区別は便宜的
何かを知覚したり思考したり感じたりと非常に多彩な心の働き。自然科学全盛の現代において、心の産物は主観的だとして軽んじられる場面も多くあります。心の働きや機能はつかみどころがないため、歴史上、自然科学を進歩させるために物と意識を分ける客観性を重視した西洋の考え方が非常に合理的だったのは事実です。ただ、ほんとうは奥深く霊妙であると考えられる意識世界の真相を知る人は少なく、主観性に対しては偏見がある印象を拭えません。果たして客観性とは何か、まずは言葉の意味を整理してみます。
(以下『広辞苑 第四版第六刷』)
【客観】[哲学](object) ①主観の認識及び行動の対象となるもの。②主観の作用とは独立に存在すると考えられたもの。客体。↔︎主観。
【客観性】(objectivity) 客観的であること。
【客観的】特定の個人的主観の考えや評価から独立で、普遍性をもつことについていう語。
【客体】(object) 客観②に同じ。特に主体に対応する存在。また、主体の作用の及ぶ存在。↔︎主体
【主観】[哲学](subjectの西周による訳語)客観に対する語。語源的には作用・性質・状態を担う基体(subjectumラテン)を意味する。近世以降は感覚・認識・行為の担い手として意識をもつ自我をいう。特にカントでは、主観は生得の、一定の形式・法則に従って、客観的対象を把握する先験的主観とされた。カント以後は、単に認識主観にとどまらず、実践的能動性と自由の基体として、特に主体という意味が強調されるようになる。↔︎客観。→主体。
【主観性】[哲学](subjectivity) ①主観であること、また主観に依存していること。主観の所産であること。②個人的・歴史的・社会的な条件に制約された或る主観に依存しているという意味で、客観性が乏しいこと。
【主観的】①主観による価値を第一に重んずるさま。主観にもとづくさま。②俗に、自分ひとりの考えや感じ方にかたよる態度であること。
【主体】② (subject) 元来は、根底にあるもの、基体の意。㋑性質・状態・作用の主。赤色を具有するところの赤い椿の花、語る作用をなすところの人間など。㋺主観と同意味で、認識し、行為し、評価する我を指すが、主観を主として認識主観の意味に用いる傾向があるので、個人性・実践性・身体性を強調するために、この訳語を用いるに至った。↔︎客体。
出典『広辞苑 第四版第六刷』一九九七年(岩波書店)。略号[哲]の記載を[哲学]に置き換えて表記した。
(以下『日本語大辞典』)
【客観】(対義)主観。①個人的・経験的意識にとらわれることなく、見たり、考えたりすること。object ②人間の行動・思惟には関係なく、独立に存在する物質・自然。外界。客体。object ③哲学などで、知るという主観の認識の対象になるもの。認識論上の対象。object
【客観性】 ①自己の意識をはなれていること。②物事が独立にもつ性質。③普遍妥当性。④対象に対する態度が個人的な感情をまじえず公平であること。
【客観的】(対義)主観的。①主観の働きに支配されず、第三者が批評するように公平に判断しようとする態度。②精神にかかわりなく、外界に独立して存在しているさま。③いつ誰が見てもあてはまるという性質があるさま。
【客体】=かくたい。①目的物。対象。object ②人間の精神的・肉体的・物的行為の向けられるもの。主体の主観作用の対象となるもの。存在論上の対象のこと。object(対義)主体③人間にかかわりなく独立して外界に存在する事物。人間の精神以外の物質。object(対義)主体
【主観】(対義)客観。①自分だけの考え・見方。②対象となりうる一切をのぞき、対象化できないもの、すなわち意識それ自体。subject ③外界を知覚・意識する主体。認識主観。自我。subject ④事物を見たり聞いたりして心の中にえがいた意識内容。subject
【主観性】-※
【主観的】(対義)客観的。①自分の考えを中心に、物事を処理しようとするさま。subjective ②個人的。自分勝手な。公平に物を見ないで自己の感情・意志のままにふるまうさま。subjective
【主体】①他に働きかけるもとになるもの。subject ②性質・状態・働きのもとになる本体。知・情・意の働きの統一体としての実体。subject
出典『日本語大辞典』一九八九年(講談社)※「主観性」という語は掲載されていない。便宜上「【主観性】-」と表記した。
上のとおり〝客-〟のほうは人間の作用から独立した存在であると説明しています。〝主-〟のほうは『広辞苑』『日本語大辞典』どちらも意識の働きというものに触れつつ、前者は西洋哲学における変遷や由来を、後者は「主観性」の掲載がなく「主観的」であるさまの描写が少し強いところに特徴があります。はじめに述べた主観性に対する偏見とは、後者について指摘したような傾向が世間一般に強すぎること、つまり「客観的」であるさまを重視する態度に偏っていることです。
ところが「客観的」という言葉は、理解や扱いがきわめてむずかしく一筋縄ではいきません。社会的に多用されていますが、似たような印象の表現と比較してみると、危うさを秘めていることが浮き彫りになります。たとえば、①「冷静に考える」②「俯瞰(鳥瞰)する」③「第三者的に見る」④「事実のみを抽象する」という理解の仕方はどうでしょう。
①は混乱したり感情的になったりしている思考や心情を鎮め落ち着いて考えること。②は「高い所から見おろすこと。全体を上から見ること。」(広辞苑)とされ、比喩的にも用いられています。たとえば想像上の高い視点から対象全体を観る、という場合です。③は他者(の目)になったつもりで対象を観ることであり、俯瞰とおなじように、想像力を働かせる仮想的な観察です。重要な点として、俯瞰したり第三者的に見たりするというのは、視点の位置を問題にしています。頭や心のなかで観察対象と離れた視点から観察する思考上の行為、または思考の操作です。 ④はとくに自然科学をはじめ「科学的」と言われる論理的思考・記述の手法。その際に主観性を排除する必要がある点が、前の三つと決定的にちがいます。
自分自身に対する客観視はどうでしょうか。ひとつは機械、装置を用いて数値化したり映像化したりするなど、自分の姿形や身体能力などを分析対象にすること。もうひとつは、自分の心の状態や状況などを第三者的に観察することです。ちなみに仏教(禅)の「瞑想」はいわば自己観察です。欲望、感情、思考など次々と湧いては流れていく意識の働きは、それ自体がつくり出す実体のないもの。その事実を悟る自己観察とされています。強いて言い換えるなら、観察対象である意識の動きを冷静な主体が観察する(傍らで観る)ということです。ただし、これは「客観」について辞書に記載されているように、「人間の行動・思惟には関係なく、独立に存在する」対象が客体である、という排他的とも思える明確な線引きはしません。
個人的には、上記のように仏教でいう冷静な観察のほうが、日本人が日頃「客観的に自分を見つめる」と言っていることに近いのではないかと考えています。辞書の意味を見るかぎり「客観」および「主観」は、両者の間のはっきりとした〝境界線〟のようなものを前提とし、人間の心の内を観察対象として想定していないことをうかがわせます。ただ、それを棚上げにすると、観察対象が自分自身でもそれ以外の場合でも、一般的には観察主体と観察対象とを、物理的または仮想的に分けるという特徴があります。
このいわば「切り離し」を考慮すると、「客観的に考える」ことが、上に挙げた ①「冷静に考える」ことと同じではないことは明らかです。②「俯瞰する」ことと、③「第三者的に見る(考える)」ことは、想像力の働きを前提としていますが、「客観的」は「精神にかかわりなく、外界に独立して存在しているさま」であることを意味しています。つまり、自分の心を観察対象にするとき、想像上「俯瞰する」「第三者的に見る(考える)」ことはできても、「客観的に考える」というのは、言葉の意味をよく見ると矛盾があります。しかし、観察主体と観察対象を分離する思考操作という点では共通しているため、「客観的に考える」というのは「第三者的に見る」ことであると一般に認識されていることも一応理解できます。
いっぽう④「事実のみを抽象する」とは、認識主体の個人的要素を排除すること。たとえば、「普遍妥当性」を追求する自然科学に必要とされる考え方です。あらゆる計測機械や実験装置は、いわば観察者の目や耳、脳や手などに代わる役割の担い手であり、観察者自体の「存在」をできるかぎり「消す」ことによって、中立性(独立性)や精度を担保しようとする象徴でもあります。 要するに、少なくとも自然科学において、(西洋哲学は辞書の記述から想像するに)人間の存在・関与から完全に独立した自然現象の描写・記述こそ理想としての純粋な客観性である、と定義してきたことが推定できます。
しかしながら、後で述べるように「客観」という言葉の由来や西洋・東洋の自然観の成り立ちを知るにつれ、単に表現上の適切な言葉選びという次元の話では済まない疑問、矛盾、問題に気づきます。それは、上に述べた純粋な客観性というものが本質的に存在するのかという疑問、自分の心に対する、定義されるような文字通りの厳密な客観視ということの矛盾、純粋な客観性が存在すると想定したときに生じる問題です。
(以下『広辞苑 第四版第六刷』)
【想像】①実際に経験していないことを、こうではないかとおしはかること。②実際の知覚に与えられていない物事の心像(イメージ)を心に浮かべること。
【空想】現実にはあり得るはずのないことをいろいろと思いめぐらすこと。[心理学]想像の一種で、観念または心像としてあらわれる精神活動またはその所産をいう。願望充足の機能を持つことがある。
【妄想】①[仏教](モウゾウとも)みだりなおもい。正しくない想念。②[心理学]根拠のない主観的な想像や信念。病的原因によって起り、事実の経験や論理によっては容易に訂正されることがない。
【幻想】現実にないことをあるように感ずる想念。
【欲望】ほしがること。また、ほしいと思うこと。不足を感じてこれを満たそうと望む心。
【意思】考え。おもい。「-表示」
【意志】①(will) ㋑[哲学]道徳的評価の主体であり、かつ客体であるもの。また、理性による思慮・選択を決心して実行する能力。知識・感情と対立するものとされ、併せて知・情・意という。「-薄弱」㋺[心理学]ある行動をとることを決意し、かつそれを生起させ、持続させる心的機能。②こころざし。
【意欲】①積極的に何かをしようと思う気持。②[倫理]種々の動機の中から或る一つを選択してこれを目標とする能動的意志活動。狭義には、当為に対する主観的意志活動即ち任意・恣意を意味する。
【感情】①喜怒哀楽や好悪など、物事に感じて起る気分。「-を害する」「-がたかぶる」②[心理学]精神の働きを知・情・意に分けた時の情的過程全般を指す。情動・気分・情操などが含まれる。「快い」「美しい」「感じが悪い」などというような、主体の情況や対象に対する態度あるいは価値づけをする心的過程。
【直感】説明や証明を経ないで、物事の真相をただちに感じ知ること。
【直観】一般に、判断・推理などの思惟作用の結果ではなく、精神が対象を直接に知的に把握する作用。直感ではなく直知であり、プラトンによるディアレクティケー《ギリシャ語の「対話」》を介してのイデア直観、フッサールの現象学的還元による本質直観など。
【霊感】②(inspiration)人間の霊の微妙な作用による感応。心にぴんとくる不思議な感じ。
【第六感】五官のほかあるとされる感覚で、鋭く物事の本質をつかむ心のはたらき。(五官とは、五感を生ずる五つの感覚器官。眼(視覚)・耳(聴覚)・鼻(嗅覚)・舌(味覚)・皮膚(触覚)をいう。仏教にいう五根から出た語。)
出典『広辞苑 第四版第六刷』一九九七年(岩波書店)。なお、略号[心][仏][哲][倫]の記載を、それぞれ[心理学][仏教][哲学][倫理]に置き換えて表記した。
★『知識創造の方法論』野中郁次郎著、二〇〇三年、東洋経済新聞社(『広辞苑』に掲載されていない用語だったため引用。)