生命現象の根源

体と心の相関性

人間は「複合霊体」
自己調和の要は体

【第一の視点】

不調和性と葛藤‐問題の本質

(省略)ここではっきりしていることは、子孫の誰かが、この先祖ぐるみの悪習慣を断ち切らなくてはならない。命がけで、生命に恥じない人間性を取り戻さなくてはいけないのである。

 そのためにも、単に人間的自我というくらいでは到底太刀打ちができない。自然界の愛が窓口にならなくては、汚れ切って、軟弱化した人間の心を、浄めることはできないだろう。

 人間発生前の、生命の愛に戻って、我々を、「生かして、生かして、生かし続ける愛の力」を借りなければ、人間は改心できない。

(省略)

 妻がよく言う言葉に、

「人間以前の食物たちの生命(心)に戻らないと、人は成仏できない。人霊の活躍は、まだ自我がある。人間以前の生命の愛がないと成仏できない」

と、いうことがある。

(省略)

心の突破口は、食物たちや、自然界の生かし続ける生命の愛を、自分の心で、ガッチリと感じられるようになれば、不調和な人生から、目覚めることが早まると思う。概念としての知識だけでは、むしろ、混乱が生ずるから注意しなければならない。

 こういう、生命の原点に、真心から感謝できる心(愛)が目覚めたなら、自らを救うことが必ずできる。

(p.110〜113)

 

『酒乱』の表紙画像以上の一節は、『酒乱 米の生命(いのち)が生きるまで』(菅原茂著、MBC21)という本からの抜粋です。かつて父子二代にわたり家族を巻き込んで酒乱を開花させてしまった男性が、苦悩の末ついには男女の愛を超越した妻の深い生命愛に守られながら、やがてじぶんのいのちに目覚め、夫婦で新たな生き方を再出発させるまでの道のりを1冊の本に記しています。

 

時として、じぶん自身の人生や人間関係に不調和をもたらすこともある心。概して心の問題はとても根深く、それに打ち克ち、改心するのは容易なことではありません。それでも、望ましくないと感じることができるからこそ、葛藤したり苦悩したりするわけで、本人に自覚がなければ、相反する心のジレンマに苦しむことすらないのだろうとおもいます。

 

これは、性格がそうさせるのでしょうか。それとも道徳的な行動規準をもっているかどうかの問題でしょうか。いずれにしても、がんじがらめに自分の気持ちを縛ったり押し殺したりしたところで、根本的な解決にはなりません。かといって、欲望や感情をむき出しにした生き方にも問題があります。

詳細:参考図書からの抜粋(イ)

 

 

 

 

【第二の視点】

心とは何か‐霊的性質

普段、じぶんの心だと思っている「心」。じつは、じぶん自身の願望や意志の方向性・質・波長と重なる霊的なエネルギーが、心の世界において、発信したり共鳴したり増幅したりしている、それが心の実相であることを、共時性現象は暗示しています。心は、その人の内的な性質に共鳴してあつまる霊的磁場であり、あらゆる生命の「思い」が混在する生死一体の世界である、ということです。その心的かつ物的な状況証拠が、共時性現象(=シンクロニシティ)だと言えます。

 

心には、みずから何かを認識しようとする能動的な性質だけではなく、心の発生次元のように制御できない受動的な性質があります。無意識的に思い浮かぶことがら(=心の発生)は、霊魂との縁とも関係があるようなのです。それゆえ、心を改めるというのは、心の世界における霊的な縁が変わらなくてはならないので、そう簡単にできることではありません。

 

とはいえ、自分の心の習性や癖と向きあい、そこから抜け出そうという意思と行動を持続し、新しい心の習慣を身につけることこそが、心を改めるうえで重要であることにかわりはありません。ただ、この文章の冒頭でも述べましたが、これは人間にとってほんとうに根が深い問題です。

 

もちろん、望ましくないことばかりではなく、先人の魂、亡きいのちが、道あかりを灯すように応援してくれていることを、共時性現象は気づかせてくれます。国籍や立場、血縁関係などを超える意識エネルギーは、まさしく愛情です。心にはそういう奥深く神秘的な一面があります。

詳細:参考図書からの抜粋(ロ)

 

 

 

 

【第三の視点】

体の自律性と神秘性

私たちは、基本的な生命活動をすべて、体の精緻な働きに依存しています。体内の微視的領域はだれも立ち入ることができない、いわば「聖域」。たとえば「食は大事だ」という思想は一見単純ですが、自分の意思で選んで口にした食物は、いったん飲みこむと、あとは体にゆだねるしかありません。これが真実です。

 

食物のおかげであることは言うまでもありませんが、その消化吸収から排泄までのすべてを、まるで「自動的」であるかのように処理しているのは体です。体内は遺伝子に組み込まれた規則性に従って動き続けているようにもおもえます。そのいっぽうで、体内でおきている化学反応や物理現象の実際は、諸条件に沿って機械的に起きているというよりは、「自律的」におこなわれているようにも見え、とても神秘的です。

 

ところで、人間はなぜ食物を食べるのでしょうか。おそらく答えは空腹や食欲を満たすため。では、なぜ食べなければ生きられないように、いのちはできているのでしょう。まるで、何を食べるかという選択の自由を与えられ、意思を試されているかのようです。というのも、基本的に、体質は先天性のものですが、その現れとしての健康状態は決して固定的ではなく流動的で、実際に日々の食生活が健康状態を左右します。ゆっくりと年月をかけて、しかし、まちがいなく変化します。しかも、私たちの体は常に変化し続けているため、特に病んではいなくても、その改善や向上にこれでよいという終わりもありません。

 

体は、まず前提として食物の力を借りるしかありませんし、それが最も自然な姿です。にもかかわらず、私たちは体内における食物の行方が見えないため、食に対して適当になりがちです。じぶんの生命全体に関わる問題として深く考えず、自律的ないのちの営みに任せっぱなし。体のなかでどのようなことがおきているかを意識することは、ほとんどありません。じぶんの体の見えざる真実へのまなざしと気づきは、心身を調和・統合できるかどうかと密接に関わるとても重要な課題だと感じます。

詳細:参考図書からの抜粋(ハ)

 

 

 

 

【第四の視点】

根源から観る体と心の相関性

体質が変われば、それにともなって自然に心の質が一変するかといえば、そういう機械的な関係ではありません。そもそも体質は気質と同じく先天的特徴だとすると、それが変わること(変質や転換)がありうるのかという疑問は若干あります。たとえば、食生活を一変させた結果、体質転換を想像させる体の大きな変化を経験する場合です。それは、体質の現れである健康状態の改善であり、体質転換ではないという見方もできるのではないかと、みずからの経験を振り返って感じています。

 

では、食習慣を変えることで起きる健康状態の向上や改善は、心に影響すると言えるでしょうか。これに対しては、体質改善が心に変化をもたらすというより、意識の改善なくして体質の改善はないと感じます。何をどう食べるかは、食物と体とに対する認識の仕方や態度の問題と切り離せないので、それに応じて、健康状態の向上や、体質改善の可能性が開けるという見方が適当ではないかとおもいます。

 

心のもち方ひとつで体の反応は変わるというのも、経験的に多くの人が実感していることです。これは、いま述べた点と共通していますが、それを理由に、食は大した問題ではないと考えるのは問題があります。心のありようがすべてだという思想は、体と食の軽視であり偏った精神論です。また、体や食物が心をつくるという考え方も、ある意味では短絡的であり、当人の意志を考慮していないとすれば偏見と言わねばなりません。体も心もそれぞれが「いのち」という本質の投影だとすれば、「いのち」の視点に立ち返って見直す必要があるとおもいます。

 

たとえば、生死に関係なく人間が「モノ」ではないことはだれもが納得しますが、食物も「いのち」であって「モノ」ではないという自明の理に対しては、概して非常に鈍感です。ひとのいのちは食の「いのち」なしに成立しません。それほど重要な食の本質(いのち)を軽視・無視することは決して些細な問題ではなく、心と体の真の健康と調和という人間の本質的な願いに逆行・矛盾する致命的な問題と言えます。

詳細:参考図書からの抜粋(ニ)

 

 

 

 

【第五の視点】

天地自然の調和性と人間

人間は、さまざまな感情や欲望によって、心の調和が乱れたり、不安定になったりすることが多いものです。この心の性質は、人類の知性が発達しているからこその宿命と言えるかもしれません。では、ほかの生きものはどういう「いのち」なのでしょうか。

 

『いのちの証し』の表紙画像以下に挙げるいくつかの文は、すべて『死んでも生きているいのちの証し』(菅原茂著、たま出版、下記参照)からの抜粋です。

 

動物は大地から分離して生きているから植物のような訳には到らず、ましてや、知性の高い人間は、生命情報感ではキリ(低)に属することになる。おのずから五感で感ずる外的心の情報にたよりがちとなり、(後略)(p.254)

 

生命界の情報量において、動物界は、植物には到底及ぶものではないと思うし、ましてや知性を最大の武器とする人間は、自然界の生命エネルギー情報キャッチにおいて極めて退化傾向にあるのではないか。そのことは、自然力、自然智という感覚から次第に遠のくことを意味する。(p.47) 

 

いっぽう植物は、

 

大地に根を下し、地球生命の体温の中で親の心(地球の心性波動)をしっかり受け取り、自然のリズムにそって共に生きる。(p.254)

 

また、地上では、枝や葉や幹によって宇宙生命の情報を微細にわたってキャッチしている唯一の生物であろう。(中略)いのちの最前線といえばこの植物達である…(後略)(p.47)

発芽して幼い早苗へと成長し始めている米の種籾。写真の出典は書籍『酒乱こめのいのちが生きるまで』

根をだし茎葉をのばす米

 

知性の発達とともに「自然智」から遠ざかる傾向が強い人類は、自然界の食物を食べることで、いのちを調和の方向へと絶えず修正する必要があるのです。食の目的として、「満足感や満腹感を得ること」「栄養の補給」「体内浄化」など、ひとそれぞれに挙げられるとおもいますが、毎日食べ物を摂取する重要な意義は、いのちの自己調和にあると言ってさしつかえありません。

 

では、その「天地自然の普遍力」を何から得るかが問題になるわけですが、「“食性”によって生命情報は、ピンからキリまであり、例えば、菜食系の人、穀菜食系の人、肉食系の人では、その普遍力に満ちた生命情報に大きな差が生ずる」(p.254)と同著書において著者は述べています。

 

食物の中でその生命情報力の高いものとしてはやはり五穀であろう。その中心をなす“米”が人間食の究極となろう。稲は、水性植物といえるほど水を好み、根も深く、半年間もじっくりと天地の生命力を吸収し、蓄えを実らせてくれる。 (中略)一粒の米には、天地自然の普遍力が宿っている。(p.254〜255)

玄米一粒。写真の出典は書籍『神秘の大樹 第二巻 ヒロシマとつる姫』

ひとつぶの米

 

もちろん、望ましい食生活をしていれば、万事安心というわけではありません。前に述べたように、いのちは物質的であると同時に霊的なものでもあるからです。じぶんの心の習性や癖を直視し、それを正す自覚、強い意志をもたないかぎり、いつまでたっても心の中で、相反するエネルギーや波長のギャップに葛藤し続けなければならないと言っていいとおもいます。

 

それならば、結局食物の力ではなく、強い意志の力がすべてではないかと思うかもしれませんが、どうもそうではないようなのです。わたし自身ずっと実感したいとおもい続けてきたことなのですが、こめ中心の「穀菜食」にしたからといって、それだけで心が穏やかに安定するわけではありません。意志の強さはとてつもなく重要です。しかし、毎日の食がじぶんのいのち全体の方向性や質と無関係ではないことも、疑う余地がない事実と言えます。

 

食物の調和エネルギーとは、意識下にある、いわば表層の心を、部分的・表面的に調和・安定させる力ではなく、無意識次元からいのち全体を、自然界と同じ調和性へと導く根源的な力です。このため、本質的・根本的な調和へと向かう過程で、体も心も「一種の“苦”」をともないます。

 

いのちの調和作用”によって起る現象を、“調和現象”と考えている。調和現象の特徴は、その、いのちの中心に引き戻される時発生する一種の“苦”がある。それは、ゼロ志向のため起るものと考えている。これに対し、共振共鳴の共時現象は、相似融合作用であるから、それは、エネルギーの増幅志向にあるため、一種の“快”を発生させることになる。(p.225)

 

 

【第六の視点】

いのちといのちのひびきあい

人のいのちは物質体であると同時に意識体でもあります。この本質的性格は、生き物としての種類や姿かたちはちがっても、「食物」として口にしている「いのち」もまた、物質一辺倒の存在ではないことを示唆しているとおもいます。また、魂という意味での「心」は、肉体的な生死を超越していることを、共時性現象が暗示しています。体は、心が作用するとはいえ、それを超える意思のような自律性をもっています。

 

食も心も体も、人がつくる「もの」ではなく、根本的には天地自然がつくる「いのち」の現れです。出現する根源の世界は同一、全一であると想像できます。以上のような理由から、心と体の関係や、人と食物の関係は、機械的または因果的な作用や反応とはまったくちがう、いのちの響きあいだと考えています。

 

私たちは、人間中心の目線で、食物を見てしまいがちです。仮に、健康的な食物をじぶんの意思で選択する食生活をしていたとしても、健康を手に入れるための「もの」でしかないとか、欲求充足のためにむさぼるような食べ方をしているとか、そういう心根では自己調和できるはずがないことを、実感として気づかされています。じぶんの体と食物への敬意・慎みよりもたいせつなものはないにちがいありません。

詳細:参考図書からの抜粋(ヘ)

 

 

 

 

【第七の視点】

体と心の調和・いのちの調和

さいごに、この文章全体の冒頭に記した『酒乱』からの抜粋文ですが、とくに印象的な部分(下線部)があります。かつて酒乱地獄を経験した夫妻の言葉です。 

 

(略)ここではっきりしていることは、子孫の誰かが、この先祖ぐるみの悪習慣を断ち切らなくてはならない。命がけで、生命に恥じない人間性を取り戻さなくてはいけないのである。 そのためにも、単に人間的自我というくらいでは到底太刀打ちができない。自然界の愛が窓口にならなくては、汚れ切って、軟弱化した人間の心を、浄めることはできないだろう。 人間発生前の、生命の愛に戻って、我々を、「生かして、生かして、生かし続ける愛の力」を借りなければ、人間は改心できない。(略) 妻がよく言う言葉に、「人間以前の食物たちの生命(心)に戻らないと、人は成仏できない。人霊の活躍は、まだ自我がある。人間以前の生命の愛がないと成仏できない」と、いうことがある。(略) まず、心の突破口は、食物たちや、自然界の生かし続ける生命の愛を、自分の心で、ガッチリと感じられるようになれば、不調和な人生から、目覚めることが早まると思う。概念としての知識だけでは、むしろ、混乱が生ずるから注意しなければならない。 こういう、生命の原点に、真心から感謝できる心(愛)が目覚めたなら、自らを救うことが必ずできる。

 

(『酒乱・米の生命が生きるまで』「守護の窓口となった妻と自然律(悪は、この世の仮りの姿)」p.110 〜より抜粋)

 

成仏じょうぶつできない」というのは、心の中の霊のことであるとともに、いずれは肉体を脱ぐじぶん自身のことだと感じています。私たちの生命は生と死とで、ひとつです。自然界に還っていく、すなわち天地自然の調和性と同化するために食物の生命愛が欠かせないというのは、本当のことだとおもいます。人間の根深い心の問題は、「いのち」の本質的特性がかかわる問題であるがゆえに、精神論では解決しないのです。

 

じっさい、人間は心(気もちや思い)を最優先して体を置き去りにする傾向がないでしょうか。心が苦しいときほど、それは顕著になるはずです。この世にいることは体とともにあること。この事実をしっかりと受けとめたいとおもいます。

詳細:参考図書からの抜粋(ト)

 

 

参考図書からの抜粋(イ)

 

不調和性と葛藤-問題の本質

 

 

 

酒乱の因縁と闘う自己解体

 いかに、祖先累々の生き様がどうであろうと、また、このオレも祖先になる日がくる。今の自分に責任をとれるのは、当然、自分だけだ。

 今、このオレをバラバラにして洗い直し、組み立てなくて、なんとするか。悪い習慣の心は、焼き捨ててしまわなくて、なんとするのか。無難に生きる人々には、アッケにとられる話かもしれない。なんとしても、り通すことだと、その後も、私は身心に、過酷なプレッシャーをかけていった。

 この、心を改心させなくては、ふたたび、酒乱は雑草のごとくに生えてくる。いつも脅かされることになるのは、火を見るよりも明らかではないのかッ。新しい生き方の幕明けのためには、それなりの覚悟が必要だ。

 酒乱(酒害)を直す第一条件は、断酒以外にない。その次は、心の転換だ。心の向きを変えていき、新しい心の習慣を確立することだ。そのため、私は、心身にプレッシャーをかけて、従来の、物事に押し流される弱い心から、強い意志力に変身しようとしている。

 酒を飲まないで、生きる喜びを、ありあまるほど味わえる人間にならなくては、意味はない。また、飲んだとしても、自在にコントロールできる意志力と、新しい価値観を開発しなくてはならない。

 このような話は、酒と縁のない人たちや、喜び酒より飲まない人には、よくわからないことだろう。だが、私にとってはそれどころではない。まず、酒をやめ、次に、新しい意識の転換をやらねばならないと思った。そのためには、新しい心の積み重ねしか方法はない。

 意識を改めるということは、容易のことではない。この体ひとつにも、何千年、何万年の歴史が刻み込まれているのだから、油断をしたら、なにが飛び出してくるかわからない。良いものばかりが、どんどん出てくれたら、そりゃ優等生になる。だが、私みたいに、具合の悪い、毒性ばかり出てくると、一生がメチャメチャの波乱となる。

 具合の悪い、暗い影に脅かされることなく、いつも正しく、明かるく生きられるためには、祖先累々の想念を引き出さねばならない。その誘導は、今の心であり、一心に善い心を持ち続けなくてはいけない、と、真剣に考えつづけた。そんなことは、小学生にだって先刻承知なのだが、この五十男は、カラスに襲われながらも、必死になってそう思っていた。

 だが、その善い心を持続しようとすると、なにかに、パクッと、食われてしまう。自分の中の悪性の心が、善性の心を、いつも食い続けている、ということなのだ。それでは、その悪を退治しなくては、いつになってもやられっぱなしとなる。それで、私は、足腰立たなくなるまでに、新しい自分の心を確立して、価値観を高めるということを始めたのである。
 要するに、自分の体内にある、過去性とか、祖先累々の想念を大掃除して、俗にいわれる、因縁解脱げだつとか、因縁成仏という意識の転換を果たして、新しい信念の確立をするということなのである。そのためには、肉体的、精神的にも、自分をバラバラに分解することだと考えたわけである。

 このことは、とても危険な模索であった。そのため、社会の常識性を、一切遮断することからの出発なのである。そして、正気と狂気の境界線を走り出した。少し気を許すと、狂人世界に足を踏み入れることになる。何度か勇み足もあった。その意識の混沌とした時に、七羽のカラスに攻撃されたのだった。

 だが、そんな時であっても、〝自分というものに目覚めていること〟に成功することができた。このような自己覚醒ということは、とても大事なことである。それは、狂気に陶酔して、目覚めがなくなっては、自己不在の恐ろしいこととなる。病院行きはご免だッ。世の中の乱れは、目覚めなき、自己不在の陶酔狂に、ほかならない。
 自己に目覚めることの、いかに重要なことか。これは、生命いのちを知るきっかけとなった。そして、自己に目覚めながら、もっと、もっと、自分を狂わせて、ギリギリまで心の奥へ踏み込んでみようと思う。

 

 

妻との葛藤

 もう、心身がボソボソになったが、この危険な時でも、妻は、静かに見守っていてくれた。ここまでくると、酒乱であったことの記憶も、だいぶ薄れたが、目指すは変身した自分だ。それは、いかなる心や、現象にも迷い、執着することのない自分に変身することだった。正しい尺度に照らした安定調和の心で、この世をまっとうできる自分になることだと。

 同僚たちは、そろそろ定年で退職だ。そして第二の余生を、どんな気持で生きるかは知らない。ところが、私は、これからが本番の、人体実験の真只中である。

 そして、極楽浄土の真ん中で、生きる喜びを爆発させなくては、なんにもならない。また、一方では、妻の愛一念に先導されながらも、断酒後の中で、妻との葛藤が烈しさを増している。地獄からは、どうやら這い上がったものの、極楽浄土までは、遠い遠い道程であった。

 妻と、意識の上で、真向から対立することがある。酒乱真盛りの頃、妻は、従順の女から、強い女へと変身をした。こっちは、なぜか、自分を先導しようとする妻に、反射的に対立する。主従の関係、夫唱婦随の形が逆転し、妻が強くなったということより、妻は不動の信念を持つに至ったというのが、真実だ。

 私はというと、表面意識が薄れてガタガタの身心だから、舞い上がる潜在心が騒ぎ出す。もろもろの抑制心、劣等感が堰を切ったように崩れてしまう。「お前の世界、お前の心には、ついてはゆけない。お前は、こっちの考えに、半分くらいは譲らんのかッ」と、考え方の違い、人生観の違い、全体的意識の焦点が違うという理由で、事あるごとに対立が続いてきた。お互いに、心の中心にある芯を、き出そうともがき続け、心は、現実界と精神界を、行ったり来たりと、混迷の度合を深めていく。「オレは、なんのために生きてるのか。生きる証しは、なになのかッ。ただ、食って、寝て、起きて、タレて……、オレの生きる証しとは、なになのかッ、教えてくれーッ」と、誰に叫ぶでもなく、苦悶を続ける中、そこに、妻の心試しが、矢のごとく打ち込んでくる。

「夫は、心浄めをどこまで高めておるのか……」と、こっちの嫌なことを、すっぱと放つから、「なんだよーッ、いつまでも、オレのやったことを言いやがってッ。やっと、すまないことをしたもんだと、思っているのに、お前を苦しめ通しで、なんてこったッ。申しわけないッ、と思ってきた矢先に、傷口を広げるように、あの時、あんなことしておいて、よくも平気でおられるもんだとは、なんてこったッ。酒やめたら、オレの欠点はないんだろッ。酒をやめても、グタグタ言いやがって、お前とは、いっしょにおれないよッ」と、言いたい放題である。
 ところが、妻は平然として、「お父さんの心は、浄まりには、まだ遠い先のことだこと……」と、返してよこす。

 真心のない、粉飾した人の心ほど、嫌なことはない。妻は、真心のないニセの愛情にはことのほか冷徹に跳ね返してくる。夫にも、出入りの人たちにも、区別はしない。

「今日は嫌だとか、調子が悪いとか、なんだかんだと、愚痴を言って、太陽は休んだり、愚痴を言うかッ」と、やられる。
「心を汚すとは、なんということです。みんなを生かす食物の生命いのちは、それぞれ違う物が口から入って、一本の管を通っていく。口から入った食物たちが、体の中で、互いに、あーだの、こうーだの、混線するかいッ。一糸違わず、一体となって、流れていくじゃないか。そして、外に出てくる。だから、こうして、みんな生きてるじゃないかッ。食物の生命に笑われるぞッ。意地の悪い心を持っちゃ、申しわけないよッ」と、さとすのだった。

 また、「死は、師となる生命」と妻は言う。亡くなった人の生命も、食物の生命も、自然界のすべての生命も、みな、我々の師となる生命だと言う。「どんな辛い思いも、どんな苦しい思いも、感謝、喜びに代えて、生きねばならないものです」と、言い続ける毎日であった。

 

 

 

守護の窓口となった妻と自然律(悪は、この世の仮りの姿)

(中略)
 その頃、妻には、親戚たちが詰め寄ってきていた。残された家族を見るに忍びなく、「離婚しなさいッ」と詰め寄られていたが、妻は、一念、夫を立て直すとの決意は固く、「夫婦の縁を粗末にするなッ」と、決して動かなかった。

 この心の奥には、どれほどの悔しさと、憎しみと、愛が、グチャグチャ揉み合い、砕け合っていたことだろうか。妻の口から、そうしたグチめいた言葉を聞いたことはなかったが……。それをよいことにしてか、心に入れてか、入れずにか、私は、泥棒にも三分の理ありとばかり、「ああでもない、こうでもない」と言い返していた。正邪善悪が麻痺する酒乱、薬物中毒患者は少々の不祥事について、本人には責任感が全くなくなっている。意識がぼけて、心神耗弱状態なのだから、やむをえないことだ。自意識がはっきりしていて、自分がなにをやっているのか、いいのか、悪いのか、思慮分別がわかるようならば、馬鹿な真似はできない。すべて、意識の埒外らちがいの出来事として、罪悪感が湧いてこないのが、厄介なアルコール性痴呆症なのである。せめても、せめても、取りつく島がないのだから、始末におえない。

 平常心で、酒と付き合える人たちには、はるかな、くだらない人たちと思えるだろう。だが、人間の進化の中で、今日までの遠い道程で、生活の友として、飲み続いているいとしき酒を、祖先の誰かが、道を少しずつはずしてきたことは、明白な事実だろう。
 こうした生命いのちが、子々孫々へと伝わる中で、きちんと飲める人と、乱れてしまう人とに分かれてしまった。そうして、時代を経て、〝悪い酒〟のほうの人が、遺伝子性の申し送りとなって、肉体的、精神的に、酒乱の素養が成長することになったようだ。
 そのため、心の習慣と肉体の習慣を、日々、粗末にできない理由が、生命いのちの裂けるほど、わかってくる。そして子孫のどこかで、必ず目覚めなくてなんとするか!!

 この永々と続いた悪習慣は、自分の過去だけのものなのか、あるいは、両親の代からのものなのか、さらに、それよりも、もっともっと先の時代にまで遡るのかは、人それぞれに異なっている。

 ただ、ここではっきりしていることは、子孫の誰かが、この先祖ぐるみの悪習慣を断ち切らなくてはならない。命がけで、生命に恥じない人間性を取り戻さなくてはいけないのである。

 そのためにも、単に人間的自我というくらいでは到底太刀打ちができない。自然界の愛が窓口にならなくては、汚れ切って、軟弱化した人間の心を、浄めることはできないだろう。
 人間発生前の、生命いのちの愛に戻って、我々を、

「生かして、生かして、生かし続ける愛の力」

を借りなければ、人間は改心できない。
 すべての宗教を超えて、生命の愛に目覚めなくては、心の汚れは浄められない。私に潜んだ、酒乱で汚れ切った心は、妻の真心の一念で、生命の愛に目覚めさせてくれたのだった。米と酒の生命が、妻の生命の光を通して、私の心の中で生き返ったのである。

 このことは、とても理解に苦しむこと、あるいは、低俗なことだと言われるかもしれない。だが、今、本当に、自分が迷っている時、そこから目覚めるためには、高尚な精神論や、宗教論で救われるだろうか。
 少なくとも、酒乱の人生から自分を目覚めさせてくれたものは、ただの主婦である妻の守りのお蔭だった。一念の真心(愛)は、人間的自我(煩悩的自我)を超えた愛の心となり、私の汚れた心を浄めてくれた。

 この妻の愛は、あまりに当たり前過ぎて、かえって説明に苦しむところだが、それは、人間的、都合的、犠牲的な愛ではない。また、男女の愛、親子の愛とも違う。それでは、どういう愛なのか。一口で言うなら、生かし続ける沈黙の愛だと、言える。また、宇宙心霊(生命界の心)が、妻の生命にがっちりと生きたのだと思われる。

 妻が、よく言う言葉に、
「人間以前の食物たちの生命(心)に戻らないと、人は成仏できない。人霊の活躍は、まだ自我がある。人間以前の生命の愛がないと成仏できない」
と、いうことがある。
 このことを知るためには、まず、毎日の食事に心を向けるがよい。食べることによって、生きることができるのは、当たり前のことだ。
 もの言わぬ米を食べ、そして、野菜、魚、その他一切の食物を食べて、こうして、自分の心が生まれ、が生まれ、言葉が生まれ、走り回り、今日を生きる人間。この、生かす力(愛)しかない食物たちと、融合一体となって、その尊い声なき心を受けることができる。酒乱の夫と過ごす尊い人生、三十三年の中で、人間を諭し続ける生命界の心と、通じ、結ばれ、生きた。そこには、いかなる理論の余地もない。
 そこにあるものは、丸裸の透き通った光だけの生命いのちしかない。そして、黙する生命の光の受け皿となった妻。しいて言うなら、沈黙の心々の世界から見たなら、灯台の光のような妻を見ているようなものであった。

 だから、米の生命は、妻の生命の光を見て、心を寄せる。酒の生命も寄ってくる。酒の心は、妻を通して叫ぶ。
「喜び、安らぎで飲むんだよッ。浄まりの生命いのちだよッ。神に捧げる生命だよッ。汚すのは、人の心だぞッ」
 また、米の心は言うだろう。

「米寿の祝いとなる生命だよッ。八十八(88)の数にも、生きられる生命だよッ。磨き抜いて、御神酒にもなる生命だよッ。生命を汚してはならないよッ……」

と、人の体の中から叫んでいるだろうし、米、酒、食物一切、また、自然界の心々、そして、人霊の心々たちも、人の世のために、代弁してくれる妻の生命に寄ってくる。となって、文字に生きて、に生きて、に生きて、寄ってくる。そして、見えざる生命の世界の心々を、人々に伝えていただく喜びが、こちらにも感じられる。

 天地の生命の愛で生かされる人間界は、必ず、一人一人の生命の中から、目覚めさせられるであろう。そして、妻の守りは、沈黙世界の、見えざる、生かし続ける愛、その愛そのものの守り姿であった。
 だから、米の生命も、酒の生命も、私の生命の中で、力強く生きた。
 まず、心の突破口は、食物たちや、自然界の生かし続ける生命の愛を、自分の心で、ガッチリと感じられるようになれば、不調和な人生から、目覚めることが早まると思う。概念としての知識だけでは、むしろ、混乱が生ずるから注意しなければならない。
 こういう、生命の原点に、真心から感謝できる心(愛)が目覚めたなら、自らを救うことが必ずできる。
 不調和な心(悪性)は、目覚めなき迷いの心だから、悪はこの世の仮りの姿だと言える。


 妻を介する 神力かみぢから
 今ぞ晴れての 人の道
 断って立ちゆく 酒の道
 いのちの原点 目覚めゆく

 

 

参考図書からの抜粋(ロ)

 

心とは何か‐霊的性質

  1. 『酒乱‐米の生命が生きるまで』
  2. 『神秘の大樹Ⅰ偶然が消える時』
  3. 『神秘の大樹Ⅲ文字・数・色で証す新次元』
  4. ほかの視点
  5. 出典・引用図書
  6. ほかの主題

 

 

『酒乱・米の生命が生きるまで』「生命の樹」より

書籍『酒乱こめのいのちが生きるまで』からの抜粋はここから。「だから、自分という一個の生命体の中には、まぎれもなく、何億万年のいのちの歴史が刻み込まれていることになる。それぞれの遺伝子の中には、生命博物館のようなものではないか、と思われる。私は、自分の意識改革を実行する中で、この生命の流れに、本当に感心した。全人類を一本のいのちの樹と見て、そこに花を咲かせている梢の先々が、我々、現世の人間の姿と見たのである。私が、狂った果実となったことは、心という生命の養分が、祖先のどこかで、誰かが狂わしてしまったのだと思う。だから、私の身体に黒い花を咲かせ、黒い果実を実らせた。この生命の、心という養分を変えない限り、いつまでも、どこまでも、子孫の花が狂うのである。どこかで、誰かが、心の養分を自然体に戻してやらなければ、子孫のみんなに、迷惑をかけることになる。代々引き継がれた心の歴史(潜在層)は、次第に、ひとつの生命体として、独り歩きをし、それが、現在の自分を操作支配する力となる。そして、今の心の習慣が、積もり積もって、自分を、さらに、子孫を支配する心の生命に育つ。自分の過去の心、祖先累々の心が、びっくり箱のように、現在の自分の前に躍り出てくるという仕掛けであると思う。こう考えてくると、勝手気まま、好き放題に、不調和な心を発散し続けてはならない。日頃の心の習慣が、ルーズになってくると、自己管理が不可能となって、人霊世界の思うままにされてしまうのだ。だから、酒を一杯飲むと、過去前世の悪心、亡者、括弧、今はなき者、括弧閉じ、が小躍りしてやってくる。心の世界には、時間、空間はなく、一面的、一本直通だから、一瞬にして現れる。こうして、いのちの樹を伝って、全方向から、飲み足りない亡者の援軍が集結することになる。もうこうなったら、現世の自分は、ブレーキなしの車が、下り坂を走るようなものだ。ある日、妻が、こんなことを言った。「お父さんが、少し飲みだすと、この世で飲み足りなかった人たちが、いっぱい集まってきます。」以上、抜粋はここまで

下記「出典・参考図書」を参照

 

 

 

生命いのち

 悪魔に乗っ取られた酒乱の私でも、ピッカピッカの生命いのちが宿っている。この生命こそ、永遠不滅にして、宇宙創成の原点に結びついているものだ。見た目には、一人一人は別個の生命体である。だが、それは単に肉体だけのことで、みなさんも、私も、たとえ親子でなくても、生命に関しては、すべてつながっている。そして、それは人間ばかりでなく、天地万物の全生命は、相互に関連のある生命ではないか。

 このことは、自分の存在を考えたなら、すぐに理解できることだろう。この自分は、どこから生まれてきたのか。もちろん、父母からに決まっている。では、その父母は……。そして、その上は……。そして、また、……。その上の父母へとつながって、ついに、人間以前の生命体へつながっていく。

 そして、我々人類こそ、地球上で最も遅く誕生した生命体なのであると思う。宇宙と太陽、海の幸、大地の幸、万端が整った時、〝星の王子様〟として誕生した。その生命の糸は、人間が生まれ出る以前の、諸々の生命たちへとつながって、ついには、宇宙創成の原点の〝生命の親様〟へと結ばれていくことがわかる。
 だから、自分という一個の生命体の中には、まぎれもなく、何億万年の生命いのちの歴史が刻み込まれていることになる。それぞれの遺伝子の中は、生命博物館のようなものではないか、と思われる。私は、自分の意識改革を実行する中で、この生命の流れに、本当に感心した。全人類を一本の生命いのちと見て、そこに花を咲かせている梢の先々が、我々、現世の人間の姿と見たのである。
 私が、狂った果実となったことは、心という生命の養分が、祖先のどこかで、誰かが狂わしてしまったのだと思う。だから、私の身体に黒い花を咲かせ、黒い果実を実らせた。この生命の、心という養分を変えない限り、いつまでも、どこまでも、子孫の花が狂うのである。どこかで、誰かが、心の養分を自然体に戻してやらなければ、子孫のみんなに、迷惑をかけることになる。

 代々引き継がれた心の歴史(潜在層)は、次第に、ひとつの生命体として、独り歩きをし、それが、現在の自分を操作支配する力となる。そして、今の心の習慣が、積もり積もって、自分を、さらに、子孫を支配する心の生命に育つ。自分の過去の心、祖先累々の心が、ビックリ箱のように、現在の自分の前に躍り出てくるという仕掛けであると思う。

 こう考えてくると、勝手気まま、好き放題に、不調和な心を発散し続けてはならない。日頃の心の習慣が、ルーズになってくると、自己管理が不可能となって、人霊世界の思うままにされてしまうのだ。

 だから、酒を一杯飲むと、過去前世の悪心、亡者が小躍りしてやってくる。心の世界には、時間、空間はなく、一面的、一本直通だから、一瞬にして現われる。こうして、生命いのちを伝って、全方向から、飲み足りない亡者の援軍が集結することになる。もう、こうなったら、現世の自分は、ブレーキなしの車が、下り坂を走るようなものだ。

 ある日、妻が、こんなことを言った。

「お父さんが、少し飲み出すと、この世で飲み足りなかった人たちが、いっぱい集まってきます。〝もっと飲め、もっと飲めッ〟と、集まってくる。だから、お父さんであって、お父さんでなくなるのです」

 このことが、今になって、そうであるとはっきり実感できた。
 その亡者に対抗するためにも、日頃の自己管理=意志力が、いかに重要であることか。日々の心の習慣が、いかに重要であることか、身にみてわかった。七羽のカラスから攻撃を受けながらも、身心をバラバラに分離、組立てることになった理由も、そこにあった。

 私は、身心に荒っぽい修行の負担をかけ、また、実際に、多くの修行体験もしてきた。危険な試行錯誤を続けた人体実験は、生命いのちに対する不調和な行為だったと思う。この自己改革の執念は、死にもの狂いだった。人の道をはずした者が、道をはずしたことに気づかされ、子孫には、この因縁を流してはならじと、その一念が、今は、人の道をはずすことなく、生命いのちの光が輝くように祈る毎日となっている。

 

いのちは ピッカピッカ輝く毎日だ
今日も、明日の一日も
手つかずのいのちの日めくり
ピッカピッカ輝く
いのちの世界が待っている!!

 

 

数霊は霊魂のシグナル

 今、見舞ってきたばかりの、長期療養者の魂が、病院を抜け出して私たちの帰りの車に同乗してきたんです…と言ったら、誰でもぞくぞくと鳥肌が立つような話である。

 一度は耳にしたことのあるこのような話は、幽霊や怪談話としてこの世にいくらでもありそうな話だが、これは本当の実体験の話である。

 ここで話を一八〇度転換すると、この世の一人残らず皆幽霊に着物を着せているようなものであるから、表現方法が違うだけのことであって、自分も幽霊も同じことなのである。亡くなった魂を幽霊と言っているだけのことであって何ら変わりはないではないか。そこかしこで着物を着て行き交う人々の本体は霊体なのであって、また、別の言い方をしたなら、過去世の心(死霊)と、この世での心(生霊)の複合霊が自分なのであって、それは見ることはできない。鏡に映しても駄目なのであって心は決して見えないのである。よく耳にする一〇億分の一というナノ単位の世界なのだ。

 だが、見えないはずの心が見えたら、それは幽霊というしかないであろう。ずばりいうなら、自分というこの生体こそその大半は過去世の心そのものであり、その中心を貫いている宇宙根源にさかのぼるいのちの光以外の何物でもないから、自分というのはこのいのちの光にまとわりついている霊意識にほかならない。生き続けてきたあらゆる情報を持つ複合霊体であるといっていい。

 このいのちの中は、生き生きピカピカと輝き続ける立派な物申す霊体なのであり、死んでからも活躍できる唯一の仕事場こそこの自分なのである…、という言い方もできる。

 霊魂なんてとんでもない、と否定したらどうなるか。中は空っぽでもぬけの殻になる。同時にそれは、この世の存在価値はゼロとなり、活躍どころか何もできやしない。何といってもこのいのちは、心の発祥地であり、複合霊体が現在を担当する自分とともに一生懸命働いている姿ではないか。心は生きている。魂は生きているのだ。

 よく耳にする霊界というのはそういうものだと思うし、別の世界ではない。現・幽一体なのであり、怖いのは、自分をコントロールできないだけのことだ。

 この地球上に最後の一人が存在する限り、人類という種の霊魂は、その一人に集約されると思うし、最後の一人が消えたとき、初めて人類の霊魂は消滅するであろうと思っている。

 つまり、人類が発生した原初のルーツに霊魂の里帰りをすることであり、その先々は、生命発生のルーツにさかのぼって行くであろうし、人類の魂は、やがて生命元素(原子)の心性物質に同化されて、地球生命のいわば構成元素となるであろう。

 死んでドロンと消えこそするが、最後の一人が消えるまで人類という霊界は生き残るであろう。霊魂は時空を超して、自在無碍むげの存在となり、最後の最後まで物申す霊魂であり続けるものと思っている。

 一生命体としての自分を形作っている霊魂は、自在の世界だから、がっちりと管理統御していないことには、出たり入ったりが自由となる。自分の本体である霊魂の管理責任者こそ、今の「自分」なのである。

 ところが、現代社会においては、医療能力を凌ぐ病気も多くなり、その中でも特に自分の心を管理できない人が少なくないのも事実であろう。その方たちは、たとえ意識が無い病の人でも、生きている限りその霊体は、ピカピカ光り、生き生きとしているものだ。

 霊魂は、自分の全細胞に内在していて、意識不明というのは、物心両性である肉体の中のどこかにその表現機能の接続不良がある訳で、決して霊魂(心の総合体=過去世の心と現世の心)が空っぽになったのではない。

 死は、生命の組成元素(原子)がバラバラに分離拡散して、生命体としての機能が消滅することと理解されるし、その逆が誕生である。それは、生命組成元素(原子)が結合して、その機能が作動することと思うし、逆に、本来の生命組成元素に戻ることを死の世界だと考えてみるとぞくぞくする思いだ。

 実際のところ、魂不滅と考える者にとっては生と死をはっきり分けることなどできないと思っている。死んで肉体は消えてしまっても、霊魂は子孫・縁者に引き継がれておるもので、もっと拡大して極言するならば、人類万人に限らず、この世一切にアクセスできる光のネットワークをもつ魂の世界だといえる。死んで全てが終わりではないのだ。生命組成原子それ自体が生死同体であり、拡大膨張・縮小凝縮が自在の、意志性波動の持ち主と考えている。

 生命組成元素(原子)が寄り集まって自分となり(生)、また、分離拡散して自分は消える(死)という生死の概念を変えてみることも新発見に結び付くものと思う。

 いのちをつくり上げている生命組成元素(原子)は、言うまでもなく毎日の食と呼吸によって形成されていることは当然であり、食は、生命組成元素(原子)そのものであり、その元素の素性は物心両性という見方に立つ。食は物質(物性)であり、心(心性)でもあるという、物心両性の元素(原子)という見方に立つ。

 食を摂ることは、物質を食べると同時に心をも食べていることになる。何につけ、生き続けるには食い続けることであり、食はいのち、いのちは食である。だから、食はいのちの中心、いのちが回転する命の中心軸といってよい。肉体をつくり、心を紡ぎ、そして、無限的心の貯蔵庫となる。それをさらに発展させていえば、もともと我々は、男女両性・雌雄両性で、物心両性のすこぶる合理的な生命元素の塊と考えてもおかしくはないだろう。両極を併合した総合エネルギーが真の生命力であると思っている。

 だから、縮小凝縮して一生命体が誕生し、それが、拡大膨張して死となる。ここで、生命組成元素(原子)は、宇宙における不変の存在としてありつづけるわけで、死んでも生きていても、われわれは、心であり、同時に、肉体であり続けることになる。

 死んでも、生きても、意識があっても無くても、無ければそれは生体の機能上にそのトラブルがあるわけで、意識不明でも、心(魂)は立派に存在し続けているといえる。そして、以心伝心で心はいつもその扉は開かれている。

 意識が戻らぬまま、二七年間、七二歳のお方が、ご自分の魂を見舞った人の車に同乗して行くくらいはいともたやすいことであろう。

 それは、平成元(一九八九)年一月九日のことであった。亡くなられる一カ月前のことであった。「二七年間」の闘病生活の間、夫を看病し続けてきた奥様は、もう限界だとその思いを口に出すほどの歳月であった。生命の尊さは身に迫るものの、いったい生きるとはどういうことなのかと、尽きぬ疑問も内在していたことであろう。

 「意識無き二七年間」。奇しくも今年でよわい七二歳となった。「二七年と七二歳」、この数の霊から受け取れることは、表裏一体に秘められた本人からの意志性のひびき、すなわち〝魂は死なず〟といえるメッセージだろう。肉体根源からのご意志であるのかもしれない。病床の夫のいのちは、四五歳から二七年間、意識無き日々であっても心の扉は全開されている。つねに心の発信体制下にあって、チャンネルさえ合一するなら以心伝心となって具現することになる。この方を見舞うことになってから、何度か共振共鳴共時の現象を体験することになった。

 最後となったこの日の見舞いから帰宅したのは夜の九時六分である。ところがこの方の誕生日が、大正五年(一九一六年)九月六日であったのだ。

 それは、その方のいのちの登録ナンバーともいえる、固有波動をもつ数の霊魂であった。数字で示す魂の世界。紛れもない意志伝達の数のひびきで伝えてくる魂の世界。

 この平成元年一月九日の日記を原稿にするため、ひらひらとめくり始めたのであるが、平成二〇年の今日、一月「二七日」であることに息を呑んだ。

 どうもこの方には二七などの数霊が動いているようだ。二七年間の闘病生活、七二歳の寿命、そしてこの原稿を起こしたのが二〇年後のこの日、一月二七日、見舞いから帰宅したのが九時六分、この方の誕生日が九月六日である。

 その心のひびきの表現は、文字や数や色などという表現媒体を通じて、われわれの目の前にその姿を見せてくれる。

 それば、普段の生活の中で気づかないだけの話であって、少し関心を向ければ、この世は、魂の世界であることが理解できてくるであろう。そして、霊的波動に充ち充ちているこの世の縁エネルギー空間を感じるはずだ。縁は出会いとなり、出会いはあなたの運命を運ぶ。そして、この世に限りない前進のシグナルを送り続けていると信じている。

 

 

林の響きが魂を乗せて

 平成元年のこと、K牧場に立ち寄ったのは夏至も近づく五月下旬の穏やかな夕暮れ時であった。牧場は、まだだいぶ明るさが残り、そして羊の群れの柵の前には、一人の女性が立っていた。

 広々とどこまでも続く緑の牧場の柵の中からは、こちらを見ているかわいい羊たちが群れをなしていた。ここは羊の放牧場。くねくねしながら一列になっての羊の機関車。父さん羊がめぇーへぇへぇと歩く後ろには、チョコチョコと赤ちゃん羊がメェメェメェと小股の早足で続いてくる。いくら見ていても飽きのこない情景だった。

 ここは観光牧場であることを教えてくれたその女性は、E神を信仰されていて、いわく、E神はこの地上を、このようなのどかな楽園世界にする絶対神であるというのだ。
 そうですか、と聞いているうちに次第に話は理論的になり、女性は知性的に組み立てた自然世界を語り始めた。こちらはあえてそれに言葉をはさまず聞き入っていた。純真性はいいことだが、何か観念論的で、この世界を語るには、何とも言えない現実に対する免疫性が薄いように感じた。一方の私は、あまりにも野人風であら削りの体験論的であると思えてきた。
 女性は理知的に人格神の絶対論を向けてくる。こちらは体験的現実論で自然界の話をするし、そして独自の信仰心を披露する。このように羊たちを前にした二人の話には、薄いもやもやの壁がうごめいていた。それは理論と実践の壁のようなものであった。私は言い出す。
 「この大自然のハートと一体になり、羊も、草木も皆平等の魂と思うようになりましたよ」と言うと女性は、そのことには同調的ではあったが、「E神の教えもそういうことです。E神は人格神ですが、この世をおつくりになったただ一人の神。神の目的が、この地上の楽園であるのです」と教典を読んでいる感じの調子で話してくれた。だがその、キリリとした知的で理性的で忠実な話ぶりには、こちらの野人にはどうも危なっかしい感じもあった。

「宗教はみな自然のように受け入れなくてはいけませんなあ」と私が言うと、女性は、

「神は一人の人格神にこの世の支配を託された」と言うから私はそれには同調できず、

「この自然界には支配はないですよ。大自然は無秩序の秩序であることを私は肌で感じて知りましたよ」

と言った。女性はそれには、教典にもそれに似たような教えがあるのですといって反論はしなかった。しかし、同調もしなかった。なんとなく女性の心理がタバコの煙の輪にも似て、音もなく、私の体を煙の中に入れようとしているのが痛いほど感じられた。それは紛れもなく女性の心の奥で渦巻く一種の葛藤ではないか。微妙に自己矛盾する煩悩心が動いていたのだと私は思った。
 それは、私の自然流的思考に対する憧れと嫉妬性の思いの湧き上がりではなかったのか。話は続いたが、柵の中の羊たちも動きを止めて草むらに体を休めている。さも私達の話を聞いているかのように、ときおり視線をこちらに向けていた。夕暮れは一段と深まり、女性との会話は静かな大地にそのひびきをあずけ、別れ際に私から「菅原です」と言うと女性は、「中林です…ありがとうございました」とていねいに言ったが、そこには何かしらの重みのあることに私は気づいていた。
 牧場を離れてしばし走った先の路上で私はその夜を過ごすのだが、外は激しい雨となった。晴れ上がっていた牧場とは別天地の夜となったが、一夜明けた五月二八日の朝は、これまた晴れわたる好天の日曜日となった。晴れわたり、また豪雨となりまた晴れる。天地自然の鼓動の息づかいさえ感ずる移ろいの中で、この日もまた幾重にも不思議で神秘的な体験を続けることとなった。
 朝食抜きの遅い昼食で起こした、ドライブイン「はしば」での無礼な出来事(詳細省略)があってから、冷や汗をかきつつ走ること三〇分。今度は真昼の幻視が起きた。右手のトンネルからは、無音の特急電車が飛び出してすれ違った。それから二、三分過ぎて、今度は左手前方から先ほどと同色同形の特急電車が迫ってすれ違った。先ほどは無音のすれ違い。今度は轟音をたててのすれ違いなのだ。

 ここは山手線じゃあるまいし、四~五分に一本、それも同一方向に走る電車なんて考えられないことだ。ましてやここは単線である。地図で見れば確かここらでは一カ所、国道をはさんで右手を電車が走る区間があることはある。ほんの四~五キロの区間である。

 

右手の山際を走る無音の特急電車…
二、三分過ぎて今度は左手を走る轟音の特急電車…
ここは単線であり走る方向は同一の上り電車…
それは真昼の三時ころの話…

 

と、これらのことを今思うとうなずける一面もある。

 電車といえど、すべては物質元素(原子)の光の物体である。今は、デジタル全盛時代であればこそ、磁気・磁波・磁性体の受像転換ができ得ることを考えるならば、その実態を、先の先で予兆的に映像化できても不思議ではないであろう。思えばその時の私の脳髄は原始的機能に戻っていたのかもしれない。

 この日は無礼な出来事を起こし、また、「真昼の幻視」と予期せぬことが続き、さらに三つ目の異変が夜に起きた。

 長い車中泊の中で汚れもたまっているから、道すがら出会った滝温泉(秋田県大内村の一軒宿)で、九時頃であったが入浴させてもらった。浴場の鏡の前に腰を下ろして自分のコピーと対面した時、異常を感じてぎくりとした。あれ、何だ、ものすごく目が疲れてみえるぞ。目の縁が真っ黒でまるでパンダだ。と思うや、途端に全身の疲労感が急迫してきた。隠れていた重苦しい疲労感である。こんなことは旅慣れた自分にはなかったことであった。この時すぐにピンときた。これは仮の疲れだ! と思った。本物の疲れではないと感じた。おかしいぞと、その時である。あの女性だ! と心の中で叫び出した。

 中林さんという女性の心の磁気テープだと思ったし、そのテープが残留していたのだと感じたのである。生き霊の憑依などと言ったら薄気味悪くなるだろうから別の言い方に変えれば、心の転移保留ということでもいい。とにかく心は原子の光で磁気を帯びていると思う者にとっては、心のコピー、また、心の転移現象はあり得て当然であろう。いやはや生命体は見事な磁気テープになっているのだ。

 磁気になっている人体は、録音や録画もできるし、また、再生もできる。消すことだってできるが、その消す作業だけは、少々時間がかかり面倒な世界だ。心に記録されるときは、心のサイクルに共通性があるから容易に収録できるだろうが、その共通性があるからこそ、消滅させる段になると少々面倒となる。あくまでも自分の心の問題ではある。私には、中林さんという女性の心的サイクルに類似性があったためであろうと思っている。

 浴場の鏡の前で、これは仮の疲れだとわかったが、それが、憎悪や怨念といった類いではないことだけははっきりと分かっていた。これはたんなる女性自身の割り切れない執着心がそうさせたものと思ったのであり、いわば陽性(善性)の心の転移といったところであり、悪性でないことはその感じでわかった。悪ではないと理解できたのである。

 そこで私は鏡の前で、私なりの思いの生命十字を向けたのである。

「あなたの宗教に全ての正しさをつくりあげてはなりません。いのちの世界には支配はありません。片寄った心を正して心を安らげ、いのちの光に一体となって輝きを強めなくてはなりません。決して迷い執着のなきことを祈る」
 これはおこがましくも他人に対して言う言葉でなく、自分の心に向けて送る波動である。

 その後、間もなく不思議と全身爽快となり、その夜は、近くの山中深い高台の路上で車中泊となったのである。風もなく深い静まりの中、天空澄みわたり満天の星々は極楽の輝きを発し、得難い夜であった。

 翌朝、むせ返るような深く甘い香気に包まれていることに気づき目を覚ました。いい香りだなあと、ドアを開いて外に出たら、目の前一面に咲き誇る桐の花に心が浮き立った。思わず胸いっぱいに吸い込んだ。この辺り一帯は植林の桐林になっていて、今が盛りと開花していた。旅の中でこれほど見事な桐林には出会えなかった。ここでふと浮き上がったのは、あの中林という女性とここの桐林の「林」のひびきである。このひびきは、昨夜思ったとおり、善性のひびきに違いない。
 しばしこの場にひたってから私は下山を始めた。屈折する山道を二キロくらい下りかかった時、谷沢の向かい側の一軒の鉱泉宿が目に入った。朝の七時過ぎというのになぜか私はそこの湯に入りたくなった。旅の中で二日続けての入浴などありようのない話である。沢を渡ってみると、看板には若林の湯と書いてある。快く受け入れてくれた宿の女将さんに一五〇円を手渡して、思いもよらない入浴に大満足をして私は再び山里を下りていった。だが不思議であった。たった今、桐林の山から下りたというのに、今度は若林の湯とは! またもや「林」の連続ではないか。

 K牧場の中林さん、満天の星で桐林、そして、朝の入浴が若林の湯である。これはきっと、女性の心の磁気テープが、それも善性の想念転換に変化したことを意味するのではなかろうかと私なりに思った。

 私に心身疲労を起こさせはしたが、私なりの思いのテレパシーが彼女にも届いたであろうし、そして、明るい善性となって帰ったのであり、喜びの精神波動に転換されたものではないか。これは独善的かもしれないが、連続する「林」のひびきには、その可能性が秘められていると私は思っている。

 心は生命原子(生命元素)で、原子は光以外の何物でもないであろう。何が早いといっても光ほど早いものはない。「思えばすぐ」である。

 独善といえば独善かもしれないが、見えざる魂が生きていることを、ここ若林の湯を出て山里の村に下りてから知らされることになった。

 集落まで下りたはいいが、道が分からないのだ。そこで、目にした一軒の自転車屋を尋ねた私は、聞かれもしないのにそこの主人に、今、若林の湯から下りて来たんですと言ったら、主人は目を丸くして、「えっ、今、若林の湯のおやじが帰ったばかりだよ。大の友達なんだよ」と言うではないか。これを他の誰かに聞いたとしたら、こういう具合には物事が運びはしないものだ。偶然というものは、はじめからこの世に無いのだと私は思った。そんなに何もかも調子よくパズル合わせができる訳はないのだと思った。

 この自転車屋の主人は大喜さんという方であった。文字の通り喜びいっぱいの方であった。文字のいのちが響き会っているではないか。また、主人は酒が好きで旅が大好きだという。趣味もかなり私と近い。

 どうも私の旅は魂が不滅ということ、生きて輝いているんだということの証人に見立てられている姿ではないか。

 ここまでの話で考えさせられる事実として、林という文字のひびきを考えれば林の重なる連続がある。そこに、言うに言われぬいのちの意志性を感ずることができる。さらにそこには、数霊という数字のもつ魂のひびきに注目しなくてはならない。

 文字の「林」は、数霊に転換すると「八八四=はやし」となる。中林という女性、桐林、若林の湯と動いて、その「林」の連続の中に、文字の「林」が言わんとする「意志の表象」を感じてならない。

 さらに、無礼の出来事の舞台となったドライブインは、「はしば」という食堂で、この「はしば」は、数霊に転換すると「八四八=はしば」となって、林の八八四(=はやし)とは共振共鳴のひびきを共有するいのちの根源に根差すものだと考えられる。その時は、突拍子もない無礼だったが、魂の流れからは全て必要な意志のシナリオが秘められているものだと、私は今そのように考えている。

 いのちから発するもの、魂から発する一連の意志には、その謎解きに不可欠となる文字・数・色の三大ひびきの要素があるという現実に、気づくこともなく暮らしているのが普通の姿であろう。

 

 

ヨシ婆さんと心の光 

 自分の考えていることが、他のいのちの中で生きることができるであろうか。

 以心伝心とか、テレパシー(遠隔精神感応)とか、よく耳にする。また、クシャミをすると、「誰かが噂をしているんじゃないか」とからかわれることもある。

 ところで、自分の考えていることが他人に筒抜けになったら生きてはいけない。世の中は騒然となってパニック状態に陥ることになり、うかうかと物事を考えることすらできなくなる。

 では本当に、人の思いというものが、他人に伝わらないのだろうか。

 このごろ私は、心は光だと考えるようになっている。光であれば電磁波となって、地の果てまでも飛んでいくだろう。心は光の波であり、心の波形が合う相手に出会えば、その波長が増幅して光を増すことになる。

 その時相手には、「あれ」という感応の瞬間が出てくるのではないかと思うし、また、その予兆を感じるだけでなく、二、三日その人の中に居候することもありえる話だと私は確信している。

 心が光だと思う訳には、「心の原料は原子である」ということが前提となっている。「原子が心の原料だなんて話は荒唐無稽も甚だしい」と叱責されるかもしれない。

 原子は、原子核(陽子と中性子)と電子からなっていて、さらに奥の世界は、素粒子の世界だといわれている。

 では、さらにその奥へ奥へと内なる宇宙に思いを進めるならば、一体どうなるのであろうか。何があるのか、誰が待っているのかと素人の空想を宇宙大に広げると、かぎりなくゼロの世界に到達するのではないのか、と思いは広がるばかりである。実はそのかぎりなくゼロの世界こそ、いのちの中心世界ではないのか、と現実味を帯びて迫ってくる。そこが、宇宙原初の時代情景なのではないかと、私はその幻想を描いているが、どうであろうか。

 ある日突然、そのかぎりなくゼロの世界に二つの激しい渦巻きが発生して、互いに回転を始めたとする。それは、互いに反対方向に回転しながら左右二つの渦巻きとなって、8文字状を描き続けることになり、私はそれを生命8字還流と呼ぶようになった。

 そして、悠久の歳月をかけ、陽子と中性子が組み合って核を成し、その周りを電子が軌道をつくっていのちの元となる原子ができたであろうことを思うとき、そのいのちの末裔である私たちは、宇宙始まって以来のいのちを繋ぐ、一三七億歳の天文長寿の、れっきとした地球人ということにならないだろうか。われわれには、天眼、天耳、天鼻などの神通力が備わっていて当然ではないか。

 だが、世の中の平安調和を思ってか、宇宙の親様は、人の心に幕をはってくれたようである。混乱がないように、心の安全弁を与えてくれたと思えてならない。

 何を考えようが、どんな心で生きようが、自己責任のもとで、寛大な自由を与えてくれたのではないであろうか。だが心の自由も、宇宙絶対調和力によって自動的に統御されているのも事実であると私は受け止めている。

 大脳新皮質が発達した人類から、神通力は加速度的に退化していると思うが、他人の心も、自分の心も、互いに不特定多数の中で時空を越えて伝播されている現実の中、ときには、心の波(波形)が類似すると一瞬のひらめきにも似た心のひびきを受け取ることもあるものである。元々生物に備わっている古い脳(大脳辺縁系)にこそ、生命の根源を司る機能が組み込まれていると思われる。

 心を電磁波の光として考えるとき、お互いの心の波形の山と山、谷と谷が合うようであれば心の光は強くなると思うし、それとは逆に、波形の山と谷、谷と山がぎこちなく重なるようなお互いの心のタイプであれば、波の干渉によってその心の光は弱くなると考えられるから、心は打ち消されて伝わらない。

 心の波形といっても、ピンからキリまであることを思えば、千変万化の人心の中で、心の波は想像以上の階層となるから、以心伝心の声なき声の響きは、そう易々とは伝わりはしないであろうし、強いてその発生メカニズムを推量するならば、絶対的な心の静けさが伴ったとき、思念の精神感応が起こりやすいと、私は自分の体験をふまえて、そのように考えている。ここで、本題に入る前に一つの体験例を紹介する。

 平成四年七月一四日からの、たま出版(株)主催のスピリチュアル・ツアーに参加した後日談であるが、帰宅した私は、自分の心に、得も知れぬ変化が起きていることに気がついた。朝、目を覚まして起き上がろうとしたその一瞬のこと、顔の中から白煙にも似た湯煙のような気が出たかと思うと、その白煙が女性の顔に変わり、またたく間に、雲が流れるようにして消えたのである。その顔は、ツアーで一緒だった女性、Y・Hさんであると確信できたから、そのことを本人に電話で伝えてみて驚いた。受話器の向こうで、「あら、やっぱりっ!」と言うではないか。その女性と別れるときにちょっとしたドラマがあったことで思いを強く発したのと、また、似たような心の波調の持ち主でもあったようである。この一例からも、心は電磁波の光であり、一種の電波ととらえてみることができよう。この場合は時間的に、二、三日の間、私の心の中に彼女の心が滞在していたことになる。

 さてここから、本題の体験の話をすることにしよう。それは、妻の父方の伯母を見舞に出かけたときのことであった。いわば〝死の予告〟とも思われる、遠隔精神感応の体験である。二日続けた見舞の初日は、平成四年五月二二日金曜日であったが、その帰りの道中で、茨野新田という集落を通過していたときのこと、突然妻は、テレパシーを受けたのであった。
「お父さん、今、ヨシ婆さんの感じのする心が入ったけど何だろうか?」

 それは、「ツーヤクダー」という、いのちからのひびきが、妻のいのちに同調していたらしい。すかさず妻が時刻を見ると、五時二二分になっていた。

「あら、今日は五月二二日だよ」

と、妻が不思議に感じて言う。

 私は、ツーヤクダー…ツーヤクダー…という言葉の流れを二度、三度頭の中で繰り返していた。そのうちに、「通訳だ」という現実語となって浮き上がってきたのである。

ヨシ婆さんは、九六歳という立派な長寿を全うしている。何といってもこの世は有限世界であるから、九六歳は立派なものである。
 だが、生死の臨界線にいるヨシ婆さんは、枕元で呼びかける妻の言葉にはほとんど反応をしなかった。しかし妻に対して、何かしらの神通力を感じていたらしいから、ヨシ婆さんの魂はきっと、「富美子(妻)は、私のいのちの通訳だ」と言ったのではないのか、と私はそのように理解した。
 さらに、五月二二日と五時二二分は、ぴたりと一致する数霊でもあるから、この数字には深い意志性を感じられてならない。この数字の同調性をどのように受け止めればいいのか、単に、数字が合ったとか合わないという次元でないことは肌で感じられる。数字の持つ意志性には、何か根源的次元からの能動的なひびきが感じられるのである。ある特定の魂からの、言葉以前の強烈な意志の伝達があるのではないか。それこそ通訳はできないが、数字は宇宙語(私の造語)のような感じがするのである。いのちの中は、数の魂(ひびき)で一杯なのである。

 そして、翌日、二度目の見舞を終えてからの帰路のこと、助手席の妻のいのちに再びテレパシーが入ってきた。

「フミコ ト アッテカラ スンデキタ」
「どういうことですか」と妻は自問した。
「コメノトギスルノヨウニスンデキタ

イグドゴワガラネガッタガ
コンドハッキリシテキタヨダ」

 昨日は「ツーヤクダー」と言い、今日はこのようなひびきである。

 ここで、はっきりとその内容が浮き上がってきたのである。

 妻に対してヨシ婆さんが、「あなたは魂の受け答えができる通訳なんです」と言ったのが昨日のことで、今日は、

〝富美子(妻)と会ってから心が澄んできたぞ

それは米の研ぎ汁のように澄んできたよ
わたしの行く先(逝く先)わからなかったが今度はっきりしてきたよ〟

という内容であることがわかる。

 ヨシ婆さんは、生死の臨界線上に来ていて、自分の還るところは極楽でも地獄でもない、澄み切ったいのちの原子世界、生命元素(食=原子=精神世界)の世界なのだということを、一心に伝えてくれたのではないのか…。

 ヨシ婆さんは、妻に伝え終えてから四日後の平成四年五月二七日に、澄みわたる生命元素世界(光の世界)へと旅立っていった。享年九六歳の天命長寿であった。

 心はいのちの本質、死ぬことのないいのちの宝。心の光は意志を乗せ、魂を乗せ、物申す電磁波のひびきであると思うのである。

 

 

酒と米と魂の守り

 自分を変えようと思い立ってから、早や二六年が過ぎた。言葉の上や、化粧とか衣装で別人に変身するのは簡単な話だが、魂までとなればまったく次元の違う話となるから、不可能にも近い現実となる。

 言葉を変えれば意識改革のことであり、その意識といえば万人みな違う人格であり、性格であり、いい換えれば遺伝子性の意識(心・魂)ということになる。これは大変なことである。中を開いて洗濯するわけにもいかず、本当に厄介千万なことだから、人は皆、ありのままで生きるのが一番いい。

 この体はいわば魂の貯蔵庫みたいなもので、その蓄積された魂の量といえば宇宙大にもなるから、中の魂を変えるなどということはできない。唯一それを変えるとすれば、よくいわれる「心の入れ替え」、しかし正確にいえば、「心を入れる」のであって、入れ替えるのではない。

 一度、生命コンピューター(記憶脳)にインプットされた心は、善くも悪くも、正直に自分の心の蔵に蓄積される。家族環境、社会環境、自然環境、生活の全般にわたっての生きることの環境が、自分をつくりつづけるツール(道具)なのであるから、それらのどれ一つとっても自分という者をつくり上げる要素になり、また要因ともなる。

 だから、生まれ持ったありのままで生きるのが一番いいことなのだが、さて、それがために、人生を大きく狂わせることなどが現れてくると、それはまた、一大事であって、悪性に引き落とすようなことにでもなれば人生がメチャクチャになってしまうから、それはいけない。

 ありのままの自分で生きられて、無難に人生をまっとうできるのであればそれにこしたことはない。

 私のように、ありのままに生きたがために大きな落とし穴にはまった人間は、否応なく、心の修行が必要となる。それが為に、冒頭に書いた通り二六年目を迎えても、内面の葛藤はいささかなりとも残るものである。

 今は、具合の悪い遺伝子に振り回される自分ではなくなったといい切れるところまで到達したと思っている。

 私は酒で失敗を起こした。酒乱の自分との闘いはあまりにも熾烈であって、そのために、妻や家族を辛く不幸な環境に突き落とした。

 人は、さまざまな悪弊に悩まされるであろうが、その救いとしての心のよりどころといえば、宗教などさまざまなルートがあり、その門戸を開いてくれている。しかし私は集団で精神修養することにかなりの抵抗があり、独善としての自己改革を選んできた。

 心を変えることはできない。できるのは、新しい心を積み上げることだけだと思う。心に描いた文字は決して消すことはできないのである。

 パソコンには、ゴミ箱という便利な箱があって不要な情報は捨てることができるが、遺伝子性の魂の世界ではそれはできない。ひたすら、悪性因子(人生のマイナス要因)の、心の文字を薄れさせるしかないのだ。善くない自分の心が活躍できないほどに、新しい心を積み上げる。そういう修行に徹するしか方法はない。

 お陰で私は信仰心を持つことの大切さを知ることができた。酒の親である〝米のいのち〟に手を合わせる。すなわち、食のいのちであり、「生きる原点忘れまじ」であり、そのことから当然のように、心のふる里、いのちのふる里を、そして究極は「いのちとは何ぞや」と、一途に探求する人生街道となったのである。そこから得た心の世界を、新たな自分の心として蓄積することを心掛けている。

 それがためにはまず、「断酒」という二文字を確固として守り通すことであった。そして、昭和六一年元旦が私の断酒記念日となった。

 それからはや二六年目の歳月にさしかかったということになる。詳しいことは自分史『酒乱』に書いたが、それは、妻との二人三脚の日々であった。その中の一節を引用して話を進めたいと思う。

 妻の口からよく出てきた言葉に次のような話がある。

「お父さんが舞ったのではありません。酒が舞ったのです。酒の親は米です。米は透明なご神酒となりますように、澄んだ心になるための道のりでした。お父さんは酒の親の、米の心に還るのです。酒乱はそのための道のりでした」

 私は、米のいのちに還る修行者になったのである。

 続けて「天馬の如し女神の妻」の一節を引用してみる。

 一つの縁によって人の運命はその向きを変えてしまう。大きく小さく、善性に悪性にと、その方向は変わる。妻と私の生命は、厳しい縁を交えながら、今や遅しとばかりしっかと向きを変え、「あっちの水は辛いぞ、こっちの水は甘いぞ」と、子どもの頃のホタル狩りのように、いつも、その点滅する光明に向かって走りだす。

 これまで二〇年ほどの歳月を私に、ひたすら従順に、そして、一途の願いをかけて見守ってきてくれた妻だった。だが、矢尽き刃折れて、このままでいけば、妻のほうが黄泉の国(生命世界)へ連れて行かれても何ら不思議ではなかった。しかし、従順な女は一転して強い天馬のごとき力量に溢れ、迫力ある女神へと変身する。

 もうどうしても酒乱を許すことはできないと、手を変え品を変え積極化してくる。ときには「バシ!」と、鞭が音を立てて飛んできたこともある。今までの積もり積もったものが一気に突出してくるからその勢いは実に凄い。

 悪鬼のような酒乱のやからも最後の砦を守ろうと、これまた必死の応戦だった。祖先累々の酒乱の亡者を呼び集め、かつまた、他界からも援軍を引き連れての熾烈な戦火の火ぶたは切って落とされた。

 ここまでくると現実世界の領域を越して、霊界神界を交えての運命劇となった。そのころから私の母も妻の守護霊となり、援軍となって、妻は、この夫がわが子とばかり、腹を痛めたわが子なら、煮ても焼いても喰っても当然とばかり躍り出た。

 

継いでならぬぞ子々孫々
道をはずしたこの酒乱
きれいな生命いのちをつなぐのが
これぞ人の子人の道
何んで退がらりょ酒乱の夫
許してくれよ今しばし

あかい涙もやるせない
呑んで食い入る一文字
キリッと結んだ口元に
キラッと光る神光を
きよめたまわんこの夫

 

 妻は私を産んだ母親とも重なって動き出した。折りから雪は降りしきり、地上は見る見る白銀の光り輝く昼下がりのことだった。

 神と魔の対決は時の休まることもなく、その後一〇年はあっという間の生命の運びとなってゆく。

 夫は四六歳、妻も四六歳。後に妻は次のような声なき声の文字を残している。

 

雨だれの一粒にてもみたまは宿る
声となり言葉となりて世に残り
不思議な世界のつなぐ道となり

昭和五八年七月三日二時二六分

 
真実を見いだすこと
真実の道こそ他生の喜び重ねなり
正しく判断できる人こそ
限りなき幸せを生む

昭和五八年七月四日六時

 

 われわれの目に見えぬ生命。その声なき声の沈黙の世界、その声を聞きいただき示す文字となって残されている。妻は、この文字のことをいつしか〝四十八字〟と呼んだ。

 光り輝く一粒の雨だれその光の玉からは、烈しい生命の響きが伝わってくる。生きて何かを語ろうとする。その声なき声。そこには、奥深い生命の愛が響いているといえよう。米の、いのちの光に近づけようとした妻の一心。

 夫の汚れた心が、酒の親である〝米のいのち〟に純化できますように、また、人間の心の元となる、米たち一切の食物の生命世界に純化できますようにと、妻は一途に心をこめて夫の陰になり、日向になって守ってきた。

 積み重ねてきた心の蔵(霊魂)を変えることは実に大変な仕事となるが、この心改めの大仕事も、すべて自分の力でやり遂げてきたと思いがちである。ところが、それは大きな誤りであることに気づくようになった。そこには多くの、共振共鳴する魂たちが集結するという、内的実在の世界があることに気づくのである。内なる魂たちの守りの世界があるという実在感である。

 内在する霊魂世界では、酒乱を引きずる心に共振共鳴する霊魂たちは、改心して新しく積み上げる心に対して波動が合わず、守りの魂から押し返されて次第に離れて行くものである。
 魂たちは、本人の心の向き(改心の方向性)がどちらに向いているかを灯台明かりとして、縁結びの舵取りをしてくれていることがわかるようになった。

 亡き心ごころの働きを知る唯一のひびきは、現実に見る文字・数・色の波動媒体である。昨今、私は、数霊=数字によるメッセージ性こそ、亡き魂の表現媒体になっていることを実感できるようになった。

 数霊は、数字によるメッセージ性といえるが、また、数字による意志エネルギーと考えてもいい。そのことはすなわち、数霊は霊魂の情報発信媒体であり、宇宙世界の共通語(造語)なのではないかとさえ思われてくる。

 普段は気づきそうもない世界に、善性に引き上げてくれる霊魂と悪性に引き込む霊魂が、誰のいのちの中にも内在している事実に驚かされる。すべて縁結びの秘密は、自分自身のいのちの中にあった。善くも悪くも縁結びの神は、わが身の中から目を光らせているのである。

 わがいのちは、天地に通じる送受信基地であり、今風にいえば、ライフ・インフォメーション(生命情報基地)といったところであろうか。

 ここから、拙著の自分史『酒乱』を出版したときの、霊魂の動きを追ってみることにする。

 断酒七年目に入った平成四年早々にかけて、自分史を残すことを思い立った私は、それまで文章や原稿書きには無縁であったにもかかわらず、書き始めると、八日間で粗稿を書き上げてしまった。
 もちろんのこと、出版界とは無縁であるから、何をどうしたらよいかわからない。まずは出版情報を知りたくて図書館を訪ねてみた。

 山と積まれている書籍の棚を夢中で探したが、出版の手立ては何一つつかめないまま立ち去ろうとして最後の棚に引かれるように目をやったとき、『百万人の出版術』という本に出会ったのである。私にとってはまさしく宝物となった。

 こうして、MBC21という出版社を知ることになったのは、平成四年七月七日のことであった。それからというもの、毎日ノートから原稿用紙に清書することとなり、書き終わって、その会社を訪ねたのは七月二三日のことであった。

 初対面の渡辺社長に図書館での出会いを伝えると、話は一気に煮詰まり、原稿を斜め読みの速読で概要を受けとめた社長から、「進めてもよい」という即断をいただくことになった。

 帰りには、社長が執筆した小説『天皇の魚屋』をいただき、帰ってから読み込んでみると、それは史実に基づいた実話のようであった。

 代々天皇の魚屋として、守り継いできた奥八郎兵衛の系譜が事細かに構成されている様子に読み入った。

 ところが、天皇の魚屋は表向きであり、そもそもの系譜は忍者らしく、陰ながらに、天皇を守ることに身命を賭けている様子。その奥家、七代・八代・九代と、京の都から江戸までのことが書かれてあった。

 史実に基づくこの小説から、奥家七代から九代までを系図に書きまとめてみると、ここではっきりと浮き出してきた、霊魂の叫びにも似た共振共鳴が発せられていることに気づくことになったのである。実に衝撃的な出会いであった。

 出版社から契約のことを伝えられたので、急遽八月五日に上京し、実質上の出版手続きを開始した。その頃から急に何かが盛り上がるのを感じた私は、予定より三時間ほど早い電車で東京駅を出発した。帰宅したのは夕刻の五時頃であったが、すでに妻は夕飯を食べ終えるところであった。

 食卓の上にあった容器の上には、食べ終えた大小二個の梅干しの種が置いてあった。それを見たとき私の目に映ったのは、「亀の姿」であった。そればかりか二個の種は、ほどよく「八の字」を描いていて、何かを言おうとしているようでもあった。

 私は「亀の姿と八の字」を感じた一瞬から、内的に、それとなくうごめく何かに気づき始めていた。天皇の魚屋の八代目、奥八郎兵衛は、確か幼名が「亀次郎」であったのだ。

 契約を終えて、予定を三時間も早く帰宅した私よりもひと足早く妻のところに飛んできていたのであろうか。妻のいのちの中で、何をどう伝えようとしたのか、「八代目の八郎兵衛が八の字となり、幼名・亀次郎の亀姿」となって、待って居てくれたのだと思った。
 食はいのちである。食の次元は原子の次元、純真に澄み清められていて、魂が迷うことなく帰られる世界なのである。ピカピカ輝く食のいのちにこそ、魂の愛が息づくことができるのである。

 生きる原点の食の次元で、梅干しの種に亀の姿を見せて、幼名「亀次郎」を示し、「八の字」姿に見せて、八代目の八郎兵衛をうったえるように待っていてくれた。さらにこの日、妻はもう一つの心結びの言葉(四八字)を発した。

 「二一日でおさんあけだよ、しげる」(七時二一分)

と、いうのだ。妻は、「お父さんぐずぐずするなよ、お産明けだよ! お父さんの母だよ、母は二一日の命日なんだよ」というのだ。そして、その心結びの時刻が七時二一分なのであった。

 断酒してから七年。新しい人生の扉は開かれて、まさしく〝お産明け〟となったのであり、二一分は、母の命日の二月二一日と共振共鳴していたのである。

 出版社のMBC21と出会ってからは、いのちの中から何かを促されるように突き上げてくる動きが続いたのである。『天皇の魚屋』に登場する奥八郎兵衛の系図を作りすすめてみると、やけに二一の数霊が迫ってくる。次にそれらを列記してみることにする。

■佐藤夫妻が書いた「米の文字」が届けられた日が、昭和六一年一月二一日であった。
■妻の心結びの「二一日でお産明けだよ、しげる」は、七時二一分であった。
■天皇の魚屋の八代目・八郎兵衛が一〇月二一日亡(三四歳)。その妻・み乃は九月一二日(=二一)亡(三八歳)。
■九代目・延造の襲名披露が一〇月二一日。
■私の母は二月二一日亡。祖母二一日亡。伯母二一日亡。
■妻の祖母二一日亡。

などと、一気に開いた開花のようだ。そればかりか、すべてをまとめて代弁するごとくに、出版社がMBC21であり、出版発行日が平成五年二月二一日なのである。それはまた、母の本命日でもあるのだ。

 ところが、それだけでこの話は終わらなかった。二一の数霊のあまりにも多いことで私は、その系図を作成して渡辺社長に速達便で送ったところ、不思議に思った社長は、電話をかけてきた。

 「僕は二月二一日生まれなんですよ」

と社長は言う。私が、「私の母は二月二一日が命日です」と付け加えると、社長はびっくりして言葉を続けた。「いいことですか、わるいことですか」と、真剣に迫ってきたので、一切が善いことばかりですと、妻が言っておりましたよ、と伝えた。

 共振共鳴現象はそればかりではなかった。社長は末子で父は漁師であるという。私の母は魚屋であり、私も末子だ。さらに、社長の執筆した『天皇の魚屋』が奇しくも魚屋の話であり、内なる霊魂の世界を押し開いてくれたようだ。

 いのちの中では、魂が全方向性のひびき合いの中で、ピカピカ生き生きと働いている姿を、文字や数字を介して見せてくれている。

 よく使われるアクセスという言葉があるが、内なる魂の世界でも、それと同じことがひっきりなしに起きている。出会いとか縁というものは、皆その霊魂のアクセスで成り立っている。生命世界の話であるから、草木や動物、その他あらゆる面で、いのちの光に乗った魂のアクセスが交信していることを私は信じている。

 この世はいのちの聖火ランナーで、すべてがいのちの光で結ばれている。今の世は、IT社会であり、光ファイバー通信時代でもあるが、いのちの世界は、初めから森羅万象にわたり、いのちの光ファイバーで結ばれている。

 だからこそ、波動が合えば共振共鳴し、感動の出会いや、思わぬ良縁を結ぶことが起こる。いのちと心を大切にするよう自分自身に言い聞かせて生きていきたいと思うのである。

 

  

『神秘の大樹Ⅲ文字・数・色で証す新次元』「吉田茂の本と私」の一部

ここから書籍『神秘の大樹 第三巻 文字・かず・色であかす新次元』からの抜粋。「日頃から、心の積み重ねが、いのちの中にどんどん入っていく。その心の集合体が魂であると私は考えているから、どんな魂がどんな勢力圏を張り合っているのか、自分のいのちの世界に関心をもっている。心が成長し、自分のいのちの中にそれぞれの色合いを持った心の集団をつくり上げてきた魂は、それをたぐっていけば、先祖がどうのこうのというよりも、人類全体を、さらにさかのぼれば、とてつもなく深く広い心性世界までつながっている。だから、人類は皆いのちの親子であるともいえる。極言するなら、人類の魂(心性)の岩盤は一つなのであり、一人ひとりの魂にもその岩盤が共存して共有している世界だと私は思っている。人類皆いのちの親子であり、心の親子であるともいえる。そのことはとりも直さず、自分が暗い心やよくない心になればそれは自分だけの問題ではなくなり、他の人にもそのくらい心や、よくない心が、いのちの霊脈を通って知らず知らずに流れていくということになる。一人でも多くの人たちが、明るく良い心で生きていられたらと思う。昨今の人類世界は現実に暗い面の映りが強く、戦々恐々としているのが辛く私に伝わってくる。単独一体のいのちはなし、みんな繋がっているいのち、順々繋がっているいのち、世界はいのちで一体、魂はどこかに必ず繋がっている、共振共鳴で響き合う魂、霊脈を呼び起こせ!良い霊脈を呼び起こせ!」以上、抜粋はここまで。

 

吉田茂の本と私

 ご縁は常に身近なところにやって来ている。待っているともいえよう。普段、そんなことにいちいち気を留める人はいないであろうし、大方は、ご縁の磁力を感ずることもなく通り過ぎていく。

 生活するにはそれでいいのだが、共時性現象に関心を持つものとしては、誰も気づかないようなちょっとした触れ合いにも、「あれ」と息を呑んで心の目が開くのである。

 何げなく心引かれるところには、実は何かがある。心を引っ張る一瞬には必ず何かがあるのである。

 考え方を逆転させるなら、私たちの生体というのは、物性体(肉体)であると同時に、心性体(心)でもあるから、いわば、肉体一〇〇%であり、心一〇〇%という魔法まがいのようなもので、一生命体が二〇〇%で一体という魔訶不思議なことにもなるのである。

 この二〇〇%のいのちは、さらに電気を帯び、磁気も帯びているから、プラスとマイナスの引き合いと押し合いが生じる。

 常識で考えれば、物質一〇〇%のところには何一つ入らないのが当たり前なのだが、そうではないところがこの生命体の不思議。物質一〇〇%に、さらに心が一〇〇%、それも易々と同居しているのだから驚きである。自分というこの生命体は、心であると同時に肉体である訳である。
 心ばかりの自分でもなければ、肉体ばかりの自分でもない。肉体であると同時に心でもあるという不離一体の姿こそ、自分の正体であると、私はいつもそう思っている。

 

いのちは両性
物性と心性
両極両性でいのち
いのちはバランス
両極両性でいのち
一元一体で二象体
不離一体・融合一体は
いのちの宿命
心だけのいのちはなし
肉体だけのいのちもなし

 

という具合に、生命体は、実に神秘に充ちた存在であるという思いが日を追うごとに強まっていく。

 何も考えずに道を歩いていても、ふと心を引かれることや、嫌な思いを感じることも少なくない。それは、心にも肉体にも電磁波があるからだと私は考えている。

 日頃から、心の積み重ねが、いのちの中にどんどん入っていく。その心の集合体が魂であると私は考えているから、どんな魂がどんな勢力圏を張り合っているのか、自分のいのちの世界に関心をもっている。

 心が成長し、自分のいのちの中にそれぞれの色合いを持った心の集団をつくり上げてきた魂は、それをたぐっていけば、先祖がどうのこうのというよりも、人類全体を、さらにさかのぼれば、とてつもなく深く広い心性世界まで繋がっている。だから、人類は皆いのちの親子であるともいえる。極言するなら、人類の魂(心性)の岩盤は一つなのであり、一人ひとりの魂にもその岩盤が共存して共有している世界だと私は思っている。人類皆いのちの親子であり、心の親子であるともいえる。

 そのことは取りも直さず、自分が暗い心やよくない心になればそれは自分だけの問題ではなくなり、他の人にもその暗い心や、よくない心が、いのちの霊脈を通って知らず知らずに流れていくということになる。一人でも多くの人たちが、明るく良い心で生きていられたらと思う。昨今の人類世界は現実に暗い面の映りが強く、戦々恐々としているのが辛く私に伝わってくる。

 

単独一体のいのちはなし
みんな繋がっているいのち
順々繋がっているいのち
世界はいのちで一体
魂はどこかに必ず繋がっている
共振共鳴で響き合う魂
霊脈を呼び起こせ!
良い霊脈を呼び起こせ!

 (後略)

 

参考図書からの抜粋(ハ)

 

体の自律性と神秘性

  1. 『神秘の大樹Ⅰ偶然が消える時』
  2. 『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』
  3. ほかの視点
  4. 出典・引用図書
  5. ほかの主題

 

 

天地普遍の縁エネルギー

(中略)

非現実が現実となり
不可視が可視となり
現実の裏で働く真実

 

 いのちほど神秘な世界はない。見える現実の奥できらめく縁のエネルギー。満光満華の光で交差している真実世界。出会いの秘密はどうもここにあるようだ。現実世界を紡ぎ出す裏方さんのその縁の発生源は、生命の本質、いのちの本体にその秘密が内在されているようだ。まず、生きる原点を覗いたとすれば「食と呼吸」に行き着く。

 

食が生命に転換する次元
口から入った食物が胃で燃やされて
小腸で吸収され血となり肉となる生命転換次元

 

に、縁エネルギーの結びの神がおられるようだと考えてみた。そこは思えば思うほど、自分ではどうにもこうにも手のかけようもない不可侵の聖域なのだ。そこを生命のゼロ磁場の世界と私は考えた。

 いのちの単位には、一体の生命体にしても、それを構成する細胞一つにしても、原子(元素)一つにしても、必ずやゼロの磁場があると思っている。この命のゼロ磁場こそ万物普遍の情報をキャッチできる次元で、人知ではコントロールできない次元ではないのか。

 この世の億万兆の情報をキャッチできる次元のその接点を結んだ時、「あっ、この方と会いたいっ!」と、全身に閃きを発生させ.意識へと昇華されるのかもしれない。
 共振共鳴共時の現象は、おおむね「文字・数・色」に分類されて、相互にその接点を結び合う吸引・反発の霊魂の働きと考えてもみた。その発生場がいのちの中心軸=ゼロ磁場ではないのだろうか。

 こうして私たちの、共振・共鳴・共時の旅は果てしなく続いている。

 

 

『神秘の大樹Ⅰ偶然が消える時』
「天地普遍の縁エネルギー」より

ここから書籍『神秘の大樹 第一巻 偶然が消える時』の抜粋。「まず、生きる原点を覗いたとすれば「食と呼吸」に行き着く。食が生命に転換する次元、口から入った食物が胃で燃やされて、小腸で吸収され血となり肉となる生命転換次元に、縁エネルギーの結びの神がおられるようだと考えてみた。そこは思えば思うほど、自分ではどうにもこうにも手のかけようもない不可侵の聖域なのだ。そこを生命のゼロ磁場の世界と私は考えた。いのちの単位には、一体の生命体にしても、それを構成する細胞一つにしても、原子(元素)一つにしても、必ずやゼロの磁場があると思っている。この命のゼロ磁場こそ万物普遍の情報をキャッチできる次元で、人知ではコントロールできない次元ではないのか。」抜粋はここまで

 

 

第一章 心のつる草

(中略)

「日々の心」 四八二

 
母はわが子を宿した
そして
その子に母は宿る
母はわが子を生んだ
そして
その子の中に
自分をも産み落とした
そして
その子の中で生きる
母と父
その子の外にいる元の
母と父
そして
その子の中にも
生きている母と父
どちらも〝本物〟だ
そして
元の母と父は死んだ
そして
その子の中で育つ
母と父
永遠に繰り返される
母と子
子は母となり
子を宿し母となり
子の中に生きる
死に変わり生き変わりて
続く魂
自分の中は魂の博物館

 

 「日々の心」四八三

 
母の子宮の中では
いのちがいのちを
いのちたらしめるための
十月十日とつきとおか
新しいいのちの再生世界
そこは母の〝呼吸と食〟以外は
立入禁止の聖域
また、いのちの道は一本道
口から入った食が
いのちを
いのちたらしめるための一本道
食はいのちで
食以外は立入禁止
一呼一吸天の気
一食一排地の気
天地の気はいのちの食
食はいのちの呼吸なり

 

 万物の霊長といわれる人間ですが、次元を生きる原点に引き戻して考えるとき、果たしてどうでしょうか。もしもこの大自然界に放り出されたときのことを想像するだけで、何もかもギブ・アップすることばかりです。

 人間が優れているのは〝知性〟という特性があればこそです。そして、優れているのは、単に人間社会でのことにすぎないのだと気づきます。

 単身で空を飛ぶことはできないし、オリンピックのどんな競技の一流選手でも、猿やチーターや象やライオンやイルカたちに太刀打ちできないのは先刻承知のことです。裸一貫では成すすべもありません。優劣ではなく、その種が持つ〝特性〟という、いのちの平等に立たなくては比較などできようがありません。優劣は人間社会でのことであり、他の生き物が人間より、すべてにおいて劣るという見方は、白紙に戻さなくてはなりません。

 人間は、いろいろとものを考え、何かをつくり上げるという創造力にかけてはものすごい能力を発揮しますが、これを、万物の霊長というより、人間に与えられた一大特性と考えてみたいものです。

 特性である〝知性〟の活躍で、人間はとてつもなく広大な文化圏をつくり出しましたが、その、量的資産と同様に〝心の資産〟をも積み上げてきました。この心の資産を「魂」と呼んでみたとき、人間の魂は、私なりに考えれば、人間の遺伝子(DNA)とイコールに近いのではないかと思うのです。

 人類の心と行動のすべてが、一つ一つの細胞に組み込まれている遺伝子そのものの、大部分を形成しているのではないでしょうか。これについてはもちろん、人類という種に到達するまでの、果てしない生物の精神体である「心性」のルーツに遡らなければなりませんが、人類になってからに絞って考えてみるならば、人間が人間であるための、心と体の生きざまの記憶量が「遺伝子化」したのではないかと考えてしまうのです。

 ナンセンスも甚だしいとそしりを免れないでしょうが、今は、ヒトゲノムが解明されている時代です。遺伝子の数は約2万といわれ、その中で、確かに意味が解明されている遺伝子は全体の2%以下に過ぎず、大部分は何のためにあるのかさえわからないというではないですか。もしかするとそれこそ〝魂のDNA〟なのではないか、これは、ずぶの素人だからおそれもなく考えつくことかもしれません。

 いずれにしても、人の心の記憶蓄積量は、他の生物たちと比べたら、とんでもなく膨大な量になると思うのです。

 一人ひとりのいのちの中は、魂の巨大なダムになっています。その魂が、いのちの光の柱に絡み付くようにして生き続けています。

 いのちの道は一本道です。大調和の光を放つ一本道です。そのいのちの一本道の光の中で、人間の魂は正しい調和安定の波動に見据えられ、かつ、監視・コントロールされているのです。

 「日々の心 四八三」で記したように、母の子宮の中は、母の「呼吸と食」以外は絶対立入禁止の聖域なのです。いのち自身がいのちを育てている聖域なのです。その十月十日とつきとおかといわれる平均期間内で、人が人として再生します。このとき、圧縮し、凝縮された魂も同時に再生の道に入ります。

 その間、母が摂取する「呼吸と食」以外は立入禁止の、いのちの聖域である「子宮」の中で、引き継がれてきた魂のすべても、この世の夜明けを待って、新生児として誕生します。肉体の誕生は魂の誕生でもあります。

 子宮の中では、母がいただく大気の呼吸と食物の摂取によって、


いのちによる
いのちたらしめる
いのちのために
宇宙根源からの
生命エネルギーで
ごくごく自然に
肉体と精神の
一元一体の
いのちの姿になるために
その流れを続けます

 

 ひたすら母親は、呼吸の気を送り、生命元素の〝食〟を送り続けての生命奉仕です。十月十日とつきとおかは、立入厳禁聖域となる子宮の小宇宙世界であり、宇宙意志のカプセルでもあるのです。

 そして、機が満ちてこの世に出生した新生児は、やがて、一体のいのちとして、その骨格が完了するのは、男性でだいたい一八歳、女性で一五歳少々に達してのこと。骨の数は、新生児で約三〇〇本、最終的には全部で〝二〇六本〟になるといわれています。
 一生命体が完成するまでの原形は、十月十日とつきとおかの、子宮という小宇宙世界で、その基盤ができあがるわけです。母親の口から入った〝食〟が胃に入って、十二指腸に入り、小腸に入り、分子・原子次元まで分解された物が吸収細胞によって取り込まれ、全身に届けられます。そこでいのちの新陳代謝が起こり、生き生きと輝く命となります。そして、子宮の胎児が育ちます。

 胎児が出生するまでの、この完璧ないのちの組み立ての仕組みは、〝天のご意志〟というほかありません。

 こうして積み上げられてきた人間の魂は、成長とともに、この世のあらゆる心身環境を取り入れながら、扉を一つ、また一つと開いていくこととなるでしょう。

 いのちの監視の中にある魂は、億万年の心の集団です。魂に新旧はないと私は思っています。昔も今もありません。百年前も、万年前の魂も、すべて〝今〟に生き生きと輝くのです。多次元立体ではなく、一次元の、一面一体で同時再生の世界です。

 浮き上がる心の条件さえ整えば、昔も今も越えた次元の〝今〟に生きてくる世界なのです。魂は活火山と同じです。条件を待って噴き上がります。その条件は、今の心でお膳立てをしています。

 「今の思い」という心も亡き魂の心も、すべて、このいのちの中に在ります。いのちの〝原子〟となって生きているのです。

 大地を見てみれば、種を蒔いてもいないのに、いつの間にか思い思いに芽を吹き出した草木がずんずんと丈を伸ばして花を咲かせ、実をつけ、種を育てます。太陽や水などの自然の発芽環境条件を待ちつづけて、いのちに最もよい自然条件の下で顔を出してきているのです。生命波動の共振共鳴の現象です。

 たとえ、何もない荒れ地でも芽を出し始める草木たちの、そのいのちを、自分の中の魂にも重ね合わせてみることができるというものです。自分のいのちを、〝心の大地〟に見立てたとき、その心の大地から多くの魂の芽が、生きる条件を待ちながら、顔を出そうとしています。

 それを〝心のつる草〟にたとえるなら、各人の心の大地から育ち始めている心のつる草は、その人の「縁結びの使者」となって、人生に大きな力となって働き続けることになりましょう。

 この世界の人間のいるところ、どこにでも、心のつる草が縁結びの一大センサーとなって交錯している事実は、目には見えない光の世界です。

 心のつる草は光です。なぜ光なのかといえば、心は、生命組成である原子の反応から発する電磁波と考えるからです。

 心は、いのちという光の下でしか生きられない宿命を背負っています。それゆえにいのちは、一元一体二象体という現れ方をします。いのちは、元は一体のエネルギー体であって、その中では、物質体と精神体という二大特性を持つエネルギーが融合一体となって、動となり静となり、火となり水となり、中心には絶対静のゼロ磁場があると思うのです。その一体の中に二象体のエネルギーを容しているのが、私の考えるいのちの実体像なのです。その〝二象体〟は、物質体(物性=肉体)と、精神体(心性=心)という現れ方であり、その〝精神体〟の部分から発する二次的生命に当たるのが心であると考えています。いのちのエネルギーは、そのような実体像を持つ、宇宙絶対調和力(一大調和ご意志)であると思えば、心というのは常に、生命エネルギーの調和安定に引き戻される宿命の下でしか存在できないということになります。

(後略)

参考図書からの抜粋(ニ)

 

根源から観る体と心の相関性

  1. 『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』
  2. 『酒乱‐米の生命が生きるまで』
  3. ほかの視点
  4. 出典・引用図書
  5. ほかの主題

 

 

 

『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』「第一章 心のつる草」の一部

抜粋はここから。心のつる草は光です。なぜ光なのかといえば、心は、生命組成である原子の反応から発する電磁波と考えるからです。心は、いのちという光の下でしか生きられない宿命を背負っています。それゆえにいのちは、一元一体二象体という現れ方をします。いのちは、元は一体のエネルギー体であって、その中では、物質体と精神体という二大特性を持つエネルギーが融合一体となって、動となり静となり、火となり水となり、中心には絶対静のゼロ磁場があると思うのです。その一体の中に二象体のエネルギーを容しているのが、私の考えるいのちの実体像なのです。その〝二象体〟は、物質体(物性=肉体)と、精神体(心性=心)という現れ方であり、その〝精神体〟の部分から発する二次的生命に当たるのが心であると考えています。いのちのエネルギーは、そのような実体像を持つ、宇宙絶対調和力(一大調和ご意志)であると思えば、心というのは常に、生命エネルギーの調和安定に引き戻される宿命の下でしか存在できないということになります。以上、抜粋はここまで。

 

 

第一章 心のつる草

(中略)

「日々の心」 四八二

 
母はわが子を宿した
そして
その子に母は宿る
母はわが子を生んだ
そして
その子の中に
自分をも産み落とした
そして
その子の中で生きる
母と父
その子の外にいる元の
母と父
そして
その子の中にも
生きている母と父
どちらも〝本物〟だ
そして
元の母と父は死んだ
そして
その子の中で育つ
母と父
永遠に繰り返される
母と子
子は母となり
子を宿し母となり
子の中に生きる
死に変わり生き変わりて
続く魂
自分の中は魂の博物館

 

 「日々の心」四八三

 
母の子宮の中では
いのちがいのちを
いのちたらしめるための
十月十日とつきとおか
新しいいのちの再生世界
そこは母の〝呼吸と食〟以外は
立入禁止の聖域
また、いのちの道は一本道
口から入った食が
いのちを
いのちたらしめるための一本道
食はいのちで
食以外は立入禁止
一呼一吸天の気
一食一排地の気
天地の気はいのちの食
食はいのちの呼吸なり

 

 万物の霊長といわれる人間ですが、次元を生きる原点に引き戻して考えるとき、果たしてどうでしょうか。もしもこの大自然界に放り出されたときのことを想像するだけで、何もかもギブ・アップすることばかりです。

 人間が優れているのは〝知性〟という特性があればこそです。そして、優れているのは、単に人間社会でのことにすぎないのだと気づきます。

 単身で空を飛ぶことはできないし、オリンピックのどんな競技の一流選手でも、猿やチーターや象やライオンやイルカたちに太刀打ちできないのは先刻承知のことです。裸一貫では成すすべもありません。優劣ではなく、その種が持つ〝特性〟という、いのちの平等に立たなくては比較などできようがありません。優劣は人間社会でのことであり、他の生き物が人間より、すべてにおいて劣るという見方は、白紙に戻さなくてはなりません。

 人間は、いろいろとものを考え、何かをつくり上げるという創造力にかけてはものすごい能力を発揮しますが、これを、万物の霊長というより、人間に与えられた一大特性と考えてみたいものです。

 特性である〝知性〟の活躍で、人間はとてつもなく広大な文化圏をつくり出しましたが、その、量的資産と同様に〝心の資産〟をも積み上げてきました。この心の資産を「魂」と呼んでみたとき、人間の魂は、私なりに考えれば、人間の遺伝子(DNA)とイコールに近いのではないかと思うのです。

 人類の心と行動のすべてが、一つ一つの細胞に組み込まれている遺伝子そのものの、大部分を形成しているのではないでしょうか。これについてはもちろん、人類という種に到達するまでの、果てしない生物の精神体である「心性」のルーツに遡らなければなりませんが、人類になってからに絞って考えてみるならば、人間が人間であるための、心と体の生きざまの記憶量が「遺伝子化」したのではないかと考えてしまうのです。

 ナンセンスも甚だしいとそしりを免れないでしょうが、今は、ヒトゲノムが解明されている時代です。遺伝子の数は約2万といわれ、その中で、確かに意味が解明されている遺伝子は全体の2%以下に過ぎず、大部分は何のためにあるのかさえわからないというではないですか。もしかするとそれこそ〝魂のDNA〟なのではないか、これは、ずぶの素人だからおそれもなく考えつくことかもしれません。

 いずれにしても、人の心の記憶蓄積量は、他の生物たちと比べたら、とんでもなく膨大な量になると思うのです。

 一人ひとりのいのちの中は、魂の巨大なダムになっています。その魂が、いのちの光の柱に絡み付くようにして生き続けています。

 いのちの道は一本道です。大調和の光を放つ一本道です。そのいのちの一本道の光の中で、人間の魂は正しい調和安定の波動に見据えられ、かつ、監視・コントロールされているのです。

 「日々の心 四八三」で記したように、母の子宮の中は、母の「呼吸と食」以外は絶対立入禁止の聖域なのです。いのち自身がいのちを育てている聖域なのです。その十月十日とつきとおかといわれる平均期間内で、人が人として再生します。このとき、圧縮し、凝縮された魂も同時に再生の道に入ります。

 その間、母が摂取する「呼吸と食」以外は立入禁止の、いのちの聖域である「子宮」の中で、引き継がれてきた魂のすべても、この世の夜明けを待って、新生児として誕生します。肉体の誕生は魂の誕生でもあります。

 子宮の中では、母がいただく大気の呼吸と食物の摂取によって、


いのちによる
いのちたらしめる
いのちのために
宇宙根源からの
生命エネルギーで
ごくごく自然に
肉体と精神の
一元一体の
いのちの姿になるために
その流れを続けます

 

 ひたすら母親は、呼吸の気を送り、生命元素の〝食〟を送り続けての生命奉仕です。十月十日とつきとおかは、立入厳禁聖域となる子宮の小宇宙世界であり、宇宙意志のカプセルでもあるのです。

 そして、機が満ちてこの世に出生した新生児は、やがて、一体のいのちとして、その骨格が完了するのは、男性でだいたい一八歳、女性で一五歳少々に達してのこと。骨の数は、新生児で約三〇〇本、最終的には全部で〝二〇六本〟になるといわれています。
 一生命体が完成するまでの原形は、十月十日とつきとおかの、子宮という小宇宙世界で、その基盤ができあがるわけです。母親の口から入った〝食〟が胃に入って、十二指腸に入り、小腸に入り、分子・原子次元まで分解された物が吸収細胞によって取り込まれ、全身に届けられます。そこでいのちの新陳代謝が起こり、生き生きと輝く命となります。そして、子宮の胎児が育ちます。

 胎児が出生するまでの、この完璧ないのちの組み立ての仕組みは、〝天のご意志〟というほかありません。

 こうして積み上げられてきた人間の魂は、成長とともに、この世のあらゆる心身環境を取り入れながら、扉を一つ、また一つと開いていくこととなるでしょう。

 いのちの監視の中にある魂は、億万年の心の集団です。魂に新旧はないと私は思っています。昔も今もありません。百年前も、万年前の魂も、すべて〝今〟に生き生きと輝くのです。多次元立体ではなく、一次元の、一面一体で同時再生の世界です。

 浮き上がる心の条件さえ整えば、昔も今も越えた次元の〝今〟に生きてくる世界なのです。魂は活火山と同じです。条件を待って噴き上がります。その条件は、今の心でお膳立てをしています。

 「今の思い」という心も亡き魂の心も、すべて、このいのちの中に在ります。いのちの〝原子〟となって生きているのです。

 大地を見てみれば、種を蒔いてもいないのに、いつの間にか思い思いに芽を吹き出した草木がずんずんと丈を伸ばして花を咲かせ、実をつけ、種を育てます。太陽や水などの自然の発芽環境条件を待ちつづけて、いのちに最もよい自然条件の下で顔を出してきているのです。生命波動の共振共鳴の現象です。

 たとえ、何もない荒れ地でも芽を出し始める草木たちの、そのいのちを、自分の中の魂にも重ね合わせてみることができるというものです。自分のいのちを、〝心の大地〟に見立てたとき、その心の大地から多くの魂の芽が、生きる条件を待ちながら、顔を出そうとしています。

 それを〝心のつる草〟にたとえるなら、各人の心の大地から育ち始めている心のつる草は、その人の「縁結びの使者」となって、人生に大きな力となって働き続けることになりましょう。

 この世界の人間のいるところ、どこにでも、心のつる草が縁結びの一大センサーとなって交錯している事実は、目には見えない光の世界です。

 心のつる草は光です。なぜ光なのかといえば、心は、生命組成である原子の反応から発する電磁波と考えるからです。

 心は、いのちという光の下でしか生きられない宿命を背負っています。それゆえにいのちは、一元一体二象体という現れ方をします。いのちは、元は一体のエネルギー体であって、その中では、物質体と精神体という二大特性を持つエネルギーが融合一体となって、動となり静となり、火となり水となり、中心には絶対静のゼロ磁場があると思うのです。その一体の中に二象体のエネルギーを容しているのが、私の考えるいのちの実体像なのです。その〝二象体〟は、物質体(物性=肉体)と、精神体(心性=心)という現れ方であり、その〝精神体〟の部分から発する二次的生命に当たるのが心であると考えています。いのちのエネルギーは、そのような実体像を持つ、宇宙絶対調和力(一大調和ご意志)であると思えば、心というのは常に、生命エネルギーの調和安定に引き戻される宿命の下でしか存在できないということになります。

 さて、いのちの大地に根差した心のつる草は、出会いを求めて飛びかっています。光の原子が〝意志〟を持った光のつる草となって、縁結びのセンサーとなって、時空なき天地を自在無限に往来を重ねている姿こそ、現実社会であるといえましょう。

 いのちの働きは〝ご意志〟の働きだと私は考えますが、そのご意志は、目に映るわけではありません。実際にどのようにして、そのご意志(いのち)が、縁結びのつる草となって飛び交っているのかといえば、人間社会の「表現媒体」にひびかせて、つまり、共振共鳴した共時性現象(通称=偶然の一致)として、現実として目に映して促しているのですが、多忙な現代人はこういったことにはあまり見向きもしないようです。

 魂が知らしめる「表現媒体」とは、人類文明の「三種の神器」だと私は考えています。それは、文字・数・色による、声なき声の現実の表現形態で、そこに真実が込められています。声なき声の魂は、目に見える表現形態に現実化して生きてきます。

 「いのち」を「ご意志」といいましたが、それは表現であって、現実の共時性現象下では、文字霊・数霊・色霊もじたま かずたま いろたまという媒体表現が、正しいでしょう。共時性現象(通称=偶然の一致)による現実の魂の意志表現は、文字霊・数霊・色霊によって、可視現実の表現となっているのが、これまでの体験を踏まえてわかってきたことです。

 魂の表現形態が、現実社会の中で実際に現象化していることは、共時性現象体験から考えても疑う余地がありません。それは事実です。

 かつては、「魂の叫びが聞こえないか…」などと先人たちから発破をかけられたものですが、まともに受け止めることはありませんでした。ところが、人生七七年も生きてきて、さらに二十数年も意識を内面世界に向けるようになってからは、次第に先人たちのいう〝魂の叫び〟が五感で感じられるようになってきました。魂の表現媒体としての「文字・数・色」のひびきによって、はっきりと理解範囲に入ってきたのです。

 偶然といわれる出会いの不思議や、縁結びの不思議は、単なる一過性の話として済まされてきたのではないでしょうか。

 一瞬の感動的出会いやご縁の結びは単なる表面的感動にとどまって、それ以上に結び付けるものではなかったのが、年を経てから過ぎた昔の追憶の話として、例えば、「あのときあのことがなかったら今頃私はどうなっていたんだろうか…」「あのときの一瞬の出会いでこうしてお前と一生暮らすことになるなんて…」「あのときあの人の一言で人生がらりと変わった。あれで目を覚ましたから今幸せなんだ…」などなど、人生転換にあれやこれやと心の方向性を変えてきた出会いの縁は、多くの人たちの経験知となっているものでしょう。

 それらはすべて偶然の出来事として見過ごされてきました。毎日の生活そのものが、何もかも出会いであり縁結びであり人生の方向性を秘めていたとは、なかなか気づかないものです。

 心に残る衝撃的な出会いだけが出会いのご縁ではありません。家を一歩も出なくても、私たちは多くの出会いの中に生きています。この世の情報がすべて出会いであり、縁結びのセンサーに触れているのです。本を読んで感動して人生の方向性が変わることだってあるでしょうし、テレビなどの視覚に訴えるビジュアルな情報からでも、心を大きく動かされることは結構多いものです。五感で受けるすべての物事が心のセンサーに触れるものであり、いわば、生活そのものが出会いの縁結びの場面であるといえます。

 人生に三度の転機があるとよくいわれますが、縁結びには、「役縁と本縁」があると私は考えています。電車に例えていえば、各駅停車が「役縁」であり、下車駅が「本縁」ということになりましょう。人工衛星の打ち上げならば、一段目、二段目、三段目の推進ロケットが〝役縁〟の働きで、切り離された衛星が〝本縁〟の働きに例えられます。

 人生のターニング・ポイントとなって、目の前の全景ががらりと変わるような出会いのご縁が本縁です。別世界に打ち上げられた衛星に当たるのが本縁で、電車なら、各駅停車で停まる短いスパンの出会いが役縁であり、下車駅が本縁であると考えたらよいと思うのです。

 私が体験した共時性現象の中でも、劇的な人生転機をもたらした現実の出会いがありました。まさしく、人生の〝本縁〟に向けての方向性を秘めていたものでした。

『酒乱‐米の生命が生きるまで』 「米は、いのちの光」の一部

抜粋はここから。私たちが毎日当然のごとく食べている米や野菜などに、宇宙意識の大調和エネルギー(響き)を感じながら、安定した心で生きたいものだ。大調和のエネルギー(米、野菜など)を食べていたとしても、不調和な心(片寄りの心)を持って生きるなら、病気にもなるだろうし、不幸を招くのも当然である。私の酒乱地獄はその典型であった。言い換えれば、一連の不幸性は、人間となった米、野菜たちの生命の叫びと言える。抜粋はここまで。

 

 

米は、いのちの光(全文)

 この現実社会にあって、一時、出家の道を真剣に考えたことがあったが、今は、あくまでも、精神性を土台として、現実凝視をして生きることを決心した。

 以前は、現実至上主義で金満家が夢であったが、そこには、大きな落とし穴のあることを知った。ブレーキのない、物質金満の世界には、見せかけの幸せが待っていて、先へ先へと走り、先を見るあまり、どうしても、足元を見失ってしまう人生である。生きる本当の喜びは、なんであるのかを見失っている人がたくさんいる。
 金で、生命いのちが保証されるのだと、錯覚するような人生は、消えていく虹の橋を渡る、虚飾の人生であることがわかった。

 そして、子孫に強欲の因縁、酒乱の因縁、色情、倣慢の因縁を残さず、その他、多くの不幸因縁を、残さぬような人生を生きようと、生きる価値観を変えることができた。

 以前の私は、浪曲『森の石松』ではないが、

「飲みねェー、飲みねェー、酒飲みねェー。喰いねェー、喰いねェー、寿司喰いねェー。……エッ……肝腎な人を忘れちゃ、おりゃせんかッ……」
と、石松ならぬ、大事な大事な生命いのち様を忘れていたのだった。
 生命は、生命でも、酒乱の唄枕に酔いれていた悪魔の生命ではない。ピッカピッカの生命様だったのである。


激しき宇宙の 波動はすぎて
ポッカリ浮かんだ いのち星
太古の昔の いのち花
海にいのちの 花ひらき
大地にいのちの 花ひらき
空に大気の 花ひらき
天に輝く 太陽が
ニッコリ笑って 花ひらき
お待ちいたした 人間様よ
ながき世の道 人の道
いのちの天子に 育つ世に
向けて花咲け いのち花

 

生命いのちとはなんぞやッ〟と尋ねても、生命は答えてくれない。だが、一人一人に感じられる生命の響きは必ずある。生命には、声も言葉もないが、絶対なる〝安定調和エネルギーを秘めた意識波動(生命の響き)〟が存在する。

 そして、人間以外の全存在は、自然界の調和エネルギー波動と生命同化して生きている。だが人間は、心のエネルギーを異常なまでに進化させてしまったため、千変万化する自分の心に振りまわされるようになった。

 この人間独自の心(擬似魂)は、生命から送られる安定調和の意識波動(真性魂)をさえぎり、魂の光を曇らせてきた。

 人は誰しも〝心は人間の特権〟であると思い、人間以外のものには、心の存在など容易に認めてはくれない。

 そこで、今、誰かに「あなたはどうして生きておられると思いますか」と尋ねてみたとすると、どう答えてくれるだろうか。おそらく「食べているから生きています」と言うだろう。確かに人間は、食物を食べると血となり、肉となり、さらに心を発生して、毎日を生きてゆける。

 ところが、人間以前の食物生命に、心があるかと聞かれたら、ほとんどの人は、「ノー」というだろう。米や大根、魚や果物に、(意識)があるなんてとんでもないことで、気持が悪い……と言うだろう。

 ところが妻は、この人間以前の、人間を生かし続ける食物の生命、自然界の生命に、心(意識の響き)があることを言い続けてきた。それは、妻の生命の中に、沈黙世界の声が、生きて結ばれるようになったからにほかならない。

 素直に考えれば、「人間を造り上げた食物たちは、人間ができうる可能性の根本要素(物質的、精神的)を、すべて持っている」と思うし、だから、心というものは、人間だけの特権ではなく、人間のような心にはなれなくとも、人間の心の元となる心(調和の意識波動)が、食物一切の生命にもあるといえる。

 さらに、生命界には、〝食物の心の元となる心(宇宙意識)〟があって、その心の元とは、神とも、宇宙心霊とも呼ぶことができる。だから、生きとし生きる生命体の中心を貫く生命は、万物共通だと言ってもおかしくない。
 いわゆる、万物は、宇宙意識を共有している同志ということになり、私はそのことを〝魂の平等〟と思うようになった。だから一心に、〝心を浄め澄ませれば、万物に心が通じる〟ことができると言える。心の元(宇宙意識)は、人間的煩悩心とは無縁の心であり、これこそ人間の心の羅針盤としたいものだ。したがって、食物をはじめ、自然界の一切は、〝生かし続ける愛の師となる心(調和心)〟で溢れている。
 この汚れなき、ピッカピッカの生命いのちに目覚める時、人は必ず己の愚かさに気づいてゆくはずである。

 私たちが毎日当然のごとく食べている米や野菜などに、宇宙意識の大調和エネルギー(響き)を感じながら、安定した心で生きたいものだ。

 大調和のエネルギー(米、野菜など)を食べていたとしても、不調和な心(片寄りの心)を持って生きるなら、病気にもなるだろうし、不幸を招くのも当然である。私の酒乱地獄はその典型であった。
 言い換えれば、一連の不幸性は、人間となった米、野菜たちの生命の叫びと言える。

 それでは、次に、人間の生命の光となる稲穂の喜びを、妻の心いただきの一節から紹介したいと思う。


カエルの声 はげましを
稲の心は はぐくみあう
緑すがたの 成長期

カッコウの声 勇ましく
育成のありがたさ
愛は稔り

朝日に開く 稲の花
セミの声聞く 夏のあい

青空に 祭り太鼓の音聞くも
心ごころの 稔り待つとき

秋のみのり 黄金の稲穂よ
小鳥の声に 喜びの揺れ

一粒のいのちにかけた花の木を
恵みの愛が 守る神

土の心 水のいのち 守りあれ
稲の心と 人生の開花

 

 米は人類究極の食糧となるであろうし、また、純日本風の食事こそ自然性にかなった、最も調和のとれた生命の救済となるのではないかと思っている。
 このうたは、昭和六十二年十二月六日、妻が映画鑑賞中に暗闇の中、手探りで綴ったものである。『牧野村物語―一〇〇〇年刻みの日時計(山形県蔵王)」という、米作りに生命を賭けた映画であった。

 

米のうた

 

㈠ もみをぬがれて 白い肌

水でとがれて 丸裸
釜に入れられ スイッチオン
今日も輝く ダイヤの光
感謝せよとは 言わぬけど
米の尊さ 今一度

㈡ んで呑まれる このわたし

じっくり思う 胃の中で
今からわたしは 人間に
なって生きるを 誰が知る
知ってくれとは 言わぬけど
米の尊さ 今一度

㈢ りに煉られる 胃の中で

次は全身 いのち旅
隅の隅まで 血となりて
肉となりゆく 流れ旅
わかってくれとは 言わぬけど
米の尊さ 今一度

㈣ 五体になった 米いのち

正しく生きろと 叫ぶけど
人の心は 破れ耳
米のわたしを 閉じこめて
飲めや歌えの 浮世花
米の心は 誰が知る

㈤ いのちの親から いただいた

〝米〟という字の 素晴らしさ

いのちの真実 生きている

〟と〝〟の文字〝〟の文字

プラス()マイナス( )調和のいのち

〟の文字 〝〟の字 〝〟の文字

八字であかす米の愛

㈥ 米のわたしを 知るならば

人の不幸は ありませぬ
宇宙天地の 調和の愛を
背負って生きる 大使命
人の心に生きるまで
人を愛して きないわたし
人の心に生きるまで
人を愛して 尽きないいのち

 

 米は食物の先頭に立って、心をさとし、調和の愛を使命として人間を生かし続けている。そして、人類の果ての果てまでも、人を造り、人を守って、運命を共にする。
 米は、正しく神の申し子であり、〝生命いのちの光〟である。

参考図書からの抜粋(ホ)

 

天地自然の調和性と人間

第十二話 細胞からの三つの願い

私は細胞 微生物
一〇〇兆個の 微生物
私の願いは 三つある
きれいな水と 簡素な食事
そして一つは 調和の心
三つの願いを 聞いてくれ
私は細胞 微生物
一〇〇兆個の 微生物
どうかよろしく 願います

 

 私は私であって私ではない。そんな思いにさせたのは、二枚の写真からであります。富士山と神田川、そして富士山と芝川の写真です。それは単に山と川なのではなく、自然の循環を思い、それに自分のいのちの循環を重ね合わせることができるからです。

 重ね合わせができた時、すべては何の違和感もなく一体になります。何一つかけ離れたものはありません。すべてが、巡りの中で結び合っております。

 それらは自分の外の世界の話ですが、ひるがえって自分の中の世界を顧みてみれば、人体の一つひとつ、その完成度には神意を感ぜずにはいられません。生命の最小単位といわれる細胞は、あらゆる生命機能を備えていて、人体は一〇〇兆個ほどの細胞で構成されているといわれています。その細胞もまた、三〇〇種類近くにも分かれており、人体の各部位・器官を構成しています。細胞一つひとつに聞いてみれば、どこまでが自分であってどこまでが自分ではないのか、さっぱりわからないという感覚なのかもしれません。細胞をさらに細かく、分子→原子→素粒子へと掘り下げてゆくと、その行き着く所は、神であり、神のご意志の次元に入るのではないでしょうか。

 それはさておき。私は私であって私ではない、と感じている私は、一〇〇兆個の細胞の塊であります。

 その細胞たちから私は、「三つの願い」を託されました。それはきれいな水と、簡素な食事そして調和の心の三つであります。

 細胞からのこの三つの願いは、一〇〇兆個の細胞が元気で生き活き活躍できるための必死の願いです。生命の最小単位である細胞は、元気で生きてゆくために私(本人)に向けてこれらの願いが叶うよう、いつも一心にアピールしているのであります。

 

一、「きれいな水」

ここは富士山 富士宮
汚れを知らぬ 神田川
源流いずくと たずぬれば
浅間大社の 庭に湧く
湧玉池が ここにあり

 

 富士宮は清流に恵まれており、神田川、芝川、稲子川、潤井川、そして日本三大急流の一つ富士川が清流を供給しつづけております。「細胞の願い」の〝きれいな水〟に充分応えております。

 

二、「簡素な食事」

一呼一吸 天の気
一食一排 地の気
天地の気は いのちの食
食はいのちの呼吸なり

 

 生きてゆくための必須条件は、食事であります。毎日欠かすことのできない生命を維持する行為であります。入口(食べる口)は一つ、出口(尿と便の出口)が二つの一本道の中で、一〇〇兆個の細胞は、毎日運ばれてくる食物を待っております。

 食はいのちの呼吸であり、生死に直結する行為であります。

 三つの願いの一つ目、〝きれいな水〟は、血流を順調に運び、体のすみずみまで食事を届けてくれる流れでございます。その流れを汚さないためにも、簡素でバランスの良い食事を細胞のいのちたちは望んでいます。

 そのための食事の基本モデルとは、「一日二食」「玄米・みそ汁・納豆・お茶を摂ること」であります(以下の四点は、あくまでも筆者の基本モデルです。体調、嗜好などの個人差は多様でありますから、参考例となれば幸いです)。

■玄米

 二人の一食分として、うるち米一合に水三合を加え、柔かめに炊き上げます。

■味噌汁

 だしと具だくさんの味噌汁です。だしは食べるイリコなど、具は根菜、葉菜、海草など。

■納豆

 黒大豆納豆が好ましい。プラスαでキムチなどの発酵食を混ぜてもよいでしょう。

■お茶

 ほうじ茶、煎茶、抹茶、玄神(ブラックジンガー)など。細胞一つ一つは、最小単位の生命体です。直接本人のいのちを守る最前線で働いています。細胞が活き活きとして新陳代謝が活発であることはすなわち、本人も活き活きしていることと同義なのです。

 

三、「調和の心」

私は細胞 微生物
一〇〇兆個の 微生物
私の願いを 聞いてくれ
どうかよろしく 願います

 

 調和の心とは、何にも片寄らない心です。何かに夢中になることは時によいことでしょう。ですが、それが自らの全てとなり執着となって、排他的になることには、一線を超える危うさがあります。

 寛容度の高い、ひろい心は、細胞に過度の負担をかけません。調和不偏は、いのちに適った心といえましょう。こうした片寄らない心には、共にユーモアの心、遊びの心を忘れぬことも大切です。

 車のハンドルには一八度の遊びがあるといわれます。それは〝間をとる生き方〟にも通じます。偏りのない心で、ユーモアや遊びの感覚を持つことは、細胞に大変有益に働くことでありましょう。

 以上が、細胞からの三つの願いであります。

 

 

食い改めて百歲長寿

 稲作の歴史はわかっているだけでも、今から七千年以上も前に遡るという。七千年前には稲作文化が花開いていた、という中国〝河姆渡遺跡〟博物館長の話もある。

〝人間と米は一心同体の命の花
米は人なり…人は米なり…〟

と、少し気張った感じがあるけど、御飯党員(?)の私は朝昼晚〝玄米党員〟でもある。

 五榖の中心である米は、人類救済の救世主だ。救世主、即ち〝メシア〟とはご飯こそ、〝メシア〟(飯やぁ)である。

 悔い改めるとは〝食い改めよ〟の米のことをまず生きる原点から考え直したい。

 いのちには自然治癒力という中心作用があって、常に安定を保つような生理調節機能が働いている。それが順調に働くために、また、生命機能を妨害しないためにも、自分自身の、心と体の浄化に気を配っている。

 いのちは、天の気(呼吸)と、地の気(食)の反復継続によって保存される。地の気は即ち米たち五穀や野菜等の生命エネルギーを吸収して五体生命を保ち、今日のいのちを生かされる。当たり前のことだが、普段は心がとどかない。

 この地球上には何千万種の生物が存在するといわれるが、その生命維持エネルギー源としての食物摂取には、見えざる厳然とした掟のようなものがあるといっていい。いわゆる食物連鎖と呼ばれているものであり、手当たり次第殺し合って、何でも食べるということは出来ないであろう。全ての生物が平等に存在するためには、その「種」に与えられた天与の食物が定められていて当然だ。食い物の争いは命懸けで、食糧問題は戦争にまで発展するではないか。医学者であり、文化勲章受章者でもある〝二木謙三〟先生は、次のように述べられている。

「今日の医学は、完全正食を無視した医学である。完全正食とは、蚕に桑の葉、鶴にドジョウ、鷹に雀、猫に鼠、虎に兎、日本人には玄米菜食で、それでこそ天地は生成化育で、人は自然順応で、天地に矛盾なく、人生に病無く、人は無病、無苦、無痛、安楽な死をとげることができるのである」と。

 先生は、著書『健康への道』のプロローグに記している。昭和一七年に書かれた本であるが、「日本人には玄米菜食を」ということに、今こそじっくり耳を傾け、真剣に取り上げたい時代ではないのか。

 国家医療費が三〇兆円(平成一〇年度)ともいわれ、内、一〇兆円位が老人医療費に呑み込まれているという実情は、それだけ、老人の生きざまの悪化を示しているようでならない。

 これからは、食生活を「食い改めて」、健康な心と体で人生を過ごしたいものだ。そのことは、取りも直さず

いのちのふる里に振り返り
生きる原点に振り返り
都市的、商工業的
情報的偏重から振り返り
いのちのふる里〝農業〟を
見つめ直す思いやりが
大切なことだ

農の心は天地の心
天地の心は人の道
だと、しみじみ思うのである。

参考図書からの抜粋(ヘ)

 

いのちといのちのひびきあい

創作シナリオを織り交ぜ、生命の根元領域を語る『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』より

ここから書籍『神秘の大樹第二巻ヒロシマとつる姫』の抜粋。「米は人間の主食です。生きるためのいのちの機関車です。田之助は酒好きが高じて乱れとなり、いろは姫との葛藤が長い間続きましたが、ようやく生きることの原点に気づくことができて、いのちの真実を求めることになったのです。片やいろは姫は、田之助を鉄の一心で守り続ける中で、いのちの真実に気づきました。口から入った食物たちは、いのちの光に身を任せ、やがて原子の光に立ち返って、新たないのちの光へと生き変わります。そして、働き終えた食物たちは、外界へと帰っていきます。その一人ひとりのいのちの中で命が新たないのちを育て上げるまでの運びには、いかなる人知も、いかなる自我も立ち入ることができません。立入厳禁の〝聖域〟なのです。この聖域の旗印が、帆に書かれている〝食心の目は共時の目〟という世界なのです。ユングと天明には、新たな驚きとひらめきが交差していました。そして口を開いたのはユングです。ユング「つる姫様ありがとう。単純明快にいのちの中心には食がありました。毎日の食べ物がいのちとなる次元こそ共時性発生の次元でした。ここにこそ心と物質が融合一体となり、生命発生の謎がありました。食って生きる、こんな単純なところに、山ほどの理論を積み上げたことから解放されたような気分です。ありがとう」と、ユングの目は輝いています。そこに天明も続いて、天明「つる姫様ありがとう。神示の一点が解けてまいりました。食が新たないのちとなる次元、いのちの中心、ゼロ一点の次元がイチリンの仕組みでありました。ここにこそ鉄の一心、食心の世界、共時の世界を見ることができました。扉開きはゼロの目、食の目、共時の目を開くことでした。いのちの真実に目覚めることこそ岩戸開き、そして心の扉開きでありました。」抜粋はここまで

 

 

第二章
魂を乗せた一羽の折鶴
(食といのちに関する記述)

(中略)

 いろは姫は一介の主婦ですが、現実生活の中で、数字と文字の世界にアクセスしています。難しい学問世界はわかりませんが、ただ一つ、鉄の一心を持っています。数字と文字を心いただくことのある暮らしの中で、一切不動の鉄の一心を心がけています。そして、共時性現象を〝食心の目は共時の目〟という、次元ばなれした言葉で表しています。食こそいのちの根源であり、一旦口から入った食べ物は、人間の自我が立ち入ることのできないいのちの世界。それこそ、ご意志の世界、それをいろは姫は「五一四ごいし」の世界と書き換えています。「ご意志」と書けば、人間の自我が入る世界ですから、それを数字の「五一四」と表現することは、宇宙に通じる意志といえましょうか。

 〝食なくてなんのおのれがこの世かな〟

 いのちは原子です。原子は食です。食に発する原子です。生きることの原子が、全身の中で舞っているから今日も生きていけます。あまりにも当たり前のため、低次元として無視されているわけですが、そこにこそ共時性の目が光っていたわけです。

 つる姫は、ユングと天明を前にして、天の川のことを話し出しました。

つる姫「ユングさんと天明さんは

立場は違っていても
ともにいのちのルーツを求め
心のふる里を
求めてきました
天の川には『天意の法則』が
いくつもありまして
その中に
〝一呼一吸天の気
一食一排地の気
天地の気はいのちの食
食はいのちの呼吸なり〟
というものがあります
また
〝食心の目は共時の目〟
というものもあります
どちらも
食はいのち
いのちは食
ということになりますが
そこにこそ
宇宙調和のエネルギーの
謎があるのです
そして
縁結びの中心エネルギーとなる
「共振共鳴共時の目」が
あったのです
「目」とは
そのものの中心
と考えたらよいでしょう
ここで再び
〝いのちの舞い〟を
出しましょう

やまず
やすまず
とどまらす
とんでははねて
はねてはとんで
あっちへこっちへ
ランダムに
信号ないけど
赤・青・黄色
安心安全
原子の舞いは
いのちの喜び
大調和
いのちの原子
大調和

食からいただいた原子の世界は
私たちのいのちの中で
いつも引き寄せたり
引き離したりして
枠を超えたら引き戻す
ゼロの力が働いたりして
生きているわけです
共時性現象の本質は
つまり食心の目は共時の目
いのちと食は同義と解する
いろは姫の鉄の一心は
天の川の天意の法則にも
当てはまっているのです」

と、ここまで話すとつる姫は

つる姫「ユングさんと天明さんに

面白い映像をお見せしましょう
これは
田之助といろは姫の話です
二人は天の川から
舟に帆を立てて
下ってきました
天の川から心の国へ流れている
支流は数多くありますが
二人が乗った舟は
東北の山形県に流れている
支流を下ってきたのです
天の川の分岐点には
立て札が立っていて
「サイジョウノカワ」
(最上の川)とあります
ところが
ちょうど
山形県内に入ったところから
急に川の呼び名が
「モガミガワ」
(最上川)となっているのです
二人は
どんどん下ってきて
河口の酒田港に
到着するのですが
その舟を見ますと
まるで宝船のようです
舟一杯に稲穂が積まれていて
帆には大きな文字で
「食心の目は共時の目」
と書かれてあって
下段一面には
聞き慣れない祝詞のりと
書いてあります
変われども
時代変われど
いのちの光
米は変わらぬ永遠とわかて
鶴千年亀万年
稲穂の実りは億万年
人類栄えの糧となる
米が光れば皆光る
おかげで今日も生かされる
ありがとう」

 つる姫の話はここで止まりました。宝船にはその祝詞文字が金文字で浮き立っていて、そればかりか、帆柱のてっぺんには長方形の旗が風にひらひら波打っています。その旗は、金色に彩られた〝米〟の写真でした。それを見た誰かが声を出しました。「あれはユングだ!」

 びっくりしてそれを見たユングが、

ユング「おお

よく似ているなあ」

と反応すると、こんどは天明が、

天明「本当にユングとそっくりだ

さらに
神示のイチリンの仕組みの
丸の中に点が入った記号にも似ている!」

ユングと天明は一段と共振共鳴していたのです。

 そこに、三心クルーのもじたまの皇子が話に入ってきて、

もじたまの皇子「さっき

声を出したのは
私でした
宝船の旗は
誰が見ても
ユングさんに似ているし
丸の中に点が入った記号にも似ているし
神示の中心様みたいで
田之助はこの写真のことを
一粒観音様といって
大事にしているようです」

と言い、宝船の旗について盛り上がりました。

 酒田港の埠頭は大勢の見物客で大変なにぎわいです。黄金の光を放つ珍しい舟。それは稲穂の光でした。

 米は人間の主食です。生きるためのいのちの機関車です。田之助は酒好きが高じて乱れとなり、いろは姫との葛藤が長い間続きましたが、ようやく生きることの原点に気づくことができて、いのちの真実を求めることになったのです。

 片やいろは姫は、田之助を鉄の一心で守り続ける中で、いのちの真実に気づきました。

 口から入った食物たちは、いのちの光に身を任せ、やがて原子の光に立ち返って、新たないのちの光へと生き変わります。そして、働き終えた食物たちは、外界へと帰っていきます。その一人ひとりのいのちの中で命が新たないのちを育て上げるまでの運びには、いかなる人知も、いかなる自我も立ち入ることができません。立入厳禁の〝聖域〟なのです。

 この聖域の旗印が、帆に書かれている

〝食心の目は共時の目〟という世界なのです。

 ユングと天明には、新たな驚きとひらめきが交差していました。そして口を開いたのはユングです。

ユング「つる姫様

ありがとう
単純明快にいのちの中心には
食がありました
毎日の食べ物が
いのちとなる次元こそ
共時性発生の次元でした
ここにこそ
心と物質が融合一体となり
生命発生の謎がありました
食って生きる
こんな単純なところに
山ほどの理論を
積み上げたことから
解放されたような気分です
ありがとう」

と、ユングの目は輝いています。そこに天明も続いて、

天明「つる姫様

ありがとう
神示の一点が
解けてまいりました
食が新たないのちとなる次元
いのちの中心
ゼロ一点の次元が
イチリンの仕組みの
丸の中に点が入った記号」でありました
ここにこそ
鉄の一心
食心の世界
共時の世界を
見ることができました
扉開きはゼロの目
食の目
共時の目を開くことでした
いのちの真実に
目覚めることこそ
岩戸開き
そして
心の扉開きでありました
ありがとう」

と、二人は、つる姫にその思いを伝えたのでした。

 ユングにも、天明にも、地上社会でのプライドはすべて消えてなくなっていました。

 何もかもが単純明快であり、時間も空間もありません。さらに、すべてが一面一体で新旧もありません。現実には立体に見える物質世界ですが、それを成す精神構造は、極めてシンプルな一面一体の世界と考えられます。岩盤のような魂も、バラバラに分解されて、やがては「真性魂」しんせいたましい」の意志基盤に合流します。真性魂とは、宇宙絶対調和エネルギーを、意志性に変換して考え出した表現です。

〝何事も想いが先のこの世かな〟

 地上社会で積み上げた心は次々と魂の集団となり、これが、真性魂に似て非なる「擬似魂」なのですが、その一人ひとりの擬似魂ぎじたましいが、その人の心の遺伝子となり、やがて心の国に入ると、いのちの意志エネルギーに同化されるようになっていきます。生命エネルギーの魂の玉は、丸く削られ、透明な玉となっていくのです。

 つる姫からピックアップされた田之助といろは姫も、宝船に食心の旗を揚げて、魂の玉磨きが続いていきます。

ユング「つる姫様

宝船のご夫妻に
じかに話をしたいのですが
どうしたらよいでしょうか」

つる姫「ナビ大王

ユングさんを東北の酒田まで
案内してくれませんか」

 ナビ大王は大喜びで、モニター・システムも使わずに、いのち舟を宝船の港へと直行させました。

 ユングが田之助たちと何を話したいのか。つる姫はじめナビ大王はもちろんのこと、三心クルー一同、そして天明も、どきどきしながらの行程となりました。

(後略)

参考図書からの抜粋(ト)

 

体と心の調和・いのちの調和

『酒乱・米の生命が生きるまで』「守護の窓口となった妻と自然律」

資料はここから。「このエイエイと続いた悪習慣は、自分の過去だけのものなのか、あるいは、両親の代からのものなのか、さらに、それよりも、もっともっと先の時代にまで遡るのかは、人それぞれに異なっている。ただ、ここではっきりしていることは、子孫の誰かが、この先祖ぐるみの悪習慣を断ち切らなくてはならない。命がけで、生命に恥じない人間性を取り戻さなくてはいけないのである。そのためにも、単に人間的自我というくらいでは到底太刀打ちができない。自然界の愛が窓口にならなくては、汚れ切って、軟弱化した人間の心を、きよめることはできないだろう。人間発生前の、生命の愛に戻って、我々を、「生かして、生かして、生かし続ける愛の力」 を借りなければ、人間は改心できない。すべての宗教を超えて、生命の愛に目覚めなくては、心の汚れはきよめられない。私に潜んだ、酒乱で汚れ切った心は、妻の真心の一念で、生命の愛に目覚めさせてくれたのだった。こめと酒の生命が、妻の生命の光を通して、私の心の中で生き返ったのである。このことは、とても理解に苦しむこと、あるいは、低俗なことだと言われるかもしれない。だが、今、本当に、自分が迷っている時、そこから目覚めるためには、高尚な精神論や、宗教論で救われることができるだろうか。少なくとも、酒乱の人生から自分を目覚めさせてくれたものは、ただの主婦である妻の守りのお蔭だった。一念の真心(愛)は、人間的自我(煩悩的自我)を超えた愛の心となり、私の汚れた心をきよめてくれた。この妻の愛は、あまりに当たり前過ぎて、かえって説明に苦しむところだが、それは、人間的、都合的、犠牲的な愛ではない。また、男女の愛、親子の愛とも違う。それでは、どういう愛なのか。一口で言うなら、生かし続ける沈黙の愛だと、言える。また、宇宙心霊(生命界の心)が、妻の生命にがっちりと生きたのだと思われる。妻が、よく言う言葉に、「人間以前の食物たちの生命(心)に戻らないと、人は成仏できない。人霊の活躍は、まだ自我がある。人間以前の生命の愛がないと成仏できない」 と、いうことがある。このことを知るためには、まず、毎日の食事に心を向けるがよい。食べることによって、生きることができるのは、当たり前のことだ。もの言わぬ米を食べ、そして、野菜、魚、その他一切の食物を食べて、こうして、自分の心が生まれ、声が生まれ、言葉が生まれ、走り回り、今日を生きる人間。この、生かす力(愛)しかない食物たちと、融合一体となって、その尊い声なき心を受けることができる。酒乱の夫と過ごす尊い人生、三十三年の中で、人間を諭し続ける生命界の心と、通じ、結ばれ、生きた。そこには、いかなる理論の余地もない。そこにあるものは、丸裸の透き通った光だけの生命しかない。そして、黙する生命の光の受け皿となった妻。しいて言うなら、沈黙の心々の世界から見たなら、灯台の光のような妻を見ているようなものであった。だから、こめの生命は、妻の生命の光を見て、心を寄せる。酒の生命も寄ってくる。酒の心は、妻を通して叫ぶ。 「喜び、安らぎで飲むんだよ。浄まりの生命だよ。神に捧げる生命だよ。汚すのは、人の心だぞ」また、こめの心は言うだろう。「米寿の祝いとなる生命だよ。八十八(88)の数にも、生きられる生命だよ。磨き抜いて、御神酒にもなる生命だよ。生命を汚してはならないよ……。」と、人の体の中から叫んでいるだろうし、こめ、酒、食物一切、また、自然界の心々、そして、人霊の心々たちも、人の世のために、代弁してくれる妻の生命に寄ってくる。声となって、文字に生きて、かずに生きて、色に生きて、寄ってくる。そして、見えざる生命の世界の心々を、人々に伝えていただく喜びが、こちらにも感じられる。天地の生命の愛で生かされる人間界は、必ず、一人一人の生命の中から、目覚めさせられるであろう。そして、妻の守りは、沈黙世界の、見えざる、生かし続ける愛、その愛そのものの守り姿であった。だから、こめの生命も、酒の生命も、私の生命の中で、力強く生きた。まず、心の突破口は、食物たちや、自然界の生かし続ける生命の愛を、自分の心で、ガッチリと感じられるようになれば、不調和な人生から、目覚めることが早まると思う。概念としての知識だけでは、むしろ、混乱が生ずるから注意しなければならない。こういう、生命の原点に、真心から感謝できる心(愛)が目覚めたなら、自らを救うことが必ずできる。不調和な心(悪性)は、目覚めなき迷いの心だから、悪はこの世の仮の姿だと言える。 「妻を介する神ちから。今ぞ晴れての人の道。断って立ちゆ酒の道。いのちの原点目覚めゆく。」以上、資料はここまで。

本の詳細は下記「出典・参考図書」

出典・参考図書

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書籍『酒乱こめのいのちが生きるまで』の詳細・閲覧ページにリンクしています

酒乱
米の生命が生きるまで

菅原茂/MBC21/1993年

本の総合情報

 

「いのちとは」「心とは」という文字通りの “命題” について、 体験を通じた非常に強いメッセージを発している。 後年、この著者は『死んでも生きている いのちの証し』『神秘の大樹』を出版しているが、 第一作である本書を読むと、 なぜこの著者が、共時性を切り口にして「いのち」を語るのか、 腑に落ちる。

 

 

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書籍『死んでも生きているいのちのあかし』の詳細・閲覧ページにリンクしています

死んでも生きている
いのちの証し

菅原茂/たま出版/1997年

本の総合情報

 

共時性現象の体験記録をもとに、生命の本質は不滅だと伝えている。 酒乱人生から夫婦二人三脚で新たな人生を再出発させた著者。自らの足元を照らすかのような共時性現象の記録を随想としてまとめている。また、本の表紙を飾る稲穂はこの著書の本質を象徴している。

 

 


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書籍『神秘の大樹 第二巻 ヒロシマとつる姫』の詳細・閲覧ページにリンクしています

神秘の大樹 Ⅱ
ヒロシマとつる姫

菅原茂/おりづる書房/2011年

本の総合情報

 

平成5年8月6日の広島平和公園で出合った一羽の折鶴は、「倉敷市玉島」と印刷された広告で折られていた。その地名は「日月神示」で知られる岡本天明氏の出生地。縁結びのしくみを、「心のつる草」など比喩を用いた物語を織り交ぜて表現している。

 

 

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書籍『神秘の大樹 第一巻 偶然が消える時』の詳細・閲覧ページにリンクしています

神秘の大樹 Ⅰ
偶然が消える時

菅原茂/おりづる書房/2011年

本の総合情報

 

いまを生きている自分(あなた)自身の存在こそ、肉体をまとい、服を身につけている霊魂そのものだという。 霊魂というと、わが身の外に存在し、わが身の外で起きる「現象」と考えがちだが、そもそもそれは、私たちのからだやこころに内在し、わが身の中で起きていることがらなのである。

 

 


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フォトエッセイ『いのちのふる里』の詳細・閲覧ページにリンクしています

いのちのふる里

菅原茂/おりづる書房/2008年

本の総合情報

 

便利な生活を享受するために、工業を中心にしてひた走ってきた日本社会。そのいっぽうで、むかしもいまも、ずっと変わらずいのちの原点でありつづける食のふる里。個人の生き方として、また社会の健全な姿としてのバランスを、どうやって回復したらよいのか。食と農と生命に実感がもてぬ現代の私達。時代や社会を経ても生きる原点は変わらないはず。私達の体と心は原点に帰れるのか。

 

 

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書籍『神秘の大樹 第三巻 文字・かず・色であかす新次元』の詳細・閲覧ページにリンクしています

神秘の大樹だいじゅ
文字・数・色で証す新次元

菅原茂/おりづる書房/2012年

本の総合情報

 

文字・数・色は人間の意思だけではなく、生死の境やほかの生物などと境なく、いわゆる「霊」や「魂」の意志性を代弁している。 共時性現象(=偶然の一致)は、それを認識させてくれると同時に、一人ひとりに対するあたたかい道案内の現象だと伝えている。

 

 


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書籍『ひふみ神示』を図書館検索サイト「カーリル」で検索します

ひふみ神示(上巻)

岡本天明著/コスモ・テン・パブリケーション/1994年

岡本天明氏の「自動書記」による著書。心の目を開いて自己調和に努めるよう人類に警鐘を鳴らし気づきを促す書として知られている。文中には、この神示そのものについて、人としての「道」を示したものであり、特定の宗教として広めてはならないという主旨のことが書いてある。長編であり、難解な箇所もある。諸説あるが、「アレの巻」の冒頭に書かれたごく短い二文(下記)が最も重要な部分だとも言われている。

 

 

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書籍『全体性と内蔵秩序』を図書館検索サイト「カーリル」で検索します

全体性と内蔵秩序

デヴィッド・ボーム著、
井上忠・伊藤笏康・佐野正博訳/青土社/1986年

『WHOLENESS AND THE IMPLICATE ORDER』(1980年) の邦訳版。科学は物質を微細に分け入り、その「構成」粒子を発見してきた。一般に私たちは、それが物を形作っている最小単位だろうという見方をしがちだが、分析して見える粒子は、ある文脈によって「全体」から顕現した一時的な抽象物であって、そもそも宇宙は分割できない一つの「流動的な全体」だという。専門の物理学(量子力学)をもとに論じるこの世界像は、あらゆる物事を部分化・断片化する見方に慣れてしまった私たちに、重要な示唆を与えている。


ほかの主題

共時性とは何か

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時空や生死を超え、人種や生物種も超えて、いのちには境界がない証し

 

因果性とは何か

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「因果性」の実際は、それほど単純ではなく、もっと複雑。科学的な「法則」は、限定的な条件のもとでのみ有効だ。

 

偶然にひそむ因果

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因果性がないというより、今の科学の尺度では説明できない、と言うべきではないのか。

 


共時性の真価

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平成5年8月6日、広島平和公園で偶然発見された一羽の折鶴。共時性の真の価値は、生命現象そのものではなく、それが生命の真実を示していることだ。

 

サイトの概要

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サイトの趣旨、本の紹介・説明、なぜ今これらの本を推すのか。サイトマップ他