生命現象の根源

体と心の相関性

響きあう「こころ」

§不調和性と葛藤

 

(前略)ここではっきりしていることは、子孫の誰かが、この先祖ぐるみの悪習慣を断ち切らなくてはならない。命がけで、生命に恥じない人間性を取り戻さなくてはいけないのである。

 そのためにも、単に人間的自我というくらいでは到底太刀打ちができない。自然界の愛が窓口にならなくては、汚れ切って、軟弱化した人間の心を、浄めることはできないだろう。

 人間発生前の、生命の愛に戻って、我々を、「生かして、生かして、生かし続ける愛の力」を借りなければ、人間は改心できない。

(中略)

 妻がよく言う言葉に、

「人間以前の食物たちの生命(心)に戻らないと、人は成仏できない。人霊の活躍は、まだ自我がある。人間以前の生命の愛がないと成仏できない」

と、いうことがある。(p.110〜111)

 

『酒乱』の表紙画像以上の一節は、『酒乱 米の生命(いのち)が生きるまで』(菅原茂著、MBC21)という本からの抜粋です。かつて父子二代にわたり家族を巻き込んで酒乱を開花させてしまった男性が、苦悩の末ついには男女の愛を超越した妻の深い生命愛に守られながら、やがてじぶんのいのちに目覚め、夫婦で新たな生き方を再出発させるまでの道のりを1冊の本に記しています。

 

時として、じぶん自身の人生や人間関係に不調和をもたらすこともある心。概してとても根深く、それに打ち克ち、改心するのは容易なことではありません。それでも、望ましくないと感じることができるからこそ、葛藤したり苦悩したりするわけで、本人に自覚がなければ、相反する心のジレンマに苦しむことすらないのだろうとおもいます。

 

これは、性格がそうさせるのでしょうか。それとも道徳的な行動規準をもっているかどうかの問題でしょうか。いずれにしても、がんじがらめに自分の気持ちを縛ったり押し殺したりしたところで、根本的な解決にはなりません。かといって、欲望や感情をむき出しにした生き方にも問題があります。

 

 

『酒乱 米の生命が生きるまで』
「酒乱の因縁と闘う自己解体」より
抜粋はここから「意識を改めるということは、容易のことではない。この体ひとつにも、何千年、何万年の歴史が刻み込まれているのだから、油断をしたら、なにが飛び出してくるかわからない。良いものばかりが、どんどん出てくれたら、そりゃ優等生になる。だが、私みたいに、具合の悪い、毒性ばかり出てくると、一生がメチャメチャの波乱となる。」抜粋はここまで

 

 

§心の受動性

普段、じぶんの心だと思っている「心」。じつは、じぶん自身の願望や意志の方向性・質・波長と重なる霊的なエネルギーが、心の世界において、発信したり共鳴したり増幅したりしている、それが心の実相であることを、共時性現象は暗示しています。心は、その人の内的な性質に共鳴してあつまる霊的磁場であり、あらゆる生命の「思い」が混在する生死一体の世界である、ということです。その心的かつ物的な状況証拠が、共時性現象(=シンクロニシティ)だと言えます。

 

心には、みずから何かを認識しようとする能動的な性質だけではなく、心の発生次元のように制御できない受動的な性質があります。無意識的に思い浮かぶことがら(=心の発生)は、霊魂との縁とも関係があるようなのです。それゆえ、心を改めるというのは、心の世界における霊的な縁が変わらなくてはならないので、そう簡単にできることではありません。

 

とはいえ、自分の心の習性や癖と向きあい、そこから抜け出そうという意思と行動を持続し、新しい心の習慣を身につけることこそが、心を改めるうえで重要であることにかわりはありません。ただ、この文章の冒頭でも述べましたが、これは人間にとってほんとうに根が深い問題です。

 

もちろん、望ましくないことばかりではなく、先人の魂、亡きいのちが、道あかりを灯すように応援してくれていることを、共時性現象は気づかせてくれます。国籍や立場、血縁関係などを超える意識エネルギーは、まさしく愛情です。心にはそういう奥深く神秘的な一面があります。

 

 

『酒乱 米の生命が生きるまで』
「生命の樹」より
ここから書籍『酒乱こめのいのちが生きるまで』の抜粋。「だから、自分という一個の生命体の中には、まぎれもなく、何億万年のいのちの歴史が刻み込まれていることになる。それぞれの遺伝子の中には、生命博物館のようなものではないか、と思われる。私は、自分の意識改革を実行する中で、この生命の流れに、本当に感心した。全人類を一本のいのちの樹と見て、そこに花を咲かせている梢の先々が、我々、現世の人間の姿と見たのである。私が、狂った果実となったことは、心という生命の養分が、祖先のどこかで、誰かが狂わしてしまったのだと思う。だから、私の身体に黒い花を咲かせ、黒い果実を実らせた。この生命の、心という養分を変えない限り、いつまでも、どこまでも、子孫の花が狂うのである。どこかで、誰かが、心の養分を自然体に戻してやらなければ、子孫のみんなに、迷惑をかけることになる。代々引き継がれた心の歴史(潜在層)は、次第に、ひとつの生命体として、独り歩きをし、それが、現在の自分を操作支配する力となる。そして、今の心の習慣が、積もり積もって、自分を、さらに、子孫を支配する心の生命に育つ。自分の過去の心、祖先累々の心が、びっくり箱のように、現在の自分の前に躍り出てくるという仕掛けであると思う。こう考えてくると、勝手気まま、好き放題に、不調和な心を発散し続けてはならない。日頃の心の習慣が、ルーズになってくると、自己管理が不可能となって、人霊世界の思うままにされてしまうのだ。だから、酒を一杯飲むと、過去前世の悪心、亡者、括弧、今はなき者、括弧閉じ、が小躍りしてやってくる。心の世界には、時間、空間はなく、一面的、一本直通だから、一瞬にして現れる。こうして、いのちの樹を伝って、全方向から、飲み足りない亡者の援軍が集結することになる。もうこうなったら、現世の自分は、ブレーキなしの車が、下り坂を走るようなものだ。ある日、妻が、こんなことを言った。「お父さんが、少し飲みだすと、この世で飲み足りなかった人たちが、いっぱい集まってきます。」以上、抜粋はここまで

本の詳細情報は下記

 

 

 

『神秘の大樹Ⅲ文字・数・色で証す新次元』「吉田茂の本と私」の一部

ここから書籍『神秘の大樹 第三巻 文字・かず・色であかす新次元』からの抜粋。「日頃から、心の積み重ねが、いのちの中にどんどん入っていく。その心の集合体が魂であると私は考えているから、どんな魂がどんな勢力圏を張り合っているのか、自分のいのちの世界に関心をもっている。心が成長し、自分のいのちの中にそれぞれの色合いを持った心の集団をつくり上げてきた魂は、それをたぐっていけば、先祖がどうのこうのというよりも、人類全体を、さらにさかのぼれば、とてつもなく深く広い心性世界までつながっている。だから、人類は皆いのちの親子であるともいえる。極言するなら、人類の魂(心性)の岩盤は一つなのであり、一人ひとりの魂にもその岩盤が共存して共有している世界だと私は思っている。人類皆いのちの親子であり、心の親子であるともいえる。そのことはとりも直さず、自分が暗い心やよくない心になればそれは自分だけの問題ではなくなり、他の人にもそのくらい心や、よくない心が、いのちの霊脈を通って知らず知らずに流れていくということになる。一人でも多くの人たちが、明るく良い心で生きていられたらと思う。昨今の人類世界は現実に暗い面の映りが強く、戦々恐々としているのが辛く私に伝わってくる。単独一体のいのちはなし、みんな繋がっているいのち、順々繋がっているいのち、世界はいのちで一体、魂はどこかに必ず繋がっている、共振共鳴で響き合う魂、霊脈を呼び起こせ!良い霊脈を呼び起こせ!」以上、抜粋はここまで。

本の詳細情報は下記

 

 

§体の自律性

私たちは、基本的な生命活動をすべて、体の精緻な働きに依存しています。体内の微視的領域はだれも立ち入ることができない、いわば「聖域」。たとえば「食は大事だ」という思想は一見単純ですが、自分の意思で選んで口にした食物は、いったん飲みこむと、あとは体にゆだねるしかありません。これが真実です。

 

食物のおかげはもちろんですが、体のおかげも相当なものです。食べ物は、消化吸収から排泄までのすべてが、まるで「自動的」であるかのように処理されています。体内は遺伝子に組み込まれた規則性に従って動き続けているようにもおもえます。そのいっぽうで、体内でおきている化学反応や物理現象の実際は、諸条件に沿って機械的に起きているというよりは、「自律的」におこなわれているようにも見え、とても神秘的です。

 

ところで、人間はなぜ食物を食べるのでしょうか。おそらく答えは空腹や食欲を満たすため。では、なぜ食べなければ生きられないように、いのちはできているのでしょう。まるで、何を食べるかという選択の自由を与えられ、意思を試されているかのようです。というのも、基本的に、体質は先天性のものですが、その現れとしての健康状態は決して固定的ではなく流動的で、実際に日々の食生活が健康状態を左右します。ゆっくりと年月をかけて、しかし、まちがいなく変化します。しかも、私たちの体は常に変化し続けているため、特に病んではいなくても、その改善や向上にこれでよいという終わりもありません。

 

体は、まず前提として食物の力を借りるしかありませんし、それが最も自然な姿です。にもかかわらず、私たちは体内における食物の行方が見えないため、食に対して適当になりがちです。じぶんの生命全体に関わる問題として深く考えず、自律的ないのちの営みに任せっぱなし。体のなかでどのようなことがおきているかを意識することは、ほとんどありません。じぶんの体の見えざる真実へのまなざしと気づきは、心身を調和・統合できるかどうかと密接に関わるとても重要な課題だと感じます。

 

 

『神秘の大樹Ⅰ偶然が消える時』
「天地普遍の縁エネルギー」より

ここから書籍『神秘の大樹 第一巻 偶然が消える時』の抜粋。「まず、生きる原点を覗いたとすれば「食と呼吸」に行き着く。食が生命に転換する次元、口から入った食物が胃で燃やされて、小腸で吸収され血となり肉となる生命転換次元に、縁エネルギーの結びの神がおられるようだと考えてみた。そこは思えば思うほど、自分ではどうにもこうにも手のかけようもない不可侵の聖域なのだ。そこを生命のゼロ磁場の世界と私は考えた。いのちの単位には、一体の生命体にしても、それを構成する細胞一つにしても、原子(元素)一つにしても、必ずやゼロの磁場があると思っている。この命のゼロ磁場こそ万物普遍の情報をキャッチできる次元で、人知ではコントロールできない次元ではないのか。」抜粋はここまで

本の詳細情報は下記

 

 

§体と心の相関性

体質が変われば、それにともなって自然に心の質が一変するかといえば、そういう機械的な関係ではありません。そもそも体質は気質と同じく先天的特徴だとすると、それが変わること(変質や転換)がありうるのかという疑問は若干あります。たとえば、食生活を一変させた結果、体質転換を想像させる体の大きな変化を経験する場合です。それは、体質の現れである健康状態の改善であり、体質転換ではないという見方もできるのではないかと、みずからの経験を振り返って感じています。

 

では、食習慣を変えることで起きる健康状態の向上や改善は、心に影響すると言えるでしょうか。これに対しては、体質改善が心に変化をもたらすというより、意識の改善なくして体質の改善はないと感じます。何をどう食べるかは、食物と体とに対する認識の仕方や態度の問題と切り離せないので、それに応じて、健康状態の向上や、体質転換の可能性が開けるという見方が適当ではないかとおもいます。

 

心のもち方ひとつで体の反応は変わるというのも、経験的に多くの人が実感していることです。これは、いま述べた点と共通していますが、それを理由に、食は大した問題ではないと考えるのは問題があります。人間が心と体とを与えられている意味を考えると、適切な食物を選んで食べてさえいれば心も健全になる、という考え方が偏見であるように、心のありようさえ注意すれば体の健康も保てる、という思想は偏った精神論です。

 

体も心も「いのち」という本質の投影だとすれば、その全体性とのかかわりにおいて、心の深層への流れ(霊的な縁=心の発生)には変化が起こりうると考えます。つまり、体との関連なしに心の根元的変化はなく、心との関連なくして体の根元的変化はないということです。心は体のなかにある、または、基本的に心は体とともに在るわけですから、生命の深層において両者に相関性がないという見方には、無理があるとおもいます。ただし、人間の「いのち」は食なしには成立しないので、人間が単に「もの」ではないように、食物も「いのち」であって「もの」ではないという視点が欠けると、心と体と食、おたがいが機械的な相関関係にしか見えなくなる点には注意が必要だとおもいます。

 

 

『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』
「第一章 心のつる草」より
抜粋はここから。心のつる草は光です。なぜ光なのかといえば、心は、生命組成である原子の反応から発する電磁波と考えるからです。心は、いのちという光の下でしか生きられない宿命を背負っています。それゆえにいのちは、一元一体二象体という現れ方をします。いのちは、元は一体のエネルギー体であって、その中では、物質体と精神体という二大特性を持つエネルギーが融合一体となって、動となり静となり、火となり水となり、中心には絶対静のゼロ磁場があると思うのです。その一体の中に二象体のエネルギーを容しているのが、私の考えるいのちの実体像なのです。その〝二象体〟は、物質体(物性=肉体)と、精神体(心性=心)という現れ方であり、その〝精神体〟の部分から発する二次的生命に当たるのが心であると考えています。いのちのエネルギーは、そのような実体像を持つ、宇宙絶対調和力(一大調和ご意志)であると思えば、心というのは常に、生命エネルギーの調和安定に引き戻される宿命の下でしか存在できないということになります。以上、抜粋はここまで。

本の詳細情報は下記

 

 

§天地自然の調和性と人間

人間は、さまざまな感情や欲望によって、心の調和が乱れたり、不安定になったりすることが多いものです。この心の性質は、人類の知性が発達しているからこその宿命と言えるかもしれません。

 

『いのちの証し』の表紙画像以下に挙げるいくつかの文は、すべて『死んでも生きているいのちの証し』(菅原茂著、たま出版)からの抜粋です。

 

動物は大地から分離して生きているから植物のような訳には到らず、ましてや、知性の高い人間は、生命情報感ではキリ(低)に属することになる。おのずから五感で感ずる外的心の情報にたよりがちとなり、(後略)(p.254)

 

生命界の情報量において、動物界は、植物には到底及ぶものではないと思うし、ましてや知性を最大の武器とする人間は、自然界の生命エネルギー情報キャッチにおいて極めて退化傾向にあるのではないか。そのことは、自然力、自然智という感覚から次第に遠のくことを意味する。(p.47) 

 

いっぽう植物は、

 

大地に根を下し、地球生命の体温の中で親の心(地球の心性波動)をしっかり受け取り、自然のリズムにそって共に生きる。(p.254)

 

また、地上では、枝や葉や幹によって宇宙生命の情報を微細にわたってキャッチしている唯一の生物であろう。(中略)いのちの最前線といえばこの植物達である…(後略)(p.47)

 

 

発芽して幼い早苗へと成長し始めている米の種籾。写真の出典は書籍『酒乱こめのいのちが生きるまで』

根をだし茎葉をのばす米

 

知性の発達とともに「自然智」から遠ざかる傾向が強い人類は、自然界の食物を食べることで、いのちを調和の方向へと絶えず修正する必要があるのです。食の目的として、「満足感や満腹感を得ること」「栄養の補給」「体内浄化」など、ひとそれぞれに挙げられるとおもいますが、毎日食べ物を摂取する重要な意義は、いのちの自己調和にあると言ってさしつかえありません。

 

では、その「天地自然の普遍力」を何から得るかが問題になるわけですが、「“食性”によって生命情報は、ピンからキリまであり、例えば、菜食系の人、穀菜食系の人、肉食系の人では、その普遍力に満ちた生命情報に大きな差が生ずる」(p.254)と同著書において著者は述べています。

 

食物の中でその生命情報力の高いものとしてはやはり五穀であろう。その中心をなす“米”が人間食の究極となろう。稲は、水性植物といえるほど水を好み、根も深く、半年間もじっくりと天地の生命力を吸収し、蓄えを実らせてくれる。 (中略)一粒の米には、天地自然の普遍力が宿っている。(p.254〜255)

 

玄米一粒。写真の出典は書籍『神秘の大樹 第二巻 ヒロシマとつる姫』

ひとつぶの米

 

もちろん、望ましい食生活をしていれば、万事安心というわけではありません。前に述べたように、いのちは物質的であると同時に霊的なものでもあるからです。じぶんの心の習性や癖を直視し、それを正す自覚、強い意思をもたないかぎり、いつまでたっても心の中で、相反するエネルギーや波長のギャップに葛藤し続けなければならないと言っていいとおもいます。

 

それならば、結局食物の力ではなく、強い意思の力がすべてではないかと思うかもしれませんが、どうもそうではないようなのです。わたし自身ずっと実感したいとおもい続けてきたことなのですが、こめ中心の「穀菜食」にしたからといって、それだけで心が穏やかに安定するわけではありません。意思の強さはとてつもなく重要です。しかし、毎日の食がじぶんのいのち全体の方向性や質と無関係ではないことも、疑う余地がない事実です。

 

食物の調和エネルギーとは、意識下にある、いわば表層の心を、部分的・表面的に調和・安定させる力ではなく、無意識次元からいのち全体を、自然界と同じ調和性へと導く根源的な力です。このため、本質的・根本的な調和へと向かう過程で、体も心も「一種の“苦”」をともないます。

 

いのちの調和作用”によって起る現象を、“調和現象”と考えている。調和現象の特徴は、その、いのちの中心に引き戻される時発生する一種の“苦”がある。それは、ゼロ志向のため起るものと考えている。これに対し、共振共鳴の共時現象は、相似融合作用であるから、それは、エネルギーの増幅志向にあるため、一種の“快”を発生させることになる。(p.225)

 

休耕田だろうか。湿った稲の切り株とすぐそばの水たまり。落ちた籾から自然に発芽した早苗。それをじっと観ているようにも見えるアマガエルがいる。写真の出典は書籍『いのちのふる里』

 

 

§響きあう「いのち」

人のいのちは物質体であると同時に意識体でもあります。この本質的性格は、生き物としての種類や姿かたちはちがっても、「食物」として口にしている「いのち」もまた、物質一辺倒の存在ではないことを示唆しているとおもいます。また、魂という意味での「心」は、肉体的な生死を超越していることを、共時性現象が暗示しています。体は、心が作用するとはいえ、それを超える意思のような自律性をもっています。体を機械のように考えるのはまちがいではないでしょうか。

 

食も心も体も、人がつくる「もの」ではなく、根本的には天地自然がつくる「いのち」の現れです。出現する根源の世界は同一、全一であると想像できます。以上のような理由から、心と体の関係や、人と食物の関係は、機械的な作用や反応とはちがって、おたがいの「意思」疎通のようなものがあると想像します。

 

私たちは、人間中心の目線で、食物を見てしまいがちです。仮に、健康的な食物をじぶんの意思で選択する食生活をしていたとしても、健康を手に入れるための「もの」でしかないとか、欲求充足のためにむさぼるような食べ方をしているとか、そういう心根では自己調和できるはずがないことに気づかされます。じぶんの体と食物への敬意と慎みよりもたいせつなものはないにちがいありません。

 

 

創作シナリオを織り交ぜ、生命の根元領域を語る『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』より

ここから書籍『神秘の大樹第二巻ヒロシマとつる姫』の抜粋。「米は人間の主食です。生きるためのいのちの機関車です。田之助は酒好きが高じて乱れとなり、いろは姫との葛藤が長い間続きましたが、ようやく生きることの原点に気づくことができて、いのちの真実を求めることになったのです。片やいろは姫は、田之助を鉄の一心で守り続ける中で、いのちの真実に気づきました。口から入った食物たちは、いのちの光に身を任せ、やがて原子の光に立ち返って、新たないのちの光へと生き変わります。そして、働き終えた食物たちは、外界へと帰っていきます。その一人ひとりのいのちの中で命が新たないのちを育て上げるまでの運びには、いかなる人知も、いかなる自我も立ち入ることができません。立入厳禁の〝聖域〟なのです。この聖域の旗印が、帆に書かれている〝食心の目は共時の目〟という世界なのです。ユングと天明には、新たな驚きとひらめきが交差していました。そして口を開いたのはユングです。ユング「つる姫様ありがとう。単純明快にいのちの中心には食がありました。毎日の食べ物がいのちとなる次元こそ共時性発生の次元でした。ここにこそ心と物質が融合一体となり、生命発生の謎がありました。食って生きる、こんな単純なところに、山ほどの理論を積み上げたことから解放されたような気分です。ありがとう」と、ユングの目は輝いています。そこに天明も続いて、天明「つる姫様ありがとう。神示の一点が解けてまいりました。食が新たないのちとなる次元、いのちの中心、ゼロ一点の次元がイチリンの仕組みでありました。ここにこそ鉄の一心、食心の世界、共時の世界を見ることができました。扉開きはゼロの目、食の目、共時の目を開くことでした。いのちの真実に目覚めることこそ岩戸開き、そして心の扉開きでありました。」抜粋はここまで

本の詳細は「出典・参考図書」

 

 

さいごに、この文章全体の冒頭に記した『酒乱』からの抜粋文ですが、とくに印象的な部分(下線部)があります。かつて酒乱地獄を経験した夫妻の言葉です。 

 

(略)ここではっきりしていることは、子孫の誰かが、この先祖ぐるみの悪習慣を断ち切らなくてはならない。命がけで、生命に恥じない人間性を取り戻さなくてはいけないのである。 そのためにも、単に人間的自我というくらいでは到底太刀打ちができない。自然界の愛が窓口にならなくては、汚れ切って、軟弱化した人間の心を、浄めることはできないだろう。 人間発生前の、生命の愛に戻って、我々を、「生かして、生かして、生かし続ける愛の力」を借りなければ、人間は改心できない。(略) 妻がよく言う言葉に、「人間以前の食物たちの生命(心)に戻らないと、人は成仏できない。人霊の活躍は、まだ自我がある。人間以前の生命の愛がないと成仏できない」と、いうことがある。(略) まず、心の突破口は、食物たちや、自然界の生かし続ける生命の愛を、自分の心で、ガッチリと感じられるようになれば、不調和な人生から、目覚めることが早まると思う。概念としての知識だけでは、むしろ、混乱が生ずるから注意しなければならない。 こういう、生命の原点に、真心から感謝できる心(愛)が目覚めたなら、自らを救うことが必ずできる。

 

(『酒乱 米の生命が生きるまで』「守護の窓口となった妻と自然律(悪は、この世の仮りの姿)」p.110 〜より抜粋)

 

「成仏」とは、心の中の霊のことであるとともに、いずれは肉体を脱ぐじぶん自身のことだと私は感じています。私たちの生命は生と死とで、ひとつです。自然界に還っていく、すなわち天地自然の調和性と同化するために食物の生命愛が欠かせないというのは、本当のことだとおもいます。人間の根深い心の問題は、体を含めた「いのち全体」から生じる問題であるがゆえに、精神論では解決しないのです。

 

そもそも、人間は心(気もち)を最優先して体を置き去りにする傾向がないでしょうか。心が苦しいときほど、それは顕著になるはずです。この世にることは体とともにること。この事実をしっかりと受けとめたいとおもいます。

 

 

以下の資料には同じ内容の代替資料があります。実行するとその資料に移動します。

『酒乱 米の生命が生きるまで』「守護の窓口となった妻と自然律」より(10頁)

資料はここから。「このエイエイと続いた悪習慣は、自分の過去だけのものなのか、あるいは、両親の代からのものなのか、さらに、それよりも、もっともっと先の時代にまで遡るのかは、人それぞれに異なっている。ただ、ここではっきりしていることは、子孫の誰かが、この先祖ぐるみの悪習慣を断ち切らなくてはならない。命がけで、生命に恥じない人間性を取り戻さなくてはいけないのである。そのためにも、単に人間的自我というくらいでは到底太刀打ちができない。自然界の愛が窓口にならなくては、汚れ切って、軟弱化した人間の心を、きよめることはできないだろう。人間発生前の、生命の愛に戻って、我々を、「生かして、生かして、生かし続ける愛の力」 を借りなければ、人間は改心できない。すべての宗教を超えて、生命の愛に目覚めなくては、心の汚れはきよめられない。私に潜んだ、酒乱で汚れ切った心は、妻の真心の一念で、生命の愛に目覚めさせてくれたのだった。こめと酒の生命が、妻の生命の光を通して、私の心の中で生き返ったのである。このことは、とても理解に苦しむこと、あるいは、低俗なことだと言われるかもしれない。だが、今、本当に、自分が迷っている時、そこから目覚めるためには、高尚な精神論や、宗教論で救われることができるだろうか。少なくとも、酒乱の人生から自分を目覚めさせてくれたものは、ただの主婦である妻の守りのお蔭だった。一念の真心(愛)は、人間的自我(煩悩的自我)を超えた愛の心となり、私の汚れた心をきよめてくれた。この妻の愛は、あまりに当たり前過ぎて、かえって説明に苦しむところだが、それは、人間的、都合的、犠牲的な愛ではない。また、男女の愛、親子の愛とも違う。それでは、どういう愛なのか。一口で言うなら、生かし続ける沈黙の愛だと、言える。また、宇宙心霊(生命界の心)が、妻の生命にがっちりと生きたのだと思われる。妻が、よく言う言葉に、「人間以前の食物たちの生命(心)に戻らないと、人は成仏できない。人霊の活躍は、まだ自我がある。人間以前の生命の愛がないと成仏できない」 と、いうことがある。このことを知るためには、まず、毎日の食事に心を向けるがよい。食べることによって、生きることができるのは、当たり前のことだ。もの言わぬ米を食べ、そして、野菜、魚、その他一切の食物を食べて、こうして、自分の心が生まれ、声が生まれ、言葉が生まれ、走り回り、今日を生きる人間。この、生かす力(愛)しかない食物たちと、融合一体となって、その尊い声なき心を受けることができる。酒乱の夫と過ごす尊い人生、三十三年の中で、人間を諭し続ける生命界の心と、通じ、結ばれ、生きた。そこには、いかなる理論の余地もない。そこにあるものは、丸裸の透き通った光だけの生命しかない。そして、黙する生命の光の受け皿となった妻。しいて言うなら、沈黙の心々の世界から見たなら、灯台の光のような妻を見ているようなものであった。だから、こめの生命は、妻の生命の光を見て、心を寄せる。酒の生命も寄ってくる。酒の心は、妻を通して叫ぶ。 「喜び、安らぎで飲むんだよ。浄まりの生命だよ。神に捧げる生命だよ。汚すのは、人の心だぞ」また、こめの心は言うだろう。「米寿の祝いとなる生命だよ。八十八(88)の数にも、生きられる生命だよ。磨き抜いて、御神酒にもなる生命だよ。生命を汚してはならないよ……。」と、人の体の中から叫んでいるだろうし、こめ、酒、食物一切、また、自然界の心々、そして、人霊の心々たちも、人の世のために、代弁してくれる妻の生命に寄ってくる。声となって、文字に生きて、かずに生きて、色に生きて、寄ってくる。そして、見えざる生命の世界の心々を、人々に伝えていただく喜びが、こちらにも感じられる。天地の生命の愛で生かされる人間界は、必ず、一人一人の生命の中から、目覚めさせられるであろう。そして、妻の守りは、沈黙世界の、見えざる、生かし続ける愛、その愛そのものの守り姿であった。だから、こめの生命も、酒の生命も、私の生命の中で、力強く生きた。まず、心の突破口は、食物たちや、自然界の生かし続ける生命の愛を、自分の心で、ガッチリと感じられるようになれば、不調和な人生から、目覚めることが早まると思う。概念としての知識だけでは、むしろ、混乱が生ずるから注意しなければならない。こういう、生命の原点に、真心から感謝できる心(愛)が目覚めたなら、自らを救うことが必ずできる。不調和な心(悪性)は、目覚めなき迷いの心だから、悪はこの世の仮の姿だと言える。 「妻を介する神ちから。今ぞ晴れての人の道。断って立ちゆ酒の道。いのちの原点目覚めゆく。」以上、資料はここまで。

本の詳細は下記「出典・参考図書」

 

 

関連ページ

共時性の真価

(生命の真実)

因果性とは何か

(共時性と因果性)

出典・参考図書

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書籍『酒乱こめのいのちが生きるまで』の詳細・閲覧ページにリンクしています

酒乱
米の生命が生きるまで

菅原茂/MBC21/1993年

本の総合情報

 

「いのちとは」「心とは」という文字通りの “命題” について、 体験を通じた非常に強いメッセージを発している。 後年、この著者は『死んでも生きている いのちの証し』『神秘の大樹』を出版しているが、 第一作である本書を読むと、 なぜこの著者が、共時性を切り口にして「いのち」を語るのか、 腑に落ちる。

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書籍『死んでも生きているいのちのあかし』の詳細・閲覧ページにリンクしています

死んでも生きている
いのちの証し

菅原茂/たま出版/1997年

本の総合情報

 

共時性現象の体験記録をもとに、生命の本質は不滅だと伝えている。 酒乱人生から夫婦二人三脚で新たな人生を再出発させた著者。自らの足元を照らすかのような共時性現象の記録を随想としてまとめている。また、本の表紙を飾る稲穂はこの著書の本質を象徴している。

 

 


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書籍『神秘の大樹 第二巻 ヒロシマとつる姫』の詳細・閲覧ページにリンクしています

神秘の大樹 Ⅱ
ヒロシマとつる姫

菅原茂/おりづる書房/2011年

本の総合情報

 

平成5年8月6日の広島平和公園で出合った一羽の折鶴は、「倉敷市玉島」と印刷された広告で折られていた。その地名は「日月神示」で知られる岡本天明氏の出生地。縁結びのしくみを、「心のつる草」など比喩を用いた物語を織り交ぜて表現している。

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書籍『神秘の大樹 第一巻 偶然が消える時』の詳細・閲覧ページにリンクしています

神秘の大樹 Ⅰ
偶然が消える時

菅原茂/おりづる書房/2011年

本の総合情報

 

いまを生きている自分(あなた)自身の存在こそ、肉体をまとい、服を身につけている霊魂そのものだという。 霊魂というと、わが身の外に存在し、わが身の外で起きる「現象」と考えがちだが、そもそもそれは、私たちのからだやこころに内在し、わが身の中で起きていることがらなのである。

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フォトエッセイ『いのちのふる里』の詳細・閲覧ページにリンクしています

いのちのふる里

菅原茂/おりづる書房/2008年

本の総合情報

 

便利な生活を享受するために、工業を中心にしてひた走ってきた日本社会。そのいっぽうで、むかしもいまも、ずっと変わらずいのちの原点でありつづける食のふる里。個人の生き方として、また社会の健全な姿としてのバランスを、どうやって回復したらよいのか。食と農と生命に実感がもてぬ現代の私達。時代や社会を経ても生きる原点は変わらないはず。私達の体と心は原点に帰れるのか。

 

 

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書籍『神秘の大樹 第三巻 文字・かず・色であかす新次元』の詳細・閲覧ページにリンクして

神秘の大樹だいじゅ
文字・数・色で証す新次元

菅原茂/おりづる書房/2012年

本の総合情報

 

文字・数・色は人間の意思だけではなく、生死の境やほかの生物などと境なく、いわゆる「霊」や「魂」の意志性を代弁している。 共時性現象(=偶然の一致)は、それを認識させてくれると同時に、一人ひとりに対するあたたかい道案内の現象だと伝えている。

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ひふみ神示(上巻)

岡本天明著/コスモ・テン・

パブリケーション/1994年

岡本天明氏の「自動書記」による著書。文中には、この神示そのものについて、人としての「道」を示したものであり、特定の宗教として広めてはならないという主旨のことが書いてある。長編であり、難解な箇所もある。諸説あるが、「アレの巻」の冒頭に書かれたごく短い二文が最も重要な部分だとも言われている。




共時性とは何か

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時空や生死を超え、人種や生物種も超えて、いのちには境界がない証し

 

因果性とは何か

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「因果性」の実際は、それほど単純ではなく、もっと複雑。科学的な「法則」は、限定的な条件のもとでのみ有効だ。

 

偶然にひそむ因果

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因果性がないというより、今の科学の尺度では説明できない、と言うべきではないのか。

 


共時性の真価

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平成5年8月6日、広島平和公園で偶然発見された一羽の折鶴。共時性の真の価値は、生命現象そのものではなく、それが生命の真実を示していることだ。

 

参考図書

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スピリチュアリティ(共時性・生命世界・心霊・自己改革)、自然、物理学、心理学