いのちと共時性の考察
「こころ」や「いのち」は、つかみどころがありません。しかし、今も昔も、そして、今後も重要な命題です。共時性は人間の根幹、生命の本質が関わることがらであり、自分のいのちと向き合う指標や指針のひとつとなり得ます。
一般的にシンクロニシティ(=「共時性」または「意味のある偶然の一致」)は「非因果的」であると理解されています。いっぽう当サイトで紹介している書籍『神秘の大樹』では「因果」ということばを用いています。
一般認識と上記図書との間にある差について、理論的な整理をして浮かび上がってきたのは、物理学の存在でした。興味深いのは、両者の差を埋めるのもまた、主に物理学者の見解だったことです。その理論的な考察を、下に示す「いのちと共時性の考察」に掲載し、当サイトの根幹である「BOOKS」の補助的・二次的なページとして位置づけています。
その「いのちと共時性の考察」各ページに引用した本、参考にした本を整理しているのがこのページ。
なお、引用図書と参考図書とを分けてそれぞれ整理した関連ページとして、すべての引用文を集めた抜粋・引用文集と、すべての参照資料の索引を設置。全体を見渡せるようになっています。
(題名一覧)
スーザン・サザード、宇治川康江訳、みすず書房、2019年(令和元)
長崎で原爆被害に遭った人々の半生を描く、米国で出版されたノンフィクション小説『NAGASAKI:Life After Nuclear War』の日本語訳版。原爆被害者の痛ましい経験を米国人の多くが知らない現実と背景に踏み込む姿勢、被害当事者の体験を忠実に描いたであろう内容に驚嘆させられる。
平和の原点は人の痛みがわかる心をもつこと
(三七九ページ)
菅原茂、おりづる書房、2019年(令和元)
夫人と米の生命愛による守護の中で、酒乱の因縁から自分の生命に目覚め、いのちへの誠実な思いを深めていった著者。〝自己調和〟をむねとする日常生活において試行錯誤する様子をありのままに綴っている。第一章は自らの日記から抽出した文章(エッセイ)。六十歳代、七十歳代、八十歳代と自己調和の日々とともに年齢を重ねた著者。その等身大の生きざまとその心意気が伝わってくる。
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菅原茂、おりづる書房、2016年(平成28)
この世のすべてが心性エネルギーに満ちているという生命観・世界観の物語。ヒトは万物霊長の存在と言われるが、著者は万物霊同の視点で生命世界を観ている。ともすれば私たち人類はあらゆる生物の頂点に立つ最も優れた存在であると勘違いしがちではないだろうか。本作は子どもから大人まで読んで理解できる内容になっている点で、ほかの著作とはひと味ちがう作品。
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菅原茂、おりづる書房、2012年(平成24)
酒乱から脱却し、自分のいのちに目覚めて間もない著者が、心おもむくままに訪れた旅先で次々と出会う〝亀〟。体験の記録を、第2巻と共通するシナリオ形式のコミカルな物語として展開し、縁は単なる偶然ではなく、宇宙根源に根ざす生命の本質(真性魂)による道案内だと伝えている。
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菅原茂、おりづる書房、2012年(平成24)
文字・数・色は人間の意思だけではなく、生死の境やほかの生物などと境なく、いわゆる「霊」や「魂」の意志性を代弁している。共時性現象(=偶然の一致)は、それを認識させてくれると同時に、一人ひとりに対するあたたかい道案内の現象だ。
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菅原茂、おりづる書房、2011年(平成23)
「現実を生きる自分が、実は億万年から連なる亡き心たちの複合霊体(魂)であること、そして、死んで消えたのではなく、心は実に生き生きと輝いていて、自分を自分たらしめている原動力であるということ、そして、死んでも生きている心の世界」に言及している。第一章は随筆、第二章は物語。神秘の大樹シリーズのなかでは最もページ数が少ないが、いちばん重要なメッセージを秘めているように思えてならない。
一生命体が完成するまでの原形は、十月十日(とつきとおか)の、子宮という小宇宙世界で、その基盤ができあがるわけです。母親の口から入った〝食〟が胃に入って、十二指腸に入り、小腸に入り、分子・原子次元まで分解された物が吸収細胞によって取り込まれ、全身に届けられます。そこでいのちの新陳代謝が起こり、生き生きと輝く命となります。そして、子宮の胎児が育ちます。
(「第一章 心のつる草」17〜18ページ)
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菅原茂、おりづる書房、2011年(平成23)
いまを生きている自分(あなた)自身の存在こそ、肉体をまとい、服を身につけている霊魂そのものだという。霊魂というと、わが身の外に存在し、わが身の外で起きる「現象」と考えがちだが、そもそもそれは私たちのからだやこころに内在し、わが身の中で起きていることがらなのである。
心も体も同一、同元、同質のもので、一元一体二象体となって現れることがいのちと呼ぶものではないのか。心と体は一人二役のようなものだ。
(「いのちは磁気・磁波・磁性体」二一〇ページ)
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菅原茂、おりづる書房、2008年(平成20)
いのちは動植物ましてや人間だけのものではなく、万物に宿るという生命観は究極的に宇宙観へと通じる。生命をどこまでもさかのぼれば、生命の起源が宇宙にあることは明らかだ。森羅万象に共通するいのちの原子という点を踏まえて写真に映る〝霊顔〟を眺めると気づく点があるだろう。
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菅原茂、おりづる書房、2008年(平成20)
便利な生活を享受するために、工業を中心にしてひた走ってきた日本社会。そのいっぽうで、むかしもいまも、ずっと変わらずいのちの原点でありつづける食のふる里。個人の生き方として、また社会の健全な姿としてのバランスを、どうやって回復したらよいのか。私達の体と心は原点に帰れるのか。
思考の世界では主観と客観に分離出来るが、いのちの世界から見るならば、主観も客観もなく世界は一つだ。外の世界と自分は完全に分離していると考えがちだが、いのちの世界から見た時そうではなくなる。内なるスクリーンには常に外の世界が映し出されているのが真実だ。〝内は外なり、外は内なり 主観は客観、客観は主観なり〟ということになる。
(「いのちのスクリーン」19ページ)
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ニールス・ボーア、山本義隆編訳、岩波文庫、1999年(平成11)
原子構造の解明、原子核理論の構築など、量子力学を開拓した理論物理学者のN.ボーア氏による論文集の邦訳。原題は『Causality and Complementarity』。ボーアはノーベル賞受賞者でもある。
作用量子の発見により,私たちは,原子的過程のたちいった因果的追跡は不可能であり,その過程の知識を得ようとするどのような試みも,その過程に基本的に制御不可能な影響を及ぼすということを学んだ.
(「作用量子と自然の記述」74ページ)
(注.実際はよこがき)
菅原茂、たま出版、1997年(平成9)
平成5年8月6日の広島。岡本天明絵画展を訪れた著者夫妻は、〝一羽の折鶴〟と運命的な出合いを果たした。これを機に同夫妻が山形から天明氏の墓参に訪れる旅の道中で出合う数々の縁を通して、偶然の一致の必然性を強調するとともに、生命の本質は死んでも消えないことを訴える。また、生命の本質的な視点から食に言及している点が印象的。本の表紙に描かれた稲穂はこの本を象徴している。共時性現象を切り口に生命とは何かという命題を語っている。
生命界の情報量において、動物界は、植物には到底及ぶものではないと思うし、ましてや知性を最大の武器とする人間は、自然界の生命エネルギー情報キャッチにおいて極めて退化傾向にあるのではないか。そのことは、自然力、自然智という感覚から次第に遠のくことを意味する。
(「コスモスの色と妻の〝ヘソの中〟」47ページ)
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岡本天明、コスモ・テン・パブリケーション、1994年(平成6)
岡本天明氏の「自動書記」による著書。心の目を開いて自己調和に努めるよう人類に警鐘を鳴らし気づきを促す書として知られている。文中には、この神示そのものについて、人としての「道」を示したものであり、特定の宗教として広めてはならないという主旨のことが書いてある。長編であり、難解な箇所もある。諸説あるが、「アレの巻」の冒頭に書かれたごく短い二文(下記)が最も重要な部分だとも言われている。
いわとびらきなりなるぞ。まこといわとはとはぞ。(言答開き成り成るぞ。誠言答は永遠ぞ。)「」
菅原茂、MBC21、1993年(平成5)
暴走する酒への欲望と現実。その一部始終を生々しく描き、欲望が湧き出る私たち人間の心のメカニズムを明るく誠実に伝えている。もがき続けた著者を目覚めさせたものとは何だったのか。人間はいわゆる「煩悩」を抱えている生き物だ。早晩、自分のいのちに目覚めてゆかねばならない。その点で、この本が伝えようとしていることは、極めて普遍的。
人間以前の食物たちの生命(心)に戻らないと、人は成仏できない。人霊の活躍は、まだ自我がある。人間以前の生命の愛がないと成仏できない
(「地獄期」>「守護の窓口となった妻と自然律(悪は、この世の仮りの姿)」111ページ)
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デヴィッド・ボーム著、井上忠・伊藤笏康・佐野正博訳、青土社、1986年(昭和61)
科学は物質を微細に分け入り、その「構成」粒子を発見してきた。一般に私たちは、それが物を形作っている最小単位だろうという見方をしがちだが、分析して見える粒子は、ある文脈によって「全体」から顕現した一時的な抽象物であって、そもそも宇宙は分割できない一つの「流動する全体運動」だという。専門の物理学(量子力学)をもとに論じるこの世界像は、あらゆる物事を部分化・断片化する見方に慣れてしまった私たちに、重要な示唆を与えている。『WHOLENESS AND THE IMPLICATE ORDER』(1980年)の邦訳版。
河合隼雄、岩波書店、1986年(昭和61)
ここでいう宗教とは、特定の教義をもつ各宗教のことではなく、心や魂を担当してきた分野という広い意味をさしている。これまで単純に対立的にとらえられてきた物と心の問題をだれもが真剣に考えることは、21世紀の人類を考える上できわめて重要だとしている。
人間の心を「客観的対象」と見なそうとしても、観察者自身も「心」をもっているので、そのようなことが成立しないのである
(「第六章 心理療法について」>「宗教と科学の接点」一九二ページ)
〔省略=括弧内ページ番号 →(頁)〕
ブライアン D.ジョセフソン、フリッチョフ・カプラ、O.C=ド・ポールギャール、リチャード D.マトゥック、デヴィッド・ボーム、竹本忠雄監訳、たま出版、1984年(昭和59)
物理系とは異質の観測主体(意識)の存在を認めないと、量子の物理的過程の解釈はできないという課題に挑んだ物理学者たちの論文集「Quantum Mechanics and the Role of Consciousness」の翻訳版。デヴィッド・ボーム氏による論文は、「宇宙の暗在系‐明在系と意識」。
次の段階に何が湧出するかを主として決定するものは、茫漠とした意識の背景に大きく横たわる暗然たる内容のほうなのである。(中略)あとの瞬間の内容か前の瞬間に含まれた内的本質を顕わにするのであり、そこに生ずるものこそは、まさに、この内的本質の巻きもどしなのである。
(二六五ページ)
著・訳者左記、海鳴社、1976年(昭和51)
1955年に米国と英国で出版された『The Interpretation of Nature and the Psyche』(『自然の解釈と精神』)の日本語訳版。心理学者であるC.G.ユング氏の論文を、同じく心理学者である河合隼雄氏が、物理学者であるW.パウリ氏の論文を、科学史研究者の村上陽一郎氏が翻訳している。
共時性は、ある一定の心の状態がそのときの主体の状態に意味深く対応するように見える一つあるいはそれ以上の外的事象と同時的に生起することを意味する。
(33~34ページ)
デヴィッド・ボーム、村田良夫訳、東京図書、1969年(昭和44)
量子力学の成果や有用性を認めながらも、量子力学に対する永久的・絶対的な見方や論法に批判的な立場をしめしたボーム氏。機械論的自然観への批判的考察を通じて、直面しつつある(するかもしれない)物理学の限界を打ち破り、進化し続けねばならないと考えていた。『Causality and Chance in Modern Physics』の邦訳版。
第5節と第7節で述べたように,ボーアは,量子論の通常解釈においては,このような性質は,被観測系に客観的に存在すると考えるべきではないことを示したのである.けれども,彼の観点にしたがえば,あらゆる問題,意向,および目的に対して客観的であると認められるものは,確かに存在する.すなわち,観測可能な大規模な現象がそれである.
(「第三章 量子論 ⒐量子論の通常解釈」一四四ページ)
(注.実際はよこがき)