共時性と因果性
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共時性(共時性現象=シンクロニシティ=偶然の一致)は、心の深層部(「無意識層(潜在意識)」や魂と言われるもの)が関わる現象です。スイスの精神科医・心理学者であるカール・グスタフ・ユング氏をはじめ、日本では河合隼雄氏(心理学者・心理療法家、京都大学名誉教授)が、共時性の研究に深く関わっています。
以下にC.G.ユング氏による『自然現象と心の構造』のなかから、共時性の定義について説明した部分を抜粋します。
つまり、ある心の状態と、当事者がおかれた状況の意味が一致する外的事象が同時的におきるということです。
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ある女性の夢は心的事象
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女性が夢の話をしている間に起きた外的事象
この例を見てもわかるように、ユング氏が定義した「二つあるいはそれ以上の因果的には関係のない事象」とは、外的事象だけではなく、心的事象も当てはまることを示しています。さきほどの定義にあるように、ユング氏は、この例の場合、心的事象(夢)と外的事象(昆虫の出現)が、因果的に関係ないと言っているわけです。あとで触れますが、この点については注意が必要だとおもいます。
一般的に誤解が生じやすい点を指摘します。
私が乗る市電の切符が、すぐその後で買う劇場の切符と同じ番号であり、その同じ晩電話の呼び出しがあって同じ番号が電話番号として再び言われるという事実に直面するとき、(後略)(『自然現象と心の構造』C.G.ユング、W・パウリ共著、p.10、海鳴社)
上のような偶然の一致に対して、当事者をはじめ、とくに第三者が陥りがちなのは、心的事象の見落としです。単に、二つ以上の外的事象の同時的な偶然の一致(この例の場合は番号の一致)が共時性だという見方です。もちろん、まちがいではありませんが、このような場合、たいていは、量的・確率的な問題としてあつかわれ、当事者の思いこみだという結論に至るのではないでしょうか。
心理学者・心理療法家である河合隼雄氏は、著書『宗教と科学の接点』のなかで、理論物理学者のデヴィッド・ボーム氏(米国)の見解を引用しています。
人間はものごとを知覚する際に相当な捨象を行い、顕在系として存在しているものを知覚する。ボームが人間は「つねに自然をレンズを通して眺めることによって対象物化してきた」と指摘したり、彼と対談した、ルネ・ウェーバーが「思考は思考を超えるものを濾してしまう濾過器である」というのを肯定したりしている(「第二章 共時性について」>「ホログラフィック・パラダイム」p.58)
当事者であれ、第三者であれ、目に見える現象だけを対象にしているとすれば、共時性現象の本質的条件として不十分です。共時的なことがらが発生するよりも前の、またはその時の潜在的・本質的な意識と、できごとが象徴する意味との関連に目を向けてこそ、当事者や第三者にとって価値があるかどうかが判断されるべきです。
それらは客観性をもたない主観的なものであるという理由で排除しがちですが、そもそも「心」が関わる事象から「主観」を排除し 〝客観〟 で語ることが本当にできるのか、大いに疑問です。そこにはある種の矛盾があるような気がします。
また、その意味が仮にとても個人的なことがらだとしても「無意味だ」「価値がない」と断じてしまうことには疑問があります。一般的に当事者にとって意味のあることが、第三者にとって無意味に思えるのは、第三者自身には関係ない情報である上に感情移入できないからであって、それはある意味当然です。虚偽や作り話ならば論外ですが、ひとつひとつの現象・事例に対し、第三者が表面的・一面的に見て意味づけや評価を下すことは果たして公正な見方でしょうか。
言動を決定しているひとりひとりのさまざまな心が、個人的な出合いやさまざまな結果を生んでいる点は疑う余地がありません。つまり、価値があるかどうかは、目に見える部分以上にその背景など目には見えない、しかも個人的な部分にあると言えます。
小さい偶然は日常のいたるところに発見できますが、そもそも、それに気づいていない場合が大半だとおもいます。また、偶然のできごとに出合ったとき、ことがらの意味と一致する心に気づかなければ、当事者にとって、その時点では偶然のできごとにすぎません。
一見、それと共時性現象は異なるもののようですが、すべて同じような現象と言えるのかもしれないと個人的には考えています。直線的・直接的な因果関係はなくても(分からなくても)、何か意味があるかもしれないと個人的に考えてみることにはそれなりに意味がないかということです。もちろん以下のような指摘はもっともであり注意が必要です。 (以下の抜粋はいずれも『宗教と科学の接点』河合隼雄著)
短絡的な関連づけはこじつけを生み、じっさいのところ現実的な見方を見失いかねません。そのいっぽうで、統計的・確率的な視点で当事者の思いこみだと結論づけるのは、数理的な原理や法則性に裏付けられているか否かという考え方に基づいているとは言え、そもそも科学(学問)が説明できていることがらは非常に限定的かつ断片的である事実を忘れてしまっているようにおもえます。
個人的なことがらを「無意味だ」「価値がない」と断じてしまうこと、ひとつひとつの現象・事例に対し、第三者が表面的・一面的に見て意味づけや評価を下すことは適正ではないということです。「普遍的に正しいことばかりに支えられて生きていて、その人は個人として人生を生きたと言えるのだろうか。」という言葉はとりわけ印象的で的確な指摘だとおもいます。
まず河合隼雄氏の『宗教と科学の接点』からの抜粋です。
あらゆる存在は個別に独立して見えているわけですが、量子力学という微視的観点では、それはあくまでも目に見える次元で一時的に安定した形状・形質として現われているだけであり、目に見えない次元では「全一的」世界と本質的に分割不可能、ヒトも例外ではない、と要約できます。「全一」(宇宙および世界)に比する「亜総体」(小宇宙=ヒト)、心と体は「亜総体」からの派生「因子」と表現できるかもしれません。(カギ括弧内の言葉はボーム氏の著書と、それを引用した河合氏の著書より拝借したもの)
次は、理論物理学者のデイヴィッド・ボーム氏の『量子力学と意識の役割』からの抜粋です。
ボーム氏の指摘を要約すると、外的事象よりも前の心的要因(原因体)がかたちになって現れ、事後の心はさらに後に起きるかもしれない現象の「原因体」(=「全ファクターの集合体」)に加わる、ということではないでしょうか。ボーム氏は共時性について述べているわけではありませんが、上に挙げた河合氏による指摘のとおり共時的な世界観と相通じるところがあるとおもいます。
ユング氏は、「狭義の共時性は、たいていは個人的な例で、実験的にくり返しがきかない。」(『自然現象と心の構造』p.138)としながらも、「空間、時間という承認されている三組の上に第四番目として」(同著)共時的要因の存在を科学的証明によって確かなものにしなければならないという、科学者としての並々ならぬ強い信念をもって研究に没頭していたこととおもわれます。 以下も同著書からの抜粋です。
ユング博士の研究によって、共時性現象は時間の概念や空間の原理では説明がつかない、という認識が一般的です。心の中の世界は、それらの拘束を受けていないからです。私たちは、「時間や空間を超越している」という表現を耳にすることがありますが、心の中の世界は、まさしく時空を超える世界と言えます。
「時空を超える」とは、時間や空間の尺度では心の性質を量れない、ということであると同時に、心の中の世界は時間や空間の束縛からは自由である、ということです。つまり、心の奥底に存在する〝ありとあらゆる要素や事象〟は、時間的・空間的距離を超えて、「いま・ここ」に存在し得る、そして、場合によっては現象として表出し得るということです。
ヒトが物質的世界と心的世界の両方を同時的に生きていることは疑う余地がない現実です。一般に主観的か客観的か、科学的根拠は、ということばかりが問われますが、いずれの場合も根元的かつ本質的かどうかを考慮しなければ不十分だとおもいます。「自らを宇宙の中にどう定位するか」(左記より引用)、あるいは生と死、そういう視点を欠くことは、氷山の一角を見てその背景にあるはずの実像や海面下の全体像を観ないようなものではないでしょうか。
たとえば、母体である宇宙や地球。それらと切り離せないあらゆる生命。そのひとつであるヒト。そのひとりである自分。その体と心。ヒトと並んで存在するいのちを食べて紡がれつながる生命。この一連の成り立ちをふまえ、生命は肉体的にも霊的にも祖先累々の因子と切り離せないのはもちろん、「天地万物の全生命は、相互に関連のある生命ではないか」という指摘があります。(ア.『酒乱‐米の生命が生きるまで』菅原茂著「黎明期」>「生命の樹」223頁、MBC21)
じっさい、食べなければ生存できないという事実は、食がいかにたいせつか、食べた生命と同化する場としての体がいかに神秘的で重要なはたらきをしているかを明確に表しています。この現実にもとづけば、知性よりも原初的次元こそ生命の原点であり、それが「万物普遍」の次元にちがいないというのはきわめて正当な見解ではないかとおもいます。
以上のような生命の根元的かつ本質的な特性をふまえると、共時性とは、生死の境界や主客の区別を超えた「全一的」視点の尺度だと言えます。 事実、いのちの源流をたどると他者をはじめとする外界との境界は曖昧になります。また、いのちは生と死とでひとつであり、死は生存と同様に人間の知性を超えた自然現象にほかなりません。
しかし一般認識として「人々が死を拒否しようとするのは、彼らのもつ世界観のなかに死が位置づけられないからである」という米国人の傾向を述べた見解は、まちがいなく日本人にも当てはまる問題です。自らの内にある「死」を神話や宗教の解釈ではなく現実の生存と分離しないで根元的に観てこそ、生命の実像や実相を全一的という意味で適正に理解できるのではないでしょうか。(注.『宗教と科学の接点』「第三章 死について」>「死の位置」七八頁)
樹木の根幹と枝葉、一本の樹とその種子、いずれもおたがいを本質的に分離できない道理はヒトも同様です。仮に枝葉の先がいまの我々なら、根幹から枝々までは連綿と連なるいのちの歴史。つまり夥しい数の祖先です。霊的にも肉体的にもその流れや文脈のなかにヒトは存在しています。
「全人類を一本の生命の樹と見て、そこに花を咲かせている梢の先々が、我々、現世の人間の姿と見たのである。」という『酒乱‐米の生命が生きるまで』(「生命の樹」/1993)の文はそれを象徴しており、同じ著者による『神秘の大樹』(2011/2012)という題名にもそれが凝縮されています。
それらの一部または当てはまる文章すべてを資料・参照ページに掲載。以下はその1つです。また、下の「引用・参考図書」のうち、表紙画像に「▼本の中身を見る」と付いている図書は閲覧できます。
心は時空を超えて世界を駆け巡る。
出典『いのちの顔』「時空を超えた愛犬の魂」p.18▼
今や地上は情報過密世界となっている。今後ますますその度を高め、いよいよ地上は電磁・電波の濃密な波動の揺り籠となる。それらが生体に及ぼす功罪は別として、生活そのものが目には見えない光を操る時代となった。
最も原初的に言えば我々の〝心こそ光〟であり、意志伝達の電磁波ではないのか。
心は時空を超えて世界を駆け巡る。その能力の強弱はあっても宇宙の果てまで飛んで行く。思いは、天に通じ地に通じ万物普遍へと飛んで行く。
時は平成九年一月のこと。外国勤務の息子が帰省すると言うので、その時妻は愛犬の写真を頼んでいた。そして、一〇日のこと、台所の布巾が「犬」の顔に見えたのである。
その時〝一時一四分〟
息子が出発したのが〝一月一四日〟のことである。
帰宅した息子から写真を見せてもらい驚いた。〝布巾で見せた犬とそっくりなのだ〟
妻が写真を頼んだときは、既に愛犬の魂はいち早く作動していて、妻のいのちの中で有体化現象を発していたのである。
心の世界、魂の世界は、時間、空間も無く、一面一体、即時即刻の世界であり、まさに光の世界なのである。
「時空を超えた愛犬の魂」18頁
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菅原茂/MBC21/1993年
「いのちとは」「心とは」という文字通りの “命題” について、 体験を通じた非常に強いメッセージを発している。 後年、この著者は『死んでも生きている いのちの証し』『神秘の大樹』を出版しているが、 第一作である本書を読むと、 なぜこの著者が、共時性を切り口にして「いのち」を語るのか、 腑に落ちる。
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菅原茂/たま出版/1997年
共時性現象の体験記録をもとに、生命の本質は不滅だと伝えている。 酒乱人生から夫婦二人三脚で新たな人生を再出発させた著者。自らの足元を照らすかのような共時性現象の記録を随想としてまとめている。また、本の表紙を飾る稲穂はこの著書の本質を象徴している。
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菅原茂/おりづる書房/2009年
この〝いのちの顔〟は、主に、雲を筆頭にしたものが多くなっている。客観する皆さんには、必ずしも〝顔〟や〝ある形〟に似ていると思うかどうか、(中略)。俗に、偶然の出来事として、面白おかしく取り沙汰されていることでも、私にしたらとんでもない関心の高い領域であるから、子細なことでも記録に残してきた。この体験記録を改めて観ていると、そこには示唆や啓発に富んだ情報の多いことに気づかされる。(まえがきより抜粋・随想写真集)
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菅原茂/おりづる書房/2012年
文字・数・色は人間の意思だけではなく、生死の境やほかの生物などと境なく、いわゆる「霊」や「魂」の意志性を代弁している。 共時性現象(=偶然の一致)は、それを認識させてくれると同時に、一人ひとりに対するあたたかい道案内の現象だと伝えている。
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菅原茂/おりづる書房/2012年
酒乱から脱却し、自分のいのちに目覚めて間もない著者が、心おもむくままに訪れた旅先で次々と出会う「亀」。体験の記録を、第2巻と共通するシナリオ形式のコミカルな物語として展開し、縁は単なる偶然ではなく、宇宙根源に根ざす生命の本質(真性魂)による道案内だと伝えている。
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菅原茂/おりづる書房/2011年
いまを生きている自分(あなた)自身の存在こそ、肉体をまとい、服を身につけている霊魂そのものだという。 霊魂というと、わが身の外に存在し、わが身の外で起きる「現象」と考えがちだが、そもそもそれは、私たちのからだやこころに内在し、わが身の中で起きていることがらなのである。