共時性と因果性
ところで、相関関係ということばがあります。心と体の相関関係が、西洋医学でも広く認識されるようになったと聞きますが、くわしい因果関係が必ずしも科学的に証明されているわけではないようです。
では心と物事の関係はどうかというと、共時性現象の定義にみられるように、心的要因が物的・外的事象の自然発生を招くという科学的な証拠がないので、因果関係がない、または「非因果的」および因果関係があるかどうかは不明だとされているようです。因果性と共時性が別の原理であるという考えには、こうした背景もあると考えられます。
ちなみに、因果関係と相関関係は意味がちがいますが、理論物理学者のデイヴィッド・ボーム氏が、自身の論文のなかで、心身相関から心と物質の関係まで述べているので、そのほんの一部を抜粋します。また、心理学者の河合隼雄氏が、著書のなかで、デイヴィッド・ボーム氏の見解を紹介しています。
重要なのは、ボーム氏が述べている「物質」は、人間の体を構成している物質であると同時に、外界の物質もさしているということです。
「雲になった桃太郎」▼
毎日欠かさず口にする食物が細胞体をつくり、その組織体である自分/細胞へ、分子へ、原子(元素)へ、素粒子へ
『神秘の大樹Ⅲ文字・数・色で証す新次元』「雲になった桃太郎」▼
どんなものにもいのちがあると私は日頃からそう思うようになった。そして、いのちの一つ一つには顔があるとも思ってきた。また、いのちの本体は心ある物質であるということが私の生命感の土台となってきた。いのちは、心性と物性の両性(二象体)を持つ、元は一つの心性物質から発しているエネルギーだと思うようになった。
だから、石一個、雨一滴、草一本でも物質であると同時に心であるということになり、それらのルーツをたどれば、目に見えない原子(元素)、素粒子などといういのちの素にたどり着く。科学が進めばもっと深いいのちのふる里に案内してくれるかもしれない。いずれにせよ、内なる宇宙も外なる宇宙も、いのちで満ち満ちている世界、それがこの世だ。
難しく考えれば、この生命世界は、共振共鳴共時の世界であり、磁気磁波磁性体の世界であり、代謝躍動安定エネルギーの満ち溢れている世界だと私は考えるようになった。すなわちこの世は、生命力で満ち溢れているいのちの世界に他ならない。
いのちの世界では、心は物質であり物質もまた心であるから、この世の存在は見えても見えずともすべてが生命体だという考えに立つことができる。
そういう考えに立つときいのちには顔があるものと思えば、この世の全存在には顔があるということになっても不思議ではない。そういうことを思うか思わぬか、また馬鹿馬鹿しいと思うかであるが、例えば水蒸気の一粒子にも心性波動があって、さらに、顔の相があるといってもいいのではないか。
心性波動は光といえるから、この世は光の世界といいかえてもそれほど馬鹿げた話でもないだろう。目の前の石一つでも光を発している。すなわち、心性波動を発しているし、その心性の内容はわからないが、心の素の磁気磁波磁性体であることには違いない。
ここで、自分というものを考えてみたとき、そのできあがる過程をさかのぼれば、毎日欠かさず口にする食物が細胞体をつくり、その組織体である自分の奥深くをたどるならば、細胞へ、分子へ、原子(元素)へ、素粒子へと、どんどん内なる大宇宙へと進み、その果ては、無音無体の「無」の世界となる。この無の世界こそこの自分の真の姿といえる。それはすなわち、いのちの土台は「無」であるということにもなるではないか。
何もないという無の世界ではなく、心と物質の両性をもった心性物質波動で充満する絶対静の世界だと私は考えている。
絶対静の内的大宇宙の自分、無を土台とした自分がもの申すことになるから、やはりこの本体は幽霊であって当然だ。するとこの世は、幽霊の話し声で溢れているけれども耳には聞こえない。どうですか? 馬鹿馬鹿しいかぎりですか?
幽霊といえば、薄気味悪く恐い話になるようだが、実は、自分の中には幽霊そのものの世界であって、目には見えない幽玄霊妙な物申す精神世界である。目に見えないものは恐いのである。放射能も心も目には見えないし、いのちという、意志性エネルギー体は、目には見えない幽霊の世界なのであって、恐いのは、人の心ではないか。極端なことを言えば、我々は、幽霊に着物を着せて歩いている姿なのだ。だから、恐くない心の持ち主になりたいと思うし、政界などでも取りざたされるものに、怨念劇があるくらいなのだ。
心のサイクルさえ合えば、この世は万華鏡で見るごとく、心のサイクル次第では変化に富んだ見え方をするのも当然だ。
さてここからは、心のチャンネル次第で驚くような天体ショーを紹介してみたい。
ある日、旧知のご仁が私に、次のような体験を披露してくれたことがある。亡き愛犬が、雲に姿を変えて逢いにきたのであった。
ご仁の犬好きは並のことではないようだ。寝食を共にという感じの心の通い合い即ち、以心伝心の世界であった。
昭和六四年一月一日、数匹の子犬たちが誕生した。すくすく育った子犬たちは、やがて新しい飼い主たちに引き取られていった。その中で、「桃太郎」という名前の特別かしこい牡の子犬は、知り合いの老夫婦に引き取られることになった。新しい飼い主の老夫婦は、やさしく大事に育てて、桃太郎と楽しく過ごしていた。
ところがある日のこと、おじいさんが病に倒れて入院することになり、残されたおばあさんは、犬の世話まで手が回らずご仁のところに親元になってほしいとお願いに来た。願われたご仁は桃太郎を引き取ることになった。
ところがどうしたことであろうか、それから二、三日後のこと、桃太郎は、どうみても車に自分から飛った。
ある、夕焼け空のとても美しい日のことであった。輝く茜雲に後ろ髪をひかれる思いで振り向いたとき、目の前に刻々と姿を変える雲を見た。他の雲よりひときわ動きのはやい龍の体のような姿にハッと心を奪われたご仁は、素早くカメラに収めたが、その間ほんの数十秒くらいであったという。
その雲の姿は、あまりにもリアルで、そして、亡くなった桃太郎の姿にそっくりであったのだ。
雲となった犬の目は、生き生きとご仁を見据え、さらに口元では、何事かを語りかけている姿に見受けられたという。
桃太郎の姿は、ご仁の想いの波動(光)で雲に転化したものであろうか。それとも、ご仁の心に受け答えするようにして、いったんは天地に命をかえした桃太郎ではあるが、ご仁の魂に内在する桃太郎の霊魂が生命元素を呼び寄せて雲に有体化現象を起こしたものであろうか。
それらのメカニズムは不明の謎であるが、あくまでもご仁の魂に残っている愛犬・桃太郎への想いが熟成されて、その霊魂が雲に同期したのかもしれない。
「雲になった桃太郎」二五〜三〇頁
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菅原茂/おりづる書房/2012年
文字・数・色は人間の意思だけではなく、生死の境やほかの生物などと境なく、いわゆる「霊」や「魂」の意志性を代弁している。 共時性現象(=偶然の一致)は、それを認識させてくれると同時に、一人ひとりに対するあたたかい道案内の現象だと伝えている。