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神秘の大樹だいじゅシリーズ第一巻
神秘の大樹
  偶然が消える時

神秘の大樹シリーズ第一巻「偶然が消える時」装丁

 

 

 

呼び寄せた北前船

 

 昭和六三(一九八八)年は、日本が世界に誇る二大プロジェクトを成し遂げた年であった。国を挙げての祝賀ムードに包まれたのは、近代技術の粋を結集した土木工事である。

 一つは、本州と北海道を結ぶ青函トンネルで、世界最長の(当時)海底鉄道トンネルは、全長五三・八五キロメートル。昭和三六(一九六一)年三月二三日に着工以来、苦節二七年の歳月をかけた。完成したのは三月一三日。

 今一つは、本州と四国を結ぶ瀬戸大橋線(JR本四備讃線)全長三一キロメートル。開通したのは四月一〇日。

 ともに、月を並べて完成されたのである。そして、月日は流れ、時代の流れは、過去を振り向かせない勢いで変遷してゆく。数日が過ぎ、さらに数日が過ぎてゆく。どんな出来事であっても、人びとの心の中に長くは留まらず、その新鮮さはいつしか薄れてゆく。そんな昭和六三年六月二五日のこと、ふと心をよぎった旅のいざない。

「海底トンネルで函館に行こうか! JRの特安のEEきっぷがあるらしいぞ」

と私は妻に誘いをかけた。妻も旅好きであるから二つ返事で同調する。

 気まぐれといえば気まぐれであり、たんに海底トンネルの、それも世界一長いという、それ以上の思いは何一つなかった。そうと決めたら話はとんとん拍子で進み、特急列車を乗りつないでの出発の当日である。

 青森駅へ近づくにつれ、どこからともなしに湧き上がるいのちの熱気。歓喜と好奇心、また、深い海底を止めどもなく続く長距離、一抹の不安さえも踊りだす。落ち着かない興奮と喜び、早く地上に飛び出してくれないかと祈りさえ渦巻く。一瞬、目の前が、光の海に輝いたとき、ああ、無事でよかったというひそかな思いさえ残る。

 ただ海底を渡るだけの直感的な旅の流れで訪ねた函館駅。降り立ってからの予定は何一つある訳でもないから、折り返しの電車時間まで二~三時間散策できる目ぼしいところを駅の案内で尋ねてみた。すると近くに資料館があるという。願ってもないことであった。箱館高田屋嘉兵衛資料館といい、北前船で名を馳せた淡路出身の廻船業者で、日本海は、酒田、松前の航路を開き、のちに、幕府の御用船頭になった人物とのことだ。ここに来て初めて、私を旅にいざなった奥の何かが浮き上がってきた。

 ただ青函トンネルの渡りめというつもりだったのであるが、この資料館に入ってすぐ目に飛び込んできた、賑やかなのぼりに太く大きく書き込まれていた北前船のそれぞれの名前がずしっと胸を打った。一つの点であった出発の動機が、次々と感動の〝点〟となって連なり、この幟の名前を見ることで「一本の縁の線」となった。

 ここは、私が暮らす酒田からは四〇〇~五〇〇キロも遠く離れている地である。点から点へ、そして一本の線となる。実は、一点一点が、俗にいうところの偶然の一致という現象ととらえることがもっとも重要なところであって、その一点一点の先には本命といえる不可視の真意があった訳である。

 北前船の幟七~八本に書かれていた船の名前は次のようである。

「淳木丸」、「淳悦丸」、「淳繁丸」、「富繁丸」

ところで、私たち親子の名前は

私が「茂」、妻が「富美子」、長男が「淳」

なのである。どうみても船の名前と親子の名が激しく共振共鳴するし、文字一字に集約されつつ、それは、待っていたかのように時を同じくしたのであった。いや、待っていたのである、と断定してもいいと思っている。それは、そろいもそろって、

茂=繁、富、淳

というひびきで待っていたといっていい。

 ちなみに、淳木丸の呼び名は〝浮き丸〟というそうだ。沈まない船という、いかにも、海の男の祈りに充ちた、心打つ言葉である。

 ここを出るとき、記念の記帳ノートに、酒田市と書き込んだ。それを、じいっと目で追っていた女子職員が

「あら! 私も酒田の孫です」

と言い出した。その言葉がこの身を突き抜けた。ここ函館に来ては、女子職員も私たちも同郷といってもいい。実に身近に思う一瞬の命の火花である。

 この同郷の話はこの後、青森駅に降り立ってから再び開花することになった。その日、酒田に戻れる電車はないのでこの地に一泊することにして駅員に泊まる宿を尋ねてみた。それがまた

「私も酒田の孫です」

と、先ほどの資料館の女子職員と同じことを言う。両親が、本町生まれであるというから、こちらとは目と鼻の先なのである。

 一度は耳にしたことのある言葉に「世間は狭い」という言葉があるが、この世の縁の糸は、見事に交叉こうさ混合して、繋がりあっていることが次第にわかってくる。

 

 

 

 

 

 

スズメの贈り物

 

 それは、昭和六二(一九八七)年の秋のことだった。妻は、日枝神社に参拝の帰り道、怪我のためなのかどうか、飛ぶことも、動くことさえもままならない一羽のスズメと出会った。両の手のひらの中に包むようにして持ち帰り、

「お父さん…供養してやって下さい」

と、哀れみの声で言いながら私に渡した。スズメはすでに息遣いもなく、その温もりはしだいに消えて、いのちは絶えてしまった。

 どうしたらいいものか…と考え、庭の柿の木の下に埋葬することにした。五〇センチほどの穴を掘り、底には、スズメの大好きな稲穂を敷布団にして休ませることにした。にわか坊主となり、般若心経を唱え、天地自然の中に還るようにと祈った。

 そんなことのあった年の暮れ、例年にも増して、柿は豊かに実り、爺さんがその柿を干し柿に加工してくれた。黒々と立派な干し柿となり、その干し柿を見たとき、次の年の干支を思い出した。「来年は辰年であるから、干し柿で龍の文字を描いて祝うことにしよう」と考え、発泡スチロールの箱の蓋に干し柿を一個一個並べて龍の文字を描いてみると、干し柿の数は四二個であった。四二を逆さに読めば二四となるから、それを音で読んでみれば「不死」とひびくではないか…。

 四二→二四=ふし=不死

 柿の木の下に穴を掘って稲穂の布団に休めたスズメは、柿の身に同化して、爺さんの手を借りて、太陽と風のいのちに守られながら干し柿になった。干し柿はさらに新年の十二支である辰=龍となって新年を祝う。

 思えば、一つの出来事には、このような一連の流れがひびきあっていると思えてならないし、しくも、床の間の干し柿の龍を撮影してみると壁には上り龍の姿が映っているではないか…。これを見たとき、これはきっとスズメの「吉祥の舞」にちがいないと直感した。

 昭和六三(一九八八)年の新年は、スズメの吉祥の舞で明けることになり、さらに、この年の秋になってから再びスズメの結ぶ吉祥の舞が出現することになった。

 一〇月一日、午前三時三五分頃、私は、軽い霊視感でハッとした。俗にいう、霊言(内なる声)とか、霊視とかいわれるものではないのか。それは、「二一、八八〇円」という内なる声、さらに「傷」という文字を砂上に書いている自分。その姿を見ている自分…。

 これらのことは、一見意味不明で何ともいいがたいが私にはピンとくるものがあった。二一、八八〇円を言い替えてみると「ニイハチヤエン」(円=縁)となる。

 さらに、この言葉を「新しい蜂や(幼い蜂)」と解釈してみた。つぎに「傷という砂上の文字」のことも、連続性の中でピンときた。それは「傷ついた新しい蜂(幼い蜂)」というメッセージではないかと意味付けをしてみることができる。

 さて、その日の昼時のことである。玄関先に出てみると、一匹の大きな体の蜂が砂の上を歩いている。この地は、深い深い砂壌土さじょうどの地盤になっている。蜂は、色も新鮮で瑞々しさいっぱいで、それも、飛ばずに歩いている。まだ幼いスズメ蜂とすぐにわかったが、近づいても逃げようともしない。しばらく観察していて、あれ、この蜂は左羽を「傷めている」ではないか。これでは、鳥に見つかればひとたまりもないし、また蟻にでも攻撃されればなすすべもなく命を落とすことになる。それでなくても、自力でエサなどはとても捕れやしない。私は、硝子コップを持ち出して、その中に入れて家の中に持ち込んだ。

 早朝の霊言霊視のことが気になって放置することができなかった。〝砂上の傷ついた幼い蜂〟の予告は的中したことになる。今は、何よりもスズメ蜂を元気づけて外に放すことを考えた。

 まずエサを与えなくてはならない。蜂蜜ならきっと喜ぶにちがいない。そこで思い出したのが、今年の九月二九日、知人の入院先でいただいたブドウ飴のことである。そのぶどう飴を爪楊枝にたぐって外に出た。そして、柿の木の下で蜂を放したが飛び立てない。左の羽が縮んだままで、それを引きずるようにして静かに歩きだした。じいっと見ていたが、蜂はぴたりと停止して身動き一つしなくなった。どうしたことかと前を見ると、蜂の前には、見事に網状になった、真っ赤な太陽そっくりのホオズキが立っていた。静まり返った柿の木の下のホオズキの太陽は、奇しくも、昨年の秋、スズメを埋葬してあったその場所であったのだ。どうも、この話の意志性がしだいに浮き上がってきたようだ。

 

昭和六二年のスズメの埋葬と稲穂のこと…
砂上に傷の文字のこと…
スズメとスズメ蜂のこと…
ホオズキの太陽のこと…

 

 これらの連続性の出来事に思いを寄せていたこの時、私は、自分が自分でない不思議な感覚に立っていた。

 ふっと我に返り、足元にじいっとしているスズメ蜂を木片に乗せると、手にしていた爪楊枝のブドウ飴をそっと口元に持ってゆき指を放した。その直後かれはとっさに食いついた。前足で爪楊枝の棒を必死に押さえ込みながら息もつかずに呑み込んでゆく。あっというまにブドウ飴の玉は小さくなっていった。

 この情景を見ていた私に新鮮な生命感の火がついた。

「食こそいのちなのだ!」

ということを…。生命のスタートラインは、蜂もわれわれも「食うこと」で一線に並んでいる「いのち」なのだと思ったとき、なぜかこの世は、明るくなるではないか。

 スズメ蜂の食事に邪魔立てせず私は家にもどり、一度寝る前に柿の木の下に行ってみたが、スズメ蜂はどこにも見当たらず、そこには、彼の温もりを残すかのように、一本の爪楊枝が残されてあった。

 スズメ君! スズメ蜂君! ホオズキの太陽よありがとう。

 

 

 

 

 

 

数霊は心のシグナル

 

 現代医学の治療には、物理的療法や、カウンセリング(精神医学)など包括的に、また、広範囲な面からその治療体制は整えられている。だがそれでもなお、いのちの本質的な世界、奥深い意志性の発現には届かぬことが多いだろう。また、そこまで進展させなくてもいいのかもしれない。

 奥深い意志性、すなわち、潜在されて表にはなかなか浮上してこない心の世界には、通常、係われる問題ではないが、現実には長期にわたり意識が戻らぬという病人は決して少なくもない。しかし、意識不明であっても、奥深い魂の世界は、生き生きと輝いているのは事実だ。

 我々のいのちの中身は、すべて物申す霊体であるし、自分などという存在は、何といっても「今」しかない訳で、今という時間刻みは、一刻も停止することはできない。心臓の不眠不休と同じで、今を停止することは不可能だ。「人生は時間刻みの回り舞台だ」そして、過ぎし思いは魂(心=意識)となって、心の倉庫に倉積みされてゆく。

 いわば、その心の倉の入り口に立っているのが、今の自分と考えればいい。ところが、心の倉の入り口には扉は無く、いつも開かれているから、入り口に立っている今という自分は、つねに心の倉の「光と闇の風」に吹きさらされていることになる。その魂の圧力下におかれている今の自分は、いわば、自分であって自分に非ず、万物普遍に通じる心の倉の番人のようなものだ。

 だから、無意識下にある病人たちは、いわば「心の倉の番人役不在」(自己不在)ということもできる。扉のない心の倉から湧き上がる魂の交通整理もままならず、自由に魂が出入りすることができる世界を思うとき、無意識下にある病人たちの心の倉と心の結びをするには、こちらもまた、無の世界に立ってその通じ合いをしなくてはならない。

 時に、当時の妻は心の倉(魂)にその心結びができる境地にあった。これも一つの縁で、遠距離にあった知人の入院先へ望まれるままに何度か見舞いに出かけていた。

 昭和六三(一九八八)年一〇月二一日のこと、先方の奥様から、入院中の夫の様子がおかしいという連絡が入った。もちろん主治医の指示によって治療は続けているものの、なにしろ、病の夫は、すでに、二七年間にわたり寝たきりという難病であり、家族の思いを伝えることは不可能に近く、ひたすら看病一筋の難行苦行の道のりであった。奥様の言うには、「シャックリが止まらない」「熱が三九度もある」「さらに痙攣が続いている」といった、普段にはみられない症状なので心配でならないから会ってみて下さいという。夫は、何かを伝えたかったのかもしれない。翌一〇月二二日に駆けつけてみた。酒田市からは、所要二時間近い道のりにある町の総合病院である。

 昨日までは、二人部屋の二〇二号室だったが、今日からは二階の「一六号室」(二一六号室)に移ったという。病状の重篤から一人部屋に移ったのかもしれない。

 病室に入った妻は、彼の耳元で、語りかけるように一言一言、静かにあいさつの話しかけをしていた。彼の表情からは、微かな反応を感じられた。顔はいくぶん腫れ気味で、肌は透き通っていた。仏教でいう浄土の世界感とはこうした雰囲気なのかもしれない。奥深く輝きつづける魂のひびきは、まさしく、時を超え、空間を超えた、時空の干渉を受けない自在無碍むげの世界であろうか。

 しばし、時の流れを過ごして病室を出たのは夕刻のこと、帰路は心にもなく、車のスピードをあげて走り続けること四、五〇分の頃、晩秋の日暮れは早く、ライトを照らし、ある町外れにさしかかった時、前方で半円に振られる赤い灯にハッとした。「取締だ…」と気づきメーターに目をやったら針は六〇キロ位になっていた。停止すると首をかがめた警察官が

「速度違反です」

と、宣告してきた。ここは四〇キロ制限で、五六キロで走行していたという。「一六」キロオーバーになっていたのである。反則切符を切られているとき、そばにいた妻が

「お父さん、病院の部屋は何号室でした?」

と聞いてきた。

「あれは二階の一六号室だったよ」

と言ってから、私は全身から昇り上がってくる霊気を感じた。一六キロオーバーと二階の「一六号室」(二一六号室)との共振共鳴なのだ。

 この時、私は、魂は奥深くで生き生きと輝いているのだと実感した。たとえ意識がなくとも、この現実の自分という霊体の中に同化して何かを語りかけている。すなわち、魂は生きているということなのだ。

 この世全てが、たまたまの偶然の流れだという、一過性の現象は何一つないであろうと実感させられた。

 一六号室の病室名で、自分の魂(霊体=心)を数字(数霊)で象徴化する。そして、「わたしだよ」、また、「ありがとう」とか、そういう何らかのメッセージを発信させて、魂不滅を感じてもらう。

 数字のひびきに魂を乗せて、天地自在に「思えば通わすいのち綱」となって働き続けている意識の世界。

 数字を媒体にして、数字をシグナルにして、語りかけている無意識の世界。

 数のひびきで、生き生き輝き、語りかけているのである。

 

 

 

 

 

 

いざなうコスモスの花

 

 昭和六三(一九八八)年一〇月二七日午後一時、二〇キロ先まで商品配達のため出かけることになった。妻も一緒に行きたいと言って、慌ただしく着替えをして出てきた。いつもと様子がガラリと違っているのに驚いた。

 ズボンは、コスモスと思える花柄模様でびっしりだし、シャツといえば、これまた小さな花の図柄でぎっしり織られている。いかにもコマンド兵を思わせる迷彩色に見えて、少々辟易気味になったが黙過して出発した。

 一五キロ程度走った頃から川の堤防を走ることになった。眼下には、キラキラ輝きながら滔々とうとうと流れる最上川が目に入り、広大な風景に心ひかれたかと思ったら、今度は、路肩一面が花畑に変わり、そのあまりの美しさに運転も忘れがちになるほどであった。

 そこには、コスモスの花が、赤・白・ピンクなど多彩な色合いで咲き誇り、花の屏風は延々と続いていた。

 咲き揃う花園を見た妻は、感動のあまり身を乗り出して

「ここだ!」

と、我を忘れて叫んだ。それが何であるか私には分かった。コスモスの花と衣服の花柄は互いに共振共鳴し、妻の魂の中から燃え上ったのである。

 ただちに車を止め、妻はコスモスの花畑に分け入った。風で揺らぐ一面の花が、無言の喜びを分かち合っているかのように感じられた。妻は、花の精気に包まれて、子供のように心うきうき感動したのである。

 コスモスの花といえば、いかにも秋を締めくくる錦絵となって道行く人々の心を安らげてくれる風景である。

 どうしてこのような現象が起こるのであろうか。一口で、透視的共時現象ともいえそうだが、「透視」という神秘用語に私は馴染めないのである。

 花というコスモスの心性波動と、妻の心がなぜ融合したのか、二〇キロ先の遠隔の地で、どうして待ち合わせをしたのであろうか、その謎解きは、あくまでも妻自身の意識状態の位置にあると思える。

 植物の心性波動に心の位置を置かなくては、コスモス群と、そのエネルギーの共振共鳴はできないであろう。植物の心性エネルギーと同調する意識とは、と考えたとき、はっと気づかされる妻の言動があった。

「私には機械はいらないんです…」

 さらにまた、「米の心で生きているから…」などとさりげなく言っていたことがある。いわば、植物の心性波動と同調できる意識にあるといえる。

 ここで、いのちというものを端的に考えたとき、まず宇宙生命があって、その中に地球生命がある。その地球生命の体温の中で密接に生きている植物生命がある。植物は大地に根を下ろし、地球生命の情報を微細にキャッチし、また地上では、枝や葉や幹によって宇宙生命の情報をこれまた微細にわたってキャッチしている唯一の生物であろう。

 いのちの最前線といえばこの植物たちであるし、他の動物たちは、大地から離れていてひたすら植物を食うことで生命を繋ぐ生物といえる。生命界の情報量において動物は植物には到底及ぶものではないし、ましてや、知性を最大の武器とする人間は、自然界の生命エネルギー情報のキャッチにおいてきわめて退化傾向にあるのではないか。そのことは、自然力、そして、自然智という感覚から次第に遠のくことを意味する。

 人知の独走だけでは、バランスに狂いが生じやすい。余計なことかもしれないが、人知に乗って自然智を外れずといったところである。

 偶然の一致と思われている共時性現象は、生命の最前線ともいえる植物が、人間のいのちに転換する次元で多発する現象と考えている。

 私は、人間なら植物である食物(米を中心にした五穀・野菜など)が口から入って胃で燃えて小腸で人のいのちに転換される最前線を、〝生命エネルギー転換次元〟と考えている。いわゆる原子エネルギー次元と考えるし、意志性波動をもつ次元と考えているのである。この霊的次元が万物普遍の情報源であると思っている。コスモスの花から発せられた色彩の心性エネルギーは、妻の境地の次元と共振共鳴していたのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

三重にひびく文字・数・色

 

何か動けば何かが動く…

誰か動けば誰かが動く…

左に回せば右に回り…

右に回せば左に回る歯車同志…

高気圧・低気圧・気象リズムの仲の良さ…

作用あれば反作用あり…

 

 こうした相対性の働きは、いのちの本質(宇宙絶対調和力)に根差す生命世界(この世)の普遍力だと私なりに認識をしている。まさしくこの世はひびき合いの世界なのだ。

 ビリヤードのような玉突き現象にも似て、そして、永久的で決して止まることなく、一方に偏在させることもなく、一極に支配させることもなく、この世は右へ左へと蛇行の流れであっても、決して中心から外れて一方向偏重の世界になることは無い。

 悪も善もまとめて中心に戻す働きこそが、生命の本質であると考えている。この世は原子のひびき合いなのだ。

 また、私たちが生きていくうえでの食物の元素こそが生命原子エネルギーといえるし、食によってこそ存在できる我々こそ原子のひびき合いに支配されている身の上でもある。そして、錯綜混沌としていても生命の軸を失うことは決してあり得ない。いのちある限り、十字に結んだ中心軸を失うことはない。

 このような生命感を私にかき立てたのは、次の共振共鳴の現実を見たときのことである。

 それは、昭和六三(一九八八)年一一月一七日午後のこと。この日妻は、そわそわしながら着替えをしていた。着替えを終えて見ればみどり色の上着であった。ちょうどその頃、関東にいるT君から電話が入った。勤務先の〝みどり美容院〟の中に〝二匹のカニ〟が迷い込んできたというのだ。カニは川や海にいるものなのだが、ここがどこなのか、あるいはみづくろいでもしたいというのか、こともあろうに二匹のカニがかさこそとやってきた。かたや妻はみどり色の上着に着替えていた折のこと、四〇〇キロも離れた関東の、みどり美容院にカニが二匹店の中に入ってきたという奇怪な話だ。

 T君は、何か変わったことがあると電話をかけてよこすが、この日の場合はそれだけでは終わらなかった。その翌日のこと、市内のA子が一枚の「絵」を持って訪ねてきた。その絵というのは、小学生の弟が描いたという二匹のカニの絵である。それは前日に描いたものだった。弟がよく絵を描いていて、とくに魚やカニなどの絵が好きであったから、A子は、私にもカニの絵を描いてくれないかと、何げなしに頼んだら〝二匹のカニの絵〟を描いてくれたので届けたくなったというのだ。その絵を見るとなかなかの楽しい絵で可愛らしいものであった。そんな具合で

 

みどり色の上着姿の妻…

T君とみどり美容院と二匹のカニ…

A子と二匹のカニの絵…

 

という、天から降ったか地から湧いたか、三人三様の行動が、単一の点と点が線となり、三重に結び合うことになった。

「みどりという色」「カニという文字(象形)」「二匹という数」、すなわち文字・数・色という表現手段は、人間社会には無くてはならない不可欠の三種の神器である。

 この三種の神器の文字・数・色は、個人個人から発する心の波(心波エネルギー)に乗って、同時に時空を超えて受信者の心をノックする。それは、テレビ・ラジオ・電信などのごとくに、受信者の心の扉をひらき、心の映像スクリーンに映し出す。心の扉は直感智の扉だ。そして、文字や数や色などに転換するものと考えられる。

 ある人がある人に何かを伝えたいと思うことは、相手の、心のチャンネルが開かれている限り、即時即刻リアルタイムで、夢心地に、直感智となって閃きが惹起じゃっきされる。

 この世は、錯綜混沌とする電波・磁波・霊波の世界であるが、極微サイクルの差で、日常生活には混乱を招くことも無く生きていることになる。これが、何もかもオールチャンネルであれば、いのちがいくらあっても足りることはないパニックの連続だ。

 おかげで万人の心のサイクルチャンネルは、ごく微妙にそのズレがあればこそ、難無くこの世を生きてゆくことができるという図式になる。一人一人のいのちは尊いものだ。

 

 

 

 

       

 

 

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