いのちと共時性の考察

抜粋・引用文集

概 要

 

「こころ」や「いのち」という、つかみどころのないものが、今も昔も、そして、今後も重要な命題であることにきっと変わりはありません。その点、共時性は人間の根幹、生命の本質が関わることがらであり、自分のいのちと向き合う指標や指針のひとつとなり得ます。

 

一般的に理解されている共時性の定義に「非因果的」ということばが入っていることをご存知でしょうか。いっぽう、当サイトで紹介している『神秘の大樹』では「因果」ということばを用いており、前者とはその点においてちがいがあります。たとえわずかなことでも、それが全体の解釈におよぼす影響は小さくはないはずです。

 

そこで、科学者と上記図書の著者との間にある差について、理論的な整理をして浮かび上がってきたのは、物理学の存在でした。興味深いのは、両者の差を埋めるのもまた、主に物理学者の見解だったこと。その理論的な考察を下に示す「いのちと共時性の考察」に掲載し、補助的・二次的なページとして位置づけています。

 

このページは、「いのちと共時性の考察」各ページに抜粋・引用した文や図書の一部を、(「引用した本(引用・参考図書)」の詳細ページとして、)横断的に集約しています。それらの書籍に触れるきっかけになれば幸いです。

 

 

 

 

 

『酒乱 米の生命が生きるまで』(菅原茂)

  • どんな苦しい思いも、どんな辛い思いも、感謝にかえたまえ(p.81)
  • 食物たちの生命は、それぞれ違う者たち同士ですが、人間のように争うことはいたしません。(p.97)
  • 書籍『酒乱こめのいのちが生きるまで』の詳細・閲覧ページにリンクしています本の中身を見る↑今、本当に、自分が迷っている時、そこから目覚めるためには、高尚な精神論や、宗教論で救われるだろうか。(「地獄期」>「守護の窓口となった妻の自然律(悪は、この世の仮りの姿)」p.110)
  •  ここではっきりしていることは、子孫の誰かが、この先祖ぐるみの悪習慣を断ち切らなくてはならない。命がけで、生命に恥じない人間性を取り戻さなくてはいけないのである。
  •  そのためにも、単に人間的自我というくらいでは到底太刀打ちができない。自然界の愛が窓口にならなくては、汚れ切って、軟弱化した人間の心を、浄めることはできないだろう。
  •  人間発生前の、生命の愛に戻って、我々を、「生かして、生かして、生かし続ける愛の力」を借りなければ、人間は改心できない。
  • (中略)
  •  妻がよく言う言葉に、「人間以前の食物たちの生命(心)に戻らないと、人は成仏できない。人霊の活躍は、まだ自我がある。人間以前の生命の愛がないと成仏できない」と、いうことがある。
  • (中略)
  •  心の突破口は、食物たちや、自然界の生かし続ける生命の愛を、自分の心で、ガッチリと感じられるようになれば、不調和な人生から、目覚めることが早まると思う。概念としての知識だけでは、むしろ、混乱が生ずるから注意しなければならない。
  •  こういう、生命の原点に、真心から感謝できる心(愛)が目覚めたなら、自らを救うことが必ずできる。(同右、p.110〜113)
  • 天地万物の全生命は、相互に関連のある生命ではないか(「黎明期」>「生命の樹」p.223)

 

『死んでも生きている‐いのちの証し』(菅原茂)

  • 書籍『死んでも生きているいのちのあかし』の詳細・閲覧ページにリンクしています本の中身を見る↑生命界の情報量において、動物界は、植物には到底及ぶものではないと思うし、ましてや知性を最大の武器とする人間は、自然界の生命エネルギー情報キャッチにおいて極めて退化傾向にあるのではないか。そのことは、自然力、自然智という感覚から次第に遠のくことを意味する。(p.47)
  • 動物は大地から分離して生きているから植物のような訳には到らず、ましてや、知性の高い人間は、生命情報感ではキリ(低)に属することになる。おのずから五感で感ずる外的心の情報にたよりがちとなり、(p.254)
  • 大地に根を下し、地球生命の体温の中で親の心(地球の心性波動)をしっかり受け取り、自然のリズムにそって共に生きる。(p.254)
  • また、地上では、枝や葉や幹によって宇宙生命の情報を微細にわたってキャッチしている唯一の生物であろう。(中略)いのちの最前線といえばこの植物達である…(p.47)
  • 食物の中でその生命情報力の高いものとしてはやはり五穀であろう。その中心をなす〝米〟が人間食の究極となろう。稲は、水性植物といえるほど水を好み、根も深く、半年間もじっくりと天地の生命力を吸収し、蓄えを実らせてくれる。 (中略)一粒の米には、天地自然の普遍力が宿っている。(p.254〜255)
  • 米になったひと(p.108)
  • この〝いのちの調和作用〟によって起る現象を、〝調和現象〟と考えている。調和現象の特徴は、その、いのちの中心に引き戻される時発生する一種の〝苦〟がある。それは、ゼロ志向のため起るものと考えている。これに対し、共振共鳴の共時現象は、相似融合作用であるから、それは、エネルギーの増幅志向にあるため、一種の〝快〟を発生させることになる。(p.225)
  • ヘソ(臍)の中は、宇宙生命、そして、地球生命のいのちの最前線であると共に、〝万物普遍の情報源〟という外界との一大接点(「あとがき」p.267〜268)

 

 

 

 

 

 

『いのちのふる里』(菅原茂)

  • フォトエッセイ『いのちのふる里』の詳細・閲覧ページにリンクしています本の中身を見る↑ 思考の世界では主観と客観に分離出来るが、いのちの世界から見るならば、主観も客観もなく世界は一つだ。外の世界と自分は完全に分離していると考えがちだが、いのちの世界から見た時そうではなくなる。内なるスクリーンには常に外の世界が映し出されているのが真実だ。〝内は外なり、外は内なり 主観は客観、客観は主観なり〟ということになる。(p.19)

 

『神秘の大樹 Ⅰ 偶然が消える時』(菅原茂)

  • 書籍『神秘の大樹 第一巻 偶然が消える時』の詳細・閲覧ページにリンクしています本の中身を見る↑心も体も同一、同元、同質のもので、一元一体二象体となって現れることがいのちと呼ぶものではないのか。心と体は一人二役のようなものだ。(「いのちは磁気・磁波・磁性体」p.210)

 

『神秘の大樹 Ⅱ ヒロシマとつる姫』(菅原茂)

  • 書籍『神秘の大樹 第二巻 ヒロシマとつる姫』の詳細・閲覧ページにリンクしています本の中身を見る↑一生命体が完成するまでの原形は、十月十日(とつきとおか)の、子宮という小宇宙世界で、その基盤ができあがるわけです。母親の口から入った〝食〟が胃に入って、十二指腸に入り、小腸に入り、分子・原子次元まで分解された物が吸収細胞によって取り込まれ、全身に届けられます。そこでいのちの新陳代謝が起こり、生き生きと輝く命となります。そして、子宮の胎児が育ちます。(「第一章 心のつる草」p.17~18)
  • 青く澄んだ
  • いのちの星
  • われらの〝地球〟
  • 地球初の洗礼
  • 原爆の傷跡まだ癒えず
  • 人類初の洗礼〝広島〟
  • 原爆の傷跡まだ癒えず
  • そして〝長崎〟
  • 地球も広島も長崎も
  • 魂の傷跡いまだ癒えず
  • 広島の
  • 元安川の
  • 元安橋に降り立った
  • 〝一羽の折鶴〟
  • 平和のシンボル〝折鶴〟
  • 万霊が集いに集う元安橋
  • 元・安らぎの川原に集う万霊万魂
  • 万霊集う平和の集い
  • 元・安らぎの元安橋に
  • 一羽の折鶴が降りた
  • 平和の折鶴が降りた
  • 一人ひとりのいのちの中で命が新たないのちを育て上げるまでの運びには、いかなる人知も、いかなる自我も立ち入ることができません。立入厳禁の〝聖域〟なのです。

 

 

 

 

 

 

『ひふみ神示(上巻)』(岡本天明)

  • 書籍『ひふみ神示』を図書館検索サイト「カーリル」で検索します図書館をさがす↑いわとびらきなりなるぞ。まこといわとはとはぞ。(言答開き成り成るぞ。誠言答は永遠ぞ。)

 

『ナガサキ‐核戦争後の人生』(『nagasaki:Life After Nuclear War』スーザン・サザード著、宇治川康江訳)書籍『ナガサキ』を図書館情報サイト「カーリル」で検索します図書館をさがす↑

  • 平和の原点は人の痛みがわかる心をもつこと(p.379)

 

『全体性と内蔵秩序』(『WHOLENESS AND THE IMPLICATE ORDER』デヴィッド・ボーム著、井上忠・伊藤笏康・佐野正博訳)

  • 書籍『全体性と内蔵秩序』を図書館検索サイト「カーリル」で検索します図書館をさがす↑異なるものと異ならないものとを混同することはすべてのものを混同することである(あるいは、すべてのものについて混乱することである)。このようにわれわれの断片的な思考形式が、一つの全体としての個人そして一つの全体としての社会の中に社会的、政治的、経済的、生態学的などなどの広汎な危機をもたらすことは偶然ではない。また断片的な思考様式は、混沌として無意味な争いを果てしなく引き起こす。(「Ⅰ断片化と全体性」>「6 科学と社会に根をひろげる原子論」p.49、傍点は原文どおり)

 

『量子力学と意識の役割』(「宇宙の暗在系‐明在系と意識」デヴィッド・ボーム著、竹本忠雄監訳)

  • 書籍『量子力学と意識の役割』を図書館情報サイト「カーリル」で検索します図書館をさがす↑たがいに寄り集まって次の瞬間を構成するであろう全ファクターの集合体は、総合的状況のなかに巻き込まれて〔暗在化されて〕いる。そしてこのような事物の全体的状況内にはらむ必然性の力をとおしてこれらのファクターは「巻き込まれ」ながら(暗在的に)結合されて、新しい事物の状況を産みだすにいたるのである。[※原文の「か」は「が」の誤りか](p.275)
  • 次の段階に何が湧出するかを主として決定するものは、茫漠とした意識の背景に大きく横たわる暗然たる内容のほうなのである。(中略)あとの瞬間の内容が前の瞬間に含まれた内的本質を顕わにするのであり、そこに生ずるものこそは、まさに、この内的本質の巻きもどしなのである。(p.265)
  • 記録された記憶のすべては脳細胞に巻きこまれた状態で保持されているからであり、脳細胞そのものは物質の一部にほかならないからである。(「宇宙の明在系‐暗在系と意識」p.270)

 

 

 

 

 

 

『現代物理学における因果性と偶然性』(『Causality and Chance in Modern Physics』デヴィッド・ボーム著、村田良夫訳)

  • 書籍『現代物理学の因果性と偶然性』を図書館検索サイト「カーリル」で検索します図書館をさがす↑上述の例では,マラリアの原因はただ一つしかないと仮定して,我々は問題をかなり単純化してきた.しかし、病原菌をもった蚊に刺された人が,すべて病気になるとは限らないから,この問題は,実際には,はるかに複雑である.(p.18)
  • 一つの仮定された原因の変化が結果に相当な影響をもつ事を証明しても,それはわれわれが,意味のある原因の一つを発見したことを示すにすぎないからである.(p.19)
  • 例えば,運動物体に関する概念の一部は,力学の実験的および理論的な結果についての想像的分析から生まれたものである.(中略)深い想像的分析の助けがなければ,日常経験だけに基づいて,あるいはまた,実験室での経験に基づくだけで,このような明確な概念を得ることは不可能である.(p.138)
  • 第5節と第7節で述べたように,ボーアは,量子論の通常解釈においては,このような性質は,被観測系に客観的に存在すると考えるべきではないことを示したのである.けれども,彼の観点にしたがえば,あらゆる問題,意向,および目的に対して客観的であると認められるものは,確かに存在する.すなわち,観測可能な大規模な現象がそれである.(「第三章量子論」>「⒐ 量子論の通常解釈」p.144、原文どおり横書きの句読点を使用)

 

『ニールス・ボーア論文集1因果性と相補性』(ニールス・ボーア著、山本義隆編訳)

  • 書籍『因果性と相補性』を図書館検索サイト「カーリル」で検索します図書館をさがす↑ 私たちの心の働きを記述するためには,私たちは,一方では,客観的に与えられた内容が,それを観測している主観に対置されて置かれることを必要とするが,他方では,このような言い回しからすでに明らかなように,後者の主観もまた私たちの心的内容に属するのであるから,主観と客観のあいだの厳格な区別を維持することはできないのである.(p.70)
  • 作用量子の発見により,私たちは,原子的過程のたちいった因果的追跡は不可能であり,その過程の知識を得ようとするどのような試みも,その過程に基本的に制御不可能な影響を及ぼすということを学んだ.(p.74)

 

 

 

 

 

 

『自然現象と心の構造 非因果的連関の原理』(『The Interpretation of Nature and the Psyche』カール・グスタフ・ユング著・河合隼雄訳、ヴォルフガング・パウリ著・村上陽一郎訳)

  • 書籍『自然現象と心の構造』を図書館検索サイト「カーリル」で検索します図書館をさがす↑自然法則は統計学上の真理である。それはわれわれが巨視物理学的量を扱っているときにのみ完全に妥当なことを意味している。(中略)原因と結果の間のつながりがただの統計学的にのみ妥当であり相対的にしか真理でないことが明らかになるなら、因果性の原理は、自然の諸過程を説明するのにただの相対的にしか役立たず、(p.5)
  • 共時性は、ある一定の心の状態がそのときの主体の状態に意味深く対応するように見える一つあるいはそれ以上の外的事象と同時的に生起することを意味する。(p.33~34)
  • ある同一あるいは同様の意味をもっている二つあるいはそれ以上の因果的には関係のない事象の、時間における偶然の一致という特別な意味において、共時性という一般的概念を用いているのである。したがって、共時性は、ある一定の心の状態がそのときの主体の状態に意味深く対応するように見える一つあるいはそれ以上の外的事象と同時的に生起することを意味する。(p.33~34)
  • 私が治療していたある若い婦人は、決定的な時期に、自分が黄金の神聖甲虫を与えられる夢を見た。彼女が私にこの夢を話している間、私は閉じた窓に背を向けて坐っていた。突然、私の後ろで、やさしくトントンとたたく音が聞こえた。振り返ると、飛んでいる一匹の虫が、外から窓ガラスをノックしているのである。私は窓を開けて、その虫が入ってくるのを宙でつかまえた。それは、私たちの緯度帯で見つかるもののうちで、神聖甲虫に最も相似している虫で、神聖甲虫状の甲虫であり、どこにでもいるハナムグリの類の黄金虫であったが、通常の習性とは打って変わって、明らかにこの特別の時点では、暗い部屋に入りたがっていたのである。(p.28)
  • 私が乗る市電の切符が、すぐその後で買う劇場の切符と同じ番号であり、その同じ晩電話の呼び出しがあって同じ番号が電話番号として再び言われるという事実に直面するとき、(p.10)
  • 因果性は空間と時間の存在と物理的変化に拘束されて(p.39)
  • 意味深く偶然に一致する諸因子間の相互連関は、どうしても非因果的なものと考えられねばならない(p.39)
  • 共時的要因は、空間、時間、因果性という承認されている三組の上に第四番目としてつけ加えられるべき知的に必要な原理の存在を主張しているだけである。(p.132)
  • (物理学者であるW.パウリ氏の提案のおかげで、)私は一組の対立関係  ―共時性と因果性―  を、これら異質な概念同士にある種の関連を築くという考えでもって、より緊密に定義づけるようになった。(p.136)
  • 狭義の共時性は、たいていは個人的な例で、実験的にくり返しがきかない。(p.138)

 

 

 

 

 

『宗教と科学の接点』(河合隼雄)

  • 書籍『宗教と科学の接点』を図書館検索サイト「カーリル」で検索します図書館をさがす↑人間はものごとを知覚する際に相当な捨象を行い、顕在系として存在しているものを知覚する。(中略)ボーム氏の言葉を借りると「物質も意識も暗在系を共用している」のだから、すべての事象は人間の意識とつながっているわけである。(p.58~59)
  • 理論物理学者のデイヴィッド・ボームは、われわれが普通に知覚している世界は、一種の顕現の世界であり、その背後に時空を超えた全一的な、彼の言う暗在系 (implicate order) を有しているとの画期的な考えをもつようになった。われわれが五感を通じて知る世界は、いろいろな事物に分割され、部分化されているが、それらのものは暗在系に対する、明在系 (explicate order) であり、明在系においては、外的に個別化され無関係に存在しているような事物は、実は暗在系においては、全き存在として、全一的に、しかも動きをもって存在している。これを彼はホロ・ムーブメントと名づけた。暗在系のホロ・ムーブメントは五感によっては把握できないものである。脳はこれらの現象のホログラムとして機能するのであるが、人間はものごとを知覚する際に相当な捨象を行い、顕在系として存在しているものを知覚する。
  •  (中略)
  • ボームの理論を見ると、彼の言う暗在系の顕現という概念に、それほど広くはないが、ユングの言う元型的布置の考えが相当に重なっていることに気づくであろう。つまり、元型という究極的には知ることのできぬパターンの顕われとして、元型的布置の現象が認められ、そこには共時的現象が生じうるのである。(「第二章 共時性について」>「ホログラフィック・パラダイム」p.57~59)
  • 「暗在系にあっては、心は物質一般を巻きこんでいる、なによりも身体を巻きこんでいると言わねばならない。同様に、身体は心だけではなく、ある意味において、物質宇宙のことごとくを巻きこんでもいるのである。身体と心とは、したがって、より広大なる一個の亜総体のファクター(因子)と呼ばれてしかるべきであり、この亜総体が心身双方の基礎をなしていると言いうるのである」とボームは述べている。(「第二章 共時性について」>「心身の相関」p.63~64)
  • 人間はものごとを知覚する際に相当な捨象を行い、顕在系として存在しているものを知覚する。ボームが人間は「つねに自然をレンズを通して眺めることによって対象物化してきた」と指摘したり、彼と対談した、ルネ・ウェーバーが「思考は思考を超えるものを濾してしまう濾過器フィルターである」というのを肯定したりしている(「第二章 共時性について」>「ホログラフィック・パラダイム」p.58)
  • (東洋の宗教が見出した意識の在り方について述べ、それに対して西洋の人たちが最近とみに関心をもち始めたことを指摘した。その上、理論物理学の最先端を行く科学者たちが、彼らの体験を踏まえて同様のことを言い始めたのである。)たとえば量子力学の生みの親、シュレーディンガーは「主体と客体は、一つのものである。それらの境界が、物質科学の最近の成果でこわれたということはできない。なぜなら、そんな境界など存在しないからだ」と述べている。(「第四章 意識について」>「意識のスペクトル」p.117~118)
  • 西洋の医学が人間の身体を「客観的対象」と見なすことにより、科学的な医学を発展させてきたように、人間の「心」というものを「客観的対象」と見なそうとしても、観察者自身も「心」をもっているので、そのようなことが成立しないのである(「第六章 心理療法について」>「宗教と科学の接点」p.192)
  • ある人にとってはあらゆることが共時的現象と受けとめられる危険性がないかという疑問が湧いてくるであろう。確かにそのとおりで、これは下手をすると迷信の集積になる。(「第二章 共時性について」>「実際的価値」p.68)
  • 全体の共時的連関を読み取ることは、ややもすると偽の因果律と結びつく危険性をもつ。たとえば、彗星の出現と帝王の死が、ある史書に記載されたとする。それを一回かぎりの現象として、その他のその時に生じた事象と共に全体として布置されたものを読みとる態度によって、それを読むといいが、そこで「彗星が現われたから帝王が死んだ」と考え、次に彗星が現われると帝王が死ぬだろうなどと考えはじめると、それは偽の因果律になってくる。このような思考法は数多くの偽科学を生ぜしめ、それが真の科学の発展の妨げになることは、もちろんである。(「第二章 共時性について」>「共時性と科学」p.48)
  • ユングが共時性について発表したときは賛否相半ばし、たとえば、ユング心理学についてユング派以外の人間として、よき入門書を書いたアンソニー・ストーも、「共時性に関する彼の著作は、混乱して、ほとんど実際的価値がないと私には思えることを、告白せざるを得ない」と述べている。(中略)このような現象に対しては、自我の弱い人がひきこまれてしまう傾向が強いので、その人たちはアカデミックな研究に適合しないのも当然で、そのことがわが国のこのような研究の遅れを助長していることも事実である。(「第二章 共時性について」>「共時性と科学」p.51)
  • 極めて興味深いことに、(中略)自然科学の最先端において、それまでの方法論に対して根本的な反省をうながす問題が生じてきたのである。(「第二章 共時性について」>「共時性と科学」p.51)
  • ユングが共時性について発表したとき(中略)一方ではハイゼンベルクやパウリなどの理論物理学者がこの考えに深い理解と共感を示したことも非常に興味深いことである。特に、パウリはユングとともに、共時性に関する書物を出版するに到ったのである。わが国においては、大学におけるアカデミズムが西洋近代に追いつこうとする姿勢を強く維持してきた点もあって、近代合理主義の勢いが非常に強く、西洋よりも硬直化しているところがあり、超常現象に関するアカデミックな研究は欧米に比して極端に遅れている。(出典:同右)
  • 共時性の現象を受け容れることによって、われわれは失われていた、マクロコスモスとミクロコスモスの対応を回復するのだとも言える。つまり、コスモロジーのなかに、自分を定位できるのである。しかし、黄金虫の例や、あるいは筆者の易の例は簡単に冷笑の対象ともなり得る。それは極めて一般性を欠いた事象であるからである。しかし、普遍的に正しいことばかりに支えられて生きていて、その人は個人として人生を生きたと言えるのだろうか。因果律による法則は個人を離れた普遍的な事象の解明に力をもつ。しかし、個人の一回かぎりの事象について、個人にとっての「意味」を問題にするとき、共時的な現象の見方が有効性を発揮する。そして、心理療法においては、後者の方こそが重要なのである。(「第二章 共時性について」>「実際的価値」p.67)
  • ミクロコスモスとマクロコスモスの対応という考え方は、ミクロコスモスとしての人間をマクロコスモスとしての宇宙に関連づける思想であったが、西洋の近代自我が自我を世界から切り離し、自我を取り巻く世界を客観対象として見ることを可能にしたとき、そこに観察される事象は、個人を離れた普遍性をもつことになり、自然科学が急激に進歩したのである。普遍的な学としての自然科学はその後ますます力を発揮し、人間は世界を支配したかの如く見えながら、宇宙との「対応」を失ってしまったという点において、自らを宇宙の中にどう定位するかという点で、根本的な問題を抱え込むことになった。(「第二章 共時性について」>「共時性と科学」p.50)
  • 超感覚的知覚(Extra-Sensory Perception 略してESPという)の現象に関しては、それをエーテルとか特別な電磁波などによって伝播の可能性を因果的に説明しようとする試みがなされてきた。これに対して、ユングはそのような因果的説明を拒否するところに特徴がある。そして、その上で意味のある事象の重なりが非因果的な布置(acausal constellation)をつくることがあり得ることを認めようというのである。つまり、因果律と共時性は、事象を研究する上において相補的な役割をなすものであり、両者はまったく性格を異にする原理であることを認めるのである。(「第二章 共時性について」>「共時性とは何か」p.40~41)
  • 人々が死を拒否しようとするのは、彼らのもつ世界観のなかに死が位置づけられないからである(「第三章 死について」>「死の位置」p.78)
  •  
  •  

 

 

 

自然とは何か

 

書籍『宗教と科学の接点』を図書館検索サイト「カーリル」で検索します図書館をさがす↑ 今日では、日本人のほとんどが「自然」という言葉を、英語の nature と同じような意味に解していると言っていいだろう。人間および人工的なものに対するものとして、いわゆる山川草木、および人間以外の動物、それに鉱物などを含め、それを宇宙にまで拡大して、総称して「自然」と呼んでいる。しかし、実のところ、そのような客観的な対象としての「自然」などという概念も、また言葉も、もともと日本にはなかったものであり、nature という英語に「自然」という訳語を当てはめたために多くの混乱が生じることになった事実は、柳父 章やなぶ あきらの周到な分析によって周知のこととなっている。従って、この点については省略するが、そうなると、現代の日本人は、自然をどう把握しているのか、そもそも古来からはどうであったのかなどが問題となってくる。(後略)

 「自然」という語は、もちろん中国から由来しているわけであるが、(中略)自然という語は、「『オノズカラシカル』すなわち本来的にそうであること(そうであるもの)、もしくは人間的な作為の加えられていない(人為に歪曲されず汚染されていない)、あるがままの在り方を意味し、必ずしも外界としての自然の世界、人間界に対する自然界をそのままでは意味しない」ことを指摘している。この「オノズカラシカル」という考えは、天地万物も人間も同等に自生自化するという考えにつながり、「物我の一体性すなわち万物と自己とが根源的には一つであること」を認める態度につながるものである。(後略)

 このような中国の「自然」に対する態度は、インドからの仏教を受けいれたときに影響し、福永は、「西暦七-一〇世紀、唐の時代の中国仏教学をインドのそれと比較して最も注目されることの一つは、草木土石の自然物に対しても仏性すなわち成仏の可能性を肯定していることである」と述べている。つまり、生物のみならず無生物も、森羅万象すべてが仏性をもつと考えたのである。

 このような考えはそのままわが国にも伝来されてきたが、「自然」という用語は、従って、「オノズカラシカル」という意味で用いられ、それは「自然じねん」と発音されることとなった。そして、西洋人のように自我に対する客観的対象として「自然ネイチャー」を把握する態度は存在せず、従って、そのような名詞も日本語にはなかったのである。「山川草木」というような表現が示すように、個々の具体的なものを認識の対象とはしたであろうが、おそらく、それは近代人のする「認知」とは異なるものであったと考えられる。対象と自分との区別は、昔の日本人にとって思いの他にあいまいなものであったろうと思われる。

 西洋における(中略)「自然」を客観的対象としてみる態度の背後には、キリスト教による人間観、世界観が強く存在していると思われる。聖書には、神が世界を創造し、人間を創造するときに「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、それに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」(創世記一章二六)と言ったと述べられている。ここに、人間とその他の存在物との間に画然とした区別が存在することになった。このような宗教的な背景をもって、他と自分とを明確に区別し、他を客観的対象とし得るような自我が成立することになったと思われる。そして、その自我が「自然」を対象として観察し、そこに自然科学が発達することになったのである。このため、「自然ネイチャー」は西洋において科学の対象となるし、「自然じねん」は東洋において宗教のもっとも本質にかかわるものとなったのである。

 ところで、日本人は近代になって西洋の nature の概念に接したとき、これに「自然じねん」の漢字をあて、「自然しぜん」と呼ぶようにしたのであるが、そのために柳父章の指摘するような混乱が生じた(後略)

 

『宗教と科学の接点』「第五章 自然について」>「自然とは何か」一四一頁から一四五頁、文中の人名への振り仮名はサイト編者による。

 

 

 

 

西洋近代の自我

 

(中略)

書籍『宗教と科学の接点』を図書館検索サイト「カーリル」で検索します図書館をさがす↑ 西洋近代に確立された自我は、自分を他と切り離した独立した存在として自覚し、他に対して自立的であろうとするところに、その特徴がある。このようにして確立された個人を、英語でindividualと表現する。つまり、これ以上は分割し得ざる存在ということであり、その個人を成立させるためには、物事を分割する、切断するという機能が重要な働きをもつことを示している。有機物と無機物という分割、有機物をまた分割してゆき、人間と他の生物という分類が行われ、その人間をいかに分割していっても、個人が分割し得ないものとして残る。このことは逆に言えば、個人は他と切り離されることによって存在が明らかになると言える。

(中略)

 このように他と切り離して確立された自我が、自然科学を確立するための重要な条件となっていることは容易に了解できるであろう。つまり、このような自我をもってして、はじめて外界を客観的に観察できるのである。このような「切り離し」による外界の認識は、個々の人間とは直接関係しないものとなり、その意味で「普遍性」をもつので、極めて強力な知を人間に提供する。これが、これまでの自然科学である。

(後略)

 

出典『宗教と科学の接点』「第一章 たましいについて」>「西洋近代の自我」二五~二六頁

 

 

 

共時性とは何か

この画像は上の見出しのページにリンクしています

時空や生死を超え、人種や生物種も超えて、いのちには境界がない証し

 

因果性とは何か

この画像は上の見出しのページにリンクしています

「因果性」の実際は、それほど単純ではなく、もっと複雑。科学的な「法則」は、限定的な条件のもとでのみ有効だ。

 

偶然と因果

この画像は上の見出しのページにリンクしています

因果性がないというより、今の科学の尺度では説明できない、と言うべきではないのか。

 


客観と主観

この画像は上の見出しのページにリンクしています。

自然界と人間とを〝切り離す〟「客観」的態度が潜在的に抱えている問題点。

 

共時性の真価

この画像は上の見出しのページにリンクしています

平成5年8月6日、広島平和公園で偶然発見された一羽の折鶴。共時性現象の真の価値は、それが生命の真実を示していること。

 

こころとからだ

この画像は上の見出しのページにリンクしています

私たち現代人が見失っている食の本質。生命と生命現象の根源は食にある。自分のいのち食のいのちに対する考え方が問われている。