図・写真を除く文章のみの掲載。
第九話 タコとサケの珍道中
第十話 富士山と火の鳥
第十一話 四つの玉雲と富士山
第十二話 細胞からの三つの願い
富士山の麓には、雲の学校があります。その学校の校長先生は、雲右ェ門です。
この学校は、オーダーメードで雲を造形することが専門の、学校なのです。
入学案内には、学校の様子が以下のように書かれています。
雲の造形を学ぶコースは、学生の希望で様々な仕立て方があるため、初級、中級、上級の三段階あります。雲を造形する内容も様々なので、学生が学ぶ期間もそれぞれ異なります。この学校の基本は、雲はモノクロ、グラデーションをつけるところから始まります。但し、特別な場合を考え、カラーを学ぶ過程もあります。
入学願書は不要でありまして、いつでも、誰でも入学できるようになっております。ただし学校の受付には神様がおられまして、唯一の必要書類は神様の証明書です。所在地の神様から、身分証明書をいただき、それさえあれば即日入学ができるようになっています。
いのちの世界には、それぞれの担当する神様がおられまして、海の神様、陸の神様、川の神様、空の神様がおられます。
また情報関連では最先端のシステムがありまして、雲の学校のことはインターネットによって管理されております。すべて目に見えないライフコンピューターによって、使い勝手は抜群の優れもの。友達交流もインターネットでできます。
いのちの光通信による交流ですから、万物すべてが平等に利用できます。雲の学校では、普段体験することができない大空の散歩が目玉でありますから、一生に一度は体験することをお勧めいたします。
雲の学校は世界中にありますが、専属のカメラマンを常駐しているのは、ここ富士山の学校が唯一です。カメラマンは田之助です。
皆さまの入学をお待ちしております。
このように、雲の学校の概要が紹介されますと、インターネットを通して方々から問い合わせがくるようになりました。
ある年の十二月も半ばを過ぎた日のこと。学校の受付に二人の生徒がやってきました。
一人は、駿河湾から来たというタコ君です。愛称はタコドンというのです。大変大柄で貫録がありますから、ドン(親分)にふさわしい風貌です。 もう一人は北の最上川から来たというサケ君です。愛称はサケ殿といいます。この二人はインターネットで知り合ったとのこと。
タコドンとサケ殿は、テンションが非常に上っていました。二人は海や川の出身で、水面より上に顔を出すことなどほとんどありませんから、大空を飛べるというこの学校に来ることができ、神様に身分証明書を提出する時には手がガタガタふるえておりました。この日の入学は、無事この二人となりました。
受付の神様はさっそくカメラマンの田之助にこの二人のことをテレパシーで知らせてくれました。そのことを感知した田之助は、玄関に出ると富士山の方をじいっと見つめていました。
この日は雲一つなく、青空のすばらしい日でした。何となく落ち着かない田之助は、カメラを持ち出してきて、再び富士山を見つめていた時です。ポッカリと白い雲の塊が浮き上がってきたのです。その雲は次第にこちらの方に流れてきます。
田之助は驚きました。
「あっ、タコとサケだ‼︎」
大きなタコとぐっと小さなサケが、ペアになって気持よさそうに泳いでいるのです。専属カメラマンの田之助ですからパチリ、パチリとシャッターを切っていきます。耳を澄ましていると、雲のタコドンとサケ殿が何やら話をしていました。田之助がさらに耳をすますと、その会話がはっきりと聞こえてきたのです。まずはサケ殿の声のようです。
「タコドン、はじめまして。よろしく。ここで会えるとは夢のようだ。タコドンが大空冒険の旅のことで、友達を探していることをネットで知り、ボクはうれしかった。
サケの世界は今受難の時代に入っているから、一度は見知らぬ世界を見ておきたいと思っていたんだ。でもまさか、今ここでタコドンと会えるなんて、うれしくて体がはちきれそうだよ」
するとタコドンがいいました。
「サケ殿、ボクも同じさ。君の思いと同じなんだよ。まさか、大空に浮いて旅ができるなんて信じられなかった。
だけど今、現実となったのだから、長い旅ではないけど思いきり楽しもうじゃないか。
ボクが誘ったのだから、ボクから自己紹介をしようか。
ボクは駿河湾の海の底で、それも狭い岩場の所で生まれたんだよ。 お母さんが必死に守ってくれて、育つことができたんだ。もとより、ボクたちを狙っている恐ろしい敵がいる中で、お母さんはボクたちが巣を出るまで、一切何も食べずに守ってくれたんだ。
巣を出て、水面近くの浮遊物に身をかくしながら、ボクより小さなプランクトンをエサにして、海の底で歩けるまで過ごした。
ボクの仲間の多くは、水面近くにたどりつくまで、ずいぶん魚たちに食われてしまったよ。
ボクには何もいえない。ボクだって、プランクトンのいのちを奪って大きくなるんだもの。
その頃の記憶が、ボクに大空への夢をかりたてたんだ。
水面にキラキラ輝く青く澄んだ世界はどんなところだろうか、大きくなったら行ってみたいと思いつづけ、これまで忘れたことなど一度もなかったよ。そんな思いが、今ここにつながったんだ」
ここまでタコドンの話に大きくうなずいて聞いていたサケ殿は、自己紹介を始めました。
「ボクは北国の最上川で生まれた。上流のきれいな浅瀬にお母さんがいのちをけずって掘ってくれた巣穴に産んでくれたんだ。
生み終った母さんサケは、力がつきて死んでしまったんだ。死んだあとにも、ボクたちが元気で育つためにと、それぞれのお腹の下に、栄養たっぷりの卵黄という食べ物の袋を下げてくれたんだ。ボクたちはその袋のおかげで、エサを探す必要もなく、巣穴の中で大きくなるまで育つことができたんだ。
それからは、自分でエサを捕えて過ごすことになった。カゲロウやカワゲラなどの幼虫を食べながら、少しずつ大きくなって、河口に下って行くんだ。
そして海と川の水が混じり合ったところでしばらく体をならしてから、北の海へと長い旅に出る。そして四年後には、ふる里の川に戻るんだ。
ボクたちの先祖は、こういうことを何億年とつづけてきたのだけれど、それが今はできなくなってきた。ボクたちの仲間のほとんどは、人間に捕えられて腹を割かれて卵を取り出されてしまった。
幸いボクは、古巣のある最上川に戻ることができたが、夢も希望もうすれるばかり。そんな時ボクは、生まれたばかりの頃に見た、川面の外の世界のことを思い浮かべるんだ。そしていつか必ず、川面の外の青い大空に飛び出したいと思っていたんだ。
それが、タコドンと出会うことで、こうして実現できたのだ。
いのちのネットワークのおかげだよ。ありがとう。タコドン」
サケ殿は、うれし涙を浮かべながらタコドンに滔々と自己紹介をしました。
タコドンも、また涙をこらえながら話をきき終ると、一気に明るい雰囲気になって話し始めました。
「サケ殿も、ボクもお互いに幼い頃に夢みた大空へ飛び出すことが、今こうして現実のことになった。しかも世界の宝となった富士山のいのちの中から出発できたことは、里にかえってから大いに自慢できるな。サケ殿はどう思うかい?」
聞かれたサケ殿もこう言いました。
「ボクもそう思う。もしもこのことを皆が知ったら、誰も川に上らないで、大空に上ることになるよ。そうしたら、あわてるのは人間たちだろうな。〝一匹も川に戻ってこんよ〟とぼやくだろうな」
そう言うと、タコドンもまた大いに同調したのでした。
「サケ殿、お前の言うとおりだ。一匹も川に上らなかったら、大変な騒ぎになるぞ。〝サケの捕りすぎだ〟とか、〝人工ふ化のシッペ返しだ〟とか。〝もっと、自然を大切にせにゃならん〟と、悩むんだろうな。ボクたちも人間たちも、いのちの食として、互いに食いつ食われつで生きるのは、神様も許しているから、野暮なことは言いたくないが……無駄がすぎるのが一番よくない。タコのボクたちを最も好きなのは、日本人だときいているよ。好かれて悪い気はしないが、食われたボクたちが人間になっていることに気づいたよ。タコが人間になって、人間になったタコが、今度はタコを捕えて食うのだ。ややこしい‼︎ 神様は、むずかしいことを考えてくれたものよな。
だけどな、ボクたちを嫌いな人間もたくさんいるんだよ。タコは英語でデビルフィッシュ、悪魔の魚だというんだよ。ボクたちは、頭の上に足がついているからだというのだ。うまれながらに当り前なのにさ。人間こそ、胴の下に足がついているのはうす気味悪いよな。
食われないで済むなら、そう呼ばれてもいいけれど、ボクたちから言わせたら、人間こそ悪魔(デビル・マン)に見えてくる。デビルマン、デビルマンと言いたいよな。サケ殿はどう思うかい」
サケ殿は、タコ一族がデビルフィッシュと呼ばれて、人間からおそれられていることを初めて知ったのです。
「タコドンよ。デビルフィッシュという言葉がどうあろうとも、食われずに済むんであれば、安心というものだよ。タコドンよ。ボクたちには、手も足もないんだぞ。むしろボクたちがデビルサーモンになりたい気分だよ」
と、サケ殿は冗談のように軽く言いました。サケの立場から言わせれば、自分たちサケ一族をデビルサーモン(悪魔のサケ)と呼んで恐れてくれたらありがたいことなのに……と秘かに思っていたのでした。
サケ殿にそう言われたタコドンも、じっと考えておりました。 「サケ殿。食われずに済むんだったら、デビルサーモンもまたオツなものだ。サケ一族の大繁栄ということになるぞ。だが、増えすぎてしまうと、共喰いになるんじゃないのかい」
タコドンは少し皮肉っぽくいいました。
サケ殿はそこまで考えていなかった、とあらためて思いました。
「ボクたちサケ一族は、億万年の昔から人間や他のいのちたちと関わり合いながら、ほどよく繁栄してきたという事実がある。今さら、悪魔にならなくてもよいのか。でも皆とちがうのは、自然なのだ。昔はどの川も川上まで自由に行けたけれど、今は川を遡ることが自由にできない。自然を返してくれ!」
サケ殿は叫んだ。そして感傷的な気分から一新して、タコドンの擬態の技に話題を変えました。
「タコドン。タコドンたちは、身を守る名人芸があるそうで、うらやましい。岩になったり、海草になったり、サンゴになったりして身を守る。ボクたちにはそういった芸当がないから」
と、サケ殿が言葉を切るようにして言うと、タコドンは応じました。
「サケ殿からみれば、この技はうらやましいかもしれない。だけどボクたちは、泳ぎが苦手なんだ。ジェットエンジンみたいなものがついているといっても、イカ一族のようなすぐれた泳ぎの技はないんだよ。ピョンピョン飛んで逃げるジャンプ式で、サケ殿からみたら笑いものだ」
それを聞いたサケ殿は、
「タコドンが泳ぎの不器用なことは初めて知ったよ。それを補うように、
タコ一族には真黒い墨を吐く、煙幕の術を与えられたのか。タコの墨は一瞬にして敵から身を隠すことができるようだけれど」
と、サケ殿が返すと、タコドンは急に真顔になって、説教をはじめました。 「いのちの神様は、いのちたちに万べんなく、過不足のないように、それぞれに長所短所を与えて、大きな調和のなかで生かしつづけてくれている。人間社会でも、よく使われる言葉に〝win-win の関係〟というのがあるそうだ。
お互いの関係がうまくいくように、短所ばかりでもなく、また長所ばかりでもなく、お互いに足手まといにならないように、いのちの世界は大調和のエネルギーで構成されているのですぞ」
タコドンは、俄坊主になって講話のような話をしたのでした。変身術はタコの十八番でありますが、ここでタコ坊主の説教を聞いたサケ殿は思わず合掌をしたのでした。
「タコドンは、さすがだな。つるつる頭の俄坊主はよく似合っているぞ。説教も堂に入っているから、駿河湾に帰ったら、お寺を開いたらどうだろう。大繁昌だろうな。お勧め、お勧め」
とサケ殿は、ヤンヤヤンヤとはやしたてました。タコドンは、まんざらでもない様子。
「サケ殿は、よいことを言うじゃないか。ボクは時々思うんだが……人間はタコが大好きだよな。特に日本人は、世界の水揚げの三分の二を食べているそうで、ボクたちタコ一族は、日本人のいのちとなっている。それはタコが人間になったのだ。人間になったタコ一族が今度は、タコを食べるんだぞ。いわば共喰いだ。ナムアミダブツ‼︎ タコ坊主になって、供養する一生もまたよかろうぞ。ナムアミダブツ ナムアミダブツ ナムアミダブツ」
そんな真剣なタコドンの姿を見ると、サケ殿は笑うに笑えなくなってしまいました。タコドンがタコ坊主になったら、袈裟一枚くらいは作ってあげなくてはと、サケ殿は思いました。そういうサケ殿もまた、タコドンのことばかりも聞いている場合ではありませんでした。
サケも人間に食われて、人間のいのちとなります。人間の一部となったサケは、再びサケを食べるのです。そんなことをサケ殿が思っていたところ、タコドンが言いだしました。
「お前はボクのように格好良い坊主にはなれんだろう。ならばボクが良いことを教えてあげるよ。サケは酒になるのだ。ただの酒ではないぞ。神様に捧げるお神酒になればいい。サケが酒になる。サケて(避けて)通れないことだ。そして亡き一族たちの魂を神様に捧げるんだよ」
タコドンに言われたサケ殿は、ゆっくりうなずきました。人間も、タコも、サケも、みんな同じいのちなんだと思っていました。いのちの神様は、いったいいのちをどんな思いで造られたんだろうかと考えてもいました。
そのことをタコドンに聞いてみると、タコドンは即答しました。
「サケ殿が考えることは、ボクも同じ。宇宙の神様に聞いてみたいさ。ボクが思うに、神様は、ご自分の姿を色々に考えて、数限りなく造ってみたのだと思う。いわばボクたちは、神様が造った生命ロボットなんだよ。
そして神様は、ロボット同士が決して争うことのないようにと、大調和の魂を吹きかけてくれたんじゃないだろうか。その魂のことをボクは、真性魂と考えたんだよ。だけど……そのなかで、人間ロボットだけが独り歩きをはじめたと思うんだ。神様の真心から外れて、独り歩きをしている姿が、今の人間の姿。一人一人に与えられた神様の心(大調和)から外れて、人間同士が闘争に明け暮れているのさ」
ここでタコドンは話を止めました。さすがタコドン、説教には一理あるのです。タコドンはやはり、タコ入道なのだと、サケ殿はあらためて見直したのであります。
富士山上空を楽しく回遊していたタコドンとサケ殿には、どうやら限られた時間が来たようです。会話の一部始終を耳をそばだてて聞いていた田之助には、次第に彼らの声が聞きとれなくなっていきました。
田之助は手を振って別れを惜しみながら、カメラをしまったのでした。
昔むかし、太古の昔、地球の海も陸地も、まだ大きく揺れ動いていた頃のことです。太陽の国から、一羽の大きな火の鳥が渡ってきました。
火の鳥のお腹には、四つ子の卵が宿っていました。それは四つの火の玉で、火の鳥は地球で卵を産むために地球に渡ってきたのです。到着すると直ぐに、海の霊鳥にそのことを話しました。
霊鳥は海と陸に住む、海と山の守り神です。火の鳥から卵を託された海の霊鳥は、丁重にそれを受けとると、「ご安心下さい、火の鳥様。きっと立派に育て上げ、陸の霊鳥にお渡しいたします」と言いました。
その返事を聞いて安心された火の鳥は、太陽の国へと還って行きました。
卵を受けとった海の霊鳥には、時間や空間の概念がありません。千万年も、億万年もただ一心に、火の鳥の卵を守りつづけました。
やがて卵の中の四つの火の玉が成長期に入ったことを察した海の霊鳥は、陸の霊鳥にそのことを知らせ、受け渡すことにしました。受け取った陸の霊鳥は、熱い思いで一心に守りつづけました。
卵の中で育つ四つの火の玉は、一の火の玉、二の火の玉、三の火の玉、四の火の玉です。順々に殻の中で育つのです。そして陸の霊鳥が守る中、いよいよ成長のピークを迎えることになりました。
一の火の玉が成長すると、二の火の玉と一体になりました。二の火の玉が成長すると、今度は、三の火の玉と一体になりました。そして三の火の玉が成長のピークを迎えると、四の火の玉と一体になりました。
いよいよ火の鳥の念願であった、不死鳥誕生の時がやってきました。陸の霊鳥は、あらん限りの翼を広げて、見守りました。
四の火の玉は、四つ子たちのいのちの総力を出して巨大な殻を破り、外界へと飛び出ようとしました。しかし、火の鳥の念願だった不死鳥への成長はできたのですが、陸の霊鳥の巨大な翼の中から飛び立つことはできませんでした。
そして不死の鳥から不死の山へと、姿を変えました。火の鳥の卵から産まれた四つ子は不死の山となり、その後間もなく名を改めて富士山(不死山)となりました。
優美な富士山はその後、長い時間を経て世界の宝となったのです。これを知った陸の霊鳥は、火の鳥から託された役目も終わりを遂げたことを知りました。そして自らはいずこへともなくその姿を消したのであります。
*平成二十五年(二〇一三年)六月二十二に世界遺産に登録
四つの丸い玉雲が地平線上にあらわれたのは、富士山の東寄りの方向でありました。
雲は何でも 知っている
雲の運転 神様よ
台風のせて やってくる
雨風のせて やってくる
雲は水の子 地球の子
ぐるぐるまわって 休みなく
いのちをつくって 休みなく
時には知らす 神心
雲は何でも 知っている
雲の運転 神様よ
一つの雲が 四つに分かれ
丸くまるめて 夕日に照らす
四つの火の玉 富士の山
富士の生い立ち 火の玉四つ
先小御岳に 小御岳火山
古富士火山に 新富士火山
四つの火山が 一つになって
四つ合せて 富士の山
四つの火の玉 富士の山
世界の宝を 暗示する
火の玉のように見え四つの丸い雲に出会ったのは、平成二十四年(二〇一二年)十一月二十七日の夕刻のことでありました。カメラマンの田之助が、東の空に刻々と変化する一群の雲に出合ったその時、思わず天意を感じたのです。この時、一瞬、田之助の体が浮き上がりました。
そしてカメラを持ち出すのももどかしくシャッターを切り、夢中で二~三枚撮りました。すでに丸い雲は形を崩し始めていたのであります。これこそ天意のあらわれというものなのです。
出会いを促され、何かを予見すること。これは「天意在り」ということが、ほんの一瞬でも示される瞬間なのかもしれません。
それは、科学的に考える気象の見地とは馴染まない、「霊体(心性エネルギー)」と言えるもの。神の秘密、すなわち神秘の領域なのでありましょう。
四つの火の玉のような雲があらわれてから約七か月後、平成二十五年(二〇一三年)六月二十二日に富士山が世界文化遺産に登録されることになりました。
「このことと七か月前の四つの火の玉の丸い雲とは、なにか因果を秘めているのだろうか。雲は言葉で説明することはできない。雲は無言にして多弁なものだ」
田之助は、心の中でそう思いました。
宇宙創造の天意は、人間各人が自分のいのちに問うほかはないものです。天意とは神秘の極み。
天意はいつも微に入り細にいり、調和安定のための啓示を示しつづけています。四つの火の玉、そのように見えた雲の玉は、そのひとつの著れにすぎません。
この赤く丸い四つの火の玉のような雲は、何かを暗示するかのように、もしくは何かを象徴するように、宇宙の子、地球の子たちに天意の代理としての〝雲を介して〟示されたのでありましょうか。
私たちは常日頃、忙しく走り回っているせいか天意(神の意志性)とは無縁に過ごしてきたようです。ですが、その神秘の心性エネルギーは、雲の中で生きているのであります。
私は細胞 微生物
一〇〇兆個の 微生物
私の願いは 三つある
きれいな水と 簡素な食事
そして一つは 調和の心
三つの願いを 聞いてくれ
私は細胞 微生物
一〇〇兆個の 微生物
どうかよろしく 願います
私は私であって私ではない。そんな思いにさせたのは、二枚の写真からであります。富士山と神田川、そして富士山と芝川の写真です。それは単に山と川なのではなく、自然の循環を思い、それに自分のいのちの循環を重ね合わせることができるからです。
重ね合わせができた時、すべては何の違和感もなく一体になります。何一つかけ離れたものはありません。すべてが、巡りの中で結び合っております。
それらは自分の外の世界の話ですが、ひるがえって自分の中の世界を顧みてみれば、人体の一つひとつ、その完成度には神意を感ぜずにはいられません。生命の最小単位といわれる細胞は、あらゆる生命機能を備えていて、人体は一〇〇兆個ほどの細胞で構成されているといわれています。その細胞もまた、三〇〇種類近くにも分かれており、人体の各部位・器官を構成しています。細胞一つひとつに聞いてみれば、どこまでが自分であってどこまでが自分ではないのか、さっぱりわからないという感覚なのかもしれません。細胞をさらに細かく、分子→原子→素粒子へと掘り下げてゆくと、その行き着く所は、神であり、神のご意志の次元に入るのではないでしょうか。
それはさておき。私は私であって私ではない、と感じている私は、一〇〇兆個の細胞の塊であります。
その細胞たちから私は、「三つの願い」を託されました。それはきれいな水と、簡素な食事そして調和の心の三つであります。
細胞からのこの三つの願いは、一〇〇兆個の細胞が元気で生き活き活躍できるための必死の願いです。生命の最小単位である細胞は、元気で生きてゆくために私(本人)に向けてこれらの願いが叶うよう、いつも一心にアピールしているのであります。
一、「きれいな水」
ここは富士山 富士宮
汚れを知らぬ 神田川
源流いずくと たずぬれば
浅間大社の 庭に湧く
湧玉池が ここにあり
富士宮は清流に恵まれており、神田川、芝川、稲子川、潤井川、そして日本三大急流の一つ富士川が清流を供給しつづけております。「細胞の願い」の〝きれいな水〟に充分応えております。
二、「簡素な食事」
一呼一吸 天の気
一食一排 地の気
天地の気は いのちの食
食はいのちの呼吸なり
生きてゆくための必須条件は、食事であります。毎日欠かすことのできない生命を維持する行為であります。入口(食べる口)は一つ、出口(尿と便の出口)が二つの一本道の中で、一〇〇兆個の細胞は、毎日運ばれてくる食物を待っております。
食はいのちの呼吸であり、生死に直結する行為であります。
三つの願いの一つ目、〝きれいな水〟は、血流を順調に運び、体のすみずみまで食事を届けてくれる流れでございます。その流れを汚さないためにも、簡素でバランスの良い食事を細胞のいのちたちは望んでいます。
そのための食事の基本モデルとは、「一日二食」「玄米・みそ汁・納豆・お茶を摂ること」であります(以下の四点は、あくまでも筆者の基本モデルです。体調、嗜好などの個人差は多様でありますから、参考例となれば幸いです)。
■玄米
二人の一食分として、うるち米一合に水三合を加え、柔かめに炊き上げます。
■味噌汁
だしと具だくさんの味噌汁です。だしは食べるイリコなど、具は根菜、葉菜、海草など。
■納豆
黒大豆納豆が好ましい。プラスαでキムチなどの発酵食を混ぜてもよいでしょう。
■お茶
ほうじ茶、煎茶、抹茶、玄神(ブラックジンガー)など。細胞一つ一つは、最小単位の生命体です。直接本人のいのちを守る最前線で働いています。細胞が活き活きとして新陳代謝が活発であることはすなわち、本人も活き活きしていることと同義なのです。
三、「調和の心」
私は細胞 微生物
一〇〇兆個の 微生物
私の願いを 聞いてくれ
どうかよろしく 願います
調和の心とは、何にも片寄らない心です。何かに夢中になることは時によいことでしょう。ですが、それが自らの全てとなり執着となって、排他的になることには、一線を超える危うさがあります。
寛容度の高い、ひろい心は、細胞に過度の負担をかけません。調和不偏は、いのちに適った心といえましょう。こうした片寄らない心には、共にユーモアの心、遊びの心を忘れぬことも大切です。
車のハンドルには一八度の遊びがあるといわれます。それは〝間をとる生き方〟にも通じます。偏りのない心で、ユーモアや遊びの感覚を持つことは、細胞に大変有益に働くことでありましょう。
以上が、細胞からの三つの願いであります。
©︎おりづる書房