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いのちは磁気・磁波・磁性体
千里ヶ浜で誕生祝い
待っていた兎太郎と松ノ木峠
あとがき
いのちという名は誰が名付けたかは知らないが、いのち自身の自分でありながらも、いのちのことはあまりにも深く、遠くて手が届かない。そんないのちではあるが、求め続けることはいのちの果てまでも探求の道は続くであろう。
今朝はそのいのちのことでふと浮き上がるイメージがあった。いのちはこころの源流であることを。そして、いのちの本体は磁気・磁波・磁性体であり、共振・共鳴・共時体の有視現象を起こすものであることを。またそれは生命元素(原子)の世界でさらにその奥の素粒子の世界に通じる遺伝子以前の世界であることを。
われわれは、食をいただくお陰で生命元素が分子となり、細胞ができて、そして五体をつくる役割分担の細胞に分かれ、こうして今日食べた食物は立派な五体をつくってくれるし、五感で心をつくるまでに仕上げてくれる。
その五感とされる視覚(眼)、嗅覚(鼻)、聴覚(耳)、味覚(舌)、触覚(皮膚)の五つの感覚と、五感の現実感とも異なる六感という霊的感覚があるわけだが、これら五感六感を感ずることのできるのは、いのちあればこそである。それらのことをつないでみると、宇宙をつくる生命元素があって、無限数の星々があって、銀河の中に太陽や地球があって、大地があって、大気があって、呼吸と食物をいただき、一体の「いのち」ができあがる。そのいのちは磁気・磁波・磁性の気をもっていて、そこに五感、六感が発生して、その反応の結果、心が生まれることに成る。そして、その心が人それぞれの人間模様をつくりだすことになる。それが人々の喜怒哀楽や悲喜劇の現実の姿となり、人間社会はとめどなくその変化を繰り返している。
これら人間社会のあらゆる事象は人が生きている証拠でもあるわけだが、この生きているいのちは、一体何ものなのかと考えを巡らしてみた時、いのちは磁気・磁波・磁性体(=共振・共鳴・共時体)なのだということに気が付いたのであった。
たとえば、ちょっとした物音一つでも耳がピクリと動き、そして、その音の情報を聴覚でとらえて、それが何であるかを察知して対応する。外に向けても自分の心に向けても、すぐにそれらの動きに反応をする。その反応こそ磁気・磁波・磁性体(=共振・共鳴・共時体)の反応であり、すなわち、それらの磁性こそ、私はいのちの本体であると考えてみたのであった。磁気・磁波・磁性体は共振・共鳴、共時の現象をもたらす唯一の心性媒体だと考えるようになった。
いのちある限り、外的にも内的にも、この五感六感からの情報を元にして反応を繰り返す。その繰り返す反応こそ心の発生であり、反応即心であると考えた。
心という磁気体が、情報を統括する脳に集積記憶として積み重ねてゆく。この心の磁気体はさらに、内的反応体(霊魂=潜在心)となって、日々の五感とともに心の宝庫として多種多彩な心のいろどりを生みつづけることになる。
いのちの中で循環する情報反応によって、それぞれの個人差のある心を形成し、生み重ねているのが現実の姿であると考えた。いのちは、磁気・磁波・磁性体であり、共振・共鳴・共時現象の発生源なのだ。極言するなら、いのちは磁石だ。私は磁石であなたも磁石だ。いのちの本質はきっとそうに決まっているものだと私は本気でそう考えた。磁気・磁波・磁性体のエネルギーこそ、いのちの絶対調和力の核となるものだと確信に近い考えとなっている。
共時性現象(シンクロニシティー)をもたらす共振・共鳴・共時の世界は、いのちが磁気・磁波・磁性体だからこそもたらす現象であると思っている。
心も体も同一、同元、同質のもので、一元一体二象体となって現れることがいのちと呼ぶものではないのか。心と体は一人二役のようなものだ。だから生も死もない世界で、心も体も同一同根の生も死も呑み込む混合一体の世界であり、磁気・磁波・磁性をもった調和安定力こそいのちと呼ばれる本体であり、本質であると私は考えている。
いのちは磁気体であればこそ、男と女はプラスとマイナスで引き合う性質をもつとしても不思議とは映らない。磁気・磁波・磁性体であればこそ、宇宙世界の生命元素(原子)とも融合できうるこのいのちといえる。素早く反応する気の流れ、気の動きこそ、心の源流であると考えても決して的外れにはならないであろう。
呼吸と食はいのちの食
食はいのちの元素
生命元素はいのちの光
心は光で体も光
いのちは
磁気・磁波・磁性体
いのちは
共振・共鳴・共時体
共時性現象の基を成す
いのちは心の源流
いのちはものいう光
ものいう光なのだ
みんな光の王子
みんな光の女王
ここで、自分が磁気・磁波・磁性体の共振共鳴のいのちであることを実感する旅の触れ合いを見てみることにする。
家を出てから気の向くまま風の吹くままの旅をして三七日目となった、平成元年(一九八九年)五月二七日のこと、私は盛岡市へ向けて国道二八二号線を走り続けていた。
いくらなんでも家出同然の無断の旅は、妻にとって心労やる方ない異常なことであったはず。この日までに一度の電話と一度の手紙を出しているから、夫はいずれは戻ってくると思ってはいるだろうが、私にしてもその気運が出始めていたから盛岡を目指していたのであった。
国道二八二号は、青森県の碇ヶ関から秋田県を通過して岩手県は盛岡市まで伸びている国道であり、奥羽山脈を縫うようにして、さらに東北自動車道とは右に左に入れ替わってのランデブ・ロードとなっている。
やがて車は県境も間近い鹿角市地内であったが、それまで何度となく目にしているはずの国道標識のことが、心が沸騰したかのように一気に吹き出したのである。 標識を見て何が吹き出したかといえば、二八二号線の数字である。標識は横並びに書いてあるから、右から読んでも左から読んでも二八二と口ずさみ、今度はこの数字を縦読みにした。二八二と繰り返したとき、あるコマーシャルがびっくり箱の中から飛び出してきた。上から読んでも下から読んでも山本山で有名なキャッチ・フレーズである。
この国道標識の設置間隔はわからないが、およそ四、五キロに一本立てているようだから、目前に現れては、上から読んでも下から読んでも山本山にならって、…右から読んでも左から読んでも二八二と、何度か心で復唱しては、ついに吹き出して笑ってしまった。一人で運転しながらであるから、モニターでもあれば精神に異常をきたしてしまった人と感じられてしまうかもしれない。こうして悦に入りつつ湯瀬温泉というところを通過したときのことである。左前方に松茸そっくりの松の木らしい木を発見した。あれ、見事な松茸松だ、と一人言を口にしたときそれは自動的に、上から読んでも下から読んでも松茸松! と言ってはまた吹き出して笑いだした。再び現れた二八二号の看板を目にして私は運転も忘れて大合唱となった。
上から読んでも下から読んでも…松茸松
右から読んでも左から読んでも…二八二
と繰り返し読んで一人で笑いが止まらない。
実に邪気のないことであったが、気を取り戻して写真に残すため車を路肩に駐車して松茸松に近づいて行ってみたら、そこにはその松の木の紹介標柱が建ててあった。昭和五三年(一九七八年)五月二二日指定と記されていた。
この松の木は、鹿角市の天然記念物に指定されている名木であることを知ったが、その指定月日を見て驚いた。五月二二日になっている。五月二二日は、私の生まれた二二日(九月二二日)にぴったり共振共鳴するではないか。この松の木も私も、数のいのちの中では一緒なのである。 この松の木が、私を引き付ける磁気・磁波を発振していたにちがいない。そればかりか国道の二八二号線には、私の二二日生まれと妻の八日生まれが組み込まれていて、私の二二の中に妻の八が入っているのである。二八二を縦横どちらから読んでみても、妻と私の命数の響きではないか。
私にこの国道を走らせたのは誰なのか。何もかも知っているお方でなければこんなにうまくお膳立てはできやしないものだ。この旅は、帰宅してから分かったのだが、一日の平均走行キロ数が二二八キロメートル(九三八三キロメートル ÷ 四一日)となっていた。この二二八キロメートルの平均値はこの時分かる訳もないが、ここの国道が二八二号線であることは、それなりの磁気的共振性をもっているし、そのメッセージ性の高いひびきに満ちている道路であったといえるし、そして、私達夫婦に何かを呼びかけていることが無理なく感じさせられてならない。それはいのちの証しへの道に導くメッセージなのかもしれないのだ。
いのちは磁気・磁波・磁性体で、その出会いの縁を結び、共振・共鳴・共時で、ともに振れ合い、ともにひびき合い、ともに時を同じくする。そのいのちの本質をここに見た思いとなる。
頭の切れる方ならこのことを、確率論で説明するかもしれないが、私には、いのちからの温かいものを感じてならない。いのちは光で、物言う光なのである。
食物から生命元素をいただき自分となったこのいのちは、よりよき人生の調和に満ちて、いのちに添ったレールを走るべくそれを知らされた思いになる。
ちなみにこの松の木の名前は唐傘松 ではあったが、私達夫婦にとっては上から読んでも下から読んでも二八二号線と松茸松という、私の心に旅の潤いをもたらしてくれたのであった。また松茸松は、 待つだけ待つのだ、とも響くではないか。このいのちのひびきに、神秘の幸せを感じさせられてならなかったのである。
紀伊半島の南端には田辺湾がある。この辺り一帯は田辺南部白浜海岸県立自然公園に指定されているが、その公園ができるのには、一人の人間が身命をかけた自然保護活動があった。湾に浮く小さな「神島 」の貴重な植物を守るために立ち上がったのは、博物学の奇才とも呼ばれた南方熊楠であった。特に、粘菌の採集とその学問を究めた熊楠は、昭和四年六月一日、昭和天皇の御前で粘菌学の御進講を行い、このとき熊楠は粘菌の標本をキャラメル箱に入れて献上されたという有名な話が残っており、また天皇もいたく感銘を受けられたそうだ。
熊楠は田辺の街で後半生を過ごしているが、生まれ育ったのは和歌山市であった。幼少からの異才と桁外れの記憶力を本人も不思議に感じていたからであろうが、死んだのちの自分の脳味噌を残すよう遺言を遺した。それは現在、大阪大学医学部で保存されている。すべてにおいて、他に類例のない御仁であった。
かねてより南方熊楠の足跡と身命をかけて守り抜いた神島に巡り会いたいと考えていた私たちは、他にこれといった全体的な計画もなく、その都度行く先々を決めるという実に気ままな旅を続け、田辺駅前のホテルに宿をとることにしたのであった。
この日は平成六年四月九日土曜日。フルムーン五日間の旅は三日目の夕刻に入っていた。四国松山から伊予と巡り歩き、新大阪駅から一五時四四分発くろしお二三号に乗り換え、紀伊半島の紀伊田辺駅に向けて出発、到着は一七時五一分であったから、二時間少々の車中タイムだったことになる。
車中では、どちらからともなく息子のことが話題となった。
「今日は四月九日で淳の誕生日だったなあ」
互いに顔を見合わせながら感慨深げに話をしていた。息子が外国勤務に出向したのは平成二年三月四日のことであった。それから早くも四年が過ぎ、その日はちょうど、三四歳の誕生日であったのだ。
電車は一七時五一分に田辺駅に到着した。外は夕暮れ時にさしかかっていた。宿に落ち着く間もなく係の方に「かしま(神島)」と南方熊楠邸について尋ねてみると、「かしま(鹿島)はここから南部駅まで戻って海岸に出ると見ることができる」と言われた。外はすでに暗くなっていたので、明朝一番で行くことに決め、その夜は南方邸にだけ行くことにした。
日付が四月一〇日に変わった早朝、五時四九分の一番電車に乗り込んで二つめの南部駅に降り立った。海はすぐ近くというから歩いてみると五分くらいで海岸線に出た。
浜風は肌寒く、明けきらない日の出の浜辺一帯はまだうす暗さを残していた。南部湾一帯を望める砂浜に降り立ったとき、妻は何を目にしたのか身体をかがめながら叫んだ。
「お父さん 淳の誕生日だ! 石で書いた誕生日だ、四月九日だ!」
まさかここに息子の四月九日が書かれているなど、どう考えてみても信じがたいことなのである。だが目の前にはっきり「4月9日(土)」と、満遍なく小石を拾い集めて描いてあるのだ。そして名前も書いてあった。
〝4月9日(土)ハシバテツオ〟
という文字が、生々しく砂浜に浮き出して輝いていた。小石の数はかなりの数量になる。
昨日描かれたものであろう。単身の男性の名前なのか、あるいは恋人同士なのかどちらかに違いない。〝ハシバ〟が女子の姓で〝テツオ〟が男子の名前なのかもしれない。そしてこの辺り一帯は、千里ヶ浜に続く海亀の産卵地でもあった。
千里ヶ浜の石の文字
(1)
4月9日誕生日
見知らぬ浜に来てみれば
石を並べて書いてある
4月9日と書いてある
ここは南紀の南部湾
千里ヶ浜の石の文字
(2)
4月9日誕生日
見知らぬ浜に来てみれば
石を並べて書いてある
4月9日と書いてある
いのちの愛が待っていた
千里ヶ浜の石の文字
(3)
4月9日誕生日
海をへだてた隣国の
せがれの安否思うとき
見知らぬ浜が呼んでいた
4月9日と書いてある
千里ヶ浜の石の文字
(4)
4月9日誕生日
海をへだてた隣国の
せがれの安否思うとき
いのちみちびく石の愛
千里ヶ浜の石の文字
偶然といえばそれまでの話になって実に風通しがよく、心は宙に消えていく。それでは偶然の姿をした現実の、真の姿が見えてこない。偶然は外見の世界である。時計の針やデジタル表示の世界である。われわれが見ている表面世界と同じである。それらの原動力となる世界は内面にある。それは時計のメカニズムのエネルギーであり、人の心を支配する魂の世界が見えざる世界に明かりを灯しているのだと私は考えている。表の世界の原動力となる、いわば不可能を可能に組み立てることのできる世界だといえよう。
この世の誰も彼も、また何もかもが役者のようなものであり、その脚本家が魂であり、メカニズムであり、そして、いのちという絶対者が目を光らせている。それも昼夜無休で目を光らせているといえるのではないか。
見えぬ手で導くその姿が、具体的には見えぬとしても、見える手立てとする意志の代行媒体として、文字や数字や色彩を目の前に現し、共振共鳴共時性現象となって、現実に、この目に見せてくれる。それを偶然といってしまえば、いのちの真実は遠ざかるばかりである。電車のなかで息子の誕生日に親としての思いを一つにしたとき、〝想えば通わす命綱〟となって、天に届き、地にひびいたのだと思うのである。
4月9日(土)に千里ケ浜を訪ねたハシバさんは、私たちとは何の因果も持つものではないかもしれないが、その姿を見ているハシバさんのいのちは、私たちの思いをキャッチしているように思えてならない。それは決して単なるたわごととは思えないのである。
宇宙を創造して、地球に生命を吹き込んだ宇宙生命を絶対調和のご意志と見るならば、その根源エネルギーでこの世に存在させられたわれわれのいのちにとって、人びとの因果に係わらず、個人個人の心を統御コントロールするくらいは容易千万なことであろう。
だからその、文字的、数的、色彩的現象体にいのちの意志を感ずるならば、ここ田辺の街に引き寄せられたことの節々に、そのご意志の機微を感じることができよう。
たとえば、4月9日に南方熊楠を訪ねること。車中で息子の誕生日を思い浮かべて安否を気遣うこと。宿の従業員が、「神島 」を「鹿島 」と誤って南部湾にわれわれを向かわせたこと。もしも本命の田辺湾の神島のほうを教えてもらっていたら、「4月9日の石の文字」とは出会うことはなかったのだ。こうした微妙な食い違いでさえも、いのちの意志力は見逃すことはしない。これこそ「死んでも生きている魂」の証しといえよう。
因果性(因縁果)も非因果性をも越えた世界は、不可能を可能に組み立てることのできる世界だといえる。そのことは、宇宙生命の一大ご意志に委ねるほかはない。
表面世界は役者が役を演ずる世界で、内面世界が書く脚本を演ずるものであり、それらは脚本と役者の因果関係となるが、それ以上の深い生命次元のことは、因果も非因果も越えた果てしない命の統御次元に委ねるしかない。食べて呼吸をして生きている私たちは、この生命次元の総監督のご意志の下に生きるほかはないのである。
朝一番電車の五時四九分に乗ったことにも、〝四九〟の暗示性のひびきが強く秘められていたといえる。
南方熊楠は、動植物のどちらとも思える粘菌に打ち込んだ人物だ。熊楠から感じ受ける真意は、「生命の謎」の探求ではなかったのかと考えさせられる。熊楠は次のようなことを吐露している。
「今日の科学の因果は分かるが、縁はわからぬ。この縁を研究するのがわれわれの任なり。そして、縁は、因果と因果が錯雑 して生ずるものなれば、諸因果相対の一層上の因果を求むるがわれわれの任なり」-南方熊楠-
ここでいわれる「諸因果相対の一層上の因果」云々というのは、非因果性の相関関係に起こる共時性現象とも私には受けとられる。共振共鳴共時性現象のことを、南方熊楠は考えていたのではなかったのか。いわゆる偶然の一致といわれる現象の奥に秘められたいのちの真相に的を当てていたのかもしれない。
因果の世界は果てしない。非因果の世界も果てしない。心の因果の世界は魂のひびきとなって、不滅の生命を証しつづけているのだと私は思うのである。
今回の旅では、大阪市東成区にある、わが国最古といわれている「鶴の橋」(第一六代仁徳天皇の世、平野川に架けられた橋)にも立ち寄った。そして、南部湾の千里ヶ浜は海亀の産卵地であることを、後になって知った。鶴と亀は私にとって魂の一部である。出会いの縁の深い意志性がここにもひびいていたのであった。
それは昭和六一年(一九八六年)八月四日のことであった。山深き朝日林道を進んでいると、道の中央で、避けようともしない一羽の野性の兎が私に何かを語りかけていた。
(1)
お前さん来るのは先刻承知
決して見せない昼日中
いのちの親さまおしえてくれた
今来る人は安心じゃ
僕は朝日の兎太郎
(2)
ようこそいらっしゃいお前さん
少しドキドキあったけど
いのちの親さま守ってくれる
恐れもせずに道で待つ
僕は朝日の兎太郎
(3)
心悩みのお前さん
自然の中には悩みなし
泣かず明るく生きている
役に立つかと道で待つ
僕は朝日の兎太郎
(4)
お前も僕も兄弟分
いのちは一つで結ばれる
僕は兎でお前は人間
ぬいぐるみの違いだけ
僕は朝日の兎太郎
(5)
僕は緑の草を食べ
お前はお米のご飯食べ
元気で生きる自然流
ともに地球の緑の中で
僕は朝日の兎太郎
私が兎太郎と出会ったのは今から二二年前のことであった。人生やり直しに入って間もないころであった。来る日も来る日も山深く分け入って、大自然の中にこの身を発散させ、解放させてありったけ拡大膨張させて、それは自己からの脱出をするためであった。それを成し遂げられたのも妻の支えがあったからだ。それなくしては何一つできなかった。
妻は毎日毎日私に手弁当を持たせて、明るく見送ってくれたのであった。朝に出て夜までに帰宅するという日課であるから大きく県外に出ることば少なかったが、それでも往復二〇キロ位は普通の行程になっていた。そしてその間のことはできる限り記録として残してきた。
待っていた兎太郎もその当初の体験であったが、容易に信じられないようなこうした出会いも意外に多いのであった。この兎太郎はたくましいまでの野性であるし、ましてや、夜行性なのに白昼堂々とほかを避けもせず、こちらから停車してあいさつをするという至近の出会い劇となったのであった。
悩みの最中にあった当時の私であったが、自然界の、とくに山深い緑の空間によって赤裸々になった自分を反省することができる歳月を体験させてもらっていた。
その当時から今日にかけて、この自分という内面の世界と、現実の外界とは不離一体であるという生命感が育ってきたのであった。 さらに多くの出会いと、そこから発する共振共鳴の中で特に思うことは、何と言っても目に見えない力で引き寄せられているエネルギーを感じていたのも事実のことである。
この兎太郎のような共振共鳴感という現象は、日常茶飯に起きているという実感が何の抵抗もなく心に受け入れられるようになったのであった。
自分というものが、いつもオーラのような意志性の磁気に包まれていて、自分と思っている思いの判断さえも、第二の自己性に支配されていることを感じた。やはりそれは現実として頻繁に起きていると感じられてならない。言い換えれば、表層的自己意識よりも、深層的自己意識といえる意志性が強くなるという感じである。
たとえばこの兎太郎にだって、何らかの意志性が働いていたと言えるだろうし、また、私自身を包む何らかの意志性のオーラが、行く先々にわたって、六感的情報の収集をしていたという先導感は、決して否定できるものではないと思っている。
自分の心に添った意志性のオーラが、磁気磁波磁性体となって、予見性の守りを与えてくれるという意志の働きが感じられてならない。表層的な今の自分の思いをナンバーワンとしたら、ナンバーツーともいえる。
深く、極めて広範囲の先見力を持った心があって、それが、行く先々の守りとなっているという実在感が強くなってきている。
だから私の世界からは、偶然という一過性の話ではなくて、きわめて当然のこととして受け入れられることであり、かつまたそれが満ちあふれている現実感が強くなったともいえる。待っていた兎太郎との出会いも当然の出来事であったといってもいい。
今思う表層の心を第一ステージでの心(ナンバーワンの心)としたら、より決定力の強い深層の第二ステージの心(ナンバーツーの心)が守護性の高い魂と言えるだろうし、それは、どなたにも存在する世界だと私は思っている。
第一ステージの心(ナンバーワンの心)、すなわち、今何を思うか、日頃どんな心で生きているのかという今の心の蓄積が、守護性の高い、奥深い第二ステージの深層の心を引き出す最大の因子だと私は考えている。
端的にはそれは、命に直結でき得るいのちに添った心ではないだろうか。私流に言えば、自己調和心を高めるバランス力ではないだろうか。人の心をいのちに近づけることは、すなわち、予見性の高い心を養うことになると思っている。
物事を平静に保ち、無心にしていのちの底力に通じる感覚で心を統一する時、何か自分では及びもつかない大きなオーラ、言い換えれば、いのちの磁気磁波磁性とでも言えるようなバリアーの中にいる感じのする時がある。そして、このような精神下にいる時は、共時性現象(俗称・偶然の一致)が多く現れるようである。待っていた兎太郎の話もどちらかといえば、いのちのオーラ(私見では、魂の磁気磁波磁性体)が出やすい精神下にあったといえる。
また、共時性現象は、やはり精神状況が深くなっているときに多く出現する現象と考えられる。だから出会いの縁は、無意識の霊魂の世界からやってくるのだと私は考えている。
さて今一つ、私を待っていた共振共鳴の現象の話を続けてみる。話は、兎太郎より三年後のことである。無宿の旅も最終盤にさしかかっていた平成元年(一九八九年)五月二九日のことであった。家を出てからすでに三九日目であったが、秋田県の南部を走行中、自宅に手の届く地域に来ていることを思いつつも、心は迂回することに向けていた。
今走っている県道は三二号線を過ぎて三四号線の山峡を進んでいる。ここから五七号線を七~八キロ行けば国道一〇八号線が東西に伸びている。その丁字 路を右折すれば本荘市へ行き、左折すれば雄勝町経由で鳴子温泉に達する。
風の吹くままの無宿の旅であるが、走る方向だけははっきりさせなければならない。その方向でさえも私は、半意識的に決定してこれまでの旅をしてきた。今回は帰る家が近いことでわずかの迷い心が出ていた。特に国道一〇八号線が気になった。
妻は一〇月八日生まれであり、一〇八は妻の命数であって、共振性の強い数霊になっている。国道一〇八号線は妻への道といってもよい。右折したなら鳥海山をぐるり半周して二時間もあれば帰宅できる行程にある。だが心は反発していた。左折して鳴子温泉経由で二、三日延長することにしようと決めたのである。ところが県道を五七号線に切り替えないと国道一〇八号線には出られない。その道筋がはっきりしないから、山間で出会った郵便配達員に尋ねてみた。すると、国道一〇八号線は、松ノ木峠で土砂崩れのため全面通行止めになっているというのだ。そうであれば左折することはできない。
心の奥では左折して松ノ木峠を越すことに執着している。通行止めに反発する奥の心は渦を巻く。 だが、いくらなんでも心の奥で現実を打破することはできない。迷いをためつつ国道丁字 路に出て見ると、やはり全面通行止めの看板が目の前に立ちはだかった。
この日も朝食抜きであってすでに昼も過ぎていた。通れないことがはっきりしたが、まず何か食べなくてはならないから食堂を探すために左折した。松ノ木峠方向に進めたのである。
ところが、数秒走ってからすごい標識を見てしまった。標識には雄勝二二キロ、国道一〇八号、松ノ木峠とあるのだ。
それを見た途端、いのちの電流が全身火花を散らした。妻と二人の人生、越すに越されぬ峠を越すために、もがき続けた錯綜混沌の生きざまが続いている現実の前に、この松ノ木峠は、今通行止めなのだ。越すことができないのだと、足止めされている現実が目の前に立ちはだかった。だがその標識は、妻と私の越さねばならない峠であることを数のいのちが示していた。私は二二日生まれで、妻は一〇月八日生まれの一〇八である。標識は、雄勝二二キロ、国道一〇八号の松ノ木峠ではないか。松ノ木は「待つの気」のひびきではちきれそうになっていた。
待っていたぞ、この峠を越すのだぞ、これこそがお前達の越さねばならない人生峠というものだ、と誰かの声が心の奥からオーラとなって守りの光を発していた。一瞬の間にそう思った私は、この通行止めの現実を心の中で白紙に返したのである。行くも行けぬも命の守りの中であると思い、それはそれでいいと決めてまずは食堂を探すことにした。
少し走ったとき、畑の中に赤ん坊を背負った一人の母さんが立っていたから、この辺りに食堂はないかと聞いてみた。すると母さんは、近くにいた娘に聞いていた。
「それ…、あねや(姉さんや)、しょくどうねがど(食堂がないか)」
すると聞かれた姉さんが
「ほれ、そごんどごさ店ある」
それを受けた母さんが「すぐそごさ店あっど」と、伝えてくれた。
ここは大自然の真っ只中である。言葉のやりとりも自然流のとうとうとした豊かな流れの会話となっていた。
少し走って私は軽食喫茶の店に入った。ここにいても諦めきれない松ノ木峠が押し上げてくるから、何かの情報を得られればと思い店員に聞いてみた。すると意外な答えが返ってきたのだ。先に一人の客が寄って言うには、小さな車だったから、どうにかこうにか通ってきたが、大変な悪路であって全面通行不能になっているという。どんな車なのか、おそらく単車なのかもしれない。この峠は、雪や雨でも通行止めがよくある林道みたいな道路なのかもしれない。
私は心を決めた。行ってみないで引き返すよりは、行ってみることだと腹を据えて出かけることにした。通行止めを行くから、やはり心の中に何かしらのやましさが残った。屈折も多く、岩肌が剥き出しの悪路の中で、ひとりでに唱え続けた般若心経は無心の世界であった。どうにか九合目までに引き上げてくれたのである。頂上は目前であるのだが、道路は視界から消えていた。そこは崩落現場の岩石の山であった。しかし幸いなことに、右路肩に、ほんの少しだけ無理をすれば通れるくらいの幅が開けてあった。下は断崖であった。
作業は今、土砂を少し取り除いたばかりで、その日は復旧の段取りであり、それを終えて帰り支度の三人が現場から下山する寸前であった。私は通行禁止を知りつつ上がって来たことを詫びた。何とか通して下さいとお願いをして、呼吸するのも忘れてそこを通過したのだ。瞬時のタイミングで峠を越すことができたのである。
越して下さい人生峠
松ノ木峠で待っていた
雄勝へ二二キロの国道一〇八号
私は二二で妻が一〇月八日
松ノ木峠は待っていた
越さねばならぬ夫婦峠
であった。いのちの底から心を見守るご意志の世界。文字的にひびき、数的にひびき、色的にひびきて、諭 しつづける縁結び。
文字・数・色は人類に無くてはならぬ心の表現であり、無ければ一気にタイムスリップで古代に逆戻りする人類。文字・数・色は現代人類の三種の神器となったのである。
待っていた兎太郎、待っていた松ノ木峠。人生の先々で案内役となる文字・数・色のひびきに乗って、この旅も終わろうとしていた。それは、平成元年「五月二九日」であった。
話はずっと後のことになるが、私達は、鳥海山麓に原野開拓をして田畑を作り、稲作を始め、その給水の為に井戸を掘ることにした。この辺りは掘っても井戸水は絶対に出ないと言われていたが、ついに、念願かなって、数百年ともいわれる伏流水が、八三・五メートルの深さから天高く噴き上がったのである。その日が平成一一年(一九九九年)「五月二九日」であった。
人生峠の松ノ木峠を越したのも、やはり「五月二九日」のことであった。それは時空を超えて数霊に乗せた意志性を象徴したのだと思っている。底深く、いのちの伏流水の流れは、一本の命の流れとなって魂不滅の流れを示唆したのであったろう。
さらに、その湧水と同時に、天には祝いの瑞雲(彩雲)が七色に輝いたのである。
出会いのご縁の中には、運命をかえるほどの強烈なエネルギーを秘めているものも少なくない。
私たちは生まれ故郷から七六年目にして、それも突然の話から一〇〇〇キロメートルも離れた広島に移って来た。平成二二年(二〇一〇年)三月二五日のことだ。それから二一日目の四月一五日の夜八時過ぎのこと、そろそろ落ち着いてテレビでも見てみようか、とスイッチを入れてみたら、画面一杯に懐かしいお方がインタビューを受けていた。
そのお方は、元・総理大臣の中曽根康弘先生であった。齢九十二才といわれるが、ピンと背筋を張って、かくしゃくとして、一言一句かみしめるように明快にお話をなされていた。見入っていた終盤のころだったか、「今、大事になさっておられることはどんなことでしょうか」と尋ねられた時のことだ。中曽根先生は、即座に内ポケットから一冊の手帳を取り出した。ぱっと開いて見せた文言を目にした私は、これはうれしいことだと胸一杯になった。その文言は、中曽根先生が大切になさっている人生哲学であり、そこには、「結縁・尊縁・随縁」という六文字が書かれていた。そのことを先生は「三縁」と呼んでいた。「縁を生かし、縁を大切にし、人間関係を大切にするということ。そして、縁を結び、縁を尊び、縁に従う。それは、温かい人間関係を大事にすることが大切なのだ」と結んでおられた。さらにその手帳は肌身離さず毎日一、二度はご覧になるという。私は意を強くして感謝した。
とかく敬遠されがちな神秘世界のことを求め続けている私は、はたと消極的な心がちらつくものだが、ふとスイッチを入れたテレビのご縁で一国の元・総理大臣の座右の銘の人生哲学が「縁の世界」であったことを知り、自分の求め続ける世界を強く誇りに思ったのだ。ここに紙上を借りて、出会いのご縁に感謝する。
今後、神秘の大樹シリーズは、第二巻、三巻、四巻へと続く。すべてが実体験からの話である。できる限りに写真を添えてその証明としていく。いのちの中では何が起きているのか、また、いのちとはどういうものなのか、と果てしなくつきつめてゆく。
「心と縁と運命」について、いのちの監視下にある霊魂の世界を体験に基づいて開いていきたいと思う。
著者 菅原 茂