図・写真を除く文章のみの掲載。
酒乱童子の成仏
心霊への誘い(死後に残る津波の恐怖)
人間改造への突入
七羽のカラスに襲われたガタガタの体
生命を貫く因縁の凄さは、絶妙な生命力となって、子孫の生身の中で開花する。人の心の累積は、五代、十代、二十代と引継がれ、二人の親が四人となり、倍々と増えていく先祖たちは、四百年くらいで一〇二四人、七百年では、一〇四万八〇〇〇人の先祖群団になる。
錯綜混沌として、ドロドロと溶解している人類の想念(心)は、我々の生命の中で、祖先霊(霊界心=擬似魂)として、ピッカピッカの生命本体(真性魂)にからみつき、生きて、生きて、生き続ける生命力となる。
この因縁という生命力は、ちゃんとした意識体として、この世に生きようとするから、運命劇が始まるのだ。そして、この因縁の意識体(心)の舵を取るのは、あくまでも自分の意志の力なのである。
強い意志を育てることこそ、悪性因縁から目覚める、唯一の手段であると、実感した。こんなことは、先刻承知のことだろうが、本当に心の中で、悪性因縁を打ち負かす意志力を育てるということは、頭の中で考えるように単純なものではない。私の、酒乱性因縁も、父の時代を飲み尽して、さらに、酒乱童子の真赤な舌先が、子孫である我々にも及んだのであった。その因縁の結晶の吹きだまりが、激突する。「以後、決して飲むまいぞッ」と、歯ぎしりしての抵抗も空しく、二十三歳で、因縁酒の洗礼を受けてしまった。キバをむき出し、燃え続けた鬼火は、因縁の心深く喰い込んで、魂の傷口をどんどんと広げていった。
そして、妻もろとも飲み込むかにみえた悪鬼も、妻の生命に生きた沈黙世界の師となる愛の光に阻まれ、ついには、手も足も出ないようになった。それと共に、私の中には、生命の真実が育ち始め、そして、新しい意志力ができてきたのである。
酒乱二代、母が父に五十五年、私の断酒まで二十八年と心磨き期間五年間の合わせて三十三年、親子合わせて八十八年の長きにわたったが、神が手向けた二人の女のお蔭で、人の道に目覚めることができた。妻もボソボソになった身心を引きずりながらも、不撓不屈の精神力の勝利となった。
流してならぬ 悪因縁
手前一人の 快楽を
〝ツケ〟で喜ぶ 親は鬼
泣くに泣けない 子の不幸
知らずに生きて なるものか
我が身裂けても 二度とまた
現世の〝ツケ〟は きっぱりと
消して花咲け 末代までも
これぞ調和の 人の道
いのちの原点 ここにあり
酒乱地獄に墜ちてからは、毎日、山歩きが日課となり、数多くの心霊体験をする中で、ひとつだけ、死に学ぶことができた。人が、臨終を迎えた時、思い残すこともなく、並いる人たちに、感謝の心で旅立ちできるなら、人間として、至上の幸せだと思う。
人間の真の価値は、死の直前に凝縮される想念の、明暗にかかっている。死の直前の思いだけは、追体験できないし、臨終の人に、そのことを伺うこともできない。死の一瞬、人はなにを思い、なにを言わんとするのか、なにを体験するのかは、知る由もない。だが、この不可能とされていることを、私は、「一三名の津波で亡くなった子供たちから、教えてもらうことができた。
そのことにより、一種の臨終意識の体験化ができたような思いだ。人の、死後に残していく思いは、死の直前の、今、消えんとする意識の中に、すべてが凝縮されるものだと思う。
死の直前の意識こそ、死後、引きずり回される霊魂の苦しみとなるかどうかの、大きな分かれ目になるのだと考えられる。死の直前にある意識とはなんなのか。憎しみ、怨み、喜び、悲しみ、感謝、愛、恐怖であるのか……。現世に執着するか、悟りの光明かは、人それぞれだろう。だが、死後に残る真実の心の生命は、死の直前の意識(心)にほかならないと思う。
このことを、はっきりと実感させてくれた、ある旅の一日のことを紹介したい。
ある年のお盆の、八月十六日のこと。一本のコブ杉の大木と逢うため出かけたのだが、探し求める銘木に当たらず、一枚の写真を頼りの旅は、見えざる手に導かれた、魂の旅となった。山間部を巡り歩く中、いつしか、見覚えのある村へたどりついた。そこには、秋田沖地震の津波に飲まれて亡くなった、一三名の児童の菩提寺がある。
ここへ来たのも、子供たちの引合わせだと思い、シーンと静かな位牌堂の、特設された一三名の写真に向かい、一人一人の名前を呼んで語りかけながら、冥福を祈った。
そして、車に戻り、ドアを開け、足を入れようとした時、なにか、後ろで、サーッと、ざわめく感じを受けた。これは子供たちだと直感した。「あッ、そうだ。子供たちを車に乗せていこう」、という気になった。
それで、左側のドアを開けて、心の中で声をかけた。「おーい、みんなも、いっしょに行こうか……」と、呼びかけたら、急に、子供たちの喜びざわめく声がして、次々と座席に乗ってくるのを体感した。「おう、来たな、来たな。……」と、思いながら、「みんな乗ったかー、さあー行くぞッ」と言って、ドアを閉めて、走り出した。
それから、村を出るまで、なにやら、子供たちの賑やかな話し声を感じながら、国道にさしかかった。ちょうど昼頃であったから、妻が持たしてくれた食事もあるし、セロハンに包んだ煎餅もあった。そこで、「みんなー、センベイを、おじちゃんと、いっしょに食べようか……ねェー」と、心で語りかけ、そして、運転を続けながら、左手で、センベイを二、三枚握りしめて割った。「さあー、おじちゃんが、小さく割ったからな。どれどれ…」と、言いながら、今度は車をとめて、みんなに公平に渡るかどうか、セロハンを切り開いて数えてみた。一三個に割れていたので、「おうーい、みんなに、ちょうどよく割れたよ…」と、言ってから、一瞬ギクッと、気が引かれる思いだった。無雑作に割ったセンベイが、亡くなった一三名の子供たちに、一三個のかけらになっていたとは……。その時、子供たちが、ざわめきの中で、口を揃えたようにして声となった。「粉は、おじちゃんの分だよー」と生命の中から、はっきりと聞こえてきた。割った時の粉のことである。
亡き心は、この世を、どうして、こんなにはっきりと見えるのだろうか。この私の生命の中に結ばれて、私とともに見ているのではなかろうか。
このことを常識で考えれば、単に、偶然だと思うだろう。だが、私は、その必然性を信じて疑わない。子供たちの魂は、永遠だということを。
ふたたび、出発した車の中で、しばらくの間、会話が続く。車は、先ほど来た道を、逆へと走っている。やはり、コブ杉のことが忘れられず、その目当ての村近くで、尋ねることにした。
ある商店の主人は、必ずあるという。大林村というところから、右へ入っていく分かれ道がある、そこで、もう一度聞いて下さい、と言う。村はずれまで来て、酒屋で改めて聞いてみると、「全くわからない」と言う。どうしたというのか。だが、そこのおかみさんが言うには、「コブ杉はわからないが、毎年十月十日の体育の日になると、杉林へ、子供たちが遠足に行くようですよ」と、教えてくれた。世の中は、灯台下暗しというくらいだから、関心がなければ、気づかぬことも多いというものだ。
だが、無案内のまま、その分かれ道を奥へ奥へと入っていくと、見事な杉林が見えてきたが、目的のそれらしい古木は見当たらない。そして、その林道は、いつしか行き止まりとなった。
この頃からであった。子供たちが、しきりに、喜びながら話しかけてきた。さも、遠足にでも来ている感じで、はしゃいでいる。今度は車の中へ大きなアブの出入りが始まった。それも、子供たち一三名の人数と同じくらいではないのか! しばらく見とれていたが、早くここを出なくては、と思い、国道が間近いところまで、下がって来たその時、ハッキリと、子供たちが話し出した。
「おばちゃんに、花のお土産を持っていってくれ」と、言う。妻へ、花のプレゼントである。「ウン、ウン、そうか、そうか」と、車をとめて外へ出た。左山裾には、色とりどりに秋の花が咲いていた。これも、あれもと、手にした花は、白いウドの花、薄紫色の萩の花、黄色いカラ芋の花、白銀のススキの穂花、紅紫色のミソ萩の花、この五種類の花が、子供たちからのお土産となった。
妻にとって、一三名の子供たちとの生命の結びは、生涯忘れることのできないことであろう。妻の生命に、沈黙世界の心々が生き、通い結ばれたのは、この子供たちが初めてであったからである。
津波の水難にあってから、「おばちゃん、おばちゃん」と、心を寄せてくる。亡き心からも光と見えた、妻の生命だったのだろう。一心の愛で語りかける妻の心は、子供たちとも、強烈に結ばれたのだと思う。
さて、花のお土産をいただいて、車はふたたび走り出した。山間を縫うようにして進んでゆき、途中で、昼飯には遅かったが、鯉茶屋というドライブ・インで休んだ。そこには、大きな沼がいくつもあって、クマ、タヌキ、鳥がいる小動物園があったので、「みんなー、ここで遊ぼうよ」と、声をかけたのだが、急に今度は、会話が止まってしまった。「あれッ、どうしたのかなー」と、気になりながらも、一人で見て回り、食事を終えて、そこを出た。そして、三十分ほど走り続けると、人里離れた高原地帯が広がってきた。そこらあたりには、カラ芋の黄色い花が、天然とは思えないように、一面の畑となっていて、目をみはった。そして、その先を左折すると、近くに、ダムと滝があるという標識が見えた。そうだ、ダムで遊んでいこうか、と思い、「みんなー、ダムに寄っていくよー」と、心をかけた。今度は、急に返事が返ってきた。「僕たち、車の中にいるから、おじちゃんだけ、行ってくれ」と言う声が、はっきりと聞こえてきたのである。「それじゃ駄目だな」と思い、ダムで遊ばず、帰路についた。その時、すぐには気がつかなかったが、しばらく走っているうちに、直感が体を突き抜けた。「あッ、そうかッ、あの子たちは、津波で亡くなったのだッ……。水が恐ろしいのだッ」と。海のような沼やダム、滝は、生命を失う、恐ろしいところだったのだろう。
津波による強烈なショックは、どんなに恐ろしく、苦しみの一瞬であったことか。この世から消える時の一瞬、その一瞬に凝縮されて幼い児童の脳裏を駆けめぐったのは、お父さんお母さんのことを思う間もなく、一口に自分を飲み込んだ、青黒い怒濤の怪物であったといえる。
そこに横切る意識は、恐怖の二字だったと思えてならない。水難の恐怖に叫んだ一三名の児童たちにとって、死後において、初めて、愛の心結びができたのは、おばちゃん(妻)であったろうと思う。
沼のある鯉茶屋では、急に会話がやみ、「ここで遊ぼう」と言っても、応答なし。私の心呼びで、子らは震え上がったのではないか。死の恐怖が重なったからだろう。
また、ダムでは、「自分たちは車の中で待っているから、おじちゃんだけ行ってくれ」と言う。子供らの恐怖も知らずに声かけした私に、どんな思いで応答してくれたのか、と思った時、私は心なき冷たさに、さいなまれたのだった。
この幼い子供たちに学ばせていただいた永遠の生命を尊く思い、見えざる生命世界で、厳然と生きている心の証しに、頭の下がる思いだ。
野山の草花に、生命が重なって、おばちゃん(妻)の生命に結ばれる、喜びの一日となった。
以後、声なき声は、5月26日という命日の数に生きて結ばれることが多くなった。
つい三日前、お彼岸の中日のこと、朝から、この原稿を書いていて、子供たちから教えられたことを、ぜひ紹介したいものだと妻と話し合っていた。
真心から、そう思う時、その心は、「想えば、すぐに通わす命綱」となって、亡き子供たちの魂に結ばれてくる。それも、数の魂に生き、通って見せてくれた。
3月20日の3時20分、墓参りの車中で、一瞬、〝526〟ナンバーの車が現れた。無意識で心惹かれた車こそ、子供たちの命数の〝526〟(5月26日の命日)である。また、帰宅時間もちょうど、6時2分(62)だった。子どもたちの命日26日と裏返しの合掌数字〝62〟となって、表裏一体を示す数魂に、生きて心を通わしてくれる。
こうして、その日一日の私たちは、子供たちと喜びを重ね合う、一日の宿り木(肉体生命)になったと、思えばよいだろう。みなさんには、なじみのない話とはなったが、この世で、亡き心々が、生きて通わす証しのナンバーと思えばよい。
そして、生きる証しを受けるのが、この世の、文字と数と色であり、それらが生命と関連していることは、六〇〇件近い資料によって、はっきりとされてきた。
このように、沈黙世界の心々が、妻の生命に生きたのは、酒乱人生の死線の中で、生命を削って得た、神からの賜物だったのではないであろうか。
酒をキッパリと断つことになった私は、酒に向けていた心を、なにかに向けていかなければならなかった。熱いうちに打たねばならないのは、鉄だけではなく、己の心の改造こそが、緊急の焼入れである。
そして、目に見えないものの恐ろしさが、次第にわかってくる。まず、一切の社会情報から、自分の心を断絶しなくてはいけない。そんな気持と呼応したのかどうか、知らせをしたように、出入りの人足が、ピタリと止まった。これまで、縁深き人と思っていた方々も兄弟親戚も同様だった。そのため、今まで外に向けてきた気持が、一心に内面深く振り向くことになった。
それから以後は、書店に寄る日が、何年も続いた。仏教、神道、霊能力関係、人間改造関係、ヨーガ、運命学、医学と、手当たり次第に本を買いあさってゆく。
想念の転換には、あるシステムがあるらしい。五十二歳まで、その日その日を過ごしてきた自分にとっては、まるで別世界の本ばかりだ。
「ようし、オレのような頑固者は、肉体苦がなくちゃいけねーやッ」と、翌日から断食を始めた。断食のほか肉体を苦しめる方法を知らなかったから、それが一番と思ったのである。このことを、妻に話したら、反対せず、「やりたいなら、やったらいい」とだけ言った。一週間くらい飯を食わなかった場合、どうなるんだと、早速実践に入った。
ところが、妻は、どこで聞いてきたのか、「お父さん、食物を全く口にしないのは、ダメです。一日一回お粥一杯くらい、食べないと体に悪いというよ。ただちに胃を空にしてしまうのは、やめたほうがいい」と注意された。それで二、三日は、お粥一杯を食べることにして、始めてみたが、四日目が山だった。いよいよ、断食と食欲との戦いが始まる。
酒、煙草の禁断症状なのか、断食のせつなさなのか、そこいらあたりを、掻きむしりたくなってくる。そうした中で、この世がキラキラと輝きだしてきた。窓越しに見える無花果の木々の梢から、したたり落ちる雨上がりの水滴は、まさしく、ダイヤモンドか真珠のようである。「これは、すげーやー」と、かつて一度もなかった感激が込み上がってきたのは、どういうことなのだろうか。
じいさんに会うと、別人のようになって、「おはようございます」と機嫌上々、晴々とした気分だ。日中は、般若心経の毛筆写経を続ける毎日となったが、腹が空になると、不思議と雑念が消えて、写経にも集中できる。
だが、四日目が空腹の絶頂期となった。その後、五日、六日、七日目は、食べないですむ、おとなしい体になっている。
五日目の夜、初めて体験する金縛り現象がやってきた。夜中のこと、頭上の硝子戸に、凄い圧力がかかったかと思うや、身動きひとつできなくなった。初めてとはいえ、知識としていくらか頭に入っていたため、冷静に対処できた。
頭上のガラスが湾曲して、弓なりになっているではないか。スナスナと、弓なりになるガラス。「あッ、これは悪魔だッ」と、思うのだが、どうにも動かない体である。この硝子戸が破れたら、オレはあの世行きに違いないと思った。その時、悪鬼が、急に家の周囲をグルグル回り始めた。スタッスタッと、凄い早さだ。どこかに入口がないか、戸の開くところはないかと、音を立てて走り回っている。本当に、その音までが聞こえてくる。そこで、私は一心に祈った。
「くそッ、今やられてたまるかッ。酒乱とはいえ、やっと改心の決意で、立ち直ろうとしている時、お前らにやられてたまるかッ」と、一心不乱に唱え続け、気づいた時は、体は自由に動けるようになっていた。七日目には、食べたい気持が完全に消え、気分が爽やかになる。このことは、とりもなおさず、死に近づくことなのだが、八日目には断食をやめ、復食をして体調の整えにとりかかった。
断食を体験した後は、やることが、次々と浮かんでくる。今度は、三十三観音霊場巡りを、妻の掛け声によって始めることにした。その動機となったのは、その夏に一冊の本をいただいたことに端を発した。妻宛に届いたその本は、『現代観音経入門』という、仏教解説書である。ある死刑囚の、主任弁護士から送られてきたもので、先生自身の執筆によるものだった。
縁の凄さは、何気なく、偶然を横目で睨みつけながら、真実の流れとなってやってくる。
前年に、先生を訪ねたのは、妻なりに理由があってのことだった。その死刑囚から無実を訴える心が、幾度となく結ばれてくる。そして、「生きて、この地上を歩きたいッ」と、悲痛の叫びであった。「ハッ」と、思った妻は、その心いただきを持って、先生を訪ねていたのである。
私は、その本を読んで、言いしれぬ生命の尊厳と、人の心の霊妙さに吸い寄せられる思いであった。そのことが機縁となって、妻は、「お父さん、一人でなく、私もいっしょに回ります」と、いうことになり、車中泊での、三十三カ所巡りとなった。
酒と煙草の禁断症状が、この頃になって初めてやってきていた。それは、脳をえぐるような烈しさとなって、迫ってくる。観音経を唱えている側で、妻は、心の交わりを一心に文字に記している。ズウ、ズウ、スウー、スウーと文字を書く摩擦音。その、紙とペン先の音、そして、サッとめくる紙の音が、脳を掻きむしっていく。これらが、響いてくる一瞬、「ウルセィーッ」と、一喝するも、なにやら、すべてを知り尽しているかのように、妻には、反応がない。
こうした連続の中で、観音巡りも、無事終り、空はすっかり、冬の感じとなっていた。それもそうである。十一月のこと、山には、早くも初雪が降っている季節の中だった。
次は、妻の奨めで、羽黒山参拝七日間の勤めをすることになった。家にいるよりはどんなに心安らぐことかと心配してくれたのであった。朝靄の中、二千数百段、日本有数の石段を往復する本殿参りである。参道には、多くの神々が祀られているから、一カ所ずつ般若心経の読経を唱えながら登る。少なくとも三時間はかかる。なんとも言えない、静寂感に包まれ、自然の中に我が身を預けることが、こんなに安らぎの気持になることを、初めて体験することもできた。
現実世界の煩悩心は、どこかに吸い取られるようにして、我が身から離れていった。そして、酒乱だった日々を思い浮かべながら、ヒタヒタと石段を踏みしめていく今の自分。最後の日は、妻もいっしょに、二人で満願をかけることになった。こうした日々が続くと、外界から、すっかり遠のいてしまって、心の内界へと、一気に深まっていく日々が、こうして過ぎてゆく。
意識を変え、心を変え、汚れを洗い、生き方を改めようとする心が、日増しに、募ってくる。そして、その意欲の火も、ますます燃え上がるばかり、そして、酒浸りの心も、どうやら、そのエネルギーの方向を変えたかのようだった。
外はもう、冬の真盛りで、白銀世界となっている。今度は、ヨーガ行を徹底してみることにしたが、ヨーガ関係の本は結構多く、密教ヨーガから入ってみることにした。後々、『ヨーガ根本経典』を師として、苦行三昧へと没入することになるのだが。
ヨーガは、女性の美容体操くらい、としか認識がなかったが、いざ入ってみると、その深さに圧倒された。本を師として、未知の世界を、手探りで求める毎日、そして、それを黙って見守る妻。
身心を整えて、自分の内面深い、生命の光を引き出そうとする修行であった。これで一体、自己というものが変革できるのだろうか、また、そこには、直伝をしてくれる師匠がいるでもない。やっていることが正しいのかどうか、その方向が、全くわからぬ、暗中模索の時が経つ。なぜ、こんなことをしなくてはならんのか、と、いつも挫折心が私を狙っている。なんの答えもないままに、荒行まがいの行が続いた六年間、妻は、行については、口出しこそしないものの、その心のうちをば、鋭く見抜いていてくれた。
当初、七四キロもあった体重が、あまりの激しい運動で、五カ月で二〇キロも削り落ち、五四キロのガラガラの体になっていた。早朝は、神社の境内で、吹雪の凍結の日も、見境いもなく続けていた。心の奥で、ゴロ巻く悪性因縁に振り回されるのは一切ご免だッ。とにかく、新しい心の倉を積みたい一心である。そして、熾烈な呼吸法のために、何度となく失神を起こし、脳震盪を起こしては、ブッ倒れた。コンクリートや石に当たって、頭からは血が吹き出す始末だ。さらに、エスカレートした挙句の果ては、顔面の血管も、頭部の血管も破れることがあった。ついには、付近の人々から、境内に、凄い人がいるという評判も立ち始めていた。
ここまでくると、世間態など、全く眼中にはなく、狂気となって、自分自身の戦いの終りも知らなかった。体はガタガタの減量で、いっそのこと、肉体なしの自分、生命だけの自分になったら、どれほど楽であるかとも思った。
一日に、瞑想の仕上げまでこなすと、八、九時間はザラである。
こうした中で、つくづく感謝の込み上げてくる日も多かった。それは、自己改革に専念できるのも、妻の愛情があるからできるということで、そして、正面きって頭を下げることのない虚飾のプライドに、神が、よくぞ眼をつむっていてくれたと、今は感謝でいっぱいなのである。
ここまでくると、自己意識というものは、極度に薄れてきている。もちろん、現世的思考も、どこかへ消え失せてしまっている。
こうした中で、次々と本を買い求めては、真実を求め続け、一方で、肉体行は、一日も休むことなく続いている。ところが、疲労が限界を越していたある日のこと、松林において、七羽のカラスに攻撃された。
カラスが人間に襲いかかることは、何かで知ってはいたものの、自分がまさか、このカラス軍団の標的になるとは、夢のまた夢の出来事であった。私のその頃の体は、本当にガタガタで、フワフワ浮く風船と、同じ状態になっていた。足の裏が、時々、大地に触れたかなッ、と思うような感じだった。
こんな体調の続いていたある日のこと、神社の境内にいたカラスが異常に騒ぎ出した。「ガァオウー、ガァオウー……」と。そうしたら、カラスが一羽、二羽と集まってきた。「賑やかだなー」と、ポツリ、そんな程度に思いながら、静かに歩いていた時のことである。
アカシヤの木々に、集まってきていたカラスたちに、見たことのない現象が起き出した。時代劇で見た、あの『木枯し紋次郎』の、ツマ楊枝の姿を思い浮かべてもらいたい。カラスがアカシヤの小枝をくわえて、「グウッ、グウッ……」と、揺すったと思ったら、スポッと切り取った。
「ウッ……」と、見上げた私に向かって、「プウッ」と、ばかりに吹き飛ばしてきた。
「これは面白いッ」と、思って、一瞬見とれた時、まさか自分に飛びかかってこようなんて、想像もできなかった。次の瞬間、その、まさかがやってきた。
七羽のカラスが交互にU字を描いて、頭上すれすれを旋回するではないか。攻撃に気づいたのは、その時だった。全身が総毛立ちになった。冷気が、足の先から体を貫き、頭上に抜けた。「これは殺られるぞッ」と、思った瞬間、ハッと我にかえり、気をとりもどして「だまれッ、こ奴めッー、殺られるものかッ」と、対決すると、それを知ってか、カラスらは一羽、また一羽と、次々、高い松の木へと移っていった。
その時、私はこんな思いを持った。俺の弱った体からは、幽体なる死臭に似た、一種の炎が見えたに違いない。幽体が、ポッ、ポッと離れようとしているに違いない。完全に離れたなら、私は死んでしまう。カラスは餌になると思って、たまらなく興奮したのだろう。人間のような悪意など考えられない。動物の生きる上での、本能的能力なのだと、思った。
「そうだッ、カラスの鳴き声で、誰かの死を察知する話は、本当なんだ」と思った。カラスの本能は瓦屋根を突き破り、コンクリートの壁を貫き、幽体をも見ることのできる透視力だと思った。カラスの霊感の凄さを見せつけられた一場面である。
カラス七羽に襲われることになった、ガタガタの心身となりながら、「このオレを分解するんだッ。私の体を分解して、粉々にするのだッ、そして、初めから組み立てをしなくちゃッ、生まれてきた意味がないッ」と、カラスの攻撃が、よい教えとなった。
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