哲学的視点
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【想像】①実際に経験していないことを、こうではないかとおしはかること。②実際の知覚に与えられていない物事の心像(イメージ)を心に浮かべること。
【空想】現実にはあり得るはずのないことをいろいろと思いめぐらすこと。[心理学]想像の一種で、観念または心像としてあらわれる精神活動またはその所産をいう。願望充足の機能を持つことがある。
【妄想】①[仏教](モウゾウとも)みだりなおもい。正しくない想念。②[心理学]根拠のない主観的な想像や信念。病的原因によって起り、事実の経験や論理によっては容易に訂正されることがない。
【幻想】現実にないことをあるように感ずる想念。
【欲望】ほしがること。また、ほしいと思うこと。不足を感じてこれを満たそうと望む心。
【意思】考え。おもい。「-表示」
【意志】①(will) ㋑[哲学]道徳的評価の主体であり、かつ客体であるもの。また、理性による思慮・選択を決心して実行する能力。知識・感情と対立するものとされ、併せて知・情・意という。「-薄弱」㋺[心理学]ある行動をとることを決意し、かつそれを生起させ、持続させる心的機能。②こころざし。
【意欲】①積極的に何かをしようと思う気持。②[倫理]種々の動機の中から或る一つを選択してこれを目標とする能動的意志活動。狭義には、当為に対する主観的意志活動即ち任意・恣意を意味する。
【感情】①喜怒哀楽や好悪など、物事に感じて起る気分。「-を害する」「-がたかぶる」②[心理学]精神の働きを知・情・意に分けた時の情的過程全般を指す。情動・気分・情操などが含まれる。「快い」「美しい」「感じが悪い」などというような、主体の情況や対象に対する態度あるいは価値づけをする心的過程。
【直感】説明や証明を経ないで、物事の真相をただちに感じ知ること。
【直観】一般に、判断・推理などの思惟作用の結果ではなく、精神が対象を直接に知的に把握する作用。直感ではなく直知であり、プラトンによるディアレクティケー《ギリシャ語の「対話」》を介してのイデア直観、フッサールの現象学的還元による本質直観など。
【霊感】②(inspiration)人間の霊の微妙な作用による感応。心にぴんとくる不思議な感じ。
【第六感】五官のほかあるとされる感覚で、鋭く物事の本質をつかむ心のはたらき。(五官とは、五感を生ずる五つの感覚器官。眼(視覚)・耳(聴覚)・鼻(嗅覚)・舌(味覚)・皮膚(触覚)をいう。仏教にいう五根から出た語。)
出典『広辞苑 第四版第六刷』一九九七年(岩波書店)。なお、略号[心][仏][哲][倫]の記載を、それぞれ[心理学][仏教][哲学][倫理]に置き換えて表記した。
★『知識創造の方法論』野中郁次郎著、二〇〇三年、東洋経済新聞社(『広辞苑』に掲載されていない用語だったため引用した。)
何かを知覚したり思考したり感じたりと非常に多彩な心の働き。自然科学全盛の現代において、心の産物は主観的だとして軽んじられる場面も多くあります。心の働きや機能はつかみどころがないため、歴史上、自然科学を進歩させるために物と意識を分ける客観性を重視した西洋の考え方が非常に合理的だったのは事実です。ただ、ほんとうは奥深く霊妙であると考えられる意識世界の真相を知る人は少なく、主観性に対しては偏見がある印象を拭えません。果たして客観性とは何か、まずは言葉の意味を整理してみます。
(以下『広辞苑 第四版第六刷』)
【客観】[哲学](object) ①主観の認識及び行動の対象となるもの。②主観の作用とは独立に存在すると考えられたもの。客体。↔︎主観。
【客観性】(objectivity) 客観的であること。
【客観的】特定の個人的主観の考えや評価から独立で、普遍性をもつことについていう語。
【客体】(object) 客観②に同じ。特に主体に対応する存在。また、主体の作用の及ぶ存在。↔︎主体
【主観】[哲学](subjectの西周による訳語)客観に対する語。語源的には作用・性質・状態を担う基体(subjectumラテン)を意味する。近世以降は感覚・認識・行為の担い手として意識をもつ自我をいう。特にカントでは、主観は生得の、一定の形式・法則に従って、客観的対象を把握する先験的主観とされた。カント以後は、単に認識主観にとどまらず、実践的能動性と自由の基体として、特に主体という意味が強調されるようになる。↔︎客観。→主体。
【主観性】[哲学](subjectivity) ①主観であること、また主観に依存していること。主観の所産であること。②個人的・歴史的・社会的な条件に制約された或る主観に依存しているという意味で、客観性が乏しいこと。
【主観的】①主観による価値を第一に重んずるさま。主観にもとづくさま。②俗に、自分ひとりの考えや感じ方にかたよる態度であること。
【主体】② (subject) 元来は、根底にあるもの、基体の意。㋑性質・状態・作用の主。赤色を具有するところの赤い椿の花、語る作用をなすところの人間など。㋺主観と同意味で、認識し、行為し、評価する我を指すが、主観を主として認識主観の意味に用いる傾向があるので、個人性・実践性・身体性を強調するために、この訳語を用いるに至った。↔︎客体。
出典『広辞苑 第四版第六刷』一九九七年(岩波書店)。略号[哲]の記載を[哲学]に置き換えて表記した。
(以下『日本語大辞典』)
【客観】(対義)主観。①個人的・経験的意識にとらわれることなく、見たり、考えたりすること。object ②人間の行動・思惟には関係なく、独立に存在する物質・自然。外界。客体。object ③哲学などで、知るという主観の認識の対象になるもの。認識論上の対象。object
【客観性】 ①自己の意識をはなれていること。②物事が独立にもつ性質。③普遍妥当性。④対象に対する態度が個人的な感情をまじえず公平であること。
【客観的】(対義)主観的。①主観の働きに支配されず、第三者が批評するように公平に判断しようとする態度。②精神にかかわりなく、外界に独立して存在しているさま。③いつ誰が見てもあてはまるという性質があるさま。
【客体】=かくたい。①目的物。対象。object ②人間の精神的・肉体的・物的行為の向けられるもの。主体の主観作用の対象となるもの。存在論上の対象のこと。object(対義)主体③人間にかかわりなく独立して外界に存在する事物。人間の精神以外の物質。object(対義)主体
【主観】(対義)客観。①自分だけの考え・見方。②対象となりうる一切をのぞき、対象化できないもの、すなわち意識それ自体。subject ③外界を知覚・意識する主体。認識主観。自我。subject ④事物を見たり聞いたりして心の中にえがいた意識内容。subject
【主観性】-※
【主観的】(対義)客観的。①自分の考えを中心に、物事を処理しようとするさま。subjective ②個人的。自分勝手な。公平に物を見ないで自己の感情・意志のままにふるまうさま。subjective
【主体】①他に働きかけるもとになるもの。subject ②性質・状態・働きのもとになる本体。知・情・意の働きの統一体としての実体。subject
出典『日本語大辞典』一九八九年(講談社)※「主観性」という語は掲載されていない。便宜上「【主観性】-」と表記した。
上のとおり〝客-〟のほうは人間の作用から独立した存在であると説明しています。〝主-〟のほうは『広辞苑』『日本語大辞典』どちらも意識の働きというものに触れつつ、前者は西洋哲学における変遷や由来を、後者は「主観性」の掲載がなく「主観的」であるさまの描写が少し強いところに特徴があります。はじめに述べた主観性に対する偏見とは、後者について指摘したような傾向が世間一般に強すぎること、つまり「客観的」であるさまを重視する態度に偏っていることです。
ところが「客観的」という言葉は、理解や扱いがきわめてむずかしく一筋縄ではいきません。社会的に多用されていますが、似たような印象の表現と比較してみると、危うさを秘めていることが浮き彫りになります。たとえば、①「冷静に考える」②「俯瞰(鳥瞰)する」③「第三者的に見る」④「事実のみを抽象する」という理解の仕方はどうでしょう。
①は混乱したり感情的になったりしている思考や心情を鎮め落ち着いて考えること。②は「高い所から見おろすこと。全体を上から見ること。」(広辞苑)とされ、比喩的にも用いられています。たとえば想像上の高い視点から対象全体を観る、という場合です。③は他者(の目)になったつもりで対象を観ることであり、俯瞰とおなじように、想像力を働かせる仮想的な観察です。重要な点として、俯瞰したり第三者的に見たりするというのは、視点の位置を問題にしています。頭や心のなかで観察対象と離れた視点から観察する思考上の行為、または思考の操作です。 ④はとくに自然科学をはじめ「科学的」と言われる論理的思考・記述の手法。その際に主観性を排除する必要がある点が、前の三つと決定的にちがいます。
自分自身に対する客観視はどうでしょうか。ひとつは機械、装置を用いて数値化したり映像化したりするなど、自分の姿形や身体能力などを分析対象にすること。もうひとつは、自分の心の状態や状況などを第三者的に観察することです。ちなみに仏教(禅)の「瞑想」はいわば自己観察です。欲望、感情、思考など次々と湧いては流れていく意識の働きは、それ自体がつくり出す実体のないもの。その事実を悟る自己観察とされています。強いて言い換えるなら、観察対象である意識の動きを冷静な主体が観察する(傍らで観る)ということです。ただし、これは「客観」について辞書に記載されているように、「人間の行動・思惟には関係なく、独立に存在する」対象が客体である、という排他的とも思える明確な線引きはしません。
個人的には、上記のように仏教でいう冷静な観察のほうが、日本人が日頃「客観的に自分を見つめる」と言っていることに近いのではないかと考えています。辞書の意味を見るかぎり「客観」および「主観」は、両者の間のはっきりとした〝境界線〟のようなものを前提とし、人間の心の内を観察対象として想定していないことをうかがわせます。ただ、それを棚上げにすると、観察対象が自分自身でもそれ以外の場合でも、一般的には観察主体と観察対象とを、物理的または仮想的に分けるという特徴があります。
このいわば「切り離し」を考慮すると、「客観的に考える」ことが、上に挙げた ①「冷静に考える」ことと同じではないことは明らかです。②「俯瞰する」ことと、③「第三者的に見る(考える)」ことは、想像力の働きを前提としていますが、「客観的」は「精神にかかわりなく、外界に独立して存在しているさま」であることを意味しています。つまり、自分の心を観察対象にするとき、想像上「俯瞰する」「第三者的に見る(考える)」ことはできても、「客観的に考える」というのは、言葉の意味をよく見ると矛盾があります。しかし、観察主体と観察対象を分離する思考操作という点では共通しているため、「客観的に考える」というのは「第三者的に見る」ことであると一般に認識されていることも一応理解できます。
いっぽう④「事実のみを抽象する」とは、認識主体の個人的要素を排除すること。たとえば、「普遍妥当性」を追求する自然科学に必要とされる考え方です。あらゆる計測機械や実験装置は、いわば観察者の目や耳、脳や手などに代わる役割の担い手であり、観察者自体の「存在」をできるかぎり「消す」ことによって、中立性(独立性)や精度を担保しようとする象徴でもあります。 要するに、少なくとも自然科学において、(西洋哲学は辞書の記述から想像するに)人間の存在・関与から完全に独立した自然現象の描写・記述こそ理想としての純粋な客観性である、と定義してきたことが推定できます。
しかしながら、後で述べるように「客観」という言葉の由来や西洋・東洋の自然観の成り立ちを知るにつれ、単に表現上の適切な言葉選びという次元の話では済まない疑問、矛盾、問題に気づきます。それは、上に述べた純粋な客観性というものが本質的に存在するのかという疑問、自分の心に対する、定義されるような文字通りの厳密な客観視ということの矛盾、純粋な客観性が存在すると想定したときに生じる問題です。
(脚注)
河合隼雄氏が著書『宗教と科学の接点』において[西洋の医学が人間の身体を「客観的対象」とみなすことにより、科学的な医学を発展させてきた]と指摘しているように、西洋医学は人体を客体化・客観視することで高度に発達しました。
※上記図書「第6章 心理療法について」>「宗教と科学の接点」p.192
日本における客観・主観という言葉は明治期に西周(にし・あまね、啓蒙思想家、西洋哲学者)が訳したものだといいます。人間や人工的なものに対する「自然」という捉え方が一般的ですが、いわゆる客観的対象としての「自然」という概念や言葉も、もともと日本には無かったようです。客観と主観を区別するようになった背景として挙げられるのは、ヒトを取り巻く環境としての自然をどう位置づけてきたか、つまり「自然観」が発端にあることを河合隼雄氏は指摘しています。
(以下『宗教と科学の接点』)
今日では、日本人のほとんどが「自然」という言葉を、英語の nature と同じような意味に解していると言っていいだろう。人間および人工的なものに対するものとして、いわゆる山川草木、および人間以外の動物、それに鉱物などを含め、それを宇宙にまで拡大して、総称して「自然」と呼んでいる。しかし、実のところ、そのような客観的な対象としての「自然」などという概念も、また言葉も、もともと日本にはなかったものであり、nature という英語に「自然」という訳語を当てはめたために多くの混乱が生じることになった事実は、柳父章の周到な分析によって周知のこととなっている。従って、この点については省略するが、そうなると、現代の日本人は、自然をどう把握しているのか、そもそも古来からはどうであったのかなどが問題となってくる。(後略)
「自然」という語は、もちろん中国から由来しているわけであるが、(中略)自然という語は、「『オノズカラシカル』すなわち本来的にそうであること(そうであるもの)、もしくは人間的な作為の加えられていない(人為に歪曲されず汚染されていない)、あるがままの在り方を意味し、必ずしも外界としての自然の世界、人間界に対する自然界をそのままでは意味しない」ことを指摘している。この「オノズカラシカル」という考えは、天地万物も人間も同等に自生自化するという考えにつながり、「物我の一体性すなわち万物と自己とが根源的には一つであること」を認める態度につながるものである。(後略)
このような中国の「自然」に対する態度は、インドからの仏教を受けいれたときに影響し、福永は、「西暦七-一〇世紀、唐の時代の中国仏教学をインドのそれと比較して最も注目されることの一つは、草木土石の自然物に対しても仏性すなわち成仏の可能性を肯定していることである」と述べている。つまり、生物のみならず無生物も、森羅万象すべてが仏性をもつと考えたのである。
このような考えはそのままわが国にも伝来されてきたが、「自然」という用語は、従って、「オノズカラシカル」という意味で用いられ、それは「自然」と発音されることとなった。そして、西洋人のように自我に対する客観的対象として「自然」を把握する態度は存在せず、従って、そのような名詞も日本語にはなかったのである。「山川草木」というような表現が示すように、個々の具体的なものを認識の対象とはしたであろうが、おそらく、それは近代人のする「認知」とは異なるものであったと考えられる。対象と自分との区別は、昔の日本人にとって思いの他にあいまいなものであったろうと思われる。
西洋における(中略)「自然」を客観的対象としてみる態度の背後には、キリスト教による人間観、世界観が強く存在していると思われる。聖書には、神が世界を創造し、人間を創造するときに「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、それに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」(創世記一章二六)と言ったと述べられている。ここに、人間とその他の存在物との間に画然とした区別が存在することになった。このような宗教的な背景をもって、他と自分とを明確に区別し、他を客観的対象とし得るような自我が成立することになったと思われる。そして、その自我が「自然」を対象として観察し、そこに自然科学が発達することになったのである。このため、「自然」は西洋において科学の対象となるし、「自然」は東洋において宗教のもっとも本質にかかわるものとなったのである。
ところで、日本人は近代になって西洋の nature の概念に接したとき、これに「自然」の漢字をあて、「自然」と呼ぶようにしたのであるが、そのために柳父章の指摘するような混乱が生じた(後略)
出典『宗教と科学の接点』「第五章 自然について」>「自然とは何か」一四一〜一四五頁
「客観的」=科学的・普遍的、「主観的」=非科学的・個人的という印象の源は、上記のように自然観が根本にあるようです。西欧人に比べれば日本人には自然と人間との明確な分離によい意味で曖昧さが残ってはいるものの、科学が発達している以上、対象を分析的に、つまりありとあらゆる対象を分離分割して理解する考え方が浸透していると言えます。いっぽう一般に科学と相容れない世界観として対立してきた歴史があると言われる宗教ですが、西洋で誕生した科学の背景からは必ずしもキリスト教と対立するものではなかったことがわかります。
(以下『宗教と科学の接点』)
(中略)
西洋近代に確立された自我は、自分を他と切り離した独立した存在として自覚し、他に対して自立的であろうとするところに、その特徴がある。このようにして確立された個人を、英語でindividualと表現する。つまり、これ以上は分割し得ざる存在ということであり、その個人を成立させるためには、物事を分割する、切断するという機能が重要な働きをもつことを示している。有機物と無機物という分割、有機物をまた分割してゆき、人間と他の生物という分類が行われ、その人間をいかに分割していっても、個人が分割し得ないものとして残る。このことは逆に言えば、個人は他と切り離されることによって存在が明らかになると言える。
(中略)
このように他と切り離して確立された自我が、自然科学を確立するための重要な条件となっていることは容易に了解できるであろう。つまり、このような自我をもってして、はじめて外界を客観的に観察できるのである。このような「切り離し」による外界の認識は、個々の人間とは直接関係しないものとなり、その意味で「普遍性」をもつので、極めて強力な知を人間に提供する。これが、これまでの自然科学である。
(後略)
出典『宗教と科学の接点』「第一章 たましいについて」>「西洋近代の自我」二五~二六頁
客観・主観という具合に世界を二分する世界観や考え方は二元論と呼ばれ、明治以降現代の日本人はこの影響を強く受けています。日々の生活に恩恵をもたらしている科学の世界観・生命観の特徴や成立起源が一連の指摘から理解できます。
自然は人間の外部に存在する環境であるという認識は、自然と人間の分断によって心理的距離を生じさせます。現代人が「自然」に対して懐かしさや憧れの気もちを抱くのは、ある意味で当然かもしれません。また、想いや視線が外部へ向けば向くほど、自分の体へと注意が向きにくくなるようです。このような日常を送るなかで「自らを宇宙の中にどう定位するか」(下記より引用)、あるいは生と死、そういう視点や感覚、いわゆる「主観的」認識や実感を失ったとしても不思議ではないように思います。以下の文も河合隼雄氏の著書からの抜粋です。
ミクロコスモスとマクロコスモスの対応という考え方は、ミクロコスモスとしての人間をマクロコスモスとしての宇宙に関連づける思想であったが、西洋の近代自我が自我を世界から切り離し、自我を取り巻く世界を客観対象として見ることを可能にしたとき、そこに観察される事象は、個人を離れた普遍性をもつことになり、自然科学が急激に進歩したのである。普遍的な学としての自然科学はその後ますます力を発揮し、人間は世界を支配したかの如く見えながら、宇宙との「対応」を失ってしまったという点において、自らを宇宙の中にどう定位するかという点で、根本的な問題を抱え込むことになった。(『宗教と科学の接点』河合隼雄著「第二章 共時性について」>「共時性と科学」p.50)
「宇宙」を母体とする地球上の山河や大地、海洋や大気はもちろん、人間が生活を営むため、生きるための田畑も、そこから得られる食の生命もすべて「自然」。この自然との本質的なつながり無くして人間の生命はあり得ません。生命の根元的な由来を考慮すると、自然は人間の外部環境であるとして明確に分離する境界は本質的に存在しないはずです。食の生命は自分の外部にある自然として存在すると同時に、毎日の「食」はやがて自分の体に融合されるため内部にも自然は存在します。また、そもそも人間の体は本質的に人工造形物ではないため、元来、自然界であると言っても良いほどこれに準じる存在ではないでしょうか。たとえば「小宇宙」という表現がよい例です。
(以下『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』菅原茂著)
一生命体が完成するまでの原形は、十月十日(とつきとおか)の、子宮という小宇宙世界で、その基盤ができあがるわけです。母親の口から入った〝食〟が胃に入って、十二指腸に入り、小腸に入り、分子・原子次元まで分解された物が吸収細胞によって取り込まれ、全身に届けられます。そこでいのちの新陳代謝が起こり、生き生きと輝く命となります。そして、子宮の胎児が育ちます。(上記図書「第一章 心のつる草」 p.17~18)
人間は成長し自我や知力が発達するにつれて頭や心(考えや思い、気もち)を優先する年月とともに、上記のようないのちの原点から遠ざかり、無意識的に体を軽んじたり心理的距離が生じたりする傾向があります。自分の体の外観・外見やその外界には目が向いても、内側の臓器や食生命の行方に対しては意識が行きにくいものです。見えないためにつかみどころがなく、普遍的に正しいとされることを重視するあまり他人事のような感覚になりがちです。精神的につらいときほど体が置き去りになる傾向は、このことと無関係ではないと思われます。つまり体に対する主体性や当事者意識、個人的な内部感覚の希薄さ・未熟さです。これと体を客体視・客観視する習慣とは関連がないでしょうか。
いずれにしても科学的には自然と人間とを切り離すわけですから、小宇宙とも称される内界としての体や心、外界としての自然、双方の間にあるはずの関連性を見出せなくなるのは必然です。したがって自らの生命を大宇宙・自然界にどう位置づけるか、生存および死をどう位置づけるかという究極的な視点感覚を見失うのも当然の事態と言えます。このような課題についてあらゆる宗教を超えた、あるいはそれ以前の問題として適切に理解するためには、根元的な世界観・生命観で自らの生命・心身および自然と向き合う意識変革が欠かせません。
客観性と主観性の区別に焦点を合わせると必ず突き当たる問題として、次のような指摘があります。
一番目は心理学者の河合隼雄氏 (1928~2007) の見解。二番目は理論物理学者のN.ボーア氏 (1885~1962) によるもの。三番目は同じく理論物理学者のD.ボーム氏 (1917~1992) による論述。四番目も理論物理学者シュレーディンガー氏 (1887~1961) の見解を引用した河合隼雄氏による文です。(デヴィッド・ボーム氏は、現象の有無を認識・確認する認識主体、つまりヒトが物理現象を認識するかどうかに関係なく現象は起きる事実一般を指摘しています。)
注意を要するのは、それぞれの見解はどれも一定の合理性があり、絶対的な視点や見解は存在しないこと。ボーム氏の指摘はもっともであり、私たちの認識に関わらず大小さまざまな自然現象が発生しているのは事実です。人間が地球上に出現する以前の現象を想像すれば分かります。しかし、前項で考察したように、根元的な観点では自然(現象)と人間との分離切断は問題を孕んでいます。
いっぽう、心を観察対象に据えた場合、科学的客観性とは観察者の主観性を排除して抽象されるものであるため、河合氏やボーア氏が指摘したように(認知や感覚、意識、思考、判断、表現といった主観的な)心の特性を排除して心を観察することはできません。しかしながら、他項で仏教的瞑想の視点について触れたように、宗教論ではなく一般論として、自らの心を俯瞰したり第三者的に観察したりすることは可能です。つまり、思考の上で視点をどこに置くか、自然界と人間との境界をどこに設けるか、あるいは設けるべきか否かによってさまざまなことが言えるのです。
以上のことを踏まえると、客観と主観の区別はあくまでも便宜的、近似的、部分的、一時的に言えるのであって、決して絶対的・最終的な見解ではないという認識が重要です。これを承知していないと詭弁や水掛け論を生んだり振り回されたりしかねません。さらには、根元的・本質的な視点からの考察かどうかを見極めることはもっと重要です。たとえば次の一節は、主観と客観とに分けない個人的感覚を表現していますが、とても本質的で重要な考え方ではないかと感じます。
「思考の世界では主観と客観に分離出来るが、いのちの世界から見るならば、主観も客観もなく世界は一つだ。外の世界と自分は完全に分離していると考えがちだが、いのちの世界から見た時そうではなくなる。内なるスクリーンには常に外の世界が映し出されているのが真実だ。〝内は外なり、外は内なり 主観は客観、客観は主観なり〟ということになる。」(『いのちのふる里』菅原茂著「いのちのスクリーン」p.19)
私たちの「からだ」の起源をたどると、親から無数の先祖へとさかのぼることになり、究極的には地球、宇宙へと広がっていきます。また、生物となった時点からいわゆる「食」が密接に関わっているはずです。「こころ」の起源は目に見えないので判然としないのは確かですが、「からだ」の場合と共通していると考えるのが自然ではないでしょうか。こうして生命の成り立ちを考慮すると、主客の区別という見方が本質的に成立するのか、素朴な疑問が生じます。重要なのは生命を根元的な視点から考察すると上のように言えることです。いわゆる主観的な説明であるとはいえ、言われてみれば確かにそのとおりではないでしょうか。
私たちは、日々経験することがらに対して、基本的に自分の体、心、頭を頼りに認識・評価しています。その評価は、誤認や思い込み、偏見と常に紙一重ですから、自分の(主観的)認識に誤りはないか、(客観的に)再評価することは必要です。また、主客の区別は学問的思考方法の形成・維持や、思考内容の共有のため必要であるうえに、役に立つのは明らかです。
ただし、人間の知覚領域は断片的であるという指摘をふまえると、それをさらに主観性と客観性とに分ける分析的知見の断片性はなおさらであると言えます。さらには生命の成立過程を全一的・根元的に考えると、主観・客観の区別はあくまでも便宜的に言えるのであって、部分の客観的整合性が自然の摂理とも言える「いのち」に適合するとは限りません。
なぜなら、「他と切り離して確立された自我が、自然科学を確立するための重要な条件となって」「個々の人間とは直接関係しない」 切り離された自然の分析的探求が現状の科学だからです。その基盤の〝ものさし〟こそ、他でもない西洋哲学的・二元論的な客観性であると言えます。
(備考)
客観的な理論や根拠と言われるものは、部分的に見ればたいていの場合、合理性や整合性が認められるものです。問題は、根元的な視点を欠いているとき、そこに潜んでいた欠陥や矛盾が、個人や社会の問題として表面化することにあります。
また、現れた問題・課題に対しては、大元になっているであろう原因を見つけたり、取り除いたりすることが本質的な解決(解消)であるはずです。しかし、科学的・客観的分析では、多くの場合、問題の対象を人間の〝こころ〟とは切り離して客体化(外在化)します。すなわち表面化している〝かたち〟としての問題を除去できたとして、それはあくまでも客観的かつ統計的という意味での普遍的な観点から解消。つまり便宜的で〝表面的〟な問題解決です。したがって、それ以下またはそれ以前の、主観的かつ本人にしか知り得ないような個人の心理的・潜在的な要因は問いません。いわゆる〝対症療法〟であり、これは本質的に問題の根を絶っているわけではないことを意味します。
このように客観的および科学的な理論やそれに基づく手法は、便宜的または部分的な効力を発揮しているのであって、その大きな恩恵を受けているいっぽう、それを根本的(=根元的かつ本質的)な解決策と混同したり、まして絶対的と考えたりするのは誤りです。〝いのち〟についての問いを〝専門家〟まかせにしてしまうひとりひとりの考え方に、この問題を助長する原因があると思います。
(脚注)
(参照ア)
「第一章 心のつる草」の一節 / 本文に戻る⬆︎
人間は、万物の霊長といわれていますが、そこに一つの疑問が湧いてくるのです。本当にそうなのであろうか? 確かに想像を絶する知性を発揮するし、宇宙に人工衛星を廻し、基地をつくりだしてからも久しくなりました。さらに、あの星、この星へと探査機を飛ばし続けています。
生活に欠かせないライフラインの基盤となる電気などには、核エネルギーを駆使していますが、その同じエネルギーは、軍事防衛と称される巨大な破壊兵器として、脅迫手段にも転じられます。人類が一巻の終わりの幕を引こうとしているかのように、私の目には映ってなりません。私たちが絶滅危惧種の筆頭になっていいわけはありません。
人間の能力は実に見上げたもので、その科学技術の向上は絶頂期に達しています。そのせいで、生活が浮雲に乗っているような感じもしますが、私たちが文化的生活の恩恵を満喫しているのも事実です。
確かに、万物の霊長といわれて当然かもしれません。そうです。人間は、この世で最高の頭脳を持つ、知性の神様のような生き物なのです。
私は、思いついたことを「日々の心」として書き留めていますが、そこに次のようなことを書いていました。
いのちに優劣なし
生物に優劣なし
〝特性〟あるのみ
特性を観察するとき
優劣は消滅する
そのとき
新しい自分の心に気づく
人類の優れた特性は
〝知性〟であり
闘争は知性毒であり
調和は知性愛であり
いのちの道は
大調和の道
このように、つれづれの思いを記録しているのは、自分の内面に向けたものであり、自己調和のための内なる魂の学習となっています。次のようなことも記しています。
母はわが子を宿した
そして
その子に母は宿る
母はわが子を生んだ
そして
その子の中に
自分をも産み落とした
そして
その子の中で生きる
母と父
その子の外にいる元の
母と父
そして
その子の中にも
生きている母と父
どちらも〝本物〟だ
そして
元の母と父は死んだ
そして
その子の中で育つ
母と父
永遠に繰り返される
母と子
子は母となり
子を宿し母となり
子の中に生きる
死に変わり生き変わりて
続く魂
自分の中は魂の博物館
母の子宮の中では
いのちがいのちを
いのちたらしめるための
十月十日
新しいいのちの再生世界
そこは母の〝呼吸と食〟以外は
立入禁止の聖域
また、いのちの道は一本道
口から入った食が
いのちを
いのちたらしめるための一本道
食はいのちで
食以外は立入禁止
一呼一吸天の気
一食一排地の気
天地の気はいのちの食
食はいのちの呼吸なり
万物の霊長といわれる人間ですが、次元を生きる原点に引き戻して考えるとき、果たしてどうでしょうか。もしもこの大自然界に放り出されたときのことを想像するだけで、何もかもギブ・アップすることばかりです。
人間が優れているのは〝知性〟という特性があればこそです。そして、優れているのは、単に人間社会でのことにすぎないのだと気づきます。
単身で空を飛ぶことはできないし、オリンピックのどんな競技の一流選手でも、猿やチーターや象やライオンやイルカたちに太刀打ちできないのは先刻承知のことです。裸一貫では成すすべもありません。優劣ではなく、その種が持つ〝特性〟という、いのちの平等に立たなくては比較などできようがありません。優劣は人間社会でのことであり、他の生き物が人間より、すべてにおいて劣るという見方は、白紙に戻さなくてはなりません。
人間は、いろいろとものを考え、何かをつくり上げるという創造力にかけてはものすごい能力を発揮しますが、これを、万物の霊長というより、人間に与えられた一大特性と考えてみたいものです。
特性である〝知性〟の活躍で、人間はとてつもなく広大な文化圏をつくり出しましたが、その、量的資産と同様に〝心の資産〟をも積み上げてきました。この心の資産を「魂」と呼んでみたとき、人間の魂は、私なりに考えれば、人間の遺伝子(DNA)とイコールに近いのではないかと思うのです。
人類の心と行動のすべてが、一つ一つの細胞に組み込まれている遺伝子そのものの、大部分を形成しているのではないでしょうか。これについてはもちろん、人類という種に到達するまでの、果てしない生物の精神体である「心性」のルーツに遡らなければなりませんが、人類になってからに絞って考えてみるならば、人間が人間であるための、心と体の生きざまの記憶量が「遺伝子化」したのではないかと考えてしまうのです。
ナンセンスも甚だしいとそしりを免れないでしょうが、今は、ヒトゲノムが解明されている時代です。遺伝子の数は約2万といわれ、その中で、確かに意味が解明されている遺伝子は全体の2%以下に過ぎず、大部分は何のためにあるのかさえわからないというではないですか。もしかするとそれこそ〝魂のDNA〟なのではないか、これは、ずぶの素人だからおそれもなく考えつくことかもしれません。
いずれにしても、人の心の記憶蓄積量は、他の生物たちと比べたら、とんでもなく膨大な量になると思うのです。
一人ひとりのいのちの中は、魂の巨大なダムになっています。その魂が、いのちの光の柱に絡み付くようにして生き続けています。
いのちの道は一本道です。大調和の光を放つ一本道です。そのいのちの一本道の光の中で、人間の魂は正しい調和安定の波動に見据えられ、かつ、監視・コントロールされているのです。
「日々の心 四八三」で記したように、母の子宮の中は、母の「呼吸と食」以外は絶対立入禁止の聖域なのです。いのち自身がいのちを育てている聖域なのです。その十月十日といわれる平均期間内で、人が人として再生します。このとき、圧縮し、凝縮された魂も同時に再生の道に入ります。
その間、母が摂取する「呼吸と食」以外は立入禁止の、いのちの聖域である「子宮」の中で、引き継がれてきた魂のすべても、この世の夜明けを待って、新生児として誕生します。肉体の誕生は魂の誕生でもあります。
子宮の中では、母がいただく大気の呼吸と食物の摂取によって、
いのちによる
いのちたらしめる
いのちのために
宇宙根源からの
生命エネルギーで
ごくごく自然に
肉体と精神の
一元一体の
いのちの姿になるために
その流れを続けます
ひたすら母親は、呼吸の気を送り、生命元素の〝食〟を送り続けての生命奉仕です。十月十日は、立入厳禁聖域となる子宮の小宇宙世界であり、宇宙意志のカプセルでもあるのです。
そして、機が満ちてこの世に出生した新生児は、やがて、一体のいのちとして、その骨格が完了するのは、男性でだいたい一八歳、女性で一五歳少々に達してのこと。骨の数は、新生児で約三〇〇本、最終的には全部で〝二〇六本〟になるといわれています。
一生命体が完成するまでの原形は、十月十日の、子宮という小宇宙世界で、その基盤ができあがるわけです。母親の口から入った〝食〟が胃に入って、十二指腸に入り、小腸に入り、分子・原子次元まで分解された物が吸収細胞によって取り込まれ、全身に届けられます。そこでいのちの新陳代謝が起こり、生き生きと輝く命となります。そして、子宮の胎児が育ちます。
胎児が出生するまでの、この完璧ないのちの組み立ての仕組みは、〝天のご意志〟というほかありません。
こうして積み上げられてきた人間の魂は、成長とともに、この世のあらゆる心身環境を取り入れながら、扉を一つ、また一つと開いていくこととなるでしょう。
いのちの監視の中にある魂は、億万年の心の集団です。魂に新旧はないと私は思っています。昔も今もありません。百年前も、万年前の魂も、すべて〝今〟に生き生きと輝くのです。多次元立体ではなく、一次元の、一面一体で同時再生の世界です。
浮き上がる心の条件さえ整えば、昔も今も越えた次元の〝今〟に生きてくる世界なのです。魂は活火山と同じです。条件を待って噴き上がります。その条件は、今の心でお膳立てをしています。
「今の思い」という心も亡き魂の心も、すべて、このいのちの中に在ります。いのちの〝原子〟となって生きているのです。
大地を見てみれば、種を蒔いてもいないのに、いつの間にか思い思いに芽を吹き出した草木がずんずんと丈を伸ばして花を咲かせ、実をつけ、種を育てます。太陽や水などの自然の発芽環境条件を待ちつづけて、いのちに最もよい自然条件の下で顔を出してきているのです。生命波動の共振共鳴の現象です。
たとえ、何もない荒れ地でも芽を出し始める草木たちの、そのいのちを、自分の中の魂にも重ね合わせてみることができるというものです。自分のいのちを、〝心の大地〟に見立てたとき、その心の大地から多くの魂の芽が、生きる条件を待ちながら、顔を出そうとしています。
それを〝心のつる草〟にたとえるなら、各人の心の大地から育ち始めている心のつる草は、その人の「縁結びの使者」となって、人生に大きな力となって働き続けることになりましょう。
この世界の人間のいるところ、どこにでも、心のつる草が縁結びの一大センサーとなって交錯している事実は、目には見えない光の世界です。
心のつる草は光です。なぜ光なのかといえば、心は、生命組成である原子の反応から発する電磁波と考えるからです。
心は、いのちという光の下でしか生きられない宿命を背負っています。それゆえにいのちは、一元一体二象体という現れ方をします。いのちは、元は一体のエネルギー体であって、その中では、物質体と精神体という二大特性を持つエネルギーが融合一体となって、動となり静となり、火となり水となり、中心には絶対静のゼロ磁場があると思うのです。その一体の中に二象体のエネルギーを容しているのが、私の考えるいのちの実体像なのです。その〝二象体〟は、物質体(物性=肉体)と、精神体(心性=心)という現れ方であり、その〝精神体〟の部分から発する二次的生命に当たるのが心であると考えています。いのちのエネルギーは、そのような実体像を持つ、宇宙絶対調和力(一大調和ご意志)であると思えば、心というのは常に、生命エネルギーの調和安定に引き戻される宿命の下でしか存在できないということになります。
さて、いのちの大地に根差した心のつる草は、出会いを求めて飛びかっています。光の原子が〝意志〟を持った光のつる草となって、縁結びのセンサーとなって、時空なき天地を自在無限に往来を重ねている姿こそ、現実社会であるといえましょう。
いのちの働きは〝ご意志〟の働きだと私は考えますが、そのご意志は、目に映るわけではありません。実際にどのようにして、そのご意志(いのち)が、縁結びのつる草となって飛び交っているのかといえば、人間社会の「表現媒体」にひびかせて、つまり、共振共鳴した共時性現象(通称=偶然の一致)として、現実として目に映して促しているのですが、多忙な現代人はこういったことにはあまり見向きもしないようです。
魂が知らしめる「表現媒体」とは、人類文明の「三種の神器」だと私は考えています。それは、文字・数・色による、声なき声の現実の表現形態で、そこに真実が込められています。声なき声の魂は、目に見える表現形態に現実化して生きてきます。
「いのち」を「ご意志」といいましたが、それは表現であって、現実の共時性現象下では、文字霊・数霊・色霊という媒体表現が、正しいでしょう。共時性現象(通称=偶然の一致)による現実の魂の意志表現は、文字霊・数霊・色霊によって、可視現実の表現となっているのが、これまでの体験を踏まえてわかってきたことです。
魂の表現形態が、現実社会の中で実際に現象化していることは、共時性現象体験から考えても疑う余地がありません。それは事実です。
かつては、「魂の叫びが聞こえないか…」などと先人たちから発破をかけられたものですが、まともに受け止めることはありませんでした。ところが、人生七七年も生きてきて、さらに二十数年も意識を内面世界に向けるようになってからは、次第に先人たちのいう〝魂の叫び〟が五感で感じられるようになってきました。魂の表現媒体としての「文字・数・色」のひびきによって、はっきりと理解範囲に入ってきたのです。
偶然といわれる出会いの不思議や、縁結びの不思議は、単なる一過性の話として済まされてきたのではないでしょうか。
一瞬の感動的出会いやご縁の結びは単なる表面的感動にとどまって、それ以上に結び付けるものではなかったのが、年を経てから過ぎた昔の追憶の話として、例えば、「あのときあのことがなかったら今頃私はどうなっていたんだろうか…」「あのときの一瞬の出会いでこうしてお前と一生暮らすことになるなんて…」「あのときあの人の一言で人生がらりと変わった。あれで目を覚ましたから今幸せなんだ…」などなど、人生転換にあれやこれやと心の方向性を変えてきた出会いの縁は、多くの人たちの経験知となっているものでしょう。
それらはすべて偶然の出来事として見過ごされてきました。毎日の生活そのものが、何もかも出会いであり縁結びであり人生の方向性を秘めていたとは、なかなか気づかないものです。
心に残る衝撃的な出会いだけが出会いのご縁ではありません。家を一歩も出なくても、私たちは多くの出会いの中に生きています。この世の情報がすべて出会いであり、縁結びのセンサーに触れているのです。本を読んで感動して人生の方向性が変わることだってあるでしょうし、テレビなどの視覚に訴えるビジュアルな情報からでも、心を大きく動かされることは結構多いものです。五感で受けるすべての物事が心のセンサーに触れるものであり、いわば、生活そのものが出会いの縁結びの場面であるといえます。
人生に三度の転機があるとよくいわれますが、縁結びには、「役縁と本縁」があると私は考えています。電車に例えていえば、各駅停車が「役縁」であり、下車駅が「本縁」ということになりましょう。人工衛星の打ち上げならば、一段目、二段目、三段目の推進ロケットが〝役縁〟の働きで、切り離された衛星が〝本縁〟の働きに例えられます。
人生のターニング・ポイントとなって、目の前の全景ががらりと変わるような出会いのご縁が本縁です。別世界に打ち上げられた衛星に当たるのが本縁で、電車なら、各駅停車で停まる短いスパンの出会いが役縁であり、下車駅が本縁であると考えたらよいと思うのです。
私が体験した共時性現象の中でも、劇的な人生転機をもたらした現実の出会いがありました。まさしく、人生の〝本縁〟に向けての方向性を秘めていたものでした。
ここで、そのときの一連の魂の動きとその流れを創作シナリオを組み入れて紹介することにしましょう。
出典『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』「第一章 心のつる草」八〜二四頁
(参照イ)
『いのちのふる里』「いのちのスクリーン」の一節 / 本文に戻る⬆︎
自分のいのちは、他のいのちと霊線(命の光)でつながっていることがそれとなくわかる。
原始の単細胞時代から永々時の流れの中で進化し続け、ついに、現代人の姿まで変化した。これまで発生した全ての生命世界には、どれ一つとして、命のつながりに無縁のいのちはないはずだ。
どれほどあるか夥しい数の〝種〟があって、更に膨大な数の〝個〟が存在する。ところが、生命エネルギーの本流から見たなら、どれ一つとつても別世界の命の持ち主はいないと思うのだ。それは、宇宙から発せられた地球の命の流れであり、この宇宙以外の世界からの生命は考えられない。
いのちの本体のことを命の光と言えるなら、この世の森羅万象は、命の光を本体にしてみな平等不滅の光を発していることになる。人間だけが別世界の命なのではあり得ない。働きは異なるとはいえ、命の光はみな平等にして変わりない光を発している。
この世一切が命の光で結ばれているなら話は早い。外の世界一切と自分とはみな不離一体同根の光だ。しからば、目前の風景にせよ、みな自分のいのちの中に存在していることになる。
いのちのルーツを遡及したとき、風景の一部始終に自分の命が結ばれている仕組みがわかってくるし、それは、生命同根のいのちの持ち主たちであるから理屈もない。
内なる自分の世界は、実際にこの目で見ている風景そのものであるわけだ。
風景が自分だなどと言えばいよいよ狂気じみてくるが、理屈なく本当の世界なのだ。
思考の世界では主観と客観に分離出来るが、いのちの世界から見るならば主観も客観もなく世界は一つだ。外の世界と自分は完全に分離していると考えがちだが、いのちの世界からみた時そうではなくなる。内なるスクリーンには常に外の世界が映し出されているのが真実の姿だ。
〝内は外なり、外は内なり
主観は客観、客観は主観なり〟
ということになる。
この考え方は、あくまでもいのちという万物共通の観点からであり、心の問題はまた別のことである。
〝山襞深く
雪また深く
燃え立ついのちは
大地の中
寂寥深々草木眠りて
春の目覚めは
まだ遠い〟
雪国の写真一枚見るにしても、それは、常に、命のスクリーンに依存する光景なのだ。
われわれは、発する思考力を停止して、無想の境地になった時、客観の風景は、内なる風景と合致する。外が内になり、内が外になった時、いのち本流からの波動と共振共鳴の感動が湧き上がる。激しい感動のひびきが沸き起こる。そこが、
〝いのちのふる里だ〟
山があって
川が流れ
ほとりに
耕しつづけた
田圃があって
点々と
家があって
そこで暮らす
人々がいる
出典『いのちのふる里』一八〜二〇頁
▼本の中身を見る
平成5年8月6日の広島平和公園で出合った一羽の折鶴は、「倉敷市玉島」と印刷された広告で折られていた。その地名は「日月神示」で知られる岡本天明氏の出生地。縁結びのしくみを、「心のつる草」など比喩を用いた物語を織り交ぜて表現している。
便利な生活を享受するために、工業を中心にしてひた走ってきた日本社会。そのいっぽうで、むかしもいまも、ずっと変わらずいのちの原点でありつづける食のふる里。個人の生き方として、また社会の健全な姿としてのバランスを、どうやって回復したらよいのか。食と農と生命に実感がもてぬ現代の私達。時代や社会を経ても生きる原点は変わらないはず。私達の体と心は原点に帰れるのか。
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デヴィッド・ボーム著、
井上忠・伊藤笏康・佐野正博訳/青土社/1986年
『WHOLENESS AND THE IMPLICATE ORDER』(1980年) の邦訳版。科学は物質を微細に分け入り、その「構成」粒子を発見してきた。一般に私たちは、それが物を形作っている最小単位だろうという見方をしがちだが、分析して見える粒子は、ある文脈によって「全体」から顕現した一時的な抽象物であって、そもそも宇宙は分割できない一つの「流動する全体運動」だという。専門の物理学(量子力学)をもとに論じるこの世界像は、あらゆる物事を部分化・断片化する見方に慣れてしまった私たちに、重要な示唆を与えている。