書籍『神秘の大樹・第1巻・偶然が消える時』/このページでは、この本について詳しく紹介します。下の目次のうち「本の中身を見る」という項目はスクリーンリーダーに対応していないため「本文からの抜粋」のご利用を。iOS及びMacは電子書籍(Apple Books)が利用可能。


要点・概要

心と縁が握る
運命転換の鍵

本書「帯」記載の文言より

 

共時性現象(シンクロニシティー=偶然の一致)は、生死や種の区別を超えて、生命の本質が通じ合う次元が心の中にあることを証しています。じつは身近なところで起きている現象であることを、みずからの体験記録をもとに伝えています。 

 

「霊魂」というと死者のイメージが強く、ネガティブで暗い印象に結びつきやすいかと思います。「死」は、多くの人にとって遠ざけたいことです。しかし、「霊」や「死」に対して、いたずらに恐怖心や不安をいだくだけでは、生命の本質を見逃してしまうことを、この本は教えてくれます。

 

いまを生きている自分(あなた)自身の存在こそ、肉体をまとい、服を身につけている霊魂そのものだといいます。霊魂というと、わが身の外に存在し、わが身の外で起きる「現象」と考えがちですが、そもそもそれは、私たちのからだやこころに内在し、わが身の中で起きていることがらなのです。

 

随想(印刷版:全244ページ)

著者略歴:閲覧コンテンツ内

 

本文からの抜粋

この世は亡き霊魂の
るつぼともいえるのだ

本書「タイガー計算機に秘めた魂」の一節

  

まえがき

 世に言う「たまたま」という言葉、「偶然」という言葉、また、「偶然の一致」という現象は、はたして本当に偶然なのでしょうか。

 思い起こせば、あれは昭和61年(1986年)当初のことでした。自分の意識改革に踏み切った私は、妻と一緒に日々苦行の連続でした。あれからすでに25年の月日が過ぎようとしていますが、当初の2,3年ころから気づき始めていた、俗に言う、偶然の一致といわれる現象がしきりに身のまわりに発現し始めたのです。そして、記録し続けた体験記録は、今はゆうに3000例にも達しています。

 今回その中から選んだ例を25話にまとめ、神秘の大樹シリーズ第1巻として発行することになりました。以後、このシリーズを続けてまいります。

 妻と二人三脚で波乱万丈な世界を体験してきた私が得た結論は、この世には、「たまたま」とも「偶然」ともいう現象は、単に言葉上の話の便法として交わされる風通しの良い言葉の世界であって、少なくとも私達にとっては、「偶然」の二文字はない、というものでした。

 偶然の二文字が消えたその後に何が残ったかといえば、それは「共振・共鳴・共時の世界」でありました。共に触れ合い、共にひびき合い、共に時を同じくする。という、共時性現象(シンクロニシティー)こそが、俗に言う偶然の一致の姿であったのです。

 この世を端的に表現するならば、それは“因果の世界”といえましょう。原因に添ったそれ相応の結果というものが、現代科学の基礎になっていると思うのです。しかし、それだけでは、共振・共鳴・共時の世界を説明することはできません。原因と結果を結ぶ因果の世界には必ずや、その中をとりもつ「縁結びの世界」が存在するからです。それは“縁エネルギー”の存在です。“縁エネルギー”とは、科学では証明しがたい物申す魂の世界なのです。

 今で言う情報化社会の中心ともいえるプロバイダーの持つ接続の働きとよく似た「縁結びの主役」を担っているのが、肉体は死んでも魂は生きているというような“魂の世界”といえましょう。

 原因が結果となるには必ず「縁結び」というプロバイダーが存在するはずです。縁の活躍があればこそ、原因 ― 縁結び ― 結果を呼ぶことになり、因・縁・果というすっきりとしたいのちの流れとなります。肉体が死んでも生き活きと活躍する魂こそ縁結びの神といえましょう。

 魂の世界は「霊界」、「無意識世界」「潜在意識」「深層意識」などなど表現はさまざまですが、私は一言で魂と呼んでいます。魂の世界は、人類発生から今日まで「今の心」をベースにして延々と形成されてきました。肉体を消した死の世界は、生きていた当時の心が積み重なってできたものであればこそ「今の心」の尊いことが分かってきます。心は縁の力を持っていて、運命を支配する力をも持っています。心は常にいのちの絶対調和力の統制下にあって統御されている立場にあります。だから、縁はいのちの調和として存在し、人は、縁によって様々な人生劇場を繰り広げることになります。

 神秘の大樹シリーズから、心と縁が運命転換の鍵を握っているということを少しでもご理解していただけるなら幸いです。

 

 

神秘の大樹Ⅰ目次

 

 

まえがき

呼び寄せた北前船

スズメの贈り物

数霊は心のシグナル

いざなうコスモスの花

三重にひびく文字・数・色

天神様と文字と色のエネルギー

天地普遍の縁エネルギー

数霊は霊魂のシグナル

鮭の尾っぽと小説の主人公

文字・数・色は魂の暗証番号

絵皿のサギが飛んで来た

ハッピーが仏の水を飲む時―数字は宇宙の共通語か?

海鳴りは天のひびき

光町の鳥と銚子の鳥

無名酔人の〝祝い酒〟

出会いに咲いた縁の花

丹頂鶴と高橋園長

キタキツネのポンタ君

魂の生きかえる道

タイガー計算機に秘めた魂

合川町に生まれた名湯

魂は死なず — 一三名児童のいのち

いのちは磁気・磁波・磁性体

千里ヶ浜で誕生祝い

待っていた兎太郎と松ノ木峠

あとがき

著者略歴

 

 

 

数霊は心のシグナル

 現代医学の治療には、物理的療法や、カウンセリング(精神医学)など包括的に、また、広範囲な面からその治療体制は整えられている。だがそれでもなお、いのちの本質的な世界、奥深い意志性の発現には届かぬことが多いだろう。また、そこまで進展させなくてもいいのかもしれない。

 奥深い意志性、すなわち、潜在されて表にはなかなか浮上してこない心の世界には、通常、係われる問題ではないが、現実には長期にわたり意識が戻らぬという病人は決して少なくもない。しかし、意識不明であっても、奥深い魂の世界は、生き生きと輝いているのは事実だ。

 我々のいのちの中身は、すべて物申す霊体であるし、自分などという存在は、何といっても「今」しかない訳で、今という時間刻みは、一刻も停止することはできない。心臓の不眠不休と同じで、今を停止することは不可能だ。「人生は時間刻みの回り舞台だ」そして、過ぎし思いは魂(心=意識)となって、心の倉庫に倉積みされてゆく。

 いわば、その心の倉の入り口に立っているのが、今の自分と考えればいい。ところが、心の倉の入り口には扉は無く、いつも開かれているから、入り口に立っている今という自分は、つねに心の倉の「光と闇の風」に吹きさらされていることになる。その魂の圧力下におかれている今の自分は、いわば、自分であって自分に非ず、万物普遍に通じる心の倉の番人のようなものだ。

 だから、無意識下にある病人たちは、いわば「心の倉の番人役不在」(自己不在)ということもできる。扉のない心の倉から湧き上がる魂の交通整理もままならず、自由に魂が出入りすることができる世界を思うとき、無意識下にある病人たちの心の倉と心の結びをするには、こちらもまた、無の世界に立ってその通じ合いをしなくてはならない。

 時に、当時の妻は心の倉(魂)にその心結びができる境地にあった。これも一つの縁で、遠距離にあった知人の入院先へ望まれるままに何度か見舞いに出かけていた。

 昭和六三(一九八八)年一〇月二一日のこと、先方の奥様から、入院中の夫の様子がおかしいという連絡が入った。もちろん主治医の指示によって治療は続けているものの、なにしろ、病の夫は、すでに、二七年間にわたり寝たきりという難病であり、家族の思いを伝えることは不可能に近く、ひたすら看病一筋の難行苦行の道のりであった。奥様の言うには、「シャックリが止まらない」「熱が三九度もある」「さらに痙攣が続いている」といった、普段にはみられない症状なので心配でならないから会ってみて下さいという。夫は、何かを伝えたかったのかもしれない。翌一〇月二二日に駆けつけてみた。酒田市からは、所要二時間近い道のりにある町の総合病院である。

 昨日までは、二人部屋の二〇二号室だったが、今日からは二階の「一六号室」(二一六号室)に移ったという。病状の重篤から一人部屋に移ったのかもしれない。

 病室に入った妻は、彼の耳元で、語りかけるように一言一言、静かにあいさつの話しかけをしていた。彼の表情からは、微かな反応を感じられた。顔はいくぶん腫れ気味で、肌は透き通っていた。仏教でいう浄土の世界感とはこうした雰囲気なのかもしれない。奥深く輝きつづける魂のひびきは、まさしく、時を超え、空間を超えた、時空の干渉を受けない自在無碍むげの世界であろうか。

 しばし、時の流れを過ごして病室を出たのは夕刻のこと、帰路は心にもなく、車のスピードをあげて走り続けること四、五〇分の頃、晩秋の日暮れは早く、ライトを照らし、ある町外れにさしかかった時、前方で半円に振られる赤い灯にハッとした。「取締だ…」と気づきメーターに目をやったら針は六〇キロ位になっていた。停止すると首をかがめた警察官が

「速度違反です」

と、宣告してきた。ここは四〇キロ制限で、五六キロで走行していたという。「一六」キロオーバーになっていたのである。スピード違反によって警察から切られた違反切符。乗っていた自動車のナンバー、通行していた所番地、超加速度などが小さな文字で書かれている。反則切符を切られているとき、そばにいた妻が

「お父さん、病院の部屋は何号室でした?」

と聞いてきた。

「あれは二階の一六号室だったよ」

と言ってから、私は全身から昇り上がってくる霊気を感じた。一六キロオーバーと二階の「一六号室」(二一六号室)との共振共鳴なのだ。

 この時、私は、魂は奥深くで生き生きと輝いているのだと実感した。たとえ意識がなくとも、この現実の自分という霊体の中に同化して何かを語りかけている。すなわち、魂は生きているということなのだ。

 この世全てが、たまたまの偶然の流れだという、一過性の現象は何一つないであろうと実感させられた。

 一六号室の病室名で、自分の魂(霊体=心)を数字(数霊)で象徴化する。そして、「わたしだよ」、また、「ありがとう」とか、そういう何らかのメッセージを発信させて、魂不滅を感じてもらう。

 数字のひびきに魂を乗せて、天地自在に「思えば通わすいのち綱」となって働き続けている意識の世界。

 数字を媒体にして、数字をシグナルにして、語りかけている無意識の世界。

 数のひびきで、生き生き輝き、語りかけているのである。

 

 

 

タイガー計算機に秘めた魂

どうか安らかに永眠して下さいと、追悼の意を申し述べるが、それで亡き本人が本当に永眠することができるのか。死んだらどうなるのか、本当に何もかもゼロになるのか、消えて無くなるというのか。

 ましてや疲れ果てた人生なら、誰しも永眠させてやりたいのが人情というものであろうが、どうもそうはいかないのが現実というものである。

 死んでも生きている心であり、魂であり、そして肉体は確かに煙となる。残るはわずかの白骨それだけだ。ところが、亡き人の心はれっきとしてこの世に残る。どこにどうして残るかといえば、この世のわれわれのいのちの中で立派に生きている現実がある。

 それまでの、物質性の生体機能(肉体)は煙となって消えこそするが、それはたんに目に見えない生命元素(原子)となって天地に還元した結果であり、それまでの人生で蓄積された心と、引き継いできた遺伝子性の霊魂(心)は、この世に厳然として残る。

 それは、いのちのネットワークに乗って、すなわち人々の共振共鳴の霊脈の世界で、その居心地に合わせて寄り添いつつ、自らの魂を再生エネルギーに姿を変えるのである。

 いわば、死んだらその心は、類似波動の心の磁場に再生エネルギー化するといってもいいかもしれない。

 生命本体の生命エネルギーは死とともに天地に還元するが、いのちとともに育った心の磁場(魂)は、この世に心の生命体となって、心の再生化を果たすものと考えてもいいのだ。それは遺伝子性の霊脈を通じて、また共振共鳴の縁者に結ぶ霊脈の復活再生によって、亡き魂は再生エネルギー化を果たすものと考えている。

 ここで少々自分のことを開陳して、この話の参考にしていただければと思う。昭和六一(一九八六)年から、私の人生はガラリと一転した。これまでの人生から意識改革をするため、それなりに独自の修行体験をしたのであるが、その発端は酒乱人生からの脱出であり、祖霊からの魂の浄化修行であった。その内容たるや、まさしく狂乱状態になっての、自己の魂との格闘といってもいい。

 心の中というのは、古い古い歴代の、それはそれは霊光霊脈のすさまじい絡み合いの世界でもあった。自分の中の霊体をつぎつぎ浮き上がらせての格闘である。激しい呼吸法もあって、時には血管怒張によって血管が破れて出血するというほど、これまでの自分の不幸性霊魂との決別のためであった。それでも中に居座った心というものは消えようとはしないのであった。神社の前で「すまない、汚れた心を許して下さい」と念ずれば、「バカナコトイウナ」と、いのちの底から叫び出すという体験は、数年にわたって起きている。生命体の中には善悪二相の魂がたむろしていることを知ったのである。

 歳月を重ねるごとに、そんな悪性には負けじと、善性の心を積むしかないと自覚して、心の輝きを積む日々が続いてきた。あれから二三年が過ぎた。七四歳となり、平常心にかえってみれば、このいのちというものは、生きている今ここしかなく、中は全て自分の過去と、死者たちの魂の再生の世界であり、死者は、死んでも永眠などするわけもなく、この今の私の心に生きようとして、働きかけていることがわかった。

 死者からの、善性の働きかけならこれほどいいことはないのであって、その逆の悪性の働きかけこそいい災難というものである。この身の中は、まるまる死者の魂以外の何者でもない。

 歴代累々からみれば、この世に生きた自分の人生でつくりあげた心なんて知れたものである。いいにつけ悪いにつけ、自分が思い続ける心にふさわしいあの世の魂がダイレクトで再生するということは嘘ではない。いうなれば、この世は亡き霊魂のるつぼともいえるのだ。今のこの心に何もかも付いて回る仕組みになっているのだ。今の自分の心に共振共鳴して、亡き霊魂は生きようとしているのである。

 この亡き魂の再生のメカニズムは、今の自分の心の中で再生するほかはない。また、その共振共鳴の魂のチャンネルさえ合えば、出会いの縁一切においても、次々かけよってくる霊魂の世界であることは知っておいたほうがよい。だからこの自分というのは、万霊万魂にアクセスできる媒体の役目も果たすのである。

 〝縁は異なもの味なもの〟

 〝袖振り合うも多生の縁〟

などという諺は言い得て妙ではないか。

 

 

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米(食物・自然界)の生命愛に身も心も重ねることで、波乱万丈な人生もどんなに苦しい思いも澄み切ったものへと昇華した著者夫妻。その二人が遭遇した共振共鳴共時の記録は、「こころとは」「いのちとは」という命題に対する答えの証しです。