共時性と因果性

B.偶然にひそむ因果

 

「非因果的」という表現への注意

 

1. 時間と空間が支配的な物質世界

C.G.ユング氏は、著書『自然現象と心の構造』のなかで、共時性について次のように述べています。

 

  • 共時的要因は、空間時間因果性という承認されている三組の上に第四番目としてつけ加えられるべき知的に必要な原理の存在を主張しているだけである。(p.132)
  • (物理学者であるW.パウリ氏の提案のおかげで、)「私は一組の対立関係  ―共時性と因果性―  を、これら異質な概念同士にある種の関連を築くという考えでもって、より緊密に定義づけるようになった。」(p.136)

 

一般的には、因果性と共時性を別の原理として考えるようですが、それは、哲学や物理学における因果性の解釈を考慮しているからです。くわしくは、後で述べることにして、まずは『自然現象と心の構造』から抜粋してみます。

※「⑷自然と科学」および「⑸思想に左右される世界観・生命観」または「C - 因果性とは何か

 

  • 自然法則は統計学上の真理である。それはわれわれが巨視物理学的量を扱っているときにのみ完全に妥当なことを意味している。(中略)原因と結果の間のつながりがただの統計学的にのみ妥当であり相対的にしか真理でないことが明らかになるなら、因果性の原理は、自然の諸過程を説明するのにただの相対的にしか役立たず、(後略)(p.5)
  • 「因果性は空間と時間の存在と物理的変化に拘束されて」いるため、「意味深く偶然に一致する諸因子間の相互連関は、どうしても非因果的なものと考えられねばならない」(ともにp.39)

 

たしかに、生きている私たちの体が存在している物質の世界は、時間や空間が支配的で、私たちの体はそれらに逆らうことができません。そういう限定された条件のもとでは、相応の時間と労力をかけて丹念に研究すれば、ついには原因と結果の関係がつきとめられる場合もあるので、その性質を利用して高度なものづくりや医療を進歩させることができたのだと考えられます。いっぽう、心の世界は、時間や空間によって位置を定めることは、ほぼ不可能です。つかみどころがないので、原因と結果の関係も一層つかみにくいと言えます。

 

 

2. 心と物質世界との関係

ところで、相関関係ということばがあります。心と体の相関関係が、西洋医学でも広く認識されるようになったと聞きますが、くわしい因果関係が必ずしも科学的に証明されているわけではないようです。(※「体と心の相関性」に詳述)

 

では心と物事の関係はどうかというと、共時性現象の定義にみられるように、心的要因が物的・外的事象の自然発生を招くという科学的な証拠がないので、因果関係がない、または「非因果的」および因果関係があるかどうかは不明だとされているようです。因果性と共時性が別の原理であるという考えには、こうした背景もあると考えられます。

 

ちなみに、因果関係と相関関係は意味がちがいますが、理論物理学者のデイヴィッド・ボーム氏が、自身の論文のなかで、心身相関から心と物質の関係まで述べているので、そのほんの一部を抜粋します。また、心理学者の河合隼雄氏が、著書のなかで、デイヴィッド・ボーム氏の見解を紹介しています。

 

  • 記録された記憶のすべては脳細胞に巻きこまれた状態で保持されているからであり、脳細胞そのものは物質の一部にほかならないからである。(『量子力学と意識の役割』のなかに掲載されている「宇宙の明在系‐暗在系と意識」p.270)
  • 理論物理学者のデイヴィッド・ボームは、われわれが知覚している世界は、一種の顕現の世界であり、その背後に時空を超えた全一的な、彼の言う暗在系(implicate order)を有しているとの画期的な考えをもつようになった。(『宗教と科学の接点』河合隼雄著 p.57~58)
  • 「暗在系にあっては、心は物質一般を巻き込んでいる、なによりも身体を巻き込んでいると言わねばならない。同様に、身体は心だけではなく、ある意味において、物質的宇宙のことごとくを巻き込んでもいるのである。身体と心とは、したがって、より広大なる一個の亜総体のファクター(因子)と呼ばれてしかるべきであり、この亜総体が心身双方の基盤をなしていると言いうるのである」とボームは述べている。(『宗教と科学の接点』p.63~64)

※理論物理学者のデイヴィッド・ボーム氏が、人間の知覚世界を説明する際に使用した言葉(implicate order=「暗在系」)で、対義的な語は「明在系」。「物質も意識も暗在系を共有している」と述べた。

 

重要なのは、ボーム氏が述べている物質は、人間の体を構成している物質であると同時に、外界の物質もさしているということです。

 

 

3. 因果性が「ない」のか「説明できない」のか

『自然現象と心の構造』の表紙画像 ユング氏は「狭義の共時性は、たいていは個人的な例で、実験的にくり返しがきかない。」(『自然現象と心の構造』p.138)と述べています。たしかに、本人でなければ実感しにくいのは事実ですから、個人的な例は第三者によって客観的に評価できないという点は一般論として挙げられます。ただし、実験によって科学的な法則性を証明する手法を適用できることがらは、そもそも限定的であるはずです。

 

また、心は常に変化していて一定ではない性質があることを考慮すると、「実験的にくり返しがきかない」のは、ある意味当然のことではあります。物の性質にくらべて、心の性質はいっそう不安定であると考えられるので、狭義の「因果性」という尺度ではとらえ切れないということです。ですから、偶然の一致(共時性)が「因果的に関係ない」というのは、関連がないという全面的否定ではなく、今の物質科学の尺度(=因果性)では説明ができないと受けとめるべきです。そのことをふまえると、共時的なことがら同士は因果的に関係ないという論理、または「非因果的」という表現には、誤解を生む可能性があることがわかります。

 

というのも、私たち一般の日本人には、もともと仏教用語としての意味をもつ「因果」という言葉のほうが感覚的に何となく馴染なじみがあると考えられるので、科学に適用される狭義の「因果性」と混同するおそれがあります。物の見方・尺度・その理論である科学が、「因果」の概念に対して正否を判定したり、観念そのものを否定したりしているとは考えられません。物質科学的な手法では因果性を判定できないという見地から、以下のようにユング氏は(同著書において)結論づけていると考えられるのです。

 

  • 「共時的要因は、空間時間因果性という承認されている三組の上に第四番目としてつけ加えられるべき知的に必要な原理の存在を主張しているだけである。」(p.132)
  • 「因果性は空間と時間の存在と物理的変化に拘束されて」いるため、「意味深く偶然に一致する諸因子間の相互連関は、どうしても非因果的なものと考えられねばならない」(ともにp.39)

 

共時性現象のもつ意味が、個人的(特殊)か普遍的かは、心の方向性が大きく関わっているとされます。科学的・客観的尺度とはちがって主観的であるとはいえ、縁を引きよせる当事者の心が、何を観ているのか、どこに向いているのかによって、現実に起きることがらにも差が生じるということです。心の次元や純度、思いの深さなどに応じて、縁にも差が生じると考えることは、心と体の関係や先ほど述べた心と物質一般の関係をふまえると、さほど飛躍したものではないとおもいます。

 

 

4. 自然と宗教と科学

前に述べた “仏教用語としての意味をもつ「因果」という言葉のほうが感覚的に何となく馴染なじみがある” とは、次のような辞書的意味を明示できなくとも、そのような文化的背景を日本人はもっているのではないかということです。

 

因果〔仏〕は仏教、〔哲〕は哲学の意。

  • ①〔仏〕
  • ㋑直接的原因(因)と間接的条件(縁)との組み合わせによってさまざまの結果(果)を生起すること。今昔「仏法を悟り因果を知りて極楽に往生する」
  • ㋺特に、善悪の業(ごう)によってそれに相当する果報を招くこと。また、その法則性。太平記「因果に依つて田夫は沙門と生れ、蛙は波羅奈国の大王と生れ」
  • ㋩悪業の果報である不幸な状態。不運なめぐり合せ。昨日は今日の物語「いかなる因果にて我らはかやうにあさましき事や」。「因果な話」
  • ②原因と結果。
  • 【因果応報】〔仏〕過去における善悪の業(ごう)に応じて未来の果報を生ずること。
  • 【因果関係】原因とそれによって生ずる結果との関係。
  • 【因果性】〔哲〕(causalityイギリス) 二つないしそれ以上の存在の間に、原因および結果としての結びつきがあること。因果原理。原因性。
  • 【因果律】〔哲〕一切のものは原因があって生起し、原因がなくては何も生じないという法則。因果性の法則化された形式。

以上の出典は『広辞苑第四版』岩波書店、第六刷–1997年。「今昔四」は今昔物語集の第四巻、「太平記二」は太平記の第二巻。

 

上の説明は「因果」という言葉の確認です。注目したいのは仏教的世界観というより、「自然」をどう捉えてきたかという点です。この点について河合隼雄氏が著書のなかでくわしく述べている部分を抜粋します。

(表示や構成の都合上、原文と同じ縦書きで掲載)

 

 

 

自然とは何か

 今日では、日本人のほとんどが「自然」という言葉を、英語の nature と同じような意味に解していると言っていいだろう。人間および人工的なものに対するものとして、いわゆる山川草木、および人間以外の動物、それに鉱物などを含め、それを宇宙にまで拡大して、総称して「自然」と呼んでいる。しかし、実のところ、そのような客観的な対象としての「自然」などという概念も、また言葉も、もともと日本にはなかったものであり、nature という英語に「自然」という訳語を当てはめたために多くの混乱が生じることになった事実は、柳父 章やなぶ あきらの周到な分析によって周知のこととなっている。従って、この点については省略するが、そうなると、現代の日本人は、自然をどう把握しているのか、そもそも古来からはどうであったのかなどが問題となってくる。(後略)
 「自然」という語は、もちろん中国から由来しているわけであるが、(中略)自然という語は、「『オノズカラシカル』すなわち本来的にそうであること(そうであるもの)、もしくは人間的な作為の加えられていない(人為に歪曲されず汚染されていない)、あるがままの在り方を意味し、必ずしも外界としての自然の世界、人間界に対する自然界をそのままでは意味しない」ことを指摘している。この「オノズカラシカル」という考えは、天地万物も人間も同等に自生自化するという考えにつながり、「物我の一体性すなわち万物と自己とが根源的には一つであること」を認める態度につながるものである。(後略)
 このような中国の「自然」に対する態度は、インドからの仏教を受けいれたときに影響し、福永は、「西暦七-一〇世紀、唐の時代の中国仏教学をインドのそれと比較して最も注目されることの一つは、草木土石の自然物に対しても仏性すなわち成仏の可能性を肯定していることである」と述べている。つまり、生物のみならず無生物も、森羅万象すべてが仏性をもつと考えたのである。
 このような考えはそのままわが国にも伝来されてきたが、「自然」という用語は、従って、「オノズカラシカル」という意味で用いられ、それは「自然じねん」と発音されることとなった。そして、西洋人のように自我に対する客観的対象として「自然ネイチャー」を把握する態度は存在せず、従って、そのような名詞も日本語にはなかったのである。「山川草木」というような表現が示すように、個々の具体的なものを認識の対象とはしたであろうが、おそらく、それは近代人のする「認知」とは異なるものであったと考えられる。対象と自分との区別は、昔の日本人にとって思いの他にあいまいなものであったろうと思われる。
 西洋における(中略)「自然」を客観的対象としてみる態度の背後には、キリスト教による人間観、世界観が強く存在していると思われる。聖書には、神が世界を創造し、人間を創造するときに「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、それに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」(創世記一章二六)と言ったと述べられている。ここに、人間とその他の存在物との間に画然とした区別が存在することになった。このような宗教的な背景をもって、他と自分とを明確に区別し、他を客観的対象とし得るような自我が成立することになったと思われる。そして、その自我が「自然」を対象として観察し、そこに自然科学が発達することになったのである。このため、「自然ネイチャー」は西洋において科学の対象となるし、「自然じねん」は東洋において宗教のもっとも本質にかかわるものとなったのである。
 ところで、日本人は近代になって西洋の nature の概念に接したとき、これに「自然じねん」の漢字をあて、「自然しぜん」と呼ぶようにしたのであるが、そのために柳父章の指摘するような混乱が生じた(後略)

『宗教と科学の接点』「第五章 自然について」»「自然とは何か」一四一頁から一四五頁、文中の人名への振り仮名はサイト編者によるもの。

 

 

 

このほかにも、‘キリスト教という宗教’と科学はかならずしも対立する概念ではないこと、科学は基本的にキリスト教の世界観を補う存在として発達したこと、などを指摘しています。中国や日本などおもに東洋では完全には客体化され得ない自然や自然現象に対して、ひとつの原因に対するひとつの結果という直線的な因果律は馴染まなかったのではないでしょうか。科学に適用できる明瞭な「因果性」と、全体的な文脈としての「因果」の違いは、前者が物という「客観」領域を、後者が意識という「主観」を「客観」と明確に分けず全体を視野に入れている点です。ちなみに客観主観という言葉は明治期に西洋から輸入した言葉(概念)の訳語とされています。(広辞苑より)

 

このように理解すると、科学が輸入された明治以降の私たち日本人の、つまり自分自身の自然観や世界観に目が向きます。身の回りの自然界(食物の生命を含む)や自然現象、他人などを自分の存在(自我の意識)とは分けると同時に、客観的対象として(医療においては体すら客体化して)認識する慣習が、良し悪しは別にして根づいているのではないでしょうか。

 

 

5. 思想に左右される世界観・生命観

「非因果的」「因果的には関係がない」という解釈には、主観と客観とを明確に区別する西洋的世界観を背景にもつ「科学」的根拠の枠内で結論づけるしかない事情があることを理解する必要があるのではないかと考えています。ユング氏はどうしても非因果的と言わざるをえなかったのではないかということです。

 

その一方で、河合隼雄氏は次のように指摘しています。「超感覚的知覚 (Extra-Sensory Perception 略してESPという) の現象に関しては、それをエーテルとか特別な電磁波などによって伝播の可能性を因果的に説明しようとする試みがなされてきた。これに対して、ユングはそのような因果的説明を拒否するところに特徴がある。そして、その上で意味のある事象の重なりが非因果的な布置ふち (acausal constellation) をつくることがあり得ることを認めようというのである。つまり、因果律と共時性は、事象を研究する上において相補的な役割をなすものであり、両者はまったく性格を異にする原理であることを認めるのである。」(『宗教と科学の接点』p.40~41「第二章 共時性について」»「共時性とは何か」、ふりがなと下線は引用者によるもの。)

 

(西洋哲学的世界観を背景にもつ)因果律で説明できない事象であろうと、在るものは在ると学問的に認定するために、因果律とはまったく別の原理として共時性を位置づけようとしていた、というのが上記の指摘です。いっぽう、その因果律に比べれば非常に曖昧ながらも、東洋では客観・主観の境界ではなく、共時的事象とその背景にあるものとの間に「因果」という関連性を観ていたということではないでしょうか。「因果的には関係がない」という考え方に対して個人的に少なからず違和感を覚えるのは、このような世界観のずれがあるからではないかと考えています。

 

偉大な実績を積み重ね、私たちに恩恵をもたらしてきた科学ですが、心は解明できていないことが多いのも事実です。また、仮に私たちの知識が更新されていないままだとすると、結果として心の奥深さや神秘性を見落としたり排除したりすることになりかねないようにおもいます。

 

『量子力学と意識の役割』の表紙画像科学的根拠がなければ怪しいという世の中の空気は当時も今も変わらないのかもしれません。ただ科学を信奉するのであれば、科学者のなかには先述のように専門を踏まえた考察によって、心的「因子」と「物質的宇宙」とを関連づけた人が存在しており、科学のありように一石を投じていることを知っておく必要もあるのではないでしょうか。(※理論物理学者デヴィッド・ボーム氏)

 

ユング氏は「空間、時間、因果性という承認されている三組の上に第四番目として」(出典『自然現象と心の構造』)共時的要因の存在を科学的に確かなものとしなければならないという科学者としての強い信念のいっぽうで、科学で割り切れない現実に葛藤していたのではないかとおもいます。生命に対する見方(生命観)が問われているいまの時代、先人の研究とその意志を正しく引き継ぎ理解することで、先入観や固定観念を脱する必要があるのは言うまでもありません。故・ユング博士も、進歩をいちばん望んでおられるのではないかと想像します。

 

 

【備考】
人間が知性によって獲得した高度な学問的成果や精神的成果、たとえば科学、宗教、思想、哲学。上述のように私たち現代人の世界観や生命観はこれらの影響を少なからず受けています。しかし、ヒトの生命いのちは、知性や心、それらを超越する精神的な本質(霊や魂)だけで存在しているわけではありません。いま述べた「知性」の成果には意義が当然あるわけですが、生命を根元的に支えている食、それと融合する精緻で高度な働きをしている体の存在を置き去りにして、この命題を語ることはできないはずです。(下の資料『酒乱‐米の生命が生きるまで』ほか参照)

 

 

1ページ目  現在のページ、2ページ目  3ページ目、最後のページ

A. 共時性とは何か

C. 因果性とは何か

 

 

共時性現象と思われる写真:青空に浮かぶ雲。茜色に染まった雲が犬のような形をしている。キャプションは「雲になった桃太郎」

 

 

毎日欠かさず口にする食物が細胞体をつくり、その組織体である自分/細胞へ、分子へ、原子(元素)へ、素粒子へ

『神秘の大樹Ⅲ文字・数・色で証す新次元』「雲になった桃太郎」 p.26

 

 

雲になった桃太郎

 どんなものにもいのちがあると私は日頃からそう思うようになった。そして、いのちの一つ一つには顔があるとも思ってきた。また、いのちの本体は心ある物質であるということが私の生命感の土台となってきた。いのちは、心性と物性の両性(二象体)を持つ、元は一つの心性物質から発しているエネルギーだと思うようになった。
 だから、石一個、雨一滴、草一本でも物質であると同時に心であるということになり、それらのルーツをたどれば、目に見えない原子(元素)、素粒子などといういのちの素にたどり着く。科学が進めばもっと深いいのちのふる里に案内してくれるかもしれない。いずれにせよ、内なる宇宙も外なる宇宙も、いのちで満ち満ちている世界、それがこの世だ。
 難しく考えれば、この生命世界は、共振共鳴共時の世界であり、磁気磁波磁性体の世界であり、代謝躍動安定エネルギーの満ち溢れている世界だと私は考えるようになった。すなわちこの世は、生命力で満ち溢れているいのちの世界に他ならない。
 いのちの世界では、心は物質であり物質もまた心であるから、この世の存在は見えても見えずともすべてが生命体だという考えに立つことができる。
 そういう考えに立つときいのちには顔があるものと思えば、この世の全存在には顔があるということになっても不思議ではない。そういうことを思うか思わぬか、また馬鹿馬鹿しいと思うかであるが、例えば水蒸気の一粒子にも心性波動があって、さらに、顔の相があるといってもいいのではないか。
 心性波動は光といえるから、この世は光の世界といいかえてもそれほど馬鹿げた話でもないだろう。目の前の石一つでも光を発している。すなわち、心性波動を発しているし、その心性の内容はわからないが、心の素の磁気磁波磁性体であることには違いない。
 ここで、自分というものを考えてみたとき、そのできあがる過程をさかのぼれば、毎日欠かさず口にする食物が細胞体をつくり、その組織体である自分の奥深くをたどるならば、細胞へ、分子へ、原子(元素)へ、素粒子へと、どんどん内なる大宇宙へと進み、その果ては、無音無体の「無」の世界となる。この無の世界こそこの自分の真の姿といえる。それはすなわち、いのちの土台は「無」であるということにもなるではないか。
 何もないという無の世界ではなく、心と物質の両性をもった心性物質波動で充満する絶対静の世界だと私は考えている。
 絶対静の内的大宇宙の自分、無を土台とした自分がもの申すことになるから、やはりこの本体は幽霊であって当然だ。するとこの世は、幽霊の話し声で溢れているけれども耳には聞こえない。どうですか? 馬鹿馬鹿しいかぎりですか?
 幽霊といえば、薄気味悪く恐い話になるようだが、実は、自分の中には幽霊そのものの世界であって、目には見えない幽玄霊妙な物申す精神世界である。目に見えないものは恐いのである。放射能も心も目には見えないし、いのちという、意志性エネルギー体は、目には見えない幽霊の世界なのであって、恐いのは、人の心ではないか。極端なことを言えば、我々は、幽霊に着物を着せて歩いている姿なのだ。だから、恐くない心の持ち主になりたいと思うし、政界などでも取りざたされるものに、怨念劇があるくらいなのだ。
 心のサイクルさえ合えば、この世は万華鏡で見るごとく、心のサイクル次第では変化に富んだ見え方をするのも当然だ。
 さてここからは、心のチャンネル次第で驚くような天体ショーを紹介してみたい。
 ある日、旧知のご仁が私に、次のような体験を披露してくれたことがある。亡き愛犬が、雲に姿を変えて逢いにきたのであった。
 ご仁の犬好きは並のことではないようだ。寝食を共にという感じの心の通い合い即ち、以心伝心の世界であった。
 昭和六四年一月一日、数匹の子犬たちが誕生した。すくすく育った子犬たちは、やがて新しい飼い主たちに引き取られていった。その中で、「桃太郎」という名前の特別かしこい牡の子犬は、知り合いの老夫婦に引き取られることになった。新しい飼い主の老夫婦は、やさしく大事に育てて、桃太郎と楽しく過ごしていた。
 ところがある日のこと、おじいさんが病に倒れて入院することになり、残されたおばあさんは、犬の世話まで手が回らずご仁のところに親元になってほしいとお願いに来た。願われたご仁は桃太郎を引き取ることになった。
 ところがどうしたことであろうか、それから二、三日後のこと、桃太郎は、どうみても車に自分から飛った。
 ある、夕焼け空のとても美しい日のことであった。輝く茜雲に後ろ髪をひかれる思いで振り向いたとき、目の前に刻々と姿を変える雲を見た。他の雲よりひときわ動きのはやい龍の体のような姿にハッと心を奪われたご仁は、素早くカメラに収めたが、その間ほんの数十秒くらいであったという。
 その雲の姿は、あまりにもリアルで、そして、亡くなった桃太郎の姿にそっくりであったのだ。
 雲となった犬の目は、生き生きとご仁を見据え、さらに口元では、何事かを語りかけている姿に見受けられたという。
 桃太郎の姿は、ご仁の想いの波動(光)で雲に転化したものであろうか。それとも、ご仁の心に受け答えするようにして、いったんは天地に命をかえした桃太郎ではあるが、ご仁の魂に内在する桃太郎の霊魂が生命元素を呼び寄せて雲に有体化現象を起こしたものであろうか。
 それらのメカニズムは不明の謎であるが、あくまでもご仁の魂に残っている愛犬・桃太郎への想いが熟成されて、その霊魂が雲に同期したのかもしれない。

「雲になった桃太郎」二五〜三〇頁
『神秘の大樹Ⅲ文字・数・色で証す新次元』について→

 

 

 

人知の独走だけでは、バランスに狂いが生じやすい。余計なことかもしれないが、人知に乗って自然智を外れずといったところである。

出典『神秘の大樹Ⅰ偶然が消える時』「いざなうコスモスの花」 p.25

 

 

 

いざなうコスモスの花

 昭和六三(一九八八)年一〇月二七日午後一時、二〇キロ先まで商品配達のため出かけることになった。妻も一緒に行きたいと言って、慌ただしく着替えをして出てきた。いつもと様子がガラリと違っているのに驚いた。
 ズボンは、コスモスと思える花柄模様でびっしりだし、シャツといえば、これまた小さな花の図柄でぎっしり織られている。いかにもコマンド兵を思わせる迷彩色に見えて、少々辟易気味になったが黙過して出発した。
 一五キロ程度走った頃から川の堤防を走ることになった。眼下には、キラキラ輝きながら滔々とうとうと流れる最上川が目に入り、広大な風景に心ひかれたかと思ったら、今度は、路肩一面が花畑に変わり、そのあまりの美しさに運転も忘れがちになるほどであった。
 そこには、コスモスの花が、赤・白・ピンクなど多彩な色合いで咲き誇り、花の屏風は延々と続いていた。
 咲き揃う花園を見た妻は、感動のあまり身を乗り出して
「ここだ!」
と、我を忘れて叫んだ。それが何であるか私にも分かった。コスモスの花と衣服の花柄は互いに共振共鳴し、妻の魂の中から燃え上ったのである。
 ただちに車を止め、妻はコスモスの花畑に分け入った。風で揺らぐ一面の花が、無言の喜びを分かち合っているかのように感じられた。妻は、花の精気に包まれて、子供のように心うきうき感動したのである。
 コスモスの花といえば、いかにも秋を締めくくる錦絵となって道行く人々の心を安らげてくれる風景である。
 どうしてこのような現象が起こるのであろうか。一口で、透視的共時現象ともいえそうだが、「透視」という神秘用語に私は馴染めないのである。
 花というコスモスの心性波動と、妻の心がなぜ融合したのか、二〇キロ先の遠隔の地で、どうして待ち合わせをしたのであろうか、その謎解きは、あくまでも妻自身の意識状態の位置にあると思える。
 植物の心性波動に心の位置を置かなくては、コスモス群と、そのエネルギーの共振共鳴はできないであろう。植物の心性エネルギーと同調する意識とは、と考えたとき、はっと気づかされる妻の言動があった。
「私には機械はいらないんです…」
 さらにまた、「米の心で生きているから…」などとさりげなく言っていたことがある。いわば、植物の心性波動と同調できる意識にあるといえる。
 ここで、いのちというものを端的に考えたとき、まず宇宙生命があって、その中に地球生命がある。その地球生命の体温の中で密接に生きている植物生命がある。植物は大地に根を下ろし、地球生命の情報を微細にキャッチし、また地上では、枝や葉や幹によって宇宙生命の情報をこれまた微細にわたってキャッチしている唯一の生物であろう。
 いのちの最前線といえばこの植物たちであるし、他の動物たちは、大地から離れていてひたすら植物を食うことで生命を繋ぐ生物といえる。生命界の情報量において動物は植物には到底及ぶものではないし、ましてや、知性を最大の武器とする人間は、自然界の生命エネルギー情報のキャッチにおいてきわめて退化傾向にあるのではないか。そのことは、自然力、そして、自然智という感覚から次第に遠のくことを意味する。
 人知の独走だけでは、バランスに狂いが生じやすい。余計なことかもしれないが、人知に乗って自然智を外れずといったところである。
 偶然の一致と思われている共時性現象は、生命の最前線ともいえる植物が、人間のいのちに転換する次元で多発する現象と考えている。
 私は、人間なら植物である食物(米を中心にした五穀・野菜など)が口から入って胃で燃えて小腸で人のいのちに転換される最前線を、〝生命エネルギー転換次元〟と考えている。いわゆる原子エネルギー次元と考えるし、意志性波動をもつ次元と考えているのである。この霊的次元が万物普遍の情報源であると思っている。コスモスの花から発せられた色彩の心性エネルギーは、妻の境地の次元と共振共鳴していたのではないだろうか。

「いざなうコスモスの花」2225
『神秘の大樹Ⅰ偶然が消える時』(同じ著者による『死んでも生きているいのちの証し』にも「コスモスの色と妻の〝ヘソの中〟」(四五頁〜)として、ほぼ同様の文章が掲載されている。)

 

 

 

概念としての知識だけでは、むしろ、混乱が生ずるから注意しなければならない。

出典『酒乱‐米の生命が生きるまで』
「守護の窓口となった妻と自然律(悪は、この世の仮りの姿)」 p.113

 

 

 

守護の窓口となった妻と自然律 (悪は、この世の仮りの姿)

(中略)
 そのため、心の習慣と肉体の習慣を、日々、粗末にできない理由が、生命いのちの裂けるほど、わかってくる。そして子孫のどこかで、必ず目覚めなくてなんとするか!!
 この永々と続いた悪習慣は、自分の過去だけのものなのか、あるいは、両親の代からのものなのか、さらに、それよりも、もっともっと先の時代にまで遡るのかは、人それぞれに異なっている。
 ただ、ここではっきりしていることは、子孫の誰かが、この先祖ぐるみの悪習慣を断ち切らなくてはならない。命がけで、生命に恥じない人間性を取り戻さなくてはいけないのである。
 そのためにも、単に人間的自我というくらいでは到底太刀打ちができない。自然界の愛が窓口にならなくては、汚れ切って、軟弱化した人間の心を、浄めることはできないだろう。
 人間発生前の、生命いのちの愛に戻って、我々を、
「生かして、生かして、生かし続ける愛の力」
を借りなければ、人間は改心できない。
 すべての宗教を超えて、生命の愛に目覚めなくては、心の汚れは浄められない。私に潜んだ、酒乱で汚れ切った心は、妻の真心の一念で、生命の愛に目覚めさせてくれたのだった。米と酒の生命が、妻の生命の光を通して、私の心の中で生き返ったのである。
 このことは、とても理解に苦しむこと、あるいは、低俗なことだと言われるかもしれない。だが、今、本当に、自分が迷っている時、そこから目覚めるためには、高尚な精神論や、宗教論で救われるだろうか。
 少なくとも、酒乱の人生から自分を目覚めさせてくれたものは、ただの主婦である妻の守りのお蔭だった。一念の真心(愛)は、人間的自我(煩悩的自我)を超えた愛の心となり、私の汚れた心を浄めてくれた。
 この妻の愛は、あまりに当たり前過ぎて、かえって説明に苦しむところだが、それは、人間的、都合的、犠牲的な愛ではない。また、男女の愛、親子の愛とも違う。それでは、どういう愛なのか。一口で言うなら、生かし続ける沈黙の愛だと、言える。また、宇宙心霊(生命界の心)が、妻の生命にがっちりと生きたのだと思われる。
 妻が、よく言う言葉に、
「人間以前の食物たちの生命(心)に戻らないと、人は成仏できない。人霊の活躍は、まだ自我がある。人間以前の生命の愛がないと成仏できない」
と、いうことがある。
 このことを知るためには、まず、毎日の食事に心を向けるがよい。食べることによって、生きることができるのは、当たり前のことだ。
 もの言わぬ米を食べ、そして、野菜、魚、その他一切の食物を食べて、こうして、自分の心が生まれ、が生まれ、言葉が生まれ、走り回り、今日を生きる人間。この、生かす力(愛)しかない食物たちと、融合一体となって、その尊い声なき心を受けることができる。酒乱の夫と過ごす尊い人生、三十三年の中で、人間を諭し続ける生命界の心と、通じ、結ばれ、生きた。そこには、いかなる理論の余地もない。
 そこにあるものは、丸裸の透き通った光だけの生命いのちしかない。そして、黙する生命の光の受け皿となった妻。しいて言うなら、沈黙の心々の世界から見たなら、灯台の光のような妻を見ているようなものであった。
 だから、米の生命は、妻の生命の光を見て、心を寄せる。酒の生命も寄ってくる。酒の心は、妻を通して叫ぶ。
「喜び、安らぎで飲むんだよッ。浄まりの生命いのちだよッ。神に捧げる生命だよッ。汚すのは、人の心だぞッ」
 また、米の心は言うだろう。
「米寿の祝いとなる生命だよッ。八十八(88)の数にも、生きられる生命だよッ。磨き抜いて、御神酒にもなる生命だよッ。生命を汚してはならないよッ……」
と、人の体の中から叫んでいるだろうし、米、酒、食物一切、また、自然界の心々、そして、人霊の心々たちも、人の世のために、代弁してくれる妻の生命に寄ってくる。となって、文字に生きて、に生きて、に生きて、寄ってくる。そして、見えざる生命の世界の心々を、人々に伝えていただく喜びが、こちらにも感じられる。
 天地の生命の愛で生かされる人間界は、必ず、一人一人の生命の中から、目覚めさせられるであろう。そして、妻の守りは、沈黙世界の、見えざる、生かし続ける愛、その愛そのものの守り姿であった。
 だから、米の生命も、酒の生命も、私の生命の中で、力強く生きた。
 まず、心の突破口は、食物たちや、自然界の生かし続ける生命の愛を、自分の心で、ガッチリと感じられるようになれば、不調和な人生から、目覚めることが早まると思う。概念としての知識だけでは、むしろ、混乱が生ずるから注意しなければならない。
 こういう、生命の原点に、真心から感謝できる心(愛)が目覚めたなら、自らを救うことが必ずできる。
 不調和な心(悪性)は、目覚めなき迷いの心だから、悪はこの世の仮りの姿だと言える。
(後略)

「守護の窓口となった妻と自然律 (悪は、この世の仮りの姿)」109113
『酒乱‐米の生命が生きるまで』について→

 

 

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A. 共時性とは何か

C. 因果性とは何か

共時性とは何か

共時性と因果性

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時空や生死を超え、人種や生物種も超えて、いのちには境界がない証し

 

因果性とは何か

物理的視点

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「因果性」の実際は、それほど単純ではなく、もっと複雑。科学的な「法則」は、限定的な条件のもとでのみ有効だ。

 


共時性の真価

生命の真実

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平成5年8月6日、広島平和公園で偶然発見された一羽の折鶴。共時性の真の価値は、それが生命の真実を示していること。

 

体と心の相関性

生命現象の根源

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私たち現代人が見失っている食の本質。生命と生命現象の根源は食にある。自分のいのち食のいのちに対する考え方が問われている。

 

サイトの概要

共時性を通して観る生命

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サイトの趣旨、本の紹介・説明、なぜ今これらの本を推すのか。サイトマップ他

 

 


引用・参考図書

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書籍『自然現象と心の構造』を図書館情報サイト「カーリル」で検索します

自然現象と心の構造
非因果的連関の原理

C.G.ユング、W.パウリ/海鳴社/1976年

1955年に米国と英国で出版された英語版の『自然の解釈と精神』(The Interpretation of Nature and the Psyche)の日本語訳版。心理学者であるC.G.ユング氏の論文を、同じく心理学者である河合隼雄氏が、物理学者であるW.パウリ氏の論文を、科学史研究者の村上陽一郎氏が翻訳している。

 

 

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書籍『宗教と科学の接点』を図書館情報サイト「カーリル」で検索します

宗教と科学の接点

河合隼雄/岩波書店/1986年

ここでいう宗教とは、特定の教義をもつ各宗教のことではなく、心や魂を担当してきた分野という広い意味をさしている。これまで単純に対立的にとらえられてきた物と心の問題をだれもが真剣に考えることは、21世紀の人類を考える上できわめて重要だとしている。

 

 


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書籍『量子力学と意識の役割』を図書館情報サイト「カーリル」で検索します

量子力学と意識の役割

ブライアン D.ジョセフソン/フリッチョフ カプラ/O.C=ド・ポールギャール/リチャード D.マトゥック/デヴィッド・ボーム/竹本忠雄監訳/たま出版/1984年

物理系とは異質の観測主体(意識)の存在を認めないと、量子の物理的過程の解釈はできないという課題に挑んだ物理学者たちの論文集。デヴィッド・ボーム氏による論文は、「宇宙の暗在系-明在系と意識」。

 

 

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書籍『神秘の大樹 第三巻 文字・かず・色であかす新次元』の詳細・閲覧ページにリンクしています

神秘の大樹 Ⅲ
文字・数・色で証す新次元

菅原茂/おりづる書房/2012年

本の総合情報

文字・数・色は人間の意思だけではなく、生死の境やほかの生物などと境なく、いわゆる「霊」や「魂」の意志性を代弁している。 共時性現象(=偶然の一致)は、それを認識させてくれると同時に、一人ひとりに対するあたたかい道案内の現象だと伝えている。

 

 


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書籍『神秘の大樹 第一巻 偶然が消える時』の詳細・閲覧ページにリンクしています

神秘の大樹Ⅰ
偶然が消える時

菅原茂/おりづる書房/2011年

本の総合情報

 

いまを生きている自分(あなた)自身の存在こそ、肉体をまとい、服を身につけている霊魂そのものだという。 霊魂というと、わが身の外に存在し、わが身の外で起きる「現象」と考えがちだが、そもそもそれは、私たちのからだやこころに内在し、わが身の中で起きていることがらなのである。

 

 

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書籍『酒乱こめのいのちが生きるまで』の詳細・閲覧ページにリンクしています

酒乱
米の生命が生きるまで

菅原茂/MBC21/1993年

本の総合情報

 

「いのちとは」「心とは」という文字通りの “命題” について、 体験を通じた非常に強いメッセージを発している。 後年、この著者は『死んでも生きている いのちの証し』『神秘の大樹』を出版しているが、 第一作である本書を読むと、 なぜこの著者が、共時性を切り口にして「いのち」を語るのか、 腑に落ちる。

 

 


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書籍『死んでも生きているいのちのあかし』の詳細・閲覧ページにリンクしています

 

死んでも生きている
いのちの証し

菅原茂/たま出版/1997年

本の総合情報

 

共時性現象の体験記録をもとに、生命の本質は不滅だと伝えている。 酒乱人生から夫婦二人三脚で新たな人生を再出発させた著者。自らの足元を照らすかのような共時性現象の記録を随想としてまとめている。また、本の表紙を飾る稲穂はこの著書の本質を象徴している。