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魂の生きかえる道
タイガー計算機に秘めた魂
合川町に生まれた名湯
魂は死なず―一三名児童のいのち
この体の中は今でいうオンラインシステムのようになっているらしい。あらゆる心的情報も肉体的情報も頭脳中枢に集まってきて、何がどうなるのか分からないが、いろいろとアクセスし合って、自分の無意識世界で絶え間なく作動している。そして、その情報がはっきりと頭のてっぺんまで昇り上がってくるし、また思ったりすることは、外に向けて能動的にアクセスされてどこかに飛んで行くらしいし、そこで出会ったこちらの思いがあちらに何かを感じさせるらしい。それも、時間も無く、距離感も無く心的雰囲気が同調意識レベルの時にあちら側の心の窓を開けさせる。すなわち、その人の意識をつき動かすのである。
この五臓六腑の五体はコンピューターになっていて、それも、ちゃんと統括する本部があって、こちらで受ける受動情報をより効率よくコンピューター本部で仕分けをしてアクセスしてくれる。すなわち、いのちというライフコンピューターはオンラインシステムになっているのだ。
こちらから発する能動的心も、逆に、あちらから発せられた受動的意識波動も、それらのアクセス機能がオンラインシステムによって素早く判別され、スイッチのON・OFFに接続されていると思われる。
このいのちの中は、元々外界の全てに光で接続されていて、精神的には記憶再生機能が働き、物質的には生体再生機能が働いていて、五臓六腑を生成する。
共時性現象が起きる原因は何もかも外界にその因子があると思いがちであるが、「外は内なり、内は外なり」で、全てその因子は、この自分のいのちの中で起きていることを認識できるものだと、私は考えをそこにおいている。
いのちの聖火ランナーである私たちは、宇宙創成以来の連綿たる一切の情報を引き継いできた。それは内なるこのいのちが、それらの歴史的全てを掌握している事実が土台となっているから、無いものは無い世界なのだ。いわばこのいのちの中は魂の博物館といったらいいのかもしれない。
生命コンピューターは、外界情報の一切に対してアクセスをやり遂げているが、その統御機能はすぐれもので、情報の扉を一気に開いたら魂の洪水となり生きてはいられまい。それで、情報の一切を受動的にもまた、能動的にもアクセスして、オンラインシステムによって判別仕訳をし、必要最小限の情報を、閃きや、夢や、表層的思念に転化して接続してくれていると思うのだ。その結果としての出会いがあり、縁結びがあると考えることで、私の意識の中では一つの整合性ができてくる。
「内は外なり、外は内なり」を信条とする私の中では、受動する情報についてはつねにそのアクセスするタイミングを見ているし、それは共振共鳴のタイミングのスイッチがONになったりOFFになったりしているとでもいえようか。
いのちは宇宙に結ばれている。だからいのちの中は宇宙のオンラインシステムによって自動調整されていると考えられるし、そしていのちの中は万物万霊にアクセスできるようになっていて、それが共振共鳴次元まで達する魂のひびきであればこそ、縁結びという、時を同じくする共時性現象化となって浮上するのかもしれない。
あらゆる生命体のどのような心霊体にせよ、思ったり考えたりする心が、いのちの光に点火するには、その原点が自分の原始組成単位である原子の意志的反応次元と考えてみれば、この世での離合集散の出会いの縁のメカニズムがうっすらであっても心象できるのではないだろうか。
今では、物理学の世界は原子のさらなる物質(素粒子・光子)と無の解明に向けて進められている。難しい学問の世界は分からないが、何しろ私は、共時性現象を体験してきたことから、究極の無の世界では、精神的、物質的な両極を超えた一元一体二象体といういのち本来の〝意志性〟こそ、この世の縁結びの謎解きのように思えてならない。
自分といういのちの原子組成は、毎日摂取する食物の原子によって成り立っている。それを思えば、いのちと食は同義であって当然だし、そもそも自分は原始的にも意志性の生体であったと思うに何らの不思議はない。それを思う時、極端ではあるが、毎日の食こそが出会いや縁結びなどの中枢であることになる。
草木や虫などあらゆる生物や、あらゆる存在群とこの自分とは、原子の心性波動によって結ばれているものだ。決して離れたものではない。それを成し遂げてくれているのが原子であり、その土台の基礎となっているのが毎日の食なのである。だからこそ、心と心のアクセス切符の発行所は毎日の食に依拠しているといえるし、原子には宇宙に通じる共通語的文字・数・色のサイクルが組み込まれているのではないか。とくに数霊こそは、宇宙意志性のシンボル的存在ではないかと思っている。
生から死までの中で、数限りなく心を生み続けた人生。心は目に見えない霊魂の世界をつくり、共振共鳴の反応によって、ほかとその心を共有する。死する者の魂の蓄積によって、人の世を、良きにつけ悪しきにつけ築き上げてきた。いのちの光に巻き付くようにして、それぞれの生物の肉体生命に寄宿する霊体となって、心は生き続けている。それは、遺伝子性の実体となり、また物言う霊体となって肉体生命に寄宿してのみ生き続けられる運命として、我々の心となって蓄積される。
肉体を脱した死者の心の霊体は、あらゆる霊脈のネットワークを通しての心波を共有できる肉体生命の中で、自在に生き続けることができるし、それが魂の実態ではないのか。その霊魂の生きられる世界こそ、時空なき自在無限の世界と考えられる。
肉体生命は、巨大な記憶素子を積まれている記憶体であり、脳という基本ソフトを備え、宇宙というハードウエアの中で、各自の生命コンピューターは万物にわたるネットワークを持ち、共振共鳴してソフトを開き、霊魂のコミュニケーションがひびき合う。そして、いのちのネットワークの中でソフトを開いた者には、その姿や言語のひびきを結ぶことができるというものだ。
科学技術は、インターネットで結ぶネットワークの世界で、その情報共有は、ほんの秒単位で可能になっている。だがその人間の科学力でさえ、この宇宙生命界における一片の応用にすぎない。
生命界のハードの中で、各生命体に組み込まれている生命コンピューターは、莫大な数のソフトで駆使できるようになっている。そして、その情報は秒単位、否、それ以上に早く共有できるはずではないのか。ついそんな思いに立って心や霊魂の世界を考えてしまうのである。
生命コンピューター回路が開かれているなら、何といってもこのいのちのコンピューターは、地球経由の宇宙に直結しているすぐれものだし、どんなに多種多様化されていても、その記憶メディア(脳など)がある限り、種の肉体存続ある限り、死んでも生きて通わす身のさだめということができる。パソコンでいう基本ソフト(OS)や、アプリケーションといわれるソフトにしても、ネット接続のプロバイダ(接続業者)なども不要であり、自分の霊的ソフトが開いてさえおればいいわけで、強いていうなら出会いの縁が一種の接続代理ということができよう。共振共鳴共時の現象に関心をもつ心になればこそ、それに近づけると思っている。
ではここから魂不滅のファイルを開いてみることにする。
それは、平成元年(一九八九年)五月四日木曜日。旅の途中で横浜からH市に移動したときのことであった。
昭和天皇の御陵である武蔵野陵に参拝するために出向いたのであるが、崩御なされたのが一月七日であるから、山陵完成まで一般参拝ができなくなっていた。それを知って、やむなくその夜は二重橋のたもとにある河川敷に駐車して一夜を過ごすことになった。
前の晩、やりきれないほどの眠気で早々に休んでいたせいもあったのか、夜明けにはまだ早い三時二三分、星がきらめく夜空の中で目覚めてしまったのである。まずノートを取りだし、ハンドルをテーブルにして時間をかけて記録を済ましてから外へ出た。土の上にカーペットを敷き、ヨガ行と瞑想の行程を一通り終了したのは七時五八分のこと。そのまま車に戻り、洗面と山陵の遙拝も終え、さて出発するかと思ったその時のことである。ドアの外からノックをする人がいた。のぞくように見入る一人の男性が、ガラス越しに声をかけてきた。窓を開けると開口一番、
「夕べ暑くなかったか」
と聞いてきたのだ。それは言われるとおりであったから「すごく暑い夜でしたよ」と言うと「そうだろう」と意味深長なことを言い、さらに続けて、「暮れに、この橋の下で若い女性が焼身……という事件があったのだよ」と言うのだ。えっ、と一瞬張り詰めるものがあったが、陽も昇る白昼のこと、夕べのうちに言われたのであればどうであったろうか、あるいはどこかに移動していたかもしれないが、「はあ…そうなんですか」と、それ以上は続けずに、これから次に進むこともあってそれはそのまま受け入れるしかない。心は全く動くことはなかった。
彼は、そのことを知らせるために声をかけたのではなかった。こちらの挙動というか、この場所でカーペットを敷いてヨガ行をやりだしたのが気掛かりであるばかりか、その場所は、彼自身の心身修練の行を一〇年以上にわたって続けてきた魂の入っている場所であるというのだ。そして、ぜひにと言われお宅に招かれることになり、この旅では決して人家に逗留せずと心に留めていたが、誠意にほだされてこの日は昼食までご一緒の夢中の五時間を過ごし、羽目を外してのお世話を受けたのである。奥様には、柏餅とお茶で迎えられ、今も温かく記憶に残っている。お互い素性を明かしてみて、N夫妻であることを知り、さらに同年代と分かり、敬服至極の境地で尊い時間を過ごさせていただいた。あれからはや二〇年が過ぎている。
N宅を出たのは二時五分のことであり、行く当てもない旅の中で、車は一路国道二〇号線を西へと進めていた。交通量も次第にまばらとなり、名も知らぬ峠道へと上って行く。山道はすごく気分のよいもので、新緑に映える自然の気を体一杯に吸いながら行くと、相模湖の看板が時々目にちらつく。湖もいいものだなあ、今夜の車泊は相模湖畔あたりとするか、と思いつつ峠を登りつめた頃、そこに古風な一枚の温泉看板が立っていた。その看板を発見すると私は、迷わずそこを右折した。山峡深く細く曲がりくねった登りの山道であった。家を出てから半月にもなった五月五日のことで、銭湯入浴もいいかなと思った。国道からおおよそ一〇キロ位入ってようやく宿にたどり着いたのは午後の三時半頃であり、日差しも強く静かな日であった。
玄関に入り声をかけると奥の方から主人が現れてきた。軽く会釈をしてから伺ってみた。
「泊まりではなく入浴なのですがお願いできますか」
と尋ねると
「うちは鉱泉なので夕刻にならないと入浴できないのです」
と主人は言う。「ああ、そうですかわかりました」と言って主人と目を合わせた、その時である。
「アリガトウ ワタシハココニトマリマス」
とはっきりとした声で、女性が後ろから声をかけたのである。あれ、誰もいないはずなのにいつ入ってきたんであろうかと振り向いた一瞬、全身霊気で包まれた。前には宿の主人が立っているが、それも真昼の中で外は青天白日の明るさだ。誰一人も後ろにはいない。ましてや女性の声だ。その時再び全身に霊気が昇り上がった。すぐにあの橋の下の女性だと思った。「夕べ暑くなかったか」と聞かれたあの話である。そしてそう思った時、私の全身から何かが抜けた感じになっていた。
あの女性の霊魂が、ここまで車で同行していたのだと思った。そしてそれは事実であり、内なる女性のはっきりとした声は、安堵に満ちて、感謝の思いさえ伝わる深い思念の中から湧き出た声であった。たとえ肉体から脱した魂でも、限りない執着から真の命の光に飛び立ちたい思いでいたことか。その思いが、共振共鳴できる方との出会いの縁で、女性の魂は天上界に成仏出来るのであろうと心が引き締まる思いになった。
宿の主人と二人の話はごく現実の受け答えの会話なのに、私のしぐさと挙動を目にしてどのように映ったことであろうか。ご主人は、奇異変人に私を見たであろうか。
それでは、と失礼して外へ出た。言い知れぬほどに晴れ晴れとして、身も心も爽快感に包まれながら、私はゆるい下りの山道を国道に向けて降りて行く。
どうか安らかに永眠して下さいと、追悼の意を申し述べるが、それで亡き本人が本当に永眠することができるのか。死んだらどうなるのか、本当に何もかもゼロになるのか、消えて無くなるというのか。
ましてや疲れ果てた人生なら、誰しも永眠させてやりたいのが人情というものであろうが、どうもそうはいかないのが現実というものである。
死んでも生きている心であり、魂であり、そして肉体は確かに煙となる。残るはわずかの白骨それだけだ。ところが、亡き人の心はれっきとしてこの世に残る。どこにどうして残るかといえば、この世のわれわれのいのちの中で立派に生きている現実がある。
それまでの、物質性の生体機能(肉体)は煙となって消えこそするが、それはたんに目に見えない生命元素(原子)となって天地に還元した結果であり、それまでの人生で蓄積された心と、引き継いできた遺伝子性の霊魂(心)は、この世に厳然として残る。
それは、いのちのネットワークに乗って、すなわち人々の共振共鳴の霊脈の世界で、その居心地に合わせて寄り添いつつ、自らの魂を再生エネルギーに姿を変えるのである。
いわば、死んだらその心は、類似波動の心の磁場に再生エネルギー化するといってもいいかもしれない。
生命本体の生命エネルギーは死とともに天地に還元するが、いのちとともに育った心の磁場(魂)は、この世に心の生命体となって、心の再生化を果たすものと考えてもいいのだ。それは遺伝子性の霊脈を通じて、また共振共鳴の縁者に結ぶ霊脈の復活再生によって、亡き魂は再生エネルギー化を果たすものと考えている。
ここで少々自分のことを開陳して、この話の参考にしていただければと思う。昭和六一(一九八六)年から、私の人生はガラリと一転した。これまでの人生から意識改革をするため、それなりに独自の修行体験をしたのであるが、その発端は酒乱人生からの脱出であり、祖霊からの魂の浄化修行であった。その内容たるや、まさしく狂乱状態になっての、自己の魂との格闘といってもいい。
心の中というのは、古い古い歴代の、それはそれは霊光霊脈のすさまじい絡み合いの世界でもあった。自分の中の霊体をつぎつぎ浮き上がらせての格闘である。激しい呼吸法もあって、時には血管怒張によって血管が破れて出血するというほど、これまでの自分の不幸性霊魂との決別のためであった。それでも中に居座った心というものは消えようとはしないのであった。神社の前で「すまない、汚れた心を許して下さい」と念ずれば、「バカナコトイウナ」と、いのちの底から叫び出すという体験は、数年にわたって起きている。生命体の中には善悪二相の魂がたむろしていることを知ったのである。
歳月を重ねるごとに、そんな悪性には負けじと、善性の心を積むしかないと自覚して、心の輝きを積む日々が続いてきた。あれから二三年が過ぎた。七四歳となり、平常心にかえってみれば、このいのちというものは、生きている今ここしかなく、中は全て自分の過去と、死者たちの魂の再生の世界であり、死者は、死んでも永眠などするわけもなく、この今の私の心に生きようとして、働きかけていることがわかった。
死者からの、善性の働きかけならこれほどいいことはないのであって、その逆の悪性の働きかけこそいい災難というものである。この身の中は、まるまる死者の魂以外の何者でもない。
歴代累々からみれば、この世に生きた自分の人生でつくりあげた心なんて知れたものである。いいにつけ悪いにつけ、自分が思い続ける心にふさわしいあの世の魂がダイレクトで再生するということは嘘ではない。いうなれば、この世は亡き霊魂のるつぼともいえるのだ。今のこの心に何もかも付いて回る仕組みになっているのだ。今の自分の心に共振共鳴して、亡き霊魂は生きようとしているのである。
この亡き魂の再生のメカニズムは、今の自分の心の中で再生するほかはない。また、その共振共鳴の魂のチャンネルさえ合えば、出会いの縁一切においても、次々かけよってくる霊魂の世界であることは知っておいたほうがよい。だからこの自分というのは、万霊万魂にアクセスできる媒体の役目も果たすのである。
〝縁は異なもの味なもの〟
〝袖振り合うも多生の縁〟
などという諺は言い得て妙ではないか。
科学界では、こうした亡霊の話はタブーであろうが、現今はだいぶ科学者の間でも関心が高まっているのではないかと思われる。世界に名を馳せた、スイスの心理学者で精神医学者であるC・G・ユング博士(一八七五年七月二六日~一九六一年六月六日没享年八五歳)は、共時性現象(シンクロニシティー)といわれる概念の仮説をたてて探求なされた臨床医であるが、世に言う偶然の一致について、学問的探求のメスを斯界 で初めて共時性現象としてとらえている。
博士は、深層意識世界と自然界の生命根源に根差す物心両性からの大調和力を探求なされたのではないかと、私なりに考えている。意味のある偶然の一致と意味のない偶然の一致とを区別され、魂の共振・共鳴・共時を探求なされたのではないか。思うに、学問的に探求なされたことは、人の心と運命をひもとく、一元性を証すことではなかったか。〝心は運命を支配する〟という、その根源を明かさんとしたのではないかと思ってみた。
さてこれから述べる、偶然を寄せ付けない一見無関係と思われる出来事、つまり共振共鳴の共時性現象を、二〇年の時空を越えて体験したことについて、皆さんはどのように思われるであろうか。
今から二〇年前のこと、旅の途中で函館山に立ち寄ってみた。東に立待岬をのぞみ、少し登り上がったところに今は観光名所となっている石川啄木の墓がある。それは、平成元年(一九八九年)五月二五日の晴れて温かい昼下がりであった。
ここで出会うも奇遇なり、あの世とこの世の彼岸橋の上で商売をするご仁に出会ったのであった。赤銅色に焼き上がった顔の肌をした四、五〇代の風人墨客ともいえるご仁だ。
石川啄木の墓に隣接する広々とした三軒ほどの墓前に、所狭しと額物が雑然と置かれていた。〝東海の小島の磯の……〟で始まる啄木の句もあって、額面三〇〇〇円と値がついていた。ハガキ風の書画もあれば、商標登録したというカニ印のTシャツまで並んでいた。
観光客は、啄木の墓に一礼して、隣を見れば足を止めて客人となってくれる。私は客のいない時をみはからい声をかけてみた。夏の観光シーズン中に、こうして店を出し、暮らしの一年分は稼ぐのだという。相坂春山という雅号をもっていて、画家、書家、そして作詞にまでも手を広げている多才なご仁であった。
津軽生まれの津軽育ちであるといい、農業共済組合にも籍を置いていたことがあり、種付師の免許を持っているという実にユニークなご仁である。それにもまして、タイガー計算機の修理専門員であったというのだ。汽車とバスを乗り継いでの旅回りで、旅館泊まりの日々を長い間続けていたともいう。
タイガー計算機と聞いて、私も若い頃農協職員であったから、当時タイガー計算機を毎日回し続けていたことを思い出していた。
ところでこのご仁は、
「他人に使われるんなら乞食でもしたほうがましだ。俺は勤めが嫌いでどうにもならなかった」と言う。
「雨の日は休むし、食って飲んでちょんであれば上出来であるよ」
と言い置いて、目の前のTシャツを両手で開いて、
「Tシャツのこのカニ印は商標登録されて独占であるよ」
という。また
「函館にきて一一年ほどだが、ここ(啄木の墓)に通って四年になる。ここには函館の人間は誰ひとりもこないし、客は観光客だからやりやすいんだよ」
と言い置いて、
「青森も、秋田も、岩手の人間も買ってはくれない…こまいんだなあ」
と、なぜかこちらの山形はその中に入ってはいなかった。そして、いい時も悪い時も人間誰しもあることだ、そこの海の潮でも引いたり満ちたりという風に、さっとさりげなく視線を海に向けた。
ご仁は泰然自若の自由人である。だが芸術家タイプ独特の鋭い眼光で、客人を一瞥する。「お客さん」と一声、啄木の墓前で記念写真をとる若夫婦に声を飛ばした。
「お客さん、写真だけ撮って拝まなけりゃ駄目だよ」
と、心中の憤り丸出しで本気で忠告する。その姿に、別人の魂を見た。メリハリある迫力に、客人は平身低頭して墓に手を合わせてそそくさとそこを立ち去って行くかと思うと、次に立ち寄った高校生風の四、五人連れには、一変して実に優しく忠言するのであった。
「墓で写真を撮る時は足を切ったら駄目です。駄目、駄目だ。全部写さにゃいかん。そら…それでは写らんぞ」
と、こまごまと観察して言い続けていた。
一見茫洋としているが、芸術家タイプの人というのはみなそういう心の窓を持っているようだ。描く、書くというのは心の底を見ていて描くのであろう。相手の心にピントを合わせて鋭く射貫くのである。
私はくだけた話で声をかけた。
「さきほど飲んで食ってちょんであればいいんだと言ったが酒をやるんですか」と聞くと、ご仁いわく
「酒は飲まんです。お茶とお菓子があればいいんだよ、好きですなあ」と、歯をむきだしてニコリとほころぶ。
前を通るタクシーの運転手たちは、なぜかここの前で徐行してご仁に会釈をするのだ。ご仁も愛嬌たっぷりに笑顔で返す。ともに、函館山観光でうるおう同業意識なのかもしれない。
ご仁の言うには、以前、テレビ取材を受けたのだという。昼のワイドショーのロケ撮りに応じて、一時間半ほどで三万円のギャラをいただいたというなかなかの人気らしい。「この角印を押せば一〇万円以上になるんだよ、丸印の色紙なら二〇〇〇円でもいいんだが」と言って、書画に印をする角形の落款 を見せてから、美術年鑑にも出ているというご仁なのであった。
「旅に来てその土地の人々と話をせんだったら、観光に来てもなんも残らんもんだよ。印象がないというもんだよ」
と、心に熱いものをもっているご仁は、ヘビースモーカーでもあった。次々とタバコをすって大丈夫なんだろうかと、人ごとではなかった。肺の中が真っ黒なんじゃないかと、いらぬ気を回した。
店じまいには、大事なものだけを自転車で持ち帰り、
「なくなってもいいもんだけを墓のうしろに置いて置くんだよ。アッハッハー」
と、屈託なく笑っていた。つづけてご仁は
「金がいくらあったとて、そんなのいくらも続かんもんじゃよ。無くてもどうっちゅうこともない」
と、他人に使われる位なら乞食のほうがましだ、と言い切る悟境の人生を飄々と生きるご仁。
向こう三軒両隣の墓を店がわりにして、死人の魂を助手につけて生き抜くしたたかさは、超人の道をゆく姿であった。
〝はたらけど
はたらけど猶わが生活
楽にならざりぢっと手をみる〟
-石川啄木-
なのだが、わがくらし楽にならずともどうっちゅうこともなし、といったところのご仁であった。啄木も一目置いてほほ笑んでいることであろう。
冬は書道を教えて過ごすというご仁が私を足止めして、「この言葉だけは覚えていったほうがいい」と次のようなことを言ったのである。
「夫婦のクジ(籤)には外れは無い 当たりクジ(籤)を知らないだけである」
と。それはあるいは、自分自身の体験的メッセージだったのかも知れない。含蓄のある名言である。
かくなる強い印象を受けて別れてからはや二〇年が過ぎた。これほどの印象に残るご仁ではあったが、共時性現象の記録としては、そのひびきの共有が今一つ無かったのである。そこでこの記録はパスして次に進めようと考えた。だが、どうしても思い切りよくパスすることができなかった。パスしては思い止どまるという繰り返しが続いて、何でこれほどまでに心を引っ張るのかと、私はじれったく思っていた。私もいいかげんに頭を切り替えるつもりで、図書館に行ったついでに本を三冊借りてきた。それは、平成二〇年(二〇〇八年)五月九日であり、翌日にはその一冊に読み耽 ったのである。『継続の天才-竹内均』(扶桑社)である。地球物理学者の竹内均先生の自叙伝である。(竹内先生は、平成一六年(二〇〇四年)四月二〇日没 享年八三歳)。その五九ページまで読み進めたときのこと、あっと思うや、背筋にエネルギーが昇り上がった。そこの見出しは、一日中タイガー計算機を回し続けた日々とあり、竹内先生が、大学院生時代に研究なされた地球潮汐の研究の為に、手動のタイガー計算機を回し続けること四年という歳月について記されていた。月の引力と地球の引き潮と満潮について、学位論文達成までのすさまじい情熱であったが、その研究を支え続けた手動のタイガー計算機に目が走ったとき、一気に二〇年前のあの函館山の、石川啄木の墓前が迫ってきた。そして、死人の魂を助手にして、啄木ゆかりの書画類を売っていた相坂春山というご仁が浮き上がったのである。若い頃、タイガー計算機の修理専門で、北海道一円を駆け巡っていたというあの話が強烈にひびき上がった。ご仁はさらに、いい時も悪いときも人間誰しもあることだ、と言って
「そこの海の潮でも引いたり満ちたり」
とさりげなく言い放った言葉が、今ここで竹内先生の引き潮と満潮の研究の話に同期して浮き上がったのである。
これは一体どういうことか、全くの偶然の話だとするならこれで終幕というものだが、私にはどうしても無関係ではないという霊脈が一瞬の光を放ったのである。亡き方々の魂の出会いが絶対にあり得るのだと思った。
亡き竹内先生の一大論文となった地球潮汐の研究の引き潮と満潮について、それを支えたタイガー計算機は、どうしても、石川啄木墓前のご仁が話すタイガー計算機と、また人生談義の「海の潮でも引いたり満ちたり」という言葉のひびきは激しく共振共鳴しているではないか。
私の心を媒体 にして、時空なき二〇年の歳月をかけて、亡き霊魂世界の〝生きて通わしている実在〟を必死に伝え続けているとしか考えられない。そればかりか、竹内先生の回し続けたタイガー計算機は、大正一二年(一九二三年)に大阪の大本鉄鋼所で開発したのであり、発明者の名前から虎印計算機と呼んでいたのを、のちに舶来風にタイガーに変えたという。その虎印に、竹内先生の思いのひびきが私には伝わってくるのだ。
竹内先生が、人生最大の運命的出会いと言われた、旧制大野中学二年生の時の出会い。それは、東京帝国大学の寺田寅彦先生随筆「茶碗の湯」であると言う。寺田寅彦先生と、竹内先生の虎印計算機(タイガー)が、どうしても当然にして、共振共鳴の魂のひびきが鳴り渡っていると思えてならないのだ。
死んで消えたはずの亡き霊魂は、強く思いを寄せる人の命に同化して、見守りの光明を照らしていたと言っては言い過ぎであろうか。そして、函館の石川啄木の墓前の出会いは、ここで終わってはいなかったのである。
亡き魂が生きて輝いているこの話を、いくら考えても思索は延々繰り返すばかりで、脳の世界が混乱していた時のこと、落語か講談でも聴きたいものだと思いつつラジオの番組表を開いて見た。五月二二日夜八時・NHKラジオ、新・話の泉、立川談志・山藤章二他とあり、ゲストには、競輪王・中野浩一が出ていた。頭のリラックス体操には、こういう番組は実に有効なものである。
そういえば竹内先生は、少年時代から講談の大ファンであって、軽く一席できるほどの熱の入れようであったという。ところが、この番組の終わりにかけて、また来週までの宿題として出されたのは、何とそれは石川啄木の〝はたらけどはたらけど…〟の一句であったのだ。
よりによって、石川啄木の墓がご縁で触発された二〇年前の話から、ひびきを共有できる一連の流れが見えてきた。
啄木墓前のご仁と竹内先生のタイガー計算機の話
人生の引き潮と満ち潮と地球潮汐の引き潮と満ち潮の話
恩師・寺田寅彦先生と竹内先生の虎印計算機(タイガー)の「寅と虎」の話
竹内先生の愛した講談・落語寄席とラジオ番組の寄席と石川啄木の話
竹内先生の本を借りたのは五月九日で、タイガー計算機の話は五九ページであったという話
という文字的に、数字的に暗示する魂の響き、この共振共鳴の話は、まさに〝潮の満ち引き〟にも似て、霊魂のエネルギーは、この現実社会に文字・数・色という魂のひびきとなって、私たちの心を媒体にしてひびかせ、人の心に沁みわたり、この世を運ぶ一大根源力となっている。亡き霊魂エネルギーの一大潮流を感じてならないのである。
この町に温泉が出てもらいたい、と妻が言い出したのは、どのような思いの中だったのか詳しく聞くこともなく、その夜は妻の一人言の感じで過ぎた。
時は、鷹巣駅から角館駅までの内陸縦断鉄道が走る合川駅の直ぐ前にある山喜旅館に泊まった時のことであった。ここは北国の秋田県北部に位置する合川町である。
私達は、金婚式を迎えて結婚五〇年にもなるが、「ここに温泉が出てほしい」、などという話は前代未聞のことであって、誰だって温泉が出てほしい思いはあるかもしれないが、口に出してここにと場所を指定して、そんなことを言う人は聞いたこともない。
世に伝説めいた話はあることで、たとえば弘法大師が、ここからお湯が出ると言って、手にする錫杖 で大地をついてひびかせたら、のちのちになって、現在の秘湯といわれる山峡の温泉が湧き上がったというエピソードは、全国に少なからずあるようだ。
弘法大師ならずともそれと似たような逸話が世の中に潜んでいるかと思うのだが、その真偽のほどは別として、ここ合川町の駅前に、本当に湯が湧き出たことを、平成元年二、三月ころに妻から聞いて知った。新聞で知ったというがいつの新聞かは定かでない。「やっぱりお湯が出たんだ」と言って大変喜んでいた。
合川町と妻の結び付きとなったのは、今から二五年前に起きた日本海中部地震があったその年からであった。
その震災が起きたのは、昭和五八年(一九八三年)五月二六日木曜日の正午のことであった。秋田県の日本海沿岸を中心にして、多くの尊い人命が犠牲になり大きな被害を受けたのであったが、その中でもひときわ目を引いたのは、社会科見学に胸ふくらませて出発した小学生の一行である。
秋田県庁、NHKなどを廻り、男鹿水族館へと進んだコースで、楽しいお昼の弁当の時間を前にして起きた、一瞬の悪夢であった。天を覆う大津波に呑み込まれ、海のいのちに消えてしまった幼い児童たちである。
秋田県北秋田郡合川町立合川南小学校の四、五年生一行、四五名の内一三名のいのちは、無言の帰宅となったのであった。
この遭難事故についてはその後、数年にわたり法廷論争となり、四年余にして和解決着されたと耳にしている。当時妻は、連日報じられている一三名の子供たちと、深い次元での魂の交流があったように私は受けとめている。それこそ潮騒のごとくに、子らの心のひびきを受けとめてきたのであった。そのことが機縁となり、何人かのご遺族の方たちと交流があったことから、確か菩提寺においての合同法要に参加したときであったが、家からは遠い地方のために、前日の夕刻出発して、その夜は、合川駅前の旅館に宿泊した。その時に、「この町に温泉が出てもらいたい」と、口をついて出てきたのであった。それから五年の歳月が過ぎた昭和六三年(一九八八年)四月のこと、その旅館から二〇〇メートルも離れていない個人の宅地から温泉が湧き出たというのであった。
その温泉湧出までの経緯は何一つ分からないが、そのニュースを新聞で知ったというので、妻からそのことを聞かされていた。
その後私が、妻には何一つ知らせることもせず旅に出たのは、平成元年(一九八九年)四月二一日のことである。私は酒乱人生からの脱却のために自己改革の最中であったが、その日何かに押し出されるようにしてやみくもに旅の衝動にかられたのであった。
かくして無目的の旅は、帰宅するまでの四一日間を走り続けた。当てもない車中泊の旅は、妻に何の連絡もせずにひたすら足の向くまま走っていたのである。それは多くの出会いと、神秘体験などいろいろと見聞を広めながら、三六日目には、函館から青森にわたり、一路国道一〇三号線を南下していたのである。
国道一〇三号線は、青森市から八甲田山を越えて十和田湖畔を半周し、発荷峠を越すと鹿角市を経由して終点の大館市へと続いている。途中鹿角市からは国道二八二号線と交差する。車中泊から目覚めたときはその日の方向を定めなくてはならない。風の吹くまま気の向くままの旅とはいっても、走る方向だけははっきりしなくてはならない。最初に思い浮かんだのは盛岡に出ることであった。一〇三号線から途中で二八二号線に左折することに決めて、盛岡経由で帰路に就こうと思ったのである。
ものの二〇分も走ったあたりで二八二号線の看板が出始めていたが、その頃から心にブレーキがかかり始めていた。
一〇三号、一〇三号が頭から離れないのだ。そればかりか合川、合川町へ一三名の子供たちと温泉、温泉の心がひびきだしていた。この時はすでに二八二号線は通過していて盛岡への道程はどんどん遠くなるばかりであるが、一時間も走ったところでそこが森吉町であることを知った。合川町はすぐ近くである。そこの山中でわずかの平地に車を停めて、日課のヨガ行を終わらせて、さて朝食をと思ったが、そういう決まった食事は旅の中では一切無いのであって、この朝の食事は前夜十和田湖で一袋の餡玉を買った残りがあるからその小さな四、五個で十分である。
ところがその袋を見て思った。縁になった一袋の品といえどもそこに記されている文字や、数字というものには、何かしらの因縁深いものがある。中森の松露という銘柄だが、実はこの地域は森吉町なのである。
前夜半、十和田湖を通過する時買った餡玉の商標が「中森」であり、今、朝を迎えたこの地が「森吉町」の山中ということに、ここで、どうも文字的ひびきが気になった。何気なく買った餡玉ではあるが、その時すでにこの地に向けた方向性の意志が組み込まれていたのではないか。
心が向き続けた合川町には数分のところまで来ているし、盛岡行きをはねのけてまで、そして、私の理性を打ち消してまでも、ここまで引き寄せたエネルギーとはやはり、あの一三名の子供たちの魂であったのかと思わずにはおられなかった。
一〇三号、一〇三号と突き進めた一三名の魂は、数の魂となって迎えていたのではないか。やがて合川駅までたどり着き、そして、温泉が出たというあの話を確かめたくて、昭和五八年に宿泊した山喜旅館を訪ねた。妻がこの町に温泉が出てもらいたい、と言い出したのはこの旅館でのことだった。
「温泉が出たという話を聞きたいのですが」
と、女将さんに尋ねると
「すぐ近くに出たんですよ」
という。
ここからものの二〇〇メートルも離れていない至近距離であって、個人の土地であるという。これは嬉しいことだと早速駆けつけてみたら、大きな二枚の看板が立っていた。看板の分析表を見たとき、素人なりにもこれはいい温泉だと感じた。全国の奥深い秘湯は随分と歩いたが、これらの温泉にも劣らぬ名湯の雰囲気を感じたのである。泉温が四八・三~五三・〇度。湧出量は二〇〇~九〇〇リットル。泉質が塩化物「強塩泉」・ナトリウム。名称がさざなみ温泉(漣温泉)と記されていた。
それを見て私なりに、万病に効用のある願っても無い名湯の条件のようなものを感じたのであった。名称もまた実にいいのだ。「さざなみ温泉」である。もう一方の看板には、温泉効果抜群どうぞお持ち帰り下さいとあり、さらに温泉のある町づくり町民運動を始めているので、この運動に皆さんの参加を呼びかけているものであった。
私は、これらの温泉看板を見て足元が軽くなった。ゴムまりのようにぽんぽん浮き歩く思いであった。あたかも子供たちの喜びさえも感ずる気の高まりを感じたのであった。どうぞお持ち帰りをとあるから、自噴流出のこの温泉を一三名の子供たちに供えようと思い、ガラス瓶に入れて菩提寺にかけこんだのである。
先ほど、山喜旅館の女将さんから、
「昨日がちょうど、子供たちの七回忌を終えたところです」
と聞かされているから、命日が五月二六日の昨日のことであり、さぞかし菩提寺は大忙しであったであろう。翌二七日に私が引き寄せられたのも、一つはお守りの中であったように思ったのである。
私に、青森から国道一〇三号線を走らせ、十和田湖では、中森の餡玉を手にさせ、今日は森吉町内でヨガ行をとらせ、盛岡行(国道二八二号線)を無視してそのまま一〇三号線を走らせたのであった。
一〇三号と一三名、一三へ一三へと数霊に乗せてひびかす亡き魂のご意志。さらに、一三名の子供たちは、昨日が命日で七回忌が終えたばかりの静かな翌日に、おばちゃんも祈った
「この町に温泉を…」
と、そして、土地所有者のお力を借りて、湧き出た温泉を持参できてあいさつをすることができたのであった。
この温泉は「強塩泉」という。さらに温泉名は「さざなみ温泉」というのだ。それだけでも海で遭難された一三名の子供たちの新たないのちの泉なのかも知れないと私は思った。合川町民一同に幸せ恵みの真心一点の温泉であると私には思えてならない。また掘り当てたオーナー御自身の、篤実な人徳に基づくものだと思っている。末長く町民に親しまれ、健康一番で、豊かな町民を見守っていただきたい。
温泉水を手にしながら菩提寺の一三名の子供たちの写真の前に立った私は、一人一人の魂に、名前を呼び、あいさつをして温泉水を供えた。そして、最後の写真の一〇歳の女の子に、私は心の中で「信子ちゃんの両親はうちにもたずねてこられたんだよ…ありがとう」とあいさつをさせてもらい、ほっと気も晴れて魂の一役を終えた気分でそこを後にした。
帰りには、正法院の母堂並びに清水住職夫妻より温かいおもてなしをいただき感謝を申し上げて、私は旅の続きへとおいとまをしたのである。
「合川町に生まれた名湯」に続いてここでも取り上げてみたい。幼い一三名のいのちが大海の津波にそのいのちをかえしたのは、昭和五八年(一九八三年)五月二六日日本海中部地震の出来事であった。その子供達に結ぶ三つの話をしてみたい。
〝ひかねばとどかぬ道の尊きものと、証しをたてます合川一三名の子供達〟と妻の心にひびき上がった心の光。酒田市日枝の里において次のような歌「子らのこころ(一)(二)」に託されたのは、昭和五八年初秋のことであった。ご遺族の方が家を訪ねられる前日のことであった。
(1)
寝息をたてる横顔に
やさしく育ててくださった
だきしめてだきしめてお母さん
朝になるまで話してね
おとぎ話をきかせてね
(2)
陽なたのようなこの胸に
一生すみます不思議です
一〇年あまりの生涯(いのち)でも
声をつないでくださるの
世にのこされる子供達
(3)
生まれかわったよお母さん
つらいとおもうなお母さん
お役にたちますお母さん
うけてたちます子供達
願いかけたるつなぐ文字
(1)
幸せをつなぐ
酒田にみちがある
日枝にまいるねがいだけ
このかたに
めぐりあえたら声となる
一緒に生きます今日からは
(2)
すいれんの花に
たくしてほしい心のねがい
おばちゃんに
あえるその日をまちわびて
一緒にまいる日枝の里
(3)
子らの出会いを
だいじにされて
心のともづなつよくなる
合川の
まことしらせる子供達
一緒に生きますこころから
ここでは、拙著・自分史『酒乱(米の生命が生きるまで)』の一節(一七九ページ以降)に記したものを転載している。
生命を貫く因縁の凄さは、絶妙な生命力となって、子孫の生身の中で開花する。人の心の累積は、五代、一〇代、二〇代と引き継がれ、二人の親は四人となり、倍々と増えていく先祖たちは、四百年くらいで一〇二四人、七〇〇年では、一〇四万八〇〇〇人の先祖群団になる。
錯綜混沌として、ドロドロと溶解している人類の想念(心)は、我々の生命の中で祖先霊(霊界心=疑似魂)として、ピッカピッカの生命本体(真性魂)にからみつき、生きて生きて生き続ける生命力となる。
この因縁という生命力は、ちゃんとした意識体としてこの世に生きようとするから運命劇が始まるのだ。そして、この因縁の意識体(心)の舵を取るのは、あくまでも自分の意志の力なのである。
強い意志を育てることこそ、悪性因縁から目覚める唯一の手段であると実感した。
こんなことは、先刻承知のことだろうが、本当に心の中で、悪性因縁を打ち負かす意志力を育てるということは、頭の中で考えるように単純なものではない。私の酒乱性因縁も父の時代を飲み尽くして、さらに、酒乱童子の真っ赤な舌先が、子孫である我々にも及んだのであった。その因縁の結晶の吹きだまりが激突する。
以後決して飲むまいぞと、歯ぎしりしての抵抗も空しく、二三歳で因縁酒の洗礼を受けてしまった。牙をむきだし、燃え続けた鬼火は、因縁の心深く食い込んで、魂の傷口をどんどんと広げていった。
そして、妻もろとも呑み込むかにみえた悪鬼も、妻の、生命に生きた沈黙世界の師となる愛の光にはばまれ、ついには、手も足も出ないようになった。それとともに私の中には生命の真実が芽生え始め、そして、新しい意志力ができてきたのである。
酒乱二代、母が父に五五年、私の断酒まで二八年と心磨き期間五年間を合わせて三三年、親子合わせて八八年の長きにわたったが、神がたむけた二人の女のお陰で、人の道に目覚めることができた。妻もボソボソになった心身を引きずりながらも、不撓不屈の精神力の勝利となった。
流してならぬ悪因縁
手前一人の快楽を
〝ツケ〟で喜ぶ親は鬼
泣くに泣けない子の不幸
知らずに生きてなるものか
我が身裂けても二度とまた
現世の〝ツケ〟はきっぱりと
消して花咲け末代までも
これぞ調和の人の道
いのちの原点ここにあり
酒乱地獄に落ちてからは、毎日山歩きが日課となり、数多くの心霊体験をする中で、一つだけ、死に学ぶことができた。人が臨終を迎えたとき、思い残すこともなく、並いる人達に感謝の心で旅立ちできるなら、人間として、至上の幸せだと思う。
人間の真の価値は、死の直前に凝縮される想念の明暗にかかっている。死の直前の思いだけは追体験できないし、臨終の人にそのことを伺うこともできない。死の一瞬、人は何を思い何を言わんとするのか、何を体験するのか…知る由もない。だが、この不可能とされていることを私は、一三名の津波で亡くなった子供達から教えてもらうことができた。
そのことにより、一種の臨終意識の体験化ができたような思いだ。人の死後に残していく思いは、死の直前の、今、消えなんとする意識の中に、すべてが凝縮されるものだと思う。…中略…このことをはっきりと実感させてくれたある旅の一日を紹介したい。
それは、昭和六一年(一九八六年)八月一六日お盆のこと、一本のコブ杉の大木と会うために出かけたのだが、捜し求める銘木は見当たらず、一枚の写真を頼りのこの旅は、見えざる手に導かれた魂の旅となった。
山間部を巡り歩く中、いつしか見覚えのある村にたどり着いていた。そこには、日本海中部地震の津波で亡くなった一三名の児童の菩提寺がある。ここへ来たのも子供達の引き合わせだと思い、静かな位牌堂に特設された一三名の写真に向かい、一人一人の名前を呼んで語りかけながら冥福を祈った。
そして車に戻りドアを開け足を入れようとしたとき、何かうしろでサァーッとざわめく感じを受けた。これは子供達だと直感した私は、「あっ…そうだ、子供達を車に乗せて行こう」という気になった。それで、左側のドアを開けて、「おうーい…みんなもいっしょに行こうか…」と呼びかけたら、急に子供達の喜びざわめく声がして、つぎつぎと座席に乗ってくるのを体感した。「おう来たな来たな」と思いながら、「みんな乗ったか…さあ行くぞ」といってドアを締めて走りだした。
それから村を出るまで、何やら子供達の賑やかな話し声を感じながら国道にさしかかった。ちょうど昼頃であったから、妻が持たしてくれた食事もあるし、セロハンに包んだ煎餅もあった。そこで「おじちゃんといっしょに煎餅を食べようか…ねぇ」と心で語りかけ、そして、運転を続けながら左手で煎餅を二、三枚握りしめて割った。「さあ…おじちゃんが小さく割ったからなあ…」と言いながら、今度は車を停めてみんなに公平にわたるかどうかと、セロハン袋を切り開いて数えてみた。一三個に割れていたので、「おうい…みんなにちょうどよく割れたぞ」と言ってから一瞬気が引かれる思いだった。無造作に割った煎餅が、亡くなった一三名の子供達に、一三個のかけらになっていたのだ。その時子供達がざわめきの中で、口を揃えたようにして声になった。「粉はおじちゃんのぶんだよ」といのちの中からはっきりと聞こえてきた。割ったときの粉のことである。
亡き心は、この世を、どうしてこんなにはっきりと見えるのだろうか。この私のいのちの中に結ばれて、私とともに見ているのではなかろうか。
このことを常識で考えれば、たんに偶然か幻聴にしか受け止められないであろう。だが私は、その必然性を信じて疑わない。子供たちの魂は永遠だということを。
再び出発した車の中で、しばらくの間会話が続く。車は先ほど来た道を逆へと走っている。やはりコブ杉のことが忘れられず、その目当ての村近くで尋ねることにした。
ある商店の主人は必ずあるという。大林村というところから右へ入る道があるからそこでもう一度聞きなさいと言う。村外れまで来て酒屋でもう一度聞いてみると「全くわからない」という。
だがそこのおかみさんが、
「コブ杉はわからないが、毎年一〇月一〇日の体育の日になると、杉林へ子供達が遠足に行くようですよ」と教えてくれた。世の中、意外と灯台下暗しで関心がなければ気づかぬことが多いものである。
不案内のままその分かれ道を奥へ奥へと入って行くと見事な杉林が見えてきたが、目的のそれらしい古木は見当たらない。そしてその林道はいつしか行き止まりとなっていた。
その頃からであった。子供達がしきりに喜びながら話しかけてきた。さも遠足にでも来ている感じではしゃいでいる。今度は車の中へ大きな虻の出入りが始まった。それも子供達一三名の人数と同じくらいが勢いよく出入りする。しばし見とれていたが、早くここを出なくてはと思い、国道近くまで下ってきたその時、はっきりと子供達が話しだした。
「おばちゃんに花のおみやげもって行ってぇ」
と言う。妻に花のプレゼントである。
「うんうん、そうかそうか」
と、車を停めて外へ出た。左山裾には、色とりどりに秋の花が咲いていた。これもあれもと手にした花は、白いウドの花、薄紫色の萩の花、黄色いカラ芋の花、白銀のススキの穂花、紅紫色のミソ萩の花、この五種類の花が子供達からのお土産となった。
妻にとって一三名の子供達とのいのちの結びは、生涯忘れることのできないことであろう。妻の世界に沈黙世界の心が生きて通い結ばれたのは、この子供達が初めてであったからである。
水難にあってから、「おばちゃんおばちゃん」と、心を寄せてくる。亡き心からも光と見えた妻のいのちだったのだろう。一心の愛で語りかける妻の心は、子供達とも強烈に結ばれたのだと思う。
さて花のお土産をいただいて車は再び走りだした。山間を縫うようにして進んで行き、途中で、昼飯には遅かったが鯉茶屋というドライブインで休んだ。
そこには大きな沼がいくつもあって、クマ、タヌキ、鳥などがいる小動物園があったので「みんな、ここで遊ぼうよ」と声をかけたのだが、今度は急に会話が止まってしまった。「あれ…どうしたのかな」と気になりながらも、一人で見て回り、食事も終えてそこを出た。
そして、三〇分ほど走り続けると、人里離れた高原地帯が広がっていた。辺りには、カラ芋の黄色い花が天然とは思えない一面の畑となっていて目を見張った。そして、その先を左折すると近くにダムと滝があるという標識が見えた。そうだ、ダムで遊んで行こうかと思い、
「みんな…ダムに寄っていくよ」
と心をかけた。今度は急に返事が返ってきた。
「ぼくたち車の中にいるからおじちゃんだけ行ってくれ」
と言う声がはっきりと耳元に聞こえてきたのである。それじゃ駄目だなあと思い、ダムで遊ばず帰路についた。その時すぐには気づかなかったが、しばらく走っているうちに直感が体を突き抜けた。あ、そうか! あの子たちは津波で亡くなったのだ! 水が恐ろしいのだ! 海のような沼やダム、滝は、命を失う恐ろしい場所だったのだろう。
津波による強烈なショックはどんなに恐ろしく、苦しみの一瞬であったことか。この世から消えるときの一瞬、その一瞬に凝縮されて幼い児童の脳裏を駆け巡ったのは、お父さんお母さんのことを思う間もなく、一口に自分を呑み込んだ青黒い怒涛の怪物であったといえる。
そこによぎる意識は、恐怖の二字だったと思えてならない。水難の恐怖に叫んだ一三名の児童たちにとって、死後において、初めて愛の心結びができたのは、おばちゃん(妻)ではなかったのか。
沼のある鯉茶屋では急に会話が止み、「ここで遊ぼう」と言っても応答なし。私の心の呼びかけで子らは震え上がったのではないか。死の恐怖が重なったからであろう。
またダムでは、「自分たちは車の中で待っているから、おじちゃんだけ行ってくれ」と言う。子供達の恐怖も知らずに声かけした私に、どんな思いで応答してくれたのかと思うとき、私は心なき冷たさにさいなまれたのだった。
この子供達に学ばせていただいた永遠の命を尊く思い、亡き魂の厳然として生きている心の証しに頭の下がる思いだ。野山の草花に命が重なって、おばちゃん(妻)のいのちに結ばれる喜びの一日となった。
以後、声なき声は、五月二六日という命日の数に生きて結ばれることが多くなった。つい三日前の彼岸の中日のこと、朝からこの原稿を書いていて、子供達から教えられたことを是非紹介したいものだと妻と話し合っていた。真心からそう思うとき、その心は〝思えば通わすいのち綱〟となって、亡き子供達の魂にむずばれてくる。それも数の魂に生き生きと通ってみせてくれた。三月二〇日の三時二〇分、墓参りの車中で、突然五二六ナンバーの車が目前に現れた。こちらが追いついたからなのか、あるいは追い越しをされたのかは定かではない。一瞬、無意識で心を向けた車こそ、子供達の命数五二六(五月二六日命日)である。また、帰宅時間もちょうど六時〇二分(六二=二六)だった。子供達の命日の二六日と裏返しの合掌数字六二となって、表裏一体を示す数霊に生きて心を通わしてくれる。
こうして、その日一日の私達は、子供達と喜びを重ね合い、一日の宿り木(肉体生命)になったと思えばよいだろう。
皆様にはなじみのない話となったが、この世で亡き心が生きて通わす証しのナンバーと思えばよい。そして、魂の生きる証しのより所ともなり、さらに、生きているひびきの証しとなるのがこの世の文字、数、色によってであり、それらがまた、いのちの証しと関連していることは、山積する資料によって、はっきりと表明できる段階に近づきつつある。
このように沈黙世界の心が、妻のいのちに生きたのは、酒乱人生の死線の中で、命を削って得た神からの賜り物だったにちがいない。
老若男女にかかわらず、ある日ある時、ふと口をついて出てくる言葉や、予期せぬ行動など、自分でも分からないことが時にはあるものだ。そして、それが予期せぬ現実となったり、それが幸不幸の両極であったり、決して科学では解明することのできない世界がいつの世にもありつづけてきた。ある不可解な言動が現実化するということはよく聞く話であり、それらのことがたんに偶然として打ち消され、理解されることもなく消えてゆく。
だがそこには言い知れない深さと、根源的で命の中で滔々と流れているある意志性が感じられてならない。一体それは何であろうか。実に気になるところである。科学的には、予期、予測というのがあるし、霊的には、予知、予兆というのがあるし、いずれにしても、先々起こることを前もって知ることの世界になるが、そこには、天地自然の生命の源流のようなものを感じてならない。
言い換えれば、そこには絶対的な意志性の存在があるのかも知れないし、いわばこれこそが宇宙絶対調和力の意志的現れなのかと私は考えてしまうのだ。
それらの、とてつもない力がこのちっぽけなわれわれになぜ関係あるのかとなるのだが、それこそ、命あるからこその自分たちゆえに何もかも綿々と連なっている一大生命界の一員だからこそ、何らかの啓示性を含めて、代弁させられているのかもしれない。
こうした考え方は、かえって漠然として曖昧模糊になるかもしれないが、こうした問題はもっと単純なことからその回答を引き出し得るかもしれない。ただここで一つだけ言えることは、事実として、私たちの命には精神的にも肉体的にも一大生命界に連綿として結ばれている接点があるのだ。すなわち、生命は同根であるというその事実を思う時、自分に心があると同じに天地自然にもその意志性を信じることはごく自然な話ではないか。
それらの謎解きは大難問となるが、やがてはその門戸の光が見えてくるであろう。
平成四年(一九九二年)に読んだ本で『岳彦の日記』(けやき書房・岡三沙子編)の終章「別れの朝のエピソード」を拝読して、津波遭難で亡くなられた一三名の一人、山上岳彦くんが、五月二六日社会見学に出発する直前に、お母さんに普段にはない言動を発したのを知った。その言動にこそ予期せぬ予兆が秘められていると思った。
普段は絶対に言うようなことではないことを、無意識に咄嗟のこととして口から出してしまう。そして今、目の前に迫っている出発を前にしてごく自然に口から出てくる。
また今一つは、いつものことで遠出のときは間違いなく、必ずお母さんに温かい心いっぱいで言う言葉が、なぜかその時は全く出てこないのだ。まるで、いつもの親子の会話が逆転していることに気づく。
それでは、五月二六日朝のことを拾い上げてみると、出発直前まで遠足のことも忘れつつ野球道具に別れを言いたかったのか離れがたき姿であったこと。またいつもなら遠出のときは「お母さん、おみやげ何がいい?」と、決まってたずねるその言葉が、今朝は出てこないで、「お母さん、ぼくいなくなったら、淋しくない?」と、思いもしないことを言いだしたこと。
これらのことからそこには、どうしても岳彦君の心を覆い包んでいる意志性の発光を感じてならないのだ。その意とする発光源を、私は求め続けなければならないと思った。