共時性と因果性
ユング氏は「狭義の共時性は、たいていは個人的な例で、実験的にくり返しがきかない。」と述べています。たしかに、本人でなければ実感しにくいのは事実ですから、個人的な例は第三者によって客観的に評価できないという点は一般論として挙げられます。ただし、実験によって科学的な法則性を証明する手法を適用できることがらは、そもそも限定的であるはずです。(⒈『自然現象と心の構造』p.138)
また、心は常に変化していて一定ではない性質があることを考慮すると、「実験的にくり返しがきかない」のは、ある意味当然のことではあります。物の性質にくらべて、心の性質はいっそう不安定であると考えられるので、狭義の「因果性」という尺度ではとらえ切れないということです。ですから、偶然の一致(共時性)が「因果的には関係のない」というのは、関連がないという全面的否定ではなく、今の物質科学の尺度(=因果性)では説明ができないと受けとめるべきです。このことをふまえると、共時的なことがら同士は因果的に関係ないという論理、または「非因果的」という表現には、誤解を生む可能性があることがわかります。(⒉『自然現象と心の構造』p.33,⒊ 同 p.39)
というのも、私たち一般の日本人には、もともと仏教用語としての意味をもつ「因果」という言葉のほうが感覚的に何となく馴染みがあると考えられ、科学に適用される狭義の「因果性」と混同するおそれがあります。物の見方・尺度・その理論である科学が、「因果」の概念に対して正否を判定したり、観念そのものを否定したりしているとは考えられません。物質科学的な手法では因果性を判定できないという見地から、以下のようにユング氏は(同著書において)結論づけていると考えられるのです。
共時性現象のもつ意味が、個人的(特殊)か普遍的かは、心の方向性が大きく関わっているとされます。科学的・客観的尺度とはちがって主観的であるとはいえ、縁を引きよせる当事者の心が、何を観ているのか、どこに向いているのかによって、現実に起きることがらにも差が生じるということです。心の次元や純度、思いの深さなどに応じて、縁にも差が生じると考えることは、心と体の関係や先ほど述べた心と物質一般の関係をふまえると、さほど飛躍したものではないとおもいます。
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菅原茂/たま出版/1997年
共時性現象の体験記録をもとに、生命の本質は不滅だと伝えている。 酒乱人生から夫婦二人三脚で新たな人生を再出発させた著者。自らの足元を照らすかのような共時性現象の記録を随想としてまとめている。また、本の表紙を飾る稲穂はこの著書の本質を象徴している。