引用・参考

(リンク:ページ内)

 

  • 『広辞苑』第四版、新村 出しんむらいづる 編、岩波書店、1997年
  • 『日本語大辞典』梅棹忠夫/金田一春彦/朝倉篤義/日野原重明 監修、講談社、1989年
  • 『場の観点から認知を捉える‐主観的把握と客観的把握再考‐』(早稲田大学・東京学芸大学)https://www2.u-gakugei.ac.jp/~gangzhi/wp-content/uploads/2012/12/JCLA2016(大塚・岡).pdf
  • 『客観性』ロレイン・ダストン、ピーター・ギャリソン著(への論評)https://researchmap.jp/Yasuhiro_Okazawa/published_papers/33658546/attachment_file.pdf
  • 『こころの時代〜宗教・人生〜』「瞑想(めいそう)でたどる仏教〜心と身体を観察する ⑹」NHK、2021年
  • 『宗教と科学の接点』河合隼雄 著、岩波書店、1986年
  • 『ニールス・ボーア論文集1因果性と相補性』ニールス・ボーア著、山本義隆 編訳、岩波文庫、1999年
  • 『現代物理学における因果性と偶然性』デヴィッド・ボーム著、村田良夫 訳、東京図書、1969年
  • 『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』菅原茂 著、おりづる書房、2011年
  • 『いのちのふる里』菅原茂 著、おりづる書房、2008年
  • 『全体性と内蔵秩序』デヴィッド・ボーム著、井上忠/伊藤笏康/佐野正博 訳、青土社、1986年

 

 

以下『広辞苑 第四版第六刷』より

 

【想像】①実際に経験していないことを、こうではないかとおしはかること。②実際の知覚に与えられていない物事の心像(イメージ)を心に浮かべること。

 

【空想】現実にはあり得るはずのないことをいろいろと思いめぐらすこと。[心理学]想像の一種で、観念または心像としてあらわれる精神活動またはその所産をいう。願望充足の機能を持つことがある。

 

【妄想】①[仏教](モウゾウとも)みだりなおもい。正しくない想念。②[心理学]根拠のない主観的な想像や信念。病的原因によって起り、事実の経験や論理によっては容易に訂正されることがない。

 

【幻想】現実にないことをあるように感ずる想念。

 

【欲望】ほしがること。また、ほしいと思うこと。不足を感じてこれを満たそうと望む心。

 

【意思】考え。おもい。「-表示」

 

【意志】①(will) ㋑[哲学]道徳的評価の主体であり、かつ客体であるもの。また、理性による思慮・選択を決心して実行する能力。知識・感情と対立するものとされ、併せて知・情・意という。「-薄弱」㋺[心理学]ある行動をとることを決意し、かつそれを生起させ、持続させる心的機能。②こころざし。

 

【意欲】①積極的に何かをしようと思う気持。②[倫理]種々の動機の中から或る一つを選択してこれを目標とする能動的意志活動。狭義には、当為に対する主観的意志活動即ち任意・恣意を意味する。

 

【感情】①喜怒哀楽や好悪など、物事に感じて起る気分。「-を害する」「-がたかぶる」②[心理学]精神の働きを知・情・意に分けた時の情的過程全般を指す。情動・気分・情操などが含まれる。「快い」「美しい」「感じが悪い」などというような、主体の情況や対象に対する態度あるいは価値づけをする心的過程。

 

【直感】説明や証明を経ないで、物事の真相をただちに感じ知ること。

 

【直観】一般に、判断・推理などの思惟作用の結果ではなく、精神が対象を直接に知的に把握する作用。直感ではなく直知であり、プラトンによるディアレクティケーギリシャ語の「対話」》を介してのイデア直観、フッサールの現象学的還元による本質直観など。

 

【霊感】②(inspiration)人間の霊の微妙な作用による感応。心にぴんとくる不思議な感じ。

 

【第六感】五官のほかあるとされる感覚で、鋭く物事の本質をつかむ心のはたらき。(五官とは、五感を生ずる五つの感覚器官。眼(視覚)・耳(聴覚)・鼻(嗅覚)・舌(味覚)・皮膚(触覚)をいう。仏教にいう五根から出た語。)

 

出典『広辞苑 第四版第六刷』一九九七年(岩波書店)。なお、略号[心][仏][哲][倫]の記載を、それぞれ[心理学][仏教][哲学][倫理]に置き換えて表記した。

★『知識創造の方法論』野中郁次郎著、二〇〇三年、東洋経済新聞社(『広辞苑』に掲載されていない用語だったため引用した。)

 

 

 

 

 

⒈「客観」「主観」言葉の意味(定義)と観察の視点

 

 何かを知覚したり思考したり感じたりと非常に多彩な心の働き。自然科学全盛の現代において、心の産物は主観的だとして軽んじられる場面も多くあります。心の働きや機能はつかみどころがないため、歴史上、自然科学を進歩させるために物と意識を分ける客観性を重視した西洋の考え方が非常に合理的だったのは事実です。ただ、ほんとうは奥深く霊妙であると考えられる意識世界の真相を知る人は少なく、主観性に対しては偏見がある印象を拭えません。果たして客観性とは何か、まずは言葉の意味を整理してみます。

 

 

(以下『広辞苑 第四版第六刷』)

 

【客観】[哲学](object) ①主観の認識及び行動の対象となるもの。②主観の作用とは独立に存在すると考えられたもの。客体。↔︎主観。

【客観性】(objectivity) 客観的であること。

【客観的】特定の個人的主観の考えや評価から独立で、普遍性をもつことについていう語。

【客体】(object) 客観②に同じ。特に主体に対応する存在。また、主体の作用の及ぶ存在。↔︎主体

 

【主観】[哲学](subjectの西周による訳語)客観に対する語。語源的には作用・性質・状態を担う基体(subjectumラテン)を意味する。近世以降は感覚・認識・行為の担い手として意識をもつ自我をいう。特にカントでは、主観は生得の、一定の形式・法則に従って、客観的対象を把握する先験的主観とされた。カント以後は、単に認識主観にとどまらず、実践的能動性と自由の基体として、特に主体という意味が強調されるようになる。↔︎客観。→主体。

【主観性】[哲学](subjectivity) ①主観であること、また主観に依存していること。主観の所産であること。②個人的・歴史的・社会的な条件に制約された或る主観に依存しているという意味で、客観性が乏しいこと。

【主観的】①主観による価値を第一に重んずるさま。主観にもとづくさま。②俗に、自分ひとりの考えや感じ方にかたよる態度であること。

【主体】② (subject) 元来は、根底にあるもの、基体の意。㋑性質・状態・作用の主。赤色を具有するところの赤い椿の花、語る作用をなすところの人間など。㋺主観と同意味で、認識し、行為し、評価する我を指すが、主観を主として認識主観の意味に用いる傾向があるので、個人性・実践性・身体性を強調するために、この訳語を用いるに至った。↔︎客体。

 

出典『広辞苑 第四版第六刷』一九九七年(岩波書店)。略号[哲]の記載を[哲学]に置き換えて表記した。

 

 

(以下『日本語大辞典』)

 

【客観】(対義)主観。①個人的・経験的意識にとらわれることなく、見たり、考えたりすること。object ②人間の行動・思惟しいには関係なく、独立に存在する物質・自然。外界。客体。object ③哲学などで、知るという主観の認識の対象になるもの。認識論上の対象。object

【客観性】 ①自己の意識をはなれていること。②物事が独立にもつ性質。③普遍妥当性。④対象に対する態度が個人的な感情をまじえず公平であること。

【客観的】(対義)主観的。①主観の働きに支配されず、第三者が批評するように公平に判断しようとする態度。②精神にかかわりなく、外界に独立して存在しているさま。③いつ誰が見てもあてはまるという性質があるさま。

【客体】=かくたい。①目的物。対象。object ②人間の精神的・肉体的・物的行為の向けられるもの。主体の主観作用の対象となるもの。存在論上の対象のこと。object(対義)主体③人間にかかわりなく独立して外界に存在する事物。人間の精神以外の物質。object(対義)主体

 

【主観】(対義)客観。①自分だけの考え・見方。②対象となりうる一切をのぞき、対象化できないもの、すなわち意識それ自体。subject ③外界を知覚・意識する主体。認識主観。自我。subject ④事物を見たり聞いたりして心の中にえがいた意識内容。subject

【主観性】-

【主観的】(対義)客観的。①自分の考えを中心に、物事を処理しようとするさま。subjective ②個人的。自分勝手な。公平に物を見ないで自己の感情・意志のままにふるまうさま。subjective

【主体】①他に働きかけるもとになるもの。subject ②性質・状態・働きのもとになる本体。知・情・意の働きの統一体としての実体。subject

 

出典『日本語大辞典』一九八九年(講談社)※「主観性」という語は掲載されていない。便宜上「【主観性】-」と表記した。

 

 

 

 右のとおり〝客-〟のほうは人間の作用から独立した存在であると説明しています。〝主-〟のほうは『広辞苑』『日本語大辞典』どちらも意識の働きというものに触れつつ、前者は西洋哲学における変遷や由来を、後者は「主観性」の掲載がなく「主観的」であるさまの描写が少し強いところに特徴があります。はじめに述べた主観性に対する偏見とは、後者について指摘したような傾向が世間一般に強すぎること、つまり「客観的」であるさまを重視する態度に偏っていることです。

 

 ところが「客観的」という言葉は、理解や扱いがきわめてむずかしく一筋縄ではいきません。社会的に多用されていますが、似たような印象の表現と比較してみると、危うさを秘めていることが浮き彫りになります。たとえば、①「冷静に考える」②「俯瞰ふかん鳥瞰ちょうかん)する」③「第三者的に見る」④「事実のみを抽象ちゅうしょうする」という理解の仕方はどうでしょう。

 

 ①は混乱したり感情的になったりしている思考や心情を鎮め落ち着いて考えること。②は「高い所から見おろすこと。全体を上から見ること。」(広辞苑)とされ、比喩的にも用いられています。たとえば想像上の高い視点から対象全体を観る、という場合です。③は他者(の目)になったつもりで対象を観ることであり、俯瞰とおなじように、想像力を働かせる仮想的な観察です。重要な点として、俯瞰したり第三者的に見たりするというのは、視点の位置を問題にしています。頭や心のなかで観察対象と離れた視点から観察する思考上の行為、または思考の操作です④はとくに自然科学をはじめ「科学的」と言われる論理的思考・記述の手法。その際に主観性を排除する必要がある点が、前の三つと決定的にちがいます。

 

 自分自身に対する客観視はどうでしょうか。ひとつは機械、装置を用いて数値化したり映像化したりするなど、自分の姿形や身体能力などを分析対象にすること。もうひとつは、自分の心の状態や状況などを第三者的に観察することです。ちなみに仏教(禅)の「瞑想」はいわば自己観察です。欲望、感情、思考など次々と湧いては流れていく意識の働きは、それ自体がつくり出す実体のないもの。その事実を悟る自己観察とされています。強いて言い換えるなら、観察対象である意識の動きを冷静な主体が観察する(傍らで観る)ということです。ただし、これは「客観」について辞書に記載されているように、「人間の行動・思惟しいには関係なく、独立に存在する」対象が客体である、という排他的とも思える明確な線引きはしません。

 

 個人的には、右記のように仏教でいう冷静な観察のほうが、日本人が日頃「客観的に自分を見つめる」と言っていることに近いのではないかと考えています。辞書の意味を見るかぎり「客観」および「主観」は、両者の間のはっきりとした〝境界線〟のようなものを前提とし、人間の心の内を観察対象として想定していないことをうかがわせます。ただ、それを棚上げにすると、観察対象が自分自身でもそれ以外の場合でも、一般的には観察主体と観察対象とを、物理的または仮想的に分けるという特徴があります。

 

 このいわば「切り離し」を考慮すると、「客観的に考える」ことが、右に挙げた ①「冷静に考える」ことと同じではないことは明らかです。②「俯瞰する」ことと、③「第三者的に見る(考える)」ことは、想像力の働きを前提としていますが、「客観的」は「精神にかかわりなく、外界に独立して存在しているさま」であることを意味しています。つまり、自分の心を観察対象にするとき、想像上「俯瞰する」「第三者的に見る(考える)」ことはできても、「客観的に考える」というのは、言葉の意味をよく見ると矛盾があります。しかし、観察主体と観察対象を分離する思考操作という点では共通しているため、「客観的に考える」というのは「第三者的に見る」ことであると一般に認識されていることも一応理解できます。

 

 いっぽう ④「事実のみを抽象する」とは、認識主体の個人的要素を排除すること。たとえば、普遍妥当性」を追求する自然科学に必要とされる考え方です。あらゆる計測機械や実験装置は、いわば観察者の目や耳、脳や手などに代わる役割の担い手であり、観察者自体の「存在」をできるかぎり「消す」ことによって、中立性(独立性)や精度を担保しようとする象徴でもあります要するに、少なくとも自然科学において、(西洋哲学は辞書の記述から想像するに)人間の存在・関与から完全に独立した自然現象の描写・記述こそ理想としての純粋な客観性である、と定義してきたことが推定できます。

 

 しかしながら、後で述べるように「客観」という言葉の由来や西洋・東洋の自然観の成り立ちを知るにつれ、単に表現上の適切な言葉選びという次元の話では済まない疑問、矛盾、問題に気づきます。それは、右に述べた純粋な客観性というものが本質的に存在するのかという疑問、自分の心に対する、定義されるような文字通りの厳密な客観視ということの矛盾、純粋な客観性が存在すると想定したときに生じる問題です。

 

 

(参考資料・文献)

  1. 『場の観点から認知を捉える』(早稲田大学・東京学芸大学)https://www.u-gakugei.ac.jp/~gangzhi/wp-content/uploads/2012/12/JCLA2016%EF%BC%88%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E3%83%BB%E5%B2%A1%EF%BC%89.pdf
  2.   NHK『こころの時代〜宗教・人生〜』「瞑想(めいそう)でたどる仏教〜心と身体を観察する ⑹」
  3. 『日本語大辞典』「客観性」③「普遍妥当性」
  4. 『客観性』ロレイン・ダストン、ピーター・ギャリソン著(への論評)https://researchmap.jp/Yasuhiro_Okazawa/published_papers/33658546/attachment_file.pdf

 

 

 

 

 

⒉「自然」と「科学」という概念の発端にある客観視

 

 河合隼雄氏が著書『宗教と科学の接点』において[西洋の医学が人間の身体を「客観的対象」とみなすことにより、科学的な医学を発展させてきたと指摘しているように、西洋医学は人体を客体化・客観視することで高度に発達しました。

※「第6章 心理療法について」>「宗教と科学の接点」p.192

 

 日本における客観・主観という言葉は明治期に西周(にし・あまね、啓蒙思想家、西洋哲学者)が訳したものだといいます。人間や人工的なものに対する「自然」という捉え方が一般的ですが、いわゆる客観的対象としての「自然」という概念や言葉も、もともと日本には無かったようです。客観と主観を区別するようになった背景として挙げられるのは、ヒトを取り巻く環境としての自然をどう位置づけてきたか、つまり「自然観」が発端にあることを河合隼雄氏は指摘しています。

 

 

(以下『宗教と科学の接点』)

 

自然とは何か

 

 今日では、日本人のほとんどが「自然」という言葉を、英語の nature と同じような意味に解していると言っていいだろう。人間および人工的なものに対するものとして、いわゆる山川草木、および人間以外の動物、それに鉱物などを含め、それを宇宙にまで拡大して、総称して「自然」と呼んでいる。しかし、実のところ、そのような客観的な対象としての「自然」などという概念も、また言葉も、もともと日本にはなかったものであり、nature という英語に「自然」という訳語を当てはめたために多くの混乱が生じることになった事実は、柳父章の周到な分析によって周知のこととなっている。従って、この点については省略するが、そうなると、現代の日本人は、自然をどう把握しているのか、そもそも古来からはどうであったのかなどが問題となってくる。(後略)

 「自然」という語は、もちろん中国から由来しているわけであるが、(中略)自然という語は、「『オノズカラシカル』すなわち本来的にそうであること(そうであるもの)、もしくは人間的な作為の加えられていない(人為に歪曲されず汚染されていない)、あるがままの在り方を意味し、必ずしも外界としての自然の世界、人間界に対する自然界をそのままでは意味しない」ことを指摘している。この「オノズカラシカル」という考えは、天地万物も人間も同等に自生自化するという考えにつながり、「物我の一体性すなわち万物と自己とが根源的には一つであること」を認める態度につながるものである。(後略)

 このような中国の「自然」に対する態度は、インドからの仏教を受けいれたときに影響し、福永は、「西暦七-一〇世紀、唐の時代の中国仏教学をインドのそれと比較して最も注目されることの一つは、草木土石の自然物に対しても仏性すなわち成仏の可能性を肯定していることである」と述べている。つまり、生物のみならず無生物も、森羅万象すべてが仏性をもつと考えたのである。

 このような考えはそのままわが国にも伝来されてきたが、「自然」という用語は、従って、「オノズカラシカル」という意味で用いられ、それは「自然じねん」と発音されることとなった。そして、西洋人のように自我に対する客観的対象として「自然ネイチャー」を把握する態度は存在せず、従って、そのような名詞も日本語にはなかったのである。「山川草木」というような表現が示すように、個々の具体的なものを認識の対象とはしたであろうが、おそらく、それは近代人のする「認知」とは異なるものであったと考えられる。対象と自分との区別は、昔の日本人にとって思いの他にあいまいなものであったろうと思われる。

 西洋における(中略)「自然」を客観的対象としてみる態度の背後には、キリスト教による人間観、世界観が強く存在していると思われる。聖書には、神が世界を創造し、人間を創造するときに「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、それに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」(創世記一章二六)と言ったと述べられている。ここに、人間とその他の存在物との間に画然とした区別が存在することになった。このような宗教的な背景をもって、他と自分とを明確に区別し、他を客観的対象とし得るような自我が成立することになったと思われる。そして、その自我が「自然」を対象として観察し、そこに自然科学が発達することになったのである。このため、「自然ネイチャー」は西洋において科学の対象となるし、「自然じねん」は東洋において宗教のもっとも本質にかかわるものとなったのである。

 ところで、日本人は近代になって西洋の nature の概念に接したとき、これに「自然じねん」の漢字をあて、「自然しぜん」と呼ぶようにしたのであるが、そのために柳父章の指摘するような混乱が生じた(後略)

 

出典『宗教と科学の接点』「第五章 自然について」>「自然とは何か」一四一〜一四五頁

 

 

 

「客観的」=科学的・普遍的、「主観的」=非科学的・個人的という印象の源は、右記のように自然観が根本にあるようです。西欧人に比べれば日本人には自然と人間との明確な分離によい意味で曖昧さが残ってはいるものの、科学が発達している以上、対象を分析的に、つまりありとあらゆる対象を分離分割して理解する考え方が浸透していると言えます。いっぽう一般に科学と相容れない世界観として対立してきた歴史があると言われる宗教ですが、西洋で誕生した科学の背景からは必ずしもキリスト教と対立するものではなかったことがわかります。

 

 

(以下『宗教と科学の接点』)

 

西洋近代の自我

 

(中略)

 西洋近代に確立された自我は、自分を他と切り離した独立した存在として自覚し、他に対して自立的であろうとするところに、その特徴がある。このようにして確立された個人を、英語でindividualと表現する。つまり、これ以上は分割し得ざる存在ということであり、その個人を成立させるためには、物事を分割する、切断するという機能が重要な働きをもつことを示している。有機物と無機物という分割、有機物をまた分割してゆき、人間と他の生物という分類が行われ、その人間をいかに分割していっても、個人が分割し得ないものとして残る。このことは逆に言えば、個人は他と切り離されることによって存在が明らかになると言える。

(中略)

 このように他と切り離して確立された自我が、自然科学を確立するための重要な条件となっていることは容易に了解できるであろう。つまり、このような自我をもってして、はじめて外界を客観的に観察できるのである。このような「切り離し」による外界の認識は、個々の人間とは直接関係しないものとなり、その意味で「普遍性」をもつので、極めて強力な知を人間に提供する。これが、これまでの自然科学である。

(後略)

 

出典『宗教と科学の接点』「第一章 たましいについて」>「西洋近代の自我」二五~二六頁

 

 

 

 客観・主観という具合に世界を二分する世界観や考え方は二元論と呼ばれ、明治以降現代の日本人はこの影響を強く受けています。日々の生活に恩恵をもたらしている科学の世界観・生命観の特徴や成立起源が一連の指摘から理解できます。

 

 自然は人間の外部に存在する環境であるという認識は、自然と人間の分断によって心理的距離を生じさせます。現代人が「自然」に対して懐かしさや憧れの気もちを抱くのは、ある意味で当然かもしれません。また、想いや視線が外部へ向けば向くほど、自分の体へと注意が向きにくくなるようです。このような日常を送るなかで「自らを宇宙の中にどう定位するか」(左記より引用)、あるいは生と死、そういう視点や感覚、いわゆる「主観的」認識や実感を失ったとしても不思議ではないように思います。以下の文も河合隼雄氏の著書からの抜粋です。

 

 

ミクロコスモスとマクロコスモスの対応という考え方は、ミクロコスモスとしての人間をマクロコスモスとしての宇宙に関連づける思想であったが、西洋の近代自我が自我を世界から切り離し、自我を取り巻く世界を客観対象として見ることを可能にしたとき、そこに観察される事象は、個人を離れた普遍性をもつことになり、自然科学が急激に進歩したのである。普遍的な学としての自然科学はその後ますます力を発揮し、人間は世界を支配したかの如く見えながら、宇宙との「対応」を失ってしまったという点において、自らを宇宙の中にどう定位するかという点で、根本的な問題を抱え込むことになった。(『宗教と科学の接点』河合隼雄著「第二章 共時性について」>「共時性と科学」p.50

 

 

「宇宙」を母体とする地球上の山河や大地、海洋や大気はもちろん、人間が生活を営むため、生きるための田畑も、そこから得られる食の生命もすべて「自然」。この自然との本質的なつながり無くして人間の生命はあり得ません。生命の根元的な由来を考慮すると、自然は人間の外部環境であるとして明確に分離する境界は本質的に存在しないはずです。食の生命は自分の外部にある自然として存在すると同時に、毎日の「食」はやがて自分の体に融合されるため内部にも自然は存在します。また、そもそも人間の体は本質的に人工造形物ではないため、元来、自然界であると言っても良いほどこれに準じる存在ではないでしょうか。たとえば「小宇宙」という表現がよい例です。

 

(以下『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』)

 

一生命体が完成するまでの原形は、十月十日(とつきとおか)の、子宮という小宇宙世界で、その基盤ができあがるわけです。母親の口から入った〝食〟が胃に入って、十二指腸に入り、小腸に入り、分子・原子次元まで分解された物が吸収細胞によって取り込まれ、全身に届けられます。そこでいのちの新陳代謝が起こり、生き生きと輝く命となります。そして、子宮の胎児が育ちます(菅原茂著「第一章 心のつる草」p.1718

 

 

 人間は成長し自我や知力が発達するにつれて頭や心(考えや思い、気もち)を優先する年月とともに、右記のようないのちの原点から遠ざかり、無意識的に体を軽んじたり心理的距離が生じたりする傾向があります。自分の体の外観・外見やその外界には目が向いても、内側の臓器や食生命の行方に対しては意識が行きにくいものです。見えないためにつかみどころがなく、普遍的に正しいとされることを重視するあまり他人事のような感覚になりがちです。精神的につらいときほど体が置き去りになる傾向は、このことと無関係ではないと思われます。つまり体に対する主体性や当事者意識、個人的な内部感覚の希薄さ・未熟さです。これと体を客体視・客観視する習慣とは関連がないでしょうか。

 

 いずれにしても科学的には自然と人間とを切り離すわけですから、小宇宙とも称される内界としての体や心、外界としての自然、双方の間にあるはずの関連性を見出せなくなるのは必然です。したがって自らの生命を大宇宙・自然界にどう位置づけるか、生存および死をどう位置づけるかという究極的な視点感覚を見失うのも当然の事態と言えます。このような課題についてあらゆる宗教を超えた、あるいはそれ以前の問題として適切に理解するためには、根元的な世界観・生命観で自らの生命・心身および自然と向き合う意識変革が欠かせません。

 

 

(参照)

 

 

 

 

 

⒊ 客観・主観の区別をめぐる指摘と本質的不可分性

 

 客観性と主観性の区別に焦点を合わせると必ず突き当たる問題として、次のような指摘があります。

 

  • 西洋の医学が人間の身体を「客観的対象」と見なすことにより、科学的な医学を発展させてきたように、人間の「心」というものを「客観的対象」と見なそうとしても、観察者自身も「心」をもっているので、そのようなことが成立しないのである。(『宗教と科学の接点』河合隼雄著「第6章 心理療法について」>「宗教と科学の接点」p.192
  • 私たちの心の働きを記述するためには,私たちは,一方では,客観的に与えられた内容が,それを観測している主観に対置されておかれることを必要とするが,他方では,このような言い回しからすでに明らかなように,後者の主観もまた私たちの心的内容に属するのであるから,主観と客観のあいだの厳格な区別を維持することはできないのである.『因果性と相補性』ニールス・ボーア著「⒉ 作用量子と自然の記述」p.70
  • 第5節と第7節で述べたように,ボーアは,量子論の通常解釈においては,このような性質は,被観測系に客観的に存在すると考えるべきではないことを示したのである.けれども,彼の観点にしたがえば,あらゆる問題,意向,および目的に対して客観的であると認められるものは,確かに存在する.すなわち,観測可能な大規模な現象がそれである.『現代物理学における因果性と偶然性』デヴィッド・ボーム著「第三章 量子論」>「⒐ 量子論の通常解釈」p.144
  • たとえば量子力学の生みの親、シュレーディンガーは「主体と客体は、一つのものである。それらの境界が、物質科学の最近の成果でこわれたということはできない。なぜなら、そんな境界など存在しないからだ」と述べている。(『宗教と科学の接点』河合隼雄著「第四章 意識について」>「意識のスペクトル」p.117118

 

⒈ ⒉

原文が横書きであり、句読点も原文どおり引用した。

 

 

 一番目は心理学者の河合隼雄氏(1928〜2007)の見解。二番目は理論物理学者のN.ボーア氏(1885〜1962)によるもの。三番目は同じく理論物理学者のD.ボーム氏 (1917〜1992)による論述。四番目も理論物理学者シュレーディンガー氏(1887〜1961)の見解を引用した河合隼雄氏による文です。(デヴィッド・ボーム氏は、現象の有無を認識・確認する認識主体、つまりヒトが物理現象を認識するかどうかに関係なく現象は起きる事実一般を指摘しています。)

 

 注意を要するのは、それぞれの見解はどれも一定の合理性があり、絶対的な視点や見解は存在しないこと。ボーム氏の指摘はもっともであり、私たちの認識に関わらず大小さまざまな自然現象が発生しているのは事実です。人間が地球上に出現する以前の現象を想像すれば分かります。しかし、前項で考察したように、根元的な観点では自然(現象)と人間との分離切断は問題をはらんでいます。

 

 いっぽう、心を観察対象に据えた場合、科学的客観性とは観察者の主観性を排除して抽象されるものであるため、河合氏やボーア氏が指摘したように(認知や感覚、意識、思考、判断、表現といった主観的な)心の特性を排除して心を観察することはできません。しかしながら、他項で仏教的瞑想の視点について触れたように、宗教論ではなく一般論として、自らの心を俯瞰したり第三者的に観察したりすることは可能です。つまり、思考の上で視点をどこに置くか、自然界と人間との境界をどこに設けるか、あるいは設けるべきか否かによってさまざまなことが言えるのです。

 

 以上のことを踏まえると、客観と主観の区別はあくまでも便宜べんぎ的、近似きんじ的、部分的、一時的に言えるのであって、決して絶対的・最終的な見解ではないという認識が重要です。これを承知していないと詭弁や水掛け論を生んだり振り回されたりしかねません。さらには、根元的・本質的な視点からの考察かどうかを見極めることはもっと重要です。たとえば次の一節は、主観と客観とに分けない個人的感覚を表現していますが、とても本質的で重要な考え方ではないかと感じます。

 

 

「思考の世界では主観と客観に分離出来るが、いのちの世界から見るならば、主観も客観もなく世界は一つだ。外の世界と自分は完全に分離していると考えがちだが、いのちの世界から見た時そうではなくなる。内なるスクリーンには常に外の世界が映し出されているのが真実だ。〝内は外なり、外は内なり 主観は客観、客観は主観なり〟ということになる。」『いのちのふる里』菅原茂著「いのちのスクリーン」p.19

 

 

 私たちの「からだ」の起源をたどると、親から無数の先祖へとさかのぼることになり、究極的には地球、宇宙へと広がっていきます。また、生物となった時点からいわゆる「食」が密接に関わっているはずです。「こころ」の起源は目に見えないので判然としないのは確かですが、「からだ」の場合と共通していると考えるのが自然ではないでしょうか。こうして生命の成り立ちを考慮すると、主客の区別という見方が本質的に成立するのか、素朴な疑問が生じます。重要なのは生命を根元的な視点から考察すると右のように言えることです。いわゆる主観的な説明であるとはいえ、言われてみれば確かにそのとおりではないでしょうか。

 

 私たちは、日々経験することがらに対して、基本的に自分の体、心、頭を頼りに認識・評価しています。その評価は、誤認や思い込み、偏見と常に紙一重ですから、自分の(主観的)認識に誤りはないか、(客観的に)再評価することは必要です。また、主客の区別は学問的思考方法の形成・維持や、思考内容の共有のため必要であるうえに、役に立つのは明らかです。

 

 ただし、人間の知覚領域は断片的であるという指摘をふまえると、それをさらに主観性と客観性とに分ける分析的知見の断片性はなおさらであると言えます。さらには生命の成立過程を全一的・根元的に考えると、主観・客観の区別はあくまでも便宜的に言えるのであって、部分の客観的整合性が自然の摂理とも言える「いのちに適合するとは限りません

 

 なぜなら、他と切り離して確立された自我が、自然科学を確立するための重要な条件となって」「個々の人間とは直接関係しない」 切り離された自然の分析的探求が現状の科学だからです。その基盤の〝ものさし〟こそ、他でもない西洋哲学的・二元論的な客観性であると言えます。

 

 

(脚注)

  • 「われわれが五感を通じて知る世界は、いろいろな事物に分割され、部分化されているが、それらのものは暗在系に対する、明在系であり、明在系においては、外的に個別化され無関係に存在しているような事物は、実は暗在系においては、全き存在として、全一的に、しかも動きをもって存在している。」
  • (『宗教と科学の接点』「第2章 共時性について」>「ホログラフィック・パラダイム」p.58、理論物理学者のデヴィッド・ボーム氏の見解を引用している箇所)
  • 『宗教と科学の接点』「第一章 たましいについて」>「西洋近代の自我」p.26(上の[⒉ 「自然」と「科学」という概念の発端にある客観視]の抜粋引用箇所)

 

 

 

 

 

(備考・課題)

 客観的な理論や根拠と言われるものは、部分的に見ればたいていの場合、合理性や整合性が認められるものです。問題は、根元的な視点を欠いているとき、そこに潜んでいた欠陥や矛盾が、個人や社会の問題として表面化することにあります。

 また、現れた問題・課題に対しては、大元になっているであろう原因を見つけたり、取り除いたりすることが本質的な解決(解消)であるはずです。しかし、科学的・客観的分析では、多くの場合、問題の対象を人間の〝こころ〟とは切り離して客体化(外在化)します。すなわち表面化している〝かたち〟としての問題を除去できたとして、それはあくまでも客観的かつ統計的な観点での解消。つまり便宜的で〝表面的〟な問題解決です。したがって、それ以下またはそれ以前の、主観的かつ本人にしか知り得ないような個人の心理的・潜在的な要因は問いません。これはいわゆる〝対症療法〟であり、本質的に問題の根を絶っているわけではないことを意味します。

 このように客観的および科学的な理論やそれに基づく手法は、便宜的または部分的な効力を発揮しているのであって、その大きな恩恵を受けているいっぽう、それを根本的(=根元的かつ本質的)な解決策と混同したりまして絶対的と考えたりするのは誤りです。〝いのち〟についての問いを〝専門家〟まかせにしてしまうひとりひとりの考え方に、この問題を助長する原因があると思います。

 

 

(脚注)

  • 異なるものと異ならないものとを混同することはすべてのものを混同することである(あるいは、すべてのものについて混乱することである)。このようにわれわれの断片的な思考形式が、一つの全体としての個人そして一つの全体としての社会の中に社会的、政治的、経済的、生態学的などなどの広汎な危機をもたらすことは偶然ではない。また断片的な思考様式は、混沌として無意味な争いを果てしなく引き起こす。」
  • (『全体性と内蔵秩序』デヴィッド・ボーム著「Ⅰ断片化と全体性」>「6 科学と社会に根をひろげる原子論」p.49、脚注の傍点は原文どおり、傍線は当サイト編者)

 

 

 

 

 

参照

 

 人間が知性によって獲得した高度な学問的成果や精神的成果、たとえば科学、宗教、思想、哲学。上述のように私たち現代人の世界観や生命観はこれらの影響を少なからず受けています。しかし、ヒトの生命いのちは、知性や心、それらを超越する精神的な本質(霊や魂)だけで存在しているわけではありません。

 いま述べた「知性」の成果にはもちろん意義があります。しかし、生命を根元的に支えている食、それと融合する精緻で高度な働きをしている「からだ」の存在を置き去りにして、この命題を語ることは本来できないはずです。この点に関する文献を資料ページに掲載。また、下の「引用・参考図書」のうち、表紙画像に「▼本の中身を見る」と付いている図書『いのちのふる里』『神秘の大樹』は閲覧可能です。または、ページ最上部のナビゲーションメニュー「BOOKS」から、「いのち」がテーマの各図書を閲覧できます。

 

 

引用・参考図書

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書籍『宗教と科学の接点』を図書館情報サイト「カーリル」で検索します

 

宗教と科学の接点

河合隼雄/岩波書店/1986年

ここでいう宗教とは、特定の教義をもつ各宗教のことではなく、心や魂を担当してきた分野という広い意味をさしている。これまで単純に対立的にとらえられてきた物と心の問題をだれもが真剣に考えることは、21世紀の人類を考える上できわめて重要だとしている。

 

 

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書籍『因果性と相補性』を図書館情報サイト「カーリル」で検索します

ニールス・ボーア論文集1
因果性と相補性

ニールス・ボーア/山本義隆編訳/
岩波文庫/1999(平成11)年

原子構造の解明、原子核理論の構築など、量子力学を開拓した理論物理学者のニールス・ボーア氏による論文集の邦訳。

 

 


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書籍『現代物理学の因果性と偶然性』を図書館情報サイト「カーリル」で検索します

現代物理学における
因果性と偶然性

デヴィッド・ボーム/ 村田良夫訳/
東京図書/1969(昭和44)年

量子力学の成果や有用性を認めながらも、量子力学に対する永久的・絶対的な見方や論法に批判的な立場をしめしたボーム氏。機械論的自然観への批判的考察を通じて、直面しつつある(するかもしれない)物理学の限界を打ち破り、進化し続けねばならないと考えていた。

 

 

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書籍『神秘の大樹 第二巻 ヒロシマとつる姫』の詳細・閲覧ページにリンクしています

神秘の大樹 Ⅱ
ヒロシマとつる姫

菅原茂/おりづる書房/2011年

 

平成5年8月6日の広島平和公園で出合った一羽の折鶴は、「倉敷市玉島」と印刷された広告で折られていた。その地名は「日月神示」で知られる岡本天明氏の出生地。縁結びのしくみを、「心のつる草」など比喩を用いた物語を織り交ぜて表現している。

 

 


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フォトエッセイ『いのちのふる里』の詳細・閲覧ページにリンクしています

いのちのふる里

菅原茂/おりづる書房/2008年

 

便利な生活を享受するために、工業を中心にしてひた走ってきた日本社会。そのいっぽうで、むかしもいまも、ずっと変わらずいのちの原点でありつづける食のふる里。個人の生き方として、また社会の健全な姿としてのバランスを、どうやって回復したらよいのか。食と農と生命に実感がもてぬ現代の私達。時代や社会を経ても生きる原点は変わらないはず。私達の体と心は原点に帰れるのか。

 

 

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書籍『全体性と内蔵秩序』を図書館検索サイト「カーリル」で検索します

全体性と内蔵秩序

デヴィッド・ボーム著、
井上忠・伊藤笏康・佐野正博訳/青土社/1986年

『WHOLENESS AND THE IMPLICATE ORDER』(1980年) の邦訳版。科学は物質を微細に分け入り、その「構成」粒子を発見してきた。一般に私たちは、それが物を形作っている最小単位だろうという見方をしがちだが、分析して見える粒子は、ある文脈によって「全体」から顕現した一時的な抽象物であって、そもそも宇宙は分割できない一つの「流動する全体運動」だという。専門の物理学(量子力学)をもとに論じるこの世界像は、あらゆる物事を部分化・断片化する見方に慣れてしまった私たちに、重要な示唆を与えている。

 

 


関連ページ

引用・参考図書  /  抜粋・引用文集  /  参照資料の索引

 

 

共時性とは何か

共時性と因果性

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時空や生死を超え、人種や生物種も超えて、いのちには境界がない証し

 

因果性とは何か

物理学的視点


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「因果性」の実際は、それほど単純ではなく、もっと複雑。科学的な「法則」は、限定的な条件のもとでのみ有効だ。

 

偶然と因果

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因果性がないというより、今の科学の尺度では説明できない、と言うべきではないのか。

 


共時性の真価

いのちの真実

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平成5年8月6日、広島平和公園で偶然発見された一羽の折鶴。共時性の真の価値は、それが生命の真実を示していること。

 

こころとからだ

生命現象の根源

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私たち現代人が見失っている食の本質。生命と生命現象の根源は食にある。自分のいのち食のいのちに対する考え方が問われている。

 

引用・参考図書

いのちと共時性の考察

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極微の世界を探究した知の巨人の書、物と心の接点を論じた先駆者の書、いのちを洞察したある夫婦二人三脚の書。