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神秘の大樹だいじゅシリーズ第二巻
神秘の大樹
 ヒロシマとつる姫

 

 

 

まえがき

 

 神秘の大樹シリーズ第一巻では、偶然の一致といわれている現象を実体験に基づき、二五の話を取り上げて、エッセー風に考察を試みてきました。

 心の世界は、とてつもなく広く深い、糠に釘のたとえどおり、手ごたえのない厳しい世界であります。その厳しく難しい世界に学究者でもない者が挑戦している訳ですが、一つ確かなことは、記述のすべてにわたって、実際に体験を通しての実例から浮き出す真実を体感できるのが唯一の強みであるということです。

 心の世界の九九・九九パーセントが過去の心であり、また、歴史上の心でもあります。換言するならば、死の世界の現実は生きているということです。心の九九・九九パーセントの死の世界は生きているということなのです。〇・〇一パーセントという刹那の、今の心こそ自分の思いであり、死の世界の代弁者でもあるわけです。

 極言するならば、自分のいのちの中は生きている死の世界であって、魂は決して死ぬことのない輝く世界だといえるでしょう。肉体の死は生きている心の世界なのです。

 そんなバカな、と思うかもしれませんが、実際に肉体を消した人々の心は魂となって、この身の中で生き生きと輝き続けています。この身から魂を抜いたら、もぬけの殻になります。だからこそ、偶然の一致といわれる偶然の出会いや、出来事が、人々の暮らしの中で起きている訳です。魂は、今の心を道明かりとして、縁結びの使者になって活躍している訳です。

 偶然はいのちの監視下で、魂と魂の結び合いの流れの一片がひょっこり地上に顔を出したというだけのことであり、また、それは延々と続く縁結びのドラマの流れの一片の息遣いということができましょう。

 魂の息遣いとは、いのちの中から発してくる魂のメッセージなのです。

 我々の心の奥底は、今の心の方向性に合わせて、すなわち、今の心を道明かりの灯台としています。そして魂は縁結びの使者となって活躍しているわけです。魂は原子の光に乗って飛び回っているのです。

 

思いは生きものだ
目的に向かって飛んでゆく
縁エネルギーになって飛んでゆく

 

思いが生きものなれば
花を求めて飛んでゆく
実を結ぶために飛んでゆく

 

思い強ければ強いほど
持続すればするほど
縁の花を咲かせて実を結ぶ

 

この世の空間は心の海だ
錯綜混交の海だ
見えたら一歩も歩けない

 

心に合った縁が待っている
心は縁結びの使者となって
人生喜怒哀楽の実を結ぶ

 

 縁の使者となった魂たちは、原子の光に乗り、文字・数・色、その他、この世の媒体を介して訴え続けています。現れ方としては、偶然の一致であったり、夢であったり、時にはヴィジョンであり、閃きであり、霊言となって発現することだってあるのです。数ある魂の媒体表現の中で、「文字・数・色」の媒体を介し、魂は、肉体は消えても心は生きているのだ、ということを証し続けているのです。

 神秘の大樹シリーズ第二巻の本書では、おそらく人々には見過ごされるであろう、それも、原爆ドーム前の、橋の上に落ちていた一羽の小さな折鶴が、天の扉を開く声なき声の現実の姿であったのです。肉体を消した魂の切実なるメッセージでありました。

 現実の世にあって、これ程の非現実の現実が万光の光を輝かせていたとは、神のみぞ知ることであったか。これまでに、これ程の偶然の一致があったでしょうか。否、共時性現象があったでしょうか。

 死んで、ただ煙になって消えるのではありません。心は厳然として活躍しているという現実を誰が否定できましょうか。「偶然」の二文字の便法は一羽の折鶴によって、人の世から消えたのであります。

 本書は、第一章心のつる草、第二章魂を乗せた一羽の折鶴となっており、一章は、いのちと心についての随想を用いて本題の二章へと導入しております。

 二章は、小さな折鶴を通して「縁結びのメカニズム」を創作シナリオ形式にして説話風に進めてまいりました。現実を生きる自分が、実は億万年から連なる亡き心たちの複合霊体(魂)であること、そして、死んで消えたのではなく、心は実に生き生きと輝いて、自分を自分たらしめている原動力であるということ、そして、死んでも生きている心の世界を、一羽の小さな折鶴が明白に証してくれました。

 その証しは、「文字・数・色」という媒体に乗って、原爆ドーム前の、元安橋の上で待っていたのです。

 

 

 

 

神秘の大樹Ⅱ 目次

 

 まえがき

第一章 心のつる草

第二章 魂を乗せた一羽の折鶴

第三章 おわりに

 あとがき

 

 

 

 

第一章 心のつる草

 

 

 人間は、万物の霊長といわれていますが、そこに一つの疑問が湧いてくるのです。本当にそうなのであろうか? 確かに想像を絶する知性を発揮するし、宇宙に人工衛星を廻し、基地をつくりだしてからも久しくなりました。さらに、あの星、この星へと探査機を飛ばし続けています。

 生活に欠かせないライフラインの基盤となる電気などには、核エネルギーを駆使していますが、その同じエネルギーは、軍事防衛と称される巨大な破壊兵器として、脅迫手段にも転じられます。人類が一巻の終わりの幕を引こうとしているかのように、私の目には映ってなりません。私たちが絶滅危惧種の筆頭になっていいわけはありません。

 人間の能力は実に見上げたもので、その科学技術の向上は絶頂期に達しています。そのせいで、生活が浮雲に乗っているような感じもしますが、私たちが文化的生活の恩恵を満喫しているのも事実です。

 確かに、万物の霊長といわれて当然かもしれません。そうです。人間は、この世で最高の頭脳を持つ、知性の神様のような生き物なのです。

 私は、思いついたことを「日々の心」として書き留めていますが、そこに次のようなことを書いていました。

 

「日々の心」四七六

 

いのちに優劣なし

生物に優劣なし

〝特性〟あるのみ

特性を観察するとき

優劣は消滅する

そのとき

新しい自分の心に気づく

人類の優れた特性は

〝知性〟であり

闘争は知性毒であり

調和は知性愛であり

いのちの道は

大調和の道

 

 このように、つれづれの思いを記録しているのは、自分の内面に向けたものであり、自己調和のための内なる魂の学習となっています。次のようなことも記しています。

 

「日々の心」四八二

 

母はわが子を宿した

そして

その子に母は宿る

母はわが子を生んだ

そして

その子の中に

自分をも産み落とした

そして

その子の中で生きる

母と父

その子の外にいる元の

母と父

そして

その子の中にも

生きている母と父

どちらも〝本物〟だ

そして

元の母と父は死んだ

そして

その子の中で育つ

母と父

永遠に繰り返される

母と子

子は母となり

子を宿し母となり

子の中に生きる

死に変わり生き変わりて

続く魂

自分の中は魂の博物館

 

「日々の心」四八三

 

母の子宮の中では

いのちがいのちを

いのちたらしめるための
十月十日とつきとおか

新しいいのちの再生世界

そこは母の〝呼吸と食〟以外は

立入禁止の聖域

また、いのちの道は一本道

口から入った食が

いのちを

いのちたらしめるための一本道

食はいのちで

食以外は立入禁止

一呼一吸天の気

一食一排地の気

天地の気はいのちの食

食はいのちの呼吸なり

 

 万物の霊長といわれる人間ですが、次元を生きる原点に引き戻して考えるとき、果たしてどうでしょうか。もしもこの大自然界に放り出されたときのことを想像するだけで、何もかもギブ・アップすることばかりです。

 人間が優れているのは〝知性〟という特性があればこそです。そして、優れているのは、単に人間社会でのことにすぎないのだと気づきます。

 単身で空を飛ぶことはできないし、オリンピックのどんな競技の一流選手でも、猿やチーターや象やライオンやイルカたちに太刀打ちできないのは先刻承知のことです。裸一貫では成すすべもありません。優劣ではなく、その種が持つ〝特性〟という、いのちの平等に立たなくては比較などできようがありません。優劣は人間社会でのことであり、他の生き物が人間より、すべてにおいて劣るという見方は、白紙に戻さなくてはなりません。

 人間は、いろいろとものを考え、何かをつくり上げるという創造力にかけてはものすごい能力を発揮しますが、これを、万物の霊長というより、人間に与えられた一大特性と考えてみたいものです。

 特性である〝知性〟の活躍で、人間はとてつもなく広大な文化圏をつくり出しましたが、その、量的資産と同様に〝心の資産〟をも積み上げてきました。この心の資産を「魂」と呼んでみたとき、人間の魂は、私なりに考えれば、人間の遺伝子(DNA)とイコールに近いのではないかと思うのです。

 人類の心と行動のすべてが、一つ一つの細胞に組み込まれている遺伝子そのものの、大部分を形成しているのではないでしょうか。これについてはもちろん、人類という種に到達するまでの、果てしない生物の精神体である「心性」のルーツに遡らなければなりませんが、人類になってからに絞って考えてみるならば、人間が人間であるための、心と体の生きざまの記憶量が「遺伝子化」したのではないかと考えてしまうのです。

 ナンセンスも甚だしいとそしりを免れないでしょうが、今は、ヒトゲノムが解明されている時代です。遺伝子の数は約2万といわれ、その中で、確かに意味が解明されている遺伝子は全体の2%以下に過ぎず、大部分は何のためにあるのかさえわからないというではないですか。もしかするとそれこそ〝魂のDNA〟なのではないか、これは、ずぶの素人だからおそれもなく考えつくことかもしれません。

 いずれにしても、人の心の記憶蓄積量は、他の生物たちと比べたら、とんでもなく膨大な量になると思うのです。

 一人ひとりのいのちの中は、魂の巨大なダムになっています。その魂が、いのちの光の柱に絡み付くようにして生き続けています。

 

 

 

 

 

 いのちの道は一本道です。大調和の光を放つ一本道です。そのいのちの一本道の光の中で、人間の魂は正しい調和安定の波動に見据えられ、かつ、監視・コントロールされているのです。

 「日々の心 四八三」で記したように、母の子宮の中は、母の「呼吸と食」以外は絶対立入禁止の聖域なのです。いのち自身がいのちを育てている聖域なのです。その十月十日とつきとおかといわれる平均期間内で、人が人として再生します。このとき、圧縮し、凝縮された魂も同時に再生の道に入ります。

 その間、母が摂取する「呼吸と食」以外は立入禁止の、いのちの聖域である「子宮」の中で、引き継がれてきた魂のすべても、この世の夜明けを待って、新生児として誕生します。肉体の誕生は魂の誕生でもあります。

 子宮の中では、母がいただく大気の呼吸と食物の摂取によって、

 

いのちによる

いのちたらしめる

いのちのために

宇宙根源からの

生命エネルギーで

ごくごく自然に

肉体と精神の

一元一体の

いのちの姿になるために

その流れを続けます

 

 ひたすら母親は、呼吸の気を送り、生命元素の〝食〟を送り続けての生命奉仕です。十月十日とつきとおかは、立入厳禁聖域となる子宮の小宇宙世界であり、宇宙意志のカプセルでもあるのです。

 そして、機が満ちてこの世に出生した新生児は、やがて、一体のいのちとして、その骨格が完了するのは、男性でだいたい一八歳、女性で一五歳少々に達してのこと。骨の数は、新生児で約三〇〇本、最終的には全部で〝二〇六本〟になるといわれています。

 一生命体が完成するまでの原形は、十月十日とつきとおかの、子宮という小宇宙世界で、その基盤ができあがるわけです。母親の口から入った〝食〟が胃に入って、十二指腸に入り、小腸に入り、分子・原子次元まで分解された物が吸収細胞によって取り込まれ、全身に届けられます。そこでいのちの新陳代謝が起こり、生き生きと輝く命となります。そして、子宮の胎児が育ちます。

 胎児が出生するまでの、この完璧ないのちの組み立ての仕組みは、〝天のご意志〟というほかありません。

 こうして積み上げられてきた人間の魂は、成長とともに、この世のあらゆる心身環境を取り入れながら、扉を一つ、また一つと開いていくこととなるでしょう。

 いのちの監視の中にある魂は、億万年の心の集団です。魂に新旧はないと私は思っています。昔も今もありません。百年前も、万年前の魂も、すべて〝今〟に生き生きと輝くのです。多次元立体ではなく、一次元の、一面一体で同時再生の世界です。

 浮き上がる心の条件さえ整えば、昔も今も越えた次元の〝今〟に生きてくる世界なのです。魂は活火山と同じです。条件を待って噴き上がります。その条件は、今の心でお膳立てをしています。

 「今の思い」という心も亡き魂の心も、すべて、このいのちの中に在ります。いのちの〝原子〟となって生きているのです。

 大地を見てみれば、種を蒔いてもいないのに、いつの間にか思い思いに芽を吹き出した草木がずんずんと丈を伸ばして花を咲かせ、実をつけ、種を育てます。太陽や水などの自然の発芽環境条件を待ちつづけて、いのちに最もよい自然条件の下で顔を出してきているのです。生命波動の共振共鳴の現象です。

 たとえ、何もない荒れ地でも芽を出し始める草木たちの、そのいのちを、自分の中の魂にも重ね合わせてみることができるというものです。自分のいのちを、〝心の大地〟に見立てたとき、その心の大地から多くの魂の芽が、生きる条件を待ちながら、顔を出そうとしています。

 それを〝心のつる草〟にたとえるなら、各人の心の大地から育ち始めている心のつる草は、その人の「縁結びの使者」となって、人生に大きな力となって働き続けることになりましょう。

 この世界の人間のいるところ、どこにでも、心のつる草が縁結びの一大センサーとなって交錯している事実は、目には見えない光の世界です。

 心のつる草は光です。なぜ光なのかといえば、心は、生命組成である原子の反応から発する電磁波と考えるからです。

 心は、いのちという光の下でしか生きられない宿命を背負っています。それゆえにいのちは、一元一体二象体という現れ方をします。いのちは、元は一体のエネルギー体であって、その中では、物質体と精神体という二大特性を持つエネルギーが融合一体となって、動となり静となり、火となり水となり、中心には絶対静のゼロ磁場があると思うのです。その一体の中に二象体のエネルギーを容しているのが、私の考えるいのちの実体像なのです。その〝二象体〟は、物質体(物性=肉体)と、精神体(心性=心)という現れ方であり、その〝精神体〟の部分から発する二次的生命に当たるのが心であると考えています。いのちのエネルギーは、そのような実体像を持つ、宇宙絶対調和力(一大調和ご意志)であると思えば、心というのは常に、生命エネルギーの調和安定に引き戻される宿命の下でしか存在できないということになります。

 さて、いのちの大地に根差した心のつる草は、出会いを求めて飛びかっています。光の原子が〝意志〟を持った光のつる草となって、縁結びのセンサーとなって、時空なき天地を自在無限に往来を重ねている姿こそ、現実社会であるといえましょう。

 いのちの働きは〝ご意志〟の働きだと私は考えますが、そのご意志は、目に映るわけではありません。実際にどのようにして、そのご意志(いのち)が、縁結びのつる草となって飛び交っているのかといえば、人間社会の「表現媒体」にひびかせて、つまり、共振共鳴した共時性現象(通称=偶然の一致)として、現実として目に映して促しているのですが、多忙な現代人はこういったことにはあまり見向きもしないようです。

 魂が知らしめる「表現媒体」とは、人類文明の「三種の神器」だと私は考えています。それは、文字・数・色による、声なき声の現実の表現形態で、そこに真実が込められています。声なき声の魂は、目に見える表現形態に現実化して生きてきます。

 「いのち」を「ご意志」といいましたが、それは表現であって、現実の共時性現象下では、文字霊・数霊・色霊もじたま かずたま いろたまという媒体表現が、正しいでしょう。共時性現象(通称=偶然の一致)による現実の魂の意志表現は、文字霊・数霊・色霊によって、可視現実の表現となっているのが、これまでの体験を踏まえてわかってきたことです。

 魂の表現形態が、現実社会の中で実際に現象化していることは、共時性現象体験から考えても疑う余地がありません。それは事実です。

 かつては、「魂の叫びが聞こえないか…」などと先人たちから発破をかけられたものですが、まともに受け止めることはありませんでした。ところが、人生七七年も生きてきて、さらに二十数年も意識を内面世界に向けるようになってからは、次第に先人たちのいう〝魂の叫び〟が五感で感じられるようになってきました。魂の表現媒体としての「文字・数・色」のひびきによって、はっきりと理解範囲に入ってきたのです。

 偶然といわれる出会いの不思議や、縁結びの不思議は、単なる一過性の話として済まされてきたのではないでしょうか。

 一瞬の感動的出会いやご縁の結びは単なる表面的感動にとどまって、それ以上に結び付けるものではなかったのが、年を経てから過ぎた昔の追憶の話として、例えば、「あのときあのことがなかったら今頃私はどうなっていたんだろうか…」「あのときの一瞬の出会いでこうしてお前と一生暮らすことになるなんて…」「あのときあの人の一言で人生がらりと変わった。あれで目を覚ましたから今幸せなんだ…」などなど、人生転換にあれやこれやと心の方向性を変えてきた出会いの縁は、多くの人たちの経験知となっているものでしょう。

 それらはすべて偶然の出来事として見過ごされてきました。毎日の生活そのものが、何もかも出会いであり縁結びであり人生の方向性を秘めていたとは、なかなか気づかないものです。

 心に残る衝撃的な出会いだけが出会いのご縁ではありません。家を一歩も出なくても、私たちは多くの出会いの中に生きています。この世の情報がすべて出会いであり、縁結びのセンサーに触れているのです。本を読んで感動して人生の方向性が変わることだってあるでしょうし、テレビなどの視覚に訴えるビジュアルな情報からでも、心を大きく動かされることは結構多いものです。五感で受けるすべての物事が心のセンサーに触れるものであり、いわば、生活そのものが出会いの縁結びの場面であるといえます。

 人生に三度の転機があるとよくいわれますが、縁結びには、「役縁と本縁」があると私は考えています。電車に例えていえば、各駅停車が「役縁」であり、下車駅が「本縁」ということになりましょう。人工衛星の打ち上げならば、一段目、二段目、三段目の推進ロケットが〝役縁〟の働きで、切り離された衛星が〝本縁〟の働きに例えられます。

 人生のターニング・ポイントとなって、目の前の全景ががらりと変わるような出会いのご縁が本縁です。別世界に打ち上げられた衛星に当たるのが本縁で、電車なら、各駅停車で停まる短いスパンの出会いが役縁であり、下車駅が本縁であると考えたらよいと思うのです。

 私が体験した共時性現象の中でも、劇的な人生転機をもたらした現実の出会いがありました。まさしく、人生の〝本縁〟に向けての方向性を秘めていたものでした。

 ここで、そのときの一連の魂の動きとその流れを創作シナリオを組み入れて紹介することにしましょう。

 

 

 

第二章 魂を乗せた一羽の折鶴

 

 

 いろは姫は一介の主婦ですが、現実生活の中で、数字と文字の世界にアクセスしています。難しい学問世界はわかりませんが、ただ一つ、鉄の一心を持っています。数字と文字を心いただくことのある暮らしの中で、一切不動の鉄の一心を心がけています。そして、共時性現象を〝食心の目は共時の目〟という、次元ばなれした言葉で表しています。食こそいのちの根源であり、一旦口から入った食べ物は、人間の自我が立ち入ることのできないいのちの世界。それこそ、ご意志の世界、それをいろは姫は「五一四ごいし」の世界と書き換えています。「ご意志」と書けば、人間の自我が入る世界ですから、それを数字の「五一四」と表現することは、宇宙に通じる意志といえましょうか。

〝食なくてなんのおのれがこの世かな〟

 生き物は食べなくては生きていられません。あまりにも当然すぎる当然のことです。しかし、そこにこそタネ証しの謎があることに人はなかなか気づきません。知性で栄えて知性で滅びては、人間の特性は宝の持ち腐れになります。生きることの次元にこそ共時性現象(通称=偶然の一致)の謎解きがあったのです。

 いのちは原子です。原子は食です。食に発する原子です。生きることの原子が、全身の中で舞っているから今日も生きていけます。あまりにも当たり前のため、低次元として無視されているわけですが、そこにこそ共時性の目が光っていたわけです。

 つる姫は、ユングと天明を前にして、天の川のことを話し出しました。

つる姫「ユングさんと天明さんは

立場は違っていても

ともにいのちのルーツを求め、心のふる里を求めてきました

天の川には『天意の法則』がいくつもありまして

その中に
〝一呼一吸天の気

一食一排地の気

天地の気はいのちの食

食はいのちの呼吸なり〟

というものがあります

また、〝食心の目は共時の目〟というものもあります

どちらも、食はいのち、いのちは食ということになりますが

そこにこそ、宇宙調和のエネルギーの謎があるのです

そして、縁結びの中心エネルギーとなる

「共振共鳴共時の目」があったのです

「目」とは、そのものの中心と考えたらよいでしょう

ここで再び〝いのちの舞い〟を出しましょう

 

やまず
やすまず
とどまらず

とんでははねて

はねてはとんで

あっちへこっちへ
ランダムに

信号ないけど
赤・青・黄色

安心安全
原子の舞いは

いのちの喜び
大調和

いのちの原子
大調和

 

食からいただいた原子の世界は

私たちのいのちの中で

いつも引き寄せたり引き離したりして

枠を超えたら引き戻すゼロの力が働いたりして生きているわけです

共時性現象の本質はつまり

食心の目は共時の目

いのちと食は同義と解する

いろは姫の鉄の一心は

天の川の天意の法則にも当てはまっているのです」

と、ここまで話すとつる姫は

つる姫「ユングさんと天明さんに

面白い映像をお見せしましょう

これは、田之助といろは姫の話です

二人は天の川から舟に帆を立てて下ってきました

天の川から心の国へ流れている支流は数多くありますが

二人が乗った舟は

東北の山形県に流れている支流を下ってきたのです

天の川の分岐点には立て札が立っていて

「サイジョウノカワ」(最上の川)とあります

ところが、ちょうど山形県内に入ったところから急に川の呼び名が「モガミガワ」(最上川)となっているのです

二人は、どんどん下ってきて河口の酒田港に到着するのですが

その舟を見ますとまるで宝船のようです

舟一杯に稲穂が積まれていて帆には大きな文字で

「食心の目は共時の目」と書かれてあって

下段一面には聞き慣れない祝詞のりとが書いてあります

 

変われども、時代変われど、いのちの光

米は変わらぬ永遠とわかて

鶴千年亀万年、稲穂の実りは億万年

人類栄えの糧となる、米が光れば皆光る

おかげで今日も生かされる

ありがとう」

 つる姫の話はここで止まりました。宝船にはその祝詞文字が金文字で浮き立っていて、そればかりか、帆柱のてっぺんには長方形の旗が風にひらひら波打っています。その旗は、金色に彩られた〝米〟の写真でした。それを見た誰かが声を出しました。「あれはユングだ!」

 びっくりしてそれを見たユングが、

ユング「おお

よく似ているなあ」

と反応すると、こんどは天明が、

天明「本当にユングとそっくりだ

さらに神示のイチリンの仕組みの丸の中に点が入った記号にも似ている!」

ユングと天明は一段と共振共鳴していたのです。

 そこに、三心クルーのもじたまの皇子が話に入ってきて、

もじたまの皇子「さっき

声を出したのは私でした

宝船の旗は誰が見てもユングさんに似ているし

丸の中に点が入った記号にも似ているし神示の中心様みたいで
田之助はこの写真のことを

一粒観音様といって大事にしているようです」

と言い、宝船の旗について盛り上がりました。

 酒田港の埠頭は大勢の見物客で大変なにぎわいです。黄金の光を放つ珍しい舟。それは稲穂の光でした。

 米は人間の主食です。生きるためのいのちの機関車です。田之助は酒好きが高じて乱れとなり、いろは姫との葛藤が長い間続きましたが、ようやく生きることの原点に気づくことができて、いのちの真実を求めることになったのです。

 片やいろは姫は、田之助を鉄の一心で守り続ける中で、いのちの真実に気づきました。

 口から入った食物たちは、いのちの光に身を任せ、やがて原子の光に立ち返って、新たないのちの光へと生き変わります。そして、働き終えた食物たちは、外界へと帰っていきます。その一人ひとりのいのちの中で命が新たないのちを育て上げるまでの運びには、いかなる人知も、いかなる自我も立ち入ることができません。立入厳禁の〝聖域〟なのです。

 この聖域の旗印が、帆に書かれている

〝食心の目は共時の目〟という世界なのです。

 ユングと天明には、新たな驚きとひらめきが交差していました。そして口を開いたのはユングです。

ユング「つる姫様、

ありがとう

単純明快にいのちの中心には食がありました

毎日の食べ物が、いのちとなる次元こそ共時性発生の次元でした

ここにこそ心と物質が融合一体となり生命発生の謎がありました

食って生きる、こんな単純なところに

山ほどの理論を積み上げたことから解放されたような気分です

ありがとう」

と、ユングの目は輝いています。そこに天明も続いて、

天明「つる姫様、

ありがとう

神示の一点が解けてまいりました

食が新たないのちとなる次元いのちの中心・ゼロ一点の次元が

イチリンの仕組みの「丸の中に点が入った記号」でありました

ここにこそ鉄の一心・食心の世界・共時の世界を見ることができました

扉開きはゼロの目、食の目、共時の目を開くことでした

いのちの真実に目覚めることこそ岩戸開き、そして心の扉開きでありました

ありがとう」

と、二人は、つる姫にその思いを伝えたのでした。

 ユングにも、天明にも、地上社会でのプライドはすべて消えてなくなっていました。

 何もかもが単純明快であり、時間も空間もありません。さらに、すべてが一面一体で新旧もありません。現実には立体に見える物質世界ですが、それを成す精神構造は、極めてシンプルな一面一体の世界と考えられます。岩盤のような魂も、バラバラに分解されて、やがては「真性魂」しんせいたましいの意志基盤に合流します。真性魂とは、宇宙絶対調和エネルギーを、意志性に変換して考え出した表現です。

〝何事も想いが先のこの世かな〟

 地上社会で積み上げた心は次々と魂の集団となり、これが、真性魂に似て非なる「擬似魂」なのですが、その一人ひとりの擬似魂ぎじたましいが、その人の心の遺伝子となり、やがて心の国に入ると、いのちの意志エネルギーに同化されるようになっていきます。生命エネルギーの魂の玉は、丸く削られ、透明な玉となっていくのです。

 つる姫からピックアップされた田之助といろは姫も、宝船に食心の旗を揚げて、魂の玉磨きが続いていきます。

ユング「つる姫様

宝船のご夫妻にじかに話をしたいのですがどうしたらよいでしょうか」

つる姫「ナビ大王、

ユングさんを東北の酒田まで案内してくれませんか」

 ナビ大王は大喜びで、モニター・システムも使わずに、いのち舟を宝船の港へと直行させました。

 ユングが田之助たちと何を話したいのか。つる姫はじめナビ大王はもちろんのこと、三心クルー一同、そして天明も、どきどきしながらの行程となりました。

 

(後略)

 

 

 

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