「生命」の真実

共時性の真価

全文

 

 共時性は人間の根幹、生命の本質が関わることがらです。私にとって共時性とは、自分のいのちと向き合うたいせつな指標や指針のひとつ。それ以上でもそれ以下でもありません。また、自分以外のだれかに思想や信条などを強要することは、厳に慎まねばとおもいます。

 しかしながら、人の「こころ」や「いのち」という、つかみどころのないものが、今も昔も、そして今後も、重要な命題であることにきっと変わりはありません。とても重要なことなので、疑いや誤解を与えないように、だれでも生活において体で実感できる普遍的なことだけを、じぶんの生活経験にもとづいて述べたいとおもいます。

 

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青く澄んだ
いのちの星
われらの〝地球〟
地球初の洗礼
原爆の傷跡まだ癒えず
人類初の洗礼〝広島〟
原爆の傷跡まだ癒えず
そして〝長崎〟
地球も広島も長崎も
魂の傷跡いまだ癒えず
広島の
元安川の
元安橋に降り立った
〝一羽の折鶴〟
平和のシンボル〝折鶴〟
万霊が集いに集う元安橋
元・安らぎの川原に集う万霊万魂
万霊集う平和の集い
元・安らぎの元安橋に
一羽の折鶴が降りた
平和の折鶴が降りた

(神秘の大樹シリーズⅡ)
『ヒロシマとつる姫』25~26

 

広島市の元安川にかかる橋、「もとやすばし」。橋の名前が親柱に漢字で書かれている。この橋は爆心地の原爆ドームの少し南にある。原爆の投下目標とされた、「あいおいばし」の一本南にかかる橋。出典は書籍『神秘の大樹 第二巻 ヒロシマとつる姫』

 

 ある山形の夫婦は、友人から見せられた新聞記事の切り抜きで、日月神示、岡本天明、広島絵画展の存在を知ります。いくつかの偶然が重なり、一気に広島への旅程が具体化。当時すでに亡くなっていた岡本氏の故郷「倉敷市玉島」への墓参を兼ねた旅となりました。そして絵画展開催の8月6日。広島の「もとやすばし」の上で小さな〝一羽の折鶴〟を発見。昼食のために入った食堂で、折鶴の外見が個性的な色彩であるため何の紙なのか気になったのでしょうか、折鶴をひらいてみた瞬間のことです。「あっ……と息を呑み、ざわめく昼の店内は、しばし、時が止まった」(書籍『死んでも生きている‐いのちの証し』たま出版)と、そのときの衝撃を表現しています。共時性現象の要点は、次のとおり。

 

  • 折りがみではなく、新聞の折り込み「広告」のかみで折られている。

 

  • 偶然印刷されていた「倉敷市玉島」の文字、その地名は岡本天明氏の出生地。

 

  • その文字が目にとびこんだ時刻「12時13分」は、太陽暦12か月、太陰暦13か月、つまり、太陽と月を象徴しており、岡本天明氏による日月神示の「日月」と重なる。#画像資料①

 

二人はすぐに会場へと戻り、折鶴は岡本夫人の手に渡りました。

 

 

 

 

 岡本天明氏(天明は雅号、本名・信之)は、昭和19年、47歳から自動書記現象がはじまり、のちに周囲のひとびとが作った宗教法人の会長にかつぎ出されました[※1]。岡本氏は昭和38年に亡くなり、妻・岡本三典氏が継承しますが、「一羽の折鶴」の真意と普遍性を理解した山形の夫婦の働きかけによって、岡本夫人は、平成19年にこの宗教法人を解散しています[※2]。夫人は、法人の会長を継承したまちがいを、あらためて認識されたのだそうです[※3]#画像資料②

 

[※1・2] 至恩通信.平成19年5月23日号 (258号) に基づく。 [※3] 上記山形の夫人から伺った。

 

 宗教的な集団は、霊・魂という人間の本質がおのずとかかわるので、たとえ小規模でも、団体や組織化には、問題があるとおもいます。ひとたび「じぶんたちは特別」という集団心理が生じると、不調和の原因になりかねません。

 いわゆる霊感の強い人がいるのもたしかな事実のようで、なかでも「特別な人」にしか感じられない霊感による示唆を中心にして、人があつまる傾向はむかしもいまも変わらないようです。注意する必要があるのは信仰心です。信じる心は、ときどき、じぶんや他人に対して強迫的でもあります。ですから、信じられるかどうかを自他にせまる信仰心が社会全体を平和的に変える力は、もち得ないとおもいます。 

 先ほどの山形の夫婦[昭和9年 (1934年) 生まれ]は、苦渋の半生を、まこと一筋で、のり越えてきた御二人です。「食物たちの生命は、それぞれ違う者たち同士ですが、人間のように争うことはいたしません。」(書籍『酒乱‐米の生命が生きるまで』p.97)夫人は、いつしか食物のいのちこそ、にごりなき澄んだいのちだと気づいたといいます。 #画像資料③

 折鶴を発見してから19年後、ひらいた広告紙の断片に、同夫妻がはじめて定規を当ててみたところ、「7.4」センチ四方だとわかりました。岡本天明氏の命日「4月7日」に、数がぴったり重なることも、単なる偶然の一致ではないとおもいます。心の目を開き自己調和に努めるよう促す書『日月神示』を担った岡本天明氏。折鶴をとおしていのちの真実と平和への祈りを訴え、責任をまっとうしようとしているとしてもふしぎではありません。この折鶴は、発見後すぐに岡本三典夫人に届けられ、その後 16年間、いつも岡本夫人の傍らにあったそうですが、夫人が亡くなる半年前に、上記山形の夫妻のもとへ手紙とともに送り届けられました。#画像資料④

 

 

 

 

 共時性について簡単に説明しますが、知識として理解するだけでは、信じるか否かの話になってしまいます。ふだんあまり気にとめていない縁の体験、とくに偶然性が強い、劇的な縁の「時」を見のがさずに、認識してみてください。

 一般的に、偶然の縁に驚くのは、じぶんが置かれている状況に、まさしくぴったりだからです。よくあるのは、じぶんの思いと同じか似ているものが、かたちになって返ってくる場合です。なかには、強い目的意識のもと、疑問をもち続けていたら、答えが何らかのかたちになって現れる場合もあるはずです。そのときは、あまりにも暗示的で、びっくりするものです。ときには継続的であることもあり、何かの意志が働いているとしかおもえないと、直感する人もいるとおもいます。

 また、タイミングがいい(わるい)こともしばしばです。時間は秒刻みで変わっていくものだからこそ、その一瞬の「時」にも、暗示性が集約されているようです。そういう劇的な出合いが、だれかの誕生日や命日の数と重なったり、何かを暗示する数だったりする、これが共時性現象の大きな特徴です。文字や色が関わる場合もあります。折鶴の一件のように、具体物をともない、五感でたしかめられることも多いようです。

 縁は、よくもわるくも、じぶんのいのちに、もっともふさわしい対象との出合いだということもたいせつです。相手が故人の魂であれば、不純ないのち(やこころ)に純粋な魂は関われないし、純粋ないのち(やこころ)に不純な魂は関われないようです。じぶんの内的な実態を見あやまることさえなければ、じぶんが感じる魂との縁が、あり得るものか、あり得ないものかの判断はつくとおもいます。もし、見あやまると、とんだ思いこみや迷信、こじつけにもなってしまう点には注意が必要です。#画像資料⑤

 

 

 

 

 共時性現象のことをふまえて、平和の問題に話を向けたいとおもいます。広島市では、被爆された方々の高齢化にともない、被爆体験の継承が重要課題になっています。いま体感している日常の時は、止まることなく移りかわっていきますから、放っておくとほんとうに風化してしまう恐れがあるようにもおもえる切実な問題です。

 ただ、過去の経験や記憶としてではなく、将来、私たちも、とつぜん体を失う、一生の傷を負う、そういう可能性はあるわけです。その場合の衝撃やとまどい、痛みや苦しみ、悲しみや無念さを、いまのじぶんのこととして想像すると、体がいかにたいせつな存在かを感じます。体がしてくれている高度な働きも、いまの状態があたりまえではないと気づかされます。

 そのうえで、歴史上おびただしい数の人たちに起きた事実へと、あらためて目を向けると、広島と長崎で原爆が生んだ人々の凄惨な様子は、写真や絵画だけでも衝撃的ですが、被爆された方の心の内を想うと、ほんとうにいたたまれません。この文章の冒頭に紹介した詩のように、地球上の傷が癒えていないというのは、比喩ではなく本当のことではないかとおもいます。

 しかし、もしかしたら、戦争で苦しんだ国内外すべての人の気もちとしては、被爆体験は、戦争体験のひとつとして、それだけが特別ではないのかもしれません。じっさい原爆以外で傷つき、死んでいったいのちが、むかしもいまも世界中にたくさんいます。さらに、当時の国内における立場の区別を超えて、日本の立場は、戦争の被害者であると同時に、加害者でもあります。そして、戦争体験がない日本人の多くは、最大の関心事が「平和」以外のことがらに向いていることが想像できます。つまり、日本をふくめた世界の現状は、いろんな立場、思惑、ひとつではない価値の基準などが複雑にからみあっているのです。

 ですから、なぜ、人間は争い傷つけあうことをやめられないのか、という人間が共通してもっている心の根を掘りおこしてみることも重要だとおもうのです。8月だけの祈りになってはいないでしょうか。戦争・被爆体験の風化と継承の危機は、よく言われるように当事者意識の欠如や想像力の不足以外の何物でもありません。その本質はいのちに対する鈍感さです。じぶん以外のいのちの「痛みがわかる心」[※] の希薄さ、究極的にはじぶんの体への感謝の希薄さにあるとおもいます。

 

※『ナガサキ‐核戦争後の人生』長崎で被爆された方の言葉「平和の原点は人の痛みがわかる心をもつこと」(p.379)

 

 そのいっぽうで、被害者・体験者が存在していないと不安に駆られる私たちの心も象徴しています。これは「心とは」「いのちとは」という問いにたいする答えの不確かさゆえの課題かもしれませんが、いつまでもそのままにしていい問題でもありません。むしろ、この点を理解することが重要ではないかと感じます。

 戦争にかぎらず、ぎくしゃくした近隣諸国との関係や、国内外のさまざまな社会問題、身近な人と人との衝突など、どれも人の心が関与している以上、根は同じです。そして厄介なことに人間の心の内は、じぶんが置かれた状況によっては自己を正当化し他者を否定するという、いつでも発火しかねない不調和の火種がくすぶりつづけているのが現実です。

 

 

 

 

 人間同士の闘争について、私たちが知らなければならないのは、世間や海外で起きている事件や紛争はもちろん、過去の戦争でさえ、「対岸の火事」ではないことです。心の世界に時空の隔たりはないので、いわば「地続きの出来事」。私たちの心も似たような火種を大なり小なりもっていますから、闘争や不調和の心でこの世を去った魂が、私たちの心のなかで、それに同調し、増幅させているとしても、特に不思議なことではありません。

 怒りや憎しみにかぎらず、激しい欲望や感情におそわれる背景も同じです。つまり、私たちの心が引きよせる魂が関与した縁の現象でもあるということです。 #画像資料⑥

 心は、時空を超えた世界ですから、生きている人の魂も、故人の魂も、基本的には、生きている人の精神世界に存在している、または心の世界を共有している、というのは、ごく自然なことだとおもっています。

 外見上、人間はひとりひとりが独立した存在ですが、精神世界は、みんなひとつにつながっているようです。魂は、生死の境も、動植物との境もなく、ほかのいのちに対して常にオープンで、無防備に、さらされているとも言えます。心は、不健全な魔がさす危険性も常にあるということです。

 もちろん、望ましくないことばかりではありません。むしろ、食物のいのちや先人の魂が、人間を根本から守り育て、応援してくれていることを、共時性現象は気づかせてくれます。その生命愛は、国籍や立場、血縁関係などを超えるほんとうに大きなものです。#画像資料⑦

 

 

 

 

 はじめにふれた「一羽の折鶴」[※1] が示唆している本質とその背景をまとめておわります。

 折鶴は祈りの象徴として広く認識されており、鎮魂の祈りや願いは、その多くが生きているいのちから亡くなったいのちに向けられます。いっぽう、8月6日に広島で発見された一羽の折鶴は、亡くなったいのちから生きているいのちに向けられる平和への祈りや願いが存在することをしめしていました。生者も死者も、意志をもついのちであり、よくもわるくも、私たちはその応援をつねに(日常的に)うけているということです。

 これだけでは、ほんとうなのか判断できない、または、納得できないのは当然です。しかし、まずは、知ってもらうことが必要だとおもっています。いのちへのまこと・その意志をそだてることがどれほどたいせつか、それを欠くことがいかに重大な問題か、身をもって痛烈に感じているからです。

 この共時性現象との遭遇は、1993年(平成5年)の夏。当事者のひとりである男性は、これより前の同年2月、自分史『酒乱‐米の生命いのちが生きるまで』を出版しています。酒乱因子を「開花」させてしまった男性ですが、ある一件をきっかけに自己調和の意識が目ざめ、やがて自身のいのちへの誠実な思いを深めていきました。夫人の言動もひじょうに印象的です。「どんな辛い思いも、感謝にかえたまえ」という自己調和の決意 [※2] 、「いのち」への深い洞察と厳粛な生命愛。#画像資料⑧

 いのちの調和へ向けた夫婦の生きざまは、『米の生命いのちが生きるまで』という本の副題にも表れているように、苦悩しながらも自然界の秩序(自然律=いのち)にかなう生き方へと自己調和していく姿と言えます。とりわけ夫人のように米のいのち・食のいのちと同化したさま[※3]「まこと」というのではないかと感じたことをおぼえています。#画像資料⑨

 時代の大きな転換期にあってもなお、または、だからこそいっそう私たちは近視眼的思考の傾向が強くなるようです。しかし、永い目で見れば、生涯をつうじて自己調和をつみかさね「まこと」[※4] を体現する価値や社会的意義は計り知れません。「一羽の折鶴」の現象はその一端をまちがいなく示唆しています。#画像資料⑩

 

[註]

※1.1945年 (昭和20年) 8月、原爆が広島市と長崎市に投下された。6日8時15分。9日11時2分。そして48年後となる1993年 (平成5年) 8月6日12時13分、故・岡本天明氏のいのちを直感する共時性現象が起きた。※2.『酒乱』「天の啓示に生きる妻」(資料⑧を参照※3.『酒乱』p.112「酒乱の夫と過ごす尊い人生、三十三年の中で、人間を諭し続ける生命界の心と、通じ、結ばれ、生きた。」「沈黙の心々の世界から見たなら、灯台の光のような妻を見ているようなものであった。だから、米の生命は、妻の生命の光を見て、心を寄せる。酒の生命も寄ってくる。」(資料⑨を参照※4.『ひふみ神示』アレの巻冒頭の二文「いわとびらきなりなるぞ。まこといわとはとはぞ。」の「まこと」(資料⑩を参照

資料

 

 

 

 

①発見された一羽の折鶴:広島・岡本天明絵画展の会場を出た山形の夫妻は、原爆ドームと平和の子の像に近い元安橋上でちいさな一羽の折鶴を見つけ、拾い上げる。昼食時、不意にそれを開いてみたところ、現れたのは天明氏の出生地「倉敷市玉島」の文字だった。時刻は12時13分。太陽暦と太陰暦(日と月)を象徴する12と13。しかも日付は 8月6日。衝撃は尋常ではなかったろう。天明氏の「体を借りた」自動書記による「日月神示」は人間に自己調和を促す書。この日、平和公園は、早朝から鎮魂と平和への祈りに包まれている。※各説明参照本文に戻る

②岡本天明氏と岡本三典氏:数字を主体にした神示取次の自動書記は、昭和19年、天明氏が 47歳 のときからはじまったと言われている。『日月神示』には、神示そのものについて、人としての「道」を示したものであり、特定の宗教として広めてはならないという主旨のことが書いてある。天明氏は1963年(昭和38年)4月7日に満65歳で死去。折鶴との出合いに衝撃を受け、もういちど会場へと戻った山形の夫婦は、岡本夫人に起きたことを伝え、折鶴はその手に渡った。その後16年間ずっと岡本夫人とともにあり、夫人が亡くなる半年前に上の夫婦の元へ手紙とともに送り届けられている。手紙の抜粋文が『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』に収録されており、別途「資料④」に掲載した。※各説明参照本文に戻る

③汚れなき食のいのち:『酒乱‐米の生命が生きるまで』「天の啓示に生きる妻」の一節/本文に戻る

「お父さんが悪いのではありません。米の生命がわかるまでの教えなのです。すべての食べ物、にんじん一本、大根一本、魚、なんでも、みな尊い人間を生かし続ける生命の元です。人間以前のこの生命たちの、尊く、汚れない食物たちから、生命の声が聞こえます。食物たちの生命は、それぞれ違う者たち同士ですが、人間のように争うことはいたしません。口から入った、いろいろな食物の生命は、一糸乱れず、人の生命を守り続けます。そうして、一本道の人の体を通り、ふたたび、自然界へと戻っていく生命たち。

同著「難行苦行の人あれど」の一節/本文に戻る

ここから書籍『酒乱こめのいのちが生きるまで』からの抜粋。誰一人として理解できなかった妻の世界を、力強く支え、守ってくれたのは、自然界の生命波動であった。「声となり、言葉となって生き通う、生命の愛」 人間的自我の一切ない、浄め上げられた自然界。「そこには、万物を、生かして、生かして、生かし続ける愛しかない」 この生命世界には、人間界のような、他を殺し、争い、奪い、傷つけ合う心はない。特に、米をはじめとして、食物一切は一時も休みなく、人間を生かし続けてくれる生命たちである。これは、どんな知性をもってきても不滅の真理である。 妻は、この食物(人類以前の生命たち)の心に通じたのが、最初の光明だった。どんな辛い、苦しい思いも、感謝、喜びに重ねて、生きねばならぬ日々の中、恐ろしい地獄酒の夫にも、神の光の輝く日がやってきた。「酒を憎んではなりませんよッ。酒は、浄め上げられて、神に捧げるお神酒となり、また、酒は米の生命でもある。汚れが一点もない米の精と酒の精。このような酒を飲んだ夫の心には、必ず、その愛が生きる日が、やってくる。その日は、必ずやってくる」と、生命の奥深い世界から諭されたのだった。以上、抜粋はここまで。

ちなみに、別著『死んでも生きている‐いのちの証し』(p.258) にもよく似た文がある。「霊界は、憎んだり、傷つけたり、争いが絶えないけど、稲霊の世界から文字、数、色にひびかせる沈黙の世界は、傷つけ合うことはありません」

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④岡本夫人からの手紙:『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』
あとがきの掲載部分/
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書籍『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』からの抜粋。本文はここから。折鶴は破れる寸前になり、夫人が亡くなられる半年前に私の妻宛に送り届けられて来ました。そして、亡くなられる一二日前には、一通の書簡が届けられたのです。 ここで、その手記の一部を紙上を借りてご紹介させていただき、あとがきに代えることにします。 ■『岡本夫人の書簡』(絶筆の抜粋) ……前略……一九九三年、平成五年八月六日、広島におきまして、天明画展を開かせていただいたとき、小さな折鶴をいただいたからでございます。それは、この世始まって以来、最初で最後のただ一度の出会いでございました。この時、大宇宙と、地球上の折鶴のいのちはこの世始まって以来初めて、深い愛のひかりで結ばれたのでございます。 空前絶後の、言葉に尽くせぬ、深く熱い想いでございました。大きなよろこびでございました。 日月神示に寄りますと、この出会いは、この世の最初からの経綸(四九三)であると明記されているのでございます。はるかに長い気の遠くなる様な、億万年の想いの込められていた日でございました。人間の心を越えた広大無辺の宇宙の、切実な愛を深く感じるのでございます。平成五年八月六日、この日、この時が大切だったのです。一枚の広告の紙は、人間に生死のないことを現しております。 天明は、肉体浄化して、はじめて自分の五体は食によって生かされていたと知りました。神示を書き、絵をかいたのも、自分だと思っていたが、食によって、書かせていただいていたのだと。天明が郷里の文字に生き、とかされていたことは、いのちの永遠を悟らせてくれました。表は色の花模様で、裏を返しますと、倉敷市玉島と、天明生誕地が印刷されておりました。 「あ、これは天明さん生きている」と、直ぐ届けていただくことが、出来たのでございます。一体、何処の、何方が折られたものでありましょう? 一六年前に、こんな不思議なことが、起こったのでございました。折鶴を開きますと、米の字が現れます。米の字は、この世でただ一つの、中心のある最も大切な大切な字なのでございます。中心のあるこの字は、宇宙そのものを現していると申せます。折り目はひかりであり、四方八方へと無限に広がって行く線ですから、……中略……折鶴は、我が国古神道の奥義でございます。折り紙といえば、すぐ折鶴とおもうほど世界の人々に愛されております。人々に幸せをもたらすものとして、広島の平和公園には、世界の人々から、供えられているのでございます。平和公園からは、少し離れた、元安橋の上で拾われました。……中略……広島は、人類が初めて原爆を落とされた地です。今も、苦しまれている人々があり、まだ自分のいのちがどうなったか、よく分からない霊が、充ちていると思われます。 平成五年八月六日、折鶴と日月神示の出会いの日は参りました。もしお会いしていなかったら、日月神示の難解な数の羅列の一六巻、アレの〇木(アレノマキ)を、誰が読むことが出来るでしょう。誰にも読めなかったものが、読めたのは折鶴でした。この日を一番待っておられたのは、日月神示でございます。宇宙そのものも世の元にご自分で仕組まれその時の来たことを、一番よろこばれたに違いありません。……中略……平成五年八月六日、人間にいのちの尊厳に気づけよと、共時が起こったのでございます。日月神示の中に、何度も出て来ます。世の元の一厘の経輪(仕組み=四九三)と申しますのは、折鶴が世にお出ましになることでございました。折鶴は、食芯の芯の芯でいらっしゃいます。無のいのちでいらっしゃいます。……中略……折鶴は、新聞の折り込み広告で折られておりました。確かに、この度のことは、全く新しい出来事です。私は、毎日、驚きを深めております。日本は神国です。正に二十一世紀の神話でございます。 平成二十一年六月十日 岡本 三典  書簡は長文でした。書簡を記されてから一二日後の、六月二二日から二三日にかけての未明、岡本夫人は、享年九二歳の天寿を全うされたのです。 平成二三年七月吉日著者  菅原 茂」以上、抜粋はここまで。

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⑤縁はいのちの調和力:『酒乱‐米の生命が生きるまで』
「神技一瞬、“刃に変わる水柄杓”」

ここから書籍『酒乱こめのいのちが生きるまで』の抜粋。見出しは「神技一瞬、やいばに変わる水柄杓」、本文はここから。「縁は生命の調和力。目の前にやってくる縁は、すべて自分にふさわしい縁なのである。縁に偽りはない。私が引き寄せたものであり、みなさん自身が、引き寄せたものなのである。縁は、絶対の力を持って、私たちに逢いにくる。「よくやってくれた」と、ご褒美を持ってくることもあるし、あるいは、「えらいことをやってくれたなっ」と言いながら、やってくることもある。だから、みんなの目の前に現れる縁は、すべて、おのれの目覚めのためにやってきてくれる。よきにつけ、あしきにつけて、やってくる。私の酒乱についても、当然、「お前は不調和な生き方をしているぞ、早く気づけ―」と、催促する現象を示す。」以上、抜粋はここまで

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⑥心の世界⑴生命の樹:『酒乱‐米の生命が生きるまで』「生命の樹」/本文に戻る

ここから書籍『酒乱こめのいのちが生きるまで』の抜粋。「だから、自分という一個の生命体の中には、まぎれもなく、何億万年のいのちの歴史が刻み込まれていることになる。それぞれの遺伝子の中には、生命博物館のようなものではないか、と思われる。私は、自分の意識改革を実行する中で、この生命の流れに、本当に感心した。全人類を一本のいのちの樹と見て、そこに花を咲かせている梢の先々が、我々、現世の人間の姿と見たのである。私が、狂った果実となったことは、心という生命の養分が、祖先のどこかで、誰かが狂わしてしまったのだと思う。だから、私の身体に黒い花を咲かせ、黒い果実を実らせた。この生命の、心という養分を変えない限り、いつまでも、どこまでも、子孫の花が狂うのである。どこかで、誰かが、心の養分を自然体に戻してやらなければ、子孫のみんなに、迷惑をかけることになる。代々引き継がれた心の歴史(潜在層)は、次第に、ひとつの生命体として、独り歩きをし、それが、現在の自分を操作支配する力となる。そして、今の心の習慣が、積もり積もって、自分を、さらに、子孫を支配する心の生命に育つ。自分の過去の心、祖先累々の心が、びっくり箱のように、現在の自分の前に躍り出てくるという仕掛けであると思う。こう考えてくると、勝手気まま、好き放題に、不調和な心を発散し続けてはならない。日頃の心の習慣が、ルーズになってくると、自己管理が不可能となって、人霊世界の思うままにされてしまうのだ。だから、酒を一杯飲むと、過去前世の悪心、亡者、括弧、今はなき者、括弧閉じ、が小躍りしてやってくる。心の世界には、時間、空間はなく、一面的、一本直通だから、一瞬にして現れる。こうして、いのちの樹を伝って、全方向から、飲み足りない亡者の援軍が集結することになる。もうこうなったら、現世の自分は、ブレーキなしの車が、下り坂を走るようなものだ。ある日、妻が、こんなことを言った。「お父さんが、少し飲みだすと、この世で飲み足りなかった人たちが、いっぱい集まってきます。」以上、抜粋はここまで

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⑦心の世界⑵心の集団と霊脈:『神秘の大樹Ⅲ文字・数・色で証す新次元』「吉田茂の本と私」の一部/本文に戻る

ここから書籍『神秘の大樹 第三巻 文字・かず・色であかす新次元』からの抜粋。「日頃から、心の積み重ねが、いのちの中にどんどん入っていく。その心の集合体が魂であると私は考えているから、どんな魂がどんな勢力圏を張り合っているのか、自分のいのちの世界に関心をもっている。心が成長し、自分のいのちの中にそれぞれの色合いを持った心の集団をつくり上げてきた魂は、それをたぐっていけば、先祖がどうのこうのというよりも、人類全体を、さらにさかのぼれば、とてつもなく深く広い心性世界までつながっている。だから、人類は皆いのちの親子であるともいえる。極言するなら、人類の魂(心性)の岩盤は一つなのであり、一人ひとりの魂にもその岩盤が共存して共有している世界だと私は思っている。人類皆いのちの親子であり、心の親子であるともいえる。そのことはとりも直さず、自分が暗い心やよくない心になればそれは自分だけの問題ではなくなり、他の人にもそのくらい心や、よくない心が、いのちの霊脈を通って知らず知らずに流れていくということになる。一人でも多くの人たちが、明るく良い心で生きていられたらと思う。昨今の人類世界は現実に暗い面の映りが強く、戦々恐々としているのが辛く私に伝わってくる。単独一体のいのちはなし、みんな繋がっているいのち、順々繋がっているいのち、世界はいのちで一体、魂はどこかに必ず繋がっている、共振共鳴で響き合う魂、霊脈を呼び起こせ!良い霊脈を呼び起こせ!」以上、抜粋はここまで。

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⑧生命尊厳・自己調和の覚悟:『酒乱‐米の生命が生きるまで』
「天の啓示に生きる妻」/
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ここから書籍『酒乱こめのいのちが生きるまで』からの抜粋。(見出しは)「天の啓示に生きる妻」(ここから本文)「断酒数年前のこと、妻は、ある声なき声を聞くことがあったという。酒乱の断末魔が、響きをあげて近づく頃のこと。酒乱のやり口には身ぶるいするほどの恐怖を感じながらも、その中にあって、夫の狼藉にもいつしか感謝の気持を持てるようになっていた。 「お父さんのお蔭で、沈黙世界から、その心をいただけるようになりました。お父さん、本当にありがとうございます。」 と、どれほどに恐ろしい難儀だったことか。言うが早いか、顔をしばたたせながら、泣き出してしまっていた。ある日のこと、刃物を振り上げている夫のため、家へ入ることもできず、たった一人の妹に助けを求めて駆け出して行ったが、巻き添えが恐ろしくて、家に寄せて休めさせてくれなかったようだ。あまりの酒乱の恐ろしさのため、そこの小屋にさえも、休ませてもらえなかった妻の憐れさ。  寒気が身をつんざく酷寒の夜。天を仰いで、無心の生命の中から、 「どんな苦しい思いも、どんなつらい思いも、感謝にかえたまえ」 と、心の奥深く刻んだ妻への伝言。それを区切りに、妻は一心に、夫のいかなる乱行にも、ただ一念に頭を下げ、どんな苦しい思いも、どんなつらい思いも、すべて感謝に変えていくことに徹した日々を過ごすようになった。この感謝に徹する日々こそ、神に生命を捧げ尽し切って得た、心開きの難行苦行であった。 ついに、妻の生命には、自然界の生命の愛が全開することになる。ある日のこと、妻はこんなことを話すのであった。「お父さんが悪いのではありません。米の生命がわかるまでの教えなのです。すべての食べ物、にんじん一本、大根一本、魚、なんでも、みな尊い人間を生かし続ける生命の元です。人間以前のこの生命たちの、尊く、汚れない食物たちから、生命の声が聞こえます。食物たちの生命は、それぞれ違う者たち同士ですが、人間のように争うことはいたしません。口から入った、いろいろな食物の生命は、一糸乱れず、人の生命を守り続けます。そうして、一本道の人の体を通り、ふたたび、自然界へと戻っていく生命たち。その代表である米の生命は、酒となり、神々にも捧げられます。透明で、汚れない姿となって神に供えられるのです。その、米の生命を見て、悟って、お父さんの心も、米のように、汚れない心となるまでのお役目でした。私は、このことを教えていただき、お父さんに、本当に感謝しなければいけないのです。ありがとうございました。」私は、この奇想天外な話に面喰らうばかりで、感謝しないといけないのは、こっちのほうなのに、尋常ならざる超越世界を垣間見た思いだった。息詰まるような酒乱の歳月の中で、妻のそのつらい苦しい地獄から救う神の業であったと考えている。どんな過酷な試練をも、感謝、喜びに変えて生きていく、恐るべき神の智恵が授かったとしか言いようがない。米の生命がわかるまで、そして、その米の生命が生きるまでの酒乱劇。これは、えいえい百年に及ぶ、母と妻の二代にわたる女神のような守りであった。」以上、抜粋はここまで。

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⑨自然界の調和性と生命愛:『酒乱‐米の生命が生きるまで』「守護の窓口となった妻と自然律」/本文に戻る

資料はここから。「このエイエイと続いた悪習慣は、自分の過去だけのものなのか、あるいは、両親の代からのものなのか、さらに、それよりも、もっともっと先の時代にまで遡るのかは、人それぞれに異なっている。ただ、ここではっきりしていることは、子孫の誰かが、この先祖ぐるみの悪習慣を断ち切らなくてはならない。命がけで、生命に恥じない人間性を取り戻さなくてはいけないのである。そのためにも、単に人間的自我というくらいでは到底太刀打ちができない。自然界の愛が窓口にならなくては、汚れ切って、軟弱化した人間の心を、きよめることはできないだろう。人間発生前の、生命の愛に戻って、我々を、「生かして、生かして、生かし続ける愛の力」 を借りなければ、人間は改心できない。すべての宗教を超えて、生命の愛に目覚めなくては、心の汚れはきよめられない。私に潜んだ、酒乱で汚れ切った心は、妻の真心の一念で、生命の愛に目覚めさせてくれたのだった。こめと酒の生命が、妻の生命の光を通して、私の心の中で生き返ったのである。このことは、とても理解に苦しむこと、あるいは、低俗なことだと言われるかもしれない。だが、今、本当に、自分が迷っている時、そこから目覚めるためには、高尚な精神論や、宗教論で救われることができるだろうか。少なくとも、酒乱の人生から自分を目覚めさせてくれたものは、ただの主婦である妻の守りのお蔭だった。一念の真心(愛)は、人間的自我(煩悩的自我)を超えた愛の心となり、私の汚れた心をきよめてくれた。この妻の愛は、あまりに当たり前過ぎて、かえって説明に苦しむところだが、それは、人間的、都合的、犠牲的な愛ではない。また、男女の愛、親子の愛とも違う。それでは、どういう愛なのか。一口で言うなら、生かし続ける沈黙の愛だと、言える。また、宇宙心霊(生命界の心)が、妻の生命にがっちりと生きたのだと思われる。妻が、よく言う言葉に、「人間以前の食物たちの生命(心)に戻らないと、人は成仏できない。人霊の活躍は、まだ自我がある。人間以前の生命の愛がないと成仏できない」 と、いうことがある。このことを知るためには、まず、毎日の食事に心を向けるがよい。食べることによって、生きることができるのは、当たり前のことだ。もの言わぬ米を食べ、そして、野菜、魚、その他一切の食物を食べて、こうして、自分の心が生まれ、声が生まれ、言葉が生まれ、走り回り、今日を生きる人間。この、生かす力(愛)しかない食物たちと、融合一体となって、その尊い声なき心を受けることができる。酒乱の夫と過ごす尊い人生、三十三年の中で、人間を諭し続ける生命界の心と、通じ、結ばれ、生きた。そこには、いかなる理論の余地もない。そこにあるものは、丸裸の透き通った光だけの生命しかない。そして、黙する生命の光の受け皿となった妻。しいて言うなら、沈黙の心々の世界から見たなら、灯台の光のような妻を見ているようなものであった。だから、こめの生命は、妻の生命の光を見て、心を寄せる。酒の生命も寄ってくる。酒の心は、妻を通して叫ぶ。 「喜び、安らぎで飲むんだよ。浄まりの生命だよ。神に捧げる生命だよ。汚すのは、人の心だぞ」また、こめの心は言うだろう。「米寿の祝いとなる生命だよ。八十八(88)の数にも、生きられる生命だよ。磨き抜いて、御神酒にもなる生命だよ。生命を汚してはならないよ……。」と、人の体の中から叫んでいるだろうし、こめ、酒、食物一切、また、自然界の心々、そして、人霊の心々たちも、人の世のために、代弁してくれる妻の生命に寄ってくる。声となって、文字に生きて、かずに生きて、色に生きて、寄ってくる。そして、見えざる生命の世界の心々を、人々に伝えていただく喜びが、こちらにも感じられる。天地の生命の愛で生かされる人間界は、必ず、一人一人の生命の中から、目覚めさせられるであろう。そして、妻の守りは、沈黙世界の、見えざる、生かし続ける愛、その愛そのものの守り姿であった。だから、こめの生命も、酒の生命も、私の生命の中で、力強く生きた。まず、心の突破口は、食物たちや、自然界の生かし続ける生命の愛を、自分の心で、ガッチリと感じられるようになれば、不調和な人生から、目覚めることが早まると思う。概念としての知識だけでは、むしろ、混乱が生ずるから注意しなければならない。こういう、生命の原点に、真心から感謝できる心(愛)が目覚めたなら、自らを救うことが必ずできる。不調和な心(悪性)は、目覚めなき迷いの心だから、悪はこの世の仮の姿だと言える。 「妻を介する神ちから。今ぞ晴れての人の道。断って立ちゆ酒の道。いのちの原点目覚めゆく。」以上、資料はここまで。

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⑩-1. 日月神示の核心「岩戸開き」:創作シナリオを織り交ぜた物語『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』の一部/本文に戻る

ここから書籍『神秘の大樹 第二巻 ヒロシマとつる姫』からの抜粋。「いわとびらきなりなるぞ。まこといわとはとわぞ。この神示を食心の目で読んでいただきましたこと、岩戸開きは心の目を開くこと、人の世の平安は、それでこそ永遠なのである、ということなどいろは姫さんが、話されたことは、真実なのです。天の川の「天意の法則」には“食心の目は共時の目”という一説のあることを、つる姫様から聞いておりました。天にも通じる人の心こそ永遠の扉開きです。現実界の妻の三典(みのり)にもその旨をシグナルで知らせておきます。ありがとう」天明はその二人の話の内容を、つる姫にも伝えました。以上、抜粋はここまで。

⑩-2.『ひふみ神示』の「アレの巻」冒頭「いわとびらきなりなるぞ。まこといわとはとわぞ。」に度々触れている。諸説あるが、『ひふみ神示(日月神示)』の中で最も重要と言われる。

さらにここから抜粋。「僕は天明の信之です」と、生まれ故郷の倉敷市玉島が、あかしの文字に託され、岡本夫人の人生最大の運命的出会いとなったのでした。この折鶴との出会いによって、田之助の妻(いろは姫)にも著しい内的変化がありました。これまで、日常生活の中で、心結びの文字や数の文脈を容易に理解できなかった夫に代わって、天明の取り次いだ神示(日月神示)の第十六巻にこそ、妻の心を癒してくれる真実があったのです。これこそが田之助の妻の最大の理解者となったのでした。特に、神示第十六巻の最初の一行の十六文字に、田之助の妻の心の内に共振共鳴する真実が秘められていました。いわとびらきなりなるぞ。まこといわとはとわぞ。という書き出しの文面には、神示の真髄が凝縮されているというのです。その書き出しの「いわとびらき」こそ、“食心の目”であり、この食心の目こそ心の目であり、岩戸であり、扉開きという真意がそこにあるというのです。“食がいのちになる次元”この一点にこそ、神示第十六巻の眼目がある…神示第十六巻に出会うことで、田之助の妻の人生にも運命的方向性が与えられたのでした。」以上、抜粋はここまで。

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岡本夫人の気づき(『至恩通信』)→

引用・参考図書

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書籍『神秘の大樹 第二巻 ヒロシマとつる姫』の詳細・閲覧ページにリンクしています

神秘の大樹 Ⅱ
ヒロシマとつる姫

菅原茂/おりづる書房/2011年

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平成5年8月6日の広島平和公園で出合った一羽の折鶴は、「倉敷市玉島」と印刷された広告で折られていた。その地名は「日月神示」で知られる岡本天明氏の出生地。縁結びのしくみを、「心のつる草」など比喩を用いた物語を織り交ぜて表現している。

 

 

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書籍『酒乱こめのいのちが生きるまで』の詳細・閲覧ページにリンクしています

酒乱
米の生命が生きるまで

菅原茂/MBC21/1993年

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「いのちとは」「心とは」という文字通りの “命題” について、 体験を通じた非常に強いメッセージを発している。 後年、この著者は『死んでも生きている いのちの証し』『神秘の大樹』を出版しているが、 第一作である本書を読むと、 なぜこの著者が、共時性を切り口にして「いのち」を語るのか、 腑に落ちる。

 

 


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書籍『死んでも生きているいのちのあかし』の詳細・閲覧ページにリンクしています

死んでも生きている
いのちの証し

菅原茂/たま出版/1997年

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共時性現象の体験記録をもとに、生命の本質は不滅だと伝えている。 酒乱人生から夫婦二人三脚で新たな人生を再出発させた著者。自らの足元を照らすかのような共時性現象の記録を随想としてまとめている。また、本の表紙を飾る稲穂はこの著書の本質を象徴している。

 

 

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書籍『ひふみ神示』を図書館検索サイト「カーリル」で検索します

ひふみ神示(上巻)

岡本天明著/コスモ・テン・パブリケーション/1994年

 

岡本天明氏の「自動書記」による著書。心の目を開いて自己調和に努めるよう人類に警鐘を鳴らし気づきを促す書として知られている。文中には、この神示そのものについて、人としての「道」を示したものであり、特定の宗教として広めてはならないという主旨のことが書いてある。長編であり、難解な箇所もある。諸説あるが、「アレの巻」の冒頭に書かれたごく短い二文(下記)が最も重要な部分だとも言われている。

 

 


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書籍『ナガサキ』を図書館情報サイト「カーリル」で検索します

ナガサキ‐核戦争後の人生

スーザン・サザード/宇治川康江訳/みすず書房/2019年

 

長崎で原爆被害に遭った人々の半生を描く、米国で出版されたノンフィクション小説『NAGASAKI:Life After Nuclear War』の日本語訳版。原爆被害者の痛ましい経験を米国人の多くが知らない現実と背景に踏み込む姿勢、被害当事者の体験を忠実に描いたであろう内容に驚嘆させられる。

 

 

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書籍『神秘の大樹 第三巻 文字・数・色であかす新次元』の詳細・閲覧ページにリンクしています

神秘の大樹 Ⅲ
文字・数・色で証す新次元

菅原茂/おりづる書房/2012年

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文字・数・色は人間の意思だけではなく、生死の境やほかの生物などと境なく、いわゆる「霊」や「魂」の意志性を代弁している。 共時性現象(=偶然の一致)は、それを認識させてくれると同時に、一人ひとりに対するあたたかい道案内の現象だと伝えている。

 

 


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書籍『神秘の大樹 第一巻 偶然が消える時』の詳細・閲覧ページにリンクしています

神秘の大樹 Ⅰ
偶然が消える時

菅原茂/おりづる書房/2011年

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いまを生きている自分(あなた)自身の存在こそ、肉体をまとい、服を身につけている霊魂そのものだという。 霊魂というと、わが身の外に存在し、わが身の外で起きる「現象」と考えがちだが、そもそもそれは、私たちのからだやこころに内在し、わが身の中で起きていることがらなのである。

 

 


共時性とは何か

(共時性の定義)

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時空や生死を超え、人種や生物種も超えて、いのちには境界がない証し

 

因果性とは何か

(物理的視点)

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「因果性」の実際は、それほど単純ではなく、もっと複雑。科学的な「法則」は、限定的な条件のもとでのみ有効だ。

 

偶然にひそむ因果

(共時性と因果性)

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因果性がないというより、今の科学の尺度では説明できない、と言うべきではないのか。

 


体と心の相関性

(生命現象の根源)

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私たち現代人が見失っている食の本質。生命と生命現象の根源は食にある。自分のいのち食のいのちに対する考え方が問われている。

 

サイトの概要

(共時性を通して観る生命)

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サイトの趣旨、本の紹介・説明、なぜ今これらの本を推すのか。サイトマップ他