「生命」の真実

共時性の真価

 

 共時性は人間の根幹、生命の本質が関わることがらです。私にとって共時性とは、自分のいのちと向き合うたいせつな指標や指針のひとつ。それ以上でもそれ以下でもありません。また、自分以外のだれかに思想や信条などを強要することは、厳に慎まねばとおもいます。

 しかしながら、人の「こころ」や「いのち」という、つかみどころのないものが、今も昔も、そして今後も、重要な命題であることにきっと変わりはありません。ここでは、平和の問題と共時性現象をとおして見える普遍的なことがらのみ、理論的考察ではなく、じぶんの生活経験にもとづいて述べたいとおもいます。

 

広島市の元安川にかかる橋、「もとやすばし」。橋の名前が親柱に漢字で書かれている。この橋は爆心地の原爆ドームの少し南にある。原爆の投下目標とされた、「あいおいばし」の一本南にかかる橋。出典は書籍『神秘の大樹 第二巻 ヒロシマとつる姫』

 

一羽の折鶴

 

 

青く澄んだ
いのちの星
われらの “地球”
地球初の洗礼
原爆の傷跡まだ癒えず
人類初の洗礼 “広島”
原爆の傷跡まだ癒えず
そして “長崎”
地球も広島も長崎も
魂の傷跡いまだ癒えず
広島の
元安川の
元安橋に降り立った
“一羽の折鶴”
平和のシンボル “折鶴”
万霊が集いに集う元安橋
元・安らぎの川原に集う万霊万魂
万霊集う平和の集い
元・安らぎの元安橋に
一羽の折鶴が降りた
平和の折鶴が降りた

 

『神秘の大樹 Ⅱ ヒロシマとつる姫』(p.25~26)


 

 ある山形の夫婦は、友人から見せられた新聞記事の切り抜きで、日月神示、岡本天明、広島絵画展の存在を知りました。いくつかの偶然が重なり、一気に広島への旅程が具体化したことで関心は増します。当時すでに亡くなっていた岡本氏の故郷「倉敷市玉島」への墓参を兼ねた旅となります。そして絵画展開催の8月6日。広島の「もとやすばし」の上で小さな一羽の折鶴を発見します。昼食のために入った食堂で、何をおもったか、折鶴をひらいてみた瞬間のことでした。「あっ……と息を呑み、ざわめく昼の店内は、しばし、時が止まった」(書籍『死んでも生きている いのちのあかし』たま出版)と、そのときの衝撃を表現しています。共時性現象の要点は、次のとおり。

 

  • 折りがみではなく、情報発信の役目をもつ(新聞の)折り込み「広告」のかみで折られている。

 

  • 偶然印刷されていた「倉敷市玉島」の文字、その地名は岡本天明氏の出生地。

 

  • その文字が目にとびこんだ時刻「12時13分」は、太陽暦12か月、太陰暦13か月、つまり、太陽と月を象徴しており、岡本天明氏による日月神示の「日月」と重なる。※資料

 

二人はすぐに会場へと戻り、折鶴は岡本夫人の手に渡りました。

 

 

 岡本天明氏(天明は雅号、本名・信之)は、昭和19年、47歳から自動書記現象がはじまり、のちに周囲のひとびとが作った宗教法人の会長にかつぎ出されました。岡本氏は昭和38年に亡くなり、夫人が継承しますが、「一羽の折鶴」の真意と普遍性を理解した山形の夫婦の働きかけによって、岡本夫人は、平成19年にこの宗教法人を解散しています。夫人は、法人の会長を継承したまちがいを、あらためて認識したのだそうです。※資料

 宗教的な集団は、霊・魂という人間の本質がおのずとかかわるので、たとえ小規模でも、団体や組織化には、問題があるとおもいます。ひとたび「じぶんたちは特別」という集団心理が生じると、不調和の原因になりかねません。

 いわゆる霊感の強い人がいるのもたしかな事実のようで、なかでも「特別な人」にしか感じられない霊感による示唆を中心にして、人があつまる傾向はむかしもいまも変わらないようです。注意する必要があるのは信仰心です。信じる心は、ときどき、じぶんや他人に対して強迫的でもあります。ですから、信じられるかどうかを自他にせまる信仰心が社会全体を平和的に変える力は、もち得ないとおもいます。 

 先ほどの山形の夫婦[昭和9年 (1934) 生まれ]は、苦渋の半生を、まこと一筋で、のり越えてきた御二人です。「食物のいのちは、人間のように傷つけあうようなことは絶対にありません。」(書籍『酒乱 米の生命が生きるまで』)夫人は、いつしか食物のいのちこそ、にごりなき澄んだいのちだと気づいたといいます。 ※資料

 折鶴を発見してから19年後、ひらいた広告紙の断片に、同夫妻がはじめて定規を当ててみたところ、「7.4」センチ四方だとわかりました。岡本天明氏の命日「4月7日」に、数がぴったり重なることも、単なる偶然の一致ではないとおもいます。この折鶴は、発見後すぐに岡本夫人に届けられ、その後 16 年間、いつも岡本夫人の傍らにあったそうですが、岡本夫人が亡くなる半年前に、上記山形の夫人のもとへ送り届けられました。※資料

 

 

 共時性について簡単に説明しますが、知識として理解するだけでは、信じるか否かの話になってしまいます。ふだんあまり気にとめていない縁の体験、とくに偶然性が強い、劇的な縁の「時」を見のがさずに、認識してみてください。

 一般的に、偶然の縁にびっくりするのは、じぶんが置かれている状況に、まさしくぴったりだからです。よくあるのは、じぶんの思いと同じか似ているものが、かたちになって返ってくる場合です。なかには、強い目的意識のもと、疑問をもち続けていたら、答えが何らかのかたちになって現れる場合もあるはずです。そのときは、あまりにも暗示的で、びっくりするものです。ときには継続的であることもあり、何かの意志が働いているとしかおもえないと、直感する人もいるとおもいます。

 また、タイミングがいい(わるい)こともしばしばです。時間は秒刻みで変わっていくものだからこそ、その一瞬の「時」にも、暗示性が集約されているようです。そういう劇的な出合いが、だれかの誕生日や命日の数と重なったり、何かを暗示する数だったりする、これが共時性現象の大きな特徴です。文字や色が関わる場合もあります。折鶴の一件のように、具体物をともない、五感でたしかめられることも多いようです。

 縁は、よくもわるくも、じぶんのいのちに、もっともふさわしい対象との出合いだということもたいせつです。相手が故人の魂であれば、不純ないのち(やこころ)に純粋な魂は関われないし、純粋ないのち(やこころ)に不純な魂は関われないようです。じぶんの内的な実態を見あやまることさえなければ、じぶんが感じる魂との縁が、あり得るものか、あり得ないものかの判断はつくとおもいます。もし、見あやまると、とんだ思いこみや迷信、こじつけにもなってしまう点には注意が必要です。※資料

 

 

 共時性現象のことをふまえて、平和の問題に話を向けたいとおもいます。広島市では、被爆された方々の高齢化にともない、被爆体験の継承が重要課題になっています。いま体感している日常の時は、止まることなく移りかわっていきますから、放っておくとほんとうに風化してしまう恐れがあるようにもおもえる切実な問題です。

 ただ、過去の経験や記憶の問題としてではなく、将来、私たちも、とつぜん体を失う、一生の傷を負う、そういう可能性はあるわけです。あるいは、もし、あの時代そこにいたら、被爆したのはじぶんだったかもしれないのです。その場合の衝撃やとまどい、痛みや苦しみ、悲しみや無念さを、いまのじぶんのこととして想像すると、体がいかにたいせつな存在かを感じます。体がしてくれている高度な働きも、いまの状態があたりまえではないと気づかされます。

 そのうえで、歴史上おびただしい数の人たちに起きた事実へと、あらためて目を向けると、広島と長崎で原爆が生んだ人々の凄惨な様子は、写真や絵画だけでも衝撃的ですが、被爆された方の心の内を想うと、ほんとうにいたたまれません。この文章の冒頭に紹介した詩のように、地球上の傷が癒えていないというのは、比喩ではなく本当のことではないかとおもいます。

 しかし、もしかしたら、戦争で苦しんだ国内外すべての人の気もちとしては、被爆体験は、戦争体験のひとつとして、それだけが特別ではないのかもしれません。また、原爆以外で傷つき、死んでいったいのちが、むかしもいまも世界中にたくさんいます。さらに、当時の国内における立場の区別を超えて、日本の立場は、戦争の被害者であると同時に、加害者でもあります。そして、戦争体験がない日本人の多くは、最大の関心事が「平和」以外のことがらに向いていることが想像されます。つまり、日本をふくめた世界の現状は、いろんな立場、思惑、ひとつではない価値の基準などが複雑にからみあっているのです。

 ですから、なぜ、人間は争い傷つけあうことをやめられないのか、という人間が共通してもっている心の根を掘り起こしてみることも重要だとおもうのです。8月だけの祈りになってしまってはいけないとおもいます。戦争にかぎらず、たとえば、ぎくしゃくした近隣諸国との関係や、さまざまな社会問題、人と人との衝突など、どれも人の心が関与している以上、根は同じではないでしょうか。人間の心の内は、じぶんが置かれた状況によって、いつでも発火しうる「自己正当化」という不調和の火種がくすぶりつづけている気がします。

  

 

 人間同士の闘争について、私たちが知らなければならないのは、世間や海外で起きている事件や紛争はもちろん、過去の戦争でさえ、「対岸の火事」ではないことです。心の世界に時空の隔たりはないので、いわば「地続きの出来事」。私たちの心も似たような火種を大なり小なりもっていますから、闘争や不調和の心でこの世を去った魂が、私たちの心のなかで、それに同調し、増幅させているとしても、特に不思議なことではありません。

 怒りや憎しみにかぎらず、激しい欲望や感情におそわれる背景も同じです。つまり、私たちの心が引きよせる魂が関与した縁の現象でもあるということです。 ※資料

 心は、時空を超えた世界ですから、生きている人の魂も、故人の魂も、基本的には、生きている人の精神世界に存在している、または心の世界を共有している、というのは、ごく自然なことだとおもっています。

 外見上、人間はひとりひとりが独立した存在ですが、精神世界は、みんなひとつにつながっているようです。魂は、生死の境も、動植物との境もなく、ほかのいのちに対して常にオープンで、無防備に、さらされているとも言えます。心は、不健全な魔がさす危険性も常にあるということです。

 もちろん、望ましくないことばかりではありません。むしろ、食物のいのちや先人の魂が、人間を根本から守り育て、応援してくれていることを、共時性現象は気づかせてくれます。その生命愛は、国籍や立場、血縁関係などを超えるほんとうに大きなものです。※資料

  

 

 折鶴は、平和の象徴として認識されており、鎮魂の祈りや願いは、その多くが生きている者から亡くなった方に向けられるものです。いっぽう、共時性現象として発見された一羽の折鶴は、亡くなった方から生きている者に向けられる平和への祈りや願いが存在することをしめしています。生きているいのちも、死んだいのちも、魂は、私たちの精神世界において、意志をもって生きており、よくもわるくも、私たちの心は、その応援を常にうけている、ということです。

 これだけでは、本当なのか判断できない、または、納得できないのは当然です。しかし、まずは、知ってもらうことが必要だとおもっています。

 時代の一大転換期にあるいま、平和の定義や、人間社会が進んでいく方向性について、あらためて考えさせられます。戦争・被爆体験をはじめ、さまざまな事件、事故、災害の教訓と記憶の継承、風化の危機は、じぶんの体に感謝する心と、じぶん以外の「痛みがわかる心」(註) が鈍感になっていることへの警鐘として受けとめたいとおもいます。その心をはぐくむこと、回復すること、取りもどすことが本質的課題だということをおしえてくれている気がするのです。※資料

 生命にとって、「この世に生きている」ことは「体とともに在ること」です。私たちは亡き魂たちと、心の世界、生命のうちを共有していることを、共時性は暗示しています。信仰や知識ではない素朴な心の目で、いのちの生と死を見つめ直す必要があるとおもいます。

 

(註『ナガサキ - 核戦争後の人生』

 

 

 

 

『酒乱・米の生命が生きるまで』(守護の窓口となった妻と自然律)より

抜粋はここから。「命がけで、生命に恥じない人間性を取り戻さなくてはいけないのである。そのためにも、単に人間的自我というくらいでは到底太刀打ちができない。自然界の愛が窓口にならなくては、汚れ切って、軟弱化した人間の心を、浄めることはできないだろう。人間発生前の、生命の愛に戻って、我々を、 「生かして、生かして、生かし続ける愛の力」 を借りなければ、人間は改心できない。」抜粋はここまで

 

 

 

関連ページ

体と心の相関性

(生命現象の根源)

共時性とは何か

(共時性の定義)

これより下の内容


資料

 

広島・岡本天明絵画展の会場を出た山形の夫妻は、原爆ドームと平和の子の像に近い元安橋上でちいさな一羽の折鶴を見つけ、拾い上げる。昼食時、不意にそれを開いてみたところ、現れたのは天明氏の出生地「倉敷市玉島」の文字だった。時刻は12時13分。太陽暦と太陰暦を象徴する12と13。しかも日付は 8月6日。衝撃は尋常ではなかったろう。天明氏の「体を借りた」自動書記による「日月神示」は、人間に自己調和を促す書と言っていい。この日、平和公園は、早朝から鎮魂と平和への祈りに包まれている。

 

数字を主体にした神示取次の自動書記は、昭和19年、天明氏が 47歳 のときからはじまったと言われている。天明氏は1963年(昭和38年)4月7日に満65歳で死去している。折鶴との出合いに衝撃を受け、もういちど会場へと戻った山形の夫婦は、岡本夫人に起きたことを伝え、折鶴はその手に渡った。その後16年間ずっと岡本夫人とともにあり、夫人が亡くなる半年前に上の夫婦の元に送り届けられている。

 

『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』
「あとがき」

書籍『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』からの抜粋。本文はここから。折鶴は破れる寸前になり、夫人が亡くなられる半年前に私の妻宛に送り届けられて来ました。そして、亡くなられる一二日前には、一通の書簡が届けられたのです。 ここで、その手記の一部を紙上を借りてご紹介させていただき、あとがきに代えることにします。 ■『岡本夫人の書簡』(絶筆の抜粋) ……前略……一九九三年、平成五年八月六日、広島におきまして、天明画展を開かせていただいたとき、小さな折鶴をいただいたからでございます。それは、この世始まって以来、最初で最後のただ一度の出会いでございました。この時、大宇宙と、地球上の折鶴のいのちはこの世始まって以来初めて、深い愛のひかりで結ばれたのでございます。 空前絶後の、言葉に尽くせぬ、深く熱い想いでございました。大きなよろこびでございました。 日月神示に寄りますと、この出会いは、この世の最初からの経綸(四九三)であると明記されているのでございます。はるかに長い気の遠くなる様な、億万年の想いの込められていた日でございました。人間の心を越えた広大無辺の宇宙の、切実な愛を深く感じるのでございます。平成五年八月六日、この日、この時が大切だったのです。一枚の広告の紙は、人間に生死のないことを現しております。 天明は、肉体浄化して、はじめて自分の五体は食によって生かされていたと知りました。神示を書き、絵をかいたのも、自分だと思っていたが、食によって、書かせていただいていたのだと。天明が郷里の文字に生き、とかされていたことは、いのちの永遠を悟らせてくれました。表は色の花模様で、裏を返しますと、倉敷市玉島と、天明生誕地が印刷されておりました。 「あ、これは天明さん生きている」と、直ぐ届けていただくことが、出来たのでございます。一体、何処の、何方が折られたものでありましょう? 一六年前に、こんな不思議なことが、起こったのでございました。折鶴を開きますと、米の字が現れます。米の字は、この世でただ一つの、中心のある最も大切な大切な字なのでございます。中心のあるこの字は、宇宙そのものを現していると申せます。折り目はひかりであり、四方八方へと無限に広がって行く線ですから、……中略……折鶴は、我が国古神道の奥義でございます。折り紙といえば、すぐ折鶴とおもうほど世界の人々に愛されております。人々に幸せをもたらすものとして、広島の平和公園には、世界の人々から、供えられているのでございます。平和公園からは、少し離れた、元安橋の上で拾われました。……中略……広島は、人類が初めて原爆を落とされた地です。今も、苦しまれている人々があり、まだ自分のいのちがどうなったか、よく分からない霊が、充ちていると思われます。 平成五年八月六日、折鶴と日月神示の出会いの日は参りました。もしお会いしていなかったら、日月神示の難解な数の羅列の一六巻、アレの〇木(アレノマキ)を、誰が読むことが出来るでしょう。誰にも読めなかったものが、読めたのは折鶴でした。この日を一番待っておられたのは、日月神示でございます。宇宙そのものも世の元にご自分で仕組まれその時の来たことを、一番よろこばれたに違いありません。……中略……平成五年八月六日、人間にいのちの尊厳に気づけよと、共時が起こったのでございます。日月神示の中に、何度も出て来ます。世の元の一厘の経輪(仕組み=四九三)と申しますのは、折鶴が世にお出ましになることでございました。折鶴は、食芯の芯の芯でいらっしゃいます。無のいのちでいらっしゃいます。……中略……折鶴は、新聞の折り込み広告で折られておりました。確かに、この度のことは、全く新しい出来事です。私は、毎日、驚きを深めております。日本は神国です。正に二十一世紀の神話でございます。 平成二十一年六月十日 岡本 三典  書簡は長文でした。書簡を記されてから一二日後の、六月二二日から二三日にかけての未明、岡本夫人は、享年九二歳の天寿を全うされたのです。 平成二三年七月吉日著者  菅原 茂」以上、抜粋はここまで。

 

『酒乱 米の生命が生きるまで』
「天の啓示に生きる妻」 

ここから書籍『酒乱こめのいのちが生きるまで』からの抜粋。(見出しは)「天の啓示に生きる妻」(ここから本文)「断酒数年前のこと、妻は、ある声なき声を聞くことがあったという。酒乱の断末魔が、響きをあげて近づく頃のこと。酒乱のやり口には身ぶるいするほどの恐怖を感じながらも、その中にあって、夫の狼藉にもいつしか感謝の気持を持てるようになっていた。 「お父さんのお蔭で、沈黙世界から、その心をいただけるようになりました。お父さん、本当にありがとうございます。」 と、どれほどに恐ろしい難儀だったことか。言うが早いか、顔をしばたたせながら、泣き出してしまっていた。ある日のこと、刃物を振り上げている夫のため、家へ入ることもできず、たった一人の妹に助けを求めて駆け出して行ったが、巻き添えが恐ろしくて、家に寄せて休めさせてくれなかったようだ。あまりの酒乱の恐ろしさのため、そこの小屋にさえも、休ませてもらえなかった妻の憐れさ。  寒気が身をつんざく酷寒の夜。天を仰いで、無心の生命の中から、 「どんな苦しい思いも、どんなつらい思いも、感謝にかえたまえ」 と、心の奥深く刻んだ妻への伝言。それを区切りに、妻は一心に、夫のいかなる乱行にも、ただ一念に頭を下げ、どんな苦しい思いも、どんなつらい思いも、すべて感謝に変えていくことに徹した日々を過ごすようになった。この感謝に徹する日々こそ、神に生命を捧げ尽し切って得た、心開きの難行苦行であった。 ついに、妻の生命には、自然界の生命の愛が全開することになる。ある日のこと、妻はこんなことを話すのであった。「お父さんが悪いのではありません。米の生命がわかるまでの教えなのです。すべての食べ物、にんじん一本、大根一本、魚、なんでも、みな尊い人間を生かし続ける生命の元です。人間以前のこの生命たちの、尊く、汚れない食物たちから、生命の声が聞こえます。食物たちの生命は、それぞれ違う者たち同士ですが、人間のように争うことはいたしません。口から入った、いろいろな食物の生命は、一糸乱れず、人の生命を守り続けます。そうして、一本道の人の体を通り、ふたたび、自然界へと戻っていく生命たち。その代表である米の生命は、酒となり、神々にも捧げられます。透明で、汚れない姿となって神に供えられるのです。その、米の生命を見て、悟って、お父さんの心も、米のように、汚れない心となるまでのお役目でした。私は、このことを教えていただき、お父さんに、本当に感謝しなければいけないのです。ありがとうございました。」私は、この奇想天外な話に面喰らうばかりで、感謝しないといけないのは、こっちのほうなのに、尋常ならざる超越世界を垣間見た思いだった。息詰まるような酒乱の歳月の中で、妻のそのつらい苦しい地獄から救う神の業であったと考えている。どんな過酷な試練をも、感謝、喜びに変えて生きていく、恐るべき神の智恵が授かったとしか言いようがない。米の生命がわかるまで、そして、その米の生命が生きるまでの酒乱劇。これは、えいえい百年に及ぶ、母と妻の二代にわたる女神のような守りであった。」以上、抜粋はここまで。

 

『酒乱 米の生命が生きるまで』
「神技一瞬、“刃に変わる水柄杓”」

ここから書籍『酒乱こめのいのちが生きるまで』の抜粋。見出しは「神技一瞬、やいばに変わる水柄杓」、本文はここから。「縁は生命の調和力。目の前にやってくる縁は、すべて自分にふさわしい縁なのである。縁に偽りはない。私が引き寄せたものであり、みなさん自身が、引き寄せたものなのである。縁は、絶対の力を持って、私たちに逢いにくる。「よくやってくれた」と、ご褒美を持ってくることもあるし、あるいは、「えらいことをやってくれたなっ」と言いながら、やってくることもある。だから、みんなの目の前に現れる縁は、すべて、おのれの目覚めのためにやってきてくれる。よきにつけ、あしきにつけて、やってくる。私の酒乱についても、当然、「お前は不調和な生き方をしているぞ、早く気づけ―」と、催促する現象を示す。」以上、抜粋はここまで

 

『酒乱 米の生命が生きるまで』
「生命の樹」

ここから書籍『酒乱こめのいのちが生きるまで』の抜粋。「だから、自分という一個の生命体の中には、まぎれもなく、何億万年のいのちの歴史が刻み込まれていることになる。それぞれの遺伝子の中には、生命博物館のようなものではないか、と思われる。私は、自分の意識改革を実行する中で、この生命の流れに、本当に感心した。全人類を一本のいのちの樹と見て、そこに花を咲かせている梢の先々が、我々、現世の人間の姿と見たのである。私が、狂った果実となったことは、心という生命の養分が、祖先のどこかで、誰かが狂わしてしまったのだと思う。だから、私の身体に黒い花を咲かせ、黒い果実を実らせた。この生命の、心という養分を変えない限り、いつまでも、どこまでも、子孫の花が狂うのである。どこかで、誰かが、心の養分を自然体に戻してやらなければ、子孫のみんなに、迷惑をかけることになる。代々引き継がれた心の歴史(潜在層)は、次第に、ひとつの生命体として、独り歩きをし、それが、現在の自分を操作支配する力となる。そして、今の心の習慣が、積もり積もって、自分を、さらに、子孫を支配する心の生命に育つ。自分の過去の心、祖先累々の心が、びっくり箱のように、現在の自分の前に躍り出てくるという仕掛けであると思う。こう考えてくると、勝手気まま、好き放題に、不調和な心を発散し続けてはならない。日頃の心の習慣が、ルーズになってくると、自己管理が不可能となって、人霊世界の思うままにされてしまうのだ。だから、酒を一杯飲むと、過去前世の悪心、亡者、括弧、今はなき者、括弧閉じ、が小躍りしてやってくる。心の世界には、時間、空間はなく、一面的、一本直通だから、一瞬にして現れる。こうして、いのちの樹を伝って、全方向から、飲み足りない亡者の援軍が集結することになる。もうこうなったら、現世の自分は、ブレーキなしの車が、下り坂を走るようなものだ。ある日、妻が、こんなことを言った。「お父さんが、少し飲みだすと、この世で飲み足りなかった人たちが、いっぱい集まってきます。」以上、抜粋はここまで

 

『神秘の大樹Ⅲ文字・数・色で証す新次元』における「吉田茂の本と私」の一部

ここから書籍『神秘の大樹 第三巻 文字・かず・色であかす新次元』からの抜粋。「日頃から、心の積み重ねが、いのちの中にどんどん入っていく。その心の集合体が魂であると私は考えているから、どんな魂がどんな勢力圏を張り合っているのか、自分のいのちの世界に関心をもっている。心が成長し、自分のいのちの中にそれぞれの色合いを持った心の集団をつくり上げてきた魂は、それをたぐっていけば、先祖がどうのこうのというよりも、人類全体を、さらにさかのぼれば、とてつもなく深く広い心性世界までつながっている。だから、人類は皆いのちの親子であるともいえる。極言するなら、人類の魂(心性)の岩盤は一つなのであり、一人ひとりの魂にもその岩盤が共存して共有している世界だと私は思っている。人類皆いのちの親子であり、心の親子であるともいえる。そのことはとりも直さず、自分が暗い心やよくない心になればそれは自分だけの問題ではなくなり、他の人にもそのくらい心や、よくない心が、いのちの霊脈を通って知らず知らずに流れていくということになる。一人でも多くの人たちが、明るく良い心で生きていられたらと思う。昨今の人類世界は現実に暗い面の映りが強く、戦々恐々としているのが辛く私に伝わってくる。単独一体のいのちはなし、みんな繋がっているいのち、順々繋がっているいのち、世界はいのちで一体、魂はどこかに必ず繋がっている、共振共鳴で響き合う魂、霊脈を呼び起こせ!良い霊脈を呼び起こせ!」以上、抜粋はここまで。

 

創作シナリオを織り交ぜた物語『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』の一部。

ここから書籍『神秘の大樹 第二巻 ヒロシマとつる姫』からの抜粋。「いわとびらきなりなるぞ。まこといわとはとわぞ。この神示を食心の目で読んでいただきましたこと、岩戸開きは心の目を開くこと、人の世の平安は、それでこそ永遠なのである、ということなどいろは姫さんが、話されたことは、真実なのです。天の川の「天意の法則」には“食心の目は共時の目”という一説のあることを、つる姫様から聞いておりました。天にも通じる人の心こそ永遠の扉開きです。現実界の妻の三典(みのり)にもその旨をシグナルで知らせておきます。ありがとう」天明はその二人の話の内容を、つる姫にも伝えました。以上、抜粋はここまで。

 

『ひふみ神示』の「アレの巻」冒頭「いわとびらきなりなるぞ。まこといわとはとわぞ。」に度々触れている。諸説あるが、『ひふみ神示(日月神示)』の中で最も重要と言われる。

さらにここから抜粋。「僕は天明の信之です」と、生まれ故郷の倉敷市玉島が、あかしの文字に託され、岡本夫人の人生最大の運命的出会いとなったのでした。この折鶴との出会いによって、田之助の妻(いろは姫)にも著しい内的変化がありました。これまで、日常生活の中で、心結びの文字や数の文脈を容易に理解できなかった夫に代わって、天明の取り次いだ神示(日月神示)の第十六巻にこそ、妻の心を癒してくれる真実があったのです。これこそが田之助の妻の最大の理解者となったのでした。特に、神示第十六巻の最初の一行の十六文字に、田之助の妻の心の内に共振共鳴する真実が秘められていました。いわとびらきなりなるぞ。まこといわとはとわぞ。という書き出しの文面には、神示の真髄が凝縮されているというのです。その書き出しの「いわとびらき」こそ、“食心の目”であり、この食心の目こそ心の目であり、岩戸であり、扉開きという真意がそこにあるというのです。“食がいのちになる次元”この一点にこそ、神示第十六巻の眼目がある…神示第十六巻に出会うことで、田之助の妻の人生にも運命的方向性が与えられたのでした。」以上、抜粋はここまで。

 

 

 

関連ページ

体と心の相関性

(生命現象の根源)

共時性とは何か

(共時性の定義)

出典・参考図書

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書籍『酒乱こめのいのちが生きるまで』の詳細・閲覧ページにリンクしています

酒乱
米の生命が生きるまで

菅原茂/MBC21/1993年

本の総合情報

 

「いのちとは」「心とは」という文字通りの “命題” について、 体験を通じた非常に強いメッセージを発している。 後年、この著者は『死んでも生きている いのちの証し』『神秘の大樹』を出版しているが、 第一作である本書を読むと、 なぜこの著者が、共時性を切り口にして「いのち」を語るのか、 腑に落ちる。

 

 

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書籍『死んでも生きているいのちのあかし』の詳細・閲覧ページにリンクしています

死んでも生きている
いのちの証し

菅原茂/たま出版/1997年

本の総合情報

 

共時性現象の体験記録をもとに、生命の本質は不滅だと伝えている。 酒乱人生から夫婦二人三脚で新たな人生を再出発させた著者。自らの足元を照らすかのような共時性現象の記録を随想としてまとめている。また、本の表紙を飾る稲穂はこの著書の本質を象徴している。

 

 


▼図書館検索

書籍『ひふみ神示』を図書館検索サイト「カーリル」で検索します

ひふみ神示(上巻)

岡本天明著/コスモ・テン・パブリケーション/1994年

 

岡本天明氏の「自動書記」による著書。文中には、この神示そのものについて、人としての「道」を示したものであり、特定の宗教として広めてはならないという主旨のことが書いてある。長編であり、難解な箇所もある。諸説あるが、「アレの巻」の冒頭に書かれたごく短い二文が最も重要な部分だとも言われている。

 

 

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書籍『神秘の大樹 第二巻 ヒロシマとつる姫』の詳細・閲覧ページにリンクしています

神秘の大樹 Ⅱ
ヒロシマとつる姫

菅原茂/おりづる書房/2011年

本の総合情報

 

平成5年8月6日の広島平和公園で出合った一羽の折鶴は、「倉敷市玉島」と印刷された広告で折られていた。その地名は「日月神示」で知られる岡本天明氏の出生地。縁結びのしくみを、「心のつる草」など比喩を用いた物語を織り交ぜて表現している。

 

 


▼閲覧と図書館検索

書籍『神秘の大樹 第三巻 文字・かず・色であかす新次元』の詳細・閲覧ページにリンクしています

神秘の大樹 Ⅲ
文字・数・色で証す新次元

菅原茂/おりづる書房/2012年

本の総合情報

 

文字・数・色は人間の意思だけではなく、生死の境やほかの生物などと境なく、いわゆる「霊」や「魂」の意志性を代弁している。 共時性現象(=偶然の一致)は、それを認識させてくれると同時に、一人ひとりに対するあたたかい道案内の現象だと伝えている。

 

 

▼図書館検索

書籍『ナガサキ』を図書館情報サイト「カーリル」で検索します

ナガサキ - 核戦争後の人生

スーザン・サザード/宇治川康江訳/みすず書房/2019年

 

長崎で原爆被害に遭った人々の半生を描く、米国で出版されたノンフィクション小説の日本語訳版。原爆被害者の痛ましい経験を米国人の多くが知らない現実と背景に踏み込む姿勢、被害当事者の体験を忠実に描いたであろう内容に驚嘆させられる。

 

 


共時性とは何か

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時空や生死を超え、人種や生物種も超えて、いのちには境界がない証し

 

因果性とは何か

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「因果性」の実際は、それほど単純ではなく、もっと複雑。科学的な「法則」は、限定的な条件のもとでのみ有効だ。

 

偶然にひそむ因果

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因果性がないというより、今の科学の尺度では説明できない、と言うべきではないのか。

 


体と心の相関性

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私たち現代人が見失っている食の本質。生命と生命現象の根源は食にある。自分のいのち食のいのちに対する考え方が問われている。

 

サイトの概要

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サイトの趣旨、本の紹介・説明、それらの本を推す理由、サイトマップほか