共時性と因果性
物理学には量子力学という理論があります。原子やそれを構成する電子・原子核などのふるまいを説明するために必要とされた力学で、理論物理学者のニールス・ボーア氏(ノーベル物理学賞受賞者)がその確立に大きく貢献しました。
以下に挙げるニールス・ボーア氏のことばが示しているように、量子力学には、原子以上の「巨視的な」レベルとはちがい、「微視的な」レベルでは、そこでおきることがらの因果性を厳密にたしかめることができないという解釈(見方)が存在します。
作用量子の発見により、私たちは、原子的過程のたちいった因果的追跡は不可能であり、その過程の知識を得ようとするどのような試みも、その過程に基本的に制御不可能な影響を及ぼすということを学んだ(後略)。(『因果性と相補性』p.74)
粒子を観測するとき、それに当てる光の影響で、粒子の運動に変化が生じ、その運動量(速度)を知ろうとすると、正確な位置がわからないそうです。反対に位置を知ろうとすると、運動量を知ることができないといいます。このように、粒子の位置と運動量を同時に測定できない不確定性[※]という性質がわかったのです。それが量子レベルにおいて、現象の因果性をたしかめる障害になり、それまであらゆる物理的現象に実在すると考えられてきた「因果性」そのものが、微視的な視点からは実証できないことになります。 つまり、すべての事象は因果的にではなく、確率的におきていると言わざるを得なくなるわけです。
[※]
①不確定性原理→Wikipedia参照
「不確定性原理は実際には量子系の基本的特性を述べており、現代のテクノロジーにおける測定精度の到達点について述べたものではない。不確定性原理は全ての波のような系にもともと備わっている特性であること、不確定性は単純に全ての量子物体の物質波の性質によって現われることが今日の量子力学ではわかっている。以上のように不確定性原理は量子状態そのものが持っている不確定性であり、測定器の誤差と測定による反作用との不確定性とは区別して考えなければならない。」(以上、Wikipedia「不確定性原理/観察者効果との混同」より抜粋)
②2012年(平成24年)、名古屋大学などの研究により、ある条件のもとでは、両者の同時測定は可能であることが発見されている。→「因果性」の概念そのものを疑問視する理論は、修正を迫られることに。
(日本経済新聞社の電子版サイト参照)
いっぽう、理論物理学者であるデイヴィッド・ボーム氏は、著書『現代物理学における因果性と偶然性』のなかで、量子力学の成果や有用性を認めながらも、この実証不能であることを根拠にした因果性なしという論法に批判的な立場をしめしました。
これらは、不確定性に対する永久的・絶対的な見方への見解でした。ボーム氏は、当時の実証主義的な論法に対する批判的考察を通じて、直面しつつある(するかもしれない)物理学の限界を打ち破り、進化し続けねばならないと考えたのです。
また、ボーム氏は、一般に二つの事象が因果関係にあるように見える場合、要因と考えられるいっぽうは、意味のある原因のひとつだと考えました。(『現代物理学における因果性と偶然性』)
科学にかぎらず、私たち人間はある意味、複雑な物事を単純化しようとする習性があるようです。科学はそのきわだった例かも知れません。科学は、自然界の法則を発見し、その先の真理を追究しようとするとともに、有用なものをつくるための優れた理論でもあります。
ただ、私たちが注意しなければならないのは、一般的に認識されている「因果性」の実際は、それほど単純ではなく、もっと複雑であり、少なくとも科学的な「法則」は、とても限定的な条件のもとでのみ有効であるということです。
「われわれが五感を通じて知る世界は、いろいろな事物に分割され、部分化されているが、それらのものは暗在系[※]に対する、明在系であり、明在系においては、外的に個別化され無関係に存在しているような事物は、実は暗在系においては、全き存在として、全一的に、しかも動きをもって存在している。」(p.58)
[※]理論物理学者のデイヴィッド・ボーム氏が、人間の知覚世界を説明する際に使用した言葉「暗在系」(implicate order)。「物質も意識も暗在系を共有している」と述べた。
このように、心理学者・心理療法家である河合隼雄氏は、著書『宗教と科学の接点』のなかで理論物理学者のデイヴィット・ボーム氏(米国)のことばを引用し、人間の知覚世界を説明しています。それを視覚的なイメージとしてきわめて単純に表現すると、下の図のようになると考えられます。
ことばの上では、対立的もしくは並列的な印象のある因果性(ある原因がそれに対する結果としてあらわれるような性質)と共時性ですが、じつはそういう関係ではないようにおもいます。科学が一般的に「因果性がある」と認めているものごとの性質は、「氷山の一角」のようなものであり、私たちが認識していないところに、あらゆる現象の背景があるのではないでしょうか。
「旧知の方が訪ねてきた。祖母の代から使役してきた黒牛の話に一段と熱が入った。身代の基礎を作り上げたこの家の黒牛は、正しく家宝として親子代々にわたり飼い続けたという。ことのほか、この黒牛には思い出が深いという。胸を詰まらせて語ってくれたその方に、私は茶菓子を出し、お茶碗を手渡したその一瞬、数滴がこぼれた。なんとそこにありありと浮き出たのは…(後略)」(出典:写真・文ともに『いのちの顔』より)
以下の3つは河合隼雄氏の同著書から抜粋したものであり、同じくD.ボーム氏の見解を引用しています。
自然現象は、その背景において、共時性の発生に関与する霊的(心の発生源的)な領域[※](ボーム氏の言葉を借りると「暗在系」)を共有していると考えられます。そして、とくに科学的な論理・法則によって割り切れる物理的な領域が因果性であり、科学的な論理・法則だけでは全貌をつかみきれない領域が共時性ではないかと考えます。[※「体と心の相関性」で記述]
上の図2は、両者の関係をあらわした図1 “氷山の一角” を、いわば “上空から見て” 象徴化した図です。中心部分である科学的な因果性は、自然現象の性質のなかでは、条件を絞りこんだときに当てはまる比較的限定されたものではないでしょうか。自然現象全体からすると、いまの科学が解明できていることがらはごくわずかだといいます。全体的・大局的に自然現象をとらえたとき、それほど乱暴な考えではないとおもいます。
「輝く茜雲に後ろ髪をひかれる思いで振り向いたとき、目の前に刻々と姿を変える雲を見た。他の雲よりひときわ動きのはやい龍の体のような姿にハッと心を奪われたご仁は、素早くカメラに収めたが…(中略)その雲の姿は、あまりにもリアルで、そして、亡くなった桃太郎の姿にそっくりであったのだ。雲となった犬の目は、生き生きとご仁を見据え、さらに口元では、何事かを語りかけている姿に見受けられたという。」(『神秘の大樹 第3巻 文字・数・色で証す新次元』より)
いまを生きている自分(あなた)自身の存在こそ、肉体をまとい、服を身につけている霊魂そのものだという。 霊魂というと、わが身の外に存在し、わが身の外で起きる「現象」と考えがちだが、そもそもそれは、私たちのからだやこころに内在し、わが身の中で起きていることがらなのである。
文字・数・色は人間の意思だけではなく、生死の境やほかの生物などと境なく、いわゆる「霊」や「魂」の意志性を代弁している。 共時性現象(=偶然の一致)は、それを認識させてくれると同時に、一人ひとりに対するあたたかい道案内の現象だと伝えている。
この “いのちの顔” は、主に、雲を筆頭にしたものが多くなっている。客観する皆さんには、必ずしも ”顔” や ”ある形” に似ていると思うかどうか、(中略)。俗に、偶然の出来事として、面白おかしく取り沙汰されていることでも、私にしたらとんでもない関心の高い領域であるから、子細なことでも記録に残してきた。この体験記録を改めて観ていると、そこには示唆や啓発に富んだ情報の多いことに気づかされる。(まえがきより抜粋・随想写真集)