外の何物でもないから、自分というのはこのいのちの光にまとわりついている霊意識にほかならない。生き続けてきたあらゆる情報を持つ複合霊体であるといっていい。

 このいのちの中は、生き生きピカピカと輝き続ける立派な物申す霊体なのであり、死んでからも活躍できる唯一の仕事場こそこの自分なのである…、という言い方もできる。

 霊魂なんてとんでもない、と否定したらどうなるか。中は空っぽでもぬけの殻になる。同時にそれは、この世の存在価値はゼロとなり、活躍どころか何もできやしない。何といってもこのいのちは、心の発祥地であり、複合霊体が現在を担当する自分とともに一生懸命働いている姿ではないか。心は生きている。魂は生きているのだ。

 よく耳にする霊界というのはそういうものだと思うし、別の世界ではない。現・幽一体なのであり、怖いのは、自分をコントロールできないだけのことだ。

 この地球上に最後の一人が存在する限り、人類という種の霊魂は、その一人に集約されると思うし、最後の一人が消えたとき、初めて人類の霊魂は消滅するであろうと思っている。

 つまり、人類が発生した原初のルーツに霊魂の里帰りをすることであり、その先々は、生命発生のルーツにさかのぼって行くであろうし、人類の魂は、やがて生命元素(原子)の心性物質に同化されて、地球生命のいわば構成元素となるであろう。

 死んでドロンと消えこそするが、最後の一人が消えるまで人類という霊界は生き残るであろう。霊魂は時空を超して、自在無碍むげの存在となり、最後の最後まで物申す霊魂であり続けるものと思っている。

 一生命体としての自分を形作っている霊魂は、自在の世界だから、がっちりと管理統御していないことには、出たり入ったりが自由となる。自分の本体である霊魂の管理責任者こそ、今の「自分」なのである。

 ところが、現代社会においては、医療能力を凌ぐ病気も多くなり、その中でも特に自分の心を管理できない人が少なくないのも事実であろう。その方たちは、たとえ意識が無い病の人でも、生きている限りその霊体は、ピカピカ光り、生き生きとしているものだ。

 霊魂は、自分の全細胞に内在しているから、意識不明というのは、物心両性である肉体の中のどこかにその表現機能の接続不良がある訳で、決して霊魂(心の総合体=過去世の心と現世の心)が空っぽになったのではない。

 死は、生命の組成元素(原子)がバラバラに分離拡散して、生命体としての機能が消滅することと理解されるし、その逆が誕生である。それは、生命組成元素(原子)が結合して、その機能が作動することと思うし、逆に、本来の生命組成元素に戻ることを死の世界だと考えてみるとぞくぞくする思いだ。

 実際のところ、魂不滅と考える者にとっては生と死をはっきり分けることなどできないと思っている。死んで肉体は消えてしまっても、霊魂は子孫・縁者に引き継がれておるもので、もっと拡大して極言するならば、人類万人に限らず、この世一切にアクセスできる光のネットワークをもつ魂の世界だといえる。死んで全てが終わりではないのだ。生命組成原子それ自体が生死同体であり、拡大膨張・縮小凝縮が自在の、意志性波動の持ち主と考えている。

 生命組成元素(原子)が寄り集まって自分となり(生)、また、分離拡散して自分は消える(死)という生死の概念を変えてみることも新発見に結び付くものと思う。

 いのちをつくり上げている生命組成元素(原子)は、言うまでもなく毎日の食と呼吸によって形成されていることは当然であり、食は、生命組成元素(原子)そのものであり、その元素の素性は物心両性という見方に立つ。食は物質(物性)であり、心(心性)でもあるという、物心両性の元素(原子)という見方に立つ。

 食を摂ることは、物質を食べると同時に心をも食べていることになる。何につけ、生き続けるには食い続けることであり、食はいのち、いのちは食である。だから、食はいのちの中心、いのちが回転する命の中心軸といってよい。肉体をつくり、心を紡ぎ、そして、無限的心の貯蔵庫となる。それをさらに発展させていえば、もともと我々は、男女両性・雌雄両性で、物心両性のすこぶる合理的な生命元素の塊と考えてもおかしくはないだろう。両極を併合した総合エネルギーが真の生命力であると思っている。

 だから、縮小凝縮して一生命体が誕生し、それが、拡大膨張して死となる。ここで、生命組成元素(原子)は、宇宙における不変の存在としてありつづけるわけで、死んでも生きていても、われわれは、心であり、同時に、肉体であり続けることになる。

 死んでも、生きても、意識があっても無くても、無ければそれは生体の機能上にそのトラブルがあるわけで、意識不明でも、心(魂)は立派に存在し続けているといえる。そして、以心伝心で心はいつもその扉は開かれている。

 意識が戻らぬまま、二七年間、七二歳のお方が、ご自分の魂を見舞った人の車に同乗して行くくらいはいともたやすいことであろう。

 それは、平成元(一九八九)年一月九日のことであった。亡くなられる一カ月前のことであった。「二七年間」の闘病生活の間、夫を看病し続けてきた奥様は、もう限界だとその思いを口に出すほどの歳月であった。生命の尊さは身に迫るものの、いったい生きるとはどういうことなのかと、尽きぬ疑問も内在していたことであろう。

 「意識無き二七年間」。奇しくも今年でよわい七二歳となった。「二七年と七二歳」、この数の霊から受け取れることは、表裏一体に秘められた本人からの意志性のひびき、すなわち〝魂は死なず〟といえるメッセージだろう。肉体根源からのご意志であるのかもしれない。病床の夫のいのちは、四五歳から二七年間、意識無き日々であっても心の扉は全開されている。つねに心の発信体制下にあって、チャンネルさえ合一するなら以心伝心となって具現することになる。この方を見舞うことになってから、何度か共振共鳴共時の現象を体験することになった。

 最後となったこの日の見舞いから帰宅したのは夜の九時六分である。ところがこの方の誕生日が、大正五年(一九一六年)九月六日であったのだ。

 それは、その方のいのちの登録ナンバーともいえる、固有波動をもつ数の霊魂であった。数字で示す魂の世界。紛れもない意志伝達の数のひびきで伝えてくる魂の世界。

 この平成元年一月九日の日記を原稿にするため、ひらひらとめくり始めたのであるが、平成二〇年の今日、一月「二七日」であることに息を呑んだ。

 どうもこの方には二七などの数霊が動いているようだ。二七年間の闘病生活、七二歳の寿命、そしてこの原稿を起こしたのが二〇年後のこの日、一月二七日、見舞いから帰宅したのが九時六分、この方の誕生日が九月六日である。

 その心のひびきの表現は、文字や数や色などという表現媒体を通じて、われわれの目の前にその姿を見せてくれる。

 それば、普段の生活の中で気づかないだけの話であって、少し関心を向ければ、この世は、魂の世界であることが理解できてくるであろう。そして、霊的波動に充ち充ちているこの世の縁エネルギー空間を感じるはずだ。縁は出会いとなり、出会いはあなたの運命を運ぶ。そして、この世に限りない前進のシグナルを送り続けていると信じている。

 

 

 

 

 

それは遠い彼方の山また山の向こうの国ではない

「文字・数・色は魂の暗証番号」の一節

 

 

 

 

文字・数・色は魂の暗証番号

 

 この世に生まれて来るのも、死んであの世に還るのも、生きとし生ける者、行きも還りも必ず通らねばならない門があります。その門の名は「食心門」といいます。

 食心門では食と呼吸の許可書を発行いたします。あの世もこの世も不離一体の世界ではあるが、そこを往来するには、必ず通らねばならない厳しい門が食心門なのであります。

 食心門を往来する命たちは、日によっては数万兆にもなりますから、その記録は見当たらないし、そんなことはどうでもいいのですが、この食心門を往来するには、一種の通行手形というものが必要でありまして、生まれてこちらにおいでになる時も、死んであちらにお出かけするにも、肌身離さず必ず持参しなくてはならないのです。

 その通行手形といっても、木札で作られるというものではありません。一種の乗り物でありまして、それは光の乗り物なのであります。生まれて来るときもまた、死んであちらに還るときも、いつもその光の乗り物に乗ってまいります。その光の乗り物には三種類ありまして、光そのものはエネルギーでありますから、そのエネルギーには三つのタイプがありまして、今でいうICチップ入りで暗証番号が設定されております。たとえば、あの世から食心門を通り、こちらに出て来るときはその光の乗り物に乗ったままでチェックを受けます。あの世もこの世も共通の暗証番号でありますから自己表示がすこぶるスムーズに表現できます。その三つのタイプのエネルギーというのは、

 

文字(象形・図形・その他)タイプの乗り物

数タイプの乗り物

色タイプの乗り物

 

ということでして、これらを三大生命元素エネルギーといいます。この文字・数・色によって、魂の自己証明ができることになりますから、いわば魂の身分証明書となります。だがこれはれっきとした個人情報でありますから、それを保護しなくてはなりません。そのために暗証番号式に作成されております。このカードは別名「現幽往来カード」と呼び換えてもよいでしょうし、これさえ持参しておれば、あの世からでも自在にこの世に出入りできまして大活躍できるようになっておりますから、この世で縁ある方や会いたい方には、自分が何者であるかをその光のカード、すなわち現幽往来カードを差し出せば判るようになっております。

 現在では、その現幽往来カードの暗証番号(文字・数・色)を見れば、その身分を見分けできる方も増えつつありますから、これからは暗証番号による心の交流もよく通じる時代に変わってまいります。

 まあ、あの世だこの世だといっても、それは遠い彼方の山また山の向こうの国ではないのであって、この自分の中に、仕切りも無しに共存共栄の同居生活は原初の時代から少しも変わってはおりません。とはいっても、食心門の仕切りだけは厳しくございまして、どのような時代のあの世の人々であろうとも、身分だけはきちんとしてもらわないことにはこの世へは渡してはくれません。だから、三大生命エネルギーの暗証番号を差し出さないことには食心門は通れませんから、食心門をいくらノックしても誰も相手になぞしてはくれません。ですから、あの世の魂も、この世の魂も、生きても死んでも各人の暗証番号入りの光のカードを差し出さねばなりません。

 たとえば、あの世に行くにも、この世に来るにも、食心門のところで「色の光に乗って来ました」と、自分のカードを差し出すと、「オウ…アナタハ◯◯デシタカ…」と分かる訳です。また、死んであの世に出るとき登録した死亡年月日、時刻、年齢などの数タイプ・カードであるとか、あるいは、生まれ出る時の年月日、時刻、両親名、代々の名前、男女性別などの複式タイプのカードなどもみな同じことでありまして、その現幽往来カードには、生死一切の情報が示されているという、ざっとそんなところでございます。それではここでその一例をご紹介いたしましょう。

 昭和六三年(一九八八年)から翌平成元年(一九八九年)の初めにかけて、三人の聖人君子があの世に旅立たれました。「土光様」「昭和様」「赤倉様」でございます。

 土光様は、経済界の重鎮としてその名を残されたお方であり、さらに、「個人は質素に、社会は豊かに、正しき者は強くあれ」という母親の教訓を貫き通されました。信仰心が篤く、また、新しい一日を精一杯生きることを信条に掲げられた、と言われております。

 土光様は、昭和六三年八月四日、四時八分に、この世でのお務めを終了されました。日々信仰されました法華経の道にあって、八月四日・四時八分ということは、お釈迦様の誕生祝日である四月八日に深く共振共鳴されたのであります。誠に有縁至極のお祝いといわねばなりません。

 土光様は、魂の暗証番号であります「八-四=四-八」の数霊の光に乗られたことになり、そのことは、信仰心に篤かった法華経の源泉を辿れば、お釈迦様の暗証番号ともいえる「四-八(=八-四)」の数霊の光へと導かれたといっても過言ではありません。生命世界はひびきの世界であります。あの世は純光の世界ですから、この世での身分一切は裸となりまして、万人万物平等となりますから、一国の君子といえども、あの世では一大生命の下で平等となられますから無冠の帝王ということになるのであります。それでも、この世での魂の誇りは決して消え失せることはありません。

 さてそれでは、次に昭和様について考えてみたいと思います。昭和様が病床に就かれたのは、土光様が旅立たれた翌月のことでした。九月一九日より、体調不良の症状にもその進退起伏を繰り返しながら、年を改め昭和六四年(一九八九年)となりました。

 ちょうどその頃の話でありましたが、ニュースのたびごとに心を集中していた妻の内界に変化が起こり、一瞬の命のひびきが結ばれたのであります。その結びのいのちの声は 「ドコウ…ウラヤマシイ…」と。それは昭和様の魂のひびきでありました。その言葉のひびきは光のひびきとなりて、妻の五臓六腑に染み渡ったのであります。咄嗟に受け答えるかのごとくに妻は、心の底からひびき返したのであります。

「天皇陛下は〝日本の父〟ですもの、必ず喜びがあります」

と、いのちの中で心を送りました。

 昭和様は、土光様のことはつぶさに知っていたはずです。もちろん、亡くなられたこと、八月四日・四時八分のことも、また、法華経の信仰心篤きことも、そして、お釈迦様の祝日・四月八日に共振共鳴された縁日に旅立ったこともご存じであったはずです。そして、ご自身もすでに、こちらでいう食心門は目前にあることを受け止められていたと思われます。

 「ドコウ…ウラヤマシイ…」と、いのちの内声。「天皇陛下は〝日本の父〟ですもの、必ず喜びがあります」と妻はその思いを送りました。

 昭和様は日本の父であります。そして、日本の大地の土に還ります。日本の〝父〟は、日本の〝土〟に還りますと、妻の返した思いはそこにありました。

 そしてその日が参り、その証しの暗証番号とも思われるその日に、崩御なされたのでございます。昭和六四年一月七日「土曜日」、午前六時三三分、寿齢八七歳でございました。

 昭和様は日本の父で、土曜日の〝土〟の日にこの世のお務めを終えられたのであります。

 土の日…父の日…日本の父の日…土曜日という文字の光りに乗られて旅立ったのであります。また、昭和様は、重篤の病床にあられても、国民の生命を守る農業に寄せられるお気持ちは特段に篤く、ことさらに、主食の米に寄せられる思いは特別のようでございました。

 昭和様の、そのお心を言葉になされた当時の新聞記事をご紹介いたします。これは昭和様が、吐血病床に伏されてから初めてのお見舞をされた宮内庁長官とのお話です。

 

[記事](要約)

 藤森宮内庁長官が退席しようと戸口に向かって歩きだすと、陛下は「あのね」と呼び止められ「雨が続いているな。稲の方はどうかな」と質問された。長官が「総体としては平年なみ」と答えると「あ、そう。それはよかった」と安心されたご様子だったという。そのことを耳にされた当時の佐藤農相は「陛下は、農業に特別の関心お持ちで、ご心配に対し恐縮している」と語っている。その後宮内庁を通じ米の作柄状況を陛下にご報告する意向を明らかにしたという。

 

 日本の国は瑞穂の国であり、国民の命を守る大基盤の農業、とくに「主食の米」のことを何よりご心配なされたと思います。日本の父昭和様は、日本の大地に思いをおかれたことでありましょう。

 さて三人目のお方赤倉様のお話であります。実はこのお方は、誠に不思議な運命の世界にその生命をお預けする希有なる人生になったのであります。

 生まれ在所は天地自然の山河の懐に包まれて、古来、名湯の幸にも恵まれ育ち、血気あふれる情熱でその若さを謳歌した行動マンであったといわれます。

 予期せぬ運命の幕が上がったのは絶頂期の四〇代のことであります。

 天地が逆転したか目の前は一瞬にして濃霧に包まれ、音もなく静謐の純白で視界も消えて刹那の耳鳴りがしたのであります。

「シバシヤスムガヨカロウ…」

と。あれから早や二七年の流るる歳月は、無意識世界に身を委ね、妻子家族の看護の中で、筆舌に尽くせぬ奥方の愛と家族の温もりの真心のひびきを、赤倉様はいのちの光を介して伝え受けていたことでありましょう。

 やがて機は満ちて、上げられた運命の命の幕ももはや下ろされようとする頃、縁の糸が妻へと結ばれました。それは、昭和様の病状の進退起伏が激しくなり、快方へ、また悪化へと転変する日々の中で、かねてより見舞の回数も多くなっていた妻に、以心伝心のコミュニケーションをそれとなく受け取ることも多く生じてまいりました。

 摩訶不思議なことには、昭和様の存命不定の中で、昭和様が悪化すると真に同調された赤倉様の症状も急変悪化されるという病状の連動連鎖が繰り返されたのであります。快方へ向かえば快方へ、悪化へ向かえば悪化へとそれはまぎれもなき真実の話でありまして、昭和様の崩御少し前のこと、赤倉様の奥方からの連絡を受けた妻は、急行お見舞いいたしますれば、光となって命に伝わる赤倉様の魂がひびいたのであります。

「テンノウノアトヲユク…」
と。

 昭和様との魂の共振共鳴、その連動する無意識世界。交信の仕組みは誠に不思議であります。赤倉様とどのようにして時空を超えた心のひびきとなったのか…。二七年間の歳月の中で、人間の魂は見事にピカピカ光り輝いている証しではないのか。

 命の仕組みは、暗中模索で五里霧中の世界ですが、一つ、決定的に明白な事実として、無意識の意識は、無意識の中でも心は決して死なず…。培われた魂は光で満ちていて、ピカピカ生き生きしているということであります。

 やがて、昭和様の旅立った翌月早々、赤倉様は、二七年間の夢から覚めまして真の光の乗り物で旅立ったのであります。平成元年二月五日日曜日午前一一時二五分のことでした。赤色で彩られた日曜日の暦の中で赤倉様は、赤色の日曜日に「赤色の光」に乗りて、昭和様の後を追うメッセージを残して旅立たれたのであります。昭和様との間で、病状の連動連鎖反応が起きていたことを併せ考えるとき、ひとりでに頭が下がり厳粛な世界に包まれていることをひしひしと実感させられます。以上のように感じたままにみてくると、

 

土光様は
数の光りに乗り

昭和様は
文字の光りに乗り

赤倉様は
色の光りに乗り

 

 私達が見方一つ変えれば、魂の世界をより身近に実感できるのでありまして、また、人生の指針と守りを受けることがよりはっきりとしてくるのであります。

 そして、いかなるお方でも旅立ちに際してその身分は無く、万人光のカード(現幽往来カード)を持参して、食心門を通ることになります。

 魂の暗証番号「文字・数・色」の光りに乗って自在に往来するのであり、食と呼吸は命の「かなめの門」なのであります。

 

魂の世界は時間・空間の無い一面一体の世界

「出会いに咲いた縁の花」の一節

出会いに咲いた縁の花

 

 私達の一生、生から死までを一本の糸にしてたとえることができる。糸の色をその人の心の色にたとえて、人生模様を織り成す刺繍絵と考えてみてもよい。その文様や絵柄模様をそれぞれがどのように完成させることができるかである。

 自然の中でよく見かけるクモの巣などは、一本の糸で織り成す姿の典型的なものである。クモの巣は、腹部から一本の糸を出し続けて幾何学模様のエサ場をつくる。その場所を選び、風を利用し、枝葉を利用し、最良のエサ場を見極めていのちの糸一本でつくり上げる。

 また、カイコ(蚕)などは、幼虫から成虫(カイコ蛾)に変身するために一本の糸を口から吐き出して、外界と隔絶する聖なる家(マユ=繭)をつくり、その中でサナギ(蛹)となり外界に新しく生まれ変わる。動的幼虫からさらなる動的成虫(カイコ蛾)に変身するために一度は静の世界に身を包み、一本の絹糸で織り成すカイコの世界もある。

 我々だって、一本の糸で刺繍模様をつくり上げる人生だ。人生は一本の糸で織り成す刺繍の文様のようであり、表面で見られる具象(現実)の絵柄や文様の世界ではあるが、その裏面は、表面の現実世界とは打って変わって、抽象(非現実)の世界であり、容易に明かすことのないカイコのマユの中の世界と同じであり、一本の心の色糸で織り成す人生模様は、刺繍の表と裏を見るごとく具象と抽象の世界であり、現実と非現実的な神秘世界の表裏であり、一本の心の色糸で紡ぐ人生の刺繍世界にも見えてくる。

 現実を裏返しするとそこには必ず現実の基を成す神秘の世界があるのであり、また、必ずあらねばならぬ世界であることに気づかされる。現実と非現実、具象と抽象、外界と内界それらはみな表裏一体で、離れられない不離一体の同体の世界であると考えた。

 生体は、外見は当然にして見える訳だが、それらをつくり出すその内界の臓器などの構造は見ることができない。命を形成する根幹世界はなぜか目に見せてはくれないのだ。人の運勢・運命も同じことであって、その人をその人成らしめる根幹世界は、生死一本の心の色糸で織り成されているのだが、どんな図柄ができ上がるかその運命的流れを知るには、その人の縁の流れを知ることであり、さらに、縁の流れを知るには、文字的・数的・色的ひびきの同調性に心を向けると、その縁の明かりが徐々に見えてくる現実がある。耳にしたことがあるかどうか、人生に三度のチャンスありといわれるが、その三大チャンスのことを本縁と読み替えてみると、その人にとっては大きな運勢転換ともなる内容に満ちた出会いともいえるのだ。

 その本縁までの道筋に灯る、点から点へと運ぶ縁の明かりを、役縁という具合に考えてみたらどうか。役縁から役縁へ、点から点へとそれぞれを結べば、人生の一本道ができ上がる。鉄道なら各駅停車のような感じであり、俗にいう偶然の一致などは、いわば本縁までに辿る道筋の役縁の現象にすぎないと私は考えている。

 「袖振り合うも多生の縁」というように、生死一本の心の糸は、どんな色の心の糸なのかで、引き合い、反発し合いをして波を打つものだ。それらの縁が役縁なのか本縁なのかは、自分の心の反応で判断するより他はない。

 さて、風の吹くまま気の向くままの旅、それは、心のオート・ハンドル(自動操縦)の旅でもある。またそれは霊的で、より潜在意識を活性化させる一つの方法でもあろう。

 万人の心は微妙にその色合いが異なるものであり、心の色合いは一種の磁気を帯びているから、プラスとマイナスで引き合い押し合いとなる。すなわち、共振共鳴の現象をそこに見ることができる訳であり、その一例を旅の中から見てみることにする。

 家を出たのが四月二一日であるから、あれから二七日目となる五月一七日(水)のこと、いったんは奈良県の高野山まで南下したのであるが急きょ、列島の北上を続けて北海道に渡ろうと思いたった。

 ここは下北半島の大間崎であり、本州最北端の地であり、目の前には小さな弁天島があって、そこに本州最北端の灯台が見える。二メートルも引くという干潮ともなれば、歩いても渡れそうな小島である。

 大間港から室蘭までフェリーで五時間の船旅になるが、出港までの時間でいささかの食糧調達のため数軒ある商店の中の浜乃屋という店に立ち寄った。

 店の内も外も所狭しと乾物や生鮮魚介類をはじめ雑貨類から飲み物類、オモチャもあれば、観光提灯まで揃うミニデパートのようだ。やはり、大間の港から北海道に渡る人々で賑わうのであるが、昭和六三年(一九八八年)の青函トンネル開業による影響はおびただしいものがあるだろう。

 このお店の娘さんは、話を聞けば生まれも育ちもこの地であるが、高校からは静岡県に出られたという。静岡の浜松が大好きというのだが、高校は清水の商業高校ということだ。高校にしてはあまりに遠方なので私ははたと考えてしまうほどであった。浜乃屋の娘が静岡県の浜松が大好きで、高校は清水市へ学びを進めている。

 ところが、フェリーに乗り込んでから一人の青年と出会って話し込むうち頭の中はぐるぐると縁の糸で渦巻くことになった。彼は大学を卒業したばかりだが、ここ一年間就職を中止して全国を自転車によるツーリングの旅に出たのだという。

 静岡県の富士宮市出身で現在は三重県の桑名市に住んでいるという。さらにいわく、旅に出たのは四月六日でテント一式アウトドア用品を携帯して、宿泊のメインはテントだがときおりユースホステルなどを利用するというのだ。そこで最初に一泊したのが千葉県の館山だという。その夜同宿の女性と親しく話をするうちその女性は三重県の四日市市の生まれで、静岡県の富士宮市に嫁いで来たのだというのだ。彼はそれだけでも凄く親近感を感じて嬉しくなったという。ところで彼の泊まった館山には、つい先日の五月一〇日にかけて私も車中泊をしているではないか。

 そればかりか私と妻は、数カ月前にテレビで知った一人の写真家、伊志井桃雲氏を訪ねている。そこは富士宮市なのだ。富士山オンリーの写真家・伊志井桃雲氏の情報は富士宮市在住というそれだけであったが、富士登山入り口で名高い浅間大社を参拝した折りに運よく出会ったS氏が伊志井氏をよく知っていたのである。この出会いのことを彼に話すと彼は、S氏は自分が小学生の時の先生に相違ないというのだ。とても珍しい苗字であったから印象深いとも言う。ここまで分かってくると、縁の糸がぐるぐると刺繍の文様を織り成し始めたのである。この日の数時間の中で次々と浮かび上がる縁の明かりが目に入ってくる。表面だけでは絶対に分からない縁の糸(縁エネルギー)が見え出してくるし、互いに語り合う中で縁の明かりが次第にはっきりと灯り始めていた。袖振り合うも多生の縁…とは、的を射て真実を言い伝えた言葉であり、また、命の意志性に突っ込んだ、深く畏敬にふれる世界を言い得た言葉に思えてくるのだ。

 決して目には見えないはずのいのちの裏時計ではあるが、目に見える時計の針を裏で動かす時計の仕組みは、我々の運勢運命の見える現実と、現実の基を成す見えざる世界(非現実の神秘)に通じている。

 目に見えざる神秘ではあるが、それが実際には目に見えている世界だと言えば信じてくれるだろうか。見えない世界が見えてくる現実こそ、共振共鳴共時の世界なのである。

 いのちの中を滔々と流れる縁のエネルギー(心のエネルギー)、運勢を織り成す縁の糸、泣くも笑うも陰で導く心の明かり。その心の明かりは、文字的に、数的に、色的にこの世の表舞台で見せ続けている現実がある。

 この大間崎の港を出るまでのほんの数時間の中でも、出会った方たちには、糸が互いに綾なすように、それぞれにして有縁の流れを共有していたのだ。心の裏舞台の上では、文字性のひびきに溶け込んで激しく共振・共鳴する世界を見ることができる。それは生命の根源的ひびきと言っていいだろう。そのひびきは、吸引吸着し合い、反動反発しながら、縁を結びまた離れてゆく。

 いのちの絶対調和力(中心力)と、心の色から発する波動(磁波)が織り成す心の糸の刺繍絵である人生。それは日々の暮らしの中に織り込まれている唯一の心のひびきであり、物申すいのちのひびきであり、運勢・運命を運ぶ魂の機関車なのだと表現したくもなる。

 心に刻んだ記憶や、日々思い続ける心というものは、圧積された氷山にも似て、魂となって永々に生き続けると考えられるし、その思いの世界は、文字の明かりに溶け込み、数の明かりに溶け込み、色の明かりに溶け込んでいのちの中で働いている現実を目に見せていると思っている。心(想い)は縁の原動力となるものだ。そして縁は、その人の運勢・運命の原動力となるし、この動きをこの目に見せてくれる文字や数や色のひびきが今もまた、命と共に働き続けている。

 出会った青年が青春を力強く羽ばたき日本一周の自転車の旅をする。その彼の一年間はいのちに深く刻まれて、揺るぎない輝きに満ちた尊い人生の基礎を築くものだ。出会いの縁の糸をたぐれば、思いもかけない魂の流れを垣間見ることができるのだ。

 さてこれらの話には後日談が待っていた。フェリーで出会った富士宮市出身の青年、そして、同市在住のS氏のご縁の結び合いであったが、S氏とはそれ以後も年頭のあいさつ位の交友ではあるが、その交信を長い間続けてきている。

 平成六年(一九九四年)元旦には、S氏ご夫妻、そして長男夫妻と四歳と六歳の孫一同の幸せな写真が添えられていた。ある外国での記念撮影であった。ところが、平成七年(一九九五年)一月一〇日付には寒中見舞い状となっていた。長男の妻が逝去なされた為である。平成六年一〇月八日・没。三六歳。(昭和三四年九月三日・生)とある。そこには戒名も記されていた。その後の平成一二年(二〇〇〇年)一月八日付にも再び寒中見舞い状となっていて、今度は長男が逝去なされたというのである。平成一一年四月二九日・没。四一歳。とあり、やはりそこには戒名も記されていた。

 わずか五年位の間に、四一歳と三六歳の若き長男夫妻が亡くなられたことになり、残された子供たち二人は当時五~六歳くらいであったが、今は、祖父母S氏夫妻と四人で心痛止み難きを乗り越えて暮らしているというご挨拶状であった。

 そのような家族事情を知りつつも、歳月人を待たずのごとくはや二〇年が過ぎ去った。この度、二〇年前からの資料を基にして共時性現象(シンクロニシティー)の真実に迫りたくこの原稿に残したのであるが、その原稿を書き終えた日が平成二〇年四月一〇日である。ところが私の内面深くに異変が起きていた。というのは、全く気にしなくてよいものに執拗に執着し始めたのである。家のパソコンでCDのインデックス・プリントをつくりたいという思いが全身を包み込んで他の一切は何も手につかない始末となっていた。ところが目の前のパソコンをいくら操作しても、むしろ迷路に入るばかりで何の解決もつかないのだ。

 パソコンメーカーやプリンターメーカーにいくら相談しても、初心者であるから要領が得られずらちがあかないのだ。この世界の、なじみのない用語のジャングルにはほとほと参ってしまう。最終的にインデックスを内蔵したソフトを探すことにした。「デジカメde‼︎同時プリント9」というソフトなのだが、それをインストールしてみるとサンプル画像が出てきて、そこには三〇代の若い夫婦と四、五歳くらいの子供二人が飛び出してきたのだ。

 親子四人でバーベキューを囲んで、娘たちはでっかいスイカにかぶりついて大いに喜んでいる。この画像を見たとき、なぜか私の心は閉じようとしていた。この画像を削除できないものか、と一種異様な霊的ざわめきが起きてきた。だがその操作もままならない。それが四月一二日である。

 この日は私達の結婚記念日であり、それも四九回目である。来年の金婚式まで手が届くところまで来たという実感がよぎった。

 ところがこの日の早朝、床の中で半覚醒状態の妻の目の前に、突然屋久杉の霊が現れてきた。千年以上もの年輪を刻み重ねたその中に、はっきりと精霊の姿を観たのである。その時四時一分であったという。

 そのまま起床した妻は今度は自室に入り身の回りの整理を始めたのであるが、ところが、どこへ行くにも持参している古い手帳の中から写真入りの年賀状のコピーが出てきた。それが富士宮市のS氏からの葉書であったので妻は、「お父さん、Sさんからの家族写真がでてきたよ」と言って見せてくれたのである。見れば、若い両親の中に四、五歳くらいの子供たちが並んでいた。後ろには、この原稿の中心縁者であるS氏ご夫妻が立っている。

 これを見た私に電撃が走った。パソコンソフトのサンプル写真の若い両親と二人の子供たちがオーバーラップしたからである。

 早速このサンプル画像を妻に見せてやりたいと思い、プリント印刷してからその日付を見て、今度はいのちの中から押し上げてくるものを感じた。写真に現れたデーターには、二〇〇四年五月一七日撮影とあるのだ。

 五月一七日と分かって、これは何ということかと思った。それこそこの話の二〇年前の出会いの日であったではないか。大間の港から出港したフェリーの中で出会った富士宮市の青年と同市在住のS氏のこの話こそ、平成元年五月一七日のことであったのだ。ここには言い知れない魂の流れを感じさせられてならない。魂の世界は時間・空間の無い一面一体の世界であり、一〇年、二〇年という概念は無く、つねに今なのである。

 私にパソコンのソフトを探させて、親子四人の写真をそろえ、数の魂に溶け込んで、死んでも生きているいのちの証しを残さんと、時空を超えて、人の霊体を借りて、出会いの縁の流れに生きてそのエネルギーの波動をひびかせる。五月一七日の出会いと、二〇年後のパソコンソフトの中で待っていた五月一七日撮影の若き親子四人、それは、S氏の長男夫妻と残された四、五歳の子供たちの親子四人とそっくりではないか。

 そして、長男の妻は一〇月八日に亡くなったのであり、何とその日は私の妻の誕生日、一〇月八日に共振共鳴してそのひびきは止まることがない。

 さらに、早朝妻が観た屋久杉の精霊姿は四時一分のこと。S氏の長男は四一歳で没したとある。

 そればかりか今度は私が、四月一二日の四九回結婚記念日の朝から歯痛に見舞われ、二日間辛抱の末、歯科医の治療を受けたら真横一文字に折れていたというのだ。何らの自覚もなく歯が折れるとはこれまた異様なことではないか。この日は四月一四日である。S氏の長男の没年齢は四一歳という。これまた四一=一四で共振共鳴のひびきが同調することも見落とせない一つであり、以上のこれらは、霊魂の意志性であることに疑いを挟む余地がないと私は思っている。

 それは「死んでも生きているいのちの証し(魂不滅)」の大事な一事例になると思うからであり、人が亡くなるとどうなるかという問いについては、古来、斯界しかいの有識者たちや覚者といわれる方たちでも問答無用といったところではないのか。死んだら煙になるだけだ、という方もおられる位であるから、それは誰しも答えようもない現実離れした世界であろうし、死の世界に行かれたら帰れない世界であればこそ、それは全くもって問答無用であって然るべき話ともなる。

 だが、たんに煙になるだけ…とか、そういう話はご法度である…とか、あまりにも人々の間からは敬遠されたり、真剣に耳を傾けてはくれない。ところがこの世界に直接結び付く共時性現象の体験記録を二〇年からも積み重ねてくると、どうも身につまされる思いが多くあり過ぎて、たんにオカルト(神秘的・超自然的)などとばかりで済まされない出来事なのである。言うなれば、我々の生体は正真正銘の霊体(意識体=魂・心)であり、我が身の中から魂(心)を抜いてしまったら本当にもぬけの殻であり、存在価値さえなくなる事実がある。

 今後どのようにして明快な検証ができるかは、体験資料の一つ一つをこの本の中で迫ってゆくことが一番の近道と思うし、そのためにも、記録掲載だけで終わらせてはならないと思っている。

 

この世は亡き霊魂の
るつぼともいえるのだ

「タイガー計算機に秘めた魂」の一節

タイガー計算機に秘めた魂

 

 どうか安らかに永眠して下さいと、追悼の意を申し述べるが、それで亡き本人が本当に永眠することができるのか。死んだらどうなるのか、本当に何もかもゼロになるのか、消えて無くなるというのか。

 ましてや疲れ果てた人生なら、誰しも永眠させてやりたいのが人情というものであろうが、どうもそうはいかないのが現実というものである。

 死んでも生きている心であり、魂であり、そして肉体は確かに煙となる。残るはわずかの白骨それだけだ。ところが、亡き人の心はれっきとしてこの世に残る。どこにどうして残るかといえば、この世のわれわれのいのちの中で立派に生きている現実がある。

 それまでの、物質性の生体機能(肉体)は煙となって消えこそするが、それはたんに目に見えない生命元素(原子)となって天地に還元した結果であり、それまでの人生で蓄積された心と、引き継いできた遺伝子性の霊魂(心)は、この世に厳然として残る。

 それは、いのちのネットワークに乗って、すなわち人々の共振共鳴の霊脈の世界で、その居心地に合わせて寄り添いつつ、自らの魂を再生エネルギーに姿を変えるのである。

 いわば、死んだらその心は、類似波動の心の磁場に再生エネルギー化するといってもいいかもしれない。

 生命本体の生命エネルギーは死とともに天地に還元するが、いのちとともに育った心の磁場(魂)は、この世に心の生命体となって、心の再生化を果たすものと考えてもいいのだ。それは遺伝子性の霊脈を通じて、また共振共鳴の縁者に結ぶ霊脈の復活再生によって、亡き魂は再生エネルギー化を果たすものと考えている。

 ここで少々自分のことを開陳して、この話の参考にしていただければと思う。昭和六一(一九八六)年から、私の人生はガラリと一転した。これまでの人生から意識改革をするため、それなりに独自の修行体験をしたのであるが、その発端は酒乱人生からの脱出であり、祖霊からの魂の浄化修行であった。その内容たるや、まさしく狂乱状態になっての、自己の魂との格闘といってもいい。

 心の中というのは、古い古い歴代の、それはそれは霊光霊脈のすさまじい絡み合いの世界でもあった。自分の中の霊体をつぎつぎ浮き上がらせての格闘である。激しい呼吸法もあって、時には血管怒張によって血管が破れて出血するというほど、これまでの自分の不幸性霊魂との決別のためであった。それでも中に居座った心というものは消えようとはしないのであった。神社の前で「すまない、汚れた心を許して下さい」と念ずれば、「バカナコトイウナ」と、いのちの底から叫び出すという体験は、数年にわたって起きている。生命体の中には善悪二相の魂がたむろしていることを知ったのである。

 歳月を重ねるごとに、そんな悪性には負けじと、善性の心を積むしかないと自覚して、心の輝きを積む日々が続いてきた。あれから二三年が過ぎた。七四歳となり、平常心にかえってみれば、このいのちというものは、生きている今ここしかなく、中は全て自分の過去と、死者たちの魂の再生の世界であり、死者は、死んでも永眠などするわけもなく、この今の私の心に生きようとして、働きかけていることがわかった。

 死者からの、善性の働きかけならこれほどいいことはないのであって、その逆の悪性の働きかけこそいい災難というものである。この身の中は、まるまる死者の魂以外の何者でもない。

 歴代累々からみれば、この世に生きた自分の人生でつくりあげた心なんて知れたものである。いいにつけ悪いにつけ、自分が思い続ける心にふさわしいあの世の魂がダイレクトで再生するということは嘘ではない。いうなれば、この世は亡き霊魂のるつぼともいえるのだ。今のこの心に何もかも付いて回る仕組みになっているのだ。今の自分の心に共振共鳴して、亡き霊魂は生きようとしているのである。

 この亡き魂の再生のメカニズムは、今の自分の心の中で再生するほかはない。また、その共振共鳴の魂のチャンネルさえ合えば、出会いの縁一切においても、次々かけよってくる霊魂の世界であることは知っておいたほうがよい。だからこの自分というのは、万霊万魂にアクセスできる媒体の役目も果たすのである。

〝縁は異なもの味なもの〟

〝袖振り合うも多生の縁〟

などという諺は言い得て妙ではないか。

 科学界では、こうした亡霊の話はタブーであろうが、現今はだいぶ科学者の間でも関心が高まっているのではないかと思われる。世界に名を馳せた、スイスの心理学者で精神医学者であるC・G・ユング博士(一八七五年七月二六日~一九六一年六月六日没享年八五歳)は、共時性現象(シンクロニシティー)といわれる概念の仮説をたてて探求なされた臨床医であるが、世に言う偶然の一致について、学問的探求のメスを斯界 しかいで初めて共時性現象としてとらえている。

 博士は、深層意識世界と自然界の生命根源に根差す物心両性からの大調和力を探求なされたのではないかと、私なりに考えている。意味のある偶然の一致と意味のない偶然の一致とを区別され、魂の共振・共鳴・共時を探求なされたのではないか。思うに、学問的に探求なされたことは、人の心と運命をひもとく、一元性を証すことではなかったか。〝心は運命を支配する〟という、その根源を明かさんとしたのではないかと思ってみた。

 さてこれから述べる、偶然を寄せ付けない一見無関係と思われる出来事、つまり共振共鳴の共時性現象を、二〇年の時空を越えて体験したことについて、皆さんはどのように思われるであろうか。

 今から二〇年前のこと、旅の途中で函館山に立ち寄ってみた。東に立待岬をのぞみ、少し登り上がったところに今は観光名所となっている石川啄木の墓がある。それは、平成元年(一九八九年)五月二五日の晴れて温かい昼下がりであった。

 ここで出会うも奇遇なり、あの世とこの世の彼岸橋の上で商売をするご仁に出会ったのであった。赤銅色に焼き上がった顔の肌をした四、五〇代の風人墨客ともいえるご仁だ。

 石川啄木の墓に隣接する広々とした三軒ほどの墓前に、所狭しと額物が雑然と置かれていた。〝東海の小島の磯の……〟で始まる啄木の句もあって、額面三〇〇〇円と値がついていた。ハガキ風の書画もあれば、商標登録したというカニ印のTシャツまで並んでいた。

 観光客は、啄木の墓に一礼して、隣を見れば足を止めて客人となってくれる。私は客のいない時をみはからい声をかけてみた。夏の観光シーズン中に、こうして店を出し、暮らしの一年分は稼ぐのだという。相坂春山という雅号をもっていて、画家、書家、そして作詞にまでも手を広げている多才なご仁であった。

 津軽生まれの津軽育ちであるといい、農業共済組合にも籍を置いていたことがあり、種付師の免許を持っているという実にユニークなご仁である。それにもまして、タイガー計算機の修理専門員であったというのだ。汽車とバスを乗り継いでの旅回りで、旅館泊まりの日々を長い間続けていたともいう。

 タイガー計算機と聞いて、私も若い頃農協職員であったから、当時タイガー計算機を毎日回し続けていたことを思い出していた。

 ところでこのご仁は、

「他人に使われるんなら乞食でもしたほうがましだ。俺は勤めが嫌いでどうにもならなかった」と言う。

「雨の日は休むし、食って飲んでちょんであれば上出来であるよ」

と言い置いて、目の前のTシャツを両手で開いて、

「Tシャツのこのカニ印は商標登録されて独占であるよ」

という。また

「函館にきて一一年ほどだが、ここ(啄木の墓)に通って四年になる。ここには函館の人間は誰ひとりもこないし、客は観光客だからやりやすいんだよ」

と言い置いて、

「青森も、秋田も、岩手の人間も買ってはくれない…こまいんだなあ」

と、なぜかこちらの山形はその中に入ってはいなかった。そして、いい時も悪い時も人間誰しもあることだ、そこの海の潮でも引いたり満ちたりという風に、さっとさりげなく視線を海に向けた。

 ご仁は泰然自若の自由人である。だが芸術家タイプ独特の鋭い眼光で、客人を一瞥する。「お客さん」と一声、啄木の墓前で記念写真をとる若夫婦に声を飛ばした。

「お客さん、写真だけ撮って拝まなけりゃ駄目だよ」

と、心中の憤り丸出しで本気で忠告する。その姿に、別人の魂を見た。メリハリある迫力に、客人は平身低頭して墓に手を合わせてそそくさとそこを立ち去って行くかと思うと、次に立ち寄った高校生風の四、五人連れには、一変して実に優しく忠言するのであった。

「墓で写真を撮る時は足を切ったら駄目です。駄目、駄目だ。全部写さにゃいかん。そら…それでは写らんぞ」

と、こまごまと観察して言い続けていた。

 一見茫洋としているが、芸術家タイプの人というのはみなそういう心の窓を持っているようだ。描く、書くというのは心の底を見ていて描くのであろう。相手の心にピントを合わせて鋭く射貫くのである。

 私はくだけた話で声をかけた。

「さきほど飲んで食ってちょんであればいいんだと言ったが酒をやるんですか」と聞くと、ご仁いわく

「酒は飲まんです。お茶とお菓子があればいいんだよ、好きですなあ」と、歯をむきだしてニコリとほころぶ。

 前を通るタクシーの運転手たちは、なぜかここの前で徐行してご仁に会釈をするのだ。ご仁も愛嬌たっぷりに笑顔で返す。ともに、函館山観光でうるおう同業意識なのかもしれない。

 ご仁の言うには、以前、テレビ取材を受けたのだという。昼のワイドショーのロケ撮りに応じて、一時間半ほどで三万円のギャラをいただいたというなかなかの人気らしい。「この角印を押せば一〇万円以上になるんだよ、丸印の色紙なら二〇〇〇円でもいいんだが」と言って、書画に印をする角形の落款 らっかんを見せてから、美術年鑑にも出ているというご仁なのであった。

「旅に来てその土地の人々と話をせんだったら、観光に来てもなんも残らんもんだよ。印象がないというもんだよ」

と、心に熱いものをもっているご仁は、ヘビースモーカーでもあった。次々とタバコをすって大丈夫なんだろうかと、人ごとではなかった。肺の中が真っ黒なんじゃないかと、いらぬ気を回した。

 店じまいには、大事なものだけを自転車で持ち帰り、

「なくなってもいいもんだけを墓のうしろに置いて置くんだよ。アッハッハー」

と、屈託なく笑っていた。つづけてご仁は

「金がいくらあったとて、そんなのいくらも続かんもんじゃよ。無くてもどうっちゅうこともない」

と、他人に使われる位なら乞食のほうがましだ、と言い切る悟境の人生を飄々と生きるご仁。

 向こう三軒両隣の墓を店がわりにして、死人の魂を助手につけて生き抜くしたたかさは、超人の道をゆく姿であった。

 

〝はたらけど はたらけど猶 わが生活くらし

楽にならざり ぢっと手をみる〟

-石川啄木-

 

なのだが、わがくらし楽にならずともどうっちゅうこともなし、といったところのご仁であった。啄木も一目置いてほほ笑んでいることであろう。

 冬は書道を教えて過ごすというご仁が私を足止めして、「この言葉だけは覚えていったほうがいい」と次のようなことを言ったのである。

「夫婦のクジ(籤)には外れは無い 当たりクジ(籤)を知らないだけである」

と。それはあるいは、自分自身の体験的メッセージだったのかも知れない。含蓄のある名言である。

 かくなる強い印象を受けて別れてからはや二〇年が過ぎた。これほどの印象に残るご仁ではあったが、共時性現象の記録としては、そのひびきの共有が今一つ無かったのである。そこでこの記録はパスして次に進めようと考えた。だが、どうしても思い切りよくパスすることができなかった。パスしては思い止どまるという繰り返しが続いて、何でこれほどまでに心を引っ張るのかと、私はじれったく思っていた。私もいいかげんに頭を切り替えるつもりで、図書館に行ったついでに本を三冊借りてきた。それは、平成二〇年(二〇〇八年)五月九日であり、翌日にはその一冊に読みふけったのである。『継続の天才-竹内均』(扶桑社)である。地球物理学者の竹内均先生の自叙伝である。(竹内先生は、平成一六年(二〇〇四年)四月二〇日没 享年八三歳)。その五九ページまで読み進めたときのこと、あっと思うや、背筋にエネルギーが昇り上がった。そこの見出しは、一日中タイガー計算機を回し続けた日々とあり、竹内先生が、大学院生時代に研究なされた地球潮汐の研究の為に、手動のタイガー計算機を回し続けること四年という歳月について記されていた。月の引力と地球の引き潮と満潮について、学位論文達成までのすさまじい情熱であったが、その研究を支え続けた手動のタイガー計算機に目が走ったとき、一気に二〇年前のあの函館山の、石川啄木の墓前が迫ってきた。そして、死人の魂を助手にして、啄木ゆかりの書画類を売っていた相坂春山というご仁が浮き上がったのである。若い頃、タイガー計算機の修理専門で、北海道一円を駆け巡っていたというあの話が強烈にひびき上がった。ご仁はさらに、いい時も悪いときも人間誰しもあることだ、と言って

「そこの海の潮でも引いたり満ちたり」

とさりげなく言い放った言葉が、今ここで竹内先生の引き潮と満潮の研究の話に同期して浮き上がったのである。

 これは一体どういうことか、全くの偶然の話だとするならこれで終幕というものだが、私にはどうしても無関係ではないという霊脈が一瞬の光を放ったのである。亡き方々の魂の出会いが絶対にあり得るのだと思った。

 亡き竹内先生の一大論文となった地球潮汐ちょうせきの研究の引き潮と満潮について、それを支えたタイガー計算機は、どうしても、石川啄木墓前のご仁が話すタイガー計算機と、また人生談義の「海の潮でも引いたり満ちたり」という言葉のひびきは激しく共振共鳴しているではないか。

 私の心を媒体 メディアにして、時空なき二〇年の歳月をかけて、亡き霊魂世界の〝生きて通わしている実在〟を必死に伝え続けているとしか考えられない。そればかりか、竹内先生の回し続けたタイガー計算機は、大正一二年(一九二三年)に大阪の大本鉄鋼所で開発したのであり、発明者の名前から虎印計算機と呼んでいたのを、のちに舶来風にタイガーに変えたという。その虎印に、竹内先生の思いのひびきが私には伝わってくるのだ。

 竹内先生が、人生最大の運命的出会いと言われた、旧制大野中学二年生の時の出会い。それは、東京帝国大学の寺田寅彦先生随筆「茶碗の湯」であると言う。寺田寅彦先生と、竹内先生の虎印計算機(タイガー)が、どうしても当然にして、共振共鳴の魂のひびきが鳴り渡っていると思えてならないのだ。

 死んで消えたはずの亡き霊魂は、強く思いを寄せる人の命に同化して、見守りの光明を照らしていたと言っては言い過ぎであろうか。そして、函館の石川啄木の墓前の出会いは、ここで終わってはいなかったのである。

 亡き魂が生きて輝いているこの話を、いくら考えても思索は延々繰り返すばかりで、脳の世界が混乱していた時のこと、落語か講談でも聴きたいものだと思いつつラジオの番組表を開いて見た。五月二二日夜八時・NHKラジオ、新・話の泉、立川談志・山藤章二他とあり、ゲストには、競輪王・中野浩一が出ていた。頭のリラックス体操には、こういう番組は実に有効なものである。

 そういえば竹内先生は、少年時代から講談の大ファンであって、軽く一席できるほどの熱の入れようであったという。ところが、この番組の終わりにかけて、また来週までの宿題として出されたのは、何とそれは石川啄木の〝はたらけどはたらけど…〟の一句であったのだ。

 よりによって、石川啄木の墓がご縁で触発された二〇年前の話から、ひびきを共有できる一連の流れが見えてきた。

 

啄木墓前のご仁と竹内先生のタイガー計算機の話

人生の引き潮と満ち潮と地球潮汐の引き潮と満ち潮の話

恩師・寺田寅彦先生と竹内先生の虎印計算機(タイガー)の「寅と虎」の話

竹内先生の愛した講談・落語寄席とラジオ番組の寄席と石川啄木の話

竹内先生の本を借りたのは五月九日で、タイガー計算機の話は五九ページであったという話

 

という文字的に、数字的に暗示する魂の響き、この共振共鳴の話は、まさに〝潮の満ち引き〟にも似て、霊魂のエネルギーは、この現実社会に文字・数・色という魂のひびきとなって、私たちの心を媒体にしてひびかせ、人の心に沁みわたり、この世を運ぶ一大根源力となっている。亡き霊魂エネルギーの一大潮流を感じてならないのである。

 

スライダで閲覧

一部モノクロに変更しています。

 

随想(印刷版:全244ページ)

著者略歴:閲覧コンテンツ内

 

図書館で

『神秘の大樹』は図書館で借りられます。お住いの地域の図書館に蔵書がない場合、国立国会図書館からお住まいの自治体図書館へ貸出可能です。また、ご用命があればご希望の図書館へ印刷版または電子版の取扱いを交渉および納品します。 個人の方に対し本の代金、送料や手数料などを請求することはありません。なお、電子版については、居住地域(都道府県・市町村)に電子図書館がある場合にかぎります。詳しくは 「全国図書館」 ページにて。図書館関係者の方は、「BOOKSインフォ」 よりお問い合わせ願います

電子書籍で

Apple Booksプレビューを表示

このサイトを離れて、Apple社のサイト・Apple Booksプレビューページに移動します

 

iPhone / iPad / iPod / Mac で Apple Books を利用できます。
Books App =Apple Books で表示

 

神秘の大樹

iBooks (旧App) はタイトル検索を。

PDFで

ダウンロードページを表示

以下のPDFは印刷用の墨字データです。この本は電子書籍があります。

 

印刷版の見開き画像ファイルをご覧になれます。文字(テキスト)選択や画面読み上げには非対応です。

Webで

 

ウェブサイト版を表示

スマートフォン、タブレット、デスクトップパソコン、ノートパソコン、それぞれの画面の向きや大きさに合わせて縦書きの文章が表示されます。スクリーンリーダーの基本操作は横書きの場合と同様です。

 

国や地域、お使いの端末やブラウザを問わずお読み頂けます。

 

著作の総合情報を表示

菅原氏の著作集

 

 

 

それぞれの閲覧ページを表示

米(食物・自然界)の生命愛に身も心も重ねることで、波乱万丈な人生もどんなに苦しい思いも澄み切ったものへと昇華した著者夫妻。その二人が遭遇した共振共鳴共時の記録は、「こころとは」「いのちとは」という命題に対する答えの証しです。