生命現象の根源

体と心の相関性

根源から観る体と心の相関性

 

概要

 

体質が変われば、それにともなって自然に心の質が一変するかといえば、そういう機械的な関係ではありません。そもそも体質は気質と同じく先天的特徴だとすると、それが変わること(変質や転換)がありうるのかという疑問は若干あります。たとえば、食生活を一変させた結果、体質転換を想像させる体の大きな変化を経験する場合です。それは、体質の現れである健康状態の改善であり、体質転換ではないという見方もできるのではないかと、みずからの経験を振り返って感じています。

 

では、食習慣を変えることで起きる健康状態の向上や改善は、心に影響すると言えるでしょうか。これに対しては、体質改善が心に変化をもたらすというより、意識の改善なくして体質の改善はないと感じます。何をどう食べるかは、食物と体とに対する認識の仕方や態度の問題と切り離せないので、それに応じて、健康状態の向上や、体質改善の可能性が開けるという見方が適当ではないかとおもいます。

 

心のもち方ひとつで体の反応は変わるというのも、経験的に多くの人が実感していることです。これは、いま述べた点と共通していますが、それを理由に、食は大した問題ではないと考えるのは問題があります。心のありようがすべてだという思想は、体と食の軽視であり偏った精神論です。また、体や食物が心をつくるという考え方も、ある意味では短絡的であり、当人の意志を考慮していないとすれば偏見と言わねばなりません。体も心もそれぞれが「いのち」という本質の投影だとすれば、「いのち」の視点に立ち返って見直す必要があるとおもいます。

 

たとえば、生死に関係なく人間が「モノ」ではないことはだれもが納得しますが、食物も「いのち」であって「モノ」ではないという自明の理に対しては、概して非常に鈍感です。ひとのいのちは食の「いのち」なしに成立しません。それほど重要な食の本質(いのち)を軽視・無視することは決して些細な問題ではなく、心と体の真の健康と調和という人間の本質的な願いに逆行・矛盾する致命的な問題と言えます。

 

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詳細

 

参考図書からの抜粋

  1. 『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』
  2. 『酒乱‐米の生命が生きるまで』
  3. ほかの視点
  4. 出典・引用図書
  5. ほかの主題

 

 

 

『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』「第一章 心のつる草」の一部

抜粋はここから。心のつる草は光です。なぜ光なのかといえば、心は、生命組成である原子の反応から発する電磁波と考えるからです。心は、いのちという光の下でしか生きられない宿命を背負っています。それゆえにいのちは、一元一体二象体という現れ方をします。いのちは、元は一体のエネルギー体であって、その中では、物質体と精神体という二大特性を持つエネルギーが融合一体となって、動となり静となり、火となり水となり、中心には絶対静のゼロ磁場があると思うのです。その一体の中に二象体のエネルギーを容しているのが、私の考えるいのちの実体像なのです。その〝二象体〟は、物質体(物性=肉体)と、精神体(心性=心)という現れ方であり、その〝精神体〟の部分から発する二次的生命に当たるのが心であると考えています。いのちのエネルギーは、そのような実体像を持つ、宇宙絶対調和力(一大調和ご意志)であると思えば、心というのは常に、生命エネルギーの調和安定に引き戻される宿命の下でしか存在できないということになります。以上、抜粋はここまで。

 

 

第一章 心のつる草

(中略)

「日々の心」 四八二

 
母はわが子を宿した
そして
その子に母は宿る
母はわが子を生んだ
そして
その子の中に
自分をも産み落とした
そして
その子の中で生きる
母と父
その子の外にいる元の
母と父
そして
その子の中にも
生きている母と父
どちらも〝本物〟だ
そして
元の母と父は死んだ
そして
その子の中で育つ
母と父
永遠に繰り返される
母と子
子は母となり
子を宿し母となり
子の中に生きる
死に変わり生き変わりて
続く魂
自分の中は魂の博物館

 

 「日々の心」四八三

 
母の子宮の中では
いのちがいのちを
いのちたらしめるための
十月十日とつきとおか
新しいいのちの再生世界
そこは母の〝呼吸と食〟以外は
立入禁止の聖域
また、いのちの道は一本道
口から入った食が
いのちを
いのちたらしめるための一本道
食はいのちで
食以外は立入禁止
一呼一吸天の気
一食一排地の気
天地の気はいのちの食
食はいのちの呼吸なり

 

 万物の霊長といわれる人間ですが、次元を生きる原点に引き戻して考えるとき、果たしてどうでしょうか。もしもこの大自然界に放り出されたときのことを想像するだけで、何もかもギブ・アップすることばかりです。

 人間が優れているのは〝知性〟という特性があればこそです。そして、優れているのは、単に人間社会でのことにすぎないのだと気づきます。

 単身で空を飛ぶことはできないし、オリンピックのどんな競技の一流選手でも、猿やチーターや象やライオンやイルカたちに太刀打ちできないのは先刻承知のことです。裸一貫では成すすべもありません。優劣ではなく、その種が持つ〝特性〟という、いのちの平等に立たなくては比較などできようがありません。優劣は人間社会でのことであり、他の生き物が人間より、すべてにおいて劣るという見方は、白紙に戻さなくてはなりません。

 人間は、いろいろとものを考え、何かをつくり上げるという創造力にかけてはものすごい能力を発揮しますが、これを、万物の霊長というより、人間に与えられた一大特性と考えてみたいものです。

 特性である〝知性〟の活躍で、人間はとてつもなく広大な文化圏をつくり出しましたが、その、量的資産と同様に〝心の資産〟をも積み上げてきました。この心の資産を「魂」と呼んでみたとき、人間の魂は、私なりに考えれば、人間の遺伝子(DNA)とイコールに近いのではないかと思うのです。

 人類の心と行動のすべてが、一つ一つの細胞に組み込まれている遺伝子そのものの、大部分を形成しているのではないでしょうか。これについてはもちろん、人類という種に到達するまでの、果てしない生物の精神体である「心性」のルーツに遡らなければなりませんが、人類になってからに絞って考えてみるならば、人間が人間であるための、心と体の生きざまの記憶量が「遺伝子化」したのではないかと考えてしまうのです。

 ナンセンスも甚だしいとそしりを免れないでしょうが、今は、ヒトゲノムが解明されている時代です。遺伝子の数は約2万といわれ、その中で、確かに意味が解明されている遺伝子は全体の2%以下に過ぎず、大部分は何のためにあるのかさえわからないというではないですか。もしかするとそれこそ〝魂のDNA〟なのではないか、これは、ずぶの素人だからおそれもなく考えつくことかもしれません。

 いずれにしても、人の心の記憶蓄積量は、他の生物たちと比べたら、とんでもなく膨大な量になると思うのです。

 一人ひとりのいのちの中は、魂の巨大なダムになっています。その魂が、いのちの光の柱に絡み付くようにして生き続けています。

 いのちの道は一本道です。大調和の光を放つ一本道です。そのいのちの一本道の光の中で、人間の魂は正しい調和安定の波動に見据えられ、かつ、監視・コントロールされているのです。

 「日々の心 四八三」で記したように、母の子宮の中は、母の「呼吸と食」以外は絶対立入禁止の聖域なのです。いのち自身がいのちを育てている聖域なのです。その十月十日とつきとおかといわれる平均期間内で、人が人として再生します。このとき、圧縮し、凝縮された魂も同時に再生の道に入ります。

 その間、母が摂取する「呼吸と食」以外は立入禁止の、いのちの聖域である「子宮」の中で、引き継がれてきた魂のすべても、この世の夜明けを待って、新生児として誕生します。肉体の誕生は魂の誕生でもあります。

 子宮の中では、母がいただく大気の呼吸と食物の摂取によって、


いのちによる
いのちたらしめる
いのちのために
宇宙根源からの
生命エネルギーで
ごくごく自然に
肉体と精神の
一元一体の
いのちの姿になるために
その流れを続けます

 

 ひたすら母親は、呼吸の気を送り、生命元素の〝食〟を送り続けての生命奉仕です。十月十日とつきとおかは、立入厳禁聖域となる子宮の小宇宙世界であり、宇宙意志のカプセルでもあるのです。

 そして、機が満ちてこの世に出生した新生児は、やがて、一体のいのちとして、その骨格が完了するのは、男性でだいたい一八歳、女性で一五歳少々に達してのこと。骨の数は、新生児で約三〇〇本、最終的には全部で〝二〇六本〟になるといわれています。
 一生命体が完成するまでの原形は、十月十日とつきとおかの、子宮という小宇宙世界で、その基盤ができあがるわけです。母親の口から入った〝食〟が胃に入って、十二指腸に入り、小腸に入り、分子・原子次元まで分解された物が吸収細胞によって取り込まれ、全身に届けられます。そこでいのちの新陳代謝が起こり、生き生きと輝く命となります。そして、子宮の胎児が育ちます。

 胎児が出生するまでの、この完璧ないのちの組み立ての仕組みは、〝天のご意志〟というほかありません。

 こうして積み上げられてきた人間の魂は、成長とともに、この世のあらゆる心身環境を取り入れながら、扉を一つ、また一つと開いていくこととなるでしょう。

 いのちの監視の中にある魂は、億万年の心の集団です。魂に新旧はないと私は思っています。昔も今もありません。百年前も、万年前の魂も、すべて〝今〟に生き生きと輝くのです。多次元立体ではなく、一次元の、一面一体で同時再生の世界です。

 浮き上がる心の条件さえ整えば、昔も今も越えた次元の〝今〟に生きてくる世界なのです。魂は活火山と同じです。条件を待って噴き上がります。その条件は、今の心でお膳立てをしています。

 「今の思い」という心も亡き魂の心も、すべて、このいのちの中に在ります。いのちの〝原子〟となって生きているのです。

 大地を見てみれば、種を蒔いてもいないのに、いつの間にか思い思いに芽を吹き出した草木がずんずんと丈を伸ばして花を咲かせ、実をつけ、種を育てます。太陽や水などの自然の発芽環境条件を待ちつづけて、いのちに最もよい自然条件の下で顔を出してきているのです。生命波動の共振共鳴の現象です。

 たとえ、何もない荒れ地でも芽を出し始める草木たちの、そのいのちを、自分の中の魂にも重ね合わせてみることができるというものです。自分のいのちを、〝心の大地〟に見立てたとき、その心の大地から多くの魂の芽が、生きる条件を待ちながら、顔を出そうとしています。

 それを〝心のつる草〟にたとえるなら、各人の心の大地から育ち始めている心のつる草は、その人の「縁結びの使者」となって、人生に大きな力となって働き続けることになりましょう。

 この世界の人間のいるところ、どこにでも、心のつる草が縁結びの一大センサーとなって交錯している事実は、目には見えない光の世界です。

 心のつる草は光です。なぜ光なのかといえば、心は、生命組成である原子の反応から発する電磁波と考えるからです。

 心は、いのちという光の下でしか生きられない宿命を背負っています。それゆえにいのちは、一元一体二象体という現れ方をします。いのちは、元は一体のエネルギー体であって、その中では、物質体と精神体という二大特性を持つエネルギーが融合一体となって、動となり静となり、火となり水となり、中心には絶対静のゼロ磁場があると思うのです。その一体の中に二象体のエネルギーを容しているのが、私の考えるいのちの実体像なのです。その〝二象体〟は、物質体(物性=肉体)と、精神体(心性=心)という現れ方であり、その〝精神体〟の部分から発する二次的生命に当たるのが心であると考えています。いのちのエネルギーは、そのような実体像を持つ、宇宙絶対調和力(一大調和ご意志)であると思えば、心というのは常に、生命エネルギーの調和安定に引き戻される宿命の下でしか存在できないということになります。

 さて、いのちの大地に根差した心のつる草は、出会いを求めて飛びかっています。光の原子が〝意志〟を持った光のつる草となって、縁結びのセンサーとなって、時空なき天地を自在無限に往来を重ねている姿こそ、現実社会であるといえましょう。

 いのちの働きは〝ご意志〟の働きだと私は考えますが、そのご意志は、目に映るわけではありません。実際にどのようにして、そのご意志(いのち)が、縁結びのつる草となって飛び交っているのかといえば、人間社会の「表現媒体」にひびかせて、つまり、共振共鳴した共時性現象(通称=偶然の一致)として、現実として目に映して促しているのですが、多忙な現代人はこういったことにはあまり見向きもしないようです。

 魂が知らしめる「表現媒体」とは、人類文明の「三種の神器」だと私は考えています。それは、文字・数・色による、声なき声の現実の表現形態で、そこに真実が込められています。声なき声の魂は、目に見える表現形態に現実化して生きてきます。

 「いのち」を「ご意志」といいましたが、それは表現であって、現実の共時性現象下では、文字霊・数霊・色霊もじたま かずたま いろたまという媒体表現が、正しいでしょう。共時性現象(通称=偶然の一致)による現実の魂の意志表現は、文字霊・数霊・色霊によって、可視現実の表現となっているのが、これまでの体験を踏まえてわかってきたことです。

 魂の表現形態が、現実社会の中で実際に現象化していることは、共時性現象体験から考えても疑う余地がありません。それは事実です。

 かつては、「魂の叫びが聞こえないか…」などと先人たちから発破をかけられたものですが、まともに受け止めることはありませんでした。ところが、人生七七年も生きてきて、さらに二十数年も意識を内面世界に向けるようになってからは、次第に先人たちのいう〝魂の叫び〟が五感で感じられるようになってきました。魂の表現媒体としての「文字・数・色」のひびきによって、はっきりと理解範囲に入ってきたのです。

 偶然といわれる出会いの不思議や、縁結びの不思議は、単なる一過性の話として済まされてきたのではないでしょうか。

 一瞬の感動的出会いやご縁の結びは単なる表面的感動にとどまって、それ以上に結び付けるものではなかったのが、年を経てから過ぎた昔の追憶の話として、例えば、「あのときあのことがなかったら今頃私はどうなっていたんだろうか…」「あのときの一瞬の出会いでこうしてお前と一生暮らすことになるなんて…」「あのときあの人の一言で人生がらりと変わった。あれで目を覚ましたから今幸せなんだ…」などなど、人生転換にあれやこれやと心の方向性を変えてきた出会いの縁は、多くの人たちの経験知となっているものでしょう。

 それらはすべて偶然の出来事として見過ごされてきました。毎日の生活そのものが、何もかも出会いであり縁結びであり人生の方向性を秘めていたとは、なかなか気づかないものです。

 心に残る衝撃的な出会いだけが出会いのご縁ではありません。家を一歩も出なくても、私たちは多くの出会いの中に生きています。この世の情報がすべて出会いであり、縁結びのセンサーに触れているのです。本を読んで感動して人生の方向性が変わることだってあるでしょうし、テレビなどの視覚に訴えるビジュアルな情報からでも、心を大きく動かされることは結構多いものです。五感で受けるすべての物事が心のセンサーに触れるものであり、いわば、生活そのものが出会いの縁結びの場面であるといえます。

 人生に三度の転機があるとよくいわれますが、縁結びには、「役縁と本縁」があると私は考えています。電車に例えていえば、各駅停車が「役縁」であり、下車駅が「本縁」ということになりましょう。人工衛星の打ち上げならば、一段目、二段目、三段目の推進ロケットが〝役縁〟の働きで、切り離された衛星が〝本縁〟の働きに例えられます。

 人生のターニング・ポイントとなって、目の前の全景ががらりと変わるような出会いのご縁が本縁です。別世界に打ち上げられた衛星に当たるのが本縁で、電車なら、各駅停車で停まる短いスパンの出会いが役縁であり、下車駅が本縁であると考えたらよいと思うのです。

 私が体験した共時性現象の中でも、劇的な人生転機をもたらした現実の出会いがありました。まさしく、人生の〝本縁〟に向けての方向性を秘めていたものでした。

『酒乱‐米の生命が生きるまで』 「米は、いのちの光」の一部

抜粋はここから。私たちが毎日当然のごとく食べている米や野菜などに、宇宙意識の大調和エネルギー(響き)を感じながら、安定した心で生きたいものだ。大調和のエネルギー(米、野菜など)を食べていたとしても、不調和な心(片寄りの心)を持って生きるなら、病気にもなるだろうし、不幸を招くのも当然である。私の酒乱地獄はその典型であった。言い換えれば、一連の不幸性は、人間となった米、野菜たちの生命の叫びと言える。抜粋はここまで。

 

 

米は、いのちの光(全文)

 この現実社会にあって、一時、出家の道を真剣に考えたことがあったが、今は、あくまでも、精神性を土台として、現実凝視をして生きることを決心した。

 以前は、現実至上主義で金満家が夢であったが、そこには、大きな落とし穴のあることを知った。ブレーキのない、物質金満の世界には、見せかけの幸せが待っていて、先へ先へと走り、先を見るあまり、どうしても、足元を見失ってしまう人生である。生きる本当の喜びは、なんであるのかを見失っている人がたくさんいる。
 金で、生命いのちが保証されるのだと、錯覚するような人生は、消えていく虹の橋を渡る、虚飾の人生であることがわかった。

 そして、子孫に強欲の因縁、酒乱の因縁、色情、倣慢の因縁を残さず、その他、多くの不幸因縁を、残さぬような人生を生きようと、生きる価値観を変えることができた。

 以前の私は、浪曲『森の石松』ではないが、

「飲みねェー、飲みねェー、酒飲みねェー。喰いねェー、喰いねェー、寿司喰いねェー。……エッ……肝腎な人を忘れちゃ、おりゃせんかッ……」
と、石松ならぬ、大事な大事な生命いのち様を忘れていたのだった。
 生命は、生命でも、酒乱の唄枕に酔いれていた悪魔の生命ではない。ピッカピッカの生命様だったのである。


激しき宇宙の 波動はすぎて
ポッカリ浮かんだ いのち星
太古の昔の いのち花
海にいのちの 花ひらき
大地にいのちの 花ひらき
空に大気の 花ひらき
天に輝く 太陽が
ニッコリ笑って 花ひらき
お待ちいたした 人間様よ
ながき世の道 人の道
いのちの天子に 育つ世に
向けて花咲け いのち花

 

生命いのちとはなんぞやッ〟と尋ねても、生命は答えてくれない。だが、一人一人に感じられる生命の響きは必ずある。生命には、声も言葉もないが、絶対なる〝安定調和エネルギーを秘めた意識波動(生命の響き)〟が存在する。

 そして、人間以外の全存在は、自然界の調和エネルギー波動と生命同化して生きている。だが人間は、心のエネルギーを異常なまでに進化させてしまったため、千変万化する自分の心に振りまわされるようになった。

 この人間独自の心(擬似魂)は、生命から送られる安定調和の意識波動(真性魂)をさえぎり、魂の光を曇らせてきた。

 人は誰しも〝心は人間の特権〟であると思い、人間以外のものには、心の存在など容易に認めてはくれない。

 そこで、今、誰かに「あなたはどうして生きておられると思いますか」と尋ねてみたとすると、どう答えてくれるだろうか。おそらく「食べているから生きています」と言うだろう。確かに人間は、食物を食べると血となり、肉となり、さらに心を発生して、毎日を生きてゆける。

 ところが、人間以前の食物生命に、心があるかと聞かれたら、ほとんどの人は、「ノー」というだろう。米や大根、魚や果物に、(意識)があるなんてとんでもないことで、気持が悪い……と言うだろう。

 ところが妻は、この人間以前の、人間を生かし続ける食物の生命、自然界の生命に、心(意識の響き)があることを言い続けてきた。それは、妻の生命の中に、沈黙世界の声が、生きて結ばれるようになったからにほかならない。

 素直に考えれば、「人間を造り上げた食物たちは、人間ができうる可能性の根本要素(物質的、精神的)を、すべて持っている」と思うし、だから、心というものは、人間だけの特権ではなく、人間のような心にはなれなくとも、人間の心の元となる心(調和の意識波動)が、食物一切の生命にもあるといえる。

 さらに、生命界には、〝食物の心の元となる心(宇宙意識)〟があって、その心の元とは、神とも、宇宙心霊とも呼ぶことができる。だから、生きとし生きる生命体の中心を貫く生命は、万物共通だと言ってもおかしくない。
 いわゆる、万物は、宇宙意識を共有している同志ということになり、私はそのことを〝魂の平等〟と思うようになった。だから一心に、〝心を浄め澄ませれば、万物に心が通じる〟ことができると言える。心の元(宇宙意識)は、人間的煩悩心とは無縁の心であり、これこそ人間の心の羅針盤としたいものだ。したがって、食物をはじめ、自然界の一切は、〝生かし続ける愛の師となる心(調和心)〟で溢れている。
 この汚れなき、ピッカピッカの生命いのちに目覚める時、人は必ず己の愚かさに気づいてゆくはずである。

 私たちが毎日当然のごとく食べている米や野菜などに、宇宙意識の大調和エネルギー(響き)を感じながら、安定した心で生きたいものだ。

 大調和のエネルギー(米、野菜など)を食べていたとしても、不調和な心(片寄りの心)を持って生きるなら、病気にもなるだろうし、不幸を招くのも当然である。私の酒乱地獄はその典型であった。
 言い換えれば、一連の不幸性は、人間となった米、野菜たちの生命の叫びと言える。

 それでは、次に、人間の生命の光となる稲穂の喜びを、妻の心いただきの一節から紹介したいと思う。


カエルの声 はげましを
稲の心は はぐくみあう
緑すがたの 成長期

カッコウの声 勇ましく
育成のありがたさ
愛は稔り

朝日に開く 稲の花
セミの声聞く 夏のあい

青空に 祭り太鼓の音聞くも
心ごころの 稔り待つとき

秋のみのり 黄金の稲穂よ
小鳥の声に 喜びの揺れ

一粒のいのちにかけた花の木を
恵みの愛が 守る神

土の心 水のいのち 守りあれ
稲の心と 人生の開花

 

 米は人類究極の食糧となるであろうし、また、純日本風の食事こそ自然性にかなった、最も調和のとれた生命の救済となるのではないかと思っている。
 このうたは、昭和六十二年十二月六日、妻が映画鑑賞中に暗闇の中、手探りで綴ったものである。『牧野村物語―一〇〇〇年刻みの日時計(山形県蔵王)」という、米作りに生命を賭けた映画であった。

 

米のうた

 

㈠ もみをぬがれて 白い肌

水でとがれて 丸裸
釜に入れられ スイッチオン
今日も輝く ダイヤの光
感謝せよとは 言わぬけど
米の尊さ 今一度

㈡ んで呑まれる このわたし

じっくり思う 胃の中で
今からわたしは 人間に
なって生きるを 誰が知る
知ってくれとは 言わぬけど
米の尊さ 今一度

㈢ りに煉られる 胃の中で

次は全身 いのち旅
隅の隅まで 血となりて
肉となりゆく 流れ旅
わかってくれとは 言わぬけど
米の尊さ 今一度

㈣ 五体になった 米いのち

正しく生きろと 叫ぶけど
人の心は 破れ耳
米のわたしを 閉じこめて
飲めや歌えの 浮世花
米の心は 誰が知る

㈤ いのちの親から いただいた

〝米〟という字の 素晴らしさ

いのちの真実 生きている

〟と〝〟の文字〝〟の文字

プラス()マイナス( )調和のいのち

〟の文字 〝〟の字 〝〟の文字

八字であかす米の愛

㈥ 米のわたしを 知るならば

人の不幸は ありませぬ
宇宙天地の 調和の愛を
背負って生きる 大使命
人の心に生きるまで
人を愛して きないわたし
人の心に生きるまで
人を愛して 尽きないいのち

 

 米は食物の先頭に立って、心をさとし、調和の愛を使命として人間を生かし続けている。そして、人類の果ての果てまでも、人を造り、人を守って、運命を共にする。
 米は、正しく神の申し子であり、〝生命いのちの光〟である。

出典・参考図書

▼閲覧と図書館検索

書籍『神秘の大樹 第二巻 ヒロシマとつる姫』の詳細・閲覧ページにリンクしています

神秘の大樹 Ⅱ
ヒロシマとつる姫

菅原茂/おりづる書房/2011年

本の総合情報

 

平成5年8月6日の広島平和公園で出合った一羽の折鶴は、「倉敷市玉島」と印刷された広告で折られていた。その地名は「日月神示」で知られる岡本天明氏の出生地。縁結びのしくみを、「心のつる草」など比喩を用いた物語を織り交ぜて表現している。

 

 

▼閲覧と図書館検索

書籍『死んでも生きているいのちのあかし』の詳細・閲覧ページにリンクしています

死んでも生きている
いのちの証し

菅原茂/たま出版/1997年

本の総合情報

 

共時性現象の体験記録をもとに、生命の本質は不滅だと伝えている。 酒乱人生から夫婦二人三脚で新たな人生を再出発させた著者。自らの足元を照らすかのような共時性現象の記録を随想としてまとめている。また、本の表紙を飾る稲穂はこの著書の本質を象徴している。

 

 


▼図書館検索

書籍『全体性と内蔵秩序』を図書館検索サイト「カーリル」で検索します

全体性と内蔵秩序

デヴィッド・ボーム著、
井上忠・伊藤笏康・佐野正博訳/青土社/1986年

『WHOLENESS AND THE IMPLICATE ORDER』(1980年) の邦訳版。科学は物質を微細に分け入り、その「構成」粒子を発見してきた。一般に私たちは、それが物を形作っている最小単位だろうという見方をしがちだが、分析して見える粒子は、ある文脈によって「全体」から顕現した一時的な抽象物であって、そもそも宇宙は分割できない一つの「流動的な全体」だという。専門の物理学(量子力学)をもとに論じるこの世界像は、あらゆる物事を部分化・断片化する見方に慣れてしまった私たちに、重要な示唆を与えている。

ほかの主題

共時性とは何か

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時空や生死を超え、人種や生物種も超えて、いのちには境界がない証し

 

因果性とは何か

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「因果性」の実際は、それほど単純ではなく、もっと複雑。科学的な「法則」は、限定的な条件のもとでのみ有効だ。

 

偶然にひそむ因果

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因果性がないというより、今の科学の尺度では説明できない、と言うべきではないのか。

 


共時性の真価

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平成5年8月6日、広島平和公園で偶然発見された一羽の折鶴。共時性の真の価値は、生命現象そのものではなく、それが生命の真実を示していることだ。

 

サイトの概要

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サイトの趣旨、本の紹介・説明、なぜ今これらの本を推すのか。サイトマップ他