生命現象の根源

体と心の相関性

いのちのひびきあい

 

概要

 

人のいのちは物質体であると同時に意識体でもあります。この本質的性格は、生き物としての種類や姿かたちはちがっても、「食物」として口にしている「いのち」もまた、物質一辺倒の存在ではないことを示唆しているとおもいます。また、魂という意味での「心」は、肉体的な生死を超越していることを、共時性現象が暗示しています。体は、心が作用するとはいえ、それを超える意思のような自律性をもっています。

 

食も心も体も、人がつくる「もの」ではなく、根本的には天地自然がつくる「いのち」の現れです。出現する根源の世界は同一、全一であると想像できます。以上のような理由から、心と体の関係や、人と食物の関係は、機械的または因果的な作用や反応とはまったくちがう、いのちの響きあいだと考えています。

 

私たちは、人間中心の目線で、食物を見てしまいがちです。仮に、健康的な食物をじぶんの意思で選択する食生活をしていたとしても、健康を手に入れるための「もの」でしかないとか、欲求充足のためにむさぼるような食べ方をしているとか、そういう心根では自己調和できるはずがないことを、実感として気づかされています。じぶんの体と食物への敬意・慎みよりもたいせつなものはないにちがいありません。 

 

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参考図書からの抜粋
目次

  1. 『酒乱‐米の生命が生きるまで』
  2. 『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』
  3. 『いのちのエッセーと詩歌集』
  4. 『全体性と内蔵秩序』
  5. ほかの視点
  6. 引用・参考図書
  7. 関連する主題

 

 

難行苦行の人あれど

出典『酒乱米の生命が生きるまで』p.97,  p99〜101

 (中略)

人間的自我の一切ない、浄め上げられた自然界。

「そこには、万物を、生かして、生かして、生かし続ける愛しかない」

 この生命世界には、人間界のような、他を殺し、争い、奪い、傷つけ合う心はない。特に、米をはじめとして、食物一切は一時も休みなく、人間を生かし続けてくれる生命たちである。これは、どんな知性をもってきても不滅の真理である。

(中略)

 沈黙世界と融合一体となった妻には、人智では計りしれない、神秘現象が、日常よく起こった。現実世界の〝文字、数、色〟といったことに、見えない、黙した生命が融合して、永遠の生命の流れを証してくれる、この現象は、学問的には〝共時性現象〟と呼ばれているようなのである。

 自然界のいろいろな心(宇宙心霊)、そして、亡き人霊からも、妻を通して、生きて〝師〟となる喜びが伝えられてくる。 私が、酒乱から救われたのも、妻を通して〝心の光〟に、米の生命が生きたからであったと思う。

 こうして、沈黙世界の心ごころが、妻の、生命の光と融合するまでの苦労と、亡き人たちの〝心ごころ〟が、妻の、心の光に通い、結ばれるまでの険しかった道程と、さらに、この声なき声の心ごころ(生命の響き)が、妻の命を通して、この世の、文字に生き、数に生き、色に生きる、までの歳月こそ、生死を超越した、難行苦行の心開きであった。

(植物の心―意識反応―の存在は、三上晃著『植物は語る』、その他によって、科学的にも証明されている)

 

「生命の守り」

 

声なき声の いのちの叫び / 亡き人々の 声と声 / 食べるいのちの 声と声 / 花一輪の 声と声 / 自然を流るる 全いのち / みんな師となる 守り声 / 人の心の 正しきを / いのちの尊さ 学びあれ / 人のいのちの 米たちも / みんな師となる 守り声 / 人の心の 正さむに / いのちの愛を 学びあれ / 磨きぬかれた 酒いのち / みんな師となる 守り声 / 人の心よ 浄めあれ / いのちの喜び 学びあれ / 今日を生かさむ 食物に / 耳をかたむけ 今一度 / 正しく生きれや 人ごころ / いのちの愛に 目覚めあれ / 愛一念に 目覚めあれ / 人を育てる 米一同 / 知って生きるは 人の道 / 知って学ぶは 人の道 / いのちの原点 ここにあり

『酒乱‐米の生命が生きるまで』について↓

 

 

米は、いのちの光

出典『酒乱‐米の生命が生きるまで』

抜粋はここから。私たちが毎日当然のごとく食べている米や野菜などに、宇宙意識の大調和エネルギー(響き)を感じながら、安定した心で生きたいものだ。大調和のエネルギー(米、野菜など)を食べていたとしても、不調和な心(片寄りの心)を持って生きるなら、病気にもなるだろうし、不幸を招くのも当然である。私の酒乱地獄はその典型であった。言い換えれば、一連の不幸性は、人間となった米、野菜たちの生命の叫びと言える。抜粋はここまで。

  

米は、いのちの光(全文)

出典『酒乱‐米の生命が生きるまで』印刷版 p.211〜222

  この現実社会にあって、一時、出家の道を真剣に考えたことがあったが、今は、あくまでも、精神性を土台として、現実凝視をして生きることを決心した。

 以前は、現実至上主義で金満家が夢であったが、そこには、大きな落とし穴のあることを知った。ブレーキのない、物質金満の世界には、見せかけの幸せが待っていて、先へ先へと走り、先を見るあまり、どうしても、足元を見失ってしまう人生である。生きる本当の喜びは、なんであるのかを見失っている人がたくさんいる。
 金で、生命いのちが保証されるのだと、錯覚するような人生は、消えていく虹の橋を渡る、虚飾の人生であることがわかった。

 そして、子孫に強欲の因縁、酒乱の因縁、色情、倣慢の因縁を残さず、その他、多くの不幸因縁を、残さぬような人生を生きようと、生きる価値観を変えることができた。

 以前の私は、浪曲『森の石松』ではないが、

「飲みねェー、飲みねェー、酒飲みねェー。喰いねェー、喰いねェー、寿司喰いねェー。……エッ……肝腎な人を忘れちゃ、おりゃせんかッ……」
と、石松ならぬ、大事な大事な生命いのち様を忘れていたのだった。
 生命は、生命でも、酒乱の唄枕に酔いれていた悪魔の生命ではない。ピッカピッカの生命様だったのである。


激しき宇宙の 波動はすぎて
ポッカリ浮かんだ いのち星
太古の昔の いのち花
海にいのちの 花ひらき
大地にいのちの 花ひらき
空に大気の 花ひらき
天に輝く 太陽が
ニッコリ笑って 花ひらき
お待ちいたした 人間様よ
ながき世の道 人の道
いのちの天子に 育つ世に
向けて花咲け いのち花

 

生命いのちとはなんぞやッ〟と尋ねても、生命は答えてくれない。だが、一人一人に感じられる生命の響きは必ずある。生命には、声も言葉もないが、絶対なる〝安定調和エネルギーを秘めた意識波動(生命の響き)〟が存在する。

 そして、人間以外の全存在は、自然界の調和エネルギー波動と生命同化して生きている。だが人間は、心のエネルギーを異常なまでに進化させてしまったため、千変万化する自分の心に振りまわされるようになった。

 この人間独自の心(擬似魂)は、生命から送られる安定調和の意識波動(真性魂)をさえぎり、魂の光を曇らせてきた。

 人は誰しも〝心は人間の特権〟であると思い、人間以外のものには、心の存在など容易に認めてはくれない。

 そこで、今、誰かに「あなたはどうして生きておられると思いますか」と尋ねてみたとすると、どう答えてくれるだろうか。おそらく「食べているから生きています」と言うだろう。確かに人間は、食物を食べると血となり、肉となり、さらに心を発生して、毎日を生きてゆける。

 ところが、人間以前の食物生命に、心があるかと聞かれたら、ほとんどの人は、「ノー」というだろう。米や大根、魚や果物に、(意識)があるなんてとんでもないことで、気持が悪い……と言うだろう。

 ところが妻は、この人間以前の、人間を生かし続ける食物の生命、自然界の生命に、心(意識の響き)があることを言い続けてきた。それは、妻の生命の中に、沈黙世界の声が、生きて結ばれるようになったからにほかならない。

 素直に考えれば、「人間を造り上げた食物たちは、人間ができうる可能性の根本要素(物質的、精神的)を、すべて持っている」と思うし、だから、心というものは、人間だけの特権ではなく、人間のような心にはなれなくとも、人間の心の元となる心(調和の意識波動)が、食物一切の生命にもあるといえる。

 さらに、生命界には、〝食物の心の元となる心(宇宙意識)〟があって、その心の元とは、神とも、宇宙心霊とも呼ぶことができる。だから、生きとし生きる生命体の中心を貫く生命は、万物共通だと言ってもおかしくない。
 いわゆる、万物は、宇宙意識を共有している同志ということになり、私はそのことを〝魂の平等〟と思うようになった。だから一心に、〝心を浄め澄ませれば、万物に心が通じる〟ことができると言える。心の元(宇宙意識)は、人間的煩悩心とは無縁の心であり、これこそ人間の心の羅針盤としたいものだ。したがって、食物をはじめ、自然界の一切は、〝生かし続ける愛の師となる心(調和心)〟で溢れている。
 この汚れなき、ピッカピッカの生命いのちに目覚める時、人は必ず己の愚かさに気づいてゆくはずである。

 私たちが毎日当然のごとく食べている米や野菜などに、宇宙意識の大調和エネルギー(響き)を感じながら、安定した心で生きたいものだ。

 大調和のエネルギー(米、野菜など)を食べていたとしても、不調和な心(片寄りの心)を持って生きるなら、病気にもなるだろうし、不幸を招くのも当然である。私の酒乱地獄はその典型であった。
 言い換えれば、一連の不幸性は、人間となった米、野菜たちの生命の叫びと言える。

 それでは、次に、人間の生命の光となる稲穂の喜びを、妻の心いただきの一節から紹介したいと思う。


カエルの声 はげましを
稲の心は はぐくみあう
緑すがたの 成長期

カッコウの声 勇ましく
育成のありがたさ
愛は稔り

朝日に開く 稲の花
セミの声聞く 夏のあい

青空に 祭り太鼓の音聞くも
心ごころの 稔り待つとき

秋のみのり 黄金の稲穂よ
小鳥の声に 喜びの揺れ

一粒のいのちにかけた花の木を
恵みの愛が 守る神

土の心 水のいのち 守りあれ
稲の心と 人生の開花

 

 米は人類究極の食糧となるであろうし、また、純日本風の食事こそ自然性にかなった、最も調和のとれた生命の救済となるのではないかと思っている。
 このうたは、昭和六十二年十二月六日、妻が映画鑑賞中に暗闇の中、手探りで綴ったものである。(続き↓)

創作シナリオを織り交ぜ、生命の根元領域を語る『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』より

ここから書籍『神秘の大樹第二巻ヒロシマとつる姫』の抜粋。「米は人間の主食です。生きるためのいのちの機関車です。田之助は酒好きが高じて乱れとなり、いろは姫との葛藤が長い間続きましたが、ようやく生きることの原点に気づくことができて、いのちの真実を求めることになったのです。片やいろは姫は、田之助を鉄の一心で守り続ける中で、いのちの真実に気づきました。口から入った食物たちは、いのちの光に身を任せ、やがて原子の光に立ち返って、新たないのちの光へと生き変わります。そして、働き終えた食物たちは、外界へと帰っていきます。その一人ひとりのいのちの中で命が新たないのちを育て上げるまでの運びには、いかなる人知も、いかなる自我も立ち入ることができません。立入厳禁の〝聖域〟なのです。この聖域の旗印が、帆に書かれている〝食心の目は共時の目〟という世界なのです。ユングと天明には、新たな驚きとひらめきが交差していました。そして口を開いたのはユングです。ユング「つる姫様ありがとう。単純明快にいのちの中心には食がありました。毎日の食べ物がいのちとなる次元こそ共時性発生の次元でした。ここにこそ心と物質が融合一体となり、生命発生の謎がありました。食って生きる、こんな単純なところに、山ほどの理論を積み上げたことから解放されたような気分です。ありがとう」と、ユングの目は輝いています。そこに天明も続いて、天明「つる姫様ありがとう。神示の一点が解けてまいりました。食が新たないのちとなる次元、いのちの中心、ゼロ一点の次元がイチリンの仕組みでありました。ここにこそ鉄の一心、食心の世界、共時の世界を見ることができました。扉開きはゼロの目、食の目、共時の目を開くことでした。いのちの真実に目覚めることこそ岩戸開き、そして心の扉開きでありました。」抜粋はここまで

  

〝食心の目は共時の目(神示の一厘)〟

(「第二章 魂を乗せた一羽の折鶴」の一節。サイト編集者による任意の“見出し”)

出典『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』p.62〜71 

 (中略)

 いろは姫は一介の主婦ですが、現実生活の中で、数字と文字の世界にアクセスしています。難しい学問世界はわかりませんが、ただ一つ、鉄の一心を持っています。数字と文字を心いただくことのある暮らしの中で、一切不動の鉄の一心を心がけています。そして、共時性現象を〝食心の目は共時の目〟という、次元ばなれした言葉で表しています。食こそいのちの根源であり、一旦口から入った食べ物は、人間の自我が立ち入ることのできないいのちの世界。それこそ、ご意志の世界、それをいろは姫は「五一四ごいし」の世界と書き換えています。「ご意志」と書けば、人間の自我が入る世界ですから、それを数字の「五一四」と表現することは、宇宙に通じる意志といえましょうか。

 〝食なくてなんのおのれがこの世かな〟

 いのちは原子です。原子は食です。食に発する原子です。生きることの原子が、全身の中で舞っているから今日も生きていけます。あまりにも当たり前のため、低次元として無視されているわけですが、そこにこそ共時性の目が光っていたわけです。

 つる姫は、ユングと天明を前にして、天の川のことを話し出しました。

つる姫「ユングさんと天明さんは立場は違っていても

ともにいのちのルーツを求め、心のふる里を求めてきました
天の川には『天意の法則』がいくつもありまして
その中に

〝一呼一吸天の気

一食一排地の気
天地の気はいのちの食
食はいのちの呼吸なり〟
というものがあります
また、〝食心の目は共時の目〟というものもあります
どちらも、食はいのち、いのちは食ということになりますが
そこにこそ、宇宙調和のエネルギーの謎があるのです
そして、縁結びの中心エネルギーとなる
「共振共鳴共時の目」があったのです
「目」とはそのものの中心と考えたらよいでしょう
ここで再び〝いのちの舞い〟を出しましょう

やまず
やすまず
とどまらず
とんでははねて
はねてはとんで
あっちへこっちへ
ランダムに
信号ないけど
赤・青・黄色
安心安全
原子の舞いは
いのちの喜び
大調和
いのちの原子
大調和

食からいただいた原子の世界は
私たちのいのちの中で
いつも引き寄せたり引き離したりして
枠を超えたら引き戻すゼロの力が働いたりして生きているわけです
共時性現象の本質はつまり
食心の目は共時の目
いのちと食は同義と解する
いろは姫の鉄の一心は
天の川の天意の法則にも当てはまっているのです」

と、ここまで話すとつる姫は

つる姫「ユングさんと天明さんに面白い映像をお見せしましょう

これは、田之助といろは姫の話です
二人は天の川から舟に帆を立てて下ってきました
天の川から心の国へ流れている支流は数多くありますが
二人が乗った舟は
東北の山形県に流れている支流を下ってきたのです
天の川の分岐点には立て札が立っていて
「サイジョウノカワ」(最上の川)とあります
ところが、ちょうど山形県内に入ったところから急に川の呼び名が変わりました
「モガミガワ」(最上川)となっているのです
二人は、どんどん下ってきて河口の酒田港に到着するのですが
その舟を見ますとまるで宝船のようです
舟一杯に稲穂が積まれていて帆には大きな文字で
「食心の目は共時の目」と書かれてあって
下段一面には聞き慣れない祝詞のりとが書いてあります
変われども、時代変われど、いのちの光
米は変わらぬ永遠とわかて
鶴千年亀万年、稲穂の実りは億万年
人類栄えの糧となる、米が光れば皆光る
おかげで今日も生かされる
ありがとう」

 つる姫の話はここで止まりました。宝船にはその祝詞文字が金文字で浮き立っていて、そればかりか、帆柱のてっぺんには長方形の旗が風にひらひら波打っています。その旗は、金色に彩られた〝米〟の写真でした。それを見た誰かが声を出しました。「あれはユングだ!」

 びっくりしてそれを見たユングが、

ユング「おお、よく似ているなあ」

と反応すると、こんどは天明が、

天明「本当にユングとそっくりだ

さらに神示のイチリンの仕組みの丸の中に点が入った記号にも似ている!」

ユングと天明は一段と共振共鳴していたのです。

 そこに、三心クルーのもじたまの皇子が話に入ってきて、

もじたまの皇子「さっき声を出したのは私でした

宝船の旗は誰が見てもユングさんに似ているし
丸の中に点が入った記号にも似ているし神示の中心様みたいで
田之助はこの写真のことを
一粒観音様といって大事にしているようです」

と言い、宝船の旗について盛り上がりました。

 酒田港の埠頭は大勢の見物客で大変なにぎわいです。黄金の光を放つ珍しい舟。それは稲穂の光でした。

 米は人間の主食です。生きるためのいのちの機関車です。田之助は酒好きが高じて乱れとなり、いろは姫との葛藤が長い間続きましたが、ようやく生きることの原点に気づくことができて、いのちの真実を求めることになったのです。

 片やいろは姫は、田之助を鉄の一心で守り続ける中で、いのちの真実に気づきました。

 口から入った食物たちは、いのちの光に身を任せ、やがて原子の光に立ち返って、新たないのちの光へと生き変わります。そして、働き終えた食物たちは、外界へと帰っていきます。その一人ひとりのいのちの中で命が新たないのちを育て上げるまでの運びには、いかなる人知も、いかなる自我も立ち入ることができません。立入厳禁の〝聖域〟なのです。

 この聖域の旗印が、帆に書かれている

〝食心の目は共時の目〟という世界なのです。

 ユングと天明には、新たな驚きとひらめきが交差していました。そして口を開いたのはユングです。

ユング「つる姫様、ありがとう

単純明快にいのちの中心には食がありました
毎日の食べ物が、いのちとなる次元こそ共時性発生の次元でした
ここにこそ心と物質が融合一体となり生命発生の謎がありました
食って生きる、こんな単純なところに
山ほどの理論を積み上げたことから解放されたような気分です
ありがとう」

と、ユングの目は輝いています。そこに天明も続いて、

天明「つる姫様、ありがとう

神示の一点が解けてまいりました
食が新たないのちとなる次元いのちの中心・ゼロ一点の次元が
イチリンの仕組みの「丸の中に点が入った記号」でありました
ここにこそ鉄の一心・食心の世界・共時の世界を見ることができました
扉開きはゼロの目、食の目、共時の目を開くことでした
いのちの真実に目覚めることこそ岩戸開き、そして心の扉開きでありました
ありがとう」

と、二人は、つる姫にその思いを伝えたのでした。

 ユングにも、天明にも、地上社会でのプライドはすべて消えてなくなっていました。

 何もかもが単純明快であり、時間も空間もありません。さらに、すべてが一面一体で新旧もありません。現実には立体に見える物質世界ですが、それを成す精神構造は、極めてシンプルな一面一体の世界と考えられます。岩盤のような魂も、バラバラに分解されて、やがては「真性魂」しんせいたましい」の意志基盤に合流します。真性魂とは、宇宙絶対調和エネルギーを、意志性に変換して考え出した表現です。

〝何事も想いが先のこの世かな〟

 地上社会で積み上げた心は次々と魂の集団となり、これが、真性魂に似て非なる「擬似魂」なのですが、その一人ひとりの擬似魂ぎじたましいが、その人の心の遺伝子となり、やがて心の国に入ると、いのちの意志エネルギーに同化されるようになっていきます。生命エネルギーの魂の玉は、丸く削られ、透明な玉となっていくのです。

(後略)

『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』について↓)

 

 

〝いのちの意志性〟

(「第三章 おわりに」の一節。サイト編集者による任意の“見出し”)

出典『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』p.147〜158 

 (中略)

ともに触れあい、
ともにひびきあい、
ともに時を同じくする

 

 こうした出会いの世界、ご縁の世界では、どうしても、いのちの「意志性」を無視することはできません。

 

いのちの中心は意志性
調和の意志性
ゼロに戻す力の意志性
心身調和安定のエネルギー
それがいのちの中心力

 

何ごとも 思いが先の この世かな
魂は出会いの縁によって進化し
出会いの縁は進化の方向性を持っている


と思うのです。そこには逆進化のあることを思うとき、一にも二にも日々の心の大切さを肝に銘じなければなりません。

 人々の運勢運命というものの根底には、心の方向性こそ最も大切なこととしてあるのだと私は自覚するようになりました。

 共時性現象の体験からは多くのことを学ぶことができました。そして、広島天明展と折鶴との出会いがあった翌年のことでしたが、私(田之助)の心に次のような思いが押し上げてきました。左手書きの訓練を始めて三年四カ月目のノートから、全四三首の内、二〇首を抜粋しましたので、ここに紹介させていただきます。

 

「証しの灯」(抜粋)

平成六(一九九四) 年 六月一七日
午前一〇時五一分


待ちに待ち / 今になぞるよ / 神の道

近くなり / 今にあたうぞ / 波くるごとく / ありがたき / うたにながせる / 神一途

待ちわびた / そなた心の / まなびくに / 通して一本 / 世はうきしずみ

あるもなし / なしもなし / なにどとあらむで / 知るもなし / 宇宙にあるは / 無の無

清らかに / 生きまことの / 道あらば / そこに歩むぞ / 人の道

みているぞ / うそとおもうは / はかなきぞ / 天も地もみる / 中の中まで

ありがたき / いのちの証し / こころして / ゆくにゆく道 / かがやく道ぞ

まろはよし / 君もよし / たまのしずまり / 世のしずまり

証し人 / ゆくもかえりも / なきいのち / 尊く歩めよ / わが道あかり

死もなきぞ / 生もなけれど / 道はある / 流れる如くに / 神の手と足

ただあゆめ / 歩めよ歩め / 神の道 / 調和の道を / 歩め先々

証し人 / 証しの道は / 鳥海の / 峰に通じた / あの日のまこと

天も地も / 恵みの愛は / かわらぬも / 人の心は / 今に今ぞえ

争いは / 生きてたたれる / 道ならば / 今を正しく / 神とともども

またの日を / 待たれよまろは / 君をまた / 逢えてなつかし / 日々を待たれよ

 

 肉体は消えても魂は消えない。魂が不滅だからこそ歴史は繰り返されるという。気分のいい歴史なら大歓迎であるが、昨今の核とミサイル問題を思うとき、そして国際間での闘争の歴史を思えば、こうした魂は本当に永眠願いたいものです。

 新しい心をどんどん歴史の中に吹き込まなければなりませんが、それには歳月が必要です。

 魂が生き続けているから歴史が成り立つのであって、肉体と一緒に消えるのだとしたら、自分という存在は、まるで空っぽになったドラム缶と同じでしょう。宇宙創成から、延々と続くいのちの聖火ランナーで現在までつないでくれたから、その蓄積に蓄積を重ねた心の集積が魂となって実存するからこそ今を生きているのであって、魂も肉体と一緒に消えるのであれば、何もかも、歴史も何もかも、この世から消えてしまうというものです。

 ただ、魂にも当然、世代交代のような、新しい心との間に新陳代謝はあるでしょうが、具合の悪い魂は、例えば、闘争の魂などは、どうも執拗に生き残ろうとしているようなのです。だからこそ新しい魂の新風で爽やかな魂の風をどんどん入れてやらないと、嫌な歴史の繰り返しは絶対にしてはならないのです。

 心は生き物だ! 本当に生き物だ! 心は縁結びの達人だ!

 気分のいい出会いの縁が結ばれるように、日々の心を管理したいと自覚しています。

(後略)

『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』について↓)

 

 

出会いに働くもの

 出典『いのちのエッセーと詩歌集』p.139〜140

 〝何事も思いが先のこの世かな〟

天地万象、物質的にも、心霊的にもその現実現象の根本作用をなすものは、なんといっても〝思いの世界〟といえます。思いの世界は又波動の世界でもあるから光次元となってこの世に遍満します。それも、微妙な波長の違い、即ち、同調波以外には共振共鳴をしません。この世に遍満する思いの光にいちいちチャンネルが合うならたまらないし、世の中錯綜混沌として混乱するだけ、となりましょう。

 霊妙というか、深遠というか、容易には心のチャンネルは同調しないものです。心霊の世界でいう〝テレパシー〟(遠隔同調現象)等は受動的、能動的に思いの世界がピタリと合致するものであり、心がゼロ圏にあるときその現象が起こると思うのです。

 我々の生体であっても、たとえ人の造ったロボットであってもそれらの見えない中にその秘密がある訳です。中には、宇宙レベルの波動源がぎっしりと詰まっています。私の考える宇宙レベルの波動源とは、調和エネルギーのことであり、即ち、命そのもののもつ意志エネルギーが、いろいろな出会いを演出する人それぞれの心を乗せる光の船となるわけです。

 共時性現象を記録する自分ではありますが、今日は二件の共振共鳴が発生しました。

 一つは、しばらく見えられないA子さんを案じていたときのこと、一時間もたたぬ内に、ニコニコしながら本人がやってきました。

 もう一つは、外履き用のサンダルを買い替えに出たときのこと。このサンダルはさんから買ったものですが、「廃業した彼女は今どうしているだろうかなあ…」、と、妻に声をかけたその数分後、出先の店でMさんから声をかけられました。土曜の混み合う中で。

 まさしく〝想えば通わす命綱〟…此の根本原理こそ命の本質と思うのです。

平成十七年七月三十日 71才

『いのちのエッセーと詩歌集』について↓

 

 

(抜粋1)

出典『全体性と内蔵秩序』p.205

明らかに、座標を自然界に存在する事物と考えることはできない。むしろ座標は、人間によって作り上げられた便利な記述形式に過ぎない。(中略)座標を用いることは、実質的には、機械論的世界観に適合するようにわれわれの注意を秩序づけることである。それによって、われわれの認識や思考も同じように秩序づけられることになる。『全体性と内蔵秩序』について↓

 

 

(抜粋2)

出典『全体性と内蔵秩序』p.303

これまで内蔵秩序と顕前秩序を対比したさい、われわれはそれらを分離した別個のものとして扱って来た。だがⅥ章で示唆したように、顕前秩序はより一般的な内蔵秩序の特殊ないし特別な場合として後者から派生しうると見なすことができる。顕前秩序が異なるのは、そのように派生したものが相対的に安定した再起的な要素の集合であり、それらの要素が互いに他の外部に存在するということである。そして機械論的秩序で適切に扱える経験領域があることは、このような一群の要素(場や粒子)の存在によって証明できるのである。だが現在流布した機械論的方法ではこれらの要素[場や粒子]が分離・独立して存在すると仮定され、またそれらが基本的実在を成すと考えられている。するとそのばあい科学の仕事はそれらの部分から出発し、抽象によってあらゆる全体を派生させ、それらの全体を部分どうしの作用の結果として説明することである。その逆に、内蔵秩序による探究は宇宙が不可分の全体であることから出発する。それゆえ科学の仕事は抽象によって全体から部分を派生させることである。『全体性と内蔵秩序』について↓

 

 

(抜粋3)

出典『全体性と内蔵秩序』p.349〜350

この心と身体の繋がりは、ふつう心身的 (psychosomatic) と称されてきた(この言葉は「ギリシャ語」で「こころ」を意味する「psyche」と「からだ」を意味する「soma」とから発している)。しかし通常この語が使われるさい、そこには心と身体がほんらい分離した存在でありながら、ある種の相互作用で結びつけられているという意味合いが含まれる。だがそのような意味は内蔵秩序と相容れぬものである。なぜなら内蔵秩序にあっては、心は物質一般を包み込んでおり、したがって心はその特殊な場合としての身体を包み込んでいると言わねばならぬと同時に、身体は心を包み込んでいるばかりでなく、あるいみで全物質界を包み込んでいると言わねばならぬからである。(中略)そこでわれわれはさらにつぎのように提案せねばならない。より深い内奥にあって両者を包括する実在は心でも身体でもない。それはむしろ心や身体より高次元の、本性上それらを超越した実在なのであり、そしてまたそれこそが両者をともに在らしめる共通の根拠なのである。逆に言えば、心と身体はおのおの相対的に独立した亜総体にすぎない。つまりそれらの相対的な独立性は、両者がそこにおいて究極的に一つとなる高次の根拠から派生する(むしろ顕現秩序の相対的独立性は内蔵秩序という根拠から派生する)のである。(中略)心と身体が因果的に影響を与えあうのではない。むしろ両者のそれぞれの運動は、ある高次の共通根拠の射影どうしが関連しあっている結果なのである。『全体性と内蔵秩序』について↓

 

引用・参考図書

▼閲覧と図書館検索

書籍『酒乱こめのいのちが生きるまで』の詳細・閲覧ページにリンクしています

酒乱
米の生命が生きるまで

菅原茂/MBC21/1993年

本の総合情報

 

「いのちとは」「心とは」という文字通りの “命題” について、 体験を通じた非常に強く明確なメッセージを発している。 後年、この著者は『死んでも生きている いのちの証し』『神秘の大樹』を出版しているが、 第一作である本書を読むと、 なぜこの著者が、共時性を切り口にして「いのち」を語るのか、 腑に落ちる。

 

 

▼閲覧と図書館検索

書籍『神秘の大樹 第二巻 ヒロシマとつる姫』の詳細・閲覧ページにリンクしています

神秘の大樹 Ⅱ
ヒロシマとつる姫

菅原茂/おりづる書房/2011年

本の総合情報

 

平成5年8月6日の広島平和公園で拾った一羽の折鶴は、内側に「倉敷市玉島」と印刷された折込広告の断片だった。その地名は『日月神示』で知られる岡本天明氏の出生地。縁結びの背景としての心の世界を描く。創作シナリオを織り交ぜた明るい内容の物語が主体。おそらく全四巻の中で、最も生命の本質的な核心を表現している。自分の心身と深く向き合えるようになるほど、本の内容もよりいっそう理解できる本と言ってさしつかえないだろう。

 

 


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全体性と内蔵秩序

デヴィッド・ボーム著、
井上忠・伊藤笏康・佐野正博訳/青土社/1986年

『WHOLENESS AND THE IMPLICATE ORDER』(1980年) の邦訳版。科学は物質を微細に分け入り、その「構成」粒子を発見してきた。一般に私たちは、それが物を形作っている最小単位だろうという見方をしがちだが、分析して見える粒子は、ある文脈によって「全体」から顕現した一時的な抽象物であって、そもそも宇宙は分割できない一つの「流動的な全体」だという。専門の物理学(量子力学)をもとに論じるこの世界像は、あらゆる物事を部分化・断片化する見方に慣れてしまった私たちに、重要な示唆を与えている。 

 

 

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『いのちのエッセーと詩歌集』の詳細・閲覧ページにリンクしています

いのちのエッセーと詩歌集

菅原茂/おりづる書房/2019年

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夫人と米の生命愛による守護の中で、酒乱の因縁から自分の生命に目覚め、いのちへの誠実な思いを深めていった著者。「自己調和」をむねとする日常生活において試行錯誤する様子をありのままに綴っている。第一章は自らの日記から抽出した文章(エッセイ)。六十歳代、七十歳代、八十歳代と自己調和の日々とともに年齢を重ねた著者。その等身大の生きざまとその心意気が伝わってくる。

 

 


共時性とは何か

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時空や生死を超え、人種や生物種も超えて、いのちには境界がない証し

 

因果性とは何か

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「因果性」の実際は、それほど単純ではなく、もっと複雑。科学的な「法則」は、限定的な条件のもとでのみ有効だ。

 

偶然にひそむ因果

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因果性がないというより、今の科学の尺度では説明できない、と言うべきではないのか。

 


共時性の真価

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平成5年8月6日、広島平和公園で偶然発見された一羽の折鶴。共時性の真の価値は、生命現象そのものではなく、それが生命の真実を示していることだ。

 

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