生命現象の根源

体と心の相関性

天地自然の調和性と人間

 

概要

 

人間は、さまざまな感情や欲望によって、心の調和が乱れたり、不安定になったりすることが多いものです。この心の性質は、人類の知性が発達しているからこその宿命と言えるかもしれません。では、ほかの生きものはどういう「いのち」なのでしょうか。

 

『いのちの証し』の表紙画像以下に挙げるいくつかの文は、すべて『死んでも生きているいのちの証し』(菅原茂著、たま出版)からの抜粋です。

 

動物は大地から分離して生きているから植物のような訳には到らず、ましてや、知性の高い人間は、生命情報感ではキリ(低)に属することになる。おのずから五感で感ずる外的心の情報にたよりがちとなり、(後略)(p.254)

 

生命界の情報量において、動物界は、植物には到底及ぶものではないと思うし、ましてや知性を最大の武器とする人間は、自然界の生命エネルギー情報キャッチにおいて極めて退化傾向にあるのではないか。そのことは、自然力、自然智という感覚から次第に遠のくことを意味する。(p.47) 

 

いっぽう植物は、

 

大地に根を下し、地球生命の体温の中で親の心(地球の心性波動)をしっかり受け取り、自然のリズムにそって共に生きる。(p.254)

 

また、地上では、枝や葉や幹によって宇宙生命の情報を微細にわたってキャッチしている唯一の生物であろう。(中略)いのちの最前線といえばこの植物達である…(後略)(p.47)

 

知性の発達とともに「自然智」から遠ざかる傾向が強い人類は、自然界の食物を食べることで、いのちを調和の方向へと絶えず修正する必要があるのです。食の目的として、「満足感や満腹感を得ること」「栄養の補給」「体内浄化」など、ひとそれぞれに挙げられるとおもいますが、毎日食べ物を摂取する重要な意義は、いのちの自己調和にあると言ってさしつかえありません。

 

では、その「天地自然の普遍力」を何から得るかが問題になるわけですが、「〝食性〟によって生命情報は、ピンからキリまであり、例えば、菜食系の人、穀菜食系の人、肉食系の人では、その普遍力に満ちた生命情報に大きな差が生ずる」(p.254)と同著書において著者は述べています。 

  

食物の中でその生命情報力の高いものとしてはやはり五穀であろう。その中心をなす〝米〟が人間食の究極となろう。稲は、水性植物といえるほど水を好み、根も深く、半年間もじっくりと天地の生命力を吸収し、蓄えを実らせてくれる。 (中略)一粒の米には、天地自然の普遍力が宿っている。(p.254〜255)

 

もちろん、望ましい食生活をしていれば、万事安心というわけではありません。前に述べたように、いのちは物質的であると同時に霊的なものでもあるからです。じぶんの心の習性や癖を直視し、それを正す自覚、強い意志をもたないかぎり、いつまでたっても心の中で、相反するエネルギーや波長のギャップに葛藤し続けなければならないと言っていいとおもいます。

 

それならば、結局食物の力ではなく、強い意志の力がすべてではないかと思うかもしれませんが、どうもそうではないようなのです。わたし自身ずっと実感したいとおもい続けてきたことなのですが、こめ中心の「穀菜食」にしたからといって、それだけで心が穏やかに安定するわけではありません。意志の強さはとてつもなく重要です。しかし、毎日の食がじぶんのいのち全体の方向性や質と無関係ではないことも、疑う余地がない事実です。

 

食物の調和エネルギーとは、意識下にある、いわば表層の心を、部分的・表面的に調和・安定させる力ではなく、無意識次元からいのち全体を、自然界と同じ調和性へと導く根源的な力です。このため、本質的・根本的な調和へと向かう過程で、体も心も「一種の〝苦〟」をともないます。

 

 この〝いのちの調和作用〟によって起る現象を、〝調和現象〟と考えている。調和現象の特徴は、その、いのちの中心に引き戻される時発生する一種の〝苦〟がある。それは、ゼロ志向のため起るものと考えている。これに対し、共振共鳴の共時現象は、相似融合作用であるから、それは、エネルギーの増幅志向にあるため、一種の〝快〟を発生させることになる。(p.225)

 

 

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参考図書からの抜粋
目次

  1. 『死んでも生きている‐いのちの証し』
  2. 『酒乱‐米の生命が生きるまで』
  3. 『いのちのふる里』
  4. 『富士山と雲と神様』
  5. 『いのちのエッセーと詩歌集』
  6. ほかの視点
  7. 引用・参考図書
  8. 関連する主題

 

 

母子心中を超越した〝妻の一念〟

出典『酒乱‐米の生命が生きるまで』p.76〜82

  かつて、品行方正と言われた自分はどこへやら、

「酒飲みの血統だからやめろッ。やめなさいッ。もっと、しっかりした家から決めるもんだッ。そんな家からは、やめろッ」

と、妻は何人もから言われた、とのことである。そしてさらに、私の母も、

「相性が合わねさげ、やめなさい」

という話も、していたという。

 現実は、影の見えない世界を、如実に描写してくる。

 因縁を解消することなく、この世を去った父の影には、その魔力が濃い影を引いていた。人間の悪習慣が、強烈な性格となって暗躍し出すのだ。しからば、悪習慣を消滅しなくてはならない。子孫の誰かが、きっと、必ず消滅しなくてはならなくなるだろう。そうでなくては、その因縁の根は、繁殖の限りを尽すことになるのではないか。

「悪は善を喰って生きる」と思うようになって久しい自分は、当時、精神性の屁理屈ほど嫌なものはなく、悪性因子への罪悪感は、からきし持っていなかった。

 喜びの酒しか知らないで生きてきた、妻一家は、天から血の雨でも降ってきたという思いではなかったか。

 暗室の写真道具一式は証拠品として押収され、そして、一人一人裏付け尋問を受けた。あれよあれよの中で、新聞・ラジオで一斉報道され、あわただしい年の瀬に向かって、急転直下、一家は地獄絵巻となった。

 外は日を追って冬のきざしが強く、白銀世界はもうじきだ。冬になれば、窓を開放することも数えるくらいとなる。酒乱のきばは、平安な生活を正確に破壊してゆく。そして、酒乱の歩いた後は、砂漠の荒廃だった。この殺伐とした砂漠を、二十八年間も歩き続ける旅の幕開けである。

 このことを境にして、私は農協の職場を去ったのだったが、それまでの間にも、小刻みにして、空恐ろしい、内輪うちわの騒ぎを起こし続けていた。出刃包丁を振り回したりなど、度重なる乱行は、この時点で、すでに父の酒乱を二回り、三回りもしのいでいたのだった。

「酒さえ飲まねば……酒さえ飲まねば…‥」と当時、職場からも、周囲の人からも、同情とも、あるいは、ある種の期待感さえ持たれていたことも事実だった。そうした、厚意あふれる周囲の温情のお蔭で、赦免されてきた。

 だが、このあたりで妻は、一度か二度、母子心中のことを考えていたようである。闇の中、鉄道線路を足探りで歩いたこともあった。望みない人生であるなら、いっそ一思いに死んでしまおう……と、思い詰めた日々が過ぎてゆく。

 だが、こうした一区切りの悪行においても、心の底から詫びることのない神経がくやしい。どうしたというのか。生命いのちの底から絞るような、罪悪感が湧いてこないのはなぜだッ。深く魂を傷つけた根源は、父の代からか、その先の代なのかと思う時、一日一日の心の大切さが、激しく押し上げられてくる。

 酒の上でのこと……と、世間はとても寛大であるのは、大多数の人々が、なにかしらのアルコール分を愛飲しているからだろう。明日は我が身、といえる人たちも決して少なくはない。心の軟弱さをつけ狙われた人たちは、いつしか酒に飲まれ、酒に振り回されて、〝心〟不在の暴挙と化していく。罪の意識が薄れ、思慮分別の消えてしまったアルコール性精神病へと変質していく。あたかも、尾翼のない飛行機と同じで、後は、墜落を待つだけの人間となるから悲劇だ。全身麻酔であるから、爪跡を見ては、

「これは俺のやったことかッ、まさかッ……おらあーちっともわからねいェー」

と、他人ごとのように心が化けてしまう。罪悪感には決して通じない、霊界次元の話となるのだから恐ろしい。

 その後、妻は、

「この人が立ち直ってくれるまで、決して死んでなるものか」
と、母子心中の思いをひるがえして、夫を更生させることへの一念に、賭けるようになっていた。

 世間から見れば、こうしたことは生地獄だ。この生地獄の中から、神の心を見出した妻だった。
 因果の波動は、音もなく、生命いのちの糸を手繰たぐり寄せる。妻は、縁の厳しさを知りながら、自分の人生に希望を失いながらも、夫の痛ましい姿に己を忘れ、無私の真心で守護を貫いてくれた。

⬇︎

天の啓示に生きる妻

 断酒数年前のこと、妻は、ある声なき声を聞くことがあったという。

 酒乱の断末魔が、響きをあげて近づく頃のこと。酒乱のやり口には身ぶるいするほどの恐怖を感じながらも、その中にあって、夫の狼藉ろうぜきにもいつしか感謝の気持を持てるようになっていた。

「お父さんのお蔭で、沈黙世界から、その心をいただけるようになりました。お父さん、本当にありがとうございます。」

と、どれほどに恐ろしい難儀だったことか。言うが早いか、顔をしばたたせながら、泣き出してしまっていた。

 ある日のこと、刃物を振り上げている夫のため、家へ入ることもできず、たった一人の妹に助けを求めて駆け出して行ったが、巻き添えが恐ろしくて、家に寄せて休めさせてくれなかったようだ。あまりの酒乱の恐ろしさのため、そこの小屋にさえも、休ませてもらえなかった妻の憐れさ。
 寒気が身をつんざく酷寒の夜。天を仰いで、無心の生命いのちの中から、

「どんな苦しい思いも、どんな辛い思いも、感謝にかえたまえ」

と、心の奥深く刻んだ妻への伝言。

 それを区切りに、妻は一心に、夫のいかなる乱行にも、ただ一念に頭を下げ、どんな苦しい思いも、どんな辛い思いも、すべて感謝に変えていくことに徹した日々を過ごすようになった。
 この感謝に徹する日々こそ、神に生命を捧げ尽し切って得た、心開きの難行苦行であった。

 ついに、妻の生命には、自然界の生命の愛が全開することになる。

 ある日のこと、妻はこんなことを話すのであった。

「お父さんが悪いのではありません。米の生命がわかるまでの教えなのです。すべての食べ物、人参一本、大根一本、魚、なんでも、みな尊い人間を生かし続ける生命の元です。
 人間以前のこの生命たちの、尊く、汚れない食物たちから、生命の声が聞こえます。食物たちの生命は、それぞれ違う者たち同士ですが、人間のように争うことはいたしません。
 口から入った、いろいろな食物の生命は、一糸乱れず、人の生命いのちを守り続けます。

 そうして、一本道の人の体を通り、ふたたび、自然界へと戻っていく生命たち。

 その代表である米の生命は、酒となり、神々にも捧げられます。透明で、汚れない姿となって神に供えられるのです。

 その、米の生命を見て、悟って、お父さんの心も、米のように、汚れない心となるまでのお役目でした。

 私は、このことを教えていただき、お父さんに、本当に感謝しなければいけないのです。ありがとうございました。」

 私は、この奇想天外な話に面喰らうばかりで、感謝しないといけないのは、こっちのほうなのに、尋常ならざる超越世界を垣間見た思いだった。

 息詰まるような酒乱の歳月の中で、妻のその辛い苦しい地獄から救う神のわざであったと考えている。どんな過酷な試練をも、感謝、喜びに変えて生きていく、恐るべき神の智恵が授かったとしか言いようがない。

 米の生命がわかるまで、そして、その米の生命が生きるまでの酒乱劇。これは、永々百年に及ぶ、母と妻の二代にわたる女神のような守りであった。『酒乱‐米の生命が生きるまで』について↓)

 

 

食い改めて百歲長寿

出典『いのちのふる里』p.32〜33

  稲作の歴史はわかっているだけでも、今から七千年以上も前に遡るという。七千年前には稲作文化が花開いていた、という中国〝河姆渡遺跡〟博物館長の話もある。

〝人間と米は一心同体の命の花

米は人なり…人は米なり…〟

と、少し気張った感じがあるけど、御飯党員(?)の私は朝昼晚〝玄米党員〟でもある。

 五榖の中心である米は、人類救済の救世主だ。救世主、即ち〝メシア〟とはご飯こそ、〝メシア〟(飯やぁ)である。

 悔い改めるとは〝食い改めよ〟の米のことをまず生きる原点から考え直したい。

 いのちには自然治癒力という中心作用があって、常に安定を保つような生理調節機能が働いている。それが順調に働くために、また、生命機能を妨害しないためにも、自分自身の、心と体の浄化に気を配っている。

 いのちは、天の気(呼吸)と、地の気(食)の反復継続によって保存される。地の気は即ち米たち五穀や野菜等の生命エネルギーを吸収して五体生命を保ち、今日のいのちを生かされる。当たり前のことだが、普段は心がとどかない。

 この地球上には何千万種の生物が存在するといわれるが、その生命維持エネルギー源としての食物摂取には、見えざる厳然とした掟のようなものがあるといっていい。いわゆる食物連鎖と呼ばれているものであり、手当たり次第殺し合って、何でも食べるということは出来ないであろう。全ての生物が平等に存在するためには、その「種」に与えられた天与の食物が定められていて当然だ。食い物の争いは命懸けで、食糧問題は戦争にまで発展するではないか。医学者であり、文化勲章受章者でもある〝二木謙三〟先生は、次のように述べられている。

「今日の医学は、完全正食を無視した医学である。完全正食とは、蚕に桑の葉、鶴にドジョウ、鷹に雀、猫に鼠、虎に兎、日本人には玄米菜食で、それでこそ天地は生成化育で、人は自然順応で、天地に矛盾なく、人生に病無く、人は無病、無苦、無痛、安楽な死をとげることができるのである」と。

 先生は、著書『健康への道』のプロローグに記している。昭和一七年に書かれた本であるが、「日本人には玄米菜食を」ということに、今こそじっくり耳を傾け、真剣に取り上げたい時代ではないのか。

 国家医療費が三〇兆円(平成一〇年度)ともいわれ、内、一〇兆円位が老人医療費に呑み込まれているという実情は、それだけ、老人の生きざまの悪化を示しているようでならない。

 これからは、食生活を「食い改めて」、健康な心と体で人生を過ごしたいものだ。そのことは、取りも直さず

いのちのふる里に振り返り
生きる原点に振り返り
都市的、商工業的
情報的偏重から振り返り
いのちのふる里〝農業〟を
見つめ直す思いやりが
大切なことだ

農の心は天地の心
天地の心は人の道
だと、しみじみ思うのである。

『いのちのふる里』について↓)

 

 

第十二話 細胞からの三つの願い

出典『富士山と雲と神様』p.75〜82

 私は細胞 微生物
一〇〇兆個の 微生物
私の願いは 三つある
きれいな水と 簡素な食事
そして一つは 調和の心
三つの願いを 聞いてくれ
私は細胞 微生物
一〇〇兆個の 微生物
どうかよろしく 願います

 

 私は私であって私ではない。そんな思いにさせたのは、二枚の写真からであります。富士山と神田川、そして富士山と芝川の写真です。それは単に山と川なのではなく、自然の循環を思い、それに自分のいのちの循環を重ね合わせることができるからです。

 重ね合わせができた時、すべては何の違和感もなく一体になります。何一つかけ離れたものはありません。すべてが、巡りの中で結び合っております。

 それらは自分の外の世界の話ですが、ひるがえって自分の中の世界を顧みてみれば、人体の一つひとつ、その完成度には神意を感ぜずにはいられません。生命の最小単位といわれる細胞は、あらゆる生命機能を備えていて、人体は一〇〇兆個ほどの細胞で構成されているといわれています。その細胞もまた、三〇〇種類近くにも分かれており、人体の各部位・器官を構成しています。細胞一つひとつに聞いてみれば、どこまでが自分であってどこまでが自分ではないのか、さっぱりわからないという感覚なのかもしれません。細胞をさらに細かく、分子→原子→素粒子へと掘り下げてゆくと、その行き着く所は、神であり、神のご意志の次元に入るのではないでしょうか。

 それはさておき。私は私であって私ではない、と感じている私は、一〇〇兆個の細胞の塊であります。

 その細胞たちから私は、「三つの願い」を託されました。それはきれいな水と、簡素な食事そして調和の心の三つであります。

 細胞からのこの三つの願いは、一〇〇兆個の細胞が元気で生き活き活躍できるための必死の願いです。生命の最小単位である細胞は、元気で生きてゆくために私(本人)に向けてこれらの願いが叶うよう、いつも一心にアピールしているのであります。

 

一、「きれいな水」

ここは富士山 富士宮
汚れを知らぬ 神田川
源流いずくと たずぬれば
浅間大社の 庭に湧く
湧玉池が ここにあり

 

 富士宮は清流に恵まれており、神田川、芝川、稲子川、潤井川、そして日本三大急流の一つ富士川が清流を供給しつづけております。「細胞の願い」の〝きれいな水〟に充分応えております。

 

二、「簡素な食事」

一呼一吸 天の気
一食一排 地の気
天地の気は いのちの食
食はいのちの呼吸なり

 

 生きてゆくための必須条件は、食事であります。毎日欠かすことのできない生命を維持する行為であります。入口(食べる口)は一つ、出口(尿と便の出口)が二つの一本道の中で、一〇〇兆個の細胞は、毎日運ばれてくる食物を待っております。

 食はいのちの呼吸であり、生死に直結する行為であります。

 三つの願いの一つ目、〝きれいな水〟は、血流を順調に運び、体のすみずみまで食事を届けてくれる流れでございます。その流れを汚さないためにも、簡素でバランスの良い食事を細胞のいのちたちは望んでいます。

 そのための食事の基本モデルとは、「一日二食」「玄米・みそ汁・納豆・お茶を摂ること」であります(以下の四点は、あくまでも筆者の基本モデルです。体調、嗜好などの個人差は多様でありますから、参考例となれば幸いです)。

■玄米

 二人の一食分として、うるち米一合に水三合を加え、柔かめに炊き上げます。

■味噌汁

 だしと具だくさんの味噌汁です。だしは食べるイリコなど、具は根菜、葉菜、海草など。

■納豆

 黒大豆納豆が好ましい。プラスαでキムチなどの発酵食を混ぜてもよいでしょう。

■お茶

 ほうじ茶、煎茶、抹茶、玄神(ブラックジンガー)など。細胞一つ一つは、最小単位の生命体です。直接本人のいのちを守る最前線で働いています。細胞が活き活きとして新陳代謝が活発であることはすなわち、本人も活き活きしていることと同義なのです。

 

三、「調和の心」

私は細胞 微生物
一〇〇兆個の 微生物
私の願いを 聞いてくれ
どうかよろしく 願います

 

 調和の心とは、何にも片寄らない心です。何かに夢中になることは時によいことでしょう。ですが、それが自らの全てとなり執着となって、排他的になることには、一線を超える危うさがあります。

 寛容度の高い、ひろい心は、細胞に過度の負担をかけません。調和不偏は、いのちに適った心といえましょう。こうした片寄らない心には、共にユーモアの心、遊びの心を忘れぬことも大切です。

 車のハンドルには一八度の遊びがあるといわれます。それは〝間をとる生き方〟にも通じます。偏りのない心で、ユーモアや遊びの感覚を持つことは、細胞に大変有益に働くことでありましょう。

 以上が、細胞からの三つの願いであります。『富士山と雲と神様』について↓)

 

 

いのちの不思議

出典『いのちのエッセーと詩歌集』p.135〜137

  時代の変遷にはついていけないことさえある。変化の激しさは異常とさえ思うこともある。とりわけ、科学技術の進歩は、目の前を仮装行列が通り過ぎている感さえあるのだ。何となく、進化というより変化に見えてくる感じにもなる。

 人の世はとても賑やかで喜怒哀楽に富んでいる。それでいいのだが、この頃ふと真剣にこんなことを考えたりもした。というのは、人のいのちのことだが、このいのちというものは、実に、したたかな一面とひ弱な一面の両面を持つものだと思うし、このいのち、実は、人間の時代変化と共にその内部構造が少しづつ変わっているような気がする。

 したたかな一面もあれば、電撃一発ダウンするひ弱な一面が日常のこととして情報にのってくるのだ。よく耳にし、目にすることってあるではないか。

 九死に一生という死線を脱する考えられないような出来事ってある。かと思うと、キノコ一個を食ってもあの世行きってこともある。なかなか死なないという出来事があるかと思えば、僅少の食中毒死もあれば、目に見えない細菌によって高熱で死んでしまうことだってある。

 いのちは、強さと弱さの両面を持っている総合体なのかもしれない。

 食品の毒性が社会問題されるようになって久しいのだが、実はこれら食物に含有する毒性(環境関係・医薬・農薬関係・その他各種汚染一切)は、徐々に徐々に歳月をかけ、世代を積み重ねていく中で、一種の〝いのち〟の構成員となっていくのではないかと思っている。よく言われている「杭体」化していく感が湧いてくる。

 今、いのちを縮め、或いは死をもたらしている人間社会一切の毒性物質は、やがて、いのちの一構成員として稼働するようになるんじゃないのか、と。

 今は、それらを食べれば…また吸えば…そして、それらをしたならば…死ぬかもしれない一切の毒性物質が、やがては、いのちには何らの害毒とならない物質となるんじゃないのか、と考えてもみた。言い換えれば、悪性安定の「いのち」が出来上がる日が来るかもしれない。

 発見当時は、ペニシリンなどの抗生物質は魔法のように効果があったのに、今その薬に対して抗体を持つようになった細菌が出現してきて、極度にその効果が薄くなってきたと聞く。細菌たちの「いのち」は、膨大な犠牲を出して勝ち取った新生いのちになった訳ではないのか。

 人間社会と毒性汚染の戦いは、ある時代を経てその間いいしれない犠牲(死・そして経済的にも)を払いながら長い過渡期を過ぎて、化学変化した人間生命が創出される日が来るかもしれないと考えてしまった。

 人間も生態系の一種。天敵になったり、なられたり、知性の限りを尽くしながら種の数を増減しつつ未来へと続いていくのであろうか。

……うん…これでいいんだなぁー……

と、考えてしまう。自己納得する今日であった。

 喧々諤々(けんけんがくがく)、両極論を闘わせながら、人の世は、明日へと続いていくのである。皆さん、お元気で。

平成十四年七月十一日 68才

『いのちのエッセーと詩歌集』について↓)

 

死生川(ししょうがわ)

出典『いのちのエッセーと詩歌集』p.220〜222

 ①宇宙の神様考えた / 生まれて死んでまた生まれ / 流れ流れて流れを止めず / 流れはこの世を清くする / 朝に朝日が顔を出し / 夜は夕日が姿消す / 造って壊して壊して造り / いのちの原点調和のリズム / 生死流転の死生川 / 流れ流れの死生川

 

②宇宙の神様考えた / 食べて排してまた食べて / 流れ流れて流れを止めず / 流れはいのちを清くする / いのち繫いだ食べ物たちは / 役目を終えて大地に還り / 巡る大地に花実を咲かす / 生きる原点調和のリズム / 明暗流転の死生川 / 流れ流れの死生川

 

③宇宙の神様考えた / 我が身見たさに考えた / 星星つくり地球をつくり / ついに傑作人間できた / 息を吹きかけ呼吸を与え / 食を与えていのちを繫ぐ / 呼吸と食はいのちの呼吸 / いのち再生調和のリズム / 天地流転の死生川

『いのちのエッセーと詩歌集』について↓)

 

引用・参考図書

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書籍『死んでも生きているいのちのあかし』の詳細・閲覧ページにリンクしています

死んでも生きている
いのちの証し

菅原茂/たま出版/1997年

本の総合情報

 

共時性現象の体験記録をもとに、生命の本質は不滅だと伝えている。 酒乱人生から夫婦二人三脚で新たな人生を再出発させた著者。自らの足元を照らすかのような共時性現象の記録を随想としてまとめている。また、本の表紙を飾る稲穂はこの著書の本質を象徴している。

 

 

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書籍『酒乱こめのいのちが生きるまで』の詳細・閲覧ページにリンクしています

酒乱
米の生命が生きるまで

菅原茂/MBC21/1993年

本の総合情報

 

「いのちとは」「心とは」という文字通りの “命題” について、 体験を通じた非常に強いメッセージを発している。 後年、この著者は『死んでも生きている いのちの証し』『神秘の大樹』を出版しているが、 第一作である本書を読むと、 なぜこの著者が、共時性を切り口にして「いのち」を語るのか、 腑に落ちる。

 

 


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フォトエッセイ『いのちのふる里』の詳細・閲覧ページにリンクしています

いのちのふる里

菅原茂/おりづる書房/2008年

本の総合情報

 

便利な生活を享受するために、工業を中心にしてひた走ってきた日本社会。そのいっぽうで、むかしもいまも、ずっと変わらずいのちの原点でありつづける食のふる里。個人の生き方として、また社会の健全な姿としてのバランスを、どうやって回復したらよいのか。食と農と生命に実感がもてぬ現代の私達。時代や社会を経ても生きる原点は変わらないはず。私達の体と心は原点に帰れるのか。

 

 

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書籍『富士山と雲と神様』の詳細・閲覧ページにリンクしています

富士山と雲と神様

菅原茂/おりづる書房/2016年

本の総合情報

 

この世のすべてが心性エネルギーに満ちているという生命観=宇宙観からうまれた物語。ヒトは万物霊長の存在と言われるが、著者は万物霊の視点で生命世界を観ている。ともすれば私たち人類はあらゆる生物の頂点に立つ最も優れた存在であると勘違いしがちではないだろうか。本作は子どもから大人まで読んで理解できる内容になっている点で、ほかの著作とはひと味ちがう作品。

 

 


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いのちのエッセーと詩歌集

菅原茂/おりづる書房/2019年

本の総合情報

 

夫人と米の生命愛による守護の中で、酒乱の因縁から自分の生命に目覚め、いのちへの誠実な思いを深めていった著者。「自己調和」をむねとする日常生活において試行錯誤する様子をありのままに綴っている。第一章は自らの日記から抽出した文章(エッセイ)。六十歳代、七十歳代、八十歳代と自己調和の日々とともに年齢を重ねた著者。その等身大の生きざまとその心意気が伝わってくる。

 

 

共時性とは何か

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時空や生死を超え、人種や生物種も超えて、いのちには境界がない証し

 

因果性とは何か

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「因果性」の実際は、それほど単純ではなく、もっと複雑。科学的な「法則」は、限定的な条件のもとでのみ有効だ。

 

偶然にひそむ因果

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因果性がないというより、今の科学の尺度では説明できない、と言うべきではないのか。

 


共時性の真価

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平成5年8月6日、広島平和公園で偶然発見された一羽の折鶴。共時性の真の価値は、生命現象そのものではなく、それが生命の真実を示していることだ。

 

サイトの概要

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サイトの趣旨、本の紹介・説明、なぜ今これらの本を推すのか。サイトマップ他