共時性現象を通して観る生命
当サイトに引用した本、参考にした本を列挙しています。また主な引用箇所とともに当サイトのどのページ (=主題) に引用したかを明記しています。ちなみに各主題は下記3のとおり。
出版年が新しいものから順に列挙しています。
(題名一覧)
[2019]
[2019]
[2016]
神秘の大樹シリーズⅠ~Ⅳ
[2012]
[2012]
[2011]
[2011]
[2009]
[2008]
[1999]
[1997]
[1994]
[1993]
[1986]
[1986]
[1984]
[1976]
[1969]
スーザン・サザード/宇治川康江訳/みすず書房/2019年
▲図書館をさがす↗︎長崎で原爆被害に遭った人々の半生を描く、米国で出版されたノンフィクション小説『NAGASAKI:Life After Nuclear War』の日本語訳版。原爆被害者の痛ましい経験を米国人の多くが知らない現実と背景に踏み込む姿勢、被害当事者の体験を忠実に描いたであろう内容に驚嘆させられる。
「平和の原点は人の痛みがわかる心をもつこと」(p.379)
→「共時性の真価」
菅原茂/おりづる書房/2019年
▲本の中身を見る夫人と米の生命愛による守護の中で、酒乱の因縁から自分の生命に目覚め、いのちへの誠実な思いを深めていった著者。〝自己調和〟をむねとする日常生活において試行錯誤する様子をありのままに綴っている。第一章は自らの日記から抽出した文章(エッセイ)。六十歳代、七十歳代、八十歳代と自己調和の日々とともに年齢を重ねた著者。その等身大の生きざまとその心意気が伝わってくる。
「いのちは、強さと弱さの両面を持っている総合体なのかもしれない。 食品の毒性が社会問題されるようになって久しいのだが、実はこれら食物に含有する毒性(環境関係・医薬・農薬関係・その他各種汚染一切)は、徐々に徐々に歳月をかけ、世代を積み重ねていく中で、一種の〝いのち〟の構成員となっていくのではないかと思っている。よく言われている「杭体」化していく感が湧いてくる。 今、いのちを縮め、或いは死をもたらしている人間社会一切の毒性物質は、やがて、いのちの一構成員として稼働するようになるんじゃないのか、と。」(p.136)
→「体と心の相関性」
菅原茂/おりづる書房/2016年
▲本の中身を見るこの世のすべてが心性エネルギーに満ちているという生命観・世界観の物語。ヒトは万物霊長の存在と言われるが、著者は万物霊同の視点で生命世界を観ている。ともすれば私たち人類はあらゆる生物の頂点に立つ最も優れた存在であると勘違いしがちではないだろうか。本作は子どもから大人まで読んで理解できる内容になっている点で、ほかの著作とはひと味ちがう作品。
「(中略)ひるがえって自分の中の世界を顧みてみれば、人体の一つひとつ、その完成度には神意を感ぜずにはいられません。生命の最小単位といわれる細胞は、あらゆる生命機能を備えていて、人体は一〇〇兆個ほどの細胞で構成されているといわれています。その細胞もまた、三〇〇種類近くにも分かれており、人体の各部位・器官を構成しています。(後略)」(p.76)
→「体と心の相関性」
菅原茂/おりづる書房/2012年(H.24)
▲本の中身を見る酒乱から脱却し、自分のいのちに目覚めて間もない著者が、心おもむくままに訪れた旅先で次々と出会う〝亀〟。体験の記録を、第2巻と共通するシナリオ形式のコミカルな物語として展開し、縁は単なる偶然ではなく、宇宙根源に根ざす生命の本質(真性魂)による道案内だと伝えている。
「結果はまた新たな原因体となり、縁を結んでまた新たな結果を生む。そのリズムは代々消えることはない。因‐縁‐果=因‐縁‐果=因‐縁‐果=因……」(p.161)
→「共時性とは何か」「体と心の相関性」
菅原茂/おりづる書房/2012年(H.24)
▲本の中身を見る文字・数・色は人間の意思だけではなく、生死の境やほかの生物などと境なく、いわゆる「霊」や「魂」の意志性を代弁している。共時性現象(=偶然の一致)は、それを認識させてくれると同時に、一人ひとりに対するあたたかい道案内の現象だ。
「心の波長を限りなく微細に絞り込んで、集中力を高めようとする。その集中度の個人差がある中で、各人が、それらの思いを寄せたところの、心の磁場において、はっと何かを知覚する瞬間がある。それはあの、魚を釣り上げる一瞬にも似て、心が何かと見事に同調する体験は得難いものである。」(p.123)
→(「客観と主観」)「共時性とは何か」「体と心の相関性」
菅原茂/おりづる書房/2011年(H.23)
▲本の中身を見る「現実を生きる自分が、実は億万年から連なる亡き心たちの複合霊体(魂)であること、そして、死んで消えたのではなく、心は実に生き生きと輝いていて、自分を自分たらしめている原動力であるということ、そして、死んでも生きている心の世界」にも言及している。
「複合霊体」、「一人ひとりのいのちの中で命が新たないのちを育て上げるまでの運びには、いかなる人知も、いかなる自我も立ち入ることができません。立入厳禁の〝聖域〟なのです。」「青く澄んだ いのちの星 われらの〝地球〟 地球初の洗礼 原爆の傷跡まだ癒えず 人類初の洗礼〝広島〟 原爆の傷跡まだ癒えず そして〝長崎〟 地球も広島も長崎も 魂の傷跡いまだ癒えず 広島の 元安川の 元安橋に降り立った 〝一羽の折鶴〟 平和のシンボル〝折鶴〟 万霊が集いに集う元安橋 元・安らぎの川原に集う万霊万魂 万霊集う平和の集い 元・安らぎの元安橋に 一羽の折鶴が降りた 平和の折鶴が降りた」
→「共時性の真価」「体と心の相関性」「客観と主観」
菅原茂/おりづる書房/2011年(H.23)
▲本の中身を見るいまを生きている自分(あなた)自身の存在こそ、肉体をまとい、服を身につけている霊魂そのものだという。霊魂というと、わが身の外に存在し、わが身の外で起きる「現象」と考えがちだが、そもそもそれは私たちのからだやこころに内在し、わが身の中で起きていることがらなのである。
「複合霊体」、「心の磁場」、「いのちの絶対調和力」
「いのちほど神秘な世界はない。見える現実の奥できらめく縁のエネルギー。満光満華の光で交差している真実世界。出会いの秘密はどうもここにあるようだ。現実世界を紡ぎ出す裏方さんのその縁の発生源は、生命の本質、いのちの本体にその秘密が内在されているようだ。まず、生きる原点を覗いたとすれば「食と呼吸」に行き着く。 食が生命に転換する次元 / 口から入った食物が胃で燃やされて /
小腸で吸収され血となり肉となる生命転換次元(後略)」(p.41)
→「体と心の相関性」
菅原茂/おりづる書房/2009年(H.21)
▲本の中身を見るいのちは動植物ましてや人間だけのものではなく、万物に宿るという生命観は究極的に宇宙観へと通じる。生命をどこまでもさかのぼれば、生命の起源が宇宙にあることは明らかだ。森羅万象に共通するいのちの原子という点を踏まえて写真に映る〝霊顔〟を眺めると気づく点があるだろう。「この〝いのちの顔〟は、主に、雲を筆頭にしたものが多くなっている。客観する皆さんには、必ずしも〝顔〟や〝ある形〟に似ていると思うかどうか、(中略)。俗に、偶然の出来事として、面白おかしく取り沙汰されていることでも、私にしたらとんでもない関心の高い領域であるから、子細なことでも記録に残してきた。この体験記録を改めて観ていると、そこには示唆や啓発に富んだ情報の多いことに気づかされる。(まえがきより抜粋)」
「外国勤務の息子が帰省するというので、その時妻は愛犬の写真を頼んでいた。そして10日のこと、台所の布巾が「犬」の顔に見えたのである。その時〝1時14分〟息子が出発したのが〝1月14日〟のことである。帰宅した息子から写真を見せてもらい驚いた。布巾で見せた犬とそっくりなのだ。」(p.18)
→「共時性とは何か」
菅原茂/おりづる書房/2008年(H.20)
▲本の中身を見る便利な生活を享受するために、工業を中心にしてひた走ってきた日本社会。そのいっぽうで、むかしもいまも、ずっと変わらずいのちの原点でありつづける食のふる里。個人の生き方として、また社会の健全な姿としてのバランスを、どうやって回復したらよいのか。私達の体と心は原点に帰れるのか。
「思考の世界では主観と客観に分離出来るが、いのちの世界から見るならば、主観も客観もなく世界は一つだ。外の世界と自分は完全に分離していると考えがちだが、いのちの世界から見た時そうではなくなる。内なるスクリーンには常に外の世界が映し出されているのが真実だ。〝内は外なり、外は内なり 主観は客観、客観は主観なり〟ということになる。」(p.19)
→「客観と主観」「体と心の相関性」
ニールス・ボーア/山本義隆編訳/岩波文庫/1999年(H.11)
▲図書館をさがす↗︎原子構造の解明、原子核理論の構築など、量子力学を開拓した理論物理学者のN.ボーア氏による論文集の邦訳。ボーアはノーベル賞受賞者でもある。
「私たちの心の働きを記述するためには,私たちは,一方では,客観的に与えられた内容が,それを観測している主観に対置されて置かれることを必要とするが,他方では,このような言い回しからすでに明らかなように,後者の主観もまた私たちの心的内容に属するのであるから,主観と客観のあいだの厳格な区別を維持することはできないのである.」(p.70)「作用量子の発見により、私たちは、原子的過程のたちいった因果的追跡は不可能であり、その過程の知識を得ようとするどのような試みも、その過程に基本的に制御不可能な影響を及ぼすということを学んだ。」(p.74)
→「因果性とは何か」「客観と主観」
菅原茂/たま出版/1997年(H.9)
▲本の中身を見る平成5年8月6日の広島。岡本天明絵画展を訪れた著者夫妻は、〝一羽の折鶴〟と運命的な出合いを果たした。これを機に同夫妻が山形から天明氏の墓参に訪れる旅の道中で出合う数々の縁を通して、偶然の一致の必然性を強調するとともに、生命の本質は死んでも消えないことを訴える。また、生命の本質的な視点から食に言及している点が印象的。本の表紙に描かれた稲穂はこの本を象徴している。共時性現象を切り口に生命とは何かという命題を語っている。
「生命界の情報量において、動物界は、植物には到底及ぶものではないと思うし、ましてや知性を最大の武器とする人間は、自然界の生命エネルギー情報キャッチにおいて極めて退化傾向にあるのではないか。そのことは、自然力、自然智という感覚から次第に遠のくことを意味する。」(p.47)「動物は大地から分離して生きているから植物のような訳には到らず、ましてや、知性の高い人間は、生命情報感ではキリ(低)に属することになる。おのずから五感で感ずる外的心の情報にたよりがちとなり、」(p.254)「大地に根を下し、地球生命の体温の中で親の心(地球の心性波動)をしっかり受け取り、自然のリズムにそって共に生きる。」(p.254)
→「体と心の相関性」「共時性の真価」「共時性とは何か」
岡本天明/コスモ・テン・パブリケーション/1994年(H.6)
岡本天明氏の「自動書記」による著書。心の目を開いて自己調和に努めるよう人類に警鐘を鳴らし気づきを促す書として知られている。文中には、この神示そのものについて、人としての「道」を示したものであり、特定の宗教として広めてはならないという主旨のことが書いてある。長編であり、難解な箇所もある。諸説あるが、「アレの巻」の冒頭に書かれたごく短い二文(下記)が最も重要な部分だとも言われている。
「いわとびらきなりなるぞ。まこといわとはとはぞ。(言答開き成り成るぞ。誠言答は永遠ぞ。)」「」
→「共時性の真価」「体と心の相関性」
(いずれも『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』に引用されており、その部分を抜粋)
菅原茂/MBC21/1993年(H.5)
暴走する酒への欲望と現実。その一部始終を生々しく描き、欲望が湧き出る私たち人間の心のメカニズムを明るく誠実に伝えている。もがき続けた著者を目覚めさせたものとは何だったのか。人間はいわゆる「煩悩」を抱えている生き物だ。早晩、自分のいのちに目覚めてゆかねばならない。その点で、この本が伝えようとしていることは、極めて普遍的。
「ここではっきりしていることは、子孫の誰かが、この先祖ぐるみの悪習慣を断ち切らなくてはならない。命がけで、生命に恥じない人間性を取り戻さなくてはいけないのである。そのためにも、単に人間的自我というくらいでは到底太刀打ちができない。自然界の愛が窓口にならなくては、汚れ切って、軟弱化した人間の心を、浄めることはできないだろう。人間発生前の、生命の愛に戻って、我々を、「生かして、生かして、生かし続ける愛の力」を借りなければ、人間は改心できない。」
「人間以前の食物たちの生命(心)に戻らないと、人は成仏できない。人霊の活躍は、まだ自我がある。人間以前の生命の愛がないと成仏できない」(p.110〜111)
→「共時性とは何か」「共時性の真価」「体と心の相関性」
デヴィッド・ボーム著、井上忠・伊藤笏康・佐野正博訳/青土社/1986年(S.61)
▲図書館をさがす↗︎『WHOLENESS AND THE IMPLICATE ORDER』(1980年)
の邦訳版。科学は物質を微細に分け入り、その「構成」粒子を発見してきた。一般に私たちは、それが物を形作っている最小単位だろうという見方をしがちだが、分析して見える粒子は、ある文脈によって「全体」から顕現した一時的な抽象物であって、そもそも宇宙は分割できない一つの「流動する全体運動」だという。専門の物理学(量子力学)をもとに論じるこの世界像は、あらゆる物事を部分化・断片化する見方に慣れてしまった私たちに、重要な示唆を与えている。
「例えば、局所化可能な構造は世界管として表すことができる。世界管ABCDの内部では、世界間の内側に書かれた多くの曲線が示しているような、複雑な過程が生起している。この世界管内部の運動を「さらに微細な粒子」を用いて首尾一貫して分析することはできない。というのも、そうした粒子自体がまた世界管を用いて記述されるからである。そればかりではない。図のADに入ってくる線に示されているように、個々の管は広大な背景すなわち文脈の中から生じる。そして最終的に、図のBCから出ていく線に示されているように、広大な背景に消え去っていく。このように考えるならば、[古典物理学で言われる]「物体」は、世界管の中の相対的に安定な形態からの抽象物に過ぎないのである。すなわち、それは自律的かつ永久に存在する固いばらばらの物体というよりも、運動のパターンのようなものなのである。」(p.222)
河合隼雄/岩波書店/1986年(S.61)
▲図書館をさがす↗︎ここでいう宗教とは、特定の教義をもつ各宗教のことではなく、心や魂を担当してきた分野という広い意味をさしている。これまで単純に対立的にとらえられてきた物と心の問題をだれもが真剣に考えることは、21世紀の人類を考える上できわめて重要だとしている。
「理論物理学者のデイヴィッド・ボームは、われわれが知覚している世界は、一種の顕現の世界であり、その背後に時空を超えた全一的な、彼の言う暗在系 (implicate order)
を有しているとの画期的な考えをもつようになった。」(p.57~58)「人間はものごとを知覚する際に相当な捨象を行い、顕在系として存在しているものを知覚する。(中略)ボーム氏の言葉を借りると「物質も意識も暗在系を共用している」のだから、すべての事象は人間の意識とつながっているわけである。」(p.58~59)「人間の心を「客観的対象」と見なそうとしても、観察者自身も「心」をもっているので、そのようなことが成立しないのである」(p.192)
→「共時性とは何か」「因果性とは何か」「偶然にひそむ因果」「客観と主観」
▲図書館をさがす↗︎物理系とは異質の観測主体(意識)の存在を認めないと、量子の物理的過程の解釈はできないという課題に挑んだ物理学者たちの論文集。デヴィッド・ボーム氏による論文は、「宇宙の暗在系‐明在系と意識」。
「たがいに寄り集まって次の瞬間を構成するであろう全ファクターの集合体は、総合的状況のなかに巻き込まれて〔暗在化されて〕いる。そしてこのような事物の全体的状況か内にはらむ必然性の力をとおしてこれらのファクターは「巻き込まれ」ながら(暗在的に)結合されて、新しい事物の状況を産みだすにいたるのである。」[※原文の「か」は「が」の誤りか](p.275)「次の段階に何が湧出するかを主として決定するものは、茫漠とした意識の背景に大きく横たわる暗然たる内容のほうなのである。(中略)あとの瞬間の内容が前の瞬間に含まれた内的本質を顕わにするのであり、そこに生ずるものこそは、まさに、この内的本質の巻きもどしなのである。」(p.265)
→「共時性とは何か」「偶然にひそむ因果」
著・訳者下記/海鳴社/1976年(S.51)
▲図書館をさがす↗︎1955年に米国と英国で出版された『The
Interpretation of Nature and the Psyche』(『自然の解釈と精神』) の日本語訳版。心理学者であるC.G.ユング氏の論文を、同じく心理学者である河合隼雄氏が、物理学者であるW.パウリ氏の論文を、科学史研究者の村上陽一郎氏が翻訳している。
「自然法則は統計学上の真理である。それはわれわれが巨視物理学的量を扱っているときにのみ完全に妥当なことを意味している。」「原因と結果の間のつながりがただの統計学的にのみ妥当であり相対的にしか真理でないことが明らかになるなら、因果性の原理は、自然の諸過程を説明するのにただの相対的にしか役立たず、」(p.5)「共時性は、ある一定の心の状態がそのときの主体の状態に意味深く対応するように見える一つあるいはそれ以上の外的事象と同時的に生起することを意味する。」(p.33~34)
→「共時性とは何か」「偶然にひそむ因果」
デヴィッド・ボーム/村田良夫訳/東京図書/1969年(S.44)
▲図書館をさがす↗︎量子力学の成果や有用性を認めながらも、量子力学に対する永久的・絶対的な見方や論法に批判的な立場をしめしたボーム氏。機械論的自然観への批判的考察を通じて、直面しつつある(するかもしれない)物理学の限界を打ち破り、進化し続けねばならないと考えていた。『Causality and Chance in Modern
Physics』の邦訳版。
「上述の例では,マラリアの原因はただ一つしかないと仮定して,我々は問題をかなり単純化してきた.しかし、病原菌をもった蚊に刺された人が,すべて病気になるとは限らないから,この問題は,実際には,はるかに複雑である.」(p.18)「一つの仮定された原因の変化が結果に相当な影響をもつ事を証明しても,それはわれわれが,意味のある原因の一つを発見したことを示すにすぎないからである.」(p.19)「例えば,運動物体に関する概念の一部は,力学の実験的および理論的な結果についての想像的分析から生まれたものである.(中略)深い想像的分析の助けがなければ,日常経験だけに基づいて,あるいはまた,実験室での経験に基づくだけで,このような明確な概念を得ることは不可能である.」(p.138)
→「因果性とは何か」「客観と主観」