共時性の定義
共時性(共時性現象=シンクロニシティ=偶然の一致)は、心の深層部(「無意識層(潜在意識)」や魂と言われるもの)が関わる現象です。スイスの精神科医・心理学者であるカール・グスタフ・ユング氏をはじめ、日本では文化庁の長官を務められた河合隼雄氏(心理学者・心理療法家、京都大学名誉教授)が、共時性の研究に深く関わっています。
以下にC.G.ユング氏による『自然現象と心の構造』のなかから、共時性の定義について説明した部分を抜粋します。
ある同一あるいは同様の意味をもっている二つあるいはそれ以上の因果的には関係のない事象の、時間における偶然の一致という特別な意味において、共時性という一般的概念を用いているのである。したがって、共時性は、ある一定の心の状態がそのときの主体の状態に意味深く対応するように見える一つあるいはそれ以上の外的事象と同時的に生起することを意味する。(p.33~34)
つまり、ある心の状態、それと意味が一致する物的事象が同時的におきるということです。
私が治療していたある若い婦人は、決定的な時期に、自分が黄金の神聖甲虫を与えられる夢を見た。彼女が私にこの夢を話している間、私は閉じた窓に背を向けて坐っていた。突然、私の後ろで、やさしくトントンとたたく音が聞こえた。振り返ると、飛んでいる一匹の虫が、外から窓ガラスをノックしているのである。私は窓を開けて、その虫が入ってくるのを宙でつかまえた。それは、私たちの緯度帯で見つかるもののうちで、神聖甲虫に最も相似している虫で、神聖甲虫状の甲虫であり、どこにでもいるハナムグリの類の黄金虫であったが、通常の習性とは打って変わって、明らかにこの特別の時点では、暗い部屋に入りたがっていたのである。(p.28)
→ある女性の夢は心的事象
→女性が夢の話をしている間に起きた物的事象
この例を見てもわかるように、ユング氏が定義した「二つあるいはそれ以上の因果的には関係のない事象」は、(物的事象が二つ以上同時におきることもありますが、)まず前提として、常に心的事象と物的事象が対になっていることをさしています。さきほどの定義にあるように、ユング氏は、この例の場合、心的事象(夢)と物的事象(昆虫の出現)が、因果的に関係ないと言っているわけです。あとで触れますが、この点については注意が必要[※]だとおもいます。[※「偶然にひそむ因果」参照]
「外国勤務の息子が帰省するというので、その時妻は愛犬の写真を頼んでいた。そして10日のこと、台所の布巾が「犬」の顔に見えたのである。その時"1時14分"息子が出発したのが"1月14日"のことである。帰宅した息子から写真を見せてもらい驚いた。布巾で見せた犬とそっくりなのだ。」(文:『いのちの顔』/ 写真:『死んでも生きている いのちの証し』たま出版、下記「出典・参考図書」を参照)
一般的に誤解が生じやすいところがあるので、その点を指摘します。以下の例文は、ユング氏による同著書(p.10)からのものです。
私が乗る市電の切符が、すぐその後で買う劇場の切符と同じ番号であり、その同じ晩電話の呼び出しがあって同じ番号が電話番号として再び言われるという事実に直面するとき、(後略)
上のような偶然の一致に対して、当事者をはじめ、とくに第三者が陥りがちなのは、心的事象の見落としです。単に、二つ以上の外的事象の同時的な偶然の一致(この例の場合は番号の一致)が共時性だという見方です。もちろん、まちがいではありませんが、このような場合、たいていは、量的・確率的な問題としてあつかわれ、当事者の思いこみだという結論に至るのではないでしょうか。
心理学者・心理療法家である河合隼雄氏は、著書『宗教と科学の接点』のなかで、理論物理学者のデイヴィッド・ボーム氏(米国)の見解を引用しています。
人間はものごとを知覚する際に相当な捨象を行い、顕在系として存在しているものを知覚する。(中略)ボーム氏の言葉を借りると「物質も意識も暗在系を共用している」のだから、すべての事象は人間の意識とつながっているわけである。(p.58~59)
当事者であれ、第三者であれ、目に見える現象だけを対象にしているとすれば、共時性現象の本質的条件として不十分です。共時的なことがらが発生するよりも前の、またはその時の潜在的・本質的な意識と、できごとが象徴する意味との関連に目を向けてこそ、当事者や第三者にとって価値があるかどうかが判断されるべきです。 それらは客観性をもたない主観的なものであるという理由で排除しがちですが、それは量的な見方と質的な見方を両立しているとは言えないと考えます。また、その意味が表面上、仮にとても個人的なことがらだとしても、無意味なことだとは言えません。心がその人の言動を決定し、その結果、さまざまな出合いに影響を与えているのは事実だからです。
『神秘の大樹 Ⅲ 文字・数・色で証す新次元』
「思えば寄せ来る文字と数」の一部
次の二つは、理論物理学者のデイヴィッド・ボーム氏の見解(『量子力学と意識の役割』)です。
[※1] 要素や因子
[※2] 「か」は「が」の誤りか。
[※3]理論物理学者のデイヴィッド・ボーム氏が、人間の知覚世界を説明する際に使用した言葉 implicate order(「暗在系」)。対義的な語は「明在系」。「物質も意識も暗在系を共有している」と述べた。
外的事象よりも前の心的要因(原因体)がかたちになって現れ、事後の心はさらに後に起きるかもしれない現象の「原因体」(=「全ファクターの集合体」)に加わる、ということだとおもいます。このような概念を「因果」という言葉を用いて易しく表現しているのが、以下の文です。
結果はまた新たな原因体となり、縁を結んでまた新たな結果を生む。そのリズムは代々消えることはない。因‐縁‐果=因‐縁‐果=因‐縁‐果=因……(後略)。(『神秘の大樹Ⅳ田之助とミロクの亀』菅原茂、おりづる書房p.161)
小さい偶然は日常のいたるところに発見できますが、そもそも、目のつけどころによっては、それに気づいていない場合が大半だとおもいます。また、偶然のできごとに出合ったとき、ことがらの意味と一致する心に気づかなければ、当事者にとって、その時点では、たしかに「偶然の一致」(=共時性現象)ではなく、偶然のできごとにすぎません。一見、それらは異なるものにもおもえますが、本来はすべて共時性現象(偶然の一致)だと考えられます。無意識的・本質的な思いが現実になったと仮定すると、当事者(本人)がそれに気づくかどうかに関わらず、心の内の現象と、外的・物的事象が象徴する意味は、おたがい潜在的に一致していると考えられます。
『酒乱 米の生命が生きるまで』の一部
ユング氏は、「狭義の共時性は、たいていは個人的な例で、実験的にくり返しがきかない。」(『自然現象と心の構造』p.138)としながらも、「空間、時間という承認されている三組の上に第四番目として」(同著)共時的要因の存在を科学的証明によって確かなものにしなければならないという、科学者としての並々ならぬ強い信念をもって研究に没頭していたこととおもわれます。 以下も同著書からの抜粋です。
ユング博士の研究によって、共時性現象は時間の概念や空間の原理では説明がつかない、という認識が一般的です。心の中の世界は、それらの拘束を受けていないからです。私たちは、「時間や空間を超越している」という表現を耳にすることがありますが、心の中の世界は、まさしく時空を超える世界と言えます。
その意味としては、時間や空間のものさしでは心の性質を量れない、ということであると同時に、心の中の世界は時間や空間の束縛からは自由である、ということだと考えられます。つまり、心の奥底に存在する “ありとあらゆる要素や事象” は、時間的・空間的距離を超えて、「いま・ここ」に存在し得る、そして、場合によっては表出し得るということなのです。
『酒乱 米の生命が生きるまで』
「生命の樹」の一部
下記「出典・参考図書」を参照
酒乱から脱却し、自分のいのちに目覚めて間もない著者が、心おもむくままに訪れた旅先で次々と出会う「亀」。体験の記録を、第2巻と共通するシナリオ形式のコミカルな物語として展開し、縁は単なる偶然ではなく、宇宙根源に根ざす生命の本質(真性魂)による道案内だと伝えている。