共時性と因果性
共時性現象とも称されるシンクロニシティ。その現象の意味が個人的か普遍的かのちがいは、心の方向性が大きく関わっていると言われます。ユング氏が「狭義の共時性は、たいていは個人的な例で、実験的にくり返しがきかない。」(『自然現象と心の構造』p.138)と述べているように、本人でなければ実感しにくいのは事実。心は常に変化していて一定ではない性質があることを考慮すると「実験的にくり返しがきかない」のは、ある意味当然です。物の性質にくらべて、心の性質はいっそう不安定であると考えられるので、狭義の「因果性」という尺度ではとらえ切れないと言えます。
ですから、偶然の一致(共時性)が「因果的には関係のない」というのは、関連がないという全否定ではなく、今の物質科学の尺度(=因果性)では説明ができないと受けとめるべきです。これをふまえると、共時的なことがら同士は因果的に関係ないという論理、または「非因果的」という表現には、誤解を生む可能性があることに気づきます。
私たち一般の日本人には、もともと仏教用語としての意味をもつ「因果」のほうに感覚的にはなんとなくなじみがあると考えられ、科学に適用される狭義の「因果性」と混同するおそれがあります。物の見方・尺度・その理論である科学が、「因果」の概念に対して正否を判定したり、観念そのものを否定したりしているとは考えられません。
この疑念・課題を解消するためには、宗教と科学の歴史的な背景を、少なくともその本質的な要点くらいは知っておく必要があると考えました。この点について、河合隼雄氏の考察(著書『宗教と科学の接点』)は大いに理解を助けてくれます。
結果、「非因果的」「因果的には関係のない」という解釈には、主観と客観とを明確に区別する西洋的世界観を背景にもつ「科学」的根拠の枠内で結論づけるしかない事情があることを理解する必要があります。ユング氏はどうしても非因果的と言わざるをえなかったのではないかということです。
以上のように私たち現代人は、人間が知性によって獲得した高度な学問的成果や精神的成果、たとえば科学、宗教、思想、哲学から生じた世界観や生命観の影響を少なからず受けています。しかし、ヒトの生命は、知性や心、それらを超越する精神的な本質(霊や魂)だけで存在しているわけではありません。
いま述べた「知性」の成果にはもちろん意義があります。しかし、「いのち」を根元的に支えている食、それと融合する精緻で高度な働きをしている「からだ」の存在を置き去りにして、この命題を語ることは本来できないはずです。
そこで下に示す概論⒉ ⒋ ⒌ のあとに、この点に関する書籍『酒乱‐米の生命が生きるまで』『神秘の大樹』をはじめとする本の一部、または当てはまる文章を掲載。当ページには、それらすべてを集約しています。また、下の「引用・参考図書」のうち、表紙画像に「▼本の中身を見る」と付いている図書は、閲覧可能です。
太字ゴシックは引用した文言で、いずれもカール・グスタフ・ユング氏の著書『自然現象と心の構造‐非因果的連関の原理』から。以下を参照。
(リンク:ページ内)
(「偶然と因果」各ページへの)
今日では、日本人のほとんどが「自然」という言葉を、英語の nature と同じような意味に解していると言っていいだろう。人間および人工的なものに対するものとして、いわゆる山川草木、および人間以外の動物、それに鉱物などを含め、それを宇宙にまで拡大して、総称して「自然」と呼んでいる。しかし、実のところ、そのような客観的な対象としての「自然」などという概念も、また言葉も、もともと日本にはなかったものであり、nature という英語に「自然」という訳語を当てはめたために多くの混乱が生じることになった事実は、柳父 章の周到な分析によって周知のこととなっている。従って、この点については省略するが、そうなると、現代の日本人は、自然をどう把握しているのか、そもそも古来からはどうであったのかなどが問題となってくる。(後略)
「自然」という語は、もちろん中国から由来しているわけであるが、(中略)自然という語は、「『オノズカラシカル』すなわち本来的にそうであること(そうであるもの)、もしくは人間的な作為の加えられていない(人為に歪曲されず汚染されていない)、あるがままの在り方を意味し、必ずしも外界としての自然の世界、人間界に対する自然界をそのままでは意味しない」ことを指摘している。この「オノズカラシカル」という考えは、天地万物も人間も同等に自生自化するという考えにつながり、「物我の一体性すなわち万物と自己とが根源的には一つであること」を認める態度につながるものである。(後略)
このような中国の「自然」に対する態度は、インドからの仏教を受けいれたときに影響し、福永は、「西暦七-一〇世紀、唐の時代の中国仏教学をインドのそれと比較して最も注目されることの一つは、草木土石の自然物に対しても仏性すなわち成仏の可能性を肯定していることである」と述べている。つまり、生物のみならず無生物も、森羅万象すべてが仏性をもつと考えたのである。
このような考えはそのままわが国にも伝来されてきたが、「自然」という用語は、従って、「オノズカラシカル」という意味で用いられ、それは「自然」と発音されることとなった。そして、西洋人のように自我に対する客観的対象として「自然」を把握する態度は存在せず、従って、そのような名詞も日本語にはなかったのである。「山川草木」というような表現が示すように、個々の具体的なものを認識の対象とはしたであろうが、おそらく、それは近代人のする「認知」とは異なるものであったと考えられる。対象と自分との区別は、昔の日本人にとって思いの他にあいまいなものであったろうと思われる。
西洋における(中略)「自然」を客観的対象としてみる態度の背後には、キリスト教による人間観、世界観が強く存在していると思われる。聖書には、神が世界を創造し、人間を創造するときに「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、それに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」(創世記一章二六)と言ったと述べられている。ここに、人間とその他の存在物との間に画然とした区別が存在することになった。このような宗教的な背景をもって、他と自分とを明確に区別し、他を客観的対象とし得るような自我が成立することになったと思われる。そして、その自我が「自然」を対象として観察し、そこに自然科学が発達することになったのである。このため、「自然」は西洋において科学の対象となるし、「自然」は東洋において宗教のもっとも本質にかかわるものとなったのである。
ところで、日本人は近代になって西洋の nature の概念に接したとき、これに「自然」の漢字をあて、「自然」と呼ぶようにしたのであるが、そのために柳父章の指摘するような混乱が生じた(後略)
『宗教と科学の接点』「第五章 自然について」>「自然とは何か」一四一頁から一四五頁、文中の人名への振り仮名はサイト編者による。▼ ⑷自然と宗教と科学
(「偶然と因果」各ページへの)
毎日欠かさず口にする食物が細胞体をつくり、その組織体である自分 / 細胞へ、分子へ、原子(元素)へ、素粒子へ
『神秘の大樹Ⅲ文字・数・色で証す新次元』「雲になった桃太郎」▼
どんなものにもいのちがあると私は日頃からそう思うようになった。そして、いのちの一つ一つには顔があるとも思ってきた。また、いのちの本体は心ある物質であるということが私の生命感の土台となってきた。いのちは、心性と物性の両性(二象体)を持つ、元は一つの心性物質から発しているエネルギーだと思うようになった。
だから、石一個、雨一滴、草一本でも物質であると同時に心であるということになり、それらのルーツをたどれば、目に見えない原子(元素)、素粒子などといういのちの素にたどり着く。科学が進めばもっと深いいのちのふる里に案内してくれるかもしれない。いずれにせよ、内なる宇宙も外なる宇宙も、いのちで満ち満ちている世界、それがこの世だ。
難しく考えれば、この生命世界は、共振共鳴共時の世界であり、磁気磁波磁性体の世界であり、代謝躍動安定エネルギーの満ち溢れている世界だと私は考えるようになった。すなわちこの世は、生命力で満ち溢れているいのちの世界に他ならない。
いのちの世界では、心は物質であり物質もまた心であるから、この世の存在は見えても見えずともすべてが生命体だという考えに立つことができる。
そういう考えに立つときいのちには顔があるものと思えば、この世の全存在には顔があるということになっても不思議ではない。そういうことを思うか思わぬか、また馬鹿馬鹿しいと思うかであるが、例えば水蒸気の一粒子にも心性波動があって、さらに、顔の相があるといってもいいのではないか。
心性波動は光といえるから、この世は光の世界といいかえてもそれほど馬鹿げた話でもないだろう。目の前の石一つでも光を発している。すなわち、心性波動を発しているし、その心性の内容はわからないが、心の素の磁気磁波磁性体であることには違いない。
ここで、自分というものを考えてみたとき、そのできあがる過程をさかのぼれば、毎日欠かさず口にする食物が細胞体をつくり、その組織体である自分の奥深くをたどるならば、細胞へ、分子へ、原子(元素)へ、素粒子へと、どんどん内なる大宇宙へと進み、その果ては、無音無体の「無」の世界となる。この無の世界こそこの自分の真の姿といえる。それはすなわち、いのちの土台は「無」であるということにもなるではないか。
何もないという無の世界ではなく、心と物質の両性をもった心性物質波動で充満する絶対静の世界だと私は考えている。
絶対静の内的大宇宙の自分、無を土台とした自分がもの申すことになるから、やはりこの本体は幽霊であって当然だ。するとこの世は、幽霊の話し声で溢れているけれども耳には聞こえない。どうですか? 馬鹿馬鹿しいかぎりですか?
幽霊といえば、薄気味悪く恐い話になるようだが、実は、自分の中には幽霊そのものの世界であって、目には見えない幽玄霊妙な物申す精神世界である。目に見えないものは恐いのである。放射能も心も目には見えないし、いのちという、意志性エネルギー体は、目には見えない幽霊の世界なのであって、恐いのは、人の心ではないか。極端なことを言えば、我々は、幽霊に着物を着せて歩いている姿なのだ。だから、恐くない心の持ち主になりたいと思うし、政界などでも取りざたされるものに、怨念劇があるくらいなのだ。
心のサイクルさえ合えば、この世は万華鏡で見るごとく、心のサイクル次第では変化に富んだ見え方をするのも当然だ。
さてここからは、心のチャンネル次第で驚くような天体ショーを紹介してみたい。
ある日、旧知のご仁が私に、次のような体験を披露してくれたことがある。亡き愛犬が、雲に姿を変えて逢いにきたのであった。
ご仁の犬好きは並のことではないようだ。寝食を共にという感じの心の通い合い即ち、以心伝心の世界であった。
昭和六四年一月一日、数匹の子犬たちが誕生した。すくすく育った子犬たちは、やがて新しい飼い主たちに引き取られていった。その中で、「桃太郎」という名前の特別かしこい牡の子犬は、知り合いの老夫婦に引き取られることになった。新しい飼い主の老夫婦は、やさしく大事に育てて、桃太郎と楽しく過ごしていた。
ところがある日のこと、おじいさんが病に倒れて入院することになり、残されたおばあさんは、犬の世話まで手が回らずご仁のところに親元になってほしいとお願いに来た。願われたご仁は桃太郎を引き取ることになった。
ところがどうしたことであろうか、それから二、三日後のこと、桃太郎は、どうみても車に自分から飛った。
ある、夕焼け空のとても美しい日のことであった。輝く茜雲に後ろ髪をひかれる思いで振り向いたとき、目の前に刻々と姿を変える雲を見た。他の雲よりひときわ動きのはやい龍の体のような姿にハッと心を奪われたご仁は、素早くカメラに収めたが、その間ほんの数十秒くらいであったという。
その雲の姿は、あまりにもリアルで、そして、亡くなった桃太郎の姿にそっくりであったのだ。
雲となった犬の目は、生き生きとご仁を見据え、さらに口元では、何事かを語りかけている姿に見受けられたという。
桃太郎の姿は、ご仁の想いの波動(光)で雲に転化したものであろうか。それとも、ご仁の心に受け答えするようにして、いったんは天地に命をかえした桃太郎ではあるが、ご仁の魂に内在する桃太郎の霊魂が生命元素を呼び寄せて雲に有体化現象を起こしたものであろうか。
それらのメカニズムは不明の謎であるが、あくまでもご仁の魂に残っている愛犬・桃太郎への想いが熟成されて、その霊魂が雲に同期したのかもしれない。
「雲になった桃太郎」二五〜三〇頁
思考の世界では主観と客観に分離出来るが、いのちの世界から見るならば主観も客観もなく世界は一つ
出典『いのちのふる里』「いのちのスクリーン」▼
自分のいのちは、他のいのちと霊線(命の光)でつながっていることがそれとなくわかる。
原始の単細胞時代から永々時の流れの中で進化し続け、ついに、現代人の姿まで変化した。これまで発生した全ての生命世界には、どれ一つとして、命のつながりに無縁のいのちはないはずだ。
どれほどあるか夥しい数の〝種〟があって、更に膨大な数の〝個〟が存在する。ところが、生命エネルギーの本流から見たなら、どれ一つとつても別世界の命の持ち主はいないと思うのだ。それは、宇宙から発せられた地球の命の流れであり、この宇宙以外の世界からの生命は考えられない。
いのちの本体のことを命の光と言えるなら、この世の森羅万象は、命の光を本体にしてみな平等不滅の光を発していることになる。人間だけが別世界の命なのではあり得ない。働きは異なるとはいえ、命の光はみな平等にして変わりない光を発している。
この世一切が命の光で結ばれているなら話は早い。外の世界一切と自分とはみな不離一体同根の光だ。しからば、目前の風景にせよ、みな自分のいのちの中に存在していることになる。
いのちのルーツを遡及したとき、風景の一部始終に自分の命が結ばれている仕組みがわかってくるし、それは、生命同根のいのちの持ち主たちであるから理屈もない。
内なる自分の世界は、実際にこの目で見ている風景そのものであるわけだ。
風景が自分だなどと言えばいよいよ狂気じみてくるが、理屈なく本当の世界なのだ。
思考の世界では主観と客観に分離出来るが、いのちの世界から見るならば主観も客観もなく世界は一つだ。外の世界と自分は完全に分離していると考えがちだが、いのちの世界からみた時そうではなくなる。内なるスクリーンには常に外の世界が映し出されているのが真実の姿だ。
〝内は外なり、外は内なり
主観は客観、客観は主観なり〟
ということになる。
この考え方は、あくまでもいのちという万物共通の観点からであり、心の問題はまた別のことである。
〝山襞深く
雪また深く
燃え立ついのちは
大地の中
寂寥深々草木眠りて
春の目覚めは
まだ遠い〟
雪国の写真一枚見るにしても、それは、常に、命のスクリーンに依存する光景なのだ。
われわれは、発する思考力を停止して、無想の境地になった時、客観の風景は、内なる風景と合致する。外が内になり、内が外になった時、いのち本流からの波動と共振共鳴の感動が湧き上がる。激しい感動のひびきが沸き起こる。そこが、
〝いのちのふる里だ〟
山があって
川が流れ
ほとりに
耕しつづけた
田圃があって
点々と
家があって
そこで暮らす
人々がいる
「いのちのスクリーン」18〜20頁
『いのちのふる里』について▼
大調和のエネルギー(米、野菜など)を食べていたとしても、不調和な心(片寄りの心)を持って生きるなら、病気にもなるだろうし、不幸を招くのも当然である。
『酒乱‐米の生命が生きるまで』「米は、いのちの光」▼
この現実社会にあって、一時、出家の道を真剣に考えたことがあったが、今は、あくまでも、精神性を土台として、現実凝視をして生きることを決心した。
以前は、現実至上主義で金満家が夢であったが、そこには、大きな落とし穴のあることを知った。ブレーキのない、物質金満の世界には、見せかけの幸せが待っていて、先へ先へと走り、先を見るあまり、どうしても、足元を見失ってしまう人生である。生きる本当の喜びは、なんであるのかを見失っている人がたくさんいる。
金で、生命が保証されるのだと、錯覚するような人生は、消えていく虹の橋を渡る、虚飾の人生であることがわかった。
そして、子孫に強欲の因縁、酒乱の因縁、色情、傲慢の因縁を残さず、その他、多くの不幸因縁を、残さぬような人生を生きようと、生きる価値観を変えることができた。
以前の私は、浪曲『森の石松』ではないが、
「飲みねェー、飲みねェー、酒飲みねェー。喰いねェー、喰いねェー、寿司喰いねェー。……エッ……肝腎な人を忘れちゃ、おりゃせんかッ……」
と、石松ならぬ、大事な大事な生命様を忘れていたのだった。
生命は、生命でも、酒乱の唄枕に酔い痴れていた悪魔の生命ではない。ピッカピッカの生命様だったのである。
激しき宇宙の 波動はすぎて
ポッカリ浮かんだ いのち星
太古の昔の いのち花
海にいのちの 花ひらき
大地にいのちの 花ひらき
空に大気の 花ひらき
天に輝く 太陽が
ニッコリ笑って 花ひらき
お待ちいたした 人間様よ
ながき世の道 人の道
いのちの天子に 育つ世に
向けて花咲け いのち花
〝生命とはなんぞやッ〟と尋ねても、生命は答えてくれない。だが、一人一人に感じられる生命の響きは必ずある。生命には、声も言葉もないが、絶対なる〝安定調和エネルギーを秘めた意識波動(生命の響き)〟が存在する。
そして、人間以外の全存在は、自然界の調和エネルギー波動と生命同化して生きている。だが人間は、心のエネルギーを異常なまでに進化させてしまったため、千変万化する自分の心に振りまわされるようになった。
この人間独自の心(擬似魂)は、生命から送られる安定調和の意識波動(真性魂)をさえぎり、魂の光を曇らせてきた。
人は誰しも〝心は人間の特権〟であると思い、人間以外のものには、心の存在など容易に認めてはくれない。
そこで、今、誰かに「あなたはどうして生きておられると思いますか」と尋ねてみたとすると、どう答えてくれるだろうか。おそらく「食べているから生きています」と言うだろう。確かに人間は、食物を食べると血となり、肉となり、さらに心を発生して、毎日を生きてゆける。
ところが、人間以前の食物生命に、心があるかと聞かれたら、ほとんどの人は、「ノー」というだろう。米や大根、魚や果物に、心(意識)があるなんてとんでもないことで、気持が悪い……と言うだろう。
ところが妻は、この人間以前の、人間を生かし続ける食物の生命、自然界の生命に、心(意識の響き)があることを言い続けてきた。それは、妻の生命の中に、沈黙世界の声が、生きて結ばれるようになったからにほかならない。
素直に考えれば、「人間を造り上げた食物たちは、人間ができうる可能性の根本要素(物質的、精神的)を、すべて持っている」と思うし、だから、心というものは、人間だけの特権ではなく、人間のような心にはなれなくとも、人間の心の元となる心(調和の意識波動)が、食物一切の生命にもあるといえる。
さらに、生命界には、〝食物の心の元となる心(宇宙意識)〟があって、その心の元とは、神とも、宇宙心霊とも呼ぶことができる。だから、生きとし生きる生命体の中心を貫く生命は、万物共通だと言ってもおかしくない。
いわゆる、万物は、宇宙意識を共有している同志ということになり、私はそのことを〝魂の平等〟と思うようになった。だから一心に、〝心を浄め澄ませれば、万物に心が通じる〟ことができると言える。心の元(宇宙意識)は、人間的煩悩心とは無縁の心であり、これこそ人間の心の羅針盤としたいものだ。したがって、食物をはじめ、自然界の一切は、〝生かし続ける愛の師となる心(調和心)〟で溢れている。
この汚れなき、ピッカピッカの生命に目覚める時、人は必ず己の愚かさに気づいてゆくはずである。
私たちが毎日当然のごとく食べている米や野菜などに、宇宙意識の大調和エネルギー(響き)を感じながら、安定した心で生きたいものだ。
大調和のエネルギー(米、野菜など)を食べて、不調和な心(片寄りの心)を持って生きるなら、病気にもなるだろうし、不幸を招くのも当然である。私の酒乱地獄はその典型であった。
言い換えれば、一連の不幸性は、人間となった米、野菜たちの生命の叫びと言える。
(後略)
「米は、いのちの光」211〜215頁
人知の独走だけでは、バランスに狂いが生じやすい。余計なことかもしれないが、人知に乗って自然智を外れずといったところである。
『神秘の大樹Ⅰ偶然が消える時』「いざなうコスモスの花」▼
昭和六三(一九八八)年一〇月二七日午後一時、二〇キロ先まで商品配達のため出かけることになった。妻も一緒に行きたいと言って、慌ただしく着替えをして出てきた。いつもと様子がガラリと違っているのに驚いた。
ズボンは、コスモスと思える花柄模様でびっしりだし、シャツといえば、これまた小さな花の図柄でぎっしり織られている。いかにもコマンド兵を思わせる迷彩色に見えて、少々辟易気味になったが黙過して出発した。
一五キロ程度走った頃から川の堤防を走ることになった。眼下には、キラキラ輝きながら滔々と流れる最上川が目に入り、広大な風景に心ひかれたかと思ったら、今度は、路肩一面が花畑に変わり、そのあまりの美しさに運転も忘れがちになるほどであった。
そこには、コスモスの花が、赤・白・ピンクなど多彩な色合いで咲き誇り、花の屏風は延々と続いていた。
咲き揃う花園を見た妻は、感動のあまり身を乗り出して
「ここだ!」
と、我を忘れて叫んだ。それが何であるか私には分かった。コスモスの花と衣服の花柄は互いに共振共鳴し、妻の魂の中から燃え上ったのである。
ただちに車を止め、妻はコスモスの花畑に分け入った。風で揺らぐ一面の花が、無言の喜びを分かち合っているかのように感じられた。妻は、花の精気に包まれて、子供のように心うきうき感動したのである。
コスモスの花といえば、いかにも秋を締めくくる錦絵となって道行く人々の心を安らげてくれる風景である。
どうしてこのような現象が起こるのであろうか。一口で、透視的共時現象ともいえそうだが、「透視」という神秘用語に私は馴染めないのである。
花というコスモスの心性波動と、妻の心がなぜ融合したのか、二〇キロ先の遠隔の地で、どうして待ち合わせをしたのであろうか、その謎解きは、あくまでも妻自身の意識状態の位置にあると思える。
植物の心性波動に心の位置を置かなくては、コスモス群と、そのエネルギーの共振共鳴はできないであろう。植物の心性エネルギーと同調する意識とは、と考えたとき、はっと気づかされる妻の言動があった。
「私には機械はいらないんです…」
さらにまた、「米の心で生きているから…」などとさりげなく言っていたことがある。いわば、植物の心性波動と同調できる意識にあるといえる。
ここで、いのちというものを端的に考えたとき、まず宇宙生命があって、その中に地球生命がある。その地球生命の体温の中で密接に生きている植物生命がある。植物は大地に根を下ろし、地球生命の情報を微細にキャッチし、また地上では、枝や葉や幹によって宇宙生命の情報をこれまた微細にわたってキャッチしている唯一の生物であろう。
いのちの最前線といえばこの植物たちであるし、他の動物たちは、大地から離れていてひたすら植物を食うことで生命を繋ぐ生物といえる。生命界の情報量において動物は植物には到底及ぶものではないし、ましてや、知性を最大の武器とする人間は、自然界の生命エネルギー情報のキャッチにおいてきわめて退化傾向にあるのではないか。そのことは、自然力、そして、自然智という感覚から次第に遠のくことを意味する。
人知の独走だけでは、バランスに狂いが生じやすい。余計なことかもしれないが、人知に乗って自然智を外れずといったところである。
偶然の一致と思われている共時性現象は、生命の最前線ともいえる植物が、人間のいのちに転換する次元で多発する現象と考えている。
私は、人間なら植物である食物(米を中心にした五穀・野菜など)が口から入って胃で燃えて小腸で人のいのちに転換される最前線を、〝生命エネルギー転換次元〟と考えている。いわゆる原子エネルギー次元と考えるし、意志性波動をもつ次元と考えているのである。この霊的次元が万物普遍の情報源であると思っている。コスモスの花から発せられた色彩の心性エネルギーは、妻の境地の次元と共振共鳴していたのではないだろうか。
「いざなうコスモスの花」22〜25頁
(同じ著者による『死んでも生きているいのちの証し』▼にも「コスモスの色と妻の〝ヘソの中〟」(四五頁〜)として、ほぼ同様の文章が掲載されている。)
概念としての知識だけでは、むしろ、混乱が生ずるから注意しなければならない。
『酒乱‐米の生命が生きるまで』「守護の窓口となった妻と自然律(悪は、この世の仮りの姿)」▼
(中略)
そのため、心の習慣と肉体の習慣を、日々、粗末にできない理由が、生命の裂けるほど、わかってくる。そして子孫のどこかで、必ず目覚めなくてなんとするか!!
この永々と続いた悪習慣は、自分の過去だけのものなのか、あるいは、両親の代からのものなのか、さらに、それよりも、もっともっと先の時代にまで遡るのかは、人それぞれに異なっている。
ただ、ここではっきりしていることは、子孫の誰かが、この先祖ぐるみの悪習慣を断ち切らなくてはならない。命がけで、生命に恥じない人間性を取り戻さなくてはいけないのである。
そのためにも、単に人間的自我というくらいでは到底太刀打ちができない。自然界の愛が窓口にならなくては、汚れ切って、軟弱化した人間の心を、浄めることはできないだろう。
人間発生前の、生命の愛に戻って、我々を、
「生かして、生かして、生かし続ける愛の力」
を借りなければ、人間は改心できない。
すべての宗教を超えて、生命の愛に目覚めなくては、心の汚れは浄められない。私に潜んだ、酒乱で汚れ切った心は、妻の真心の一念で、生命の愛に目覚めさせてくれたのだった。米と酒の生命が、妻の生命の光を通して、私の心の中で生き返ったのである。
このことは、とても理解に苦しむこと、あるいは、低俗なことだと言われるかもしれない。だが、今、本当に、自分が迷っている時、そこから目覚めるためには、高尚な精神論や、宗教論で救われるだろうか。
少なくとも、酒乱の人生から自分を目覚めさせてくれたものは、ただの主婦である妻の守りのお蔭だった。一念の真心(愛)は、人間的自我(煩悩的自我)を超えた愛の心となり、私の汚れた心を浄めてくれた。
この妻の愛は、あまりに当たり前過ぎて、かえって説明に苦しむところだが、それは、人間的、都合的、犠牲的な愛ではない。また、男女の愛、親子の愛とも違う。それでは、どういう愛なのか。一口で言うなら、生かし続ける沈黙の愛だと、言える。また、宇宙心霊(生命界の心)が、妻の生命にがっちりと生きたのだと思われる。
妻が、よく言う言葉に、
「人間以前の食物たちの生命(心)に戻らないと、人は成仏できない。人霊の活躍は、まだ自我がある。人間以前の生命の愛がないと成仏できない」
と、いうことがある。
このことを知るためには、まず、毎日の食事に心を向けるがよい。食べることによって、生きることができるのは、当たり前のことだ。
もの言わぬ米を食べ、そして、野菜、魚、その他一切の食物を食べて、こうして、自分の心が生まれ、声が生まれ、言葉が生まれ、走り回り、今日を生きる人間。この、生かす力(愛)しかない食物たちと、融合一体となって、その尊い声なき心を受けることができる。酒乱の夫と過ごす尊い人生、三十三年の中で、人間を諭し続ける生命界の心と、通じ、結ばれ、生きた。そこには、いかなる理論の余地もない。
そこにあるものは、丸裸の透き通った光だけの生命しかない。そして、黙する生命の光の受け皿となった妻。しいて言うなら、沈黙の心々の世界から見たなら、灯台の光のような妻を見ているようなものであった。
だから、米の生命は、妻の生命の光を見て、心を寄せる。酒の生命も寄ってくる。酒の心は、妻を通して叫ぶ。
「喜び、安らぎで飲むんだよッ。浄まりの生命だよッ。神に捧げる生命だよッ。汚すのは、人の心だぞッ」
また、米の心は言うだろう。
「米寿の祝いとなる生命だよッ。八十八(88)の数にも、生きられる生命だよッ。磨き抜いて、御神酒にもなる生命だよッ。生命を汚してはならないよッ……」
と、人の体の中から叫んでいるだろうし、米、酒、食物一切、また、自然界の心々、そして、人霊の心々たちも、人の世のために、代弁してくれる妻の生命に寄ってくる。声となって、文字に生きて、数に生きて、色に生きて、寄ってくる。そして、見えざる生命の世界の心々を、人々に伝えていただく喜びが、こちらにも感じられる。
天地の生命の愛で生かされる人間界は、必ず、一人一人の生命の中から、目覚めさせられるであろう。そして、妻の守りは、沈黙世界の、見えざる、生かし続ける愛、その愛そのものの守り姿であった。
だから、米の生命も、酒の生命も、私の生命の中で、力強く生きた。
まず、心の突破口は、食物たちや、自然界の生かし続ける生命の愛を、自分の心で、ガッチリと感じられるようになれば、不調和な人生から、目覚めることが早まると思う。概念としての知識だけでは、むしろ、混乱が生ずるから注意しなければならない。
こういう、生命の原点に、真心から感謝できる心(愛)が目覚めたなら、自らを救うことが必ずできる。
不調和な心(悪性)は、目覚めなき迷いの心だから、悪はこの世の仮りの姿だと言える。
(後略)
「守護の窓口となった妻と自然律 (悪は、この世の仮りの姿)」109〜113頁
▼本の中身を見る
菅原茂/おりづる書房/2012年
文字・数・色は人間の意思だけではなく、生死の境やほかの生物などと境なく、いわゆる「霊」や「魂」の意志性を代弁している。 共時性現象(=偶然の一致)は、それを認識させてくれると同時に、一人ひとりに対するあたたかい道案内の現象だと伝えている。
▼本の中身を見る
菅原茂/おりづる書房/2011年
いまを生きている自分(あなた)自身の存在こそ、肉体をまとい、服を身につけている霊魂そのものだという。 霊魂というと、わが身の外に存在し、わが身の外で起きる「現象」と考えがちだが、そもそもそれは、私たちのからだやこころに内在し、わが身の中で起きていることがらなのである。
▼本の中身を見る
菅原茂/MBC21/1993年
「いのちとは」「心とは」という文字通りの “命題” について、 体験を通じた非常に強いメッセージを発している。 後年、この著者は『死んでも生きている いのちの証し』『神秘の大樹』を出版しているが、 第一作である本書を読むと、 なぜこの著者が、共時性を切り口にして「いのち」を語るのか、 腑に落ちる。
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菅原茂/たま出版/1997年
共時性現象の体験記録をもとに、生命の本質は不滅だと伝えている。 酒乱人生から夫婦二人三脚で新たな人生を再出発させた著者。自らの足元を照らすかのような共時性現象の記録を随想としてまとめている。また、本の表紙を飾る稲穂はこの著書の本質を象徴している。
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菅原茂/おりづる書房/2008年
便利な生活を享受するために、工業を中心にしてひた走ってきた日本社会。そのいっぽうで、むかしもいまも、ずっと変わらずいのちの原点でありつづける食のふる里。個人の生き方として、また社会の健全な姿としてのバランスを、どうやって回復したらよいのか。食と農と生命に実感がもてぬ現代の私達。時代や社会を経ても生きる原点は変わらないはず。私達の体と心は原点に帰れるのか。