共時性と因果性
「非因果的」「因果的には関係のない」という解釈には、主観と客観とを明確に区別する西洋的世界観を背景にもつ「科学」的根拠の枠内で結論づけるしかない事情があることを理解する必要があるのではないかと考えています。ユング氏はどうしても非因果的と言わざるをえなかったのではないかということです。(⒈『自然現象と心の構造』p.33)
河合隼雄氏は次のように指摘しています。「超感覚的知覚 (Extra-Sensory Perception 略してESPという) の現象に関しては、それをエーテルとか特別な電磁波などによって伝播の可能性を因果的に説明しようとする試みがなされてきた。これに対して、ユングはそのような因果的説明を拒否するところに特徴がある。そして、その上で意味のある事象の重なりが非因果的な布置 (acausal constellation) をつくることがあり得ることを認めようというのである。つまり、因果律と共時性は、事象を研究する上において相補的な役割をなすものであり、両者はまったく性格を異にする原理であることを認めるのである。」(『宗教と科学の接点』「第二章 共時性について」>「共時性とは何か」p.40~41、ふりがなと下線は引用者によるもの。)
(西洋哲学的世界観を背景にもつ)因果律で説明できない事象であろうと、在るものは在ると学問的に認定するために、因果律とはまったく別の原理として共時性を位置づけようとしていた、というのが上記の指摘です。いっぽう、その因果律に比べれば非常に曖昧ながらも、東洋では客観・主観の境界ではなく、共時的事象とその背景にあるものとの間に「因果」という関連性を観ていたということではないでしょうか。「因果的には関係のない」という考え方に対して個人的に少なからず違和感を覚えるのは、このような世界観のずれがあるからではないかと考えています。
偉大な実績を積み重ね、私たちに恩恵をもたらしてきた科学ですが、心は解明できていないことが多いのも事実です。また、仮に私たちの知識が更新されていないままだとすると、結果として心の奥深さや神秘性を見落としたり排除したりすることになりかねないようにおもいます。
科学的根拠がなければ怪しいという世の中の空気は当時も今も変わらないのかもしれません。ただ科学を信奉するのであれば、科学者のなかには先述のように専門を踏まえた考察によって、心的「因子」と「物質的宇宙」とを関連づけた人が存在しており、科学のありように一石を投じていることを知っておく必要もあるのではないでしょうか。(⒉ 理論物理学者デヴィッド・ボーム氏)
ユング氏は「空間、時間、因果性という承認されている三組の上に第四番目として」共時的要因の存在を科学的に確かなものとしなければならないという科学者としての強い信念のいっぽうで、科学で割り切れない現実に葛藤していたのではないかとおもいます。生命に対する見方(生命観)が問われているいまの時代、先人の研究とその意志を正しく引き継ぎ理解することで、先入観や固定観念を脱する必要があるのは言うまでもありません。故・ユング博士も、進歩をいちばん望んでおられるのではないかと想像します。(⒊『自然現象と心の構造』p.132)
人間が知性によって獲得した高度な学問的成果や精神的成果、たとえば科学、宗教、思想、哲学。上述のように私たち現代人の世界観や生命観はこれらの影響を少なからず受けています。しかし、ヒトの生命は、知性や心、それらを超越する精神的な本質(霊や魂)だけで存在しているわけではありません。
いま述べた「知性」の成果にはもちろん意義があります。しかし、生命を根元的に支えている食、それと融合する精緻で高度な働きをしている「からだ」の存在を置き去りにして、この命題を語ることは本来できないはずです。この点に関する参照資料として、書籍『酒乱‐米の生命が生きるまで』『神秘の大樹』(ほか)の一部または当てはまる文章すべてを抜粋し、参照・資料ページにまとめて掲載しています。また、下の「引用・参考図書」のうち、表紙画像に「▼本の中身を見る」と付いている図書は閲覧可能です。
人知の独走だけでは、バランスに狂いが生じやすい。余計なことかもしれないが、人知に乗って自然智を外れずといったところである。
『神秘の大樹Ⅰ偶然が消える時』「いざなうコスモスの花」▼
昭和六三(一九八八)年一〇月二七日午後一時、二〇キロ先まで商品配達のため出かけることになった。妻も一緒に行きたいと言って、慌ただしく着替えをして出てきた。いつもと様子がガラリと違っているのに驚いた。
ズボンは、コスモスと思える花柄模様でびっしりだし、シャツといえば、これまた小さな花の図柄でぎっしり織られている。いかにもコマンド兵を思わせる迷彩色に見えて、少々辟易気味になったが黙過して出発した。
一五キロ程度走った頃から川の堤防を走ることになった。眼下には、キラキラ輝きながら滔々と流れる最上川が目に入り、広大な風景に心ひかれたかと思ったら、今度は、路肩一面が花畑に変わり、そのあまりの美しさに運転も忘れがちになるほどであった。
そこには、コスモスの花が、赤・白・ピンクなど多彩な色合いで咲き誇り、花の屏風は延々と続いていた。
咲き揃う花園を見た妻は、感動のあまり身を乗り出して
「ここだ!」
と、我を忘れて叫んだ。それが何であるか私には分かった。コスモスの花と衣服の花柄は互いに共振共鳴し、妻の魂の中から燃え上ったのである。
ただちに車を止め、妻はコスモスの花畑に分け入った。風で揺らぐ一面の花が、無言の喜びを分かち合っているかのように感じられた。妻は、花の精気に包まれて、子供のように心うきうき感動したのである。
コスモスの花といえば、いかにも秋を締めくくる錦絵となって道行く人々の心を安らげてくれる風景である。
どうしてこのような現象が起こるのであろうか。一口で、透視的共時現象ともいえそうだが、「透視」という神秘用語に私は馴染めないのである。
花というコスモスの心性波動と、妻の心がなぜ融合したのか、二〇キロ先の遠隔の地で、どうして待ち合わせをしたのであろうか、その謎解きは、あくまでも妻自身の意識状態の位置にあると思える。
植物の心性波動に心の位置を置かなくては、コスモス群と、そのエネルギーの共振共鳴はできないであろう。植物の心性エネルギーと同調する意識とは、と考えたとき、はっと気づかされる妻の言動があった。
「私には機械はいらないんです…」
さらにまた、「米の心で生きているから…」などとさりげなく言っていたことがある。いわば、植物の心性波動と同調できる意識にあるといえる。
ここで、いのちというものを端的に考えたとき、まず宇宙生命があって、その中に地球生命がある。その地球生命の体温の中で密接に生きている植物生命がある。植物は大地に根を下ろし、地球生命の情報を微細にキャッチし、また地上では、枝や葉や幹によって宇宙生命の情報をこれまた微細にわたってキャッチしている唯一の生物であろう。
いのちの最前線といえばこの植物たちであるし、他の動物たちは、大地から離れていてひたすら植物を食うことで生命を繋ぐ生物といえる。生命界の情報量において動物は植物には到底及ぶものではないし、ましてや、知性を最大の武器とする人間は、自然界の生命エネルギー情報のキャッチにおいてきわめて退化傾向にあるのではないか。そのことは、自然力、そして、自然智という感覚から次第に遠のくことを意味する。
人知の独走だけでは、バランスに狂いが生じやすい。余計なことかもしれないが、人知に乗って自然智を外れずといったところである。
偶然の一致と思われている共時性現象は、生命の最前線ともいえる植物が、人間のいのちに転換する次元で多発する現象と考えている。
私は、人間なら植物である食物(米を中心にした五穀・野菜など)が口から入って胃で燃えて小腸で人のいのちに転換される最前線を、〝生命エネルギー転換次元〟と考えている。いわゆる原子エネルギー次元と考えるし、意志性波動をもつ次元と考えているのである。この霊的次元が万物普遍の情報源であると思っている。コスモスの花から発せられた色彩の心性エネルギーは、妻の境地の次元と共振共鳴していたのではないだろうか。
「いざなうコスモスの花」22〜25頁
『神秘の大樹Ⅰ偶然が消える時』▼(同じ著者による『死んでも生きているいのちの証し』▼にも「コスモスの色と妻の〝ヘソの中〟」(四五頁〜)として、ほぼ同様の文章が掲載されている。)
概念としての知識だけでは、むしろ、混乱が生ずるから注意しなければならない。
『酒乱‐米の生命が生きるまで』「守護の窓口となった妻と自然律(悪は、この世の仮りの姿)」▼
(中略)
そのため、心の習慣と肉体の習慣を、日々、粗末にできない理由が、生命の裂けるほど、わかってくる。そして子孫のどこかで、必ず目覚めなくてなんとするか!!
この永々と続いた悪習慣は、自分の過去だけのものなのか、あるいは、両親の代からのものなのか、さらに、それよりも、もっともっと先の時代にまで遡るのかは、人それぞれに異なっている。
ただ、ここではっきりしていることは、子孫の誰かが、この先祖ぐるみの悪習慣を断ち切らなくてはならない。命がけで、生命に恥じない人間性を取り戻さなくてはいけないのである。
そのためにも、単に人間的自我というくらいでは到底太刀打ちができない。自然界の愛が窓口にならなくては、汚れ切って、軟弱化した人間の心を、浄めることはできないだろう。
人間発生前の、生命の愛に戻って、我々を、
「生かして、生かして、生かし続ける愛の力」
を借りなければ、人間は改心できない。
すべての宗教を超えて、生命の愛に目覚めなくては、心の汚れは浄められない。私に潜んだ、酒乱で汚れ切った心は、妻の真心の一念で、生命の愛に目覚めさせてくれたのだった。米と酒の生命が、妻の生命の光を通して、私の心の中で生き返ったのである。
このことは、とても理解に苦しむこと、あるいは、低俗なことだと言われるかもしれない。だが、今、本当に、自分が迷っている時、そこから目覚めるためには、高尚な精神論や、宗教論で救われるだろうか。
少なくとも、酒乱の人生から自分を目覚めさせてくれたものは、ただの主婦である妻の守りのお蔭だった。一念の真心(愛)は、人間的自我(煩悩的自我)を超えた愛の心となり、私の汚れた心を浄めてくれた。
この妻の愛は、あまりに当たり前過ぎて、かえって説明に苦しむところだが、それは、人間的、都合的、犠牲的な愛ではない。また、男女の愛、親子の愛とも違う。それでは、どういう愛なのか。一口で言うなら、生かし続ける沈黙の愛だと、言える。また、宇宙心霊(生命界の心)が、妻の生命にがっちりと生きたのだと思われる。
妻が、よく言う言葉に、
「人間以前の食物たちの生命(心)に戻らないと、人は成仏できない。人霊の活躍は、まだ自我がある。人間以前の生命の愛がないと成仏できない」
と、いうことがある。
このことを知るためには、まず、毎日の食事に心を向けるがよい。食べることによって、生きることができるのは、当たり前のことだ。
もの言わぬ米を食べ、そして、野菜、魚、その他一切の食物を食べて、こうして、自分の心が生まれ、声が生まれ、言葉が生まれ、走り回り、今日を生きる人間。この、生かす力(愛)しかない食物たちと、融合一体となって、その尊い声なき心を受けることができる。酒乱の夫と過ごす尊い人生、三十三年の中で、人間を諭し続ける生命界の心と、通じ、結ばれ、生きた。そこには、いかなる理論の余地もない。
そこにあるものは、丸裸の透き通った光だけの生命しかない。そして、黙する生命の光の受け皿となった妻。しいて言うなら、沈黙の心々の世界から見たなら、灯台の光のような妻を見ているようなものであった。
だから、米の生命は、妻の生命の光を見て、心を寄せる。酒の生命も寄ってくる。酒の心は、妻を通して叫ぶ。
「喜び、安らぎで飲むんだよッ。浄まりの生命だよッ。神に捧げる生命だよッ。汚すのは、人の心だぞッ」
また、米の心は言うだろう。
「米寿の祝いとなる生命だよッ。八十八(88)の数にも、生きられる生命だよッ。磨き抜いて、御神酒にもなる生命だよッ。生命を汚してはならないよッ……」
と、人の体の中から叫んでいるだろうし、米、酒、食物一切、また、自然界の心々、そして、人霊の心々たちも、人の世のために、代弁してくれる妻の生命に寄ってくる。声となって、文字に生きて、数に生きて、色に生きて、寄ってくる。そして、見えざる生命の世界の心々を、人々に伝えていただく喜びが、こちらにも感じられる。
天地の生命の愛で生かされる人間界は、必ず、一人一人の生命の中から、目覚めさせられるであろう。そして、妻の守りは、沈黙世界の、見えざる、生かし続ける愛、その愛そのものの守り姿であった。
だから、米の生命も、酒の生命も、私の生命の中で、力強く生きた。
まず、心の突破口は、食物たちや、自然界の生かし続ける生命の愛を、自分の心で、ガッチリと感じられるようになれば、不調和な人生から、目覚めることが早まると思う。概念としての知識だけでは、むしろ、混乱が生ずるから注意しなければならない。
こういう、生命の原点に、真心から感謝できる心(愛)が目覚めたなら、自らを救うことが必ずできる。
不調和な心(悪性)は、目覚めなき迷いの心だから、悪はこの世の仮りの姿だと言える。
(後略)
「守護の窓口となった妻と自然律 (悪は、この世の仮りの姿)」109〜113頁
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菅原茂/MBC21/1993年
「いのちとは」「心とは」という文字通りの “命題” について、 体験を通じた非常に強いメッセージを発している。 後年、この著者は『死んでも生きている いのちの証し』『神秘の大樹』を出版しているが、 第一作である本書を読むと、 なぜこの著者が、共時性を切り口にして「いのち」を語るのか、 腑に落ちる。
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菅原茂/おりづる書房/2011年
いまを生きている自分(あなた)自身の存在こそ、肉体をまとい、服を身につけている霊魂そのものだという。 霊魂というと、わが身の外に存在し、わが身の外で起きる「現象」と考えがちだが、そもそもそれは、私たちのからだやこころに内在し、わが身の中で起きていることがらなのである。
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菅原茂/たま出版/1997年
共時性現象の体験記録をもとに、生命の本質は不滅だと伝えている。 酒乱人生から夫婦二人三脚で新たな人生を再出発させた著者。自らの足元を照らすかのような共時性現象の記録を随想としてまとめている。また、本の表紙を飾る稲穂はこの著書の本質を象徴している。