区別は便宜的
客観性と主観性の区別に焦点を合わせると必ず突き当たる問題として、次のような指摘があります。
一番目は心理学者の河合隼雄氏 (1928~2007) の見解。二番目は理論物理学者のN.ボーア氏 (1885~1962) によるもの。三番目は同じく理論物理学者のD.ボーム氏 (1917~1992) による論述。四番目も理論物理学者シュレーディンガー氏 (1887~1961) の見解を引用した河合隼雄氏による文です。(デヴィッド・ボーム氏は、現象の有無を認識・確認する認識主体、つまりヒトが物理現象を認識するかどうかに関係なく現象は起きる事実一般を指摘しています。)
注意を要するのは、それぞれの見解はどれも一定の合理性があり、絶対的な視点や見解は存在しないこと。ボーム氏の指摘はもっともであり、私たちの認識に関わらず大小さまざまな自然現象が発生しているのは事実です。人間が地球上に出現する以前の現象を想像すれば分かります。しかし、前項で考察したように、根元的な観点では自然(現象)と人間との分離切断は問題を孕んでいます。
いっぽう、心を観察対象に据えた場合、科学的客観性とは観察者の主観性を排除して抽象されるものであるため、河合氏やボーア氏が指摘したように(認知や感覚、意識、思考、判断、表現といった主観的な)心の特性を排除して心を観察することはできません。しかしながら、他項で仏教的瞑想の視点について触れたように、宗教論ではなく一般論として、自らの心を俯瞰したり第三者的に観察したりすることは可能です。つまり、思考の上で視点をどこに置くか、自然界と人間との境界をどこに設けるか、あるいは設けるべきか否かによってさまざまなことが言えるのです。
以上のことを踏まえると、客観と主観の区別はあくまでも便宜的、近似的、部分的、一時的に言えるのであって、決して絶対的・最終的な見解ではないという認識が重要です。これを承知していないと詭弁や水掛け論を生んだり振り回されたりしかねません。さらには、根元的・本質的な視点からの考察かどうかを見極めることはもっと重要です。たとえば次の一節は、主観と客観とに分けない個人的感覚を表現していますが、とても本質的で重要な考え方ではないかと感じます。
「思考の世界では主観と客観に分離出来るが、いのちの世界から見るならば、主観も客観もなく世界は一つだ。外の世界と自分は完全に分離していると考えがちだが、いのちの世界から見た時そうではなくなる。内なるスクリーンには常に外の世界が映し出されているのが真実だ。〝内は外なり、外は内なり 主観は客観、客観は主観なり〟ということになる。」(『いのちのふる里』菅原茂著「いのちのスクリーン」p.19)
私たちの「からだ」の起源をたどると、親から無数の先祖へとさかのぼることになり、究極的には地球、宇宙へと広がっていきます。また、生物となった時点からいわゆる「食」が密接に関わっているはずです。「こころ」の起源は目に見えないので判然としないのは確かですが、「からだ」の場合と共通していると考えるのが自然ではないでしょうか。こうして生命の成り立ちを考慮すると、主客の区別という見方が本質的に成立するのか、素朴な疑問が生じます。重要なのは生命を根元的な視点から考察すると上のように言えることです。いわゆる主観的な説明であるとはいえ、言われてみれば確かにそのとおりではないでしょうか。
私たちは、日々経験することがらに対して、基本的に自分の体、心、頭を頼りに認識・評価しています。その評価は、誤認や思い込み、偏見と常に紙一重ですから、自分の(主観的)認識に誤りはないか、(客観的に)再評価することは必要です。また、主客の区別は学問的思考方法の形成・維持や、思考内容の共有のために必要であるうえに、役に立つのは明らかです。
ただし、人間の知覚領域は断片的であるという指摘をふまえると、それをさらに主観性と客観性とに分ける分析的知見の断片性はなおさらであると言えます。さらには生命の成立過程を全一的・根元的に考えると、主観・客観の区別はあくまでも便宜的に言えるのであって、部分の客観的整合性が自然の摂理とも言える「いのち」に適合するとは限りません。
なぜなら、「他と切り離して確立された自我が、自然科学を確立するための重要な条件となって」「個々の人間とは直接関係しない」切り離された自然の分析的探求が現状の科学だからです。その基盤の〝ものさし〟こそ、他でもない西洋哲学的・二元論的な客観性であると言えます。
客観的な理論や根拠と言われるものは、部分的に見ればたいていの場合、合理性や整合性が認められるものです。問題は、根元的な視点を欠いているとき、そこに潜んでいた欠陥や矛盾が、個人や社会の問題として表面化することにあります。
また、現れた問題・課題に対しては、大元になっているであろう原因を見つけたり、取り除いたりすることが本質的な解決(解消)であるはずです。しかし、科学的・客観的分析では、多くの場合、問題の対象を人間の〝こころ〟とは切り離して客体化(外在化)します。すなわち表面化している〝かたち〟としての問題を除去できたとして、それはあくまでも客観的かつ統計的な観点での解消。つまり便宜的で〝表面的〟な問題解決です。したがって、それ以下またはそれ以前の、主観的かつ本人にしか知り得ないような個人の心理的・潜在的な要因は問いません。これはいわゆる〝対症療法〟であり、本質的に問題の根を絶っているわけではないことを意味します。
このように客観的および科学的な理論やそれに基づく手法は、便宜的または部分的な効力を発揮しているのであって、その大きな恩恵を受けているいっぽう、それを根本的(=根元的かつ本質的)な解決策と混同したり、まして絶対的と考えたりするのは誤りです。〝いのち〟についての問いを〝専門家〟まかせにしてしまうひとりひとりの考え方に、この問題を助長する原因があると思います。
思考の世界では主観と客観に分離出来るが、いのちの世界から見るならば主観も客観もなく世界は一つだ。
『いのちのふる里』「いのちのスクリーン」▼
自分のいのちは、他のいのちと霊線(命の光)でつながっていることがそれとなくわかる。
原始の単細胞時代から永々時の流れの中で進化し続け、ついに、現代人の姿まで変化した。これまで発生した全ての生命世界には、どれ一つとして、命のつながりに無縁のいのちはないはずだ。
どれほどあるか夥しい数の〝種〟があって、更に膨大な数の〝個〟が存在する。ところが、生命エネルギーの本流から見たなら、どれ一つとつても別世界の命の持ち主はいないと思うのだ。それは、宇宙から発せられた地球の命の流れであり、この宇宙以外の世界からの生命は考えられない。
いのちの本体のことを命の光と言えるなら、この世の森羅万象は、命の光を本体にしてみな平等不滅の光を発していることになる。人間だけが別世界の命なのではあり得ない。働きは異なるとはいえ、命の光はみな平等にして変わりない光を発している。
この世一切が命の光で結ばれているなら話は早い。外の世界一切と自分とはみな不離一体同根の光だ。しからば、目前の風景にせよ、みな自分のいのちの中に存在していることになる。
いのちのルーツを遡及したとき、風景の一部始終に自分の命が結ばれている仕組みがわかってくるし、それは、生命同根のいのちの持ち主たちであるから理屈もない。
内なる自分の世界は、実際にこの目で見ている風景そのものであるわけだ。
風景が自分だなどと言えばいよいよ狂気じみてくるが、理屈なく本当の世界なのだ。
思考の世界では主観と客観に分離出来るが、いのちの世界から見るならば主観も客観もなく世界は一つだ。外の世界と自分は完全に分離していると考えがちだが、いのちの世界からみた時そうではなくなる。内なるスクリーンには常に外の世界が映し出されているのが真実の姿だ。
〝内は外なり、外は内なり
主観は客観、客観は主観なり〟
ということになる。
この考え方は、あくまでもいのちという万物共通の観点からであり、心の問題はまた別のことである。
〝山襞深く
雪また深く
燃え立ついのちは
大地の中
寂寥深々草木眠りて
春の目覚めは
まだ遠い〟
雪国の写真一枚見るにしても、それは、常に、命のスクリーンに依存する光景なのだ。
われわれは、発する思考力を停止して、無想の境地になった時、客観の風景は、内なる風景と合致する。外が内になり、内が外になった時、いのち本流からの波動と共振共鳴の感動が湧き上がる。激しい感動のひびきが沸き起こる。そこが、
〝いのちのふる里だ〟
山があって
川が流れ
ほとりに
耕しつづけた
田圃があって
点々と
家があって
そこで暮らす
人々がいる
出典『いのちのふる里』一八〜二〇頁
▼本の中身を見る
菅原茂/おりづる書房/2008年
便利な生活を享受するために、工業を中心にしてひた走ってきた日本社会。そのいっぽうで、むかしもいまも、ずっと変わらずいのちの原点でありつづける食のふる里。個人の生き方として、また社会の健全な姿としてのバランスを、どうやって回復したらよいのか。食と農と生命に実感がもてぬ現代の私達。時代や社会を経ても生きる原点は変わらないはず。私達の体と心は原点に帰れるのか。
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デヴィッド・ボーム著、
井上忠・伊藤笏康・佐野正博訳/青土社/1986年
『WHOLENESS AND THE IMPLICATE ORDER』(1980年) の邦訳版。科学は物質を微細に分け入り、その「構成」粒子を発見してきた。一般に私たちは、それが物を形作っている最小単位だろうという見方をしがちだが、分析して見える粒子は、ある文脈によって「全体」から顕現した一時的な抽象物であって、そもそも宇宙は分割できない一つの「流動する全体運動」だという。専門の物理学(量子力学)をもとに論じるこの世界像は、あらゆる物事を部分化・断片化する見方に慣れてしまった私たちに、重要な示唆を与えている。